源究126

  

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2031 如月 2/1 2036 後が無いどころか 2/6 2041 地域力 2/11 2046 妥協点 2/16
2032 されど我が・・ 2/2 2037 些細な事なれど 2/7 2042 真意 2/12 2047 神様のカルテ 2/17
2033 器の是非 2/3 2038 地域力 2/8 2043 熟年パワー 2/13 2048 阿闍梨 2/19
2034 じわり 2/4 2039 良き事を 2/9 2044 望まれる人 2/14 2049 疑心暗鬼 2/20
2035 成功の秘訣 2/5 2040 遠眼鏡 2/10 2045 望まれぬ人 2/15 2050 思想遍歴 2/21

2031:如月

2012年も早1カ月が過ぎました。日本を襲った寒波は記録的な大雪を各地に齎しています。若者が街に出てしまい、老人だけが残された地域では除雪も儘ならず、事故も多く起こっているようです。
 特に東北地方の山間部は踏んだり蹴ったりという1年を送っています。日本人は我慢強いと思います。世の不条理に対しても怒りを爆発させることもなく、自ら節度ある行動をしようとしています。
 これも昔から大切に守られ引き継がれてきた人間としての生き方だと思うと頭が下がります。厳しい自然とは裏腹にそこで生き抜く知恵があります。それが、戦後の急速な変化とどう向き合い、整合性を保てるか?
 今を生きる我々に突き付けられた最大の課題ではないのかと思います。
 冬をじっと耐えれば春が必ず来るという。雪解け水が田畑を潤し、農業を可能にしてきた日本。その伝統が今危ういと思われている。言うまでも無い。外国との関わりの中で、双方の利益を上手く調整し、一方勝ちできないようにする。それが外交交渉である。
 防衛や外交、それと通貨(為替)は国の役割、いま関心の一番高い社会保障は、どうあるべきか。2月に入り、国の動きが一段と慌しくなっている。来年度の予算絡みの情報が入る。福祉の取り巻く環境もどうなのか?何もしなくても前年度に比べ自然に増加する経費が凄い。それを止めることは不可能に近い。果たして福祉が景気浮揚の一端を担うことが可能か?
 福祉の仕組みは単独では有り得ない。子育て・教育・労働・介護・医療と人間の一生に深く関わる問題で相互に関連している。
 世の中が利便性を追求し、家庭に於いて夫婦の役割分担が大きく変化した。家事全般で一昔前と比べれば女性の負担が軽減され、条件さえ揃えば共働きできる時代になった。
 高齢化に向け、いま出来ることは、定年を伸ばす事や女性の働ける環境を整えること。これが何故、一体的に改善できないのだろう?
 福祉先進国の共通する背景には、人口が少ないという事があります。働き手が男性だけではなく、女性も加わって世の中がまわる。その為の制度が自然と出来あがってきたという歴史です。
 日本は現在でも1億2千万強の人口を抱えています。日本の人口がどの位が良いのかという議論はあまりされません。
 世界を見渡し、日本が参考になるような国も無いのが実態です。ただ、尋常ではないのが、東京大阪名古屋など人口の過密都市、例えば東京の秋葉原、つくばエキスプレスがターミナルで入線した。このホームは地下?階か知っていますか?
表に出るまでに何回もエスカレーターに乗るしかありません。表に出ればそこには高層ビルがドンドン建っています。
 実際の面積に対して利用面積はもの凄い。これで本当に直下型大地震が起こったら、どうなりますか!
 都市機能は実は脆弱なものです。先の震災で現実に起こった帰宅難民の数、その対応策とかで最近地下道で一晩過ごす実験がされました。でも、火災が起こればそれは無理です。
これをどうにかしようと検討はされているとは思いますが、表には出て来ない。
 利便性や豊かさへの追求が不安と危険の背中合わせで行われてきた。もしも、自らの生命をかけてまで利便性を望むのであればその人の自由かもしれません。
 ただ、個人の自由ほど曖昧なものはありません。高層住宅に住む人が、自分は住み続けるといくら主張しても傾いてしまった家には住めないでしょう。
 

2032:されど我が人生

学生時代の山登りサークルのOB達は今でも連絡を取り合っています。いろんな企画の参加を呼びかけられるのですが、週末のため殆ど行けません。
 昨日、一年先輩の方が亡くなったという知らせをお二人の方からメールで知らされた。一緒に山を登った事は無かったと思うが、背の高い飄々とした人だったと記憶しています。還暦を過ぎ、6人しかいなかった私の同期も既に3名が彼岸に渡り、残された我々もどこか体に変調をきたし嘗ての勢いはどこかに行ってしまった。
 先に逝ってしまった連中に質すことができるなら、「お前の人生に悔い有るや無きや?」と問いたい。多分、「知らぬ」と言うだろう。
 私は職業柄、様々な別れに立ち合う。遺族の流す涙もいろいろ、個人的なことは詳しく知らないが、なんとなく感じるものがあるものです。今日も葬儀があり、朝から白衣を付け、迎えを待つ。
 自分自身の望みが許されるとしたら、どこか知らない国で過ごしたいのです。その気持ちは一貫している。決して贅沢な旅ではなく、逃避行でもありません。
寝袋を入れたリュック一つ担いで放浪するのです。できればカメラを複数持って、なんでも写しながら歩くのだ。
 できれば温暖な場所が良い。草原があってお花畑に横になり居眠りなどしたら人生観が変わるかも。
 私の年になれば、過ぎ去った過去を取り戻そうなどとは考えない。振り返るだけだ。それでも良いではないか。
 多分、今は亡き友やお世話になった人達の事が次々に浮かんでくるだろう。今頃、何してるかなー?想像の域を出ないが多分活き活きしているんだろうよ。
 妙な感じだ。今生きている者が元気が無く、逝ってしまった者が元気がある・・・・・。なんじゃーコレ。
 同じ事を考えている人が結構いると思います。何故なんでしょうね。
 私が考えるに、人間が近視眼的になっているからだと思う。知覚範囲の深さや広さが限定的、自分の限られた経験からしか物事が考えられない。昔の人達は歴史から多くを学んだ。それが苦手な人間は文化や文学より探ったと思っている。
 戦後教育の欠陥は、歴史教育を意図的に避けたこと、嘗ての武勇伝から再び日本人の闘争心に火が付くことを恐れた国が有る。
 テレビの特番で時代モノはやっていはいるが脚色された現実感が無いものばかり。過去の教訓を学ばずして、精々80年という人生の指標が見出せるか! 妬みや諦め、それと挫折感ばかりが目立つ。
 いま読み始めた本がある。昭和初期から戦中戦後の20年、それは今世間で言われる平成の失われた20年という期間と同じ長さ。しかし、実態は全く違う。私は戦争を肯定などしないが、若者がハッキリとした目標を持っていたか否か?日本の夜明けは自分達の力でという覚悟があったと観る。若くして戦場に散った若者は、自分の為に命を捧げたのではない。この国がもっと良くなればと信じ切って赤紙を受けた。寺の過去帳には、20代の若さで死んでいった若者の戒名が並ぶ。
 それからすれば、現代は骨なし人間が大分増えたと言えまいか。何かに燃焼するという目標が見出せない。希にはあったとしても利己的な目標でこれはあまり誉められたものではない。仏教の入門書には、自利利他という教えが必ず書かれている。
利己=自利=主我が尊ばれ過ぎると世の中は必ず乱れる。これは歴史が証明した。ならば利他をどう描くか?これを公に任せ過ぎた社会が今の日本だと私は思うのである。果たして社会保障の仕組みが法律や公共のサービスだけで賄えるのかと考えた時に”NO”という答えと同時に”我関せず”と言うもう一つの考えを見出してしまう。
 

2033:器の是非

夜中のラジオを聴くのが慣習化してしまいました。今夜1時の内容は私にとっては大変ショッキングなものでした。
 介護ビジネスの代表者の話、概略は元特養の職員で施設に泊りこみ夜勤専門の仕事を行っていたという。現在は36歳の男性、彼は決まった日課と大型施設の管理的なジレンマを感じ職場を辞めて、30歳で介護ビジネスを起業、空き家を利用する10人定員のデイサービス事業を展開、5年で全国500か所の一大介護事業グループを育てた。彼の目標はこの数を今後2800か所にするという。60歳を定年として、毎年100か所のセンターを作るというもの。コンセプトは孫の年代がお年寄りと寄り添うサービス。生まれてきて良かったという笑顔と感謝を何より大切にするという。彼の経営感覚はこうだ。
今、50名定員の特別養護老人ホームを新築するとなれば建物だけで約5億円はかかる。それでは需要に追い付けない。
空き家を改造しデイサービス事業所を開設するには700万ですむという。この発想は実行するには覚悟がいる。様々なニーズに対応できるかという疑問。それを解決する仕組みも併設する。500か所全ての事業所でショートステイを実施、これに問題が無いわけではない。今の制度ではデイサービス事業所でのショートステイは保険の対象にはならない。自費によってならば利用が可能。でも、いずれはそうなると見通す。それと、同時に力点を置いている事は従事者の地位の確立と安定した賃金体制。将来性のある魅力ある職場で良い人材を集めることを目指す。
 この話を寝ながら聴いていて、頭を殴られたような衝撃を受けた。種別は違っても尚恵学園の歩みはどうだったのだろう?
 寝てなどいられず起きだした次第である。確かに決められた日課で本当に利用者が望むサービス実態があるだろうか?それとスタッフに満足のいく処遇をしているか?正直、否定的になってしまう。・・・・・。事業の長さから言えば、私共は10倍の長さを刻んだ。制度が無かった時代に損得関係無く手探りで始めた。それが今は一応の制度が存在する。
 代表の36歳という若さ、それと発想力の違い。私は自分の年齢と比べ、正直引退時期を感じた。誰か若い人に任すべきだ。そう思うとどうしようもなくなって、今こうしてPCに想いを書き連ね頭の整理をしているのだ。
 日本型の福祉を築くことは長年の課題でした。今後も幾多の変遷を繰り返しながら止まる事を知らない課題と向き合わねばならない。
 日本人独特の処世術かもしれませんが、『良い塩梅』という言葉があります。ちょうど良いバランスという意味ですね。それと『さじ加減』という言葉もあります。いま国が必死になって法制化に向け取り組んでいる障害者総合福祉法。果たして判り易く使い易いものとなるのでありましょうか?
 福祉ってものは、裾野は広いが至って単純な事ですよね。幸福⇒喜び⇒笑顔⇒感謝。この円循環です。
 当事者と支援者の間に本来差があってはいけない。それを様々な理屈を付けて序列化するんですね。困ったものです。
 制度や法律は、それだけでは何ら機能しません。それをどう活用するか?ってことでしょう。上手い事やってという意味は決して良くは思われていないことでしてその評価が増える傾向は否めません。
 唯一、福祉事業が市場の原理と無矛盾性を保てる道は、妥協点をどこに見つけられるかという事だと思ってます。
 その妥協点で大切な事は”器”です。総合的なサービスを目指しても個々のニーズに対応できることなどできやしませんよ。むしろ我々の立つ位置としては、この部分でなら満足いくサービスを行いますという限定的なもの。持ちつ持たれつの関係を築くことが目標です。
 それぞれの専門とする事業がネットワークで結び付く。これしか進む方向は無いと私は思っています。
 それが流行語となっている地域福祉という理想とする姿であります。この考え方は間違っているでしょうか?
 私は良く壁にぶつかります。そんな時、親父だったらどう考えただろうと思う。亡くなってもう直20年が経つ、答えなど返ってくるはずは無いのだが懲りることなく問い続けている。
 その時、親父の口癖だった『その器に有らず』という言葉を思い出します。それは奢るなという事と背伸びする必要は無いという自戒の気持ちだと分かっているのです。
でも、言うは易いという事です。

2034:じわり

暫定基準1キロあたり500ベクレル!
 これは国が定めた放射能セシウムの汚染度です。茨城は農業や漁業それに観光などに原発事故による風評被害が多く出ています。何しろ日本で一番先に東海村に原子力研究所ができた県で、県民一人一人は原発を身近に感じてきました。しかし、今回のフクシマでの事故後、それらが大きく揺らぎ始めています。
 尚恵学園がある土浦は福島第1原発より170キロほど離れていますが、影響が出ています。そのため除染をどうするかという対応を市が行っています。農作物でシイタケは基準値を超えたため、土浦の生産者は出荷停止、ならば東電が補償してくれるのか?と尋ねると尚恵学園は対象外。何故?農協等に実績が無いからだという理由だそうです。
 日中活動の一環として始めたシイタケ栽培、すでに30年以上の歴史を持っています。気温の寒暖には関係なく、毎日大勢のメンバー達が観音寺にある作業現場で働いてきたのです。それがストップ、その理由を彼らにいくら説明しても分かってくれない。さてそれに替わる作業を何にするか、喫緊の課題となりました。
 今朝の新聞で栃木県のシイタケにも600ベクレルのセシウムが検出されたと載っていました。
(*基準値より100ベクレル多いと言う事が果たしてどれだけ人体に影響するのでしょうか?)
シイタケを専業としている農家はたまったもんじゃーありません。今後、果たしてシイタケ栽培ができるのかどうか?シイタケは原木の手筈から植菌それと水漬け・・・・収穫と通年の作業があります。その見通しが立たなくなりました。金額の多少の問題ではありません。
 でも、福島の人達の事を考えるとそんな事も言っていられないと思ってしまうのです。もうじき1年が経ちます。
 昨日は豆まき、全国の有名な寺社ではゲストを迎え盛大に行ったようです。果たして鬼さんが外に出て、福が家に訪れてくれるでしょうか?
 日本を襲った大寒波、過去の記録を塗り替え各地に様々な問題が起こっています。雪下ろしのボランテアなどニュースで取り上げられますが、雪を下ろした後、直ぐにまた積もってしまいます。雪国の人達は、毎年同じ苦労をしています。3メートルの雪を屋根に積もったままでおくと、水分の含まれた雪では1uあたり約1トンの重みになると聞きました、30坪の家であれば優に100トンの重みがかかるという計算になるから大変です。
 2月に入っても寒さは続くという予報です。インフルエンザの感染流行も例年に無く多いと言います。日本中が鬼の集中攻撃を受けているように思ってしまい、いい加減にしてくれと叫びたい気持ちです。
 足元に眼をやりましょう。
 何故だか良く分からないのですが、メンバーさんで壁に向かって突進する方がおられます。大きな穴を壁にあけてしまい、緊急にその対応をすることにしました。
 何しろ体重が90キロ近くあるかたですから、どうしようもありません。ご本人も確かに何か理由があると思うのです。
それがこっちには分からない。ならば根比べ、壊されても壊されても修理してやる。そう思っています。
 ここに来て毎日のように水道管が破裂したり、水洗トイレが使用できないというトラブル騒ぎ、世の中の全ての事が尚恵学園という狭い空間の中に凝縮しているように感じています。
これはじわりとボデイブローが効いてきますね。いや!根比べです。

 

2035:成功の秘訣

成功の秘訣はあるのでしょうか?
 何をもって成功かは、ちょっと難しいのですが、一般的に世の中でそのように評価されている人達がいます。嘗てベンチャー企業の三銃士と言われたのが、ソフトバンクの孫氏・エイチアイエスの澤田氏・パソナの南部氏の3名です。この人達に共通するものって何かあるのでしょうか?
 お客さん目線のアイデアと実行力、それと人材でしょうか。一昔前で言えば、松下幸之助さん。NHKで松下さんの奥さんが主役のドラマをやっています。そうですね。奥さんの存在も無視できないでしょう。
 福祉産業と言われてから久しく、介護ビジネスの世界も大きく変わりました。でもこの分野は特殊な事情があります。助成金絡みですから、当然、何らかの規制が働きます。
 役目がら情報を早く得られる人達がいます。するとそれを自分が一先に利用してしまうタイプの人間が出てきます。
私の性分で、そのような人間に言い知れぬ憤りを感じます。(NO:2033の上手い事やって
 これは今後トップに立つ人間がもっとも自戒すべきことだと思っています。
 福祉事業は何らかの国の援助(税金)が無ければ事業の存続ができません。これは事業として自立できていないという意味があるでしょう。お客さんの目線だけではなく、一般の人々の目線を感じる能力が要求されます。
 必要以上に豪華な建物を造り、それを誇るような事業所はいずれ生滅すると思っています。言わずもがなでしょうが建物の原資の大部分が税金だと言う事ですよ。そしてその建物を維持するために利用者を制限せざるを得なくなるはずです。
 これは本来の福祉に反していると思っています。
 私の経験で一番難しいことは良き人材の確保です。将来性があって処遇の良い企業に人は集まるでしょう。これはある面で働く人の真理です。
 しかし、将来性があるという事業はハッキリこれだと今言い切れるでしょうか?例えば私が社会人になる40年前、当時は公務員よりも外資系の企業や商事会社、日本航空などに学生が集中しました。
 いまどうなっていますか?端的な例がJAL、経営が悪化し国の管理下に入り再生中ですよね。それから今の日本で外国の資本が入っていない会社は無いのではないでしょうか?M&Aがいつ起こるか判らない。実際そうなっている企業が実に多い。
 郵政事業や通信事業も同じ道を歩みましたし、電力だって今後は従来の形は取れないはずです。
 最後に残るは公務員、これが国会の最後の砦、政治家を味方にするか敵とするか!否、違いますね。政治家を丸目込んでも国民を欺くことは出来ません。この矢面に立たされるのは時間の問題だと思います。
 その最たる例があるでしょう。ギリシャです。いずれこの国にもその波が押し寄せますよ。
 公務員天国と言われるのは、一定の条件をクリアした国です。果たして世界を見回してそのような国が存在するでしょうか。
 GDPやGNPの数字が実は幸福度という観点で実態とかなり大きな乖離があったことが証明されました。
 アフリカで一気に起こった改革の嵐、先進国という国々はいま新たな問題に直面しています。
 その時流の中で”成功の秘訣”を問うのは、果たしてどうなのか?それが問題ですね。
 

2036:後が無いどころか

”不退転の決意・・・” 良く言うよな!
 後が無いどころか、この国の政治は一体どうなっているのでしょうか?歴代の総理が今でも何人現役で議席を持っているのでしょうか?いい加減に勇退したらどうなのよ。それで異口同音に出来もしないクセにご立派な宣誓をしなさって。
 これこそが無駄といったら過激発言、問責でしょうか?知ったこっちゃーねえ。
 辞めて大人しくしているんだったら可愛いもんだが、時々後ろから突っつくでしょう。あれは許せねー。これこそ問責、即退場でしょう。
 この辺のルールを作ったらどうなのよ。何しろ過去20年で15人も総理が変わったんだから。こんな国他にあるんですかね。”不退転”ってどんな意味よ?聞いてみてえよ。
 恐らくこんな風に言い訳しますよね。「志高く決して屈しないこと」と。ならば、アンタはどうだったの?逆質問したいね。
 議員定数の削減だって本気でやるつもりがあるんだか無いんだかね。てっとり早いのは総理になった人は議員辞職すると決めれば簡単だわな。もう15人も減ったはず。
 ぬるま湯ドップリなんだよ。居心地が頗る良いんだと思うな。先生先生とか言われちゃって。
 自ら身を切る覚悟とか、また始まったでしょう。これってどういう事よ?
 総理までなった人が更に何を目指しますか?もう浴衣に着替えてゆっくりされたらよろしい。お疲れ様でしたね。
議員定数の削減で一番関心があるのは、自分にとって不利か有利かだけ。
これで本当の改革になりますか?
 本日もNHKで国会中継があるようだが、どうだろうね。またしても弱いモノいじめするんじゃーないだろうか?
 小学校じゃーあるめーし、○○島を何と読みますかとか、これとあれでどこが違うか言ってみろ的な質疑は見ていて情けない。公衆の面前で恥を欠かせストレスでも解消しているんですかね。武士の情けは無いんだわな。
 これが世界に冠たる日本の国会か!もっと誇りを持てと私は言いたいのだ。全く。
 それに東電もどうかと思うよね。電気料を4月から17%上げるとか言う話、大口利用者へ文章で送ったとか。これに東京都が怒ったね。そりゃー怒るよ。年間電気代が380億円だっていうんでしょう。地方は財政切りつめに躍起になっていますよね。それが東電は何もやっていないんじゃーないか。
私もそう思うね。幹部役員は一体どれくらい給料貰っているんだか?どこかに公表してるんだろうか?
 これだーもの、ダメだわな。誠に残念である。
 実質国有化ならそうすれば良い。株主が反対する?そんな事言っている場合じゃないだろう。フクシマの人達にどう説明するのさ?
 昨日のテレビでこんな調査結果が発表されました。福島原発20キロ圏の海域の放射能汚染濃度と東京湾のある河川の河口の汚泥がほぼ同じレベルの汚染だという結果。海底にもホットスポットがあるという。
 これをどう考えるのか!
 我が茨城は昨日、小美玉市が脱原発宣言しこれで5市町村の首長が表明した。全部で県内には44市町村ありますから1割という所、これが実態である。
 ・・・・・・・生臭坊主が 如何に吠えても 糠に釘&暖簾に腕押し・・・・・・・
 

2037:些細な事なれど

まだ外が暗い時間に私が起きると猫のミイちゃんが一緒についてくる。彼は外に出たいと訴える。戸を開け、出られるようにしてやっても暫く顔を外に出して様子を伺っている。意を固め、いざ出陣。しかし、直ぐに戻ってくることが最近増えた。多分、寒さに家の中のほうが良いと判断したからだ。
 些細な事だけれども、私にとれば至福の時間をミイに邪魔されたくはない。それを承知しているのだろうか、自分の居場所に戻り、知らぬ顔をする。
 今朝は冷たい雨が降っている。予報では15度位に気温がなるというから春を感じる日になるかもしれぬ。
 今年は最近になく、星が綺麗にみえる。気温が下がっていることや乾燥しきっているからだと思う。オリオン座や昴がハッキリと見える。夜7時頃のヲーキングも一応定着し、歩き遍路のトレーニングを兼ね飽きずに続けている。
 些細な事と言えば、昨日、GHに移ったSさんが事務所に来て鏡に向かって盛んに何かを訴えていたという。ホームの近くのパーマ屋さんに仲間と行ってオメカシしてきた。それも自分達だけで帰ってきたという。
 『どうだ!綺麗だろう』とごり押しにワザワザ事務所までやってきた訳。
 彼女たちにとっては大変な出来ごと、それも自分達だけで帰ってくるなんて想像できなかった事である。Sさんの訴えには、それだけの重みがある。地域の人達との輪が少しづつ広まっている。
 更に、現在、もう一つのホーム開設を検討中、それには世話人の確保が必須条件。思案した結果、地元紙(常陽リビング)に求人の広告を出そうとなった。虫めがねで見ないと判らないような数行の広告、その結果に驚いた。6人の方から電話問い合わせが翌日に入った。面接を行い、お手伝いをお願いしたいと考えている。
 現在、8か所のホームがある。成立ちがそれぞれ違うから内容も別個、兎に角、その対応には気も使うがスタッフの数がそれに追いつかない。職場との調整から体調の管理、それと毎日の食事の提供。外勤するメンバーさんは休みの日には大体は園にやってくる。その対応すら充分にできていない。
 また、本来の役目として緊急の対応ニーズも増加し、且つ多様化している。待ったが効かず、取りあえず受け入れるしかない。以前に利用されたことがある方ならば受け易い。
 入所支援の定数を10名減にしようとしている。今までは減ると直ぐに埋まってしまうことの繰り返し。そもそも設備が手狭で個室制になっていないから、建て替え時期になるまでは我慢してもらおうと考えた私の目論見が不評。
 地域生活者の数も増え、体制を変えないともうどうにもならない状況だ。毎年5人位の職員を増やしてきたが、それでも追い付かない。
 きめ細かな個別対応が要求されるので今後は益々大変となる。
 時間制で働いてくれる職員も増え、その調整役が重要なものになった。なにせ24時間365日のサービスだから、休まる時が無い。
 もともと完璧なものを望むものでは無いのだが、個々の要求に耳を傾けると無限大に広がってしまう。
 その結果、目標を見失うハメになる。
 身近なことで些細な事に喜びや有り難さを感じるものである。それは普段はなかなか感じられず、早朝や夜、何気ない時に不図思い出すものなのだ。
 

2038:地域力

何も恐れる事はない。必要以上の謙遜も時と場合によっては、『卑下も自慢のうち』となりかねない。
 私は茨城で福祉に関わり、正直、落胆したり焦りを感じた事は幾度となくありました。それは他の県と比べ、何故茨城ではできないのかと情けなくなったという事でした。
 しかし、それは間違いだと今は確信できます。その根拠を言いましょうか!
 ”地域力”ということが全ての事でこれから先重要になると思います。その意味は具体的にはどういうことを指すのでしょうね。
 それを理解するヒントは、人との繋がりにあると思います。私は昭和44年(1968年)今から43年前に東京で下宿をしたことがあります。小さな古いアパートで大家さん家族が1階に住んでいる所でした。一か月の部屋代が4畳半で4,500円でした。風呂などありませんから銭湯です。トイレも共有でした。その当時、既に東京という大都会には隣近所の付き合いの習慣は薄れていました。
 どこの誰だか知らない人間が同じ屋根の下に住む社会は、どうしても受け入れ難いものでした。
 コミュニテイとは、一定の地域に居住し、共属感情を持つ人達の集団と定義付けられます。その根本が既に崩壊していたのです。それから40年以上経ち、新たな試みが始まっているようには思いますが、都会では無理な話だと思う。
 茨城は日本で有数の農業県、以前ならば都市化の遅れた後進県というイメージがありました。これだって誤った考えです。
 終戦の混乱期を思い起こせば直ぐに分かりますよね。今は24時間いつでも食べ物にありつける国になりました。
 しかし、いま話題の東京直下型地震が起こったとしたらどうでしょう?東京には住めなくなるはずです。
 そうなったら茨城に東京から多くの避難民が押し寄せてくるはずです。可住面積が広く豊富な食糧があるからです。茨城は喜んで受け入れるはずです。
 いま、福島原発の強制避難地域の人達がつくば市にドンドン避難していることをご存知ですか?つくば市が用意した住宅は、仮設ではないのです。今は使用していない公務員住宅を提供しているからです。正確には判りませんが500棟あるという話です。2DK以上の広さで立派な住宅です。
 茨城は工場誘致が全国でもベスト3にいつも入っています、広大な工業団地が全県隈なくあり、まだまだ受け入れ可能なのです。更に首都圏に近く陸・海・空の交通の便が整備されています。このような県は全国を見回してもありません。
 何しろ道路の総延長距離は北海道に次いで全国2番目、平坦地が多く、どこでも住める県です。
 気候も温暖で台風の被害が少ないという特徴もあります。
 それから県民性も逆境に強いことが歴史が証明しています。今テレビで話題になっている平清盛の先祖は石岡市だと言われます。現に某寺院には清盛の先祖の墓があって、当時一帯を治めていた豪族がそうだというのです。
 太平の世、江戸時代には徳川御三家の一つで黄門様、参勤交代を免除されています。その後、明治、大正、昭和という時代の節目には水戸学の薫陶を受けた志士達が各地で活躍した事は周知の事実です。
 近年に入り大型の開発がもの凄い勢いで進みました。つくば研究学園都市・鹿島臨海開発・那珂ひたち海港など枚挙に遑がありません。これを地域力と言うには疑問もありましょうか!
 茨城は古い文化や風習が大切に残されています。絆がまだまだ失われていない。そこに大きな特徴があると思っています。
 声高に自分達の徳を誇らなくとも良く、逆にその種の人間を忌み嫌います。
新渡戸稲造の武士道ではありませんが、情けを大切にし、自ら橋を先に渡るのではなく、皆が渡った頃を見計らい自分が後から渡る。平時にはその事で蔑視されることが有ったとしても有事においてはそれが人間として取るべき道だと評価されると思うのです。いかがでしょう?

2039:良き事を

”たそがれに 仄々見つる花の夕顔”(源氏物語:夕顔)
 仄々とは、ほのかに明るい様を言う。ほんのりとして自然に心温まることが見えなくなっています。何か世の中全般が殺伐として惨い事件が後を絶ちません。どうしてこうなったのでしょうか?
 その原因の幾つかは誰もが思い当ることで、それらは今に始まったことでは無いのです。
昨日はちょっと忙しかった。
鹿嶋市に社協の用事があって昼前に家を出ました。途中、ナビがいつもと違うルートを示すので変だなと思いながら運転、予定より少し時間が掛かってしまいました。後で判ったのですが、昨年3月の地震で橋が通れなくなってしまったので迂回したのです。今のナビは凄いと思いました。そこの用事が3時過ぎに終わって、今度はつくば市の斎場に、お通夜があるので向かいました。途中で衣に着替え、どうにか30分前に辿りつきました。これまたナビがあればこそです。
 こうやって1日が終わりました。帰りは霞ヶ浦の反対側のルートを通ったのですが、川の護岸工事をずーと行っていました。これもまた地震によって堤防が壊れた為の復旧工事でした。もうじき1年になりますが、茨城にもまだまだ復旧されない場所が多い事が改めて分かりました。
 それでも確実に立ち直りの兆しを感じます。農家は休ませた水田の掘り起こしを始めています。願わくば放射能汚染で出荷停止にならない事を。でも、原発事故により今もって先が読めない状況が続いているのも事実です。いつになったら自分の家に戻れるのか、避難生活が長引くほど気持ちが萎えてしまいます。本当にどうにかしてあげて欲しい。日本人全てがそう願っているはずです。
 54基ある原発で現在稼働しているのが3基とか聞きました。いま点検中で停止しているのも含め、今後稼動するのを認めている地元はあるのでしょうか?
 万が一、他の原発が何らかの事故でメルトダウンにでもなったら、本当に日本は立ち直れなくなると私は思います。
 いま、ギリギリの所で耐えているというのが正直な処です。特に原発が近くにある人達にとって将来に渡ってずっと不安を抱き続けることになりました。茨城にも東海村に原発があります。
 今晩、ある方の通夜が千葉で行われます。私も直接ではないのですが、大変お世話になった方です。享年87歳ということでお疲れ様という思いがあります。
 この方は広島原爆で自らが被災されたのです。お子さんに恵まれず、一生を知的障害者の仕事に捧げた方でした。とても穏やかな方で決して奢るような振る舞いはされず質素な生活をされていたそうです。そのお人柄からでしょう、沢山の教え子が今も各地で障害者関係の仕事をしています。
 先生は今回のフクシマ原発の事故をどう思っていたのでしょうか?
 仏教は本来無一物を教えとしています。
 天命を知って一生をそこにかける人生は、簡単にはできません。諦めや妥協、そして自らを正当化するような思いが働きます。
 他人がどう思うかでは無く、自分が死の淵にたった時自分でどう思うか!これは自利という事では無く、人生の本当の成功者だと思うのです。
 

2040:遠眼鏡

足場の悪い三脚に乗って遠眼鏡で何かを捜し求めている。そんな夢を見ました。
 夢ならば良いのですが、どうも現実はもっと危うい感じを持ちます。軟弱な地面にハシゴを立て上から遠くを覗き、何が見えるでしょう。その前にズッコケて怪我するのが落ちです。
 外交や防衛は相手があっての問題です、日本がこれで行くと決めてもそう簡単に参りません。社会保障と税は国内の重要課題、これを同時に審議しようとすれば誰がやっても齟齬をきたすでしょう。これが現在の国会審議、一進一退で実にもどかしい。
 いずこにも一言居士なる人物はおるもので、会議などでご一緒するとその方は必ず一言しなければ落ち着かない。ああ・・また始まった。
 その人に後で聞いてみた。すると、折角出席したのだから、ダメ元で言うんですよと意に介しない。なんか拍子抜けしてしまった。
 またもや日本を寒波が襲うとか、雪国は大変だ。山奥の集落は若者が街に出て行ってしまい。お年寄りだけが家に残る。
 屋根に積もった雪を降ろすことも儘ならず、ただただ春の到来をじっと待つ。
 地球温暖化が問題となる一方で今年のような記録的な大雪になっている。今年は雪に関連して亡くなった人も多く、その大半が65歳以上の高齢者、自分だってもうじきその年齢になるのかと思うと複雑な気持ちになった。
 年齢の事を言うのを憚るようになった。還暦を迎え、最初に喜んだのは映画館の1000円一律料金、それに近くにできるトレーニングジムの入会金は60歳以上に特典がある。電車に乗ってもシルバーシートには意地でも座らないと自らに言い聞かせるが、視力の減退は否めない。
 老いを感じる時はお暇をする時だと思っている。最近、自棄に家の中にシップが目立つ。温シップ冷シップ買いだめしてあるからで、それにかぶれることもなくなったのは皮膚が反応しないからなのか?斯様にマイナス思考は蟻地獄。
 チクショウ!人間は何で年を取る。
 あれはいつの頃だっただろう?先輩達に自分の老をダブらせたのは、それでも年を感じない方はいるものでいつも変わらず前向き人生を直走る。
 肖りたいと思った事も、でも、それは遠い先の事と思っていたのは事実である。
 遠眼鏡(とうめがね) どこに置いたか 下を見る・・・・・。
 足るを知れ 抜き差しならぬ 我がいのち・・・・・・・。本日コレマデ。
 

2041:地域力

阪神淡路大震災の後、その復興過程で様々な動きがありました。ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)という概念が世に広まったきっかけにもなったのです。人々との信頼関係と社会的なネットワークが新たな街づくりには不可欠な条件だという。何が問題なのかという事の共有と地域の構成員による自律的な発想とその他の主体との協働作業が重要度を増しました。それを学者たちはエンパワーメントと言い、分かりづらいというので最近では地域力とか言うようになりました。
言葉はどうでも良いのです。神戸を中心とした被災地が見事に復興し新たな街として定着した頃、東日本大震災が日本を襲ったのです。
 国は膨れ続ける支出に歯止めをかけるべく、様々な改革議論を行い、中央があまりにも大きく成り過ぎた反省として、今回、地域主権一括法が制定されることになりました。これは中央から地域へ権限を移譲するもので、お金と事業が地方の判断に任されるというものです。
 私が社会人になった70年代は60年の池田内閣による所得倍増計画が順調に進み、あらゆる面での国力が増した時代でした。豊かさでアジアのトップに躍り出た日本がその勢いでGDP世界第2位の地位を射止めたのです。
 そして、約40年が経ち、当時考えられた様々な制度に不具合が生じてきたのです。その一番が重すぎる負担をどうするかという問題です。このままでは国の財政が破綻する。これだって大分前から言われ続けていたことですが、理由をつけては先送りしてきた。持続可能な制度をというスローガンは説得力が無いと聞こえてしまいます。だってそうでしょう。60年後にはこうなりますという年金制度の議論を聞いているとなんという人達なんだと疑ってしまいます。
 借金の返済を長引かせ、単年度の負担を少なくするという手法が果たして国の将来の容を考えるのにインパクトがあるでしょうか?
 だれも大きな声では言いませんが、近頃問題になっている『貧困ビジネス』という類の新たな業種が出ています。生保受給者をターゲットにしたビジネスです。この実態は表には出ませんが、凄い勢いで広まっています。
 同じアジアにあって日本と対照的な国があります。ブータンです。面積は九州とほぼ同じ広さで人口は約70万人です。
 ご存知のようにGNHという尺度を掲げ、経済力で量るのではなく幸福度を基準としている国です。
 ブータンには「鶴と電気」の話が有ります。ある集落に電気を引くかどうかということになり、住民に意見を聞いた。すると電線が張られると毎年飛んでくる鶴が電線に触れて死んでしまうから反対したという話です。
 これを聞いた殆どの日本人は自然保護の為にその選択をしたと思ったでしょうね。よく調べてみるとそうじゃー無い事が分かります。ブータンは仏教国です。彼らは六道輪廻というものを信じています。日本人の多くは今さえ良ければそれで良いと考える人が多くなりました。そこが大きく違います。この世で良い行いを積めば来世はより良く生まれ変われると信じるのです。そして鶴はその象徴で幸せを運んでくる鳥なのです。電気という近代文明を得るために来世の幸福を運んでくる鶴を殺してはならないという理由からです。
 日本には、果たして誰もが共通する価値観があるでしょうか?これを霧散させられた戦後最大の置き土産。
 我が田に水を引く事にだけ関心が向く、その結果、昔からあった絆が薄れた。連帯意識を無くした国は如何に経済的に発展したとしても脅威にはなりませんから。
社会保障を公的仕組みで賄うべきだと薦めた。するとどうなりましたか。複雑で事務手続きばかりが多く何の為の制度か分からなくなった。巨額のお金が絡むから、それを狙った様々な展開が生まれる。
 この面だけ捉えても戦勝国の描いたように日本が歩んできたとも言えましょう。
 そう考えてみると非常に難しい話です。利便性を犠牲にしてまで元に戻ろうとするか?権利を主張するが義務は果たさない国民が果たして自立した国を本当に目指すのか!
一番危惧するのは、そのような国に夢を語れる将来はあるのでしょうかということ。
 僅かに残った可能性にかけるという意味で”地域力”が試されるというのであれば私は大いに賛成である。
 中央ではその絵を描ける能力はありませんよ。
 追記)電気の導入を拒否したブータンの集落にオーストリアの援助で地下埋設の電線を通し、太陽熱発電による電気のある生活になったと言うことでした。

2042:真意

世の常として守旧派と改革派という対立は生まれるものだ。変化を好まないのは住み慣れた場所を何らかの理由で移動せざるを得なくなった時、先ず不安が生じる。
一方自らが一か所に止まる事を避け、放浪を選ぶ人もいる。
 尚恵学園という狭い社会でさえ、様々な思いが交錯し、その真意をはかることの難しさを痛感する。今年は初めて地方紙に求人広告を出した。正直半信半疑、応募が無くて当然という気持ちがあった。それが以外や以外、予想以上の問い合わせがあり、既に内定を決めてあった4名を含め、7名ほどの採用を行うことになった。欠員の補充ではない。
 すると、新たな心配事が生まれた。受け入れ体制ができているのか?ということ。私は構わずGOサインを出した。
 正直、新採用の者が期待に合う合わないはやってみなければ分からない。
 人が増えれば、当然新たな波が起こる。それを怖がっていたのでは何も変わらない。人手の少なさを出来ない理由にしてきた者に二度と同じことを言わせない。
 創意・工夫を目標に掲げやってきた。後から来るものに追い越され、自分の影が薄くなるものもいるだろう。それは自己責任だ。決して常に追い風ではない。世の中が沈滞しているから流れが一時的に変わっただけ。そのことを肝に銘じて覚悟を決めた。
 国は住民サービスの細かな点を地方に任せる方針を固めた。遅きに失する感も否めない。
 これからが真価が問われる時代、他のまねごとで事業を行っても上手くはいくまい。人手が増えれば当然リスクも増えるが、良き人材を見出す余地も増すことに。
 できれば長期の研修もやりたい。ノルマを課してそれにどう応えるか?
 密かに私自身は燃えている。何か新たな展開に挑戦してみよう。可能性は充分、それとニーズは計り知れない。
 福祉は規模の大きさでは無い。真意は何か?
 実践を通じ、証明するものだ。痒いところに手が届く、そんな事業体でありたいものである。
  私のメールに毎日のように情報を流してくれる所がある。その会は某大学の山岳部のOBで組織された団体。様々な分野で活躍されている人達がメンバーで研究者や文筆家など職業も多様である。
 2日後に名古屋でブータンに関する講演会があるという知らせが入った。予約の必要はない。しかし、講演は通訳無しの全て英語で行うという内容だった。
 福祉業界が一歩も二歩も後れをとったのは、研修の中身を見ただけで分かる。
 制度が変わり、報酬単価も変わると大騒ぎ、これで本当に良いのですか?
 

2043:熟年パワー

生産と消費、これって経済学の基本ですよね。いたって単純明快。でもね、複雑になっちゃって、どうしてこうなっちゃうのかね?
 学説やら自論を売って商売にする人達がいるからですね。世の中って持ちつ持たれつで上手くバランスが取れて平和なはずだった。それが一人占めしたい人間が出てきてイザコザが増えたということですよ。
 『はやぶさ・・・遥かなる帰還』という映画を見ました。渡辺謙が主役の山口先生を演じていました。イトカワという小惑星に衛星を降ろしその表面の微粒子を採取して持ちかえってくるというプロジェクト、何度となくトラブルが起こって諦める寸前までいくが、スタッフが智恵を出し合って見事に地球に1500個の塵を持ちかえった実話。
 生産と消費、お金が介在し、多様な価値観が生まれた。そんな中でも限りない大きな天空を相手に夢を描く人々、その思いは多くの失敗の繰り返しで失敗を次に活かす事の大切さを教えた、そして必ず次の世代にそれが引き継がれていくと信じる人達・・・・・・・。
 いま、日本は湯水?の如く大盤振る舞いしたお金で自らの首を絞めている。お金は人間が考え出したモノ、それをどう使うかで真価が問われている。
 人間の欲望を測る物差しはありません。使いきれぬ程の財産を持ちながらも、貪るようにお金を掻き集める輩も存在する。
 ””守銭奴””  それを個人の自由と言い、権利だと決めたエゴイスム。
 人生、長生きできて80年、そんなに貯め込んでどうなるの??60歳という年齢は、はやぶさの7年半に渡る宇宙の旅に例えればどの辺だろうか?映画の最後のシーンは、大気圏に突入し、微粒子を入れたカプセルを放し、はやぶさ自体は燃え尽きる。
 その時、涙腺が緩み、涙が止まらなくなった。
 燃え尽きる前にはやぶさ自身が内蔵のカメラで地球を写しそれを地球に送ってきた。自分が生まれた地球、そして役目を果たし自らはその地球に帰還できなかった。そしてカプセルに想いを積め燃え尽きた。

 私達の人生もこうありたいものである。生来無一物は仏教の基本的立場、何を次世代に残すか、これは一人一人が必ず持つミッションである。
 卑下する必要も恥じる必要もない。この世で唯一のミッションだから。
 そう考えると定年などと人間が決めたことに振り回されることの馬鹿馬鹿しさ。感動とは深く物に感じて心を動かすこと。熟年の生き様はいろいろでしょうが、私自身はできれば”はやぶさ”のような生き方ができればと密かに願っている。

2044:望まれる人

”船中八策”なる言葉がやたらと出てくる。知られているのは坂本竜馬が藩主山内容堂に建白のため上京する船の中で新たな8カ条の国家構想を書いたということ。
 政党や内閣支持率は変動が激しいのが常、野田政権もスタートしてから下降線を只管歩んでいる。既成政党への支持も低迷し、国民は新しい政治のウネリに期待をしている。それに敏感な政治家が色めき立って身の振り方を画策している。明治維新は大義として国家をどうすれば良いかという命がけの闘い、平成維新などと言うのはもっての外、自分の為ミエミエの政争に国民はとっくに愛想を尽かした。賞味期限が切れた大物(?)よ。貴方達の役目は終わった。潔く下船しなさい。幕末の志士が一人でもいたらそう諫言したに違いない。
 冷静に見廻して、蜜の味を知ってしまった人達にどのような箴言も通じない。今までの蓄えを質に出してまで蜜を買い求めるのもいい加減にしなさい。中毒症状から抜け出すには、一切を断つこと以外に方法がないでしょう。
 堂々巡りを繰り返し、挙句の果てに公衆の面前で深々と頭を下げて済む話ではない。
 東電が国の資本注入を求め、その時に枝野経産相が対応した。「私がこの任にいる限り、税金で助成する以上は議決権の相当分を国に持たせることが条件だ・・・云々」と釘を刺した。
 これをテレビで観た時に、当然だろうと私は思った。しかし、なにか変だとも同時に感じたのである。つまり、何故、彼は私がこの任(大臣)にいる限りと言ったのか?
 この言葉は微妙だ。他の人が大臣になれば知らないよという風に私には取れた。これが今の政治の不透明な実態である。
 私の考えは捻(ひね)くれているのでしょうか?電力の大口契約者には17%の電気料値上げを4月から実施したいという話も唐突に聞こえる。
 経団連は東電の実質国有化には反対するという会長談話。そして東電の西澤社長の弁、「民間の活力を維持するために・・・云々」
 それって本心?国民意識との格差は相当なもの、何故、他の国で出来て日本ではできない。電力供給を国策として独占企業が占めている。この言い分は、相当時代遅れではないのでしょうか?お手盛りの料金値上げなどどこを見回しても有りませんよ。これが彼らにはどうも理解できないようである。
 枝野さんに私はこのように言って貰いたかった。民主党政権ならばこうだと。
 いまこそ真に望まれる人に登場願いたい。弁舌さわやかじゃ無くて結構、引き際を自分で決められる人間、自分で梯子をかけ、自分に不利と思えば勇んで梯子を外す人間を許さぬ人。
 そのような人間が永田町にいるのでしょうか。教えて欲しい。
 それと議員報酬を半減しても留まる”先生”が何人いるのでしょうか?清濁併せ飲むならば、高級ワインに舌鼓する人間は政治に向きません。これホント。

2045:望まれぬ人

この世に生を受けた全てのものに望まれぬ存在は無い。「一切衆生悉有仏性・・」≪大般涅槃経≫
 山川草木全ての生類に仏性をみる。この考えは時代や宗派により若干の相違を認める。”仏性”をどのように解釈するかというとヤヤコシイ。ここでは望まれる&望まれぬという分け方から見てみたい。
 更に言うと無駄か無駄でないか?果たしてこの世に無駄なものがあるのでしょうか。日本ほど使い捨ての物が氾濫する国は無い。買い物のビニール袋を有料にし、いくらかは減ったでしょうか?土浦は一先に有料化を始めた。日本中津々浦々、ゴミの回収は自治体が行っている。最終処分場も立派な設備を備え出来ている。
 また、浄水場があり、生活排水の垂れ流しも今は無くなった。これが当たり前の社会となった。
一方、地球上に二酸化炭素の量が急激に増えたのは産業革命が起こった時からだという。18c〜19cにかけてイギリスを皮切りに西欧社会に瞬く間に広まった工業化。この間精々200年で一気に地球環境が変わったことになる。
 地球が生きている。最近、震度3前後の地震が毎日のように起こる。地殻変動が活発になっている証拠、茨城に住んでいると地震に対し敏感にならざるを得ない。最近福島第1原発の2号炉内の温度が上昇しているという報道を聞き、一体何を根拠に政府は冷温停止を公表したのか不信感を強めた。
発表の内容が憶測の域を出ないし、現に何が炉心内で起こっているのか誰しも確かめることすらできていない。
 現政権の最大の弱点は具体的且つ明確な方針が示せないこと。全てに合格点が付けられる政府など存在しない。それを望む人もいないはず。何かこれだけは絶対やるという覚悟を感じない。このままズルズルと行ってしまうのか?
 その時々の内閣にはシンクタンクが当然存在する。腹が括れない政治家にも問題があるが、頭脳集団たる政策提言者にも問題アリ。自信がないのかどうかは知らないが、簡単に自説を変更してしまうことをどうにも感じない人達だ。
 官僚が悪いとかいう前に彼らには庶民が何を望んでいるかが掴めていない。既成品をリメイクした程度の政策で硬直肥大化したこの国が変われますか!
 もしも望まれぬ人を挙げなさいと言われれば、過去の栄光(?)に現を抜かし、どうにかして影響力を死守しようとしている人達だ。その種の人間が組織の中枢にいたとすれば最悪である。
 世の常識として、表に現れた現象面と思惑は一体では無い。ある程度の齟齬は潤滑油にも成り得るが、水と油の関係に至っては弊害しか残らない。
 昔の人ならば、自らの経験で是と非を見分ける智恵があったのだが、温室で促成栽培された類の人種にはその能力が著しく欠けている。バランス感覚を失った人間どもが智恵を出し合って何ができるのか!
 その視点に立てる人間の育成には多くの犠牲と想像できない程の長き時間が必要なのかも知れません。
 知らぬ存ぜぬの立つ位置を国民一人一人が反省し、自らを変えていくことによって、その時間を縮小させることができまいか。

2046:妥協点

ふと思った事があります。飽きっぽい性分にしては、よく続いているなーと。このコーナーがなんと2000回を越したのである。暇だからという揶揄もあり、自己嫌悪あり、ストレス解消あり、全く一貫性の無い拙文であることは自認する。
 継続には果たして力があるか?それも愚問である。私の場合は、必ずキーになる言葉を含ませる。これを掘り下げていくと知らない世界を覗けるという悪趣味が満たされ、それが一種の中毒となったようだ。
 そこで今日は≪妥協点≫ときた。
 原発の再稼働を民主党が承認するという。ストレステストと地元の同意が条件となるそうだが、経済界の強い要望に応える形。 妥協を英語ではなんと言うのか?compromise である。なるほど一つ勉強。例えば Love demands understanding and compromise という使い方、日本語の意味で「愛には理解と妥協が必要」となる。なるほど・・なるほど。
 これを言葉遊びすれば、compromise demands Love and understanding として「妥協には愛と理解が必要」と組み変えてみるとその意味が違った展開になることに気づく。これ私のささやかな発見と喜び。
 原発の妥協に愛と理解が条件・・・・・・!
 いま、日本人は【愛】とか【絆】という言葉に関心が高い。何故か?それを失いかけているという不安からでしょうか。
 湯水の如く電力を使い、それを無駄とは考えない国民は世界でも日本人が断トツかもしれませんね。その代表格がギンギンギラギラのパチンコ店、ミニラスベガスが全国にあるようなもの。それに自販機、これだって数が半端ではないから消費電力は相当なもの。この二つが良く話題になる。それ以外、挙げれば切りが無い。
【愛】って何ですか?実はこれが良く分からない。分からずして妥協する。この繰り返しを懲りもせずやっている。
【絆】という話で、誰だったか知らないが(有名芸術大学の学長)、絆は反対だという。その理由は個性が無くなるから。どうしてそうなるの???芸術の魅力と勘違いしているのです。
 この国の歴史は妥協の歴史かもしれない。それを拒否したのが江戸期の鎖国、それでも息抜きはちゃんと用意されていました。長崎の出島。
 日本人の特徴として器用にブームに乗ることがありますね。この方が問題だと私は思っています。生き伸びるためには本当にそれが必要なのかを良く考えたほうが良い。
 橋下さんの維新の会、一種の政治ブームと成りつつあります。確かにその土壌はありました。既成の政党の色が分かりづらくなって選択ができない。これに対しての欲求不満は最高潮に達し、そこに先ず名古屋が先兵を切った。その流れをくんで今回の大阪。
 国と地方は違うと思うが、所詮、人間がやること有言実行で実行力のある人間に託したいと考えるのは自然だ。
他に選択肢が無ければ仕様があるまい。
 お手並み拝見と悠長に構えてはいられない。スピード感と決断、それが今一番要求されている。
*中国の次期リーダーがアメリカを訪問、破格の待遇を受けた。今や世界の二大国となった両国の首脳、洩れ聞くところによればお互いの立場と主張はハッキリと主張したという。
 これこそが緊張感のある外交交渉だと私は思う。妥協点を探ることも大切だが先ずは自国の考えを示すことが重要ですね。
 

2047:神様のカルテ

朝起きて
雪が積もっていた・・
盲目のピアニストとして活躍されている辻井伸行さんのCDを2枚買いました。その一枚が『神様のカルテ』という題名で彼の自作曲を載せたものでした。
 ご存知の方も多いとは思いますが、彼は2歳の頃、母親が口ずさむジングルベルに合わせておもちゃのピアノで伴奏したそうです。耳で聞いた曲の複雑な和音もほぼ完ぺきに聞き分ける才能は天賦のもの、2007年10月に出したデビューアルバムから今に至るまで多くのCDを世に出し、各地での演奏会、それと映画やドラマのテーマ曲を自ら作曲しています。
 彼の奏でるピアノの音色は澄んでいてとても温かい。そして、彼の人間性、「盲目の天才ピアニストとよばれるよりは、ひとりでも多くの人に演奏を聴いてもらえる本物のピアニストでありたいと語る。そこには一片の奢りも感じない。音楽をこよなく愛する一人の人間なのです。
 川に行けば”ささやき”を感じ、それをピアノで表わす。この感性は真似してできるものではありません。彼の純真な心と周囲の人達や自然に寄せる優しさは、多くの人達に勇気と気づきを与えています。
 今朝、起きて見て驚きました。今年になって2度目の雪でした。
 日本の自然は四季があり、北から南まで違った姿をいつでも見せてくれます。昨年からの大雪は記録的なものです。そこで暮らす人々のご苦労を思うと軽率な言い方はできません。若者は職を求め住み慣れた場所を離れます。残されたお年寄り達が肩を寄り添いながら先祖伝来の家を守っているのです。
 降り積もった雪は春になれば田畑を潤すことを知っているからでしょう。耐えながら厳しい冬を越すのです。
 私は、人一倍好奇心が強く、知りたいと思うと何が何でも知ろうとします。BS放送を観ていて、昨夜はまたメモをしました。
 佐伯啓思という方です。「反・幸福論」という本を著した京大の教授。この方の考えに興味をもちました。
 確かに今の日本は出口の見えない閉塞感と重苦しさに悶えている、誰もが早くここから脱出したいと思っています。まだ、その本を読んでいませんが、多分こんな事を言わんとしているのではないでしょうか。
自由とか豊かさを疑う事もせず無条件で受け入れてきた日本人、自由を得てどうなった?豊かさの後に何がある?これらの検証をせずに戦後、盲目的に突き進んできた。溢れんばかりの「幸福論」や「成功事例」に違った視点から見つめようじゃないですかと問い掛けていると想像した。今日にでもアマゾンで申し込む予定だが、自信を失った日本人が生き方を変えるチャンスだと私も思う。
 私は宗教と福祉の世界しか知らない。それだってほんの片隅に関わらせていただいていると思うから大それた事は言えない。辻井さんには失礼かも知れないが、障害を持った事を受け入れる事の大変さは健常な視力を持つ我々には正直理解できないと思う。国やマスコミは挙って少子高齢化社会を問題視する。これだって何が問題なのかという事の総括はされていない。人口が多過ぎると考える人にとってはチャンスと考えられよう。私だってそれに賛成する。私達の年代は小中学校時代、生徒数が多くてクラスには50名ちかい生徒が席を並べ、受験になれば競争率30倍〜〜40倍という時代を送った。
 それが果たして良い事かどうか。
 食糧自給の問題だって、中国やインドと北欧諸国を単純に比較できないはず。地球環境がここまで悪化したのは、人間が多過ぎることと無関係ではあるまい。
 『神様のカルテ』という映画は見ていない。今の日本を神様がどう診立てるか判らないが、レッドマークが至る所に記されているような気がする。
 

2048:阿闍梨

阿闍梨(あじゃり)とは「軌範」という意味があるそうです。坊さんの世界で弟子に範となる僧侶を阿闍梨という。
 どのような範となるかはそれぞれ?しかし、私が知る阿闍梨で尊敬する方は天台宗の酒井雄哉大僧正で千日回峰行を2回満願した方、死を覚悟する過酷な修行、それもなんと2回も行った。既に85歳を超えたお歳だが、顔の艶や話の面白さは断トツ、穏やかな顔は、その辺にいるお人よしのお爺ちゃんといった感じがする。
 「阿闍梨にとって生きることはどういう事ですか?」と問われ、「仏様に提出する卒論をかくことだ。」と言う。ダメだったらもう一度人間に戻ってやり直せと言われると飄々と答えた。
 「回峰行中、ズルをしたいと思いませんでしたか?」と問われ、「どこかで仏様が見ているからできない。自分が後悔するだけだ。」と言い切った。
 阿闍梨の人生の遍歴は波乱に満ちている。何故僧侶になろうとしたのか?それは人との出会いだと言う。それと別れもあった。結婚し2カ月で奥様に自殺されたという経験もしている。様々な職業を転々とし、全てが上手くいかなかったという。
 1日1生を自分の生き方としている。大正15年生まれだから、先の戦争も経験した。
 世の中には、範とするような人が沢山いると思う。そんな人と出会えるか否かは分からない。
 話は変わるが、EXILEのUSAさんがブータンに行った時の話、ブータンの山村で行われる祭で行われる踊りに挑戦。
 彼の所属するEXILEは超有名なグループで五万人の聴衆の前でパフォーマンス、拍手喝さいの後に一人ぼっちを経験、その格差に悩み踊れなくなったという。彼はブータンの人達に「幸せですか?」と問い掛ける。皆が皆「幸せです。」と答えるのに、茫然として立ちつくす。何故?
 祭の踊りの練習に挑戦、その時に言われた言葉、「貴方は人前で踊ることに慣れている。覚えるのも早い。でもそれだけ。
私達の踊りは人の幸せを祈るもの、その心を感じない・・・」そう言われてまたもや立ちつくす。
 結局、彼は仲間から励まされ、見事に本番の祭で踊り切った。
 自分の為ではなく、他の人の幸せを願って踊るんだと決心。帰国後、彼は踊りを社会貢献だと子供たちに踊りを教え始めた。
 華やかさの中に本物があるか無いかは知らない。これは全ての事に通じること。
 福祉だって当にそうだ。外見では判らないことばかり。
 40年以上も尚恵学園を利用された方で痴ほう症が進み、どう対応して良いのか分からない方がいる。結局、老人の認知症GHへ移ることになった。
 初代の理事長が良く言っていた。お粗末な設備だけれど、居たいと思う方にはいつまでも居られるようにしたい・・・と。
 何故、尚恵学園でみられない?職員もいざ退所が決まると複雑な思いになる。本当にこれで良いのか否か?
 住み慣れた場所を離れることは彼女にとってどうなのか?
 私の立場では正直何も言えない。職員は1対1で頑張った。他のメンバーを考えるとそうせざるを得無かったに違いない。
 我々の仕事は際限の無いもの、完璧にできることなど何もない。限界を常に感じながら、その日暮らし。これを拒否するならば、この仕事はできない。
 出会いと別れは、誰にもある事。でも、それをどう考えるかは一人一人違う。
 

2049:疑心暗鬼

近くの公園をヲーキング、犬を連れて歩いている人とすれ違う。どう言う訳か、お互いに挨拶を交わさない。
 すると遠くの方で何か大声を立てている。何だろう?中学生ぐらいの若者が7〜8人家の前で集まっている。良く分からないが一人の男性が家の人に怒りを爆発させている様子。壁を足蹴りしたり意味不明の言葉で叫んでいる。場所は住宅街、隣近所にその騒ぎは筒抜け、休日の午後の出来ごとだった。
 最近、どうも出口の見えない長いトンネルに入ってしまったように感じます。薄暗い明かりをたよりに前に進む、果たしてこのまま進めば出口に出られるのだろうかと疑心暗鬼が生じる。
 ならば、来た道を戻れば良いのにと思うが、その決断ができない。
 戻ったところで以前とは違った状態にあるに違いない。それなら、一か八か前に進んだ方が良い。こんな危うい選択しか取れない・・・・・。
 どうしてこうなるの?と何度考えても答えは出ない。
 無い無い尽くし。多くの日本人が斯様にマインドコントロールさせられてしまったのか。明らかにバランスが崩れている。
 そこで、どうにかしないとなるまいとマスコミが挙って煽ぎたてるから、余計妙な展開になっている。
 今日は今から定期通院、予約は9時からで、少々朝忙しいのだが、待ち時間のズレが一番少ないのでいつもこの時間にさせて貰っている。
 大学の付属病院だから多くの患者さんでいつもゴッタがえし。
 天皇陛下が心臓の手術を東大病院で受け、無事終わったという。3月11日の震災追悼の集いに公務出席するために、手術を早めたという。様々なご公務をこなしていかれるには、大変なご苦労がおありになると推察いたします。
 陛下ご夫妻の慰問を受けられ被災地の皆さんがどれだけ励まされたことか、復興への動きも少しづつ出てきている。
 日本人は必ずこの試練を乗り越えると信じている。日本人全てが心からそれを願っているからである。
 世界各地では依然として紛争が起こっている。地下資源などが絡むと自国内だけでなく他所の利害者が入り込んでくるから厄介になる。これが世界の実態だ。
 相手の痛みを感じるどころか、どうにかして自分の利になるように画策する。貧困と略奪の最前線で生きていたらどのような人間だって変わるだろう。
 宗教に救いを求め、人は必死に祈る。しかし、現代はそのこと自体が紛争の原因になっている。
 このどうしようもないジレンマを解決する術がないのだろうか?
 打ち上げ花火でない、継続可能な方法。
 通信や交通の手段が明らかに変わってしまった。相手に自分の気持ちをどう伝えるか?これはどのように便利になってもスピード化しても変わらない唯一の何かがあると思うのであります。
 

2050:思想遍歴

”エクスピアリアンス(経験)とはペリル(危機)にエクス(身をさらす)ことなのである。そうしたものとしての経験から得られた智恵の歴史的堆積が伝統なのだ。・・・・”《西部邁「危機統治からの逃走」》
 3.11後、彼が著した書籍を何冊か読んでみた。最近メデアに良く登場する識者に本物を感じない。何を拠るべき思想の軸にしているかが見えてこない。知識や弁舌爽やかという人間は捨てる程いる。時の権力者に擦り寄り、誉め言葉を巧みに使って自らの地位を築いてきた輩、もう騙されない。
 その意味で、今、西部に強い関心を持った。彼は学生時代からその名前は知っていた。少々危険人物という一方的な思いこみもあって彼の著したものを読んだことが無かった。
 大学という組織に馴染めないタイプの人間で折角掴んだ安定の教授の座を自ら辞めている。
 私は一周り若い年代で1968年に大学に入った。学生運動まっ盛りの時代で若者は熱に魘されるようにアジトを作ったりデモに参加し、発散していた。だが傍観者でその者達を冷ややかな眼でみていた連中も多かった。私はどちらかと言えば、その類であった。
 その後社会人となり、様々な経験をしながら今に至っている。何を寄る辺とするかを捜し求め彷徨ってはいるが、依然として確信の持てるものを掴み切れていない。
 西部氏は6歳の時に終戦を迎えている。私の年代は復興に向けて産めよ増やせよと活気漲る時代に生まれた。そこに虚無的な考えを挟む余地など無かったのではないだろうか。
 平和と自由と繁栄、三種の神器よろしく何の疑いも無く只管走り続けた。その流れに乗り遅れまいと友達ですら競争の相手とみて生きてきた。
 そして、いま日本中が大きな試練にぶち当たっている。一番の問題は、何を寄る辺とするかに確信が持てないことだと思う。全てを一瞬にして失った人達がいる一方で、金融やITでボロ儲けし、湯水のごとく金を使う人達もいる。ベンチャー企業という名の元に平成の成功者に名を連ねる者達は自らの利を優先し成功談を自慢する。
 原発事故後の対応で顕著になった事、それは誰も責任を取らないということである。万が一、自らその職を辞した人であっても退職金を上乗せしてもらい、次なる職場が用意されている。
 自らの責任ではなく、先祖伝来の土地を失った人々との格差はいかなる慰めをされても納得できまい。
 この世は不条理なことが多過ぎる。 
 憲法改正の議論の中で9条をどう捉えるかという問題がある。日本が先の大戦で得た経験は次世代に不戦の教えとして語り継がれるべきだと私は思う。
 だが、アメリカの言い分を受け入れて従属する関係は、もういい加減に辞めてはどうかと思うのだ。
 それには現実に目を背けないことだと思う。
 日本人には、その議論をすることさえ良からぬことだと考える人が多いような気がします。いま世界でアジアが一番元気があるという。中国、インド、シンガポール、韓国・・・・。凄い勢いで経済発展をしている国々だ。日本のお家芸であった輸出品が品質や値段に於いて大差が無くなり、追い抜かれるという強迫観念が蔓延している。
 足元を見てみたまえ!成熟社会と言う言わないに関係なく、物が溢れ、毎日出されるゴミの山、これをどう考えるか?消費意欲を伸ばそうとしても、使えるものがいくらでもある世の中に今我々は生きている。