源究110

 

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1711 還暦万歳 2/5 1716 個の尊さ 2/11 1721 目覚めよ 2/17 1726 うねり 2/23
1712 将来像 2/6 1717 願わくば 2/12 1722 やってみようよ 2/18 1727 災害 2/24
1713 揺らぎ 2/7 1718 歩み続ける 2/13 1723 大切な事 2/19 1728 こんな風に 2/25
1714 丹心 2/8 1719 託す 2/15 1724 共生 2/20 1729 なんで? 2/26
1715 日本の力 2/10 1720 恥じを知れ 2/16 1725 抵抗力 2/22 1730 気付く 2/27

1711:還暦万歳

”還暦”は数え歳61歳の称。60年で再び生まれた年の千支に還る。本卦還(ほんけがえり)とも言う。十二支が五巡するわけだ。別に当人は特別何も変わらないのだが、いざその年を迎えると何か変わらないとまずいと思うようだ。昭和25年か26年の早生まれのものが丁度還暦となる。私は25年に生まれた。思い起こせば小学生時代が一番楽しかったかもしれない。
 学校には集団で登校、もちろん歩いた。途中、寄り道をしながら、あまり遅刻もせず間にあったのだから、先輩がその辺は上手く調整してくれたのだろう。
 椎の実や桑の実は絶好のオヤツ、口の周りを紫色にしているから直ぐに分かる、スカンポなどもしゃぶって美味しかった。小川の水を飲んでも腹を壊した記憶はない。あれから50年以上が経つ。随分変わったものだ。家が沢山建ち人口も増えた。そして、昔遊んだ場所がもう無くなった。便利な時代になったもので、近所に行くにも歩くことは稀になり、車を使う。何しろ買い物しようと思っても近くに店がなく、当時は土浦までバスでいくより仕方が無かった。
 いま、そのバスが廃止になり、土浦に出るには自家用車かJRを利用するしかない。昔なら何でも揃う街だった土浦は、今では目抜き通りに店が並んでいるが買い物客がいない。郊外に新しくできたショッピングセンターに人が皆移ってしまった。
 たった50年と見るかもう50年と考えるか、人それぞれ。当時親しかった仲間は体を壊したり遠くに行ったりして寂しいものだ。
 本卦還りというのだから、また何時の日にか巡ってくるのだろうか?時が経つのは早い。正月気分でいたかと思っていたらもう如月になった。ゆっくり腰を据えていないとあっという間に歳老いる。
 幾つになっても”夢”を持ち続けたい。希望と言えば聞こえは良いが前向きな人生だわな。昨日は厳しかった寒さが少し緩んだ。不思議なもので、そうすると歩きたくなる。小1時間ほどダンベルを持って夜歩いた。すると2キロほどのダンベルが自棄に重く感じた。坂を登ると息切れした。やっとのことで家に辿りつくと今度は膝が痛んだ。
 ああ。。先輩たちの独り言が今やっと分かる。
 先日、小宴を開く。その時、私はもっと職員を誉めたほうが良いとアドバイスを受けた。そんな風に思われているとは知らなかった。多分、そうなんだろう。幾つか思い当ることもある。
 それと計画倒れが目立つ。四国の遍路まだ私の分担の半分も終わっていない。これは4月までにどうしてもやり遂げないと。還暦万歳! 若いもんにゃー負けてなどいられるかってーんだーよ。

1712:将来像

将来像という言葉を英語で表せば、image in days to comeということになるのだろうか?昨日BSで面白い番組をやっていました。葉千明東海大教授や竹中平蔵氏や堺屋太一氏など論客が出演していた。
 そこで出てきた話をメモにした。「自助自立」「好老文化」「公務員を身分から職業へ」「・・・・」など、つまり日本がどの方向に舵を切れば良いのかという討論番組だった。その中でも葉教授の現代中国への論評が面白かった。彼は天安門事件当時を例に出しながら、マスコミに登場する今の中国へ持論を展開。歯切れが良く、分かり易く聴けた。
 私は総じて評論家へのイメージは良くない。何せ彼らは自己責任を取らず、言いたい放題だからだ。もう一人光ったのは作家の堺屋太一氏の意見だった。ご存知のように彼は元官僚で作家になった。江戸幕末の作品を多く著し、歴史から学べと力説する。
 日本の”将来像”をどう描くか?ハッキリできない政治への苛立ちを一先ず置いておき、自分なりに考えているのはこうだ。もう大分以前から言われ続けてきたのは「自助自立受益者負担」のアメリカ型社会か「高負担高福祉」の北欧型社会かという二者択一の議論、これはどうも見ていて日本には合わない気がする。「自助自立」は竹中氏の専売特許?。私が障害福祉に長いことドップリ浸かってしまったからかもしれない。障害者の自立ですら、明確な定義が出せない日本。何か言葉だけが一人歩きしているようにずっと感じてきた。それと、「公務員改革」という動きと根っ子の部分では同じ問題が孕んでいる。公務員が身分になってしまったという事自体が可笑しな姿だ。もしも公務員が職業でなく、身分保障という括りで考えるとなると本末転倒の議論となる。
 障害者の身分保障を優先すべき時代の流れに対し、もし実態がそうであるならば相当遅れをとったものである。
 それと日本があまりにも他と比べ過ぎていないか。順番など正直どうでも良かろうと私は思うのだ。GDPで言えば二位の座を中国に奪われたと騒ぐ、人口規模が全く異なる国と比較してどうのこうの言うのも可笑しなもの。
 堺屋氏が日本のランクを項目ごとに評価していた。A~Dの四段階でCが多く、発信力や楽しさはD評価だった。
 つまり、老後を喜びとして考えられない状況、負担の重さばかりが強調され、若者がそれを背負っていかなければならないから大変だと宣伝する。これでは生きる楽しさが生まれるわけがない。発信力の低さは確かだ。外交問題を見れば一目瞭然、常に控え目に自らの国の主張をしてきた。これは敗戦がトラウマになってしまったのだろうか?実際には国民の大部分が先の大戦の経験が無い。戦争の惨劇を二度と繰り返してはならない。でも、国防に対する議論をあまりにも秘密裏に行ってきたのではないだろうか?永久中立を宣言したスイスがいまどうなっているか?その辺の議論が見えてこない。経済だけが自助自立で国防はアメリカ一辺倒という主張も何か妙な感じがする。国防議論をタブー視することがタブーだ。
 坊主の私が言うのも変だが、長生きしたお年寄りが家族に気兼ねしながら生きる世の中は良くない。嘗て寺の重要な役割として人々の集会所的な存在であった。今では法事や葬儀の時にしか訪れない。
 先ず、私がやるべき事はその辺の事をどうするかということだ。temple in days to come,・・・・を・ingで考えていくしかない。

1713:揺らぎ

北アフリカのチェニジアに起こった改革の嵐、長年続いた強権と独裁の政権が崩壊した。失業率13%という数字以上に国内格差が拡大、国民の不満が一気に爆発した。その後、エジプトなどに改革が連鎖、不穏な状況を呈している。世界を見回してみて、果たして平和で安心できる国は存在するのでしょうか?
 日本に目をやれば、もはや新興国の熱気は感じられず、目標を見失って旧態依然とした過去の栄光?にしがみ付く姿が至る所に見受けられる。ムチと飴の政策、日本は過去の失敗から表だったムチを使わずに目くらましの飴政策を取り過ぎた。これも財源が枯渇して言葉に出す事すらできない。企業は国への信頼が持てないためか、シコタマ内部留保金を積み上げる。不況というのに前年比較で80%以上の蓄えを増やしたという意味は何か。
 ささやかな我々福祉事業所も同様の動きが加速している。できる限り内部留保を多く貯めておこうと考える。これだって国の方向が定まらず揺らいでいるのが一番の原因だ。最悪の場合、自主財源で事業を継続しなければならなくなるということまで考える。そうなった時には自然淘汰され、生き残る所は限られると思う。それが果たして大規模な事業所か否か分からない。
 最近ニュースに取り上げられた新日鉄と住金の経営統合、茨城には鹿嶋に住金の大きな工場があるから関心が高い。
 統合されれば世界第2位の鉄鋼生産を誇る企業となる。この業界の再編は外国との競争に生き残るための動きだ。
 多業種での吸収合併が世界中至る所で起こっている。これは今や例外はない。
 国の体を成すには、経済力だけでは如何ともしがたい。国防力の確たる裏付けが無ければ、これだって過去の日本で疑う者はいなかった。寺の過去帳に記された昭和20年前後の数は突出している。住職がメモしたものを読めば一目瞭然、外地で戦死した事が記されて残る。この経験が平和を願い国の経済復興を成し得た原動力だった。戦後65年の時間は長かった。いま、細々と続けられている戦没者慰霊や遺骨収集に僅かに伺う事ができる。それすら取り止める自治体が増えた。
 いつの時代にも、法律や制度を悪用する輩はいる。社会福祉法人を取り巻く状況も昔とは偉い違いだ。福祉を金もうけの手段と考える人間が増えている。これは国のとった政策に少なからず起因する。既成緩和を進めた事を別に悪くは思わない。しかし、日本がどの方向で福祉(社会保障)を進めて行くかという明確な結論が無いままに、どっち付かず政策を取ってきたツケが今出ている。
 冷静に見て、福祉業界に対する一般人の眼は冷めている。そう思いませんか?自分の事業所の玄関先に高級車を駐車して何も感じない経営者、世間の人はそれをなんとみるか!福祉で金もうけしていい気なもんだ!と見ているのです。
 何故なんだ?言わずもがなでしょう。福祉を支える原資は税金だ。
 先ず、経営責任者がその事を肝に銘じないといけない。それでいて働く者に充分な給与を払わない。
 事の大小はあるが、アフリカで起こっている改革の嵐と同根だ。
 普段何も無い時には、表面化しない。しかし、有事には一気に爆発する。その覚悟が出来ていれば構わない。当然のこととして行政は経営陣の総入れ替えか他の事業所への併合を決定する。そうせざるを得ないからだ。
 いま、福祉法人の置かれた立場は微妙だ。大相撲の不祥事が何故根絶しないか。JALの経営体質がどうして時代遅れだったのか。私はそこに同じ潮流をみる。
 多くの公金を受けて事業を行っているという基本を忘れたこと。働く者の身分保障が最優先しサービスの本質からズレてしまった実態、プロ意識の欠如。
 全く、我々社会福祉法人にそのまま言葉を返せる。サービスの中身を問われて果たしてどれだけの関係者が応えられるか?できない言い分けに終始していないか。法人内の自浄努力は勿論、責任を取る潔さが一番望まれていると私は思っています。

1714:丹心

何やらややこしい時代を迎えました。TPPとか騒いでおりますが、どんな意味?やれ加入すればどうだこうだ賛否両論実に難解だ。日本語ではTPPを「環太平洋パートナーシップ協定」というらしく、何でも貿易での関税が絡んでいる協定のようです。お隣の韓国などは積極的に加盟し輸出を伸ばしているとか、メリットデメリット両方あるようで、特に日本の場合は農業への影響が大きいと反対する。これは将来の屋台骨を揺るがすという危機感があって、大きな反響を巻き起こしている。さも有りなん。農業でも特に米農家への打撃が深刻だという。農業者戸別所得補償という仕組みを現政府は提案している。差額補償というよりも現行では全国全ての農家に10アールあたり1万5千円の助成を一律に行うという。これも申請を受け付けたら初期の予想を大幅に上回る農家からの申請が有った。果たして、この政策が輸入関税を減らした時の外国米と競争できる対応策か?米60キロで日本は1万4千円、アメリカ米は3千円強というから焼け石に水とならないか?
 農業の大規模化は国内だけを見てもハードルが高い。何せカリフォルニアやオーストラリアの規模は比較にならない。
日本の1戸平均が1.6ヘクタールとか聞いたが、オーストラリアはそれが3000ヘクタール以上という。
 付加価値のある産物を作るというが、人手不足と担い手の高齢化という問題もあって一筋縄ではいかない。
 先の政権が普天間の基地移転で顰蹙をかった。退陣を余儀なくされ、元首相と元幹事長が現政権への批判を繰り返しているという構図がある。これで本当に継続性のある施策がはかれるのでありましょうか?最近は改革には時間が必要だという理屈を言われる。株価も徐々に上がっているとも。でもね!先のリーマンショックの時に市場に投入した?兆円というお金はどこに行ってしまったのでしょうね。新興国に全て吸い取られてしまったのでしょうか?それとも大企業が内部留保しているのでしょうか?
 いずれにしても大きな地殻変動が起こる事は間違いない。名古屋の今回の選挙結果は既成政党にNOを突き付けたものである。河村さんは元民主党、大村さんは元自民党、その二人が政党が推薦した候補者に3倍の差をつけ当選した。
 日本全国にその流れは生まれている。国民は馬鹿では無い。生活感が無い代議士がいくら飴をチラつかせてもいつもでも騙されない。今の国会議員は職業化してしまった。一人の議員に公費が掛かり過ぎる。だから政治とカネという過去の遺物を今も引きずっているのだ。いつまでたっても国政レベルではその改革をしようとしないから地方で煙があがった。国民全てが名古屋の動向を見守っている。減税して果たしてうまく行くのかどうか?実行性の無い机上の空論に辟易しているのだ。政治は結果を出さないと評価はない。これが宿命だ。
 いま国会に何が欠けているか、それは一言で言うと”丹心”である。どうしても議員が真面目に討論していると思えないのだ。テレビ向けのパフォーマンスとしか取れない。あれで議会が終わればどうなのよ?
 丹心=真心である。もし、それが一人一人の議員に有るとすれば保身に血眼になるより自らの身をきれいにすべきだ。
疑いがかけられれば如何なる理由があろうとも説明する責任はある。その気骨が今の政治家には感じない。影でこそこそというイメージが強過ぎる。それで公開で行うべしとか立派なことは言うがチャンチャラおかしい。
 丹心が無き人間はいずれ自ら掘った墓穴に入る。それが昔からのお決まりの事であります。
 親鸞の悪人正機説は丹心無くして理解はできまい。

1715:日本の力

”卑下も自慢のうち”という言葉もある。自らをへりくだること、これは昔から尊ばれてきた身の処し方である。日本の力がどんどん下がっていると言うが本当にそうだろうか?視点を変えてみればどうでしょうね。何を基準にそのように決めつけるのか分からない。むしろ大切なことは有りの儘を受け入れる懐具合ではなかろうか。
 車を例にとればわかる。一家に1台という時代は過去のこと、今では一人1台という家庭が増えた。皆が皆、自家用車を持つようになり、公共交通を利用する人が減り路線を廃止。特に田舎では急速にその変化が表れた。そこで不便を訴える人は高齢者か未成年という車の運転ができない人達、それと日本中至る所に中古車の販売所が見られる。新車と見分けがきかない車が中古車として売られている。その数や半端な数ではない。ここにだって物が溢れている状況をみる。
 住宅を見れば、日本では30年程で建替えを考える人がいるという。それだけの材料で作っているのかと言えば、日本の耐震基準は世界一とも聞いた。何も文化財になる建物に住めというのではないが、余りにも建替えが早い。
 つい最近やっとある道路が完成、利用可能となった。工事を始めて20年はたったのではなかろうか。高速のインターまで非常に便利になった。水田の真ん中を道路が走る。この道路作りに八郷に通ずるトンネル工事の石が使われた。もし、これが無かったら、多分どこかの空き地に積み上げられていたに違いない。
 無駄と考えるか否かは分からない。有効活用というものを考えずともできた時代ではなくなり、リサイクルして再利用することの価値が見直されている。この技術も日本は進んでいる。確かに手間がかかるのは事実、昨日、ある会合があって、そこでこんな話が出た。中国とどう付き合うかという事で低賃金で人がつかえる時代はそれほど長くは続かないと言われた。少し前までは日本と中国の賃金の格差は20対1だったそうだが、今では5対1に縮小したという。今も現地の日本企業で処遇改善のストライキが止まらない。もしも、生産拠点を中国に移したメリットが無くなれば、その時どうするか。
 技術は確実に進歩している。墓石の出来具合を見れば直ぐに分かる。これだって当然のことだ。精密な機械を持ち込み、技術指導を行ってきたから。
 これだってある意味では日本の力である。そのことに何ら疑問を感じない日本人が多くなり過ぎた嫌いはある。
 水は低い処に流れる。13億という人口の全ての腹を満たすには、彼らは大変な努力をするに違いない。その時、メタボ気味の日本がどう付き合うか?
 国技である大相撲の八百長問題、これは心の問題だけではない。ある線を境に、無給か月給100万かという実態は目を疑う。相撲道だから覚悟の上で片付けて良いものか。
 いやはや、考えれば考える程ヤヤコシイ。
日本の力は歴史が示している。・・・・・が、少し立つ位置を変えてみてみることも必要な時代に今生きている。

1716;個の尊さ

NHKアーカイブに残されている番組で『宗教の時間・・・仏教の源流・・・』中村元先生の10回にわたるDVDが発売された(聞き手:奈良康明氏)。日本放送出版の限定版で出された。平成3年の収録だからもう20年が経っている。中村先生の凄さは、原稿を見ずに湯水の如く話がすすむこと、西洋からインドそして中国から日本の思想・哲学へとその造詣の深さは天下一品。仏教や哲学を分かり易く語りかける。いま正直このDVDに凝っている。
 PCからも見る事ができる。しかし、自宅のテレビは操作が複雑で画面が出せない。イライラ。何か、現代のあらゆるミスマッチとダブる。つまり、無駄というのではなく、使い切れていないのだ。故に無駄となる。
 ”je pense, donc je suis "我思う。故に我ありというデカルトの話もさり気なく出てくる。つまり、人生を思い悩む自分がいて、仏教の無常感や死生観に触れ、自分なりの回答を見出そうとする。これ自体が自分が存在する証明だというのだ。
分かったような分からないような話。
 そして、個の中に宇宙の広がりを見て、最終的には自分は大いなるものから守られ生かされていると感じる。
 この思いが今の社会にはスッポリ無くなった。人間が生きるという事の意味と個の尊厳を解せずして、社会保障・年金・福祉・・・など様々な言葉が氾濫し終始がつかない状況になっている。そうなった原因は何か?
 疑いのない理由の一つに、労役を伴わずして富を得る人達の出現だ。そして、なんの痛みも感ぜずに金を使い、自分の利となることを行う。メデアはその誇らしげな姿を取り上げ、英雄or成功者として祭り上げる。そうかと思えば急転直下、悪役とされて罪を処断する。この変わり目に着いていけない。
 嘗て、学校の校庭には必ずあった二宮尊徳の像など今は無し。何故、尊徳は背に薪を背負って本を読んでいるのか。子どもたちは学校で一体何を学ぶ?
最近学校現場で管理者を目指す教師が減っていると聞いた。校長や教頭になりたがらない。それもなんとなく頷ける。教育の世界と全く同様の姿を福祉の実践現場にも見る。私がこの世界に入った40年前には、理想とする人が一人や二人はいたものである。糸賀先生や田村先生・池田先生達に憧れた。いずれの先人達も確たる信念と実践があった。そして共通する個を大切にするという生き方。いま、その息吹を感じない。
 いかに政治家を使って、真水を我が田に引き入れるか・・・。これは大変危険な前兆である。破綻した家で金目の物を探しだす税務署とダブる。仏も神も無い。福祉業界がここまで枝別れし何でも有りの状況に至っては、正直、手の施しようが無いと私は思っている。
 日本人は福祉の仕組みを北欧やアメリカから学ぶということだけで果たして良いのか?我々が目指す方向がそこにあるのか?
 地球の人類の歴史からみて、現代は通過点でしかない。いつの時代であっても人間は幸せを求め、悩み苦しんできた。国の破滅や為政者の交代は頻繁に行われ、それでも尚、人々はその思いを諦めなかった。
 身近な出来事に一喜一憂し、何が一番大切かを問い続けてきた歴史。
 言葉では全てを表す事はできない。いま国レベルで検討されている障害者制度の見直しも、全ての人が満足できるものは有り得ない。とするならば、そのことに振り回されることよりもやるべき事があると思う。

1717:願わくば

利用者さんのお父さんの葬儀に参列しました。時間が遅くなり、既に読経が始まっていた。今日はMさんは学園で留守番かな?周りを見回すが見当たらない。焼香になり、Mさんがいるのに気がついた。彼女は車イスに乗り、後ろを押してもらって兄弟と一緒に焼香に向かった。彼女は両手を合わせて焼香した。
 お父さんは86歳、園とは大分長い付き合いとなった。
 その翌日だった。関東地方に雪が降った。
親子の違う姿を見る機会があった。昨夜、大粒の雪が降る中、私は3人で食事に出かけた。いつも立ち寄る近所の蕎麦屋さん。7時という時間帯のためもあって、席は結構埋まっていた。予約席もあって、私たちは足が伸ばせる席に座る。 食事しながらの話が盛り上がってきた頃だった。予約席(畳)の方から子供たちが出たり入ったりが増え、終いには追いかけっこを始めた。他のお客さんが食事をしているのにお構いなし。後で解った。3家族が食事に来ていたようだった。子どもたちは飽きてしまったようだ、障子を開け閉め板の間でスライデングするものも出てきた。他のお客も気になり始める。それとアルバイトの店員さんもどうして良いのか困っている様子。
 私たちも帰る事にした。その時、子どもたちが私の前を走り去った。「君たち ここでは 他のお客さんもいるんだから あまり騒いじゃー駄目だよ」と私は言ってやった。私はここで止めておけば良いらしい。しかし、私の性分はもう一押ししたくなる。食事しながら会話に夢中の親達6人に向かって「駄目だろう。少しは自分の子供を注意したらどうなの!」と多少強めの口調で言った。父親だと思う。「すみません。」と言ったが、顔ではうるせー爺さんだなという感じに取れた。
 もし、本当にそう思うならば子どもたちに注意しても良い。母親たちも何いってんのこの人?という感じ。
 日本人のモラルの欠如は、”余計なお世話”が迷惑に思われる頃からだと私は思っている。
 皮肉というのか、私たち3人何を話していたと思います?一人はドイツから一時帰国したYさん、彼が一生懸命に話してくれたのが、ドイツでは障害者を地域でみるようになっている・・・云々という内容だった。
 蕎麦屋での出来事は、当に今の日本の実状を良く示している。他人への迷惑に配慮しない親子、自由を履き違えて、自分達さえ楽しめればそれで良し。
 いま、障害者が地域で生活できるように法の改正を練っている、本当にできるのですか?
 確か、頭に『願わくば』が付くのかもしれないな。一事が万事そうだもの。日本の現状を贔屓目に見ても、多くの問題がどこから手を付けて良いのか分からない。特に、子どもの教育で一番深刻なのは、親子の絆が薄れたこと。多くの親達が我が子を叱れないという。それでいて学校への要求はエスカレートするばかり。日本人の感性で最も劣化が激しいものに、”耐えること”をあげたい。
 尚恵学園のHP上で就職1年目のスタッフを紹介しました。彼らが一様に言っている。「利用者さん達の笑顔を見て勇気をもらった」と。これは何故だろうと考えました。
 彼らが自分の歩んできた道と利用者さん達を比べ感じたことだと思う。自分だったら”笑顔”の前に”不満”をいっただろうと。利用者の皆さんの笑顔が語るものは実に重い。その重みに正直挫けそうだ。
 願わくば、一切を忘れ、南海の海辺で昼寝したい。そうやって老後は過ごしたい。これ正直な気持ち。
 でもなー!最初の話、父親の遺影に向かって合掌したMさんの姿がそうはさせじと前に立ちはだかるんだよな。

1718:歩み続ける

中村元先生のDVD「こころの時代」仏教の源を語る。全6巻を全て見終えた。先生は既に14年前に亡くなっている。島根県出身で東大で宇井伯壽先生に師事し、インド哲学や仏教思想に優れた業績を残された。
 奈良康明先生もその流れを引き継ぐ。私は電話にて2月8日にこのDVDが出されるからどうかという紹介を受け、即購入を決めた。
 今、私はラジオ深夜便に眠れぬ夜を助けて頂いているが、テレビのこころの時代は余り見た事が無かった。時間帯が違うからだろう。
 『悟り』という事の解説で、なるほどと感心した。インドやヨーロッパの古い原典からの引用が多く、その原文をピンポイントで紹介しながら、分かり易く解説している。釈尊が出家(29歳)そこから6年の苦行の末、悟り(35歳)を開き、その後80歳で亡くなるまで教えを説き続けた。悟りを開いた後も様々な誘惑が釈尊に襲ってくる。。。。。。。。。話が回を重ねるにつれ本質に迫る。最後を締めくくる言葉は般若心経の「ギャーテイギャーテイ ハラギャーテイ ハラソ ギャーテイボージソワカ」だった。インドから中国に渡る際に漢訳で音訳してある部分は最も重要なところと言う。
 仏教は難解だと言われる。キリスト教の聖書と一番違うのは、具体的な譬えが無く、漢文という現代人にとって馴染みの無いお経が多いからだと言われる。中村先生は具体的な話を原典から説明されている。
 修証一如や事教不二という言葉が示す、修行と悟りは一体であると説く。悟りを得たからOKではなくing進行形であると。つまり歩み続けることが本体であり、これは洋の東西を問わず同じ思想を持つという。『人間は努力する限り、迷うものだ』と言ったゲーテ、信仰に完成無し。求め続けること事態が悟りであるという。そう考えると日本の祖師達が説いた、只管打座や念仏往生もなるほどと頷ける。
 仏教の源流を辿れば、そこに見えてくるものは人間の生き様。自省を含め、今の仏教が正統な教えから横道にそれた感がする。宗団の結束をはかると言う事に現を抜かし、信仰や信心を棚上げしてこなかったか。そのツケが事教の不一という態を曝け出す結果になった。本来の僧侶の役割、使命はなんぞや?
 混沌とした不透明な時代だからこそ宗教の果たす役割が見なおされるべき、分かり易い道標を示し生きやすい世の中への一助と成り得ているか。これこそがあらゆる宗教の現実の課題である。
 私流の勝手な思いだが、集団に流されることを避けたい。流れに竿を指す意味ではなく、歩み続けるとしても残された時間は決して多くはない。中国の老荘思想に惹かれるのも、余計な煩わしさから離れ本物に触れたいという一念からだ。
 多分、これは私だけでなく今の世で多くの人々が願っていることだと思う。
 ”歩み続ける”ことを自ら諦めてしまう人達の数が一向に減らない。毎年3万人以上の人々が自殺する国、これはどう考えても異常であって、その解決策を見いだせない現代の病理だと思う。仏教でその具体的な対応を行っているだろうか?即効薬は無い。「後生の大事」という教え、来世の安楽を願って修行に励むと言う譬えである、でも修行そのものが何か薄っぺらなものになっていないだろうかと思ってしまう。
 つまり、恐れずに言えば、宗教家以上に一般の人々の生活が厳しく、生きる支えを見いだせない状況がある。
 要は、釈尊の教えを身近に感じているのでは無く、我流の振る舞いが多過ぎやしないかという自問を。

1719:託す

物事を継続させるには、役職や業務を次なる人に上手く引き継いでいくことが重要だ。分かり切った事だが、実際には様々な思惑が絡み、スムーズにバトンタッチできるとは限らない。
 日本のトップ企業でさえ、いま、M&Aが進んでいるから非常に難しく、先が読めないという。トップの力量としてオールマイテイでバランス感覚のある人材が望まれようが、現実には探し出すのが難しい。
 案ずるより産むが易いという場合もあろうが、事の如何によっては失敗し倒産するケースだって起こり得る。
 現に任務の退任を決断する時には相当の覚悟と次なる者への信頼が欠かせまい。
 2月3月の時期は年度の切り替えで、あらゆる事業所において頭痛める案件だ。
 組織の底力や突破力は、マンネリ化してしまった組織からは生まれない。独創性や新鮮さで臨むことが必要だ。
 私自身、多くの役を今引き受けている。あまり重要でないものが殆どだから、いい加減にして全てお終いにしたいと思う。
 しかし、一気に放り出してしまうこともできず、悩んでいる。
 『今やりたい事は?』と聞かれれば、「何もしないこと」と答えます。
 手始めに今年は、寺関係の役は辞退しようと決めた。周りを見たら働き盛りの50歳前後の坊さん仲間が沢山いる。彼らに託すべきなのだ。保守的?で旧態依然とした宗教界にこそ新しい発想(息吹)を取り入れることが必要だ。50代と言えば一般企業では新旧交代の年代、それがその年代になりやっと活躍の場ができるという世界は決して褒められたものではあるまい。
 私流の拘りがあり、引き受けた以上は任期やるだけの事はやるべきと考えてしまう。その結果、様々な役を引き受け、二進も三進もできなくなってしまう。今日、その一つをお役御免にしてもらえた。これで少しは気が楽になったかな。
  ここにきて、目立つのは急に就職希望者が増えてきたこと。その大半が新卒者ではなく、何らかの仕事を今までやってきての転職組。家族があったりするから大変だろうと同情してしまう。雇う側からずれば、それがネックとなる。
 正直な話、僅かな時間会った位で相手を理解するはずが無い。必ず、体験実習を条件にする。その後、再度面接を行て決めることにしている。
 最初からやる気のない人は、その前に断ってくるから構わない。お互いに時間の無駄にはならない
 事業所として必要でない人間を採用することなど有り得ない。経費を苦労して節約し人手に当てる。パートであろうが常勤であろうが、期待をもって迎え入れる。
 ”後時を託す”という意味は、分かり安い例えでは駅伝競争のタスキ。これには日頃からの努力と信頼が条件となりましょう。
 大体、中途で退職していく場合は、寿退職や転勤組を除き、こんなはずでは無かったという類が大半だ。これは働く側、事業所双方に言えること。
 喜びと遣り甲斐は一緒では無い。遣り甲斐は自らの責任で喜びはその結果。ここを履き違えている人がいる。このタイプは自省する前に他人の所為にする。この類はどこで働いても結果は同じ。そんな棚からボタモチの職場など有り得ない。
 苦しい時こそ我が身を省みず頑張る人間、このタイプに魅力を感じる。託せる人間は、必ずやこの魅力を兼ね備えている。
 

1720:恥を知れ!

民主党よ!恥を知れ。貴方たちは一体何をもって貴重な時間とカネを浪費しているのか!セクト主義を勝ち誇ったかのような態度、貴方たちの眼中に最早、有権者の真の叫びを聴く耳が無い。今回の小沢氏への執行部の判断、私は是とする。もしもだ、これによってサポーターを自称する輩が反旗を振るような真似をすれば、国民は黙っていない。
 いま、アフリカや中東で起こっている事態をどう考えているのか?貴方達に聞くのもバカバカしい。石油資源を中東に依存する日本は展開次第でどうなるか分からない。そのこと一つをとっても貴方たちの危機意識の欠如は相当なもの。平和ボケ、権力闘争にいつまで現をぬかしているのか。私は田舎坊主だが、どう考えてもおかしい。
 小沢チルドレンとかいう連中が名前さえわからず、バッジをつけいい気なもんで、地域の代表とは名ばかりの何をやっているのかサッパリわからない。これで、衆議院の300議席だと?いい加減に夢から覚めなさい。
 小沢氏の対応に私は不満がある。どれだけ力のある政治家か分からないが、彼が果たした業績は一体何があるのか。
 常に政治の表舞台にいたことは認めるが、それならば、この国の方向をどう導きできたというのか。
 人間、誰しも引き際がある。もう遅いと思うが、ここまできても延命をはかるのか。
 今回の民主党の動き如何では、国内は勿論世界から相手にされないことになるだろう。我慢の限界に達している。
 大義とは、何も分からない子供たちやお年寄りにもわかる筋道だ。嘗て日本にもその大義をもって事を成した人物は多くいた。
 私が好きな人物に、『疎にして野だが卑にあらず』の石田禮助がいる。彼には大義があった。その職を通し、日本の行く末を案じ、事を成した。私利私欲の欠片を感じない。これを大義と言うのだ。生き方の手本は二宮尊徳だ。豊かさにいつまでものうのうと浸ってきた日本の綻びが泥流となって流れ始めている。教育・医療・福祉・・・・全てが呑みこまれようとしているではないか。
 残念であるが、今の政治家が小物に成り下がったと思う。そして大物と言われる人間が”卑”に対する尺度を持ちえない。これが今の日本の不幸だ。
 小沢氏が万が一、政界に身を置くのであれば、今度こそ野人に徹し、たった一人で席を守ること。政党を壊し、そうかと思えば新たな党を作る。その手法は今の時代に全く合わない。
 人間には授かった器というものが有る。仏教で言う処の四弘誓願が2500年の歴史を経た今の世にあっても何故に五星煌々としているのか。
 衆生無辺誓願度
 煩悩無尽誓願断
 法門無量誓願学
 仏道無上誓願成
これは言うまでも無く他から学ぶことではない。自らが生き様を通じて体感していくことである。
*コメント*裁判で石川という議員の検察での事情聴取の信憑性が問題になるとか。私は聴取の場で密かに隠し録音する人間の感覚が分からない。公人としてあるまじき事だと思う。厚労省の女性局長の問題とは問題が違う。
 政治家というものと一介の勤め人とを比べることはできまい。

1721:目覚めよ!

「愚禿悲歎述懐」というものを知る。中村・奈良両先生によるNHK「仏教の源を語る」のDVDを毎日繰り返し見ている。その中に紹介された親鸞最晩年につくられた内面を正直に述懐したもの。
94) 浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
      虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし。
 この1篇を知った時、悪人正機を説いた親鸞に一歩近づいた思いになった。80年の人生を遮二無二仏道に生きてきた親鸞が正直に我が身を省みて、人間の煩悩を拭い去ることの難しさを吐露した。
 真言宗にも中興の祖である興教大師覚鎫による『密厳院発露懺悔文』というものがある。何故、中興かと言えば、堕落した僧侶宗団への嘆きと警鐘を記した。いつの世にも腐敗と邪悪横道はつきもの、何をもって是とするかは自らに正直に向き合い、内心と外相の違いを見究める日々の精進が要である。
 ひとへに賢善精進の相をほかに示して、中には虚仮をいだけるものか・・・・・と問い続ける。この教えにこそ、後々多くの人々の信心に繋がる因がある。
 目覚めよ!と自らを叱咤したところで所詮孤軍奮闘の域は出ない。
 人間は一人では生きられない。様々な人との関わりの中で生を全うする。その間、自らの痛い処をつくような視線や言葉を避けようとするか有り難いと感じるか?自己中心的な生き方を安易に望む人が多くなった現代において、相手の痛みを感じながらも進言してくれる人は稀である。人間が堕落する初期条件として、周囲に斯様な人間がいなくなる時だ。ゴマスリばかり周りに侍らせれば、結局自分自身を見失う。
 最近、私の身の周りに様々な事が起こった。痛い処をよくも見事に突いてくる。それに一瞬身構え自らを防衛しようとする自分を感じる。理想の完成は無いと誰かが言っていた。それに異を唱えるものではない。現状に甘んじたり、できない言い訳をいくら並べても仕方がない。一歩あゆみ出す気力と勇気を持て。それがここで言う”目覚めよ!”の意趣である。
 一つの例えである。「優しさ」という日本語の意味はなんだろう?
 相手の立場に立ち振る舞う。穏やかである。控え目。悪い影響を及ぼさない。。。。など。そこに「真の優しさ」という2語を加えると一瞬たじろぐ。「真の」と敢えて言わずとも素直に考えれば良いのだろうが、現実には表裏がある。それを虚仮というのだろう。
 親子の関係で一番難しいのは「優しさ」だと私は思っている。可愛い子には旅をさせろ。といった格言?それも実は本当に可愛い子であるならば苦労をさせ多くの経験をさせてやれという親心。その辺の意味がどうも可笑しくなっている。
 溺愛とか苦労を排除して親が満足する。
 昔と比べ、何が一番変わったかと言えば情報の量とスピード、知識が増えたように勘違いするのは、いま部厚い辞書を使わずにキイを打てば瞬時に答えが得られる。知識と智恵は違う。両者のトータルを同じと考えると極端に智恵の占める割合が減少した。
 智恵は人から聞いたことでは無しに自らが体験し得ることだ。我が60年の人生が他人の一言で脆くも崩れることなど有り得ない。。。。。。が、親鸞や覚鎫が晩年に述懐した言葉の意味は重さと共に勇気を与えてくれる。

1722:やってみようよ

日本人の気質というのでしょうか、結論を性急に出したがる傾向が目立ちます。そう言う私もそのタイプの人間であることに間違いありません。食事は早いし、寝るのも早いときています。だけれども、人間そう寝てばかりいられるもんじゃーありませんやね。夜中に起きだして、物思いに耽るわけで、これが私の至福の時間となっているわけです。
 相変わらず永田町では何をやっているのか、どうも理解できませんね。くっ付いたり離れたり、数合わせや踏み絵で忙しいようで、実に困ったものです。そんなら全員、バッジを外してからやれよと私しゃー言いたい。
 離党はしないで会派は離れる????何言ってんだーアンタ達。比例代表で当選して、偉そうな事いうんじゃーねーよな。離党する勇気がねーとハッキリ言えよ。国会の席が欲しいと言いなさい。ダダこねる子供だって分かるんだから。
 この辺が議員のレベルが下がったと私が言う根っ子よ。確かに頭は良さそうだし、スーツ姿も格好は良い。私みたいにズボン2ピースでニッキュウパなんて服じゃーねーかもね。
 外見じゃーねーだろう中身だよ中身。世の常識ってもんが分かんねー人達だ。全く。
 誰が選んだってか? 俺達よ。ニッポン国民が選んだんだ。。。。
 或る人が言っていた。政党分裂には機が熟し、新燃岳のようにマグマが爆発するまで待ちなさいと。
 民主党を分党しようという動きもあるようだし、構わねーよ。やったら良いでしょう。お好きなように。でも条件があっからよ。そん時は解散選挙だ。いつまでも身内のイス取りゲームの相手なんかしてられませんよ。こちとら忙しいんだから。政治家が暇なんだよ。そうだ。出勤日は少なく、何やってるんだかわかんねー。
国会中継をゴールデンタイムにやればいいんだ。夜の7時ごろから。
 どうです。これgood idea でしょう。やってみたら良いと思いますがね。
 国会議事堂は多分、小学生の遠足で行ったように記憶しているんですが、廊下が狭いのか人が多過ぎるのか、アメ横みたいにごった返し、あれは議員が多過ぎるんだわな。ホント半分で充分。不思議だね。他の事には結論を性急に求めるのに、議員定数減の話になると時間が止まったかのように遅々として進まない。それも全党一致だもんな!
 それから比例代表という仕組みだけどね。いい加減に止めたら!だってミエミエでしょうが、時の幹事長の最大の旨味でしょう。だからですよ、なんとかシンパとかいう連中は皆、比例区選出議員だから、順番取りだけに関心があるわけよ。。
有権者なんて二の次だもん。あれは早く止めにしたほうが良いよな。そう思っぺ?
 そうそう、初詣の屋台の場所取りだってルールがあっかんな。知ってっぺ?
 さて、こんな事ばっかり言ってるから俺も駄目なんだ。落ち込んじゃう。
 サラリーマン川柳
 第1位  仕分け人 妻に比べりゃ まだ甘い
 第2位  「先を読め」 言った先輩 リストラに            ウウウ・・・寒む。

1723:大切な事

こんな事を言ったら相手がなんと思うだろう?本当に自分がそう感じているのならば私は伝えるべきだと思う。万が一、ギクシャクした関係が生まれたとしてもだ。いずれ相手も分かってくれると信じることで、その場の気不味さは耐えよう。
 尚恵学園は小さな組織だが、一人一人の内面には、果てしない宇宙の広がりがある。福祉を一言で言えば私は”安心”だと思っている。利用者・家族・スタッフ・地域の人々・・・・其々が尚恵学園という結び目によってかかわり繋がっている。もしも地域が尚恵学園があることで不安を感じているようであれば無視するのではなく、どうしてそうなの?と尋ねることから始めねばなるまい。幸い先人が築いてくれた恩恵を我々は何の疑問も感ぜず当たり前と思って享受している。
 議論をしていくと何故理事長は周囲の事にそんなに神経を使うのか?と問われる。そんな時、ああ、、この人とは話しても分かり得ないと思う。
 それからスタッフには小姑のように工夫しろよ考えろよと会えば言ってきた。うるさい理事長だと思う人間に私は説明する気持ちになれない。
 壁を蹴破り、ガラスを割り、大声をあげる利用者の人達、「どうして こんな風にするのだろう?」と思いはするが、彼らを責めることはできない。
 例を挙げれば切りが無い。無数の疑問や思いが日替わりメニューの如く湧いてくる。
 実はこれが施設現場の実態だ。ある一瞬・一場面を取り上げ、さも偉そうに自慢する人もいるだろう。そんな所に限って皆が影で泣いている。
 思っている事や感じた事を正直に伝えて行くことが先ず最初に行われなければならない。その時は大変なショックがあったとしても。
 大切な事が、いまオブラートに包まれているように感じる。それと言っていることとやっている事のギャップ。これを埋める事は周囲でいくら努力してもできない。本人自身の責任だから。
 大切な事は、影で誹謗中傷することではなく、こうすればもっと良くなるという考えを述べ合うことだ。自分の名をあかさず匿名で批判するものが増えた。権利の主張は義務を果たすことと一体でなければなるまい。
 本来、義務を果たしているか否かは本人には分からない。気にくわない奴だとその者を排除して、何が変わったでしょうか!もしもだ立派な設備の事業所があったとする。そこで疑心暗鬼の病巣があれば、陰湿な攻防が止まない。利用者の為と言っても本当は自分の為。
 大切な事は、正々堂々と自分の想いを述べること。世間を騒がせた処で得する人は誰もいない。この常識が理解できない者は現世では多分、浮かばれまい。いつも不安が付きまとい、”安心”を得る事はできない。
 

1724:共生

今日の内部研修は家族会主催である。テーマは『共生』を現在帰国中の横井氏と私が対談。こう言えば格好は良いのだが、打ち合わせ無くぶっつけ本番だから、私が聞き役という役目を担う。尚恵学園は法人の基本理念に『共生』を掲げている。父より何故かその理由を直接聞いたことはない。聞いても教えてくれなかっただろう。だから陀羅尼(呪文)のように唱えていたというのが事実である。
 その共生について語る。ここに至るには前段があり、横井氏には去年職員にドイツの実状を話してもらった。今回は今日で3コマ目、1回目は5年未満経験の職員、2回目はそれ以上経験の職員、夜2時間程の話をしてもらった。そして今回の最終3回目は家族会の中で行う。一緒に考えて欲しいのだ。
 『共生』について私なりの理解はこうである。この言葉の起こりとしては浄土宗の僧、椎尾辨匡博士であり、仏教を現実の生活に生かす共生運動からきているということだ。丁度私の父が大正大学(元の宗教大学)の助手をしていた当時、椎尾先生が学長をされていた。椎尾先生は名古屋の円福寺に生まれ、東大に進まれた。後には衆議院議員になり芝増上寺法主になっている。私の父も名古屋の出身だから、ここに何かの縁を感じる。
椎尾先生提唱の共生で幾つかの主張がある。その中で目にとまった個所がある。
*私共は無量の光寿に摂せられて智目行足の精進を心とするもの、智愚も能不も帰一する積りでする。
 この主張は大正15年1月に発行されたもの。当時としてはどのように受け止められていたのかは知り得ない。但し、先生は旧制東海中学の校長として若き学徒に大いなる期待を寄せていた。
 その後、大正~昭和と激動の時代に日本が入っていく。
 私自身の福祉の師として尊敬しているのは、糸賀一雄先生。54歳という若さで亡くなった。先生の著作「福祉の思想」(NHKブックス)の問題の提起に記されている箇所も何度となく赤線を引いた。その部分を再度紹介しよう。
・・・・精神薄弱という名のもとに社会から疎外された子供たちが生きてきた。そのなかでも重症の心身障害という限界状態を示しながら生きてきた子どもたちの社会的な問題性がうかびあがっていた。私たちはその問題性をひしひしと肌に感じながら、この子どもたちとともに生活してきた。・・・・・・・・
 精神薄弱という現象が社会で問題となるのは何によってなのだろうか。こういう根源的な問いに誘われることによって、私たちは、社会の構造的な矛盾に目を向けさせられざるを得なかった。そしてその問題性は同時に人間の価値観に私たちをいざなうものでもあった。・・・・・(P10)
 この本の第1版は昭和43年である。今から40年以上前に、社会の矛盾と人間の価値観への疑問を障害の重い子どもたちから学んだという。40年とか50年という時の流れは、果たしてこの疑問に充分答えられてきただろうか?
 現代を象徴する様々な社会現象は、何をもって是とするかという尺度を見失った状況を示している。その最たる修羅場が国の政治の中枢でいま起こっている。真実味を微塵も感じない主張、同じ政党の中で繰り返されてきた権力闘争、それが政治の世界さと達観するには最早限度を超えている。潔さを微塵も感じない実力者(?)。
彼らに糸賀先生の垢を煎じて飲ませたい。ここまで堕落した政治につける薬はないとの確信に至った。

1725:抵抗力

誰しも周囲の変化や世の中の流れに敏感になっています。この先一体どうなるんだろう?考えれば考える程分からなくなるというのが正直な思いです。何かを大きく変えようとする時は、それを拒もうとする勢力からの抵抗が強まります。
 尚恵学園も世の流れの縮図だと言えましょう。今よりも悪くなることを望む人はいません。分かっています。しかし、どうでしょうか。組織が力を蓄え前向きな挑戦ができる下地はどこから生まれるのでしょう。
 職場にあっては適度な緊張感が不可欠、一番恐れるのは、やってもやらなくても変わらない状況です。具体的にはどういう事でしょうね。様々なマネージメント手法があります。我々の日常の業務は一時とも止まることがありません。
 その中で改革しようとするわけですから痛みが伴います。それと波もたちます。ここで基本になることは、問題意識の共有ですね。共有=理解=信頼。図式で示すことはいとも簡単にできます。しかし、現実にはどうでしょう。皆さんの施設や事業所でここが悩むことです。
 でも、これは避けられませんね。所詮人間は楽(らく)したいわけですよ。まっそうは問屋が卸さない訳で、苦労の代償として遣り甲斐や給与で妥協するってことになるわけです。
 となると、どこかで差別化するのは仕方が無い事になりませんか。
 日本がいま抱えている様々な問題や混乱原因の重要なポイントとして、格差ということがあるでしょうね。江戸時代ならば、士農工商という階級制度があったでしょう。地方においては殿様が頂点でピラミッド型の社会があった。もっと昔の話をすれば身分制度が雁字搦めになっていた。インドなんかその最たる国ですね。そこから様々な思想・宗教が誕生する。
 これだって格差への抵抗です。人間の歴史はずっとここから1歩たりとも出ませんでした。
現世でどれだけ頑張っても駄目ということから来世に望みを託したり大いなる者に身を任せることになった次第であります。
 そして、長寿社会とか言っても精々10年前後の時間差でしょう。あっという間に過ぎ去ってしまう時間ですよね。良く言われますが痴呆になったお年寄りが幼い時の記憶が自棄にハッキリしているという話も頷けます。所謂、成年期という時間は誰しもが無我夢中で過ごしたわけなんです。だからあまり思い出したく無い。これが真意だと思う。
 昨日、テレビで国会中継を見ていました。枝別れした政党間の政策の差が殆ど感じない。その中で政治とカネの問題をなんと3年もやっているとか。私としては少々気になることなんですが、名古屋の河村さんや大阪の橋下さんが今話題にあがっている人と手を組むとかという噂、私の性分では、これだけは止めて欲しいと思っている。少なくとも分かり易い政治を目指す地方の動きと中央の実力者(?)という方の手法は相容れないと思うからだ。もしもこうなると私たちは何を信じて表を投じるかがまた分からなくなります。余程その辺は慎重にしていただきたい。
 ささやかな抵抗勢力の私としては、それを願っているのです。

1726:うねり

北アフリカのチェニジアから始まった改革のうねり、瞬く間に近隣諸国に伝播した。長期政権の中で様々な問題が起こり、軍事や警察権力により不満を持つ民衆の蜂起を押さえつけてきた。脆くもその体制が崩れおちようとしている。
斯様な動きの中に時代を感じる。一方で先進国と言われる国々においても新たな改革のうねりが見え始めている。我々日本人は世界の動きに鈍感な人種なのだろうか?島国と言われていた時代は遠く過去の事ではないのか。
 今はネットでどこにいても世界の出来事を知ることができる。情報には海が障壁にならない。
 世界安定のバロメーターとして原油価格がある。ここ数カ月の価格の上昇は中東の産油国の政情不安が原因だ。政府は備蓄が充分あるから急激な石油不足にはならないと担当大臣がコメント、そしてニュージーランドで起こった地震が日本人の安否確認が出来ないとメデアは一斉に報道している。政府内に危機管理室があり、その対応で急に忙しくなっている。だが、報道は容赦ない。聞く人の心をどのようにでもできるから。
 民主党内での小沢さんへの対応、なんとも胸が鬱積して心が晴れない。ここまで世間を騒がせても、まだ党員として国民が必要とする限り頑張ると居座っている。
 民主党の議員全てに言いたい。貴方達が政権を担えたことが、小沢さんの力だと信じているとすれば有権者を甘く見過ぎている。彼がいなくともいずれ貴方達に政権が移ったと私は思っている。長く続いた自民党政治への幻滅と彼らへの愛の仕打ちだったことに間違いはない。
 国民が必要とするという彼の理屈は既に結果は出ているはずだ。彼は岩手のある地域からの選出、全国民が選んだわけでない。ここを履き違えている。
 予算審議がどうなるか不透明、もし予算が決まらなかった場合は、世界に恥をかく。そして、なんとも遣る瀬無いのが自党内での16人の行動だ。彼らは世に自分達の存在をアピールする方法を間違えている。貴方たちの地域で貴方たちを必要としていないことを認めた行動だ。必要なければバッジを外す、これが常識だろう。経団連会長の「給料ドロボー」発言に私は同感だ。
 大体、大物かどうか知らないが、常に取り巻き連中を引き連れて動き回る人物に真の大物はいない。孤高の人を演じても様にならない。
 目を転じれば、心穏やかなる風景がある。自然だけでなく庶民の生活に。四国徳島の遍路道に膨大な量のゴミが捨てられていて、ボランテアが人海戦術で掃除を行ったという。そのゴミの量が97tもあったという。これが今の日本を反映している、知られないなら何をしても構わないという風潮だ。
 お大師さまもさぞかし嘆き悲しんでいるに違いない。しかし、汚れを自分達の意思で手弁当で綺麗にしようとする人達がいる。もしもマスコミが取り上げなかったならば知らなかったニュースだ。彼らは真の善意から行ったわけで、別にニュースに取り上げてもらいたいとは思わない。
 おそらく主義信条の違いがあっても綺麗にしようということで集まった人達だ。
 今の政界には目立ち屋が多過ぎる。主義信条も違うクセに徒党を組む。それを追い回すメデアにも責任がある。この小さな出来事と国の中枢で行われている事のギャップは大き過ぎないか。正直、議員自身から改革はできない。保身と既得権に最大関心をもつ人達だから。となれば、有権者が目を覚まさねばなるまい。まだまだ他人事の人が多過ぎるという状況に変化は見られない。
 自らの 想いで歩む 遍路みち
  皆で 汚せば 怖くない。    その是非如何? 大いなる者がお見通し。

1727:災害

ニュージーランドで起こった地震により日本人には人気のある観光スポットのクライストチャーチが壊滅的な被害を受けた。まだ行方不明の方達の一刻も早い救出を祈ります。私はニュージーランドに行った事はない。北と南という地球の反対にある島国、緑が多く自然豊かで人口は約420万というから国全体で千葉県の人口より少ない。
 マグニチュード6.3という規模からして被害が大きくなった理由は震源地が浅く直下型だったということによるという。
災害はいつ襲ってくるか分からない。多分被害に遭った人々は語学研修や観光で訪れた人達でこの国が日本と同じく地震国だという認識は少なかったかもしれない。
 今回の地震で一つのビルが崩壊し無残な姿がニュースで流されている。そこに居合わせた人々の救出が進んでいない。自然災害というよりも人災の色合いを強く感じてしまう。
 災害に対する防備は完全では有り得ない。不意に襲ってくるから尚更である。
 日本でも阪神淡路地震で多くの被害を出し、その教訓をいかし、建築基準の改正や都市計画の見直しがなされている。人口密度は日本は都市部に集中しているというが、ニュージーランドに比べ30倍の人口がある。そして今回の被害が一番多かったクライストチャーチ規模の都市(人口37万)は至る所にある。
 比喩としては適当ではないかもしれない。いまの永田町の状況は災害の真っただ中の様相を示している。
 昨夜、テロップで或る政務官の突然の辞任報道が流された。なんでこの時期にと誰しもが思ったに違いない。
 まさに、永田町だけに通じる理屈だ。政局か政策か人災か自然災害かの違いとダブる。
今回の政務官には最初から違和感を私は持っていた。傍系の外様大名の家臣を取りあえずガス抜きで入閣させておこうというミエミエの人事だった。案の定、彼は我慢しきれず予算審議最中というこの時期に造反した。つい先月のことだ。宮崎県の鳥インフルエンザ騒ぎのときに彼は現地を訪れ、政府として最前を尽くすと豪語していた。彼は自分の役割を最後まで分からなかった。
 これは人災だ。斯様な人達が国の大切な方向を決める立場にいる。本当に情けない気持ちだ。
 彼には民主党を離党してまで自分の意思を貫く覚悟を感じない。立派なことを言うのは誰だってできる。それを如何に実行するかが問われているのに。
この最低限のルールが永田町界隈に微塵も感じない。
 国は自己保身に傾いたときに崩壊する。リビアで今何が起こっているか!民衆の力はチッポケなバッジなど問題外、彼に言いたいのは早くバッジを外して田舎に帰れと言いたい。
 政治とカネの本質は、小沢さんがどうのこうのではないと思っている。政治家全員が自分達が税金によって生計を立てているということへの認識の欠如を指しているのだ。大勢の議員の中には確かに手弁当で一生懸命働いてくれる人もいる。彼らに税金を使うのであれば国民は納得する。しかし、現実には何を考えているのか分からない議員が多過ぎるからムダだといっているのだ。小沢さんの「なんで私だけが虐められるのか!」これは彼の本心を吐露した言葉だと私は思う。彼ぐらいになれば、上手に振る舞ってボロをださないでのうのうとしている連中を沢山知っているはずだから。正直、彼一人を葬ってすむ話ではあるまい。議員一人一人の良心に最後は期待するしかない。
 それと有権者だ。
 災害はできることならば避けたい。長年築いてきたものが目の前で崩壊する姿は見たくない。これは誰しも共通する願いだ。被災者の無事を祈っています。
 

1728:こんな風に

マレーシアの中澤さんから手紙が届く、メールが上手く届いていなかったかもしれないという事でワザワザ手紙にメールの内容をコピーして送ってきた。ACE地方会を茨城で開催して欲しいという話があって、昨年その打ち合わせを行った。まだまだ先の事だと思っていたのが、次年度の計画を立てる時期にきたので、ハッキリさせたいという主旨である。
さーて困った。引き受けたはいいが、全くの白紙、今年の開催が沖縄だったそうで、あちらは観光地だから県外の参加者も多かったようだ。果たして茨城の土浦で開催し、人が集まるだろうか?若い時はイベント屋と揶揄された私だが、最近は年のせいもあり、面倒な事は避けて通ろうとする。
でもな、引き受けた以上はどうにかしないと不味い。そう考えたら目がパッチリ夜中の2時に起きだして計画案を作成した。その素案をマレーシアにメールで送った。送ってしまってから偉い間違いに気付いた。ACEをASJと勘違いした計画案を送ってしまった。後の祭りとはこのことだ。一応、ミスの訂正を追記して再送しておく。
 障害者自立支援法の改正検討も大分進んでいると思うが、制度をどのように作り変えた処で実践は別物、これからは地方の特徴を生かした仕組み作りが要求される。その辺の目論見を地方会の中で出してみたいと思う。こんな風にというボンヤリとしたイメージは持っている。11月ごろに土浦で開催したいと思う。
 尚恵学園も次年度の事業計画を作成しなければならない。小さな組織でも、守旧派と革新派に分かれるものだ。
 時代の流れを勘案すれば、旧習を守ってばかりいては事業の活力がなくなる。だからといって早急な改革もその必要性を誰しもが理解するには無理がある。この辺のサジ加減がいつも問題になるわけだ。
 守旧派には、現状に胡坐をかくというリスクが常に付いて回る。だから、自然と学ぶという努力が少ない。経験な長ければ長いほどその傾向が見られる。
 その見究めは、自分がどうそれに関わるかという事で判断するしかない。何を考えているのかわからない、自分の意見を持たず、決められたことだけを勤務内で行う。このタイプの人間が多くなったように思う。
 新しい息吹をいれないと組織は活力を失う。
 だからだ、職員の尻を叩くような事を私は言い過ぎる傾向がある。日和見主義で八方美人に私の性分ではなれない。どちらかと言えば調整型ではない人間だからあちらこちらで衝突する。
 ここにきて政治家の公約とは何なのか!という疑問の声がピークに達した。ソリャーそうでしょう。公約を棚上げした議論ばかりが目立つ、そうかと思えば内紛騒ぎが後を絶たず、疑心暗鬼の巣と化した。汚いなーと思うのは、人気のある人にスリ寄っていく連中、言う事は立派、国民の為に命を投げ出す覚悟だと。何を言っています、遣っていることと言っている事が全く違うんじゃーねーのかよ。
 もういい加減にそんな人には退場してもらいたいよな。
 そんな日本に見切りをつけたのかどうか知らないが、日本人で海外で活躍している人が大勢いますね。中澤さんもその一人、少しでも良いから何かお手伝いをしたいと思うのだが、逆に足を引っ張る事になるんじゃーなかろうか。
 こんな風に 小さな小さな夢を 丹精込めて 育てたい。そんな気分ですよ。
 

1729:なんで?

なんでだろ?なんでだろ?
 某会議の休憩時間に座長の弁護士さんが「なんで皆がみなイライラしてるんだろう?」と独り言。私は黙って聞いていた。すると彼は「3食ちゃんと食べているのかな?」とまた独り言。
 その時一瞬あれっと思った。職業柄、常に問題と関わっている人が独り言とは言え、イライラの原因を食事かなと言った。この人との付き合いは1年ほど、弁護士さんの私のイメージとは大分ズレている。どこかに人間味を感じる人だと思った。そういう私がイライラ人の最たる見本みたいなんだなや。なんでだろう?
 思いつくことは幾つかある。どうも相手に期待し過ぎている場合にイラだつようだ。俺 知らねーよ。関係無いからね。と言えれば然程悩まずとも良いかもしれない。
 結局は自分が悪いのだが、抱え込みし過ぎが一番の原因、自分が自分を責める。「どうせ出来もしないくせに引き受けるからよ」と。
 昨日のイラダチの原因は分かっている。いま尚恵学園はインフルエンザ対応で職員のマスク着用を義務付けている。マスクをしないで飄々?とやってきた職員に目が止まる。そこでスイッチがON。
 集団生活で一番注意するのは集団感染、一度蔓延すると1カ月は日課を変えないといけない。職員も感染するから勤務も変える。
このことを一番分かっているはずのベテラン程、・・・・・・。
 それから水戸に出る。なにやら難しい会議、午前だけだと思ったら、午後も引き続きあるという。ここで更にスイッチON。
正直、1日かけるだけの内容か?との疑問が。高速使って約束していた時間にギリギリ間に合い、園内での打ち合わせ。滑った転んだの話。本日3度目のスイッチON。ここで終われば良かったが、通夜があり、迎えのタクシーに Riding
 ON。
 忙しない1日が終わった。家に帰ると猫のミミが飛びついてきて私の手をひっかいた。
 ああ・・よしよし遊んでもらいたいんか。
そうは いかねーよ。世の中、甘くねーんだよ。
今日は、朝、何か食べたっけ?????

1730:気付く

最近「知らなかった」「気がつかなかった」という言い訳が罷り通る世の中になったと思っている。実に嘆かわしいことだ。職場で言えば、経験が浅く無我夢中の新人さんならいざ知らず、もう何十年というベテランがそのようでは組織が疑われても仕様が無い。私は福祉の仕事は理屈ではないと思って今までやってきた。「感性」や「気付き」だと思う。感性は人それぞれの個性が基本になるものと思うが、型に嵌めた言い方をすれば、『考える素となる感覚的な認識』となる。分かりますか?
 感受性といっても良い。当然、感性があれば気付きも付いてくるはずだ。
 これがどうしたことか、いくら言っても分からない人間がいる。馬耳東風とでもいうのか、すみませんと一応は謝って見せるのだが、直ぐに忘れるタイプ。正直、このタイプの人間は駄目だ。学ぼうという姿勢が見えない。そして、常に不満をもっている。自分の事はさておき他人の所為にするタイプ。
 私が気になっているのは、このタイプの人間が増えているということだ。日本人は勤勉でまじめというのが評判だった。仕事人間と揶揄されながら、家族の為と必死に働く人間が大半だった。ここに変化が見え始める。いつの頃からだったのか?
例えは適当ではないと思うが、「サービス残業」という問題を考えてみよう。これは時間外の労働に対し賃金が未払いの場合をいう。これも、どこで線を引くか微妙な問題だが労使関係という遣り取りでは、常に問題となる。私が理事長という立場で言えばサービス残業の強要に取られても仕方が無い。敢えて恐れずに言えば、数多い職員の中には、就業開始30分前、いやそれ以上早く、勤務に就いているものがいる。それと勤務が終わってから残って仕事をする人も沢山見かける。このことを推奨しているわけでは無いのだが、彼らはどうしてそのようにしているのかと考える。多分、受け入れの準備や仕事のケジメを付けてから仕事を離れるという思いがあるのだろう。これは自分の為ということではなく、他の職員が動き易くなるような配慮だ。
 方やタイムカードと睨めっこしている者もいる。この差を一概に言う事は差し控えよう。そこに感性が働く、気付きは感ずくとも言えるのだ。この事が有るか否か。
 人間の価値観は一様でない。仕事よりも趣味に重きを置くものもいる。これは認めます。だが、趣味で生計を立てられる人間は稀だし、それを自分の信念?というのであればさっさと趣味にシフトすれば良い。誰も慰留はしない!
 組織は違う。少なくとも福祉の業界だってノルマはあるはずだ。仕事の量で計るのではなく、責任という尺度で。この評価の基準に「知らなかった」という言い訳は禁句。
 これは私の経験からこの事を伝えていかねばならないと思う。今の私に唯一残された責務だと心底から思っている。
尋ねもしないのに「・・・・の為」という事を言って、自分の正当性を誇示する人がいる。これは曲者(クセモノ)だ。本当に「・・・・の為」と思っている人は敢えて言わない。
 それから日本人に欠けてきたものの一つに「叱れない」というものがあるのではないか?
私は、どちらかと言えば大声で叱るタイプの人間、・・・・・・・・・そう自分を思っている。当然、それへの批判は覚悟の上だ。
 これは今後も直し様が無いし、腐っても鯛で人生を全うしたい。