源究130

 

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
2111 風見鶏 4/23 2116 変化の兆し 4/28 2121 バーベキュー 5/4 2126 愛鳥週間 5/10
2112 海外事情 4/24 2117 新風となれ 4/30 2122 いい加減な 5/5 2127 意識化 5/11
2113 備え 4/25 2118 連休散策 5/1 2123 肩肘 5/7 2128 岐路 5/12
2114 同級生 4/26 2119 メーデー裏表 5/2 2124 2重苦 5/8 2129 生きる意味 5/13
2115 関心無し 4/27 2120 喜色満面 5/3 2125 支持者のホンネ 5/9 2130 世間体 5/14

2111:風見鶏

何やら風雲急を告げる状況が、日和見主義とか風見鶏といった比喩的言いまわしがそのままピッタンコ。
 なんでそうなんだ・・・・?しらけ鳥が飛びまわる。フィクション作家なら題材に苦労せず、なんでもござれ。他人の評価ほど当てにならぬものは無し。流行りものの如く、スポットを当てられいい気になっているとさーと去っていく。世の仕組みがどうもそんな風になってしまった。
 風見鶏と言えば【客人】No:2109で疾風の如く登場したニワトリ君、引き際が立派というのか、3日目の朝、姿をくらました。
 定位置となった室外機の上に今、ノラ猫が居座っている。私は大いに後悔した。箒を持って追いかけた自分がなんと非情だったか!
 彼はここに長居は禁物と姿を消したに違いない。
 方や人間社会、問責を可決されたにも関わらず、居座ったご両名の心中はいかに?ご本人は多分、早く辞めたいと思っているに違いない。被告人席のごとき誹謗中傷に身を置くには忍びないはずだ。だからと言って自分だけの判断で動けないモドカシサ。一方、誰もが早く辞めて欲しいと思う人間は・・・・・・。
 ニワトリ君が恨めしい。
 東日本大震災の津波で家が流され、その時一緒に流されたサッカーボールがなんと5000キロ離れたアラスカの島まで漂流、現地の方が拾ってくれた。その拾った方の奥さんが日本人、なんという因縁かと思った。拾った方は、被害にあった人達がこのボールを持ち主に届けることで復興への手助けになればというコメントを出した。この話を聞いた時、皆さんはどう感じたでしょうね。
 そして持ち主の感謝の気持ちが色紙に書かれて紹介された・・・・・・毎日お風呂に入りたい。・・・・・サッカーの試合がしたい。
 何気なく普段できていたことが震災によって出来なくなった。日本人は何を感じ、自分達ができることで協力してきたか?
 福島原発の現在の非難区域で、10年たっても戻れない帰還困難区域(年間50ミリシーベルト)があるという。今後20年先まで計測をするそうだが、果たしてその後はどうなるのか?
 日本人の多くが電気は当たり前に使え、蛇口を捻れば水が出るという生活に慣れてしまった。原発の再稼働の議論が、様々な展開を見せている。原発関連の仕事に就いている人達にとって停止は死活問題、それに替わる仕事が用意されるだろうか?
 安全神話が脆くも崩れ、当たり前と考えていたことが出来なくなって始めて気付いたことが沢山あります。
 一時たりとも立ち止まることはできまい。それが、問責決議という誠にバカバカしい事で審議をストップさせる。この感覚をどう思いますか?ハッキリ”NO"と言うべきでしょう。私はそう思っている。
 別にお二人を弁護するつもりは全くありませんが、あのミサイル発射の時、他の議員の皆さんは何をしていたんでしょうね?
 どっちもどっちでしょう。この危機感欠如が永田町界隈には蔓延している。夜な夜な高級料亭で密談?
 国会開催中、どんな理由があろうとも審議をしない日は減給すべきでしょう。勤務評定までしたくは無いけれど、これが社会の常識というものだと分からないのでしょうか?
 今回の震災によって、日本人全てに突き付けられた事、それは常識を取り戻すという一語につきる。
 

2112:海外事情

オランダのルッテ首相がベアトリックス女王に辞任を伝えた。遠くヨーロッパの国の事情は日本にいると良く判らない。ギリシャやイタリヤ・スペインなどの金融危機のニュースは最近良く耳にするが、あのオランダがと思った。決して派手さは無いが堅実でバランスの取れた国と思っていた。
 フランスのサルコジ大統領も選挙戦で苦戦、アメリカもオバマの対抗馬が決まり、いよいよ大統領選へ突入、中国は水面下で凄まじい権力闘争が繰り広げられているのだろうが、決して表に見せない。ロシアもプーチンの再登板。
 北アフリカの国々も市民運動のウネリから雪崩現象のごとく長期政権が変わった。そして北朝鮮、人工衛星の発射失敗の後、何やらまた新たな動きが騒がれ始めた。
 日本はどうか?世界の流れと微妙に違うように思われる。何せ目まぐるしく変わった首相、日本人でさえ、最近10年のトップの交代劇、名前と順番を正確には答えられない。これはもう論外で外国の視線は限り無く冷めている。
 日本国民ほど辛抱強い民はいないかもしれぬ。様々な政策が日替わりメニューよろしく変わる。一時話題になった八ツ場ダム、すっかり影を落としてしまった。障害者自立支援法が廃止され、それに替わる新たな法律、障害者の支援を総合的に行うための法律だとか?いま巷に流行しているバイキング料理店みたいだ。自分で小皿に少しづつ取って食べるが、何となく満足しない。落ち着いて食事をするというよりも、取りあえずという類で明日また変わるかもしれない。
 あまり話題にならなかったが、政府の少子化担当大臣、なんと一年の間に三人大臣が変わった。八百万の神の日本ならではの離れ業、その部署に何人職員がいるのか知らないがたまったもんじゃないだろう。斯様に日本は海外の事情にお構いなしに独自路線を走っている。否、走っているんじゃーない”迷走”しているのである。
 日本人には敗戦というトラウマが依然としてあると思っている。この精神的なキズを癒す手立ては、経済の発展だけでは無理だった。目くらましにあったというのが正解で、戦後65年が経ち、様々な弊害が一気に噴出した感じ。難しい問題を先送りしてきたツケ、本来、国会の場で審議されるべき内容が、常に中途半端となり、具体策が出せなかった。大臣の資質や言動を理由に国会審議を何度中断すれば気が済むのか?国民は詐欺にあったような気分で或る。
 26日、世間の関心が大きい某裁判の判決が出る。私は全く興味が無い。むしろ、論外である。検察の取り調べの実態は私には経験がないから判らない。
 それよりも、国政に長く関わった人間としての責任は、そんな事で清算できるものではあるまい。この混乱の責任をどう取ろうとするのか?正直、期待できない。
 これは別次元の気になった話題。NHK大河ドラマの「平清盛」の視聴率が低迷しているという。その原因はいくつかあるらしい。画面に現れる風景が異様に見える。人物の身につけている服や建物に違和感をもつ。正確に時代を再現しようとした目論見は判るが、そこで語られる内容とシックリしない。
 大河ドラマ成功の可否は時代のニーズに如何に合致した内容にできるかである。このミスマッチに視聴者は敏感に反応し、続けて見ようとはしない。
 いま、日本の状況はそのミスマッチが至るところで起こっているような気がする。26日の結果に関心が持てない一つの理由にそのことが良く伺えるのだ。
 

2113:備え

昨日は午後から浜松町にて会議があり、リュックを背負って向かった。最近、東京直下地震の報道が賑やかでその事が気にならないと言えば嘘になる。そこで、東日本震災から私が続けていることで、リュックの中に懐中電灯と予備の電池などを入れて外出することにしている。手提げカバンだと置き忘れが心配なのと、いざという時に荷物になるからだ。
 東京は一時たりとも止まる事がなく忙しなく動いている。ここに突然、予想されている震度7規模の地震が起これば、どうしようもない。これが今の日本の現実だ。
 会議が3時頃終わった。年度切り替えで役員が若干名変更になり、その御苦労会を駅近くの店で行う。まだ早い時間で開いている店を捜すのに苦労したが、幸い一軒だけ見つけ、3時間程過ごした。土浦に車を置いてきたが、皆さん酒豪ばかり、一人蚊帳の外もどうかとビールを貰った。結局、駐車場に車を置き、神立からタクシーで帰宅した。
 駅から観音寺まではワンメーターの距離、長い時間駅構内で待機してこれでは申し訳ない。そう思っている。
 今朝方またもや地震があった。震度4だった。いつまで地震が続くのか、気にしてばかりはいられないが、地球が底のほうから怒っているように思ってしまう。気候も変だ、1日で10度も最高気温が違うと体調もおかしくなる。また、風邪?が流行ってきたように感じる。
 尚恵学園では感染予防マニュアルがあってインフルエンザが出ると日課を変える。日中の活動が3つの施設で重なる所があり、それを止めるのだ。これがなんとも気の毒で、本人は作業に行きたいができない。毎年この繰り返しをやっている。
 その甲斐が合ってか集団でインフルエンザになることは随分と少なくなった。初期段階での対応が上手くいっているのだろう。
 だが、人数が人数だけに風邪のシーズンになると困った状況にいつもなる。通常の日課にいつ戻すかの判断が難しい。
 なにしろうがいが上手くできず、マスク着用も難しい人達には、予防の手立てがこれ以外にはない。
 最近はレントゲンや健康診断は勿論、歯科治療にも往診してくれる。床屋さんも毎月来てくれる。昔と比較にならない程、保健衛生の環境が良くなった。
 ただ、高齢化はその改善以上のスピードで様々な問題を起こしている。
 今朝の明日への言葉で元国立がんセンター院長の垣添先生の話を聞いた。奥様を亡くされてその悲しみからどう乗り越えたかという内容だった。
 2日に亘っての再放送、先生が著した本を早速アマゾンで申し込む。
 心に残った話として、自分の死への備えをすべきであるということ。実はこれが一番難しい備えだ。
 がんセンターで多くの患者さんと接し、様々な死の場面に立ち合った先生の言葉だから余計説得力がある。それと日本の教育で一番弱いのはdeath education 、つまり死の教育だと言う。確かに小中高のカリキュラムにその種の授業は殆どない。教育が上級学校への入試対策と化してしまった弊害は、至るところに出ています。何らかの理由で大学進学ができない子供たちの気持ちを察するに自由と公平をどう教えるか!
 更に、死への備えは、自らの生をどのようにしたらよいかを考えるのに大いに役立つことだと思う。
 

2114:同級生

小休止
 やっと春めいてきて陽気も良くなってきました。どれ、ここいらで一丁やっぺーか!ということになり、中学時代の同級生で山さ芝刈りに行きました。結局3人となってしまい、気兼ね無く楽しいゴルフができ、良かったでーす。共通するものは腰痛以外は別に無い、お二人は仕事は充分?遣り終えたという事で現在自由人、もっぱら秘湯巡りとか庭掃除、極めて気楽な人生を送っている。 結果は、今年度ベストのスコアーを私は出したのであります。ただ、それだってもう一人の暇人のパープレイ(ハーフのみ)にあっては、くすんでしまった。午後は私のクラブがどうのこうのと二人が脇で講釈するのでうるさくて集中できない。どれ、俺のでやってみろ!とクラブを渡され、それはシャフトがSでした、打って見たらこれが真っ直ぐに飛んだ。ありゃーま。それから私(R)のは使わずに奴さんの道具で打ってたら、結局今度は私が勝った。ザマー見ろだ。これを俺にくれと言ったが無視された。
 早く、終わった、今日は3人とも車を別々に来た。これで帰るのは勿体ない。結局、土浦のゴルフショップに後から付いて来られ、何本も試打をやらされて、結局Sシャフトの中古ドライバーを買わされた。
 次回こそは、負けない。
 東京に行った翌日だからかもしれない。不謹慎だがこんな広々とした所で万が一地震が起こっても怖くはないと思いました。
 東京は人間の住む場所では無い。これは田舎者の私の偏見かもしれません。
 この際だから一極集中の首都機能は見直すべきでしょう。首都圏の移転をされた国は結構あるんじゃないだろうか?
 私が知る限り、アメリカ、ロシア、中国、インド、オーストラリア、スイスなど。国交省の中にあった首都機能移転検討部署が廃止になったとか聞いたがどうなのだろう?
 嘗て茨城もその候補地に名を連ねたことがあったが、今は判らない。いずれにしても思い切った舵取りを長期の展望にたって是非ともやってもらいたい。
 奈良平安の世ならば遷都は別に珍しくもなかった訳で、その事で国が破綻することも無かった。数日前、山手線のテロップでこんな話を聞いた。渋谷駅前に新たな建物を建てる計画があるとか、そのビルは地下4階、地上34階、200店の女性専用のテナントショップをつくり、2000名以上収容可能なホール・・・・・云々。
 それを聞いた時正直めまいがしましたね。地下4階でリラックスできますか?東京に津波が襲ったら、今の地下街は海水で水浸し、非難する場所すらない。恐ろしいことですよ。
 決してこれは想像の世界ではない。現実に1年前に起こったこと。その時の記憶が徐々に薄れてきたことは否めない。
 日本人全ての英知を傾け、国の再生をこの際考えようではありませんか!目先の細かなことに振り回されていても根本の解決策にはなりません。
 今、日本は我慢の時なのかも知れない。新興国の猛迫に浮足立ち、焦っている。でも、ちょっと視点を変えれば、そんなに騒ぐ事でもないでしょう。産業界を見渡しても、純粋な日本企業は少なくなった。上場している企業の大半は外資が入っているでしょう。そして系列に多国籍法人を抱えている。それが自然の成り行きです。
 嘗ての憧れだったJALが経営破綻し実質国営化で再生を着々と進め、もうじき株式上場がされるだろうという話、そうなれば国の持つ大半の株は売られ、元手を回収し、ANAと競いながら、またもや世界の空を飛びまわる時がやってくる。
 メタボになった体質を思い切ってスリムにし、足腰を鍛え、フットワークを良くすることはスポーツも企業も全く同じなんですね。
 

2115:関心無し

周りを見回した時、突出した人物が目立たない時代になった。大義名分という言葉が死語になっている。特にこの国を牽引すべきトップリーダーの言動は、一貫性に欠け、いかにも尤もな事は公言するが、やっていることが正反対、この自己矛盾を本人達は認めない。言うまでも無く”大義名分”とは、人として、また臣民として守るべき節義と分限だ。特に”節義”については、今や範となる人が見出せない。節操をまもり、正道をふみ行うことについて、一般人の常識が通らない。
 司法の場で、様々な遣り取りがある。日本は独自の裁判員制度を導入し、専門家以外に刑事裁判に国民の量刑感覚を反映させようとする。法治国家たる日本がそのことによって先進国と成り得るか?大いに疑問を感じます。
 庶民の量刑感覚とは大分乖離した状況がある世界には現実に存在する。26日の判決は、各メデアが挙って報道した。
 憶測の域を出ないが、この問題は、むしろこれからが正念場だと私は思っている。司法の判断と庶民の感覚のズレ、それは彼らにとって幸か不幸か選挙の投票という形で現れる。政治家にとって、司直よりも有権者の票のほうが大事だということは明らかだ。
 専門家が智恵を出し合い自分達に都合のよい制度、これに絶対という事は有り得ない。その法に抵触していないからといって、大義を果たしたとは言えません。
 だから、今回の結果によって安堵した者は、依頼を受けた弁護者だけで、当人は勿論、そのグループの人間はより国民の厳しい目に対峙しなければならなくなった。
 会津藩の城主保料正之の人間像を取り上げたBSテレビ、実に面白かった。今の日本のトップリーダーの資質や望まれる人材の不足、窮極的にはどのような人物が一番望まれるかという事を歴史を踏まえ話し合われた。
 そこでの結論はトップリーダーたる者の使命は、臣民の安心をはかることだということに落ち着く。
何か、今回の一連の動きを見ていると、民の安心どころか自らの保身としかどうしても思えない。そのような人物が万が一トップの座につくような事になれば、暗黒の世と成り下がる。何をもって範とするかという像が今以上に描けなくなる事は請負だ!日本人がそこまで落ちたとは思いたくないし、むしろ、如何なる理由があろうとも公人としてここまで世間を騒がせた道義的責任を感じ潔く引退される事をすすめます。
 今は鎌倉の上皇が院政をひいた時代と大きく変わった。日本だけの事をやっていればそれで国が安泰であるなど、国民の誰一人として考えているものはいない。
 それが永田町という閉ざされた社会の中において依然として自分達の利を最優先とした状況に変わりがない。政治主導と言いながら政官が凭れ合い、この辺で手を打ちましょう的な遣り取りが蔓延していませんか?
 民主主義という体制の中で自由を謳歌しそれなりの発展を勝ち得た日本、しかし、永世中立を誇るスイスでさえ、核シェルターをあらゆる所に持っている。この理想と現実の実態は、理屈を超え史実から学んだものである。
 その認識と覚悟が一番、自由を得たことで失った最も大切な節義であると思われるのです。
 政治や官僚だけが考えればそれで済む問題ではない。我々一人一人が熟慮し答えを出していくことだと思っています。
 

2116:変化の兆し

ご存知の・・【ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず・・・・】は鴨長明が方丈記にて著した無常感、鎌倉時代において 庶民は世の中をどうみていたのでしょうか、栄枯盛衰は源平の抗争という色分けされた武家社会だけの問題ではなかった。その中で常に弱き立場の民にとっては生死にかかわることだった。仏教の歴史からみてこの時代に最も多くの宗派が生まれたのは、救いを仏教に求めた民衆の切実なる願いからの当然の帰結だった。
 その中で阿弥陀仏信仰は当に末法濁世の時代に生きる凡夫が西方浄土に往生し救われたいと願ったもの、自力か他力かの隔ては別としてもその終局の目的は『安心』であった。
 当時から相当時間が経った、優に800年を超え、果たして安心できる世の中が現世において実現できただろうか?
 言うまでもなく、末法というより無法濁悪な有り様は何でもござれと巧みにうわべを美しく飾った文言が溢れ何を拠り所としたら良いのかが分からなくなってしまっている。
 ここに危機感を持った人々が自らの足元から先ず変えようと思った矢先に3.11という未曽有の自然災害に見舞われた。
 一度、便利さを経験してしまうと人間はそれを手放すことに大いなる抵抗を感じる。世の中は万事が上手くいくことなど有り得ない。鎌倉〜江戸にかける戦国の世ではないから、何をもって雌雄を決するか?守旧派と改革派という色分けも難しくなり、世の流れを変えようとすれば大変な労力が必要だ。
 映画『道 白磁の人』(*)が近く封切れされる。これは浅川巧という主人公を扱った映画で41歳の若さで亡くなった山梨県出身の人、日韓合同で映画化された。正直、浅川巧という人を私は知らなかった。今の日韓のギクシャクした関係は、元を辿れば日本が35年間という長い期間韓国を統治してきた事から始まっている。朝鮮半島は木々の生い茂る自然豊かな地域だったのが、外国によってその木々が伐採され地肌が現れた荒れ地と化した。そこに植林を行った人物が浅川巧、現在の韓国の山林の37%を彼が植林したという。いま、韓国の人から一番慕われている日本人だという。彼の凄さは、韓国の人と一緒に生きることを旨としたこと、様々なエピソードがあるが、それは映画をみてのお楽しみとしたい。
 福祉という言葉が段々隅に追いやられているように思えて仕様が無い。年金・医療・介護の3本柱、それに子育て。少なくとも10年前には、その間に福祉という言葉が入っていたと思う。
 私が言うと変に受け取られるかもしれぬ。そこで自分なりにはこう理解する。社会福祉という大枠の中での3本柱だと解すれば良いだけのこと。そのレベルの事ですよ。
 最近、妙な言い回しに出くわす。福祉施設による社会貢献を積極的に行うべきだと誇らしげに言う人と会った。その時に何か違和感を感じました。
 もしかして、我が業界の気付かない病巣?至極当然の事を恩着せがましく言う時代となったのでしょうか。
 それと同時に私自身を振り返り、猛省をしないといけないと思っているのです。有る方よりこんなメールを頂戴しました。
・・・・・・何もしないで決算時に相当な繰越金が出せる業種は、この時代におかしいと思わないか! ・・・・・・
 彼とはいつも真剣勝負、言葉ではなく、実践で闘いを挑んでくる。
 尚恵学園の創設期の事を思い出せ!60年という年月が止まったかのような錯覚に陥る。一体、その間に行って来た事がなんだったのか?
 心地よい話には耳を傾け、ほんの一部だけの成功事例を自慢げに語る集団、都合の悪い事には徒党を組み実力行使はすれど財務状況の改善という追い風が吹くと黙りこむ。
 そこで反旗を降る人間が登場すると異端児扱いをして排除する。
 これも長明が語った絶えず変化を繰り返すという世相の反映か。我が信ずる道を歩めと自らを叱咤し、周りの評判に振り回されず出来る事をやれば良い。
 *『道 白磁の人』6月に全国ロードショー。
 

2117:新風となれ

先日、某結婚式場で”歓送迎会”を行った。今年は退職する方は無く、新しく採用になった方が7名、様々なタイプの人が集まった。例えば頭に大きな耳を被った男性、ビールのジョッキーを帽子にした女性、年齢幅も大きく、親子以上の開きあり。
 これぞ尚恵!  曼陀羅の世界だ。上に掲げた写真は、私が携帯で盗み撮りしたもので、何人いるのかわからない。設定としては若いものを前にという趣旨らしい? よーく見ると7名確かにいる。宴が始まる前の自己紹介の一場面。
 さてと我らの仲間に入る諸君よ。何も恐れる事はない。新風となれ、疾風の如く吹き荒れろ・・・・・・。
 いつものように、少しアルコールが入ると、何を喋くったか判らなくなる私くし、多分、否、確かにそんな事を各テーブルを廻って吠えたはず。
 家に戻り、その晩考えた。次から次にアイデアが浮かぶ、忘れちゃーならねー。急いで紙きれにメモ書きした。
 一夜あけ、自転車で学園に向かう途中、ハス田でドロンコのKさんに呼び止められ、”これ 持って行け”と渡された取りたてのハス3本、暫し雑談。”大変だーね。休みないのですか?””うだーよ。5月は忙しい。6月、温泉に行くだー。これ、楽しみ、、”とチョコで飲む真似をした。
 常宿にしている旅館はいわき市の温泉、私も何度か利用した。でも今回の地震でどうなったか、今年は湯西川にすると言っていた。
 ハス3本自転車の前かごに入れていくと、今度は庭で座り込んでいたM先輩、立ち寄った。座りこんでいた?のではなく芝生の草を取っていたそうだ。暫し歓談、ハスを1本おすそ分け。
 さりげない普段の生活がここにある。有り難いことに、地域の皆さんが温かく尚恵の事を思っていてくれる。本日、立ち話をしたお二人は小学校に入る前から知っている。
 ああ・・何か爽やかだ。春の日差しは周りの草木を勢いよくさせる。自然と気分が盛り上がる。何も肩肘張って、東京にワザワザ出て行って、国がこうだ、予算がああだ。なんと無駄骨を折ったことか、徒労の積み上げをして自己満足、それがどうなんだやる意味を見失った。それよりも足元を見ろ。そんな事を言われたような気がした。
 携帯が鳴った。「あのよ。どうだ?」「誰?」「○△だよ」 どうだ?と聞いてきたのは、先日の芝刈りで無理に買わされた中古のクラブ、「練習やったか?」「だめだ・・・。おめーのが良いから取り替えてくれや」
 そこで電話がプツリと切れた。
 かまえなし・・・・・・これだわな。何事もそうだ。変な力が入っていると上手くいかない。自然体。自然を仏教では「じねん」と読む。そんな事どうでもよいのだが、一応そう読むことになってます。自ら然り、つまり、自ずからそうなっているという意味である。もともと、そうなっているものを余計なモノをくっつけて判りづらくしているのが現代社会。
 山田邦男という哲学者の話が実に面白かった。何故、話が急に変わる?かって自ら然りの説明だ。
 知る人ぞ知る、彼はビクトール・フランクルの書籍を数多く邦訳した方である。アウシュビッツでの体験を元に人間の生き方と価値をライフワークにした精神科医。『夜と霧』の著者といえばおわかりになりますか。
 何を私が言いたいのかと言いますと、テレビで行われている原発や増税の議論を聞いていると”本気さ”を感じない。それぞれ視座が違うから議論が噛み合わない。結論が出ない。
ニヒリズムの解釈で、こんな注釈がある。真理や道徳的価値の客観的な根拠を認めない立場。その中に、老荘哲学や仏教の空観、近代におけるニーチェ、20Cでのシェストフなど≪広辞苑≫
 まさに今生きている我々が克服しなければならぬ事は、虚無主義(ニヒリズム)というどちらかといえば過去に於いて敬遠されてきた考え方に目を向け自らの答えを見出す行動ではないのでしょうか?
 便利さや豊かさの追求は、ややもすると人間の生きようとする力や生きる価値を見失う最大の原因となってなっています。
 

2118:連休散策

薫風の頃になりました。皐月の始まりは連休と言う日本人にとり、大変結構な休息タイム、近くにある企業はなんと8連休だという。実家が農家の人ならば、休みには田に入って手伝いとなる。尚恵学園の周りの水田に、腰っぱりがギコチナク、上ばかり見て一向に仕事にならない人も駆り出され、親父の日頃の苦労を体験す、その中、親父が出来なくなったら自分が後を継ぐと思うものはいるのかいないのか?
 日本中が長閑で平和を満喫する最高の季節であろう。
 さて、私にとっては、毎日が草取り、すくすく伸びる雑草を手で抜く作業は持病の腰痛には甚くこたえる。除草剤はまかないと誓って早、10年以上、木々の影には数種の苔が見事に生い揃う。緑の絨毯とはいかないが、保湿効果があり、二酸化炭素を吸って酸素を発散、そんな自然の営みが目の前で楽しめる。
 いつもと違うのは、竹の子を掘って知人に送るという事が無くなった。セシウムとかいう得体知れずの厄介者が国の定めた基準超え、時期が来れば途中から折ってしまわねばなるまい。
 行楽地は大混雑だと思うから出歩く気など全く起こらない。そんな時、観光ツアーバスの事故のニュースが多くの人を震撼させる。犠牲になった7名の方、事故の状況が分かるにつれ、言葉を失う惨事となった。
 確かに、たまに東京に出ると東京駅や新宿駅には長距離高速バスが引っ切り無しに出這入りしている。以前には無かった光景で、確実に座れ格安料金で移動できるというメリットでバスを利用する人が増えている。
 業界の競争も激化、無理な運営をするから事故も増えている。陸海空全ての運行サービスは利便性と価格競争の中でギリギリの経営がされている。
 東京デズニーランド、この時期順番を待つ人が長蛇の列をつくっているに違いない。なにもそこまでしなくて良いと思うのに集団心理というのであろうか、他の人がやっている事が気になって仕様が無い。人と違う事をやれば良いのにと私など思うから、車を止めて自転車を持ち出した。すると一昔前なら降りずに登れた坂道がどう頑張っても登れない。足の付け根の変な所が痛み出す、普段使っていないから筋肉が落ちているのだ。
 これは仕事にも通じる話、流行に乗り遅れまいと他人がやっていることを真似して成功した例はない。途中で必ず息切れし廃業を余儀なくされるのが落ちである。
 少々、次元の違う話題だが東京女学館大学が4年後に廃止されることになったという。東京の町田にある大学で近年、生徒が集まらず累積赤字が増え過ぎて4大の廃止を決めたとか? 教育の業界で、新設の規制を緩和し産めよ増やせと学部学科が増え過ぎた。ご存知の如く、少子化の流れがより鮮明になっている時期に地方も含め過当競争に突入、学生募集の手法をいろいろ考えても他の大学も真似をするから結果はミエミエ、今では東京の一部の有名大学を除いて、一次募集だけでは生徒が集まらない。
 全員入学は既に常態化し、知的なレベルが様々で教員泣かせが続いている。志を高く持った教員程やる気が失せて転職を考える。
 大学の経営は即効性がない。四年間育て上げ、就職してナンボの世界。いま、医療系の学部に人気が集まる。それは卒業後の条件が良いからで、果たしてこれがいつまで続くか分からない。需給のバランスは常に変化する。どこもかしこも同じ学部で勝負となれば、自ずと勝ち負けの結果がでることに。そこに経営の難しさがある。
 福祉業界だってまったく同じ、様々な事業に手を出すことは、サービスの質が薄れると私は考える。福祉をゆりかごから墓場までとうたったイギリスは、既に40年も昔の話だが、日本には根付かないと研修先で考えた。
 ならば福祉をどうすすめるか?これこそがトップの本領の試金石。
 連休に草と格闘しながら思索に耽ることにいたしましょう。
 

2119:メーデー裏表

5月1日はメーデーである。この起源は1886年にアメリカでの8時間労働制要求運動まで遡る。労働祭という形で世界的に行われている。
 時を同じくし、悲惨なバス事故が発生、居眠り運転を認めた運転手が逮捕される。犠牲になった人々を思うと言葉が見つからない。運転業務を行っている人々の過酷な労働条件は聞いている。長距離トラックの運転をされている方を良く知っているが、彼は一度会社を出ると5日間は帰って来ない。九州まで荷を運ぶ。只管、日本海の一般道を走るという。
 長距離バスの運転の場合、国交省が連続運転の上限を670キロに定めてあるという。これを月に何度行うのだろうか?
 既に大型連休に入り、各地での交通事故のニュースが後を絶たない。誰しも家を出る時に事故に遭遇しようなど考えもしない。自分が気をつけていても事故をもらってしまうことだってある。
 労働に関しては、様々な実態があります。スペインの失業率は凄く高いと聞いた。それも20代の若者が仕事に就けないという。
 この休みを利用し、多くの日本人がスペインに観光旅行に出かけている。その人達は日頃の労働のご褒美と大枚をたたいた日本脱出組、なんとも妙な組み合わせ。
 尚恵学園はこの連休中が大変だ。3月末に春の帰省を行ったから、5月は園で過ごす。24時間生活をする中で昼間の過ごし方は大切だ。体を動かし、自然と触れ合う中で心の安定を図っている。以前にも取り上げたが、シイタケ作業が放射能汚染で出来なくなった。障害の重い人達にとって原木運搬の仕事は最適だ。それが無くなって担当者は頭を痛めている。
 労働の代償を賃金で受けるのは至極当たり前のことだが、それ以前に労働の意義がある。
 年金改革の議論が盛んである。どのようにすれば良いのか皆目分からない。人間、貰えるものは貰いたい。
 年金を当てにした老後の生活設計、それが出来るかできないかだから関心は高くなる。
 連休明けが政界に大揺れが来るだろうという予想。正直、今の政権は考え方の違う者達の寄せ集まり。何を決めるにしても党内意見を纏めるのに苦労する。だから決めごとに時間が掛かり過ぎ、その結果は総花的でどこから見ても不十分、私はこの際、考え方が違うものは別れたほうが良いと思っている。無理してくっ付いているから、後ろから弾が飛ぶようなことをやっている。それと○○チルドレンとか言う新入組、親分に付いていったら良いでしょう。貴方自身の考えを持たないで次期の選挙で勝てるとでも思っているのでしょうか?国民を愚弄するのもいい加減にしなさい。バッジがなければタダの人、そんな人と議論もしたくない。
 野田さんもオバナさんと会談、ユーモアを交えた談話が失笑を買い虚しい。なんとも足元が覚束ないトップ会談は、どのような立派な遣り取りがあろうともその場凌ぎで信頼関係を築くまでにはなりません。これ以上コメントするのは止しましょう。
 この連休中は寺での法事は受けていない。頼むほうも遠慮しているからだと思うが、此方は逆に何をしたらよいのかと考えてしまう。
 掃除三昧と決めた、これだっていつ風向きが変わるか判らない。
 寺の坊主には作務がある。これを修行と定着している寺もある。どれ、この際、生臭を返上し、一丁がんばっぺ・・・かな。
 すると天気予報が味方(?)して、連休中は雨模様。斯様にナマグサには言い訳が付きまとう。
なるほど、これ故に仏道修行か。
 ナマグサが箒を持って 何をする。 かっ っか・・・・  喝で 気が抜けた。
 

2120:喜色満面

玄関先に停められたタクシーから顔を出し、私に手を振る人がいた。近づくとYさんだった。彼はもう30年以上前になるはずだ、兄弟で利用されていたが兄さんのYは他の施設に移った。今日は連休で母親と一緒に弟を迎えにきたのだ。
 すると弟のMがお母さんと一緒にやってきた。「ヤー ぶくし 母ちゃんが迎えにきた」「なんだい?」「帰んの、かあちゃーんと」
 喜色満面とはこのことか!Yと話す。彼はGHに移って病院の掃除の仕事をしていると自分から話してきた。
一方弟のMはもう10年以上になるが石屋さんで働いている。この兄弟には数えきれぬ思い出がある。
 大きなランドセルを背負い、学校に通った。養護学校ができる前の施設内特殊学級の時代である。弟はいつも元気、彼が病気で寝込んだ思い出は無い。兄貴は、どちらかと言えば恥ずかしがり屋で寡黙、県の交流会などで顔を合わせることが何度かあったが、彼は私を避けるようにしていた。
 それが今日は全く違う。30年前の事を彼らは良く覚えている。真っ先に今病院で働いていると私に報告してきた。
 父親が亡くなったのはもう20年以上も前になる。自宅で行った葬儀に参列した事を良く覚えている。小さな雑貨屋を夫婦で営み、2人の兄弟を尚恵学園に預けた。弟が小学校に入る前の話。
 その母親は、いま杖をついている。車の運転ができないのでタクシーでくるのだ。「家に連れて帰るんですか?大変だね。」と声をかけると、控え目に笑っただけだった。
 ・・・・・・・・。
 私はこう思う。子供たちが今親孝行をしている。小学に入る前の幼い子供を預けなければならなかった時代、ご夫婦は朝から晩まで良く働き、夜、どんな会話を交わしただろうか?
 この兄弟はよく我慢した。何事も一生懸命が取り得、その弟は今では逞しい。何しろ石屋さんで力仕事を頑張っているから筋肉モリモリ、いつも大きなリュックを背負ってバス通勤している姿は学校に通っていた時と変わらない。
 時々、羽目を外し、私に叱られる。「やっちゃー駄目なの??ダメ??もう、やんねー」と懇願する。これだって数日で忘れ、会えば「こりゃーブクシ、真面目にやってんのか・・・!」と私が叱られる。
 感心することがある、それは母親が迎えに来た時の笑顔、これがあるから、母親は不自由な体をおして迎えにくるのだ。
 こんな日常の何気ない出来ごとに、最近、私は感じてしまう。福祉って何なの・・・・?安心って 何なんだよ・・・・?
 今の世の中にそれを測る物差しが無い。それは、国がGDPがどうだこうだと騒いでいる中で見失った事だ。
 自分を産んでくれた親への態度、どうですか??貴方自身の事としてお考えになったことってあります?
 他人と比べ、不平不満は言うけれど、喜色満面、心底から受け入れた事ってあります?
 生きる価値?事業の成功では測れない。どれだけ多くの財を築いても、そんなもの薄っぺらで何かが起これば吹っ飛んでしまう。
 今までYは弟のMに引け目があった。GHでの生活、外での仕事いずれも先を越された。それが、今、彼の顔に真からの笑顔が見える。私の想像でしかない。Yが病院での掃除の仕事を始め、これでやっと弟に兄貴らしい自分が出せると感じているに違いない。
。。。。。。。。

2121:バーベキュー

昨日は生憎の雨模様、午後からは本降りとなってしまい、休日催しが台無しだ。それでもバーベキューは行った。丁度建て物が屋根つきのテラスになっていて、そこを利用して本格的な炭火焼き、この種の行事は各部署ごとに行っているもので、今日はグループホーム利用者の皆さんが1000円会費で参加した。
 何人かは家に帰っているので全員が集まったのではない。それでもビールを持参する人がいたり、買い物をやったり、おにぎりを握ったりと準備から大騒ぎだったようである。私は帰り際に立ち寄る。すると凄い接待攻勢を受け恐縮した、普段生活の場が違う人達が一同に会して過ごすことは少なくなった。8か所のホーム、皆さん脱落者も無く、頑張っている。
 今年は法人内の組織を変えた。地域生活担当部門を独立させた。以前はバックアップ施設を置き、そこの担当者が生活者の支援を行ってきたが、ホームの数が増えるとなんやかんやと複雑となり、支障が出始めたいた。まだ新体制で始まり、1カ月が経ったばかり、正直まだシックリいっていない感じもあるが、いずれ上手くいくはずと期待する。
 連休に入り、日中に名前が分からない方が出這入りしている。多分、学校が休みの為レスパイトを利用されている方達だ。
 これは、昔からの課題で学校が長期の休みに生徒を受け入れないから家族は我々に日中一時の受け入れを求めた。
 今度、制度が変わってこれから児童の放課後受け入れは、児童デイや児童施設でなければできなくなった。全く、国はコロコロ仕組みを変えやがる。いいじゃないの障害支援の事業所がどこで受けても、慣れ親しんだ近くの場所をどうして利用できない!何故このような仕打ちを平気でするのだろう?
 そこで、私達は市町村にお願いしてレスパイトという耳慣れない事業を制度化していただいた。もう一昔前の話である。これが実に便利ときている。土浦市・かすみがうら市は市独自の助成制度を設けた。それ以外の市町村は尚恵学園独自のレスパイト事業で受け入れる。この評判が頗る良いのである。
 ただし、受け入れ側はマンツーマンの態勢を組む条件だから職員や補助員の協力無しにできない。原則は断らない。
 ああああ・・・やるべき事はいくらでもあるんですよ。
 なにせ、創設時に掲げた理念が『共生』だもの、地球が存続する限り無くならないでしょうね。
 今この時にでも、地球上のどこかで悲惨な出来事が起こっている。何故なんでしょうね?これは有史以来ずっと無くならないと言っても良いのです。人知の及ばぬことが多いからでしょうが、真剣に考えれば考える程、蟻地獄に埋もれてしまう。
 今日は朝から靄っています。ある方の口癖、天下国家の為という言葉が今ほど疑念をもたれている時はありません。何故なんでしょうね? 皆さん、霞の中で模様眺めしているからでしょう。
 昨日、バーベキューが終わった時にまだ雨が降っていました。足の不自由なSさんを乗せて帰ることにしました。彼は尚恵に来る前はたった一人で生活されていた方です。最初、どうしても馴染めず、見る見る内に表情が暗くなってきました。そりゃーそうですよね、ご本人が納得して来た訳で無いのですから。でも、小さな畑を彼に自由に使ってもらうようにしたら変わったのです。彼はいつも早めに仕事を終えてホームに戻り、近くの畑仕事を始める。かなり野菜作りの経験があるようです。「今度、ナスとトマト植えたから、出来たら持っていくよ」と私に言います。そして、いろんな話を自ら言ってきます。彼らと話していると自分の気持ちが癒されます。何故でしょうか?
 彼らには変に自らを繕うことが無いからです。そのまんまなんですよ。「今年は天気が悪かったからナスが上手に出来なかった。」これをストレートに聴けるのです。
 手練手管にたけた人ほど言い訳に苦労します。一生それで終わってしまうかも知れぬ。
 ですからね、もういい加減に誰かに譲って楽になったら良いんですよ。
 

2122:いい加減な

アイツはいい加減な奴だ!という事をその額面通りに受け止めて良いのかどうか?最近、どんな心境の変化でしょうか心地よく思えるようになりました。謙譲の美徳とはちょっと違う、世の中、言う事とやる事がチグハグな事が多過ぎますからかも。
 私が知る限り、いい加減さを道まで突き詰めた方で先ず思い浮かぶのが「良寛」ですね。
 一歩自分を引いて生きる姿に誰もが安心し、傍にいて楽しいと感じる。そんなイメージを良寛に持っています。
 世の仕組みがドンドン忙しくなるようになってきた様に思えてなりません。連休中の高速道の大渋滞、何故そこまでして出かけるのでしょうか?
 昨日は近くを散歩しました。10分もかからずに田んぼに出られます。丁度田植えをしていました。草が刈られた畦道を田んぼに落ちないように歩いていくと、小川で3人の子供たちがザリガニ捕りに夢中になっています。一瞬、私の小さかった時の事が思い浮かびました。
 あの頃はどこの家にも車など無かった。出かけるとすれば、バスに乗り、その後は列車です。東京に出るとなれば大変な覚悟が必要でした。子供たちは暗くなるまで真っ黒になり遊んだものでした。
 そんな経験を語れるのは還暦を迎えた私達世代から上かもしれません。
 休みには家族で出かける事が世の常となり、行楽地は大混雑するのです。これで経済活動が成り立っているから客集めに必死になるわけでしょう。それに何ら疑問を持たなかった。
 近頃の尚恵学園は昔と比べれば大分様変わりしました。個人でテレビを持つ人が増えたのです。先週だったかな?折り込み広告を大事に持って私に見せにくるKさん、話を聞くとテレビを買い替えたいと言うのです。会うたびに同じ要求をしてきますので職員の人に頼んだのかと尋ねると、不安そうに「ウン」と答えます。
 昨日は広告を持っていません。「どうした?買ったのかい」と聞くとニコニコしています。多分自分が気に入ったテレビが届いたのでしょう。
 良かった。
 もし、誰もが自分のテレビを持ちたがったら、100台以上が必要、こうなったら大変だ。でも良寛様みたいな方が半分います。そんなものに興味なく、自分の世界を持っている方達です。
 今夏は節電が絶対条件、そんな時になんてこった・・!でも彼らが使う電気の量など微々たるものでしょう。もっと世の中には無駄が多い。
 外国から見て今の日本のドタバタ騒ぎをどう見えているでしょうかね?北海道の泊原発が定期検査で停止しました。これで54基全ての原発が動いていません。そして原発の再稼働の是非が問題になっています。紆余曲折、どちらを選ぶか?でも一般の人には良く判らない。電力需給の正確な情報が知らされていない。誰しもがなんとなく電気の無駄は多いと感じていますが、どれをどれだけ減らせばすむのか誰も判らない。
 ”いい加減”とは”良い塩梅”と同じ意味なんですが、それがとても難しい時代になったと思います。
 

2123:肩肘

のほほんと生きられたら良いだろうな・・・・。他に頓着することも無く泰然自若として、そんな事できるのでしょうか?
 昨日は俄かに風が吹き始めたと思ったら、大変な事になりました。竜巻やヒョウ(1pほど)、つくば市の北条という町が竜巻に襲われ、多くの家が被害を受け、死者までも出たのです。上空にマイナス21℃の寒気が入るというテレビの情報の後、それ程の時間がかからなかった。どこに竜巻が発生するか判らず、為す術が無かったというのが正直なところでした。被害にあわれた方々に心よりのお見舞いを申し上げます。
 最近、私自身の心境の変化でしょうか?そんなに肩肘張ってどうすんの!という影の声が聞こえるんですね。”のほほん”という言葉を辞書で調べたら、なんと江戸時代の俗謡の囃子詞(はやしことば)というのが出てきました。それ以上調べる気になれませんでしたが多分元禄の平和な時代に謡われたものだろうかね。
 先の事は不確実だけれど、過去は変えられないとか言った方、誰でしたかね?直ぐに忘れてしまいます。
 今日で大型連休が終わり、いよいよ始まりますね。やたらと多い役員会や総会、事業報告やら決算やら恒例のもので、聞いているだけで疲れます。多い日は3つも掛け持ちなんてこともあるんですよ。そんな事を考えていたからですね。のほほんなんて事を思い描くに至りました。
 みんな止めっちゃえば良いじゃないか!その通り。アンタの言うとおり。不甲斐ない自分に腹立ちます。
 相当、肩肘張って生きてますね。自分で選らんだんだから誰の責任でも無いでしょう。ごもっとも。

 話を変えましょう。私はドイツ語は全く判りません。去年手にした某小冊子を筑波大の先生に日本語訳をお願いしていたのが届きましてね。えらく感心しているんです。
 チュービンゲンという街にある障害者支援の事業所のプログラム2011版のものです。
 表紙に書いてあるんですが、Vielfalt ist Trumpf というもの、日本語にすると『多様性なるトランプカード』となるんだそうですが、よく見て見るとこの言葉をモットーにして様々な支援活動をされているんです。テーマを共に生きるということにして、様々なアイデアを一般の人達に募集するそうです。共生、これって尚恵学園と全く同じなんです。
 お楽しみプログラムとでも言えば良いのでしょうか?懸賞も付けて良いアイデアで採用されたものに500ユーロあげるんです。
私が実際に去年そこのホームを見学した時に、確かに32通りものカードがありました。どのトランプを選ぶかという事から週計画がたてられる。
 これを知った時ショックを受けました。この発想は我々には無かった。自分が選んだものですから不満なんかありません。もしあったら次回は別のを選べば良い。
 本来の我々の仕事って、彼らの望みを実現できるようにお手伝いする事なんですよね。
 それがどこでどう間違ってしまったのか?ご本人の事はどこかに置いてしまって、自分達の都合で決めていません?
 やれ大変だとか時間がないとか人がいないとか・・・・・そのオンパレードですよ。これをずっと続けてきたんじゃないだろうか! そんじゃーどうすれば良いんだい?
 結局、肩肘を目一杯張ってやるしか無かった。お互いが疲れちゃう。そこなんですね。日本の福祉の最大の弱点は、その事を気づいている方も出てきましたね。でもまだまだです。日本の取って置きのトランプカードって何だと思います?????
 「裏付けとなる財源」、この一枚をいざとなれば国も事業者も切るんです。
 *のほほんとは、無頓着な有り様です。執着するなとの教えは本来の仏教の基本思想(空)です。
 

2124:2重苦

昨日、Uさんのお母さんが来園、娘さんが通院の日で家族も同伴したほうが良いということになって来ていただく。Uさんの診断は白内障、特に珍しい疾病では無い。最近、目の見え方がだいぶ弱まったというスタッフからの報告があって近所の眼科に通院、その診立てが白内障だった。全身麻酔での手術になるので大きな病院の紹介を受けた。その通院日が昨日だった。
 通院後、母親に凭れかかるようにして今にも泣きだしそうに帰ってきた。結果、今度は大学病院を紹介されたという。
 専門的な事は判らない。でも、本人は人一倍の病院嫌い、お母さんが来てくれて嬉しいのだが、何をされるのかわからない。恐怖と不安が頂点に達した。
 お母さんが帰る際に私に声掛けていかれた。「どうぞ、よろしくお願いします。」と深々と頭を下げられた。
 尚恵学園で生活をされている人達は様々な表情を見せてくれる。喜色満面・九腸寸断・切歯扼腕・冷汗三斗・・・・
 斯様に喜怒哀楽を思い切り出せる方はまだ良い。全く無表情な方もいる。痛みが有るのか見えるのか聴こえるのか????
 私は正直、なんて不条理な事だと思う。神も仏もありやしない。でも現実を受け止めねばなるまい。我々以上にご本人や家族は現実から逃げる事はできないからだ。
 Uさんは再度予約を行い、診察を受けることになるだろう。
 彼らとの長い付き合いになる。40年いやそれ以上の人達もいる。一番気になるのが何も言ってくれない方である。表情で掴めと駆け出しの頃先輩によく言われた。何故、怒っているのか判らず、いろいろ考えた。結局、原因の糸口さえ見つけられない。そんな日々を重ねて今に至る。
 限界を何度も味わった。多分、これからもそうだ。ある時期、貪るように専門書を読んだ。何かのヒントが見つかるかと言う思いだった。その全てが徒労に終わる。そんな簡単な問題じゃー無い。
 人知を超えることばかり、人間は何かに縋りたくなる。手っ取り早いのが宗教だ。現世安穏 後世善処・・・
この世では安穏な生活をし、後世では善処に生まれるという功徳、信じるか信じないか個人の問題だが、微かな心の拠り所とは成るかも知れぬ。
 今、枕元に置き読んでいる本は110万部読まれたという。『ニーチェの言葉』という部厚い本、その115にこのように書かれている。
 人間の二タイプ。
   大きな称賛が与えられる。そのとき、こっちの一人はとてもはにかむ。もう一人のほうは、いよいよもってあつかましくなる。・・・・・・・
 という箇所が気になった。
 そうじゃーないよね。三番目のタイプの人間だっているでしょうよね。Oさん、M君、Hさん・・・・・
 はにかみもせず厚かましくもない人達、
 私がこの本を読む気持ちになったのは、まえがきを読んでであった。その中にこのように書かれてあった。
 ・・・・ニーチェはニヒリズムの哲学者ではない。むしろ、ニヒリズムを批判したのがニーチェだった。・・・・・・・・。
 彼は56歳で亡くなった。晩年は精神的な病と闘いながら・・・・。
 現世の絶対価値を金銭と利潤に例えれば、後世の善処とは果たして如何なる世になれば良いのでしょうか?
 それを捜し求める事は、人間一生をかけ挑戦しても敵わぬことだろうとは思うが・・・・。

2125:支持者のホンネ

何故、日本の総理が就任後、支持率の下降線を辿るのかと考えました。ハッキリ申しまして、政治家としての気骨が無いと言えますまいか?在任中と辞任し重責から解放された後の言動との格差は酷い、饒舌になり、表情も明るくなる。それだけ総理の責任が重いと言えばそうでしょうが、舵取りを任せた者からすれば偉い迷惑ですわな。
 支持者のホンネといえばですよ。身内以外ならば多分、自分の利になると思うからですよね応援するのは。ですから、利に成らずと感じたら即、反旗を持ちます。だからお互いがホンネを言えない。
 フランスの大統領選でサルコジさんが負けました。ギリシャでも総選挙があって、反政権の政党が大きく議席を増やしたといいます。いずこの国も大変ですね。でも、日本と違って明確な政策の違いを感じますから有権者は選び易いと思うのです。
 それが、今の日本の政治は、正直何がなんだかわからない。無責任な振る舞いが横行し、どの政党が何をやろうとしているのか全く読めません。それを民主主義の本分だとかいう人も出る始末。危機感が無いということですかね。
 話題を変えます。私は前は巨人ファンでした。ナイター中継を良く観たものです。でも最近は全く観る気になれません。昨夜は久しぶりに見てましたが、今の原監督の采配に疑問を感じました。相手側の中畑監督ベンチと対照的、巨人側の執行部に全く危機感が無いと思った。
 そして、最終回のよもやの同点劇、それを演出したのがキャプテンの阿部ですよ。キャチャーフライを落球、押さえの西村はガックリ、あっという間に同点になってしまった。
 私も実は中学時代野球をやっていましてね。ポジションはキャッチャーだった。常に負けたチームのキャプテンもやらされていました。ですからあの場面でこれは弛んでいるいると直感、今年も巨人はダメだと思いました。フライを片手で取ろうとして落とした。キャッチャーの基本がなっちょらんのです。
 あれでチームのキャプテンがよく勤まりますよ。西村の責任じゃない。あれは監督と阿部の責任です。即刻、辞表を出すべきだと思ったね。
 政治家もプロの実戦場を持つ。いまではテレビ中継が入ると彼らは質問の相手よりテレビカメラを意識する。でもね、後ろに控える議員も丸見えですよ、以前は居眠りしている人が多かった。さすがにそれは減ったように思うが、ここで笑っちゃーなるめーと思う場面で笑いが出る。真剣味を感じません。ずっとしかめっ面をしてれば良いとは言いませんが、これでは支持者は離れますね。
 解散が現実味を帯びてくると、また出来もしない公約を掲げるんでしょう。
 現代の特徴をこのように言う方がおります。例えばボランテア活動一つ取って見ても、やけに胸を張り、恩着せがましくする人が多いと。
 気を付けないといけませんね。
”和光同塵”という言葉が死語になろうとしています。知識がある事を見せびらかしたり自らの徳を売りにする事への警鐘です。本来の意味は知徳の光をやわらげ隠し、世間と同化して交わる事をいったものです。
 その範を示されたのが良寛だと言う。なるほど なるほど。
 それと今の日本人に欠けているのは、ハッキリとNOを言う勇気を持てという事だと!

2126:愛鳥週間

今日から16日までが愛鳥週間(バードウイーク)です。言うまでも無い事ですが、鳥かごで小鳥を飼うというものではなくて自然の中で自由に飛べる環境を守りましょうという事です。
 こんな記事がありました。日本野鳥の会の柳生博会長が環境省で記者会見しツバメを見かけたら知らせて欲しいと語った。柳生さんは私の出た高校の大先輩、俳優でもあり自然をこよなく愛する方である。何故、ツバメがいなくなったのだろうか?確かに最近、空を素早く飛ぶ姿や軒先に巣を作ることが見かけ無くなっている。
 天敵のカラスが増え過ぎた事や、巣作りに適した日本風の家が減ったということも影響しているのかもしれない。土浦では大分まえにオオタカが生息していることが判り、マスコミが取り上げた。桜川の篠林は白鷺の巣と成り、凄い数のシラサギが昼夜を問わず飛び回り、実に騒がしい。わが故郷は嘗て水運で賑わった、いまその霞ヶ浦は飲料水としての基準を守ることで大変である、それと今回の原発事故による放射能汚染がどこまで進むのか予断を許さない。霞ヶ浦は福島から150キロ離れているのですよ。ワカサギやフナの出荷が規制を受け、その対策に妙手は無い、見守るのが精一杯という現状である。
 東電はこの補償をどう考えているのでしょうか?
 環境破壊が地球の問題として叫ばれ始めだいぶ年月が経ちます、どうでしょうね。これで思い出すのは、元総理のHさんが国連かどこかで日本は二酸化炭素排出では必ずこうしますと得意満面で演説したこと。その話が一体どうなったか本人からはもとより、パタリと話が出なくなった。ご本人は、忘れた頃にテレビに登場する。昨日も神妙な顔でコメントしていた。領袖のOさんの高裁への控訴が決定し、「想定していなかったから戸惑っている・・・」とか。
 ご自分のお小遣い問題はどうなったのか話題にも成らず、今や蚊帳の外。
 昨日、水戸で会合があり、竜巻被害の話題が出ました。ボランテアの応募が多くその対応に県社協からも応援に出ていると聞いた。
今回の被害は竜巻の通り道から数メートル離れただけで偉い違いであったという。ブルーシートがその通り道に沿って張られている。修繕して住むようになれるのかどうか判らない。被害にあった人達は誰の所為にすることもできず、茫然自失。
 日本の天気が確実に変わってしまった。今年は記録的な豪雪から始まり、大雨や竜巻と自然の猛威に立ちすくむだけ。
 科学の粋を集め、自然を制覇しようとは思わなかっただろうが、所詮、無理な願望だ。夏、エアコン生活が常識となって節電に協力しようとなった時に、今までの電気使い放題の生活を反省したはずだった。
 原発停止で電力の不足分をどう手配するのか?電力料金の値上げ?原発の再稼働?
 でも、問題はここ数年の短期的な問題では無いでしょう。将来の方向性をはかるべき政治に国民の信頼が無いときている。
 政権が変わって先ず目に付く事は課題が一気に表面化したことである。しかし、その対応が問題でその都度新たな担当部署を設けているが、その殆どが機能停止の状況じゃーないんですか?次から次に新たな問題が出てきてしまうという状況にある。
 制度疲労を起こしているものは壊し、時代のニーズにあった新たな仕組みをつくる。言うは易し。壊すことには当然痛みが伴う。反対も出ます。それへの決断ができない。税と社会保障の一体改革に政治生命を賭すと言いましたね野田さん。民主党内の動きを見ていると歯がゆいですね。党議決定されたものを取り止めるのですか?それとも融和を大切にするという身内の問題で国の舵取りを間違えないでほしい。私はそう思っています。
 アメリカの新たな動き、格差が大きくなり過ぎた不満に高額所得者の一部?の人達が自分達からもっと税金を取れと訴えていた。
 多分、日本が根本から変わるには、ツバメではないのですが、古き良き時代への回帰ではないのでしょうか?
 このまま進み裸の王様をいくら作れば良いのでしょう。自由を謳歌するには、責任が付き物です。権利を主張するには義務が条件となりましょう。政治家の判断で一番大切な事は、自分が偉いと勘違いした時には、バッジを外す時と言う事なのです。 

2127:意識化

緩急よろしきを得るには至らないが、組織を活性するために常に何らかの刺激が用であると感じています。研修に関すれば、何年前だったか法人独自の自主研修制度を設けた。研修の内容は問わず、時間と旅費の補助をする、最初の年はおっかなびっくりで様子伺い気味だった。それが23年度は30本に近い研修実績があった。これには正直驚く、ちょっと出過ぎかとの思いも有ったが、その実を取る事に決めた。
 ただ、自分達とあまりかけ離れた所を視察しても、後味は決して良くない。圧倒されるだけで気力が萎えてしまうからだ。
 負け惜しみではないが、私のホンネは1回ぐらい見て解るはずは無いと言う事、大体、外部の人には良い所しか見せないもんだ。もっと自分達がやっている事に誇りと自信を持て!
 現実にはショックを受けることのほうが多いのは確かだ。継続は力というのは、歴史の古い事業所の常套句、尚恵学園もその類に足を踏み入れている。ここが辛抱だ。少しづつ意識化が図られていると感じている。先ず考えると言う事が肝心で、そこに何が問題なのかが見えてくる。その後である。どうすれば良いのかを考えるという下地、・・・・・・・。
 茨城県心身協では、今年度、共同受発注事業の一環でコンサルタントを入れた。茨城ブランドの商品を創造しようという目論見で県が予算を付けた。先ず現場視察ということで2日間にわたり3人の専門家が県内の事業所をまわり始める。一番先に私共のまんだら工房を見に来たのである。
 以前も同種の事業でコンサルの指導を受けた。その時にスタッフは自分達の至らない所を指摘され、意識が大分変わり以前に増して研修に積極的に参加してきた。そして、今回、どのように変わるか楽しみである。
 現場の報告を聴いていると、コーヒーショップを作りたいという希望が強い。流行りものじゃないのかい??
 実は、誰にも言っていないが、私にも”夢”がある。いずれ、アイデアのコンペをやろうと思っている。当然、その時には私の計画も参加させますよ。
 福祉に関して言えば、窮極の事業の目的は国の仕組み作りだと考えます。いま日本で行われているのは、事業家としての優劣を競っているレベル、1個の事業所の規模や内容は雨粒みたいなもので、国土の全てに行き渡る慈雨とは成らぬ。福祉の基本にあるべきことは”公共性&公平性”で一部の者だけがその恩恵に浴するものであっては不味いのだ。
 人間が一生の中で出来る事には自ずと限界がある。・・・・・が諦めてはならない。意志を次世代に繋ぐ努力は、それに関わる人間の責務である。
 同業者の皆さん!どうでしょう、貴方の周りに手本とする方が居られますか?
 正直に言いますが、私にはいないのです。何故なのか分かっている。でも、彼岸に渡った多くの先輩達に私は恵まれたと思っています。何かの問題にぶち当たった時に必ずその人達が出てくるのです。未来は不確実だが、過去は変えられないということでしょうか。
 そこで仰る事は全て同じ。「お前の信じることをやれば良い」との一言。
 だから、信じることが何なのか?を自問し続けることになりました。
 新卒者で就職出来ない若者が多く自死するものが増えています。原因は良く判らないが目標とする世界が狭いと思う。それと自分にあった職業が掴めていない。
 最初から楽して安定を掴もうとするからだと思うな。これは日本中に蔓延する病的現象で私は深刻に感じています。
 競争で質を上げる事の盲点は、人間を相手とする職業では何を基準にするかが見えなくなる事だと思っている。
 人間の価値はそんな事で計れるものでは無いからです。
 

2128:岐路

登山には地図が不可欠、それと磁石。どちらかが無くても都合が悪い。連休中、毎年山で遭難する人がいる。今年も多くの人が尊い命を失った。5月は里では春、日差しがある場所ではポカポカ陽気で半袖にしようかと迷う。しかし、山ではそうはいかない。100メートルの高度差で平均、0.6℃気温が下がる。それと風、2000メートルを超える尾根に出れば立っていられない程の風が吹く。ましてや3000メートルを超えれば想像に絶する。
 ちょっとした判断ミスが命取りとなる。
 それだけでは無い。予備の食糧、時間の余裕、それと天気の判断、そしてもっとも大切なのは体力である。日頃のトレーニングが十分か否か・・・等々。
 これらは私が山登りで教わったことである。卒業と同時にパタリと山は止めた。これらの幾つかの条件が揃わないからである。
 昨日、電話で某施設長と話をした。「元気かい?」「いやー。元気じゃーないですよ」「そうでもなさそうだけど」・・・
「国はころころ変わるし、何を信じてやれば良いんでしょう?足元を守るので精一杯ですよ」という答えがかえる。
 最後にこんな事を言ってきた。「この仕事は自然と大きくなりますね」これは明らかに本意では無いらしい。
 事業拡大の是非は、いま私の最大の課題となっている。吹けば飛ぶような弱小法人でも働く側にとって見れば不安定、だからと言って能力以上に規模を大きくし、その運営に四苦八苦するのではどうかと思う。適正な規模とはどの辺で判断するか!これが厄介である。人間は欲深いもので、霧の中で道に迷うような事を年中やっている。
 規模拡大には信用できるスタッフをどれだけ自前で揃えることができるかにかかっている。自然に大きくなるという呟きの裏には、人材の育成は自然にはできないということのジレンマが読める。
 福祉業界が岐路にある。いままで社福の独占場であったものが、様々な事業主体の参入が可能となった。今後、更に進むことは間違いない。だが、今の仕組みでは国がもたない。財政負担が増え過ぎた。需要は右肩上がり、特に介護分野は、あと10数年は続くはず。
 日本が世界に先駆けて高齢化社会に突入、前例が無いから試行錯誤の真っただ中。そこにきて税金を上げねばという議論、政局絡みの駆け引きが何が論点なのかを曖昧にしている。
 誰が考えてもこのままでは行き詰ることは明らかだ。既に破綻していると見る専門家も多い。ならばどうする?
 ギリシャ政治の混乱は先が読めない。緊縮政策を望む国民はいない。貧乏くじは引きたく無い。だからユーロ圏から多額の支援を受けた国の連立を組む政党が無く、再選挙を行うかも知れぬという。異常な事態である。
 これはギリシャ一国の問題ではない。ご承知のようにユーロ圏全てに同様の危うさがある。いつまでもドイツだけが一人勝ちはできないだろう。大方の見方がそうだ。
 中東や東アジアだって様々な問題を抱えている。
 
 日本の政治も全く先が読めない。福祉は内政問題と言っていられない。与党幹事長が来年の夏に衆参ダブル総選挙が望ましいと言ったとか?延命措置のように取れて素直に聞けない。
 富士山の直下に活断層があるというニュース、M7クラスの地震が起こるかも知れぬという。日本は至る所に断層がある。それを忘れかけていた時に東日本大地震が起こった。M9という最大級の地震だった。
 恐ろしい事だが、あの惨事を忘れかけているのも人間なのだ。
 

2129:生きる意味

ちょっと躊躇しました。でも言わねばと思ったのです。それはフランクル(『夜と霧』の著者)の本を2冊、平行読みしていてその衝動に駆られてしまった。
 5月、私の友人のOさんが61歳で昨年逝った。遺族からの手紙で1周忌を終え、無事、納骨を済ませましたという丁寧な手紙を数日前にもらった。あれから様々な事があったという。新たな生命が2人も生まれた。Oさんからすれば、楽しみにしていた孫である。早速、家に電話をする。電話に子供さんの声らしきものが聞こえた。奥様の声が少しづつ悲しみを乗り越え、新たな生活に足を踏み出した様子を伺わせる。ちょっと安堵した。
 それと、田植えの時期に成り、農家は1年で一番多忙な時である。猫の手も借りたいという状況でいつもなら声をかけることもできない友人のSが今、病院にいる。もう2年以上になる。時々、病室に様子をみに行っているが殆ど声掛けに反応しない。
 家族はどんなに忙しくても時間を割いて病院に通っている。
 以前のように話ができたら、彼はなんと言うだろう?多分、福祉なんて言葉を使うんじゃーねーよと文句を言われるに違いない。家族には大変失礼とは思ったが、敢えて彼の気持ちを代弁したい。
 自分の事を最優先する人が多い時代、彼はそうじゃ無かった。地域の事を大切に思い、彼流のハニカミを見せながら和づくりの裏方に徹した。その生きざまは多くの人が認めている。それといま生きている事、それだけで・・・・・
 この二人は私と同年齢、ホンネを話し合える人間で二人とも尚恵学園の役員をお願いしていた。
 
 フランクルは著作の中でこんな例を出している。『それでも人生にイエスと言う』春秋社:P166・・・
・・・・今年(1993年5月)東京の講演で、米国のアル・ゴア副大統領の「現代社会は、市民の〈生きる意味〉の危機を抱えている。その危機は、今日米国が抱える地球生態系の危機や経済的危機、またそれら両者を合わせたよりいっそう深刻である」と。無気力・無感動・無目的という若者が80%以上いるとも指摘している。
 フランクルの思想はナチの強制収容所での自らの体験に基づくもので、精神科医として90歳を超えるまで活躍した。敢えて無謀を承知で彼の考えを概説すれば、「快楽」「力」という人間が憧れる価値の上に、「意味の価値」を要視する。その具体的な例がゴアの言葉である。
 人生に価値が見出せず自死を選ぶ人が後を絶たない。快楽と力、それは日本が経済発展という旗印の元に何ら疑問を感ぜず突っ走った結果である。
 そのツケを払うのにどこから手を出して良いのか判らない。その現象が至る所に見られ、それを現代社会の危機だとみる。その講演がされた時から20年が経っているのだ。今の状況は当に指摘の通りとなっている。問題を先送りし、他に責任を転嫁することを反省なしに続けてきた。その思想背景にあるのが、快楽と力への反省無き飽くなき欲望だ。政治の世界を見れば直ぐに分かること?
 派閥の領袖に媚を売り、一緒の写真を撮って好い気になる。この状況を深刻とみない者はいない。裸の王様は、アンタのことなどチョビットでも思っていないよ。自分の力を誇示すれば満足する人間だもの。
 生きる意味とは、生きた長さでは無い。寧ろ、「意味の価値」を軽んじた結果、超高齢化社会を負担としか考えられない社会を作った。否、介護ベンチャー(?)産業の起業を煽る。底流には金と利純があって、それが今の混乱の元凶になっている。
 方や障害福祉を論じる時に、当事者の立場に自分達が立てるかという根本の問題がある。所詮、他人事・・・・
 これは由々しき事態である。
 今、某法人から60周年の記念誌の原稿を頼まれている。当時の事が書かれた本を読み返す。そこには、何故この仕事を始めたかという明確な意志が書かれてあり、身震いを感じた。
 

2130:世間体

日本人の弱点を敢えて挙げよと言われれば、皆さんは何を一番目にあげますか?
 一人一人違うから、そんなの解らない。ウーム・・・・そりゃーそうでしょうよ。そこを何とかと言われて、日本人のイメージと再度問われたら。
 私ならば、世間体を気にする人種と言いますか。ちょっと難しい言葉ですが、”右顧左眄(うこさべん)”という4字熟語がありますが、右を見てるかと思うと左をながし目で見る。周りの様子を窺ってばかりで一向に決断できない・・・・・左顧右眄と右左を変えても同じ意味です。
 これは、皆さんの小さな時を思い起こせばお解りになりますでしょう。親から一度や二度、「そんな事やって世間体が悪いから止めなさい」と叱られた経験がありませんか?
 そうか世間様に変に思われるんだと余り疑問を感じないで我慢した事ってありますよ。
 でも現代はどんなもんでしょう?大分、ニュアンスが変わってきましたよ。社会の規範や節度が大きく変わってしまった。何を信じて良いのか皆目分からない。行きつく所は、そんなら我が道を行ったほうがマシだ。そんな風に考える人が増えたように思っています。それからホンネを言わない類の人も増えていますよ。根っ子は同じ。
 これが最近の風潮だと思います。暖簾に腕押しとか糠に釘ということも有りまして、どことはなしに消化不良気味の人って多いと思うな。
 別にそれをどうのこうのすると言うんじゃーありません。先の事を心配したところで、どうしようもない事ですよ。恐らく、こうやってその時代時代を生きてきて今に至ったんだと思います。
 日本にいたら、あまり疑問を感じないで過ごしてしまいますが物がここまで溢れていいる国は無いと思っています。
 いつ頃だったでしょうか?中国の山西省の最奥部の村に行った時ですが、小さな子供がお寺に預けられ一生懸命勉強していたんです。その子供たちの持ち物といったら、先輩から引き継いだ破れた一冊の本、それに小さな黒板と白墨だけでした。毎年国から真新しい教科書を無料配布される日本と偉く違う。黒板は何に使うのかと伺ったらノート代わり、白墨は鉛筆が買えないからだと聞いた。同じ中国の都市部の繁栄と比べたらもう話になりません。
 いま、日本は東京と地方との格差が問題となっていますが、お隣の中国の状況とは雲泥の差、だったら良いんじゃないのとはいかない。その辺だろうと思いますよ。日本人の規範が曖昧になっている原因があるのは。
 ですからね、年金の仕組み作りだって、この辺でどうだ!という線が一向に引けません。全てがそうなっています。どこが持続可能な仕組みなんでしょう。
 
 検討を重ねて結論が出る問題なのでしょうか?消費税の議論だってそうです。誰もが足元を見たら、随分無駄なことを疑問も無く日頃行っていることに気付くはずです。
 私が関わっている某団体の貴重な財源になっているものに鉛筆を小学生に買ってもらい、その売上から一部の還付金が出る。それを会の運営費に充てているのですがこれが年々減っているんです。
 そうだと思うな。一度調査したら凄い数字が出ると思います。家の中にある使用が可能な筆記用具の数、持てない位まで短く使った時代はもう過去の話となりました。
 消耗品が多過ぎる世の中は良く無いですよ。だってモノの大切さを教えることができないでしょう。最近の子供たちの関心事は、携帯のゲームです。それも月に20万〜30万の大金を使う子もいるとか。
 世間体というものには確たる根拠などありません。それを決め事の物差しにしてはいけない、今、一番大切だと言われている事は、”生きている意味”だと言われていますね。これって根本の問題でしょう。
 ・・・・・山川草木国土悉有仏性・・・・・
 私のような生臭坊主には、忌々しくも、高嶺の花と映りまして、本当に困ったものです。