源究104

 

No テーマ 月日 No テーマ 月日 No テーマ 月日 No テーマ 月日
1591 地下水脈 9/24 1596 故意かミスか 9/30 1601 身を任す 10/5 1606 子猫 10/10
1592 国の有り方 9/25 1597 思い当たる事 10/1 1602 好き嫌い 10/6 1607 無事を祈る 10/12
1593 彼岸明け 9/27 1598 千変万化 10/2 1603 彼岸花 10/7 1608 訂正報道 10/13
1594 新体系移行 9/28 1599 一国依存? 10/3 1604 運を貯金! 10/8 1609 言行録 10/14
1595 問われている 9/29 1600 我先に 10/4 1605 感じる 10/9 1610 かまえなし 10/15

1591:地下水脈

久しぶりにラジオ深夜便の『明日への言葉』を聴いた。佐野さんから前もって岩手県での取材番組を放送するからと連絡があったからである。正直、『こころの時代』からタイトル名が変わってしまい興醒めしていたのである。2日間の連続番組で坂巻理事長夫妻の10年間の施設作りあれこれと言った内容だった。岩手県の過疎村に知的障害者の通所施設を開設した。縁も所縁も無い所で何故?という思いがあった。福祉業界では、元毎日新聞記者でその後大学で教壇にたっていた坂巻さんを知っている人も多い。
 番組中ご夫婦の遣り取りで感じる事がいくつもあった。昭和32年の学生時代、肢体不自由児へのキャンプに参加した事が福祉と関わる最初だったという。でも彼の話には福祉にドップリ浸かってしまった私には無い発想を感じた。
 人の為という事は『偽り』に通じる。障害者の為と言う人は本物ではないと一刀両断する。「孤独」と「孤立」は別物。孤独は人間誰しもが生まれてから死ぬまで持っているもの、孤立はネットワークが無い状態、自分の努力で避けることができると。新聞記者時代の様々な体験が聴く者により説得力を持たせる。
 定年後、趣味に生きるといって絵・写真・旅に老後の生きがいを求める人は多い。方やボランテアと聞くだけで毛嫌いする人も多い。業とらしいというのだ。確かにボランテアを遣っていますと言いふらす人もどうかと思うし、我々その類の人を施設に受け入れても何か違和感を感じるものだ。
 自分に正直になれば、ボランテアという事を誇るべきことではないと思っている。
 昭和30年代前半と言えば尚恵学園が産声をあげた時期と重なる。いま書類倉庫の整理が一段落して当時の書類や写真を見ている、建て物ややって来た事が今とは雲泥の差という事が分かる。ソリャーそうでしょう。国からの助成は全くなし、自前で用意できる範囲でやっていた。当時を知る人が少なくなり、何か物寂しい思いがする。
 制度が進んだことは事実だ、建物整備には国庫補助がつき、自主財源は低利の借入れで賄える時代となった。全国に施設の数が急激に増えた。贅沢?な建物を競うかのごとき自己PRがお盛んになった。
 なんだか可笑しいよ。そう言えばひねくれ者と言われる時代、本物の福祉の心は・・・・ためにやっています・・・・とは公言しない。何も特別の事ではなしに極々普通の事なのに・・・・
 ここにきて私と同じ考えを持つ人も増えてきたように感じる。それを実践するか否か。『新しい公共』という旗印、何を訴えどうしようとするのか? 制度にドップリ浸かってしまった事への反省と共助の復活とでもいうのだろうか。
 線香花火のようにパッと輝いて消えるものは福祉に馴染まない。儲からなければやらない式の発想も同様。依然として高度成長時代の夢を追い続け、事業の拡大を唯一の目標に掲げる人もいる。
 そこに大いなる疑問を感じる。ニーズがあって供給がある。これは常識である。言われずとも分かる事。
 福祉事業には避けれれない宿命がある。それは自らの存続の否定の為に努力するという真理、そこにほんの僅かな隙間も許さない。それこそ、人の為=偽の解字の例を出すまでも無い。もっと正直になれ!謙虚になれ!
 大それた事を言うようで恥ずかしい。この思いは常に忘れぬようにと父に言われた。
”地下水脈”とは、普段は表に出ず見えないが地面の下に脈々と流れる水である。水を心と置き換えると、あまり悲観的になることも無いと思う。これからの若者に期待する点はこの辺にあると思う。何も小難しい理屈ではなく、アンタそれで良いのかい?という問い掛けだ。

1593:国の有り方

政権交代後、続けざまに外交問題が表面化している。沖縄米軍基地の未解決そして今回の尖閣諸島領土問題と当に新政府の試金石となった。東シナ海周辺のトラブルは日本だけの問題ではない。大国中国の経済発展が軍事力増強に拍車をかけ隣接諸国の脅威になっている。
 今回の船長の逮捕事件は不起訴釈放という形で中国側に押し切られた。次から次に制裁措置を繰り出してくる中国にあれよあれよという後手の対応をするだけに終わったという印象を持った。無策と言えば言い過ぎか?否、私は与党がこの時期に代表選に2週間もの間,現を抜かしていた隙間を強かな中国に狙い撃ちされた結果だと思っている。
 そして、また重要官僚の交代があった。外交に関しては顔の見えない交渉をし続けている。相手国は責任者の顔と名前が一致するのに日本側は数カ月で大臣が変わった。
 これで対等な交渉のテーブルに立てるわけがない。元来、外交は探り合い。それが毎回、自己紹介から始めるようでは深まった交渉が出来るはずが無い。一兵卒とか言った方は、選挙戦の疲れを癒す為か好きな釣りに出かけていたという。一体、彼は何を考えているのだろう・・・・・。
 長い自民党政権下で様々な問題が浮上し、それに嫌気をさした国民が期待と不安で託した新政権、内政問題に対しては野党時代に嫌という程追及してきただけに、事業仕分けなどには実績をあげた。しかし、殊、外交に関しては相手国に足元を見られ連戦連敗の姿を白日にさらしている。
 民主党の最大の弱点が自民党以上に主義信条の違う者達の寄せ集まりだという評判がここに来て集中砲火をあび始めた。国の有り方は、言うまでも無く独立した国家の統治権を内外に示すことにある。四方を海に囲まれた日本は、過去に領海を巡る争いをずっと続けてきた。自国だけで国を守ることは誰しもが不可能と考えている。憲法下でうたわれる自衛隊の専守防衛論議、この最重要事項が現実には有権者と膝を交えた議論あったという事実も無い。
 日本が経済的に世界のトップレベルまで豊かになったという事実だけが脚光を浴びてきた。簡単に言えば商いに成功し利益を得たから出来た事、一人勝ちをすれば必ず不平不満が起こる。嘗て小規模の日本叩きがあったが、今回は厳しいものとなるはずだ。約束を守れない国というレッテルが付いてしまった。
 (マスメデアはあまり取り上げなかったが国連での菅さんの演説、退席した国が多かったという話もある。半年前の鳩山さんが25%CO2削減の約束をして拍手を浴びたとか言っていたが、あの話はどうなったの?という反応だ)
 国内ではモノが溢れている。一般消費が伸びないと騒いでいるが多くの人々はいま直ぐに必要で買うものは無い。
人件費の高騰で企業は生産拠点を外国(アジア諸国)に移した。数か月前に中国で起こった処遇改善のストライキ、これだって一企業の問題ではない。日本に対する不満になっている。
 ”損して元取れ!”とは商売の極意。”損せず益取れ”では、そもそも相手側は受け入れてくれない。
 日本は情報網が他国に比べて進んでいる。これは紛れも無い事実である。今回の中国漁船の問題を、国内法に基づき粛々と対処するとの政府発表、次のニュースでは、大阪地検の証拠改ザン問題を流す。
 このチグハグさは、我々日本人にとっても理解範囲を超えたもので、利害関係がある外国にとってみれば決定的な失点となる。そして今後の成り行き次第では、沖縄と大阪地検の違いはあるが、担当地検の責任にする可能性もある。
 これではなー!誰だって怒りたくなるでしょう。
 政治に対する逆風なんて生温いもんじゃなく、即レッドカードでしょう。
 日本人のいい加減さが目に余る。これは確と受け止めねばなるまい。いま我々が出来ることは何か?
 ギブアップの前に何かがあるはずだ。そしてその根気だ。

1593:彼岸明け

秋彼岸が明けた。中日(秋分の日)を境にしての7日間が彼岸である。気象庁が記録を始めてから113年間での高温記録の大半を更新した異常な状況だ。それが彼岸を迎え、一変した。昨日は秋空の晴天であったが夜には雨となり今朝は本降り、秋は天気が変わると言うが当にその通りとなっている。
 長袖を重ね着しないと寒いくらいだ。秋は味覚シーズンであるが、周辺からは良い話は聞こえてこない。先ずコメが不作、胴割れという現象が出て、品質の等級が落ちた。梨は質量共に昨年以下という。いま神立周辺では栗拾いが真っ盛り、こっちのほうはどうだろうか?尚恵学園でも栗畑があり、Nさんが毎日、拾ってくるが量はまだ多くない。
 秋はまた結婚式シーズン、11月までに3件入っている。
 長閑だなー!と思う間もなく、日本周辺は急に慌ただしくなってきた。特に中国の動きが目立ってきた。国土面積は世界第3位、人口は13億4千万と第1位を占める。GDPが日本を抜きアメリカに次いで2位になるのは時間の問題だという。しかし一人当たりの収入を見れば6000ドル(日本は3万4000ドル))。日本と単純に比較しても人口が10倍ある国とGDPの順位に一喜一憂することがどうなのか?
 ただ、確実に異なる事はある。貧富格差と軍事費総額。前者は内政問題で後者は外交問題。国内の問題は余り表面に出ない国だ、情報の制限をしている。13億の国民を賄う食糧やエネルギーそれに多民族の抱える問題への対応策は日本の比ではない。中国政府の一番の関心がここにある。だからと言って国境を面する多くの国との関係も複雑、日本との関係も一定の距離を置き、その時々の問題に対応してきた。何しろ急進的な反日感情を持つクループを抱えているから大変だ。両国間の蜜月を維持する事が問題だとする見方もある。
 今朝の新聞で一面トップで書かれていた”脱北者の強制送還”を中国が強化するという。何を意図するのか分からない。しかし、北朝鮮の後継者問題と何らかの関係があると思える。
斯様に日本の周辺だけを見回しても常に変化して止まない。
 日本は中国と比較すれば自由で平和な国だと思う。それに慣れてしまったが為に多くの問題が出ている。ガードが甘いし確たる方針がない。周囲の急激な変化に対処する体制ができていない。国の中枢が変わり過ぎた。それでもやってこれた時代でもあった。戦後築いてきた3権分立といった制度、先ず立法府である政治の混乱、次に司法に潜む常識の欠如、そして最後に行政の特権強化だ。
 一つのヒントになればと思うが歌丸師匠が座右の銘にしているものらしく、『誉める者は敵と思え 注意してくれる者が本当の味方である』という見方をどう捉えるか。
 今の日本で重要なのは、痛い処を注意してくれる人・国であろう。実状は、教育現場や職場で注意する人が育たない。自由を認め過ぎた結果、最低限のルールさえ無くなった、だから修正が効かない状況になってしまった。
 心を鍛える環境は、一朝一夕では生まれない。地道な努力によって実績を積み上げることしかない。それが薄れた社会が辿る行く末は惨めだ。何が大切かという価値観が曖昧で楽な生き方を皆が求める時代である。
 彼岸とは我々が生きる此岸との対比である。あっちに渡れば何も苦しむ事が無い涅槃の世界、。。。しかし、そこに至る道筋があって可能なこと。それを認めるか認めないかが個人の自由となっている。
 

1594:新体系移行

10月1日より新体系に移行すべく準備万端整いました。障害程度判定もいろいろ有りましたがほぼ決定し、平均程度区分も出て、その体制も組みました。正直、移行したからと言って日常の業務に変更が有るわけではなく、日中の活動の若干の手直しをやる必要性が出た位でしょうか。夜勤体制は年度初めから導入してきましたし、流れもほぼ決まりました。
 コスモス(多機能型)は既に新体系に移行し、3年が経過していましたので法人としては今回移行する2施設の夜間支援の流れを変えることが現場サイドでは一番大きな課題でした。
 移行に伴う新作業所の建設計画がここに来て雨が続き敷地造成が遅れ気味ですが、設計も予定通りに進んでおり、近い内に具体的な業者選定を行う手筈になります。
 障害認定には様々な問題が有る事が分かりました。市町村によって大分格差がありました。調査に来られた担当者によって聞きとりが先ず違います。それと主治医意見書の書き方も医師により大分違いました。106項目の基本調査の後、各市町村では認定審査会にかけ、区分の確定をするのですが、これがまた様々です。
 どう考えてもおかしいと思われる結果に対し、不服申請を出し、再度調査をお願いできるのですが、原則、事業所側からの申請はできず、家族からの申し入れという形を取ります。これは、契約制度になってから、あくまでも利用する側の考えを重視するという原則に基づくもので、正直なところ認定そのものを家族がどう理解しているかという問題があります。
 一方、我々事業所にとっては報酬単価に諸に影響しますから、明らかに判定が甘いと判断した場合には一言も二言も言いたくなるのです。これへの対応が市町村により様々、極端に言えば、「なんで判定に文句を言うのか」というような高飛車な態度に出る担当者もいるとか、これには県に申し入れし実態を調査してもらいたいという気持ちでいます。
 もし、そのような状況があれば我々事業所団体として、その市町村の名前を公表する等の対抗手段をとる必要を感じました。何故そう思うか!それは我々事業者に対する対応だけでなく、窓口によっては障害者が相談に訪れた時の対応に不満を持っている方が結構いるという報告を受けているからです。
 いくら制度を作っても利用する側の立場にたって丁寧に説明する、これが福祉事務所になければ2度と相談にいかなくなるかもしれません。まだまだ「こんな事を言ったら嫌がられるから黙っていよう」という市民が多いという実態がありますね。これではいつまでたっても変わりませんよ。
 実は新体系に移行する時に、私はこの辺に疑問を持っていました。
 契約制度になった時に福祉事務所が直接関わる部分を減らしました。しかし、複数の事業所を利用する人は混乱しました。今は無くなりましたが上限管理という問題があり、サービスの利用制限があって、オーバーして利用した場合には事業所へ返還命令が出たりしました。サービスを提供したのに悪い事をやったという捉え方もされましたね。同じ問題が全国的に起こって団体として国に要望を行い改正されたという経緯があります。
 確かに以前と比べれば利用者側の選択肢が増えました。それは良い事で有ります。しかし、事務的に複雑になり利用者も事業者も困っています。
 いま前向きに考えようと思っています。従来の事業の見直しと新たな取り組みを考えるチャンスと見ています。
業務がマンネリ化し、深く考えずに日課を送るという状況が見えました。これは私の責任でもあるのですがそれを是正したいのです。
 私に本をもってきた職員がいました。『部下を信じ、任せる上司・・』とか言う内容でした。
良いじゃない!受けて立ちますとも・・・・。還暦を迎え、益々。。。。。若いもんに負けてなんか、いられっかーっていうんだーよ。バカタレメが。
 これじゃー同じだっぺーな。二度と理事長に言いになんか来ねーよ。
 なーにね。それはホレお見通しなわけよ。ちょっくら言われた位で退くようようじゃー先が見えるってーことよ。
    歌丸師匠が言ってぺー!
 

1595:問われている

無関心が民主主義の最大の危機。これ常識。日本は確実に地方分権に向かうという。嘗ての国の繁栄は中央集権により成し得たことであろうが、成熟社会となった今、日本人は自分たちが住む身近な地域に関心を向けるべきである。
 それが以前として盛り上がりに欠けている。名古屋市の市長と議会のバトルを見ていると実に面白い。形振り構わずあそこまでやるかな!少なくとも地方議会の有り方に刺激になっていることは事実だろう。それが上手く伝播するか?
 住民を巻き込む議会リコール署名運動、首長リコールの運動は多いが名古屋は全くその逆を行く。誰しもが議員数の削減と報酬引き下げを願っている。先ずそれには首長自らが率先して実行することが条件だ。
 名古屋議会の現状は政党関係無く全員一致で市長に反対する。ここまで良く纏まったもので、自らの懐具合に関することだから必死になる。
 議会の有り方が問われてもう何年になるんだろうか?遅々として進まない。大体、鉾先を変えるために検討委員会なるものを設けて誤魔化してきた。結論が出る前に選挙になり審議中断。継続審議となる。これこそ事業仕分けすべきなのに、自らの仕分けとなると逃げ腰になる。名古屋市の状況は市長は勿論、議員も大変な労力が必要だ。一生懸命さが見える。だから市民も関心を示し協力する気持ちが起こるんでしょうね。
 自治体には決まって審議会なるものが設けられている。学識経験者や利害関係者の意見を反映する為にあるようだ。これは一般傍聴を認め公開で行われるものが多い。しかし、傍聴席は常に空席である。関心が無いのか?実は一般市民への周知ができていないというのがその一番の理由だろう。広報誌などの片隅に載せてある位だもの、気がつかないのが当たり前だ。
 この仕組みに慣れてしまった。それから計画作成が目的化してしまい、具体的な進行チェックが甘いし、目標に達しなかった場合は必ずや財源不足を理由に挙げる。数値目標を達成するためにどのような努力を行ったかという経緯説明がなされない。ここに無関心層を増やす最大の原因がある。机にツンドク(積ん読)の計画書に成り下がるのだ。
 これを是正する唯一の方法は、徹底して市民と膝を交えた議論をすることしかないんじゃないの。そこに踏み出す勇気と気力がない。
私はこの国の将来に悲観的だ。その一番の理由が無関心層が多いこと。何をやるにしても他人事で自分さえ良ければ良いと考えるものが多過ぎる。この原因は複雑で根が深い。
 土浦市は市民税未納率が県内でワースト2だという。県内で一先に事業仕分けを取り入れた。市長は日本1住みよい街を目指して当選した。土浦をこよなく愛する私としては、歯がゆさを感じている。
 街の活性化を声高に叫んでもこの根本にメスを入れずして実現できましょうか?
国政にはやるべき事をちゃんとやって欲しい。外交問題への対応が実に危なっかしい。政府の対応が遅い。今頃関係閣僚が集まって話す必要を感じるとか言っている。防衛大臣の弁ですよこれが。危機管理がないのか?あっても実際に機能していないのではこれこそ無駄。
 国防は国政に携わる者の最大の責務。これが後手後手の対応で終始し、責任逃れの言い訳が罷り通る。
 これで将来を悲観せずにいられますか?そこまでノーテンキな人間はいません。我々ができることはもっと政治に関心を持てということとモノが言える有権者になることですかね。
 

+ワン

ほのぼのと・・・
 昨日は常磐道が通行止めになる位の集中豪雨があった。それが今朝は青空、気分が良い。すると、まんだら工房のOさんがジョウロを持ってやってきた。「可哀そうだっぺな!花に水かけてやっから」「昨日雨降ったぺよ」と私が言っても聞く耳持たず、水道から水を汲み、植え木に水を掛け始めた。
 同じ工房の仲間のKさん、私の車の周りでキョロキョロ、踏ん切りがついたらしく、おもむろにホースを持ち出し水かけが始まった。
 水浸しの地面が更なる水攻撃でグチャグチャ。
ほのぼのと 我が役目と 思うからこそ。彼らは一途なんですよね。 黙ってみているしかできませんでした。追記として。

1596:故意かミスか

故意というものは、ある一定の結果を予測して行う行動でその場合の心理状態を言う。当人の心理状態はなかなか第3者には分からない。それが犯罪に結びつく行為の場合は相手があることだから穏やかではない。
 大阪地検の問題は是非とも実態を明らかにして欲しい。日本の司法制度の根幹を揺るがす重大事件だ。当事者にその自覚が無かったのか、素人の勘繰りの域を出ないが、何か密室で行われるだけに同様の事が常態化していたのではないか?と疑ってしまう。この疑惑を払拭するには、関係者は勿論、法事国家の担い手としての資質をチェックする何らかの機関が必要だろう。
 地検⇒高検⇒最高検という縦の関係で果たして身内の膿を出し切ることが可能か?柵がありすぎてどうなのか?
 メデアを含め、報道の有り方に大いなる反省を促す。情報を得る我々一般市民側の責任という事も無きにしは有らずであろうが、大分ネジが緩んでいるのではないでしょうか。
 時を同じくして、地検絡みの事件が起こった。沖縄地検の中国漁船船長逮捕の問題。釈放という結果に賛否両論、外交問題は相手国があり、出方が予測できない。眠る子を起こすように過去の怨念を再燃させるリスクもある。
 民主党が当に正念場、野党時代には追求することに全力投球すれば良かった。それが自らの責任で決断が迫られる与党の立場になった。正直、彼らにはその経験が無かったのだから無我夢中で対処しているのが実態だ。野党もそれ見たことかと対応の不味さを追求するには掴んでいる情報が薄い。
 不安だけ煽られる国民も堪ったもんじゃーない。
 現実は動いている。
 今回の事件が故意によるものかミスによるものかは大した問題ではない。尖閣諸島の問題は、両国の間で明確な了解事項になっていなかった事が問題、地下資源云々という話も飛び出し、昭和10年代にタイムスリップしたかのようだ。過去の戦争はお互いに言い分がある。それを第3者の国に認めさせる行為だった。
 もっと単純にいかないものか。利害が複雑すぎる。
 正直、ここ数年、国会審議は枝葉の事案で紛糾しすぎた。政治とカネなんて問題は外交や経済政策さらに社会保障の課題から比べれば取るに足らない事だった。疑惑があっても当選できる議員はバッジを外さない。これに不満な人間は他の候補者に投票するか棄権した。
 この辺の国内事情は外国に筒抜けだ。それでも日本と付き合ってくれるのは何らかのメリットがあると思うからで財源枯渇の台所から得るものが少ないと思えばソッポを向かれる。
 何を日本の強みとして官民一体で推進していくかという具体的な方向性が見えない。雇用を最重要課題と言いながら掛け声だけでは進展しない。
 私の住む地域には日本の重機トップメーカーの主要工場がある。外需に頼って実績を伸ばしてきた業界で、中国やインドが主な輸出国、何せ重機一台が数億円もするのがあり、外交のミスは許されない。そこで働く社員は一様に先行き不安と言っている。
 現状を維持する事は困難だと誰しもが感じている。
 雇用を介護や保育の充実で賄うという考えは、ほんの一部の事でしかない。個人の収入が減った分、世帯合計の収入でなんとか生活する時代になっている。住宅ローンを払い、子どもの養育費を取れば残りは殆ど無いというのが実状ではないのか?
 嘗ての高度成長時代の夢を追い続けている者はいないだろう。生活実感がない一部の人達以外には。
 

1597:思い当る事

神無月に入りました。秋風の快い季節というよりも天候が不順で日毎の温度差が大きく体調を崩しやすいというのが正直なところでしょうか。お身体には注意してください。
 昨日、ある方より言われました。「なんか最近の源究はおかしいよ。鬱憤を晴らしているようで棘がある・・・・」と注意されました。自分でもそう思っていますから妙に納得しちゃいました。
 正直、心中は何も変わりません。でも性分でしょうね、思いつく事がどうしても批判の文章へと向いてしまいます。嫌なんですよ本当はね。所詮、他人の事でしょう。それより自分がしっかりしろ!と必ずしっぺ返しがくるんですよ。
 この年になって自分の頭の上のハエもおえないクセに・・・お前はいい気になって。これって全て自問自答なんですが、
もしかしたら大いなる仏さんの声かもしれない。思い当る節があるわけですよ。
 今年の夏は本当に厳しかった。もういい加減にしてくれよと何度叫んだことか。それが届いたのかどうか、急激に気温が下がり、雨ばかり降って。今度は太陽の日の光が恋しくなって、雨は充分だから天気になってくれ!
 随分身勝手な言い分でしょう。
 最近、ほのぼのとした話題がない。・・・たそがれにほのぼの見つる花の夕顔(源氏物語)・・・
ほんのりと心温まる様が見当たらない。いや、有るのだろうが気がつかない。人の名前が思い出せない。ご飯を食べたかどうか忘れる。薬を飲んだかどうかも。額にかけた眼鏡を捜す・・・・・・・・無・無・ム・・いよいよ老境に入ったか!
 還暦という節目がこれ程グサリと胸に刺さるとは思わなかった。いつまでも若いと思うな60代。朝露の一滴が諸に脳味噌を直撃。一瞬ハッとして人生を儚んだ。あれは先週の雨の日曜日、草履では無理だと高下駄を出して法事に出かけ、どこで躓いたか覚えは無いが夜に親指の異常を感じ、上手く曲がらない。腰に貼った温シップを足に貼り、その上から足袋をはく。やっと痛みが取れたと思ったその日に今度は腰にきた。
 これだって思い当る節がある。雨が小止みになったから愛車軽トラックで畑に出た。道路脇の草が伸び過ぎて道路側に飛び出していたのが気になって、草刈り機でやったのが一因だ。
 どうしてこう思うようにいかんのだ!
 気力体力が現実に対応できていない。もうソロソロいい加減にしたら・・・と言う囁きが聞こえたような気もするが、何クソ、ふざけんな。老いても気持ちは20代。
いろいろ有りますが 本日はこの辺で、  お身体大切にして下さい。
 

1598:千変万化

全くの素人がホームページを立ち上げ、6年が経ちました。時の流れを感じています。良く見てみると大分古くなった内容があり、こりゃー不味いわなと思っています。でも消し難い。始めた頃は社会福祉法人で自前のホームページを持っているのは珍しく、だから力も入っていました。最近はどこの法人も見事な見栄えの良いHPを持ってています。
 これはプロが作ったなというのは一目瞭然、・・・私は今後も我流のスタイルを続けるつもりです。誤字や脱字は一向に減りませんし、開いて初めて分かるバランスの悪さ、これはどうしようもないのでありまして、嫌なら結構、覗かなくて構わないという冷めた思いがあります。ミスがあるから心が通じるんだ。
 IT技術の進歩は目まぐるしい、これを追いかけると素人では無理。更に世の中が千変万化、何がタイムリーな情報か分からない。かえって一昔前の情報が新しいという事が起こり得る。
 負け惜しみ半分でそのような事を考えています。
 不思議なんですが私の頭には次から次にいろんな事が浮かぶのです。頭が可笑しくなったのかなと心配になりますが、必ずまた元の場所に戻ってくるのです。
 良く考えてみますとね、私は僧侶という立場があります。実はこれが大きいと思っている。昨日、また悔みができたという連絡を貰いました。家族の人が気がつかなかったようですがトイレの中で亡くなっていたというのです。
 話題としてどうかなと思いますが、人間の一生は実にいろいろでその最後も人それぞれです。実は職業や年齢に無関係に人は自分の死を体験する。ここに全ての原点があると思いますね。
 何故こんな事を書いているかと言えば理由があるのです。昨日水戸で会議があり、県社協に立ち寄りました。そこで『いばらきの福祉活動』第6号を頂戴しました。巻頭言を頼まれたのが大分前だったのですが、私の書いた文章が載っていました。その題名が『原点回帰』というものでした。なんでまたこんな文章を書いたのか恥ずかしくなった。
 何度も読み返しました。時間のズレはどうしようもなくもう訂正はできません。でも、私の底流にいつもあるのが原点に帰ろうということなのです。
 世の中の全てがそうですよ。領土問題だってそうでしょう。中国との一連のトラブルは歴史学者の判断が大きいという話を伺いました。いつの時点に遡るかという事、この一点が正当性の可否根拠です。また、検察庁の事件も当にそうです。本来の使命に戻れ!という鉄杭でしょう。彼らはその世界ではエリートでしょうが、人間としては幼稚です。果たして自らの過を正直に認めますか?多分彼らにも言い分があると思う。なんで俺達だけが罪を被らなければならぬのかってね。
 その時の気持ちは後悔と報復ではないでしょうか。自分が描いた人生が脆くも崩れることを認め難いという心境になるはずです。そして自棄のヤンパチ、全て暴露してやる!ってことになるのではないのかな?
 これだって本人にとればあの時ああやっていなければという反省です。反省とは自らの行いをかえりみること。
 こうやって偉い授業料を払って人としての道を学んでいくものでしょうね。50歩100歩って事ですよ。

1599:一国依存?

レアアース(rare earth elements)とは”希土類元素”というそうです。単体を言うのではなしに土壌に含まれる非常に希な元素の総称です。電気自動車のバッテリーには欠かせない資源とかで日本はその輸入の90%を中国に依存しているんです。今回、尖閣諸島の問題で中国は一時その輸出をストップさせたわけで偉い騒ぎとなっていますね。一国依存のリスクでしょうね。関係が悪くなった時にどうしようもない。しかし、地球上のレアアースの埋蔵国は別に中国だけではない。米国やカザフスタンなどにも相当量あると言われています。脱中国をしないと足元を見られ振り回されてしまう。
 今朝のニュースでモンゴルとレアアースの採掘契約を菅さんが結ぶとか・・・大いにやって欲しい。相撲だけの交流ではなく、お互いの利になる関係作りも必要です。民間は既に中国以外の国との採掘契約をしているという。それと民間では一年分の備蓄があるとも。
 二〇世紀は石油による経済格差が突出した時代、三〇年前に給油で立ち寄ったドバイ空港、昔は砂漠の中に飛行場だけがあったような記憶しかない。今や最先端の高層ビルが林立する近代都市、これだって石油の恩恵そのものでしょう。
 石油に代わる資源開発が進んでいる。いずれもこの地球上に存在するもので、また新たな争奪攻防が起こるのだろう。地球の歴史は”破壊と建設”の繰り返しである。スズメバチの巣作りは一匹の女王蜂が卵を産む為のもの、働きバチが巣作りの材料を集め、何層にもなった巣を作る。これが不思議なものである時期が来ると全てが飛びだってしまい蛻の殻になる。また来年同じ巣を利用するかと思うとそれはしない。新たな巣作りを始めるのだ。
 人間だけが誰かが作ったものを奪い取って自分のものにしてしまったり自分だけが良い思いをしたいと考える。これは昆虫社会には起こり得ぬ。最近よく話題になる植物や動物の絶滅種、これを保存しようとする活動もあるが、ほんの一部の人間が行っているだけ。
 鉱物は物言わぬ。取り尽くされた鉱山が廃坑となりそのまま放置されている。
チリで採掘作業員が穴に取り残され必死の救出作業が今も行われている。相当深く掘り下げたもので、いま救出を待つ人達はどんな気持ちでいるのだろう。
 経済繁栄の陰の部分は、深刻の度が増している。誰しもが問題を感じながら実際に何が自分で出来るかが分からない。手を貸さないならば黙って見ていて欲しいのだが、逆に足を引っ張るような輩もいるから困ったものだ。
 『入所施設は障害者の終の住処』と成り得るか!いつの世になっても結論の見えない議論である。
 100%の満足は有り得ない。どこに眼をやり、何を救いとするかは様々だ。一方的に決めつけることはしないで欲しい。
 余地を残しておいて欲しい。引き返すこと、やり直すこと。その保障があってこそホンネの議論ができるのではないでしょうか。
 語弊を覚悟で言わせていただくと、今まで価値を認めて貰えなかった元素が急に脚光を浴びている。ここに何かを感じます。
 障害者問題の底流には、どうしても支援するとかお世話になるという関係が生まれる。障害の程度やお金が絡むから本来の人としての価値観がボヤケテしまう。障害を持つor有るどちらでも私は構わないと思うのだが、関係者の中に言葉尻を取り上げ大騒ぎする者がいる。それが本質?
 要は何をするかという主体的な関わりが一番重要なことなのに。一国依存の話がどこでこうなっちゃたのか?
 

1600:我先に

年に二度ほど地域の集まりがあります。今回は”十人講”(じゅうにんこう)というものでした。私は久しぶりに出席、利右衛門(蕎麦屋)にて行いました。集合時間の四十分ほど前に其々が道路に落ちているゴミを拾いながら集まるのです。
 全部で21軒、特に重要な話題はなく、程無く宴会になりました。
 男性が7割以上で全員が50歳を過ぎたもので、とりとめも無い雑談で過ごすのですが、徐々にゴルフの話でグループが出来ました。やらない人は蚊帳の外、多分また始まったと思っているかもしれません。その場で予約を取り2カ月後の日程を決めました。
 小さい頃から知っている人達ですが、その当時の話だけでは長続きしません。仕事の話だってそうです。結局は旅行とかゴルフの話が共通する話題になってしまう。自然の成り行きです。私もゴルフは嫌いではないので、メンバーに入れて貰いました。昔ほど地域の人達が集まって行う行事は無くなりました。お嫁さんなどは地域に溶け込むのに苦労するようです。先輩がその辺の配慮をしないと交流が薄れてしまうのはあっと言う間です。
 こうやって皆さん年を取ってきました。私は寺の住職というちょっと異質な存在、でもこれを意識すると駄目なんですね。
”福ちゃん”と声掛けられるとホッとする。そんな一時を過ごしました。
 私の住む地域は市街地から然程離れておらず新しい住宅も大分できました。決して過疎地域ではなく人口も僅かずつ増えています。新旧の住民の交流は難しいのですが、何かの機会があって知り合いになった人達も沢山います。
 そんな時、スムーズに溶け込めるタイプの人がいるのが分かります。我先にというタイプは駄目、旧態依然とした地域では尚更です。敬遠されるのが落ちです。
 私は名前は知らないのですが毎日お寺の脇の道を犬を連れて散歩される人を見かけます。良く見ていると犬を連れている人達がすれ違う時に親しそうに話しているのに気付きます。
 これもまた良いものです。長閑な一時ですね。
 実を言えば、私なりに注意していることがあります。この辺は自然が残っている長閑な地域です。そこに尚恵学園が建っています。その地域にお邪魔ではなく受け入れてもらえるにはどうしたら良いか?私の最大且つ唯一の仕事がこれでしょうね。
 何しろ利用されている人の殆どが地域出身の方では無く、県内各地から来ています。それと職員もそうですね。いろいろな所から通勤しています。彼らが地域と関わる機会は限られている。そこなんですね。
 栗のシーズンになりました。枝の剪定作業や下刈りの手伝いの仕事もあります。盆踊りや尚恵祭などの行事への参加、・・・これで充分だとは思っていませんが無理はいけない。負担になっては続きません。この辺の良い塩梅の舵取りが難しい。
 私が制度の福祉からの脱皮を考えた一番の理由がここにあります。ノーマライゼーションとかインテグレーションとか業界の人が良く使う横文字、全く井の中の蛙となっていませんか!地域との関係がなくて一方的なお願いをしても受け入れては貰えない。この現状を知らない人達が他国の制度の良い所取りをする。継ぎ接ぎ制度でしょう。
 日本人が昔から行って来た”結”(ゆい)がもう無くなってしまった。そんな地域で関係(障害者が街で暮らす)を築くことは並大抵の努力ではできません。自己満足の実践例はいくらでも有りますよ。尚恵学園も七か所のGHを持っています。
 建物の善し悪しはあるでしょうがやっている内容は50歩100歩ではないのでしょうか!
 本当はこの関係を築く過程(中身)が重要なのに、上辺だけの制度作りを今もしている。国の推進会議の公開されている議事録からはその辺の微妙な遣り取りは読めませんが、穿った見方をすれば、自己主張のオンパレードではないのでしょうか?
 なにせお互いに探り合いで心底から信頼しあっていませんから、相手の非をどうやって見つけ出そうかとしていないのかなー?
 制度だけでは個々の実態に合わせることは不可能、むしろ横並びの同質の仕組みを強要することに成りかねない。ここに大いなる疑問をもっているわけでして、我先に予算を取ろうとする活動はこの辺でいい加減に止めないといけないんですよ。
 その一番の理由が社会福祉法人の見直し論議でしょう。官民格差と全く同根の問題が福祉の世界にも有るわけでして一般の人達がその実態を知るようになってきた。いくら頭の良い人が理論武装してもですね、実体が洩れてしまう。
ですから ここに真摯に向き合わないと足元から崩れ落ちるという事なんですね。福祉には”我先”と”奢り”は致命傷となりますから。これホント。

1601:身を任す

感情の昇沈は如何ともし難し。そして一定では無い。この世の日暮れはあの世の夜明けとは良く言ったものである。
誰しもが避けて通れない自らの老いと死を我々凡人はどう受け止めれば良いのだろう?
某高僧の話、「私達は仏心の中に生きている。一瞬といえども仏心から離れる事はない。死は仏心の世界に帰ることだ。」と。さてと、この『仏心』をどう捉えるかが問題で、仏教で言う宇宙(森羅万象)に満ち満ちているもので永遠に続くものであると言う。
 今、生死をさまよう全ての人がよもや自分がこのような病気に罹るとはと思ったに違いない。何故と何度問い続けた事だろう。無情にも現実は変わらず徐々に自分に課せられた運命と受け入れていかざるを得ない。この心の葛藤は凄まじく、周りの者がどのような慰め励ましの言葉を掛けたとしても効は無い。
 しかし、心落ち着け考えてみれば誰しもがいずれ同じ経験をせざるを得ないと気付く。逝くもの残るもの、別れを告げる勇気は並大抵のことではない。ふと振り返ってみた。私は僧侶になってもう1000人近い人達の見送りを行って来た。
 正直、遺族の人達がどう私を見ているか想像できない。深く追求しても意味は無い。精一杯お経を読むことでしか私にはできないことである。
 人間は幾つになっても希望をいだく。実現可能なことも有ればより不安を駆り立てるものもある。この世の別れは永遠の別れと思いたくは無い。しかし、それを保証するものは何一つない。唯一あるとすれば、”信仰”ではないのか。何の宗教でも構わない。頭でどのように考えても結論は出ない。そこに身を任せることしかない。
 一心に念じることで雑念を除く、実際は不可能な事だと誰しも思っている。でも必要なものではないのか!
 日本人の奥床しさと言えば適切な表現では無いと思われるかもしれない。宗教を堂々と公言することを恥じらう人が多い。しかし、見えないように合掌をした経験は誰でもある。何に向かって手を合わせるか、それは一様ではないのだが当人にとっては大切なものへの合掌である。
 それを先の老師が言った『仏心』と考えてみれば身近に感じないだろうか。
 そして仏心とは、はるか遠くにあるのではなしに本当に身近にあると気付く。ちっぽけな幸せとか喜びに実は本当の安心があるんだと思う。
 仏教は欲望を減ずる教えと言う。自分が未だ体験しなかったこうありたいという絵を描き続け、少しでもそれに近づけるようにもがく自分とそれを否定する自分の両面を持つ。
 それと寂しさや悲しみを癒すより具体的な術は、死によって無くなることがない霊魂への信仰だ。釈迦は死後の世界を問われ、それに答えていないと言う。何故?これが実は仏教を信仰する原点となっている。
 後々、様々な解釈や教えが起こったそもそもの原因がそこに有る。人間の究極の問いは死生観である。
”無”や”空”という字で表す世界は際限無き広がりを持つ。寿命の長短に関係なく、その人がその人らしい生き様を残すことが唯一の生きた証であり、価値であることは間違いない。
 

1602:好き嫌い

”アイツはどうも虫が食わん!嫌いだ。”と公言を憚らない者がいる。本人の気持ちを察するに積もり積もった不満が抑え切れず意に反し出てしまうのかもしれない。ただ、言われた相手は偉い迷惑だ。日本語の綾として全く逆の言い回しもある。”嫌いだ”=”好きだ”という構図も有り得る。特に相手が無関心な時に大袈裟に言えばこっちを向いてくれるんじゃーないかという含みもあって。
 これは良く子供に現れることでお母さんを独占したい時にダダをこねお母さんを困らせ関心を向けさせるなど。
 幼時期を思い起こせば誰だって思い当る節はあるはずである。最近は高齢者介護の問題が取り沙汰される。独居生活者が増える中で人間関係が狭まり、話相手が身近にいない老人が増えた。様々な福祉サービスが街の中に増え利用される方も多くなった。そんな事業所で良く話題になる好かれるお年寄りと嫌われるお年寄りがハッキリしてきたこと。
 人間は一人では生きられぬ。いつになっても身近に誰かに居て貰いたいものだ。お節介ではなしに相槌を打ってくれる人である。
 介護ロボットの研究が進む中で近い将来、話すロボットとの会話でお茶にするなんて事が起こるかもしれない。想像するだけでも虚しい。それから地域に溜り場が減った。家庭においてもそれと同様の事が進んでいる。
 人との付き合いが苦手と言う人も多い。だからITやゲームに興じる者が断然増えている。
 生の直接の関わりが減ってきた証拠だ。その状況が世の中の全てのことに伝播している。
検察庁の失態は別として、罪を認めるか否かという時に俺は知らぬ、誰かがやったことだと言うものが多い。知らぬ存ぜぬで押し通そうとする。これで通る世の中になれば国の形は保てない。そこは明確にしてもらいたい。
 名古屋市の議会リコール署名が短期間で46万人集まったという。予定より10万人も多い方が署名した。あそこは河村市長のキャラクターが突出している。最近よく言われる議会可視化の先進地だろう。全国には地方テレビで議会中継をずっと流している所もでてきた。しかし、全く迫力に欠ける。約束した公約をやるのに何が悪いという市長の言い分は彼の名古屋弁と相まって臨場感に満ちている。議会の雰囲気がまるで違う。真剣勝負である。少なくとも市民が政治に関心を持つ重要な条件がここにある。
 関心があって信用が生まれる。信用が無ければトップがいくら変わってもソッポを向かれるものだ。
 疑ってかかる事はイマイチしたくは無い。これ本心です。先日、土浦の花火大会が行われた。主催者発表では80万人の過去最高の人出があったという。実に不思議なのだが、どうやって数を計算したのだろうか?大体だよ、前年と比べての勘だ。そこまで勘繰りしなさんな!
 実に曖昧な根拠、主催者にとっては多くの人出がイベント成功の重要な要素、しかし、一般の人にはどうってことない事だ。別に私は不満があるわけではない。斯様に曖昧さの上に物事が成り立っていると言いたいのである。
 職場の活性化も私にとっては大いに関心があるところ、何を持って良否を判断するか、これも又曖昧である。もうじき始まる全国障害者スポーツ大会(千葉)今回は私は参加しないが、選手団を組んで参加する時に一番気になる事は纏まりである。参加者とは殆どが初対面、5日間一緒に生活しながら様々な事を経験する。どうなっても構わないと思えば気楽だがそうはいかない。県の代表というプライドを持つから尚更である。涙あり笑いありの大会で多くの人に経験して頂きたい。小欲知足ではないが時に”大欲”も必要なのではなかろうか。
 『大欲』とはいかなるものか?理趣経十七清浄句に書かれている。大欲とは清浄にして、、世の汚泥に染まらず理想とする姿である。これもまた好き嫌いの構図と似ているものかもしれない。
 
 

1603:彼岸花

土手に咲く
♪”あてにならない約束をひたすら待ち続け そう今でも
     言葉にならない優しさをひたむきに追いかける・・・・”♪
 彼岸花はユリ科の多年草、別名、曼珠沙華とも言う。山口百恵さんが歌って大ヒットした宇崎竜童・阿木耀子夫妻による『曼珠沙華』
 今年は猛暑で秋の彼岸に咲く花が遅くなり、今頃になって漸く満開になっている。この花は葉が見当たらない、まっすぐに伸びた茎に花を付ける。地の中に根が残っているから毎年おなじ場所で咲く。
あてにならない公約をひたすら待ち続け そう今でも 言葉にならないイラダチをひたすら我慢する・・・そう今でも・
 百恵ちゃんは全く表に出なくなった超アイドルのお手本のような方。彼女は実に歌が上手かった。政情不安、先行き不透明。いやいや困ったものですよ。地方でも様々な動きが活発になっている。正直、もう我慢の限界ということなんだろうね。人間引き際が大切、もう良いよ。御苦労さま。ゆっくりしたら、後は任せてさ。と言いたくなる人も実に多いね。
 その一人が私かもしれない。はい、お疲れ!じゃーね。バイバイ。
 こんな状況に早くなればと最近は夢に見る始末。だからといって責任逃れをするつもりはない。これホント。
 環境整備でもやるかと思っている。
 さーて、こうしてはおれません。朝一番で草刈りやってくっからよ。小休止 。
・・・いま寺に戻った。
 Kさんがホースを取りだし考えている。いつもある場所に私の車がない。遠くから私はどうするのかそっと眺めていた。すると、彼は道路に水を掛け始めた。これまた埃がたつという状況では無い。取りだした水道ホースの納め具合が分からなくなったようだ。
 ”いつも すまないな!ありがとさん”と声掛けると彼は”オッ”と返事して気不味そうな顔をした。
 秋の早朝、うっすらと汗をかき、何か清々しい思いになりました。
♪ あてにならない水かけをひたすら努めて そう今でも
    言葉にならない喜びをさりげなく伝えたい そう今でも・・・・♪

1604:運を貯金!

荀子に「遇と不遇とは時なり」と書かれてある事を知った。その意味は順風満帆で全てが上手く進むこと「遇」、何をやっても思うようにいかないこと「不遇」と言い、その両方とも『時』を得るかどうかであると言う。
 荀子(注:wikipedia)は「善」を「治」、「悪」を「乱」と規定し・・・・・人間の本性は「限度のない欲望」だという前提にたち、各人がそれぞれ無限の欲望を満たそうとすれば、奪い合い・殺し合いが生まれ社会は乱に陥ると説いた。(性悪説)
 それを防ぐために外的な規範(礼)を学ぶことが重要でそれでしか実現できないという。
 いま、冷静に成れと言うのが難しいのかもしれない。全ての情報を遮断し、体力の復元を待たないと次なる一歩が踏み出せない。そのように感じている人が多いのではないだろうか。端的に言えば「何がなんだかわからない」状態が蔓延してしまった。 その一例が検事が検事を裁くという前代未聞の事件、起訴された検事側は徹底的に抗戦する構え、最高検が描いた「ストーリー」通りにはいかないとまで言ったという。もしそれが本当ならば、なんでアンタに言われなきゃーならんのよと言いたい。
 検察庁にも希な事件だと信じたい。多くの検事さんは法にのっとり正義の味方であって欲しいと懇願する。仏教では現代を末法の世といったが当にそれが現実になりつつあるのではないか。釈尊入滅後56億7千万年の後に下生して衆生済度すると言う弥勒菩薩を待つしかないのだろうか。この未来仏信仰は実に先見性がある、昔より斯様な信仰が続いているという事は此岸で起こる全ての現象を言い当てているとしか思えない。
 憂う時は憂いよ。そうしなければ自ら身を引く人達が無くならない。自死の数が一向に減らない国はどこかが間違っている。そう思いませんか?
 「不遇」の人への励ましの言葉、いつしか必ず「遇」の時がおとずれるから、それまで運を貯金して置きましょうよという何とも切ない励ましに頼る。
 自分が還暦の年になり、節目を感じている。いつまでもこんな事をやっていて良いのかという自問自答がある。
昨晩の通夜で私を送ってくれたタクシーの運ちゃん、お喋り好き、大きなマスクをしていたから「花粉症?」と私が聞いたのが切っ掛け。そうじゃない風邪を引いたという。それも有明コロシアムでの楽天テニス観戦で風邪を引いたという。テニスとゴルフが趣味だと話を始め、その後止まらなかった。55歳で自衛隊を退職してからの運転稼業、子どもは其々が自立して悠々自適な生活を楽しんでいる。話に無理がなく素直に聞けた。高校時代山岳部に所属、南アルプスをこよなく愛したと言った。この辺は私と共通、しかし、私に話をさせてくれなかった。
 何が幸せかと言えば、身近な小さな幸せを幸せと感じられるか否かだと思った。
話題を変えますね、すみません。
 国会が開催中、昨日代表質問をテレビで見ていた。何とも歯痒い思いをした。座席は当選回数順でベテランは後ろになる。話題の中心の方の席は最後列で4つ並ぶ、当人は必ず途中でいなくなる。これって許されることなの?それと脇の3人、大体寝ていたように見えた。これってルール違反じゃないの?検察の可視化を討議する以前に私は議員席の可視化が先ではないかと思いました。高い視聴率が望めないのか放送時間帯のせいか分からないが、国営放送だけの中継だ。どこかの民放で議席中継アナウサーを付けて中継をしないかなー。
「いま眠っていたようですが」とか「どこに言っていたのですかトイレですか」とか、いくらかは関心が出るんじゃないだろうかね。小学生に授業中は席から出て歩いては行けませんと言えないではないか!
 質問と答弁が原稿の棒読みでは緊張感が全く感じられない。
政治に携わる先生達に「礼」が無くなっていくら御立派な話をされてもですね、駄目なんですよ。なんでそんな事が分からんのかね。
 まー待て待て そんなに粋がらんでも良いじゃないか、運を貯金して置きなさい。いっぱい貯まっからよ。

1605:感じる

”33間堂の1001体の仏様の前で涙が止まらなくなったんです。”NHKラジオ深夜便での廣瀬さん(仏像ナビゲーター)の話だった。まだお歳は30歳とお若いのに何故仏像に惹かれたんだろう?その事が番組を聞いていて分かった。涙脆い私も涙が止まらなくなった。
 彼女の話で心に残ったことが二つあった。一つは「仏様は鑑賞するんじゃなくて感じて欲しい」ということ、良く言われる最近の仏像ブームに対して違和感を感じると言った。ブームという事は一過性のもの、そうじゃなくて聖徳太子の時代から仏像ブームはずっと日本にはあった。多くの人が仏像と対面することで救われ大切に守ってきたから今があると話された。
 もう一つは、彼女の人生、大好きだったお父さんを若い時に亡くし、働きながら大学に通った。その選んだ大学は上智大学にある仏教美術、英語が共通言語での授業、「施無畏」(せむい)という仏様の手の形(印)をこのように学んだという。「don"t be afraid」(畏れない)英語に仏教を表す専門用語はない。仏教を論じる時に頭で理解しようとしていないか?形とか作られた年代の特徴とか。
 そうじゃなくて感じることが一番と言った、大いに自分自身を反省した。
 確かに仏様は何もおっしゃらない。そこにいつもおられる。私は寺に生まれ、小さな時からその事を不思議には思わず育った。600年もの長き時代をずっと見てきたわけで、今の時代が特別ああだこうだとは言わない。その姿を我々がどう感じるか!
 実は昨日こんな事があった。
 葬儀が終わって帰ってくる。疲れたので少し横になろうとしたら、けたたましい声が聞こえてきた。急いで声のする方に行くと、一人の女の子が大騒ぎ、男子職員が両手を抑えて外にたっていた。手を離すとモノにあたり蹴飛ばそうとする。必死に抑えている。傍によって理由を聞いた。彼女はちょっとした変化に対応できなくてパニックを起こすという。それも突然。
 その騒ぎの中で他のメンバーさん達も不安定になった。その時、作業をしていた男子のメンバーさんが転倒し頭を切った。看護師を呼ぶが丁度、他のメンバーへの処置を行っていて直ぐに来れない。出血は止まった。早速通院ということに、だが、彼は傷口を縫った糸を自分で抜いてしまうという。
 この状況は決して毎日起こっているわけではない。ただ、何かの切っ掛けで全てが狂いだす。その原因が予測できないから厄介だ。どこの施設の現場も似たようなものだ。それに対し一方的な批判をする人が目立つ時代。そのような人間に私は言いたい事はいくらでもある。
 我々が心がけている事は決して力では抑えないこと。でも危険を感じた時にはそんな事はいっていられない。
最近、急に利用希望する人が増えている。良くその方の状況を承知していないうちに取りあえず受けようという事になっている。緊急避難的役割。
この状態では家庭でみるのは大変だろうなという感じもするが、他のメンバーのことを考えると複雑だ。
 今の時代特徴をあげれば、刺激が多過ぎるということだ。大袈裟な報道と興味を煽る内容、これでもかこれでどうしたという連続攻撃に晒される。
 逆に何もしないことが貴重な時代とも言える。
  *廣瀬さんは奈良国立博物館に勤務されている。もうじき正倉院展が開かれるという。

1606:子猫

猫騒動! またもやどこの誰だか知らないが子猫を捨てていった。可哀そうに街灯の下に置いていかれた子猫それも2匹。小さな体を一杯つかって泣いている。それを見かねた尚恵学園の仲間が学園に連れて行く。いつもこうなっちゃう。
 1匹の方は竹藪に逃げて見つからず、1匹だけを連れて行った。すったもんだ有った末、1匹では可哀そうということになり、夜になってから連れていったネコも元居た場所に連れて来られた。迷惑なのはこっちのほう、そこまでは気が廻らない。
 1匹戻せば逃げたネコも戻ってくるだろうという。結果、見事その読みが当たった。朝、2匹で泣いているのを発見、今度は寺の中に入れた。良く見ると可愛い。でも片方のネコはエサを食べない。・・・・結果、エサを買ってきてスプーンで食べさせたら食べ始めた。一瞬、ホッとする。
 結局、その日の晩は大雨注意報が出るほどの雨となった。あの時1匹だけを残しておいたら多分死んでしまったかもしれない。
そう考えるとあの時の判断はGoodということに。
 結果、・・・・またもや里親探しをすることになった。1匹は職員が引き受けてくれた。しかし、もう1匹が現在私の所で預かっている。
 実は私の家にはハナがいる。彼女が昨夜からどうも落ち着かない。早く、里親を見つけないとお互いの為に良くは無い。
大分前に成るが兎を置いて行かれた。何故そんな事をするのか。腹が立つ。ワニとか蛇とは違うからまだ良いのかもしれない。
 多分、置いていく人も後ろ髪を引かれる思いだったに違いない。お寺ならどうにかしてくれると思ったのかも。
でもねー困っちゃうんですね。
続報
 子猫の様子でありますが、どうも右目が眼ヤニでくっ付いてしまって見えにくいようです。テッシュをお湯で濡らし、拭いてやると眼があけるようになり動きが良くなりました。そしたら、右足がちょっと変かな。ビッコを引いています。食欲は出ています。最初はスプーンで口元にもっていかないと食べてくれませんでしたが、皿に入れたものを食べるようになった。こんな変化を見せています。
 もう一方のハナが不安定で、一緒に到底できない。ネコ社会も人間社会も同じだということを感じています。
2010/10/11Am7:00

1607:無事を祈る

チリの炭鉱での落磐事故が発生して33人の方が救出を待っている。地下700メートルの避難場所に全員が避難している。そして御存じのように3本の救出用の縦穴を掘り、そのうちの一本が貫通した。13日にも救出作業が始まる見通し、全員が無事救出されることを祈るのみ。
 報道によれば様々な善意の品々が寄せられ世界中の人々の関心の大きさが伺える。その中で2つのニュースが心に残っている。33人の人達が救出される順番で自分は最後で良いという人が出ているという。いち早く外に出たいと願うものだろうが自分は最後で良いと言う。この時、瞬時に仏教の言葉が浮かんだ。『自未得度先度他』(じみとくどせんどた)=「自らは未だ得ていなくとも、まず先に他に得させてあげる」(大乗涅槃経)という利他行の最高の境地であった。
 チリはキリスト教の国、宗教に関係なく人間のこころは究極の状況になった時、自分のことよりも相手を思いやる気持ちがあると分かった。
 それからもう一つは、掘削作業をしている方の話、詳しくは知らないが彼はアフガンなど中東での戦地で軍務にあたってきたという。救出坑の作業が人の為になっているという実感を感じていると語っている。
 世界中至る所まで一気にニュースが流れる時代となり、大部分の人はその報道から情報を得ている。だから、報道の仕方によっては情報操作されたりすれば間違った知識と成り得る。戦争中ならいざ知らず、現代においてすらそのような操作がなされている。これもまた現実である。
 最近の動きを見ていると正直何が正しいのかという判断に悩む事が多い。何を信じて行けば良いのかという根幹の事が揺らいでいる。一体どうしてなのか?
 特に日本の現状は、基本的に”奢り”があると私は思っている。いま秋葉原に行けば異様な状況を目にする。バスで大勢で乗り込んできて、電気製品をまとめ買いする人達、特に目立つのは中国の人達。この状況を怪訝な顔をしてみている日本人。良く考えてみれば、嘗ての日本人が団体でパリやロンドンの一流店でブランド品を買いあさった姿に似ている。全員が全員ではない、報道が大袈裟に取り上げるから先入観として持ってしまうのだ。
 先日、質流れの品々の即売会があった。有るわ有るわこんなにも質に預けられた品物が、購入した時の価格との差は凄いと思う。これもまた好景気時代の馬鹿げた話だが、ゴルフ場の会員権、私の知り合いでこんな方がいた。3000万円で購入した会員券がゴルフ場が潰れ、外資系の会社に経営が譲渡されて会員券が紙切れとなった。今時、3000万円という金額は土浦周辺なら100坪の土地付き新築住宅で充分お釣りがくる。
 投機買いの例で儲かった話は皆無、冷静に考えれば分かる事だ。儲かると思えが何も他人に売らずに自分で買うだろう。皮肉な言い方を許して頂ければ、前記の仏教語を『自らは未だ損をしていなくとも、まず先に他に損をさせてあげる』という悲しむべき現実である。これを商売の心得とまで堂々と掲げたものもいた。その時に痛い目にあった人も多かったはず、でも時と共に忘れてしまった。
 13日にも救出が始まるという。世界中の人達が彼らの無事を祈っている。
 

1608:訂正報道

大騒ぎするには、どこかが抜けている。検察審議会でのお粗末な出来ごと、2回目の審議員の平均年齢が30歳ちょっと。これがミスだったと33歳何がしかに訂正した。年齢のことをトヤカク言う人はいない。多分いないだろう。それを後日、実は37才の方を1名入れていなかったので訂正しますとなった。
 問題はここにある。あれだけ世間を騒がした元幹事長への決議発表、1回目は全員が起訴すべしという結果になったと報道し、実数まで公表すべきでないとのクレームがあったのかどうか、今回は賛否の明らかな実数は出さなかった。その分、平均年齢なんてものをワザワザ公表、それが事務局の計算ミスとかで翌日になって訂正報道のオマケつき。公式発表する前にチェックする機能が働かない。なんという醜態をみせたものか!たかが11人の審査員の平均年齢を計算するのにミスがあったとはお粗末そのもので呆れた。
 国の最高機関での醜態の連鎖、其れに対し重箱の隅をつつくような報道にも自粛が必要かもしれない。しかし、あんまりだわな。
そうそうお前だって何も目くじらたてて言う事もないだろう.さり気無い振舞はできんのかい。(自問自答)
 どうも秋晴れが続かない。どんよりした曇り空では気分は晴れない。何かスッキリすることはないかな。
 この気分の落ち込みは私だけではないと思いますね。何か変だと思ってはいるが、さてどうすれば良いかが分からない。腰に大判シップでへっぴり腰。一気に年を取った。
 予算委員会が始り、私はなるべく見る事にしている。政府への弱腰批判に対し、”柳腰”と交わしたまでは良かったが、その後の審議が何ともいただけない。何か腫れものに障るような答弁で筋が通らない話が多過ぎます。これではな外国から見捨てられませんかね。自党内の意見も纏まらず、国としての方向を出せない状況はさらに深刻さを増すだろう。
 お隣の大国とは全く反対の実態が見える。
 最大の弱点は一貫性がないことだろう。その場凌ぎが多過ぎて、いつ変更になるかも分からない。先行き不透明とは良く言ったもので、曇り空の真昼間にサングラスをかけて外出したような感じだ。
 選挙に勝つ事が目的化してしまった政治は、使命感が薄れ、自己満足だけの末路を歩む。
 
自分自身の事は棚上げし相も変わらず評論家気取り、でも私は堂々と批判を受けますよ。いま、密かに練っている事がある。ちっぽけな夢である。
 周囲の雑音に振り回されず、淡々とした日々の生活へ向かうんだ。着込んでしまった服をぬきながら身軽になって。
唯一、それがあるからやっていられる。
 誰にも迷惑をかけず、好きなコーヒーを飲みながら、季節を肌で感じるそんな生き方を。

1609:言行録

”one's saying and doing"”His deeds correspond exactly with his words"英和辞書を引くと分かり易い。
 言行一致という徳目は、人としての道で一番難しい事だと思う。表に現れる行いと心の中を一致させるという。真言密教では身口意の三密行として、最高の実践行と考える。これが実に大変だ。何故難しいのかと言うと言わずもがなでしょうが、言っている事・やっている事・思っている事が一致しないからである。
 この3つの行いで何を優先させるか、思いか行いか?実はそれを問わない。
今朝はいつもより早起きした。いま私のPC机の下を子猫が泣きながら徘徊している。うるさくて集中しない。まだ生まれて1カ月はたっていないだろう。可哀そうに2匹一緒に捨てられそのうちの1匹だ。間違いなしに本能だと思うのだが、このネコが排泄する時に砂を入れた箱で用をたす。そして前足で砂を被せる仕草をする。親に教わったことではないはずなのに凄いでしょう。
 でも最近のネコは大分変わった。市販のエサでメタボ気味、なにせ鼠がいない。もし、どこかで鼠と鉢合せにでもなれば、真っ先にネコが逃げる。
 人間にとっても、生育の環境は後々大いに影響する。これは紛れもない真実だ。昨夜は93歳のお婆ちゃんの通夜があった。旦那さんを早く亡くし(55年前)、女手ひとつで二人の子供さんを育てあげた。最後は元気にデイセンターから帰ってきて、その2時間後に自室で息を引き取ったという。そのお婆ちゃんの御苦労は並大抵の事では無かったはず。でも決して弱音を吐かず明るく振る舞ってきたお婆ちゃんならでの最後だったと思う。その息子さんは事業を起こし立派に成功している。昨夜は大勢の弔問客があり、喪主の人柄を感じた。
 商売で成功した人々の言行録を何冊か読んだ。共通するものがある。それは、その人が生きてきた支えとなる何かを持っているという事。
座右の銘と言えば、何か嘘っぽく感じてしまうのだが、決して言葉では言いつくせない何かを持っている。
 その言いつくせない部分を行動や思いでカバーする。互恵関係?なんの事?
この言葉がやたら語られ始めたのは中国との関係で戦略的互恵関係などというからである。難しくしないで分かり易く言えば”お互い様”でしょう。
 果たして誰が信用できるのかな・・・。与野党逆転するとあんなに変わるもんだろうか?全く迫力に欠けて防戦一方。

 いま頭を痛めている難しいケースがあって、昨日その方と話をした。生育歴は今更動かしようがない。家族の温もりや喜びをタイムスリップさせ後付けで経験してもらうわけにもいかない。明らかに愛情不足という状況が話しの節々に見えてくる。周囲の人を信用できない。自分を偽ってどうにか生きてきた。自暴自棄になった時にそれを受け止めてくれる存在がいない。指示的で自分の至らなさを注意してくれる人はいる。そんな大人に有り難いと本心から思わない、全てが全て同じに聞こえるという。
 この先自分がどうなるかが見えないことへの大きな不安、二進も三進も行かない状況に自分を追い詰める。
 人間は何をもって自分以外の相手を信用するのだろう。生きて行く事は決して楽ではない。
そんな時に自分を優しく見守ってくれる人がいるといないとでは偉い違いだ。果たしてその役を我々ができるだろうか。
糸賀先生が54歳で倒れ、我々に遺してくれた教え、『福祉とは社会という集団の中でひとりひとりの「幸福な人生」を言う。 単なる総量を言うのではなく個人の福祉を保障する姿を指す・・・・・』この言葉に尽きる。

1610:かまえなし

ああ・・随分とかまえちゃったなー そんなに身構えてどうすんの?
 肩の力を抜いてもっとユッタリと。ああ言えばこう言う。参議院での予算委員会を聞いていてそう思いました。多分質問者にはプレッシャーが働いていたと思う。政府を追い詰めるだけの材料と迫力にイマイチ疑問があがっていたようだし、大分自民党も若返りをはかり、自党内の出来栄えチェックが厳しい。官房長官が柳のようにしなやかで強かに外交すると言ったものだから、これだとばかりに噛みついた。広辞苑ではこう書かれているとかいう話も出る始末。言葉の挙げ足を取る戦法も聞いている者にとっては聊か不愉快だ。何か論点が噛み合わない。
 それに対して迫力があって説得力充分な話。日本と正反対の国で起こった落磐事故、地下700メートルからの救出作戦。自分は一番最後で良いと言ったリーダーの話、救出された時に祝福の手を差し伸べた大統領に冷静に伝えた。
「もう二度とこのような事故がないようにして下さい。」このメッセージを聞いて世界中の人々が感動したと思う。
 彼は早く父親を亡くし、6人兄弟の長男として母親を助け弟達の面倒を見てきたという。彼の体に染みついているんだな。自分の事はさて置いても他の人達を先ず安全な処に移すことが・・・・・・。
 60日間以上の避難生活で33人を纏めた力は凄い。限られた食糧を2日に一回と決め、その量も本当に僅か、それから見張り番も付けたという。また落磐が起こるかもしれないからだった。
 この地球上では今も武器を持たない市民が銃弾の犠牲になり命を落としている。この醜い争いが果たしてどのような感動を他に与えるというのだろう。そこには憎しみと報復の繰り返しだけが残る。引き返せない袋小路に入っている。
 日本だってそうだ。日本人全体がイケイケドンドンに疲れている。豊かさという檜舞台でライトを浴びる夢を追い続けている。そこで失ったモノが実に多い。その最たるものは人を信じるということだ。表と裏を巧みに使い分ける。いずれ化けの皮が剥がれるのに、自らの利にしがみ付く。黙ってやっていりゃー目立たないのに、ワザワザ”福祉”とか”国民”のためと言うから可笑しくなる。多分、心中穏やかでなく休む暇もないだろう。悲しいことである。
 この自省はし過ぎる事は無い。それにはどうするか!小さなよろこびを探しあてることだと思う。心が温まるような些細な出来ごとに目を向けよう。「ありがとう」と心底から言える事に価値を見出そう。
 日本の教育で問題なのは、モノづくり教育の偏りが大きいと言うこと、その反面でこころづくりがスッポリ置き忘れてしまった。学校だけではない。寧ろ家庭の役割として最も大切な教育が忘れ去られている。
 億ションとかセレブという言葉が成功者の証という国は、絶対に長続きしない。それはルールを押し曲げても獲得しようとする輩が必ず現れるからだ。
 私は成功者としての証を求めるだけの人生は間違っていると思う。そうじゃなくて”生きた証”だと思うんです。日本のトップ企業で創業者が築いた会社を引き継いだ者達が守っていくことは実に難しいことが分かる。会社の規模や売上ではなく、社会貢献という視点からみた査定が必要だ。世界の人口が60億人を優に超えるまで増えたにもかかわらず、日本など先進国と言われる国は人口減少が止まらない。この実態が何を意味するか、良く考えれば分かることである。
 少子化対策と言う掛け声が虚しく響く。それには家族を持つ事の喜びが無ければ無理な話で幼保一元化に代表する受け皿だけの問題では決してない。
 明らかに日本は縮小社会への道を進んでいる。経済的にも人の数にしてもだ。しかし、それが決してマイナスの事だけでは無いと思えば良い。此処に来て目立たなくなった事業仕分け、無駄を省けと粋がって行った。それは日本という国内の問題、外国から見れば自業自得と見られる。余裕があるから無駄が出るという見方もある。
 人間は順風な時には感じないことが逆境に陥ったときに気付くことが実に多い。それは当に痛みを伴うからだ。
”かまえなし”とは言ったものの、前途は一筋縄ではいかない。分かってんのかいな!