源究137

  

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
2251 表裏一体 10/2 2256 土浦の花火 10/7 2261 岐阜大会 10/16 2266 有言実行 10/21
2252 一粒の麦 10/3 2257 数独 10/8 2262 こぼれ話 10/17 2267 相互研修 10/22
2253 先行投資 10/4 2258 生涯現役 10/9 2263 厄介な話 10/18 2268 優先順位 10/23
2254 感応道交 10/5 2259 アイデア募集 10/10 2264 言葉の壁 10/19 2269 局面打開 10/24
2255 茨城選手団 10/6 2260 充電 10/11 2265 共有 10/20 2270 企画⇒ 10/25

2251:表裏一体

苦言を呈する人が身近にいるいないでは偉い違いであります。台風一過の朝、第1報は当直の男子職員からの電話、何か起こったかと身構えた。
 本堂落慶の際に立てた標木(角塔婆)が倒れ、なんと庭にあるお地蔵さんの頭で止まっていると言うのだ。何せ太さ40センチ長さ7メートルの木材が風で倒れたのだから、お地蔵さんが壊れたかなと瞬間思った。立てて15年以上たち根本が腐りかかり、グラグラしていたのは知っていた。
 30センチ程の石仏は、私が気にいって東北の石屋さんから取り寄せたもの。
 朝一番に見に行くとお地蔵さんは全くの無傷、いつもと変わらず立っていた。横にどかされていた角塔婆をみて奇蹟だと感じた。
 竹の垣根を一部壊しただけ、あれだけのものが倒れても殆ど被害は無かった。
 それを見ていろんな思いが駆け巡る。「守った」「守られた」。 地蔵は何も語らない。
 世の中の全てがこのような表裏の関係で成り立っているんじゃーないだろうか。
 一番先に気が付いたスタッフは、暴風の中、外を見回った時に気が付いたのかどうか知らない。でも、第1報は早く、「自分一人では動かしようがないので報告しました。」と私の携帯に電話をくれた。嬉しかった。
 事業体の纏まりは、外見からは解らない。
 今年も地域の人達から善意の寄付が届けられた。もの凄い量の梨や野菜、感謝感謝です。
 さて、10月に入り、後3カ月と残りを数える時期になった。振り返るにはまだ早い気もするが、いろんな事がありました。その一つ一つが大切な思い出としてハッキリ覚えている。
 今日、午前中に地元大学の理事長と会うことにしている。私の時間に合わせてくれると言う返事を直接貰った。なんとも嬉しい限り、11月の集いの話をして、これからどう大学と連携できるかを相談しようと思う。学生募集に苦労する大学と我々事業体の思惑は一致する。大学教育の中で最早常識となっているGP(good practice),これは「優れた取組」という意味らしい。
 事業体として他に勝る取り組みが有るか無いか。
 その一つの提案が学校側に賛同されるでしょうか。
 土浦は人口15万の地方都市、市は活性化を図るために様々な検討を行ってきたがどれも決定打とは成りえない。しかし、今後確実に地方分権化が進むはず、そうなれば市としてのGPが最も重要な施策となるはずだ。
 私は小さくとも何か光る存在の事業体を目指したい。規模拡大への様々な誘惑がある中でそれを頑なに拒んできた理由が、光はそれだけでは光らない。自ら発光するには限界があり、いかに周りと共生するかが肝心だ。
 となれば、調子に乗って規模を広げることは、自分達が背伸びしていることの証で”冒険”とか”ベンチャー”の言葉に騙されてはならない。
 福祉と寺、この関係で共通するのは、双方に適正な規模があるということ、これが崩れると本来の立つ位置を見失う。
 
 

2252:一粒の麦

一粒の麦は、地に落ちて死んだ時にのみ、そこから新しい生命が生まれ、自らも、その生命の中に生き続けるという。これはキリスト教の教えの中にあって「一生の終わりに残るものは、我々が集めたものでなく、我々が与えたもの」だと。これは渡辺和子さんの本の中に書かれている。
 キリスト教も仏教も生命をテーマにしたものである。正直、坊さんの私が言うのも変だが、聖書の中身は具体的で分かり易く説かれているのが多いと思う。一方、仏教経典は難解なイメージがどうしても付き纏う。
 四諦八正道も漢字だけでは何がなんだかわからない。 我々坊さんがより具体的に今の言葉で説明するべきなんだな。
 、また言葉だけじゃなくて実践も重要だ。
 その点、お遍路さんが経験する”ご接待”は、実に分かり易い。接待する側が、有り難いと頭を下げる。勘違いしないで欲しい、接待を受ける側が有り難いと頭を下げるのではない。どうしてこんな風になってきたのだろう?
 遍路者は修行の身、自分の代わりに修行してもらっているので、接待することは当然と考える。
 
 日本では、様々なサービス業がありますが、みんな商売となっている。損得、多い少ない、高い安い・・・・が必ず付いて回る。仏教の無財の七施、思いやりや優しい言葉それに笑顔・・・宿をさがしている人を見たら泊る場所を提供しなさいと。どうでしょう!そんな事できやしないと思いませんか。見ず知らずの人を泊めて何されるか解らないと思いますよね。それに見返りを期待するから裏切られたと感じるんですね。
 「アッシには関係ござんせん」とばかりに知らんぷりが実に多い、一時期、絆という言葉が流行りました。わかっちゃいるけど出来ませんって事でしょうか。
 連日、虐待事件がニュースに登場、昨日もゴルフのクラブで娘さんを殴って死なせた20代の母親が逮捕された。このケースは数年前に虐待で児童養護施設に入っていた娘さんに関わる事件だ。
 10歳足らずの子供が親と一緒に住みたいと思うのは当然です。過去に実母と祖母の両方から虐待を受けていたそうです。その少女が一緒に住みたいと希望をしたから許可したと言う。多分、役所は人手不足を理由に退所後の調査は殆どしていなかったと想像する。
 10月から始まった虐待防止法で通報の義務が課せられた。虐待している者が自分は虐待をしていますと通報しますか?
 気付いた周りの人がするんですか?面倒な事には関わりたくないという風潮がありませんか。注意でもしたら逆恨みされると思うんじゃーないだろうか。それらの疑問に関しては全く触れられていませんでしょう。
 私は障害者差別禁止法にあるカケをしている。何せ障害者施設を新たに作ろうとすると地元の同意を得無ければならない。これって可笑しいよね。なんで障害者が利用する施設には同意が必要になるのでしょうか?多分、ヨーロッパには、そんなルールはないと思う。そして大いに矛盾を感じているのは、辺鄙な処に許可しておきながら今度は利用する人達を地域に戻しなさいと言い始めた。
 何言ってんのよ。地域に受け入れる気持ちがありますか?って言うだよ。本当なら反対する人を罰する位の法律にしてもらいたいと心から思っている。

2253:先行投資

今を中心に前後を考えて見ますと10年という年月がさして長いとは思わない。記憶が朧げなこともあろうが、あっという間に過ぎ去った過去10年。私は毎日、日記を書いているのでよく読み返してみる。何をしたかと問われて返答に困る人って多いよね
 ある大手企業が早期退職者を応募したところ、予想以上の希望者があったという。リストラには暗いイメージが付き物、希望された方達の思いはどうなのだろう?退職金に多少の上乗せがあるようだが、退職後の生活プランはたっているのでしょうかね。
 再就職さがしは大変だ。その覚悟は当然あるのでしょうが、思いは複雑だろうと想像します。
 先行き不透明感は一層強くなっています。解散総選挙がいつになるか関係者は気をもんでいるようだ。遅かれ早かれ選挙がおこなわれるのは確実ですよ、当選できるか否か不安が多く、自分の事で精一杯なんだ。
 民主党政権になって、その象徴的なものは、大臣が頻繁に変わったことだろう。3年間でなんと7人以上の大臣が変わったポストが3つあるらしい。その中で拉致担当大臣は7人変わった。(3年を7で割ると平均5カ月)相手国(北朝鮮)はその間に何人変わったのか知らないが、協議する度に責任者の顔が違うなんて交渉事で有り得ない。
 その辺の政治感覚を疑う。
 今回、本当に論功行賞の人事があったとしたら、これこそ平和ボケの最たるもの、我々には堪ったもんじゃない。
言い訳や美辞麗句を連ねることは得意だが、直ぐにメッキがはがれる。国民も目を覚まさないと遺憾でしょう。だけど、それに替わる人がいるの?
 これが不透明感を一層助長させているわけ。
 政治に先行投資がありますか?・・・・・。無い!
 企業経営には、当然あります。設備・研究・人材育成と現状に満足してしまえば競争に負けるという常套句。これなど初歩的な常識です。
 企業は経営に失敗すれば倒産という制裁を受ける。経営陣は当然、その責任を取って辞める。でなければ株主が納得しない。政治家にはそれがない。選挙と選挙の間が休息だと考える輩もいるかもしれない。
 選挙改革で論じられない事がある。有権者の義務と責任だ。1票の格差が問題になっているが、その事より根源的な問題が有ります。定数制を廃止し、有権者総数のある一定以上の票を獲得しない人は落選とする。規定の投票率を超え無かった地区からの当選者はいくらトップ当選しても議席は得られないとする。
 要は、議員も有権者も自覚を持てということ。
 こうすれば自然と議員数は減ります。国会が無理ならば地方からやれば良い。必ず変わります。決断するか否かだけ。
 有権者には議員を育てる責任もある。育って欲しいという人間にどうすればできるかという仕組みを真剣に考え実行すること。
 ここ何年かの動向をみていると、国は様々な改革をするが、地方の末端にまで浸透していない。結果の良し悪しを検証する前に変わってしまう。我々現場からみていると、”またいずれ変わるから!”という不信感を持たざるを得ないのですね。
 

2254:感応道交

神宮寺の境内に置かれている地蔵仏、もう何回も赤布の頭当ては変わった。雨風に晒され、ひたすら手を合わせている。身の丈,尺5寸、先日の台風の時に7メートルの標木が倒れ、頭の上で押さえたお地蔵さん、傷一つなくどうしてあの巨木を支えたのか奇跡としか思えない。
 赤味の消えかけた頭当てを新しく変えた。
 NO:2252で一粒の麦でキリスト教の事を書かせて頂いた。
「感応道交」という言葉が仏教にあります。仏と人が気持ちが通い合うことを言います。普段、気付かずに通り過ぎてしまうお地蔵さんにあの出来事があってから私は手を合わせるように自然になりました。
 「不立文字」や「教外別伝」という禅宗の教え、仏の悟りは経典にかかれたものでなく、心から心に直接伝えられると説く。
 今の世の中を見廻すと、言葉が非情に軽くなったように思います。さりとて、心と心が通じ合っているかといえば、親子の関係ですらその大切さを見失っていないだろうか?
 耳を疑いたくなるような悲惨な事件がまた起こった。9歳と生後9カ月の我が子を母親が殺して逮捕された。何かが病んでいる。
 何も解らず実母の手にかかって死んでいく子供の気持ちを考えるといてもたってもいられない。全国の人々が私と同じように思ったに違いない。何故、このような悲惨な事件が後を絶たないのだろうか。
 報道する側にも責任がある。民放はほぼ同タイムで同じ内容のニュースを取り上げる。特に朝のワイドショー、それと午後6時前後の報道番組、口裏を合わせたかのごとく、一斉に報道する珍しい国である。
 多分、メデアは自分達の使命だと考え、なるべく詳しく流そうとするのだろうが、最早、見る側の許容範囲を超えている。
 ならば見なければ良いのだが、家族の会話が減ったいまテレビは”感応道交?”の唯一の手段と化している。
 昨日、用事がありお世話になった齊藤先生宅を伺った。11月に行う集いの資料の表紙に息子さんの描いた絵を使わせて頂く許しをもらうために。ご夫婦で待っていてくれた。
 亙さんを亡くされてからご夫妻は、踊りやコーラスと今まで以上に活躍されている。なんでも学校のせいにする親がいるが、家庭の責任だよねと私に同意を求める。教員を定年まで勤めた齊藤先生と病院の婦長として昼夜を問わず仕事をしてきた奥様、二人ともお互いに協力してきたから子供を育てられたと話された。
 何らかの障害を持つ我が子を世間に隠すこともなく、体をはって生きてきた家族、自分達の財産を増やすことはできなかったけれど、亙さんの描いた数千枚の絵と生き方を多くの人に教えてくれた。
 近いうちに尚恵学園でお二人に親と職員向けに話をして頂くことの了解を得て帰ってきた。
 文字や言葉は便法でしかないでしょう。
 無言の教えを感じ取れるようになって心は動くのではないでしょうか!
 今の教育に一番欠けているのは、成績表の裏の部分です。

2255:茨城選手団

現在岐阜県において国体が開催されています。それが終わると全国障害者スポーツ大会が同じ場所で行われ、私は茨城選手団の一員で参加します。先日、真新しいユニフォームを受け取りました。選手団に同行するのは、岡山・大分、新潟、それに今回の岐阜で4回目になります。5泊6日長丁場で、11日県庁で結団式を行ってそこから岐阜に向かうのです。
 茨城の開催年度も決まりました。県では国体準備室を設け、既に動き始めています。
 競技を観戦していると感動場面に沢山ぶつかります。国体とは規模の比較はできませんが、開催県の皆さんの温かい持て成しや一生懸命に競技する選手たちに感激します。
 さて、今年の我が茨城の選手達はどうでしょうか?
 スポーツや文化活動を通じて触れ合うことは、爽やかさがありますね。勝っても負けてもお互いを称え、次の再会を誓いあう。同じ日本人なのに、皆さんがそれぞれの県の代表という誇りをもって参加するから尚更です。
 小学生の頃の運動会を思いだします。地区対抗リレーや紅白競技、自分の所属するチームを必死に応援した。これだって同じ学校に通う仲間、運動会が終わればまた元の関係に戻ります。
私は学生時代ずっと運動部に所属してきました。いまでもその連中とは付き合っています。
 ロンドンオリンピックが終わって日本は過去最高のメダルを獲得したという事でした。躍進目覚ましい競技もあれば、衰退が顕著なものもあります。
 特に女子サッカーは凄い。その反対が男子柔道。この差は一体どこから生まれたのでしょう。いずれの競技も裾野は広く、小さい時から親しむ人が多い種目なのです。
 昨日、誘われて真壁にある石屋さんに行ってきました。灯籠を地元の石を使って作っている現場を見ました。伝統工芸士という資格制度があるそうで、伝統を後世に残す為に凄い努力をされている事が分かりました。
 30年以上働いてくれる職人さんが5人、毎日灯籠を作っています。これだけ専門の石工を抱えている石屋さんは全国でも珍しい。外国製品に押され、沢山あった石屋さんが今では3分の1に減ったと言います。
 職人さん達は無駄口は一切喋らず、黙々とノミを振るっていました。全国どこにでも注文があれば行くと話していた主人は、石が大好き、好きだから持ちこたえられると話していました。
 茨城には結城紬や笠間の陶芸、それと真壁の石が日本の伝統工芸に選ばれているとか、縮小こそすれ決して往年の賑わいは無くなっていると聞きました。
 何でも同じですが、好きな仕事なればこそ楽しんで遣り甲斐が生まれるものです。
 これは大いに学ぶ所があります。真壁石の伝統は500年あると聞きました。福祉事業はどうか?精々100年の歴史、殆どが10年程度の歴史しか無いのですから比較になりません。
 スポーツもそうです。国技となっている相撲や柔道が日本のお家芸とは成り得ない昨今、この復活を図ることは、元気の無くなった日本にとってもそこから脱出する何かのヒントが必ず見えてくると思います。

2256:土浦の花火

ドーンと鳴った花火だ 綺麗だな 空一杯にひろがって・・・・♪
 昨日は土浦全国花火大会が行われました。天気予報では、雷雲発生の確率大、3時頃から急に空が暗くなり、大雨となった。私の友人にいつも頂く桟敷席の券をあげたは良いが、本人はやるのかどうか心配になって何度も電話をくれた。
 「晴れてますから大丈夫ですよ」と返答、しかし、信用しない。何せ千葉県から来るのだから無駄足になりたくない。
 その気持ちは解るけど私にはどうしようもない。
 結局、時間通りに大会は決行された。NHKテレビで実況中継、9時頃、無事終了、その後、1時間もしない中に雨が降り出した。なんと、花火の時間だけさけてくれた奇蹟だ。
 いつも花火になると思いだすことがあります。もう20年以上になるかもしれぬ。今思えば若気の至り、私はネパールの某施設と交流を計画、あちらの施設の職員を日本に招待、日本の福祉施設で研修を行った。丁度、土浦の花火がその時期にあり、プラダンさん(研修生)を連れだした。その時の印象は今でもハッキリ覚えている。周りなど全く気にする事も無く、桟敷の上で大騒ぎ、”ブラボー、ヒャー、ファンタステック・・・・・・”日本に来るのも初めて、花火に驚いたのも当然か、その後彼は何を食べたか腹をこわし、偉い目にあった。
 何日か私の家に泊って帰国した。その後、何年か後にカトマンズの彼の施設を再び訪ねたが、既に亡くなっていたことが解った。多分、50前後の年齢だったと思う。今ではその施設は国立の施設として立派に運営されていると思う。
 その花火が無事終わった。
 

2257:数独

今頃なんだい!と言われても構わない。実はあるゲームに凝ってしまった。”数独”。
 世界パズル選手権の常連だと知った。この意味は「数字は独身に限る」と。なんとまー不思議な世界。実は以前からこのゲームは知っていた。新聞や雑誌の片隅に3×3のマスで1〜9までの数字がいくつか入っているものを見かけていたが、あえてそれが何だか知ろうとも思わなかった。
 これが有る時から変わった。3時間程乗る飛行機、普通、前の座席の背もたれに画面があって映画や音楽を聞く事ができるのだが、この時の飛行機は何も無かった。手持無沙汰で中央の座席で外の景色を見る訳にもいかず、キョロキョロしていたら、背もたれの中に雑誌が有るので何気なくページをまくっていたらそのゲームがあった。
 最初簡単に解けると思って始めたのはよいが、最後の頃になると数字がダブってしまったり、どうしても完成しない。
 脇の人にも”これやってみてよ”というと、私と同じ、手持無沙汰だったようで、直ぐに始った。
 結論。私は3時間かかっても完成せず、私が促した方はメモ紙を用意し、様々なパターンを書いて一つ一つ可能性を消していく。結局3時間の苦闘の後、見事に完成したのです。
 それかから、毎月送られて来る全日本育成会の雑誌にもこのパスルが掲載されている。
 難易度は初歩レベルのようで、最近は1時間ぐらいで解けるようになった。いま、ネットで問題事例がのっている。
 中級クラスの問題をコピーし挑戦しているが、全く数字が入らない。完敗である。
  このゲームを考え出した人も凄い。少し調べて見て驚いた。今ではネット上で挑戦できるようになっている。
 だから、今頃何だい!という最初の言葉になる。
  このゲームは集中力と記憶力、想像力・・・・・などボケ防止には最高だと思った。あまりのめり込むとその弊害も出ようが、完成した時の達成感は格別、お金が掛かるわけでも無く、問題は無制限にあるのかもしれない。
 恐らく商標法などで特許が取られていると思うのだが、この種のゲームならば周りに迷惑はかけないし、問題用紙1枚と鉛筆と消しゴムがあればOK。
 エコゲームと言うのがあるのか無いのかしらないが、当にこれからは見直されるべきものだろう。
 何せ、ルールがいたって簡単明瞭、誤魔化しができない。
 数字は独身に限るという意味がどんな意味なのか知らない。個と集団、或いは共同体という最近問題とされている社会問題を解くカギがもしかしてこの単純なゲームの中に秘められているかもしれません。
 是非、初級レベルから皆さんも挑戦してみたら、いかがでしょうか!

2258:生涯現役

お邪魔でなければ、長く勤めたい。仕事が趣味という人間は確かにいるような気がします。
 趣味という意味は、楽しんでor喜んでということです。その逆は、仕方が無いor嫌嫌という気持ちですね。果たして貴方自身はどちらのタイプでしょう。
 周囲を見回して確信できることがあります。それは成功を成し得た事業のトップは、当に前者のタイプ、口では大変ですと言いますがそれに勝る何かを持っている。
 責任とは生きている限り誰にも付いてまわることです。それを当然と考えているか無しか、ここが重要です。
 責任=義務と考えても良いと思います。世の中のルールは全てがこれを抜きには出来ていません。
 これは倫理や道徳という括りで考えると何か変だと思う。
 最近の義務教育の現場は知りませんが、必修科目に道徳や倫理なる授業があるのでしょうか?有ったとしてそれを教える教師は自分自身をどうみているのでしょうか?
 子供達は理解する前に感じるものです。
 日本の現状に不安を感じない人はいないと思います。私がどうも疑問に感じることは、高齢者への対応です。
 福祉の業界は、どうやって介護ビジネスに参入するかチャンスを伺っている。このまま進めば町中が介護事業所になってしまうほど、無制限の現状です。相も変わらず、毎年、どこかで老人施設が出来ています。それも豪華さを誇るようなものばかり、事業名は違っていても中身は殆ど同じです。
 メデアはお年寄りの孤独死や自殺という事例を取り上げ、受け皿不足を強調する。これらは老人自身の気持ちを代弁していない。社会とか介護者(家族)からの視点、だから楽しんでor喜んでという感情は薄まる。
 食事と入浴、睡眠は三種の神器、うちはこれだけ多彩なメニュー、風呂は週3日、部屋は個室・・・・・・・。????これって神器なのと言いたい。
 この根底にはお年寄りは社会のお荷物という考えがある。
 ここには、そうじゃーないだろう!という発想が無い。これも人倫の道に反する。上下・長幼の秩序無くして、何が福祉だと言いたい。
 外見を重視した施策にモノ申す。形から入ると物事は崩壊する。これ仏教の基本中の基本、何せ無常観を第1に掲げる教えですから。ただ日本語はややっこしい。無常観を無情観と読み違える人が多い。
 偉い違いだ、無常感と無情観の一番の違いは情愛があるか無いかという事です。無情と同じ意味で非情がある。
 この混乱が世の中に蔓延していませんか。
 そして、悲観的になる原因の一つに、それを改善する手立てが見つけられない実態があります。「諦め」⇒自己中心へ。
 諦めるとはgive upという意味より、真実を明らかにするということ。真実が何かに情愛が加わり、生き方への指針がしめされれば私の言う『生涯現役』を解っていただける人も増えるのではないかと・・・・・・・。
????ちょっと難しかったでしょうか。

2259:アイデア募集

施設病とかホスピタリズムと言われ、そこに反発を感じ、どうすればそうならないで済むかと悩んだのが今思えば私が20代の頃だったと思う。当時から長期間入所されている人達の情緒面・感性・社会性などの問題が指摘されていました。
 マンネリ化する催し、ルーチン・ワークと言われる決まり切った業務。利用されている方とそれを支援する側の溝、そして家族の絆とは何か?
 もうちょっと考えるだけでもの凄い量の課題が思い浮かぶ。その圧力に押し流されないように必死に足を踏ん張る。
 時々、そこから逃げ出したくなるのも私は痛いほど判る。
 昨日、新たに障害者の支援事業を始めたいという方が来られて話をした。熱心にメモを取り、的を得た質問を矢継ぎ早にされるのでついつい余計な話をしてしまった。
 議論をいくらしてもその範疇からは出ない。現に目の前にあることにどう対処するか、ここが肝心なのですね。利用されているご本人もそれを支える人達もより快適な生活を求めるのは当然である。簡単に言えば、生きるエネルギーの源泉がここにあるからです。
 ただ、人間は一人一人違う。その事を弁えないとどのような試みもホスピタリズムと同様の問題が生まれるものだ。
 我々が地域という社会をちょっと見廻してみればわかるはず、憧れる程の理想郷が現にあるでしょうか?NOです。
 そのことを問わずして何をかいわんやです。
 私が福祉の仕事について40年の月日が過ぎました。根本的な事は何も変わっていないことに気づきます。
 ただ言えることは、”覚悟”という2字でしょうか。何が起こっても逃げることはしない。どのような理不尽な批判をも受けましょう。しかし、決して黙ってではありません。必ず、言葉を返しますよ。
・・・・アンタならどうするの?・・・・・・・と。
 一人の力の限界は誰しもが認めることなのです。 そもそもこの地球上で民族や国家が存在し続けて来れたのは、一人では生きられないということだったはずです。
 広大な宇宙の成り立ち、それを構成する物質が、人間一人の体と同じだということ。このことが真理だとすれば、人智の及ばないことが大半で、分かり切ったような事を言う人を鵜呑みにすることは危険だ。
 介護×支援という議論が盛んになされ、新法をつくるうえでそのロゴを支援に変えさせた。その時にさも首根っこを取ったかのような勝閧を上げる人もいたようで、それを聞いた時、この人達は一体何を考えているのかと訝った。
 アマゾンで古本を注文した。昨日それが届く。石原吉郎著:「望郷と海」である。最近ある企画で頻繁に会う事になったS氏から薦められた本で、著者は大正生まれシベリア抑留の体験から多くの作品を残している詩人。彼は私と同じ62歳で自宅(埼玉の公団住宅)の浴槽で急性心不全で亡くなっている。
 これは彼の凄まじい戦中戦後の体験からみて想像できない程の最後であった。
 

2260:充電

物事は計画通りには進まない。判っていますとも、集団で事を成そうとする時には、何らかの目標と道標が必要ですね。でないと雲散霧消に成りかねない。
 さてと、尚恵学園のグランドデザインは如何に? 正直、問われて返答に躊躇する。カラ手形を発行する事は簡単だ。しかし、こちらとしてはそれが出来ない。約束を反故して、路頭に迷う人もでるだろう。それを極力避けたいからだ。
 我々の基本的な立つ位置は、理念の処に示してある。ご参考までに覗いて頂きたい。
 必要なニーズがあれば即対応できる事業体を目指す。言うは易い。この言葉の重みを良く弁えよ!
 私はこんな風に考える。
 ウサギとカメの徒競争の話ではないが、我々はカメであるべきだと考える。何時の時点で勝敗を決するかは然程重要でない、むしろ駅伝競走と考えるとより判り易い。最終ゴールにタスキをいかに早く運ぶか、途中で誰かがブレーキを起こし走しれなくなればそこでタスキは途絶える。ウサギが油断して寝込んでしまった事は、当にブレーキ(トラブル)である。
 ただ、人間福祉には残念だがゴールは無い。そこが唯一駅伝と違う点。
 私は数独に凝っている。明日から暫く出張になるので本屋で数独の問題集を買って来た。書棚にあんなに多くの問題集があるのに驚いた。
 それと絵パスルが大変参考になっている。先ず、数独は正方形を3×3のマスに分ける。次にそれを更に3つに区分するから9×9の合計81マスがあって、問題の難易度によって最初に明らかにされている数字の数が違う。当然、明らかな数字が多いほど空白のマスの数字は見つけやすい。このゲームのルールは単純明快、1〜9までの数字を縦横ダブらずに全てに入れて完成。
 最初に示された数字を仕事上の課題とすれば判る。課題の数が少ないほど、実は完成(目的の達成)するのが難しい、おわかりでしょう!要は課題が有れば有る程、歓迎すべきなんですね。それを混乱と思うかチャンスと思うか?
 次に絵パスル、これは一枚の絵を切り刻みピースにしてあるものを合わせて元の絵を完成するゲーム。これまたルールは実に判り易い。ただ全体を描いてばかりいると時間ばかりかかり、とっかかりが見つからない。一つ一つのピースを最初に合わせ、次に2つに合わせたものを組み合わせ4個のピースをつくる。次に8個。この方法が最も完成するのに早い。
 この両方のゲームには、集中力と想像力が不可欠、途中で根負けするのが多い。
 これを仕事に応用できないだろうかと考えるのです。
 福祉の仕事は本来、単純なものであるはずです。それを何故か複雑にして難しいように難しいようにしているのが今の日本の仕組みだと思っています。
 私が言う、原点に戻れ!の本意はこの事なのです。
 兎に角、5泊6日の役目を引き受けた以上、有効に使います。充電となるか浪費になるか、そんな訳で暫時、この欄の記入を中断させていただくことに致します。
 

2261:岐阜大会

10月11日〜16日
 全国障害者スポーツ大会
岐阜大会
茨城選手団総勢62名
 
メダル獲得数合計35個

見事な活躍で無事終了しました!


開会式聖火


お別れを惜しむ
岐阜羽島駅でVSと選手団
岐阜大会は秋晴れの好天の下で全国から沢山の選手達が集い、素晴らしい大会となりました。
 茨城県選手団は総勢62名、5泊6日の長丁場でしたが全員無事に茨城県庁に16日の午後6時に帰ってきました。
本当にお疲れ様、それと素晴らしい感動と元気を頂きました。心から感謝いたします。
 私は茨城県選手団に加わって合計4回目の大会になりました。岡山・大分・新潟そして今回の岐阜です。それぞれに沢山の良き思い出を頂きました。
 今回の大会で経験した幾つかのエピソードを紹介しますね。
 種目で水泳やボーリングに出場する選手のご家族の一生懸命さに驚きます。大会期間中応援に大勢で来て下さりました。そして、結果の良し悪しとは別に、皆さんが良い経験をされたことを一様に喜んでいました。
 一生懸命な選手たち、朝6時には宿舎を出て戻るのが夜の7時という強行軍をこなしました。ボーリングのWさんは最後の最後で見事逆転で銅メダルを獲得、彼は直ぐに施設に電話して欲しいと私に懇願、何かホッとした反面、感じることがありましたね。他の選手は駆け付けた家族の応援があったのに彼は一人で本当に頑張ったのです。
選手たちはそれぞれのハンデイを持っていますが、決してめげたりはしていません。明るく前向きで逆に私達が彼等から元気を頂くのです。それと岐阜県の皆さんの温かい歓迎、素晴らしかったですよ。特に若い人達、その中に一人の学生さんが閉会式の時にカメラを持ってやってきました。「俺、実家、笠間なんです。一緒に写真を取って下さい」と。彼は岐阜の大学に通っている学生でした。今回ボランテアで参加し、茨城の選手団をわざわざ探しやって来たのでした。
 街を歩いていると何人もの方に声をかけられました。奥さんが土浦出身だと言う方もいらっしゃいましたし、昨年まで水戸に住んでいたんだよと懐かしそうに声掛けてくれたご夫婦もいました。

 岐阜県の人口は208万人、県南部に人口が集中、北部は飛騨高山など自然豊かな県です。残念ながらそこまで足を運ぶ時間がありませんでしたが充分に岐阜の皆さんの優しさを感じ取ることができました。

 さて、茨城は7年後に国体と併せて全国障害者スポーツ大会を開催することになっています。既に準備室を置き、着々とその準備が始められているそうです。
 同じ宿舎で選手と役員が一緒の生活を6日間送りました。自然と名前と顔が一致するようになり、お互いに強い絆となって大会を終わることができたと思います。
 ただ、ちょっと気になる事があります。
 施設関係者の参加が年々少なくなってきているということです。どうしても学校中心の選手団になるのは、施設は人手に余裕が無くて役員や選手を出せない現実が一番の理由です。何か良い方法は無いものでしょうかね。
 暫く、このコーナーを休みました。また、これからも頑張って書きますよ。
卓球試合

障害種別毎の競技


2262:こぼれ話

何故でしょうか?
 障害を持つ人々の気持ちを果たして健常な我々が本当に理解できるでしょうか?
いやいや違いますよ!我々だって実は悩み多き人間だ。
・・・・・・大会中こんな話が聞こえてきました。
 今回初めての参加となったKさん、果たして良い成績が出せるでしょうか!応援に駆けつけてくれたご家族の皆さんは、もっと違う処が心配だったのではなかったでしょうか?それは、Kさんがみんなと一緒の生活ができるかという事。彼には精神統一(?)の唯一の方法がありました。他人がどう思うと、決して彼にとっては遊びではない。あるモノを持って耳の処で音をだす動作で安定を保つのです。
 周りが心配した事も徒労に終わったのです。全く問題なく集団行動が取れました。今回惜しくもメダルには届かず、その点は残念だったけれど、多分それ以上にご家族の皆さんはKさんの底力を実感したのでは無かったでしょうか。
 彼と移動のバスで隣の席になりました。その時あるモノは持っていませんでしたが、彼は膝の上で同じ動作を繰り返しているのです。声をかけると笑顔を返してくれました。
 またある方との話から一つ。
 脱ぎ散らかった宿舎のスリッパを必ず揃える方がいたという話です。この方は誰かが見ていようがいまいが必ずスリッパを揃えていたそうです。誉められたいとか誰かに見て貰いたいという事ではなく・・・・
 仏教にある周梨般特(しゅりはんどく)を彷彿させる話ですね。見返りを期待しない行為、そのものズバリではないでしょうか。
 言葉が上手く話せなくても笑顔があります。これってどんな言葉にも優ること、でも、なかなか出来ないのです。
 それに、何か見返りを期待する行為って多くありませんか?
 彼等と一緒にいるとほのぼのする話は沢山あります。誰とでも直ぐに仲良くなってしまう人がいてその人がいると自然に周りが和むんですね。
 これって誰でもできる事でしょうか!
 障害を持っている人達が自分よりハンデイの重い人を見て、自分からすすんで手助けしようとする。車イスを押したり、着替えを手伝ったりします。凄い事でしょう。見て見ぬ振りをする人が多い世の中になりました。余計な事をすると叱られることもあります。
 でも人間は一人では決して生きていけない。お互いが自分の出来ることで手を差し伸べる。
 教育の基本は、個の役割を見出すことですよね。福祉も同じです、役割を見つけた人は必ず変わりますからね。
 実は、この大会の本来の目的はここにあったのです。スポーツを通じて相手を認め合うこと。勝敗以前の事です。
 
 これは、成績結果の裏話、むしろ、これらのこぼれ話の中にこそ真実があるように私は思いました。・・・・前項での続き・・・・。

2263:厄介な話

実践が先で少し遅れて言葉が付いてくるほうが、その逆より良いと思います。本当は黙して語らずのほうが面倒じゃないのは承知しています。だが、性分とは如何ともし難しで私は言ってしまうのであります。
 何度、黙っていれば良かったと思ったことか。所詮、その器でしか無い人間ということなんです。
 ちょっと最近、用事が立て込んでしまって、閉口しています。・・・・平常心!とか呪文のように自分に言い聞かせておりますが、効き目ないです。
 昨日、水戸で某施設長と立ち話、同じ悩みを持っていることで意気投合(?)、否、慰め合い、お互いガンバローなんて言っちゃってね。苦笑いですよ。
 何をそんなに、悩む事なんか無いでしょうよ!と言われ、フーム、そうかも知れないと思ったり。
 でも悩まなくなったら人間お終いですわな。そうじゃなくて耐性を如何に付けるかってこと。今、夜中の2時過ぎ、どうして今頃こんな事を考えているのでしょうね。立て込んでいるとか言って実は暇なんでしょう!   フーム、そうかも知れない・・・・・・・。
 正直に言いましょう。尚恵学園の立つ位置を考えていました。今更という事ではありません。だってずっと考えてきたのですからね。
厄介な話、2つあるんですね。『共生』と『断らない』という旗印、これがもう彼岸に渡った連中からやいのやいの言ってきてウルサイの何のって。幻聴か妄想か?もう少し黙っていてくれないかな

 【人はどんな境遇でも輝ける・・・・・どうしても咲けない時は、下へ下へと根を伸ばす。つらい日々も、笑える日につながっているのです】。。。。何かの本に書かれていた。
 
 どんな境遇でもね。?? そうですわな、太陽の光は隔て無く誰の上にも注ぐでしょう。 だからですよ、根が張れるのはね。判り切ったことです。
 でも、それをあまり感じなくなっていませんか。人間って我が儘なんですよ。日照りが続けば雨が欲しいと言うし、大雨になって洪水が起こればその逆ですわな。「お前たちの思い通りにはいかん」ってお天と様が言ってます。
 
  余談。
 これまた岐阜大会での話です。閉会式の時、こんな事が起こりました。式がクライマックスに差し掛かった時、突然、打ち上げ花火の連射、皆さんがワーと歓声をあげて大喜びしているその時です。山梨選手団の列で今までご主人の足元で大人しく座っていた盲導犬が急に体を振るい始め、明らかに花火を怖がっているのです。恐怖と不安でどうしようもないという様子です。スタッフと飼い主の方が必死になだめ抱きしめますが、振るいは益々強くなります。花火が終わってどれくらいたってからでしょう?やっと落ち着き、またご主人の足元に体を沈めました。その時のワンちゃんの表情が忘れられません。
 でも、凄いと思いました。決してご主人から離れようとせず、ほえることもしなかった。何故、盲導犬はそんな風にできたのでしょう。
 良かれと思ってやったことが大変な迷惑な話って一杯あります。ワンちゃんには花火の音が銃声に聞こえたに違いないのです。前もって教えることもできませんし難しいですね。その時思い出したのですが、「共生」って「寄り添う」事だと教わった覚えがあるんです。それも必要な時に相手が望む方法でね。
 

2264:言葉の壁

マスコミとは様々な媒体を通じて行う大衆への大量的な情報の伝達。言われなくても分かっていますって?。
 実は現代を象徴する様々な問題(病因)にこれが大きく関係しているというのです。思い当る節は誰でもありますよね。受信と配信の能力のアンバランス、これが一人の人間の中で常に起こっている。例えば電車の中、迷惑防止のため通話はできない。その代りにメールが凄い。もしもその遣り取りの電波が目で見えたなら、周囲は電波だらけになるでしょう。その中で人間は仕事をし生活の糧を得ているのです。
 然程、昔の話ではない時代(50年程前)に私の住む神立では有線放送というとても便利なものがありました。ただし、今考えると一つの地域だけで利用できるものですから、東京に連絡をしようとしてもできない。この限界がありました。
でも、尚恵学園の利用者さんがいなくなった時に有線放送が活躍してくれたのです。全戸一斉放送というものです。聞きたく無くても聞こえてしまうというものです。
【ただいま 尚恵学園を利用されている○○さんがいなくなりました。見かけた方は・・・・・・・】という放送でした。
 半世紀という間に、通信手段が大きく変わりました。便利さの追求の為に最先端技術を駆使した企業間の競争が物凄い勢いで広がっているのです。
 その流れについて行けない人達も大勢います。耳や目に障害がある人達がその代表、街で当たり前に暮らすとの目標を掲げその取り組みも確かに成されてはおります。でも、スピード感が全く違うし離れる一方という感じですよね。
 「安全性」とか「手厚い看護」という言葉が医療や福祉の世界に溢れています。でも、この実生活とのミスマッチを一体誰が修正するのですか? ノーマライゼーションという言葉は死語と化したのでしょうか?多様性というもう一つのロゴによって、処理されてしまう多くの事象、例えば身近な例で「意思決定」は誰がどうやって行うのでしょうね、具体的な提示がなされない。
 私はこれを「言葉の壁」と言いたい。つまり、ああ言えばこう言う症候群との病名をつけたいのです。もっと分かり易く言えば、「なんでも有り病」でしょうね。
 一昔まえならば、聾唖者に良く使われた言葉の壁が大きく変わったのです。誰にでも起こり得る表裏一体の問題、それが”壁”なんでしょうね。
 病院に通院すれば、必ず何らかの病名が付けられる。これって患者さんに有利なんですかね。むしろ診療報酬を受ける為の便法になっていないのでしょうか。不思議ですよ、セカンドオピニオンだってそうだ。違う診たてがあって安心するんじゃー無く、かえって混乱する。これ実態です。
 そこで、私が言いたい事です。
 理屈抜きにです。それは「言葉の壁」があることが当たり前でその壁を取り払うことにアクセクするよりもっと大切なのは自分の言葉を見つけることだと思うのです。
 

2265:共有

個から集団(組織)になれば先ず一番目に問題になるのは、”共有”ということでしょうね。何らかの目的をもって事をなそうとする場合ですが、端的に言って、何の為にという一語に尽きますかね。
 でも、これが実に難しい。例えば、福祉施設の事を考えればですね。事業目的は最初から決まってますよ。どこに聞いたって大差が無く答えが返ってきます。
 最近の流れを見ているとね、何か形に拘りすぎませんか。やれ個別支援計画だ自己決定だと、良く判らない言葉が溢れています。特に”アセスメント”なる言葉が幅をきかせちゃってね。何だいこりゃー!英和辞典で引く始末、見ると「評価」「所見」なる意味だとわかる。
 まー良いでしょう。無いよりは有った方が。でも、どうだろう。形から入ると評価者の自己満足になりかねません。
つまり、記録ばかりが多くなり、だれも読まなくなるという現象です。当然、心を感じない。
 そして、より深刻なのは自分の事も評価できない者が他人様を評価などできるのでしょうか?ここなんですよ。私が言いたい事は。
 様々な研修会が目白押し。言って置きますが、会費は取っても講師は責任は取りませんよ。参加者の自己責任って決まっているんだから・・・・・・・。
 日本の組織で上手く機能している例も沢山ありますね。その多くは結果が数値化できる分野です。 厄介なのは、福祉とか教育など人間相手の現場は数値化が難しい、アセスメント(評価)が絶対ではなく、目的を果たすための一つの方法(手段)でしかないからですね。それをあまりにも過大評価すると評価者自身が実態とのギャップに悩むことに必ずなるのです。
 それじゃ、この分野で”失敗”ってあるんでしょうか?正直、失敗ばかりですね。事業規模とか設備の豪華さではなく、利用する人にとっての満足度は別物?と考えて見て下さい。
 だってそうでしょう、人間って失敗の経験があって、初めて真剣にそれと立ち向かうことになるんですよね。
 更に、”課題”って何?  会議の目的は、課題を出し合ってその事を参加者が共有し、それをどうするかを決める事ですよね。
 結論の出ない話しをいつまで続けていても埒があかないでしょう。どこかで結論をださないといけません。よく有ることだけれども、話し合っていることが目的になってしまう。事業仕分け(?)と同じことを偉そうにやるわけ。
 本来、責任と覚悟が必要なのですがね。よく見ているとその覚悟(責任)が感じない会議って多くないでしょうか!
 これこそ無駄な話です。
 昨今の我が福祉業界を見ますとね、顕著な傾向が見えます。それは、外からの眼を気にし過ぎる事。
しかし、肝心な事はそうじゃー無いだろうと思うのです。
独り善がりかもしれませんが、やってきた事に自身と誇りを持つべきだと思う。
 残念ですが、それすら不確定な時代になったということを実感しています。
 あまり見たことがないんだけれども、こんな調査をすれば面白いと思います。それは教育現場(学校)と福祉現場の管理職「校長・施設長」へのアンケートをするんです。
@貴方は今の仕事に満足していますか
A貴方は早く今の立場から逃れたいと思っていますか
 この2問で結構です。 

2266:有言実行

毎度おなじみの話になりますが、「有言実行」という意味が今日ほど軽んじられる事は無かったのではないでしょうか。
 特に、政治の世界では公約を反故するなど日常茶飯事、常套句とさえなってしまった訳でしょうよ。大臣がコロコロ代わる国も珍しい。前任者の言った事を次の大臣が否定することなどへっちゃら。拉致担当大臣がまた代わった、なんと3年間で7人目、横田ご夫妻のコメントをテレビで見ていて国民誰しもが怒りを感じたに違いありません。
「不言実行」「不言不実行」・・・言葉はいくらでも作れます。でも私には”こころ”を感じない。真剣味というのか覚悟というのか、弄んでいるかのようにどうしても受け取れる。
 国の姿と我々の取り組む障害者支援が全く共通する問題を抱えていることに気づきます。
 選挙で誰を選ぶかという選択肢の問題だってそうだ。解散選挙が年内に実施されるか否か大騒ぎしているけれど、大半の国民はどうだって良いと感じているのではないでしょうか。だってそうでしょう。今、選挙があっても誰を選んで良いのか皆目分からない。公約を信じ投票したとしても、いずれ書きかえられるに決まっている。現行の選挙が憲法違反だと司法の判断が下っているのに、我関せずだ。
 一方、我々の施設だって同じ問題を依然として孕む。利用される人が自らの意思で選択する仕組みが充分機能していますか!選べるだけのメニューが揃っていますか?
 制度や仕組みを先行して整備することは頷ける。しかし、実態は大きな隔たりを感じています。
また、国は規制緩和の流れを受けて様々な主体の参画を促しました。その結果、信じられない程多くのサービス事業所が出てきました。
 競争原理を入れて自然淘汰させようという目論見でしょうが、これは利用者の立場を軽視していないでしょうか。
 施設が利用者の全人生を抱えることは不可能です。ゆりかごから墓場までという理念は、今の時代、そのまま受け入れることはできない?
 ここが悩む処です。施設という限られた場所では無くて地域でという考え方は賛成です。ただ、今の日本は地域基盤が大きく揺らいでいます。財政面だけ見ても、殆どの自治体が赤字、それに対し住民からの要望は増える一方ではないでしょうか。
 これら全てが成長期の後遺症(?)、仏教でいう”足るを知る”を忘れていると思うのです。
 果たしてこのまま進んで幸福な社会が築けるのでしょうか。
有言実行はリーダーの条件です。それが期待できないリーダーにはハッキリNOを突き付けるべきです。
 ・・・・・が、次のリーダーが見当たらない。 そこが深刻なんでしょう。多分。
 

2267:相互研修

気忙しい毎日です。秋晴れの下で昨日は尚恵祭を行いました。家族や近所の方々が沢山きてくれて、成人寮のグランドが狭く感じます。
 私は寺での法事があって中座、また、土浦市の産業祭もあってそちらに出る職員もいる。盛り沢山の1日でした。
 閉めが中堅スタッフに理事長が話をする事が組まれた、それも2時間という設定。みんな疲れているのに私のつまらぬ話も可哀そうだと思って1時間に短縮した。
 尚恵学園の歴史を話すという事だが、言うは易しで、それよりも歴史を知って各自のモチベーションが上がるだろうか!
 二人のメンバーさんの話をした。一人は今年、ケアーホームに移った方、もう一人は実家に戻り母親との生活をしている方。
 過去を語る事は、いくらでも出来る。何せ一人一人の事が逐一思いだせるからである。
 一人一人の人生そのものが尚恵学園の歴史とダブる。取り返しのつかない事かもしれない、結果云々を軽はずみに言う事はできない。
 1時間の中で最初の30分がパワーポイントで説明、その後は参加者へ私から問いかけた。
 何かを感じてくれたか否か。1週間後にレポート提出をしてもらうことにした。一方的な講義は耳に残らない。自分で考えることが研修の本当の狙いであるべきだ。これは私が一貫して行って来た事である。
 職業柄人前で話す事に抵抗はない。誰かの借り物ではなく、自分が体験した事を自らの言葉で話すよう心がけている。それでないと脱線する話が出来にくい。
 思い出した。大分昔のことになるが専門学校で1年間授業を引き受けた。その時は事前資料を作るのに結構時間が取られた。結局、自分には合わないことが分かり1年で断った。その後私のあとを引き継いでくれた方は10年以上続いた。
 彼が会うたびに言っていた。「福祉さんに頼まれたから仕方がない。でもやんなっちゃうよ」と。それでも続けられたんだもの今でも彼を尊敬する。
 私などは現場の話しはいくらでも出来るが、制度や理論となると正直面倒と思う。そんなの自分で調べろと言いたくなるからだ。
 会議が多くなると会議することが目的となってしまう。これではいくら時間をかけても無駄。それには上手く結論に結び付かせる船頭役が重要、これが実は大変難しい。人一倍の忍耐・知識・やる気が必要になるからだ。
 

2268:優先順位

体は一つ、やること一杯。これではうまく行かんでしょう。その時、何を優先するかという判断。この辺の能力は失敗を繰り返し、その中から習得するものですね。多分これを老練の士と言うんでしょう。
 神無月も2/3が過ぎた。いよいよ年末に向け、日捲りカレンダーの変わるスピードが増す。ここは本腰を入れ、何を優先させるか考えよう。
 気持ちの入れ替えは大切です。私は住まいと職場がくっ付いているようなもので、井の中の蛙みたいな心境に良くなります。
 周りの状況は常に変化しているのですが、何かに目が止まるとそれが気になって頭から離れない。
 この状態で優先順位を決めるのは結構難しい。工事関係だけでも現在5本の見積もりを頼んである。業者の選定はルールがあるから、それに沿えば良いのだが、思うように行かないのが常。一つ遅れると次に必ず影響する。
 若い頃なら何かに熱中できるものがあったのだが、そのエネルギーは比較にならぬほど減退している。
”アンタに任せる”とは言ったものの、相手はそれをマトモニは取ってくれない。所詮、何でも屋の看板は下ろせないのだ。
 昨日、愛用のパソコンが壊れた。もう7〜8年は使っている小型のPCでWindows XPで動く。旅先には毎回カバンに入れて持ち歩いたもので慣れ親しんだもの、それがパワーポイントで研修で使った後、事が起った。いくらスイッチをいれても画面が出ない。私のパソコンの先生に早速状況を説明、見て貰った。多分ハードがいかれたという事らしい。データーの大切なものは全て 違うPCに入れてあるので取りだす心配はない。いつも持ち歩くから壊れるのは覚悟して、そのようにして来たので良かった。 先生が言うには、パソコンショップで買うものは、使わない付属品が沢山付いているので無駄が多い、ネットで直接購入した方が良いというアドバイスを受けた。DELLのホームページから希望に合うPCとソフトを注文、数日で手元に届くというメールを貰った。
 なんと便利な世の中になったものか、自宅にいて必要なものを購入できる。それもいくつもある製品の中から自分に合ったものを選んで。
 電気の量販店は、他店と凄まじい競争を行っている。何せメーカーは同じなのに、サービスと価格で勝負する。その上、ネット販売との競合だから大変だ。
 社員教育は徹底している。客の対応から専門知識など短期間にみっちり仕込んでしまう。
  それを思うと我々の業界は何とノンビリしたものか、学ぶこと大いにありである。少なくとも今施設現場で利用者さんを呼び捨てにする事業所は無いだろう。
 それが、なんと学校教育の現場では、何の疑問も感ぜず堂々(?)と生徒を呼び捨てする教員がいる。10月から障害者虐待防止法が始まった。施設・家族・雇用事業所には虐待防止法で申告の義務が課せられた。だが、教育と医療には、その義務が管理者の判断によるという曖昧な表現となる。
 この辺の手緩さは、一体何が原因なのか? 要は”先生”は虐待などしないという暗黙了解があるのかな・・・!
 確かに運動系のクラブで○○さん、頑張って!なんて言うのもどうかと思いますよ。
 さーどうする。野田総理!
 

2269:局面打開

巨人が3連敗、日本シリーズ出場への希望が断たれたと大半の巨人ファンは思ったに違いありません。それが何が切っ掛けとなったか知らないがその後3連勝し、日本ハムとの日本一争いに駒を進めた。
 プロスポーツの世界は、多くの優秀な選手達が海外のチームに移籍し、国内は人気低迷、煮えたぎらない試合が続く、相撲やゴルフは逆に外国人の台頭で日本人が霞んでいる。この局面を打開する妙案は無いのか!
 海外に進出する若者は、自分の力を確かめたいと一様に語る。それも良いだろう。今だからこそ出来ることだから。
 しかし、イタダケナイのは政治の世界、法務大臣が三年で九人目、ホントかと疑いたくなる。それが、ここまで常態化してしまうと最早、打つ手は無い。先月法務大臣を交代したばかりの人が再登板するとかいう噂も出る始末。皇居での大臣の辞令伝達式も陛下のお気持ちを推察すれば言葉が見つからない。
 今の日本を覆う閉塞感を政治にだけ責任を負わせるつもりは毛頭ないが、余りにも国民を無視した状況が酷過ぎませんか。与党も野党も同罪ですよ。スポーツ界のみならず無様(ぶざま)な政治につけこんで海外から狙われるのは当たり前でしょう。
 このままいくと日本は落ちる所まで落ちないと目が覚めないかもしれません。正念場などというんじゃなくて、無防守国家と化し、何が起こっても不思議でない有り様に忸怩たる思いを持つ。
 国会審議が実質おこなわれず、地方交付税が止まった今の状況で地方は繋ぎ資金を借金しながら対応せざるを得ない。
 その事で国民生活に影響が出始めている。
 三権分立の民主国家は、立法・司法・行政が相互に牽制し、国民の政治的自由を保障する近代国家の範であるべきもの、そのように学んだ記憶がある。・・・・・が、今日の状況は、仕組み自体が金属疲労を起こし、充分に機能しなくなっている。
 歴史をどこまで遡るかという議論は、最早意味を成さない。それは巷に溢れる情報をいとも簡単に誰しもが得ることができ、節度ある自由が死語と化し、何でも有りの状況が茶飯事となったからである。
 私は原点に戻れと自分に言い聞かせ、何か事が起こった時に冷静さを保とうとしている。その意味は、もっと単純化すべきという事に尽きる。嫌なモノは嫌、綺麗なものは綺麗。
 誰かに媚を売るよりも、自分の本質(?)に忠実であれ。
 それを見事に実践している人達が身近にいる。
 彼等は、純粋で正直だ。肩書や経歴など糞喰らへ、コイツは胡散臭い奴だと思えば完全に相手にしない。その逆は、恐縮するほど献身的な愛想を向けてくれる。そこに損得計算など全くなく、人間対人間の付き合いの素晴らしさを教えてくれる。
 障害という言葉の”害”の是非が問われている。しかし、私の知る人達の大部分は、その事さえ問題としない。寛大さというのではなく、寧ろ研ぎ澄まされた”感性”という表現しか思いつかないのだ。
 局面打開は、一人一人が自らの責任として事態の改善に立ち向かう覚悟しかないと思うのです。
  *法務大臣が三年余で九人目、皆さん、全て順番に名前が言えますか?
 

2270:企画

往々にして計画倒れに終わる事があります。この原因にはいろいろ考えられましょうが、最大のものは計画に関わる人の問題、どうしてもやるという覚悟の欠如、それと中身の問題でしょう。
 だからと言って長々と話し合いばかりしていても埒が明かない。その辺の見究めも重要かと。
 話は全く違いますが、家のエアコンが調子が悪い。そこでメーカーのアフターサービスへ電話したのですが、後日訪問の日時を担当から連絡するという。その結果、機種が古く、部品の生産を止めていて修理は不可能との返事が返ってきた。
 要するに修理できないので買い替えろということなのでしょう。このメーカーの対応はどうなんでしょう?
電気製品のモデルチェンジ程激しいものは無い。エアコンも消耗品なのかも知れないが、もう少し消費者の立場にたった工夫はなにのかと思いました。せめて購入時に修理期限を明示するとか、勿体ないと思うのです。そんな思いでいる時にテレビで大手繊維メーカーがアップサイクルとか言って古着を再生し、より高品質の製品をつくることを行っていると知った。それは帝人である。
 日本型商売の特徴は薄利多売、それと買い替え時の短縮だった。日用品ならいざ知らず、高額な電気製品まで同じでは、どうなんですかね。
 もう一つついでだから、住宅メーカーへ一言。凄い勢いで伸びているアパート、私の住む地域は供給過剰だと思います。
やたらと建ったアパート、街の人口から言えば、こんなに必要だとは思えない。多少古くなったアパートは軒並み空き部屋となっている。大家さんは30年のローンを組み建てたものだから、まだ半分残っているのにと頭を抱えている。
 これが全てではないだろうが、住宅メーカーが自分で建てたアパート内でお客を廻していると聞いた。踏んだり蹴ったりとはこの事だ。
 これは長期に見ればメーカー側にとってもマイナスだと思う。企業イメージが良いはず無いからである。
 戦略会議とか企画会議は、どこの事業所においても行われている。ここで一番大切なのは、顧客の満足度、その物差しをどう使うかだと思っている。
 いま急成長している業種で、物流関係があると聞いた。それも宅配、毎日欠かせない食品は実に便利、尚恵学園もフルに利用させて頂いている。9か所点在するグループホームの食材は大助かり、何せ朝晩だけでも10カ所で食事を提供しているから、その労力は半端じゃないのです。
 それとネット販売も良く利用している。大部分の品物(書籍・文具など)は翌日届けられるのだから至って便利、値段も店で買うより安い。
 最大のメリットは選べる品数が格段に店と違うことだ。
 宅配のルーツは新聞配達だと思う。いま、活字離れが進み、新聞の購読者数が減少の一途をたどる。織り込み広告も同様に減っていて将来への展望は明るくはない。専売所といって地域独占の時代が長かったのだが、ここに来て暗雲が立ち込めている。
 クリーニング店も同様にセルフサービスの店が多くなり、生き残りは大変だ。
 理髪店もしかり、なにもかも時代の先を見通す戦略が不可欠となっている。

 これが日本の実態ではないでしょうか、ただ、これでさえも実は恵まれていると考えるべきなのですね。つくば市での企画が間近になりました。アフガニスタンの現状を報告していただくのですが、アフガニスタンの7割の人々が1日2ドル(160円)の収入で生きているというレポートです。
 日本人の多くは信じられないと思う。この格差が何故起こっているのか、それは長い紛争の結果、平和と縁遠くなった国の実態なのです。≪『ACE地方会 in 茨城』 の抄録集が出来ました≫。