源究101

 

No テーマ 月日 No テーマ 月日 No テーマ 月日 No テーマ 月日
1531 夏本番 7/19 1536 高校野球 7/25 1541 目がモノを言う 7/30 1546 Co2排出 8/4
1532 灼熱地獄? 7/20 1537 政官業癒着 7/26 1542 Neglect 7/31 1547 出し惜しみ 8/5
1533 意識改革 7/21 1538 純化道程 7/27 1543 教え伝える 8/1 1548 自己決定 8/6
1534 宇宙カレンダー 7/23 1539 ああ・・・ 7/28 1544 些細な事なれど 8/2 1549 視線 8/7
1535 主体性 7/24 1540 無財の七施 7/29 1545 救世観音 8/3 1550 家族 8/9

1531:夏本番

今年の梅雨のゲリラ雨は各地に大きな爪痕を残した。その鬱陶しい天気も全国的に梅雨明けと同時に夏本番を迎えます。いよいよ来たなと覚悟を決め、部屋に籠っています。この暑いのに何故か?例年の事ですが塔婆書きなどお盆準備。昔の人は偉かった。蚊に刺されながらクーラーもない所で同じことをやってきた。その点今の私など恥ずかしい。扇風機と冷シップそれにクーラー完全装備に守られてるんだ。この時期、会合が多く全部キャンセルするわけにもいかず。7月になってから急にお悔やみが増えた。これだってエアコン付きの斎場だもの時代が変わった。昨日は寺の本堂で法事、本堂にはエアコンがない、付けてみても天井が高く広過ぎて効かない。正装した人達が汗かきながら必死に座っていた。この一連の流れは私にとっての夏本番を示す風物詩。
 周りを見回せば地域の夏祭りがピークに達した。子供たちにとっては夏休みになって初めての楽しみ、でも今の子供たちは忙しい。塾やサッカーそれにプールという過密スケジュールをこなす。いつの間にか休み期間の子供たちの過ごし方が変わってしまった。
 そのなかで変わらないのが施設での生活かもしれない。どこの施設も長期帰省を減らした。何故でしょうね?日払い方式を国が決めたことが原因です、24時間365日の入所施設は大きな収入の減を経験した。そのため本人達の意向とは別に帰省を短くしたんです。誤解もあるのは覚悟して正直喜んでいる人達は家族だ。久しぶりに家に戻った子供にどう接して良いか分からない。
 本人達も長くいると飽きが来る、現実にそうなんだもの。事業所は職員の勤務表を作るのに四苦八苦、纏まった休みは取りたいだろうし。
 丁度、この時期、私にとっては一番忙しい時期に入る。お寺の坊さんやっているという実感だ。普段は正直真面目な坊さんはやっていない。そこは有りのままで格好付けたって様にならぬ。
 一段落したら四国にまた行くつもり、これをニンジンに頑張るか!遍路の続きが大分残っている。
あっそうそう、昨日は家族会があった。朝一番に私に小さく折った紙切れを見せてくれた利用者さんがいました。それは本日出席の母親からのハガキだった。「どれ、見せてみな」というと喜んで私に渡してくれた。
 『ネックレスと時計をもって行きます。待っていてください』と書かれてあった。彼女が多分、頼んだのかもしれない。彼女は時計の時間は分からない。でもオシャレなんですね。ネックレスなんかやっちゃって、それに大きなマスクをする。この蒸し暑いのにスタイルを頑なに変えない
 帰省には彼女は実家に帰れる。どんな生活をしてくるのか?でも必ず父ちゃんの仏壇の前で手を合わせているはずだ。
 一人一人の思いが凝縮しこの季節になると見えてくる。でも大勢の中にはそんな話に入らない人もいる。もう10年以上も誰の面会もないメンバー、良く見ると彼らは彼らでグループを作っている。千思万考、彼らのシグナルを受け止める事が施設の職員の力量だ。その後の話だよな。いま国の検討会で話されている難しい話は。
 ちょっと横道。
 宮崎知事の東国原さんを見直した。彼は今口蹄疫で大変だ。種牛を例外として処分しないでほしいとの陳情、今の大臣の名前はしらない。しかし、どうも彼の言動に違和感を感じる。普通、陳情書は手渡しで行うものだが、大臣は自らの手で受け取らない。知事は仕方なく机の上に部厚い陳情書を置いた。たったこれだけの話です。
 でも後の知事のコメントで分かった。「種牛処分の決定を知事は私の気持ちを良く組んでくれたと大臣が言ったと言うが全く違う。私の判断で県で決めた。苦渋の決断だ。あの大臣は何を考えているんだろうか分からない。腹がたつ!」と。
 ここなんだよな民主党。アンタ達の対応がチグハグなんだな。頭を下げペコペコしている大臣もいるさ、でも旧態依然として大臣様になってしまった議員もいるってこと。菅さんもし見ていたら官邸に呼び出し厳重注意すべきだと思うよ。あの大臣を。
 農家の苦しみを分かっていない人間が責任者になってどうなるの?事業仕分けの前に大臣仕分けをやって下さい。
 *何故、農水省に過去多くの問題が起こったのでしょうか?省内の体質もあると思うな。そこに大臣が染まってしまう何か特異な体質ですね。多分、補助金をチラつかせ、これが欲しくないのかいという農家いじめの代官様がウジョウジョしているのかもね。これじゃー自給率は上がらない。補助金の受け手が納得していない。

1532:灼熱地獄?

施設職員の関東ブロック研修会がパシフィコ横浜で開催された。私は午前中の会長会議だけ参加してとんぼ返り。行くたびにビルが新たに建ってみなとみらい21周辺は景色が一変する。桜木町は土浦から行くと合計3回乗り換える時間にして2時間ちょっと、直行できるアクセスが多い中で茨城から行くには不便である。歩く歩道があり、あっという間に会議センターに着く。
 予定を大幅に超えた参加者があり、責任者は笑いが止まらない様子。それから研修の内容が現場最優先のテーマを選んだこともあり、8ブロックに分かれた会場は多くの参加者で埋まっていた。聞くところによると2年前に実行委員会を組織して準備に入ったという。茨城は25年開催、来年には早速検討に入らないと間に合わない。
 企画委員になるべく若い人達を選ぶのが良いとアドバイスを頂いた。来年は山梨、次が埼玉、そして3年後が茨城となる。それまでには新たな制度も具体的になっていることだろう。
 さて、朝8時26分で神立を出て帰ってきたのが4時前、35度を超えているだろう今年最高の気温となっただけに身にこたえた。都会は土や緑が少ないから諸に跳ね返しが顔に当たり体感気温はウナギ登り。やはり、便利さを得るためには失うものも多い事が分かる。
 700名以上を集める研究大会の内容は大きく変わった。昔は相部屋で宴会は大広間、このスタイルはすっかり影を潜め、シングルタイプのホテルに宿泊、食事は気心のあう者同士でとるという形になった。
 願わくば研修に参加し他施設の仲間を作り、働く意欲が高まるようであれば良いのだが。茨城からの参加者が100名近くになったと誉められた。皮肉たっぷり?
 いよいよ茨城の時代か?調子にのるのもいい加減にしろだ。しかし、どうだろう。茨城の福祉は原点に一番近いんじゃないかな!
 どんな意味で?
 そうね。あまり理屈をこねまわさず、利用者の喜びを肌で感じるというか・・・・。制度に振り回され過ぎた感が否めず、正直食滞気味だった。自らの反省を含め、井の中の蛙ではなしに多くの人達に共感される事業所になるべきなんだわな。
 それと、横浜あたりを歩いていると決して不況とは思えない。建物や街並みが贅沢にできており、今も建設中のビルが多い。川崎や鶴見周辺のマンションラッシュは以前としてすごい。
 今以上の経済の豊かさを望む事が果たして自然の理にあっていることなのか否か?よーく考えてみる必要がある。
 なにせ、障害者福祉は利便性の追求とは波長が合わない。もっともっと歩みをゆったりと立ち止まって良く考えて、それからでも決して遅くはありませんよね。

1533:意識改革

「持続可能な生産と消費」の概念が果たして福祉業界にあるでしょうか?地球規模で物事を考えた時に果たして日本の事だけを論じていて済まされましょうか?
 地球環境悪化の原因が、大量生産・消費・廃棄を奨励する生産・消費形態にあるとして、税金等の経済政策を導入する流れになっています。多少古くなりますが2003年12月アセアンでの合意は、クリーンエアー(大気)・クリーンヲーター(水)・クリーンランド(土地)の3つの重点テーマを掲げ、環境に優しい様々な取り組みを決めています。「国際連合地域開発センターHPより引用。」
 福祉とは分かり易く言って「しあわせ」です。その実現の為の施策の一翼を担う我々事業者が、この世界的な動きとどう折り合って行けば良いのでしょう。
 国の財政が危機的状況になっている事は疑いないでしょう。一般会計に占める社会保障費の割合は突出していますし今後も確実に増え続ける支出です。様々な研修に参加して感じる事は依然として北欧や先進ヨーロッパの仕組みを得意げに紹介する人達がいますが、果たして人口1億2千万の日本にそのまま取り入れる事が現実的に可能であろうか?
 無駄の削減と予算の枠組みを変える・・・・・何年同じ主張がなされてきたのでしょう。
 スエーデンスタイルをもし取り入れたとして、この国で持続可能な仕組みとなり得るでしょうか?どうも掛け声ばかりでより具体的な方向性が出されません。
 実は最近の私自身の経験で、アフガニスタンや南米の極貧国(叱られるかも知れませんが)に学ぶことが実に多いと感じています。それは物を大切にすることと共助の精神です。これは地域力を付けるのにもっとも重要な条件でしょう。
3Rシステムを知っていますか?リデュース・リユース・リサイクルの事です。この推進が図られるべきだと言うのです。
 それと福祉はどこが責任を持つのが良いのでしょうか?国か地方か?この役割分担が曖昧です。私の考えでは地方に任せる仕組み早く作るべきと思っています。政府が考える事はどうしても一律的なものとなります。そこに地域の特殊性が反映されない。公平性と規制は表裏一体、手続きの複雑さと無駄が出ます。例えば建物基準一つにしても様々な規制があってユニークな発想が生まれにくいのです。この判断は地方に任せるべきでしょう。
 規制を緩くすることに併せ違反行為があった場合にはペナルテイをもっと厳しくするべきです。どっちつかずの処置は真面目に努力している事業所にとって大変迷惑です。
 我が業界でも持続可能な制度を要望しています。これは近年の期限付き補助事業が目白押しだからです。職員雇用に大きく影響するという。実はこれは事業所側の言い分なんですよ。果たして今の日本の福祉事業所で選ぶだけの就職希望者がいるのでしょうか?現実は雇用してから意欲がある人間は正規雇用するという実態があります。
 鶏と卵の議論ではないのですが、それよりも短期間での退職者が一向に減らない事が深刻でしょう。これは制度そのものというより事業所自体に問題があります。辞める理由の一つに先が読めてしまうことが大きいと言われます。魅力ある職場にする努力を蔑ろにしたツケです。
 本来、福祉には様々な可能性があると思っています。それは100%満足する制度は有り得ないからです。その谷間にビジネスチャンスを見出せば、職員の将来への展望が開けます。それには専門性が重要な要因になると思っています。これは自己責任だから文句は言わせません。
 単なる資格を持っていることではなく、世間様に認められる専門性ですね。
 不満を言う事で何事も解決しないことが分かりました。それに代わるべきものは実績に基づく新たなアイデアを提言していく。その積み重ねが何よりの近道と言う事です。
 

1534:宇宙カレンダー

カール・セーガンの宇宙観を示すもの。宇宙137億年の歴史はビッグバンから始まり現在までを1年のカレンダー上に表される。これを宇宙カレンダーと言う。人間の存在は無限の宇宙の広がりの1存在にすぎず、地球に生まれた事の確率は奇跡であり、人類がこの地球上に誕生した時期は1年のカレンダー上で表すと12月31日午後11時59分58秒だと言う。
 無数の惑星の中で我々が住む地球の存在は、地球上の海の砂浜にある全ての砂粒のたった一つという確立だという。なんとも気の遠くなるような話である。それだけにこの地球上にある全ての存在価値は計り知られぬものであり、今問題視されている様々な現象は取るに足らないと。否、そうではなく争う事などせず、相手を認め互いに尊重しながら生きて行くべきだと訴える。水・空気・木々・・・・との共存も然りだ。
 現代人は日替わりの株の上げ下げに一喜一憂したり、通貨レートが1円変わったことで騒ぎ立てる。現実に人間社会はセーガン博士の壮大な宇宙観からみると塵みたいな事柄に過剰に右往左往しているということだ。どうして宗教や民族の違いによってお互いが殺し合うような争いが絶えないのか。
逆に争いが無くなった社会が人間の幸せに即、結び付く理想の社会かという答えを見いだせない。人間はたかだか2秒の間に様々なドラマを演じている。主役ならまだしも、自らが生まれてきたことに何の疑問も感じることなく台本無き人生を只管生きている。主役とはその人自身の持つ価値である。そんな夢物語を見ている。
 昨日は水戸である会合があり、酒を飲んだから車は置いて電車で帰宅した。どうも日本人はセッカチな人間が多い私もその一人だ。福祉は将来どうなるのか?正直、先の事は誰しも分からない。そう知りながら大上段に振りかぶる。「なるようにしかなんめーよ」などと言うと必ず無責任とか不真面目だという叱責を受ける。
 しかし、どうなのかな?宇宙の歴史からみて人類が思い描いたように事が進んだことがあるのだろうか?2秒間の凝縮の中で発見することは難しい?
 私は経済に関して全くの無知である。しかし、何とはなしに分かる。必ず儲かる株や事業があれば誰だってやっているはずだ。そんなもの有りやしない。また無制限に貨幣を発行すればどうなるか?この位は素人でもわかります。先のアメリカで起こった金融危機や今回のギリシャの経済破綻への救済、。。。。どの国も自国の金融安定の為に膨大な資金を投入した。景気回復は、その速度と量の違いは有るが、上向きに転じた。各国政府が投入した膨大な資金は一体どこに行ってしまったのだろう。これまた素人の勘繰りであるが、投資(マネーゲーム)に大半が使われているか或いは銀行の金庫に眠っているんだろうと想像する。
 お隣の中国の2ケタの成長率は尋常ではない。不動産バブルが一気に崩壊した時にギリシャ所の話ではないだろう。
 中国は6000年の歴史を持つ国だ。過去に何度となく国の消滅を経験し、その都度新たな国が生まれてきた。
 日本は単一民族の国家で、他国からの侵略によって民族の全てが変わった経験はない。
 その意味では特異な存在である。
 GDPが世界?位とかいうランク付けに振り回されることはないと思う。寧ろ大切なのはこの地球に生まれた事の素晴らしさを実感できる社会に皆が価値を置くべきだ。
 

1535:主体性

昨日、一人のメンバーさんが入院、その日の中に手術ということになった。彼は身内がない、私共との関わりは40年以上、ここ数年、メッキリ体力の衰えを見せていた。それと気力もなくなってきたように思う。
 彼が元気な頃は、ハッキリしない言葉で「・・・・・やってきた!」と笑顔で話しかけてきた。そんな時はいつだって旅行したり外食に出かけた後だった。『デカちゃん』これが私が彼を呼ぶ名前、呼称云々を言われれば返す言葉はない。40年の付き合いは「・・・さん」という呼称は似会わない。
 彼から家族の話がピタリと止まったのは、弟が亡くなった後からだった。暫く彼は朝私が本堂に行くと私の後ろからやってきた。「デカちゃん、一緒にお線香あげよう」と言うと彼は必ず線香に火を付け弟の遺影の前で手を合わせた。それが最近は無くなった。自分自身の体調の変化が出てきたからだ。
 いま、ある建物の建設を考えている。8名程の検討委員を選んで他の施設の見学やどんな物を作りたいか自分たちで考えて貰っている。正直ジレッタイ。
 この狙う所は言うに及ばず。日常の仕事で主体性をもって事にあたっているだろうか!主体性とは他のものにより導かれるのではなしに自己の純粋な立場で行う事だ。施設現場がマニュアルによって同じ対応をする事が推奨されている。果たしてそれがベストの選択?違うだろう。利用されている人は全てが違うだろうが。
 いま、現場は奇怪な記録方法を取っている、一例としてチェックリスト、排泄☑入浴☑食事☑等々。これは支援費制度になってから極端になった。契約の中身がサービス対報酬という構図になり、サービス実施の有無を☑という記録で残すことになった。
 マニュアルもある意味では否定できない。限られた人数で多くの人達への支援を確認する方法として他に見当たらない。施設の現場は元々目いっぱいの状況で業務がなされている。余裕が無いというのが実態だ。
 我々の法人のモットーに「創意・工夫・責任・真心」を掲げている。
 ここに至って見えてきた事がある。事業者責任という問題である。根っ子の部分で社会福祉法人の見直し検討にも通じることになる。何をもって我々の主体的実践とするか。様々な事業主体が参入、サービス内容に置いて差が無くなっている。株式会社が事業として成り立つ根拠は、利用されている方から喜ばれること、それはそれは並々ならぬ経営努力がなされています。一方の社福を一括りにすることは問題だが、どうもお役所的対応が多いのではないかと思う。制度を都合のいいように使い分ける。
 理事長という仕事は、実はこの一点に絞って良いと思うようになった。社福である以前に利用される人達があるということを毎日反復する。
 これが無いと結局は社福と納税事業者との違いがなくなる。ここに危機感を持つか否か。
 日頃からの職員への教育は、先伸ばしするのではなく、ピンポイントでの☑が肝心だ。?????可笑しな結論への帰結だな。
某特養の理事長とこんな立ち話をした。日本は後25年は安泰だ、高齢者は増え続ける。需要は枯渇しないよと。
 素直に受け止められなかった。25年後貴方自身はどうなのよ?と言いたかった。
 障害や児童施設は制度の無かった時代に限られた人々の主体的な実践によって生まれた。日本の豊かさは様々な制度を作り、それによって事業が成り立つようになった。その事を感じている人達が大分少なくなった。
 権利として当然得るものだと思う人間が増えた一方で自己の純粋な考えで事の良否を判断できる人間が極端に減ってしまった。

1536:高校野球

夏の高校野球予選が各地で行われている。先日、土浦市営球場を覗いてみた。炎天下の中で熱戦が繰り広げられている。日差しを避ける場所がなく早々に出てしまった。これもまた真夏の風物詩、若者たちの涙と汗が見られる。
 伝統校の強さに新たなチームが加わり、どこが甲子園の切符を手にするか分からない。茨城も本命が姿を消し、いよいよ頂点が決まるところまできた。歴史ある大会であり、日本の野球ファンが最も胸弾む季節になった。
 予選会場には多分地元の方だろう予想屋というのではなく、詳しい人が真っ黒に日焼けして観戦している。今年のどこのチームのだれ誰が良いとか卒業生の誰は今何をやっているとか、本当に良く知っている。昔、ご自身も野球をやっていたに違いない。
 茨城大会を通じていつも残念に思う事がある。それは茨城には地方テレビでの実況中継が無い事、土浦周辺では千葉テレビが見れる。1日中中継をしている。できれば茨城にも地方テレビがあれば良いのだが・・・・。儲からないんでしょうよ、きっと。
 西東京大会?だっただろうか、準決勝2試合とも兄弟校同士の戦いとなった。有名私立大学の付属同士、応援のスタイルも似ていて選手のユニフォームは見分けがつかない。
 全国に有名大学の系列校が増えている。当然スポーツに力を入れるから強い。スポーツ特待という枠で入学した選手が朝から晩まで練習しているから公立高校のチームは敵わない。ハンデイを付けるわけにはいかないのだろうか。
 彼らの将来の目標は当然プロで飯を食うこと、成功する確率としては低く厳しい世界だが今時、若者がハッキリした目標をもって燃焼するには絶好の場であろう。
 私は中学の時に野球をやった。正直試合に勝った想い出はない。2~3思いだせる事は2塁にスライデングした時に足を骨折したこと、それと市営球場でバックネット裏からのヤジ。それが理由ではないのだが高校に入り野球部より勧誘されたが入らずサッカー部に入った。いずれも3年間は続けた。これだって勝った試合の記憶は殆どない。大学では構内に練習場が無く、誘われるままワンダーフォーゲル部に入った。そこに4年間在籍した。当時の仲間とは40年も経ったのに今でも連絡を取り合っている。
 不思議なもので夏のこの時期になると昔を懐かしむ。還暦まで残り1カ月を切った今、体力に自信がなくて今更なんかのスポーツを始めようなど考えない。時々誘われ芝刈りに出かける位が良い処。メッキリ足腰が弱くなったが現状維持には気を配り機会を見つけて歩いている。それと趣味の草刈りで腰の鍛錬。
 人間の体は上手く出来ている。体が思うようにならないと頭の回転も悪くなる。新たな事に挑戦しようとする気力が減退し面倒になる。どうせ結果が見えているんだからと食わず嫌いが増えてしまう。しかし、その反動が別な所にでてくる。それはやたらと腹がたつこと。これも無くなればいよいよ年貢の納め時、そこまで行かない内にといろいろ画策を練っているが、その事だけが唯一の楽しみとなった。
 今年の猛暑は半端じゃない。各地で熱中症で亡くなる方が続出、それも家の中で亡くなる方が多いと言う。
 皆さん、体に充分気を付けてこの夏を乗り切って下さい。必ず秋が訪れますから。
 鈴虫の声を聞きながら 夜空を眺めれば 俳句の一つや二つが浮かぶでしょうよ。全く。暑いなー!

1537:政官業癒着

いつの時代にも無くならないものとして“政官業の癒着”というものがあります。何故、これが”官業政”や”業政官”という字列にならないのでしょう?
 官の強みは、許認可の権限を持っているということです。ですから真ん中に”官”がくる。汚職などの不正を防止するために省庁内に内部牽制の仕組みを設けていますが、一部の人にどうしても業務偏りが生じやすい。この辺の隙間を突かれ、政治や業界が圧力をかけるわけです。
 その対応策として、担当者の異動を頻繁に行う。全てがエキスパートではありませんから、これが実に厄介になる。まー、この構造はどのような方法を取り入れたとしても無くなりません。そこで何かが起こるたびにハードルを増やしていくわけです。実に綾取りゲームみたいな状況があって、スムーズに機能しなくなっているものが実に多い。
 日本の政治を見た場合、政権が交代したのは良いのですが、”官”がそのまま継続しています。審議会やら専門委員会というものがあるのですが、その担当は同じですから劇的な変化は望めない。会合の回数の問題ではなく、だれが下資料を用意するかという事です。委員になっても皆さん専業ではないですから、用意された資料に基づき、意見を出し合う。
 これが実態です。それから委員が多過ぎるという問題もありますね。委員会で意見を述べる時間が数分ということも往々にして起こる。これでは充分な討議はできません。
議員の専門委員の任期は官よりも短いですからスペシャリストは生まれません。この辺の変革が果たして出来ますかどうか?
 国技である相撲界の混乱は根が深いようです。暴力団との関わりが問題にされているようですが今更という思いがあります。ある親方同士が賭けマージャンをしたことがあるという報道がありました。それを聞いた時に、ここまでチェックされるのかね?と正直思いました。最近の学生はマージャンをやらないようですが、私が学生の頃、昭和40年代は大学や駅周辺には雀荘が沢山ありましたよ。マージャンをやったことが有る人なら、金額の多少に関係なく一度や二度の賭けマージャンの経験はありますよ。日本人の特徴かもしれません。横並びに考える傾向が強い。
 今回の相撲界の問題は、団体が公益法人になっていて様々な助成を受けているという事です。プロレスだったらそこまでやる?国技から外し、1から出直しできますかね。
 公益法人の見直しとダブるから我々福祉業界も他人事ではないのですよ。以前に紹介した例を思い出しました。
 ある町で役所に匿名で苦情が寄せられた。それは施設の車が昼間からパチンコ店に停まっているが、仕事を休んでパチンコをしているとは何事か!というお叱りの通報だった。実はこれはガイドヘルパーがパチンコが唯一の趣味である障害者の方をパチンコ店に同行し脇で付いていたということが後で分かった。
 これをどう捉えるかという問題です。何もそこまでしなくてもと思うか、いや、本人の楽しみを実現するサポートだから当然だと考えるか?ですね。
 ガイドヘルパーの契約内容にそこまでの規制はありません。世の中がギクシャクしてくるとトラブルが増えます。相撲が長い歴史を積み上げて今日に至っていることは、熱心なファンがいるからです。10代半ばで相撲界に入り、辛い弟子時代をすごし、土俵に上がるまでになった一人一人に問題はないと思います。それよりも給与や処遇に許容できる範囲を超えた格差があり、その改善を言えない業界の体質に問題があるように思えます。公益性を言うのであれば、先ずその辺の改革が必要だと思います。
”政管業癒着”よりもまだ救われるのは相撲は実力で勝ち上がる社会です、問題の先送りや責任逃れが横行している業界と違い自己責任がハッキリしているだけ、再出発できる可能性はあると思いますね。ドスコイ ドスコイ。

1538:純化道程

WHOが2010年5月に加盟193カ国の平均寿命を発表した。それによると日本は女性が86歳で第1位、男性は79歳で第5位で毎年寿命が延びているという。因みに最下位はジンバブエで42歳だった。ジンバブエは一体どこにある国なのだろう?アフリカ中東部にある人口1200万の国である。
 何故日本が常に上位に位置しているか?医療や食事など生活する環境が整っていること、更に紛争がないという事らしい。超高齢化社会という負のイメージとは別角度で見れば理想の社会を築いてきたとも言えまいか。
ただ平均寿命と幸福度というものは一体では無い。長生きできれば幸せか?健康寿命という新たな捉え方もある。
 ”純化道程”という言葉は私の造語である。複雑な物を純粋に単純化する道筋とでも解すれば良い。人間が自らの死に向かう道程は様々、病床に伏して自らの体力の減退を意識し徐々に死を受け入れる事もあれば、不慮の事故に遭って瞬間に命を閉じる場合もある。ここで言う道程は、前者である。
 人間は過去を思い起こすことはできるが過去に戻る事はできない。そして未来をこうあればと願う事は可能だが確約は持てない。その中間にある現在、これが無常ときているから瞬間に過去の出来事になるわけだ。
 ハッキリした記憶でなくとも嘗て世話になった人達を思い起こす事で自分自身を取り戻す。これは精神療法の中にあって、新たな一歩を踏み出す手助けになるという。(森田療法)仏教の観法の類もこの範疇に入るかもしれない。いずれにせよ、自らの人生の終末期を意識した時に種々雑多な記憶の中から鮮明に蘇るものがあるという。それを”純化”と呼べば、各自が現在の生の営みの中で予め見当を付けることはできるのでは?
 分かり易くすれば、自分にとって大切なモノは何か?何だったか?という自問自答である。そして、後の者たちに何を伝え残していきたいか?人それぞれのやり方で伝えようとするものだ。何かに書き残しておこうと考えるか言葉で直接伝えるか?だが大半の方はいずれでもない。黙して語らずと言う方が結構多い。だから残された者達が後であれやこれやと思い悩むことになる。
 私の場合は、父がそうしたようにその時々の自分の思いを文章に残すことに決めた。
さて、尚恵学園は遅ればせながら今年10月に新体系への移行を考えている。利用者さんの認定調査も大分進んでいる。私は土浦市の認定審査会の委員を最初から引き受けてきた。昨夜も月1回の審査会があった。7名中5名が尚恵学園の関係者、私は発言ができない。他の委員が資料を元に意見を出し合う。私は黙って聞いていた。
 現行法の仕組みで障害認定が当初から問題とされてきた。これは言うまでもないことで一人の人間の価値をどう見るかということ、介護や支援という言葉の定義はどうでもよい。それよりも問題なのは本人の意向とは別に支援量を決めることがどうなのか?自己決定という御旗はあっても実態にあっていない。望んでもサービスが無いという問題が現に起こっている。
 何らかの基準が必要だという国の考えも分からないではない。それは財源に限りがあることと国民同意が得られるかという条件があるからだ。
 それにしてもだ不確実な中で人が人を判定することが理に適っているのでしょうか?私が委員に就任してからずっと持ち続けている疑問である。
 人間の理想とする生き方が”純化道程”という歩みと考えた時、知的に障害を持っている人達は既に”純化”を生きているからだ。

1539:ああ・・

立て続けに自然の猛威を感じた。地震と竜巻である。2日前に午後5時過ぎに突如として起こった竜巻は丁度霞ヶ浦の中であった。水柱が上がりドンドン大きくなった。時間にして20分で跡形なく消えた。もし、あれが住宅街に起こっていたらかなりの被害が出たのではないでしょうか?
 地球が怒っている。地殻変動により地震が起こり、急激な気圧変化により竜巻や雷雨が起こっている。ここ数年のゲリラ雨が今年は際立っている。日本の水路はそこまで想定していないのだろう、至る所で排水路から溢れだした。
 地球環境の変化は長年言われ続けているが、一向に自然災害は収まらない。雨が降った後、道路から湯気が立ち込めている。35度を超す猛暑日が連日続き、アスファルトが熱を持っている証、。。。
 施設では日中はエアコンをフル稼働、省エネ対策で契約した会社より、「電気の使い過ぎに注意」という自動転送の電話が連日入る。分かっているよと言いたくなるが自分で契約したんだろうと苦笑い。
 今年こそと思って至る所に作ったミドリのカーテン、ゴーヤや朝顔が貧弱でとてもとても清涼感など望めず、今にも枯れそう。でも一生懸命水遣りをやっている。そこで見つけたゴーヤの実、太さ5ミリほどの何とも頼りないものである。
 先週、起こった埼玉の救助ヘリの墜落事故、尊い5名の生命が亡くなった。これからの時期は、沢登や山に入る人が増える。私の性格だろうと思うのだが、救助を要請したパーテイのサブリーダーがカメラの前で状況を説明していた。
 あんなに冷静に話が出来るのだろうか正直怒りを感じた。アンタ達の救助に向かった若い人達が5名も亡くなったんだよ。先ず謝罪の弁があって当然だろう!
 私の僅かな経験からも山に入る人達のモラルを疑いたくなる例はいくらでも見てきた。登山家の野口さんが言っていたことだが、エベレストのベースキャンプ周辺は登山隊が残して行ったゴミで一杯だという。
 それと、目を身近に転じてみよう。犬の散歩をする人達が非常に多い。皆さんビニール袋を手に持ってはいるが、ワンちゃんが排泄しても後始末する人は約半分、後は知らぬ顔。これも日本人のモラル低下の一例だ。
 一応は準備はするがやらない。これは周囲への眼を気にしているだけのポーズ、本当に綺麗にしようとする気持ちがない証。
 異例の名古屋場所は3場所全勝で白鵬が優勝した。賜杯が無かった。彼が見せた涙、その後のコメント、外国人である彼がよっぽど日本人に見えた。現在1000人もいるという相撲どりのリーダーとしての自覚と責任、それに決して奢らない性分は揺ぎ無い実績と相まって見事だ。
 陰で彼は稽古に励み、表舞台では決して逃げない。全くその逆の人がこの国では大手を振って君臨している?
陰徳を積むどころか裏での画策に熱心で、表舞台では知らぬ振り。これではな・・・!
 私は去就を決する時期は遅い早いではないと思います。今からでもどうぞと言いたい。
 その人の人間性だ。潔いというか大義があるというか? 社民党の?さんとかいう女性議員が離党を申し出たという。
 これってどう説明されても納得できない。私は離党即バッジを外す。これが政治家のモラルでなければ、ガラガラポンのなんでもござれ式立法府になると危惧している。あんた達の給料は国民の税金ですぞ!
 自党内で貴方が出来なかった改革を外に飛び出せばできるのでしょうか?
そんな甘い事ではありません。もっとやる気のあって優秀な人がいるはずだから、バッジを外すべきであろう。
 どこか可笑しいんだよな。まったく困ったもんだ。

1540;無財の七施

今年になって最初の施餓鬼会が近隣の寺であり助法に伺いました。年に1度しか会わない坊さんもいます。お互い簡単な挨拶を交わし、雑談。いつの間にか私は年配僧侶の仲間入り、出る話は体の具合の話ばかり。いずこも同じです。
 仏教では布施を大切にします。受ける側は多い方が良いし、あげる方は少し安くしてもらえないかと頭の片隅で思います。これが一般的な”お布施”観です。でもこれとはちょっと趣が違う布施もあるんですね。「無財の7施」というんですが、地位や財産がなくても誰もがいつでも容易にできる布施です。
 7つを触れることはしませんが、もし興味があれば検索で直ぐに出てきますから調べてみて下さい。
 7施の中で一番知られているものは2番目の「和顔施」(わがんせ)でしょうね。和顔悦色施とも言います。いつもなごやかで穏やかな顔つきで人や物に接する行為を言います。
 しかし、作り笑いでは駄目、素直に喜びを表情に出すわけですから、心の中に本当の喜びを感じていないとできない。
 こうなると果たして自分でできるかな?と疑いを持つものです。実は布施行と言われる理由がここに有ります。行になるわけで、自分でそうしむける努力をすることが大切になるのです。
 腹を立てる事は、簡単ですね。周りを見回せばその材料はいくらでもありますから。自分の反省として腹を立てて何一つ解決したものはありません。むしろ周りに不愉快な思いをさせてしまう。そんな経験は誰しもあることでしょう。
 吉本興業はお笑いタレントの最大手、どれだけのタレントがいるのか知りません。でもこの笑いと和顔は別ですね。思いやりや優しさは二の次ですから、ただ面白可笑しくが一番です。彼らは熾烈な戦いをして生き残りに必死です。顔で笑って心で泣くってところでしょうね。
 私はどうしても落とし所が決まってしまって申し訳ありませんが、本当の和顔は、知的に障害を持っている人達に見えるのです。これホント。駆け引きなしです。
 今年になってから茨城で共同受発注センターをスタートしました。私の関係する団体が事業を受けました。その一つで先日某会社からイベントに使うと言うクッキーを作って欲しいという要請があり、作り方の実演指導を受けました。結果として引き受けることになるようですが、関心した事は、メンバーさんにやるかやらないかを決めてもらったというのです。
 普通は予定外の仕事を受けるのに消極的になりますが、メンバーさん達はやる気満々だというので受けることになったようです。スタッフの都合でやるかやらないかを決める事が今の福祉現場では多過ぎます、正直、逆なんですよね。何のための作業かと?
 仕方がねーから受けるベー式では、最初から止めておけと言う事ですよ。今回はメンバー達が自らやるという。遣り甲斐を感じているというんですね。
 これじゃーないすっか。働く喜びはやらされているという思いからは出ませんよ。メンバーさん達の笑顔からスタッフが癒される。この関係が我が福祉現場の醍醐味です。

1541:目がモノを言う

日本語には婉曲な表現があります。例えば『目がモノを言う』です。目が喋るはずねーじゃねーか。そりゃーそうだ。しかし、その人の目付で相手に意を伝えることってありますね。
 猜疑心・懐疑心、、、など相手を疑ってかかる場合は良く見うけられます。会話の受け答えだってそうです、心此処にあらずで上辺だけで終わってしまう場合など。それは会話に共通する話題が無いこともその原因でしょうね。
 所詮、長年連れ添った夫婦なんてものはその類の最たるものかもしれませんよ。阿吽の呼吸なんて言えば格好は良い、でも実体は話す事も無く、受け答えするのも面倒だ・・・・なんてことありませんか? 余計な事ですが。
 今日と明日が私の寺の施餓鬼です。準備は大体済んだものですから、いまこうやってPCに向かって好き勝手な事を書いています。
 私もこの年になって毎日PCに向かうなど想像もしていませんでした。正直、覗いてくれる人を意識しないかと言えば嘘です。時々、「見てますよ」なんて声をかけられると燃えてきちゃうですな。
 でも、PCは怖い面もありますね。秋葉原事件の犯人が法廷で証言した中にありました。本心を言えない人間がPC上ならこころの中を曝け出せるってこともある、これによって社会の仲間入りをしているという感覚を持つそうです。ブログの危険性は反応が無いとドンドン内容が過激で刺激性の高いものに変わっていくということです。これを意識してコントロールできれば良いのですが対人関係が上手く取れない人の場合はよりその傾向が強まるというのです。
 心理療法の一つに自分が今までお世話になったことを思い出していくものがあります。これは自分一人で無く多くの人びとの支えがあって今があることを気づくわけなんですが、PCという機械相手ですと虐待や差別の経験しか思い出せない人の場合は深刻です。この心理状態が無差別殺人を引き起こした秋葉原事件の犯人に有ると思われます。
 お盆の時期になると今年1年の出来事が浮かんでくるのです。魂の響きとでもいうのでしょうか?今年1年で亡くなった人達の其々の思いが交錯し出始める。霊が浮遊する??
 その鎮めの儀が各寺で施餓鬼という伝統行事によってバランスを取っている。決して自分だけが救われれば良いと言うものではない。「三界万霊」に対する供養です。宮崎での口蹄疫感染で処分された牛や豚への鎮魂もそうです。
 様々な宗教がありますが、仏教は人間中心の教えではない。生きとし生ける物全てに通じる考え方を持つ。
 一つの反省として、先月来園されたアフガニスタンからのお客様に私の意を充分に伝えられなかったことがあります。
 本堂で坐禅を組んでもらおうとした時に「祈りか?」といって頑なに拒んだ男性、彼は一先にお堂を出て庭に一人でいた。その彼と私は目があった。まさに目がモノを言っていた。
 引率の方から耳打ちされた。皆さん部族が違うんですよ。日本では想像できないでしょうが、凄まじい民族間の争いがあってその修羅場を誰もが体験しているんです。ですから宗教に対して日本人が考えるような許容(寛容性)は考えられないんですね。・・・・・・・。
 自然環境が厳しい場所に生まれた宗教は強い。それは毎日を生きて行く事さえ難しい人々の支えとなる教えだからだ。
日本の仏教が”森の宗教”と云われる背景には、初期の仏教より変遷を繰り返し、厳しさよりも共生に力点が置かれていることにある。
 最近の世相を反映する、自死や親子虐待という凄惨な事象に対し上手い対処法が見出せない宗教、その当事者として忸怩たるものがある。共生を掲げながら現実社会の中で繰り広げられている様々な偏見や競争に確たる物言いができない、その結果、弱きモノが現代の宗教に生きる術を見いだせない。
 現代人の持つ病理は思篤である。目がモノを見る常識の復権とその価値観の共有が今私達が取りあえず出来る事かもしれない。

1542:Neglect

Neglect(ネグレクト)とは、人が当然注意すべき人を余裕が無くて無視するという意味である(ジーニアス英和辞典)。児童虐待の中で”育児放棄”ということだ。大阪で2幼児を餓死させた23歳の母親の「食事をあげるのが嫌になった・・・」という逮捕時の言葉をどう受け止めたでしょうか?日本での児童虐待は2002年から2008年までの間に40倍に増え、相談件数だけでも年間4万人を超す。これは氷山の一角である。アメリカは88万人、ドイツ3万人、フランス1万8千人という報告もある。
 児童福祉の分野でいま大きな問題になっており、養護施設は常に満杯の状況だと聞いた。我が子への虐待は先進国に多いと言われている。その原因はいろいろ考えられる。ただ、その対策となると現実に様々な障壁がある。事前に何故防げなかったのかという話がいつも聞かれる。これは我々障害福祉に関わる事業所とて同じ問題を持っている。個人情報保護法という本来個人のプライバシーを守るために作られた法律が被虐待児を事前に見つける事を難しくしている。警察も然り、実際に事件になってからでないと動き出さない。ここに世の中の矛盾を感じる。入所型の施設を諸悪の根源と大ぴらげに言う人達、彼らは親から子供たちを隔離する養護施設の存在をどう見ているのか?
 豊かさと貧困の格差拡大とネグレクトの増加は関係があると私は見ている。親の一方的な言い分かもしれない。でも今回の大阪の事件が如実に示しているではないか。23歳で2子をもうけた母親は夫と離婚している。この若さで果たして今の日本で充分な子育てができるでしょうか?子供の成長と共に様々な負担が母親にかかる。それをお前の責任だと言い放つことが良いのでしょうか?幼い子には何も責任はありません。子が親を選ぶことはできない。
 世の中には表に出ないもっと多くの悲劇はあります。これを無視してきた実態も実は社会のネグレクトではないでしょうか!
仏教では『因縁』を説く。縁起とも言うが、これは定められた運命。。。。だから諦めな!とは言っていない。この宇宙の存在全てが縁によって結ばれていると観る。一つ一つ一人一人の存在は掛け替えのない大切なものと説いている。
 短絡的な幸せを願うことは本来の道では無い。
 社会や地域ができることで支えあう仕組みが縁起である。私の友人の大切にしている言葉「小さな幸せ大きな喜び」は一人っ子の障害を持つ我が子との30年の歩みの中で掴んだもの。
 また、ある友人は長く福祉施設で働き定年前に退職し、里親を始めている。またある友人は施設で拒まれた人達のグループホームを有限会社で興した。
 このように私の周辺にも頑張っている仲間がいる。いま内閣府の中に置かれた総合福祉法制定委員会で検討されているものが少なくとも日本の各地で芽生え始めた制度の福祉外の取り組みを育てる仕組みにしてほしい。
 私が制度の福祉をあまり評価しない一つの理由は、福祉が専売特許になることへの警鐘だ。地域に根差した仕組みをつくるには特別な団体や事業所だけでは絶対に無理だ。
ネグレクト防止は、子供を保護する事だけでは解決しない。親への支援も並行して行われないと同じ事は繰り返され、より深刻な状況を生む。
 上記スナップは、例の山の仲間が定期的に送ってくれるもの。奥日光の野山に顔を出したキノコ、クマザサの中に3本寄り添うようにして生えている、両親の脇に子供が寄り添っているように思えませんか?
 仏教が因縁の教えと言われる根拠がここにある。自然界に育まれる植物の中に、我々人間が忘れかけている大切な生命の営みがある。それに気づくか否か?
 残念ながら今の民主党に目を覚ましてもらいたい。9月の代表選への自党内の動き、何故貴方達は折角政権を取ったにもかかわらず、つまらない足の引っ張り合いをしているのか!
 議員総会に欠席した者に如何なる理由を付けても党運営の良否を言う権利は無い。国民は何を願っているか、いまこの期に及んでも気づかないのではもうどうしようもない。
 一句
    朝が来ない夜は無く 雨降って日が昇る この自然の営みを 盛夏の土産と思うもよし・・
・(字余りでした。
 

1543:教え伝える

2日間に渡る今年の施餓鬼をどうやら終えることができました。多くの檀家さんが両寺とも参加していただきました。私は準備だけで疲れてしまいましたがどうにか務めを果たす事ができ、ホッとしています。親が子に教え伝えること沢山の事があります。一気にはできませんから本人が見て学ぶことが大切、私も寺社会の事は幾度となく失敗を繰り返し、もうこんな恥は2度とかかないと心に決めやってきました。
 それが60年目の葉月を今日で迎えます。
 教え伝える事は肝心な要点だけで良いと思っています。細かな事は忘れますし変わる事も多いのです。それより決して変わらない事を肝に銘じておく事が大切。
 寺の住職としてそれは何か?
 開創来600年もの長き期間続いているモノは何か?これを自問自答することを忘れないという一言です。
 歴史の重みには、様々な人々の願いがある。それと出来ない事をさも出来るが如く云わないこと。分からない事を知ったかぶりしない事などルールがありましょう。
 住職する2か寺はお堂が新しくなり周囲の景色も一変しました。歴史の重みを感じるものが少なくなったように思います。でも唯一施餓鬼の時に持ちだす『三界万霊』の大きな位牌、彫刻も何も無く簡単な木の位牌、それに白紙をかぶせて書いたものです。薄黒くなったもので多分字の形から私の父が書いた位牌です。これを1年に1度施餓鬼棚に飾る。
 いま仏具屋さんで黒塗りの立派な位牌を売っています。でも取り換える気にならない。この位牌を見ると様々な事が頭に浮かんできます。
 檀家さんのお宅には仏壇があります。その前で手を合わせることも多いと思う。この短い時間が大切だと思っています。
 人が幸せを感じることはちょっとした事が切っ掛けとなります。また信仰心が芽生えるのは自分が不自由を感じた時と言われます。普段気付かずにいる事は不幸ではなく、それ自体が幸せな事だと言えるかもしれません。
 「信仰」というものを仏教では「ナーモ」(南無)とか「帰命」「帰依」と云いますがそれらは同じです。身命を捧げ従うこと。
 一般的に言って「道」や「かたぎ」と言われることにも通じるものが多く、その人の生きる支えです。
 今の日本人に欠けていることがこの辺にあるように思えてなりません。親が子に伝えるなど問題外で我が子に食べ物を与えず餓死させる親、その事を淡々と取調官に話す。23歳という年齢には関係ありません。地獄・餓鬼の世界を現実にそこに見ます。そして、マスコミは警察や児童相談所の対応を問題視する。いつものパターンです。
 何かしっくりしないものを感じます。1歳と3歳の子を母親一人で育てることは想像できません。
 結婚を一度二度失敗したからといって社会が手を差し伸べない国、方や1000人の招待者を呼んでの披露宴。現実に日の出ずる国、ニッポンで起こっている事です。このギャップをどうみるか?我々が出来る事はどこの局も競って放送する豪華過ぎる披露宴を瞬時にチャンネルを切り替えることぐらい。
  おかしいよ。変だよ。・・・・・・。

1544;些細な事なれど

施餓鬼の後片付けも一段落したので風呂に行った。いつも疲れるとマッサージをしてもらいに行く、日曜日なので混んでおり約1時間半後の予約が取れた。
 マッサージ台が10台ほどあるこの地域では一番充実しているスパーだ。そこでこんな事がありました。
 後から入ってきた女性の方、マッサージ師さんと意気が合った?のか話が弾む。最初は気にならなかった。いずれ終わるものと思っていた。それが段々とエスカレート、子供のクラブ活動の合宿の話から自分の出身地まで時々笑ったり驚いたり一向に話が収まらない。とうとう私は堪忍袋の緒が切れた。「あのね!少し静かにしてくれんかね。貴方らばっかじゃーねーだろうよ。みんな疲れて来てるんだよ。いい加減にしろよ」と起き上がってその二人に注意した。その後、二人は静かになった。私より早めに終わって出て行ったそのその女性の後ろ姿、いかにも不満有りありだった。全く可愛くねー!マッサージ師も「すみませんでした」と頭を下げた。私を担当してくれたマッサージさんも「どうもうるさくてすみませんでした」と頭を下げた。
 そこで黙って帰れば私も立派、ストレスが余計堪ったもんだから一言、「わたしゃー何度もここに来ているが、あんな客初めてだわな。自分の子供の滑ったころんだ脇でしゅべられ喜ぶ人がいるんかい・・・・」
 本当は「昔はおしゃべりする客がいるとマッサージさんが注意したもんだ」と言いたかった。それが自ら話しかけるんだから問題外だわな。
 些細なことだけど、自分のことだけで周囲への迷惑を考えない大人たちが増殖している。それとそれを注意する人間もいなくなった。いつの頃からだろうか、余計な事は余計なお世話になった。もう最初から教育のやり直しはできないわな。だって文科省は全国の学力コンテストをやって都道府県ごとの順位発表して喜んでいる。いつもビリ周辺をウロウロする大阪府の橋下知事がカンカンに怒ってた。
 私もそう思った。怒れ!主張しろ!それが大義だ。
 いま、ちょっと冷静になり、昨夜の出来事を振り返る。あの時こんな風に言えば良かったかもしれません。
「あのお二人さんね、お話が弾んでいるいるようですが、ロビーに行ってお二人でゆっくり話されたらどうでしょう。・・・・」 馬鹿云うんじゃねーよ。マッサージに来ているのにペチャクチャああー頭にくる。
駄目だコリャー。(性分とは如何ともしがたし)
 情報社会になり、人の心に余裕がなくなった。大阪での2児死亡のニュースは様々な形での報道がなされた。これを聞いて誰がこころ穏やかでいられるでしょうか。テレビを見ている日本中の人びとが底の見えない泥沼に落ちて行く何かを感じたに違いない。
 埼玉で起きた遭難者救助で5人の方が亡くなった。その取材に山に入った報道関係者2名が同じ山中で命を落とした。自己責任というには余りにも惨い事故だ。
 報道のスピード化が至上命令、スクープを競う業界の一面だ。私は知らない事があって良いと思う事が余りにも表に晒され過ぎという感想を持っている。見る側の判断の問題かもしれないが公共の電波だから選択はできない。
 これからどうなるのだろう?
家庭菜園でもやりながら、土と戯れ、季節の移り変わりを肌で感じる。そんな生活ができれば多少は冷静でいられるかもしれない。
 些細なことなれど 然りとて ・・・・・・。

1545:救世観音

30年ぶりの再会である、今度施設敷地に隣接する県道の拡幅工事が決まった、成人寮裏手の山の頂上に安置した観音様、それが道路敷地にかかるというので予め厚生園に移しておいた。これは私の父が建てたもので観音様の真下に小さな観音像を納めおいたと聞いていた。しかし移動した時にはその埋蔵した仏様はどうしても見つからなかった。
 どうなったか気になっていたのだが、今日、それを掘り出す事に成功し、寺に無事安置した。ユンボでやっと掘り起こせたのである。正直、今ほっとしている。
 蓮台から光背まで約10センチほどの純金でできた小さな仏様。『救世観音菩薩』である(上記写真)。一般的名称として観音菩薩と言われているもので特に法隆寺夢殿の救世観音が有名である。観音の在す住処・浄土を補陀落といいチベットのラサにあるポタラ宮はそこからきている。
 何故、父が小高い山の頂上に仏様を安置したのか?生前その理由を私は聞いていなかった。
 どうにかして探し出し、今度は移さなくても良い場所に納めたいと思っていた。人力では到底動かせないコンクリートの基礎の下深くに壺に入れられた観音様、周りには消し炭が沢山入っており、長く持つようにと父が考えたに違いない。
 言ってみれが尚恵学園の原点がここにある。救世は名が示すが如く、「世を救う」仏様である。大慈大悲、造像例の時代を遡ると飛鳥時代になる。
30年以上前に山を切り開きその場所に成人寮を建てた。時の流れは本当に早い。それとその間様々な事があったが大事に至らずここまでやってこれたのはこの仏様の御蔭だと心底感謝している。
 掘り出した壺の中には、他に一緒に納められていたものがあった。経典は残念ながら腐ってしまって原形を留めていないが一つ一つ意味を感じ取れた。
今度は永久に保存できるような方法を考えることにしよう。
 それにもう一人の仏様、それは地蔵菩薩である。これまた衆生済度を本誓とする。立派なお堂には入らず、野にあって我々と共に歩む菩薩、このお姿が当に原点である。
 SJKのJは神宮寺(本尊:地蔵菩薩)、Kは観音寺(本尊:千手観音菩薩)そしてSが尚恵学園。これこそ私が伝え残したい本誓である。
 私は頼まれてある委員会に入っている。県の今後10年の基本計画を策定するものである。その専門部会は20名程の委員で構成されている。既に3回目の委員会が昨日で終わった。
 正直、首を傾げることが話される。それは言葉への拘りである。例えば「推進します」と「図ります」という表現に異を唱える方がいた。使い分ける意味を明確にするべきだという意見だ。
 しかし、どうですかね?専門の学者はその辺が気になるようだ。私は表現よりも実際に県民に分かり易く表示すべきだという考え、推進でも図るでもどっちでも構わない。そこまで意味を読み込む人が果たしているだろうか?
 計画の為の計画になっていませんか! 良く我々の業界で言われることだが、『仏を作って魂入れず』になっていないだろうか。多分、毎日文献と睨めっこしているとその辺の拘りが強まるのかもしれない。
 

1546:CO2排出

地球規模の問題が騒がれる。今年の天気は周期的に繰り返してきた気候変動の範囲内のことなのでしょうか?ロシアで非常事態宣言がなされた。高温による自然発火で死者も多く出ているという。夏場でも30度を超える事は稀であったのではないか、それが今年は異常だという。
 確かに日本でも記録的な猛暑日の連続、熱中症がこれだけ騒がれる年も珍しい。これもCO2排出によるオゾン層破壊に起因しているのだろうか?
 G20において菅さんが演説し、各国から賛同を得たと昨日の予算委員会の誰かの質問に答えていた。あれっ!鳩山さんも排出量25%削減云々で国連で演説したっけな。でも彼はもう総理を辞めた。民主党は9月14日に代表者選出を行うという。もし、対抗馬が出て総理が変わるとなると1年で3人の総理が変わる。自民党の議員が言っていた、我が党は3年で3人だからまだ良い・・・・・・。
 2日程、予算委員会をテレビで見た。菅さんの迫力に陰りを感じた。先の参議院選挙での敗北、これを自らの消費税発言が原因だと自党内から批判された。でも、果たしてそうでしょうか?或る方が面白い事を言っていた。確かに暴投したのは菅さんかもしれないが満塁にしたのは辞任したお二人の責任だ・・・・・。と。全く同感だ。
 また始まった!評論家の癖がどうしても抜けない。もういい加減にしろよと自身で呆れている。
 そんな時、急に草刈りがしたくなる。この周期は気象より確率が高い。草が伸び始め、今刈らないと手がつけられなくなるというその時期に無性に草刈り衝動が起こる。
 バロネスを持ちだし、朝早く始めた。30分程した時、白い煙が出始めた。6本あるというベルトの1本が切れた。即ストップ、どうして私がやると切れるのだろう?今年になって2度目だ。農機具屋に電話、出張修理をやってくれるという。それに切れにくいベルトへの交換を頼んだ。
 昨日から寮の裏手の山の木の伐採を始めた。土を取るために地主の了解を貰って始めた。何社から見積もりを取ったらかなりの金額の差があった。当然安い方に決めたのだが、枝の処理に困った。やたらと燃やせない。枯れるまで置いておく場所も無い。結局産廃で処分場に運ぶことにした。キロ12円4tダンプで満載し、約1万7千円、それに運搬代。何台運べば良いのか分からない?
 その時思いだした。山林に間伐した木をそのままにしておく。これは運び出す手間と処分に膨大な費用がかかるからだと聞いた。大子の山林も手入れしなくなってもう10年以上がたっている。
 山が荒れている。畑も荒れている。これは人手がないこともあるが様々な規制があって経費が掛かり過ぎ持ちこたえられないのだ。
 やればやる程赤字になる。
 30年以上前に毎日山に入った。チェンソーで雑木を切り、シイタケの原木にした。いま、その機動力がない。利用者の皆さんも年をとり、体力と気力がない。
 本当は無い処から新たなものを考え出す。これがプロとしての最低条件だ。何も無くて良かったと考えるようになったのはいつ頃からだったのだろう???情けない話だ。
 根本さんが待っているから急いで出かけます。(Am5:08)

1547:出し惜しみ

第2の熱波が襲来するとか、いい加減にしてほしいよ。どうしてこんなに暑くなっちゃたのかね。氷河も解けるのが早まるに違いない。いま、俄かに言われ始めたアメリカでの経済見通し、日本型デフレ現象への危機とか言う専門家の報告があった。
 円高も一向におさまる様子を見せず、輸出に頼る日本の経済も不安定材料だけが目立っている。日銀が介入する手立ても今回は疑問視されている。企業は生産拠点を海外に移し、為替レート変動に対応、これだって前もっての準備が大変だ。しかし、民間企業は生き残る為にはやるしかない。「別欄:私の知り合いに日立の関係者がいる。グループ企業がなんと900社あるという。」
 ここが政治や官僚組織と根本的に違う点、議論・検討は素早く、待ったが効かないだけにトップの決断がモノを言う。総務大臣コメントで政党助成金の削減を検討、それに歳費カットと日割り計算規定の導入、何せ新議員の7月は6日間だけの国会開催でなんと一人月230万円もの歳費が貰える。(貴方達はそれを貰っていて非正規雇用の平均年収が粗、同額だと言う事をどう思うか?だよ。)そして、この歳費は国民の同意があって支給されてきたのか、お手盛り手当もここまでくるとコメントのしようが無い。ネジレ国会とかいって菅さんの責任問題が噴き出しているようだが、1党独裁を拒否した結果の現状を国民は歓迎しているってことである。この感覚のズレは相当ひどい。
 ここにきて民主党内部のゴタゴタが見え隠れする。私は国会審議で質問者にあまり関心がない。それより委員会席にいる他の議員(大臣を含め)の動きをみる。お互いのヤジで聞こえない状況は今予算委員会にはない。大歓迎だ。もっと真面目にヤレよな。
 中身は問題だ!事務所経費の遣り取り、コミック本を支出計上していた某大臣の回答、なんじゃーコレだ。
 いま国会議員が何人いるか知らない。彼らは名古屋市議会の動きを固唾をのんで見守っているに違いない。議員報酬のカットも半端じゃーない。これなら議員は辞めるという人間が出るかもしれない。どうぞ辞めて下さいよ。私は名古屋の改革に興味がある。市会議員に代わる地域委員会を選挙で選出、これなどヨーロッパで行われている議会制度の日本版、ボランテア議員で議会は夜、彼らに日当が出ているのかいないのか?一方専業政治家が超優遇されている今、彼らがどう対応するか?これは所属政党など関係ない政治家としての基本問題だ。
 税金が主な収入でありながら、高級車を乗り回し、これを疑問に感じない。先ずこれが納得できないんだよ。それで言う事は立派、公共交通の赤字をどう解消するか・・・・だって。チャンチャラ可笑しいよ。
 この感覚のズレが是正されないと彼らには今の日本の危機的財政状況を打破する方策は出せない。『言行一致』&『自未得度先度他』という信念が公人に欠如した社会は、長続きしない。ある意味では日本の総理がコロコロ変わったということも根っ子の部分では同じであろう。
 総理の座が勲章であるはずがない。国の顔となる人物を味方であるべき者達が梯子外しをする。これは六道輪廻の地獄・餓鬼・畜生界を見る思いだ。
 様子みて 身銭を切るのは 最終判断・・・・・・裏の議員五ケ条の教えより・・・・。
そうそう言うのを忘れていました。私が何故、名古屋に関心があるか、私のルーツが名古屋だからです。悪しからず。
 日本で一番元気のある都市がNAGOYAでしょうよ。
 

1548:自己決定

NHKラジオ深夜便を久しぶりに聴いた。実は「こころの時代」が「明日へのことば」という名前に変わった時から聴きたいという気持ちが薄れてしまった。ハッキリした理由は無い。
 今朝の放送は担当デレクターが佐野先輩だった。被爆証言の会代表の原さんの話、2日目だった。今日8月6日は広島に原爆が落とされた日だ。番組の最後に原さん自身がつくった詩を紹介した。「広島は生きている」というもの、戦争体験者がどんどん少なくなる中で広島や長崎の史実を語れる人達は貴重だ、多分その人達の思いは戦争で亡くなった多くの人達への鎮魂の闘いだと思う。
日本の場合は核廃絶などを訴えると政治的思想的に偏った人という見方をされる。そうじゃないだろうと言いたい。日本人だからこそ世界の人びとに戦争の悲惨さを伝えていくべきなんだと私は思うんだよな。
 「自己決定」「自己責任」という言葉が巷に溢れかえっている。その対極にあるものが戦争だと私は思う。戦争で失ったものは取り戻すことはできない。それに自らの意思で戦争を望む人はいない。この2点は絶対だ。
 話は全く、次元を異にする。
 障害福祉の中で「自己決定」という言葉が良く使われます。最近起こった事件で知的障害者の施設で利用者に特定の候補者の名前を書かせたメモを持たせ投票させた施設長が公選法違反で逮捕された。
 地方紙に掲載された位だから一般の人びとの目には入らなかったかもしれない。
 しかし、これは曖昧にしてもらっては困る。根本的な問題だからである。実は私自身も同じ悩みをもっている。選挙は成人に達したもの全ての権利だ。禁治産者云々の問題は別として、知的に障害を持っている人達にとって自らの意思で1票を投じることが果たしてどんな意味があるのだろう。候補者によってはどうせ字が書けない人達だから最初から対象外に思っている人も多くいると聞く。
 この問題は今に始まったことではなく、様々な取り組みや考え方がある。
「成年後見制度」もそうだ。それに最近「共同決定」という言葉も苦心の末に生まれた。
 世の中が制度やマニュアルで雁字搦めになっている。個への対応が十把一絡げに押し切られている。問題とされる社会現象の多くがはみ出し落ちこぼれが原因で起こっている。人間の価値は一人一人違って当然なのに、無理して枠にはめ込むような風潮がある。
 マスメデアの責任としてそれを助長するような報道は慎むべきだ。実際に体験が無く知識だけ豊富な時代となり、何を根拠に選択するかという肝心な能力が弱まった。そして結果責任をおわず、只管言い訳に終始する人々。
 しかし、現実には言いたい事は山ほど有るにもかかわらず取り上げては貰えず、責任だけを負わせられる人達がいる。
 無効票になる事は分かっていても白紙投票をする人達、彼らの思いを届ける術がない。これが現実の社会だ。
 知的障害を有する人々の選挙権行使をいつまで禁句にしていて良いのか!
 そのことが変わらなければ平和や福祉を語る人々への社会の認知度も上がらない。
「広島は生きている」の広島を「障害者」に置き換えて済む話でもないような気がする。

1549:視線

Nさんの視線の先に一体何があるのでしょうか?猛暑日が続く中で3日連続で朝早くNさんと掃除を一緒に行った。暫く積み重ねてあった枝を纏めて燃やすには早朝でないと熱中症になりかねない。
 私と彼とはどういう訳かウマが合う。彼は祭り好きで水戸や石岡、土浦と夏祭りの日程は全て知っている。どこかの祭りに行くつもりでいるようだ。以前だったら2~3日帰ってこなかった。酔っ払って朝帰りなんてこともショッチュウだ。それが今では必ず帰ってくる。それからお盆には彼は大子町の両親のお墓に線香をあげにいく。近くには実のお姉さんがいるそうだが、決してそこに立ち寄ることはしない。
 年齢は55歳?彼の人生は当に寅さんみたいなもので、気楽な旅を今もしている感じだ。我々には一宿一飯のお礼にと掃除はすすんで手伝ってくれている。しかし、少し長居をしたかと思っているかもしれない。
 施設は終の棲家でしょうか?そんな事はない。誰が決めたんだ?分からない。私は彼にその事を思い切って尋ねてみた。答えは無く、「フフーン」と笑っただけ。
 彼に人生のタラレバがあったとしたら何と言うだろう。視線の方向が今思うと大子町の方向かなー?と・・・・
家族の皆さんは理事長の確約が取れない事への苛立ち?があるかもしれない。「心配しなくて大丈夫、私達が最後まで面倒をみますよ」という確約を。
 そうじゃーねーだろう。親としてやらにゃーいかん事だってあっぺーよ。これは私の頭から離れた事はない。彼らと接していると「そう言ってくれよ」という無言の訴えを感じるからだ。
 格好付けて見栄を張る事は私にはできない。あくまでも自分たちの力に奢らず謙虚にあるべきだ。
 我々施設事業所が大きな栗になるべきか?ここまで残念ですが日本の社会は成熟していないし施設にその力は無い。
♪・・・大きな栗の樹の下で 貴方と私 仲良く遊びましょ・・・・・・♪
 人間一人では何もできませんよね。
 

1550:家族

生存しているか否か確認できていない100歳以上のお年寄りの数を知って正直驚いている。新興国と言われ人口も日本の比では無く破竹の経済発展を見せる中国やインドならいざ知らず、人口減少が進み成熟国家?で平均寿命世界一(女性)と言われ続けてきた日本で分かったことだ。100歳という年齢は誰しもが超えることができるものではない。それ故に市町村では何らかの祝意を表してきた。我が町土浦では100歳以上の方に毎年市長が祝い品を届けている。だから所在確認できない人はいない。
 今後同じようなミスを繰り返さない為には首長自らが何らかの祝意を自ら足を運んで伝えることだ。
 それが、いつの間にか書類の上だけで行われてきたからだ。
 長寿を祝うことは、昔なら家族親類が皆さん集まって行ったもの、それが実の子供でさえ親の生存が分からない。否、安否を調べようともしない。これをどう捉えて良いものか。
 昨夜は恒例の盆踊りを成人寮の庭で行った。お客さんの一人が私に「父兄は参加していないんですか?」と尋ねられた。「盆踊りには来ていませんが、通所組の家族は本人と一緒に来ています。」と答えた。
 学生のVSや近所の皆さんが結構来てくれるので、賑やかな集いとなる。盆踊りに父兄が参加しない理由は、夜の行事であることが一番、それと、盆踊りが終われば其々が自宅に帰省する日が近いからである。
 でもこれは表向きの理由、本当は参加できる父兄ばかりではなく、来れない利用者さんへの配慮もある。毎年、自宅へ帰省できる人達が減少している。この傾向はもっと強まるはずだ。
 家族、特に親子の関係は微妙だ。絆(きずな)って何?温もり潤い・・・・・その逆だってある。早くも盆帰省の交通渋滞が始まった。良く調べれば面白いと思う。年老いた親だけが田舎にいて、盆に子供家族が親元に帰り一緒に休みを過ごす。この割合は結構少ないんじゃないだろうか?実家に長くいるよりは、そこからまた何処かに移動する。虫とりや魚釣りで遊ぶ環境は減っている。それよりも実家のお嫁さんに気を使い長居が出来にくい状況も無視できない。
立秋の宵
    吊り提灯に
         願かける