源究15

(No:181

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
181 テレビ取材 3/1 186 13枚の写真 3/13
182 独裁者 3/4 187 なぐさめ&励まし 3/19
183 こころのケアー 3/7 188 障害者自立支援法 3/24
184 入所待機 3/9 189 頭を垂れて 3/25
185 三無原則 3/11 190 個人情報保護法 3/26

181:テレビ取材

雅子様の長野行きがキャンセルになった。長野県で障害者の世界スポーツ大会が開催されている。その開会式に皇太子様ご夫妻が出席するはずだった。しかし、雅子様の体調が完全でないためにお二人で出席することは取りやめになった。雅子さまが一番残念に思っておられることであろう。私は遠くからであるが雅子様のお人柄を垣間見ることがありました。それはつくば市で開催された知的障害者アジア大会でのことであった。開会式に尚恵学園の子供たちがミュージックベルを演奏する名誉を得たときであります。
 それからもう1年以上過ぎている。雅子様が体調を崩されご公務をお休みになられたのはつくばでのご臨席の後、あまり日にちがたっていない。あの時の雅子様が利用者さん一人一人に声をかけられていた時のお姿をはっきりと思い出す。『練習はきつくないですか?』『お上手にできましたね!』とか予定時間をかなりオーバーして国際会議場玄関でのお見送りの時の一幕だった。利用者さんたちはその事を今でもはっきり覚えているようだ。当然、父兄の方も喜んでくれた。励みになった。ミュージックベルは5人の利用者さんと2人のスタッフによる演奏だ。派手さは全くない。でも彼女たちのオリジナル曲も実は持っている。12弦ギターの辻幹夫さんが作曲してくれた曲。その演奏はつくばのノバホールで録音してCDになっている。
 当時のメンバーの中でみゆきさんが病気で亡くなった。暫く4人で演奏していたが今新たなメンバーを加えて、また5人で演奏できるようになった。
 彼女たちの演奏はどちらかというと物静かな演奏、眼をつぶって聴くのに丁度良い。茨城県では障害者週間に県立文化センターの大ホールにて障害者の様々な出し物をおこなっている。物凄い音響や工夫を凝らした出し物には驚く。しかし、『風』の演奏スタイルは全く変わらない。たどたどしくも丁寧にベルを鳴らす。彼女たちの眼差しがすばらしく良い。
多分、雅子様はそのような彼女たちの姿に何かを感じてくれたものと思っている。早く、お元気になられて、また笑顔の素晴らしい雅子様を見たいとメンバーも心から願っている。
 テレビ朝日のデレクターは何度も電話をくれた。午後6時前のゴールデンタイムに約7分の放送を流してくれた。

182:独裁者

西武グループの堤義明氏が逮捕される。何か日本人が追い求めてきた幻想の一つが崩れていくような印象をもつ。私は川越に住んでいた時期が長かった。所沢:川越は西武系列の本拠地、その影響力は計りしれない。
プロ野球から交通機関、デパートなどすべて西武資本が関係していた。堤一族といっても実は複雑、康次郎という創始者がいってみれば奥さんを多くもっていたのでその子供がたくさんいる。それを一まとめにしようと考え、家訓の忠実な後継者として義明氏が選ばれた。その意味では父親にとってのできた息子を演じた。しかし、組織というものは私物化を許さない。当然、反旗を翻す輩もでる。それに対して絶対の権力で抑えようとしたから、苦言を呈する人は彼の周囲から遠ざかる。その意味では堤王国の統帥者といっても裸の王様のごとく一番孤独だったように私には思える。
 マスコミ報道でしか真意は分からないが、義明氏は自分が主体的に関与したことを大筋で認めているという。
保釈金を何十億払えば、仮釈放されることは分かっているのだろう。しかし、今回のことで内外ともに彼を取り巻いてきた人々は避けて通るようになることは明らか。日本人にはそのようなところがある。御身大事で関わりたくないという。日本人が持っていたという一宿一飯の義理とか武士道というものは今の時代に期待するのがおかしい。ある意味では寂しい。
 ある方が言っていた。世界で有数の資産家である堤氏がもう少し社会のためになることをすれば風当たりは違っただろう。医療基金とか福祉基金といった財団をつくり、得た儲けを社会に還元していく。この点がどうも不足していると。今でも松下基金とか清水基金というものがある。これは企業が生業によって得た正当な利益を世のために役立ててもらうという目的で松下幸之助氏や清水建設の創業者が設立したものである。
 時を同じくして武富士の長男に1600億円の財産分与の記事が載った。海外に居住を変えることで税金を逃れようとした節があり、追徴1300億という。これとて、自分が設けた金をどう使おうが勝手だろうという考えが見え隠れする。私なんかそのような大金には全く縁がないが、1300億払ったって300億残るだろうと思ってしまう。
 アメリカの大富豪はその辺が違うらしい。
 ライブドアの堀江さんもいいが、そのあたりの考え方は如何なものか?坊さんという職業柄、亡くなった人の最後の立会いをする。もうその数は1000人以上になるだろうな。畳の大きさまではない棺におさまるいかなる人もお金や土地を棺の中に一緒に収めて荼毘にふされた者は見たことがない。最近、やたらと凝った棺も登場しているが値段にしてそれほど大差はない。燃やせば灰になるだけのこと。死して何を遺すか!この辺の育てる教えというものがポッカリ抜けてしまっている。先ず人があって,物それから金という順番が、逆転している。いつの頃からこうなってしまったのだろうか?

183:心のケア

心のケアーというものを知っていますか?抱っこ法というものですね。実は本日、観音寺を会場に法人内部研修を実施しました。日本抱っこ法協会の石田会長と阿部理事が講師として東京より土浦まで来てくれたのです。心のケアーというものは赤ちゃんとお母さんの愛着の形成と回復を目指すものですが対人関係を築く上では我々の仕事も全く同じです。特に最近では自閉的傾向のある方への関わる方法で脚光をあびています。八王子平和の家という知的障害者の施設があるのですが、そこの施設で毎年、その技術習得研修会があり、私共の女子職員が何人か受講していたのです。その職員の強い要望で今回は実現したのです。
 最近、福祉施設で利用者への職員の虐待や非人道的な事件がマスコミにのりました。このようなことは本来有ってはいけないことです。
 2,3日前の新聞に痴呆老人のグループホームのスタッフにアンケートをとった結果、かなり多くの職員がストレスにより心身の変調をきたし、利用者に虐待をするかもしれないという不安を持って仕事をしているということが書かれてありいました。石川県での事件のあと、急にマスコミが報道するようになり、実態が明らかにされつつあります。
 今、福祉施設は経営を前面に出しすぎる傾向が強くなっています。これも不景気という情勢が反映しているのでしょうが、一般のアパート経営よりは老人相手のGHが良いと考える素人(?)が増えていますね。私から言えばいずれボロが出るということです。福祉はそんな簡単じゃない、俄かにできるものじゃない!更に拍車をかけるように人件費を抑えるために、国は制度を変えて常勤スタッフはパートのつなぎでも良いことになっています。所謂常勤換算方式というものの導入です。ですから、パートスタッフが夜勤をするということが常態化。これでは遅かれ早かれ利用者と支援者とのトラブルが起きます。あるGHの場合スタッフ15名但し常勤は3人だけ、夜勤専門スタッフ5名が1人で夜間をみているという。ヘルパー2級など研修によって資格を取得したスタッフにとっては現実とのギャップに先ずたじろぐという。特老から地域へ、処遇は個別化、ユニットケアーなどなど。
 今、物凄い勢いで事業所が増えています。全国では毎日4箇所のグループホームができているという話です。(朝日新聞3/8朝刊)また、サービスの是非をチェックする機関が間に合わないといのが現実の問題としてあります。ですから表面化しない様々なことが現場では起こっていると思って間違いありません。施設の社会化ということで地域との交流をすすめていますが、その中で様々なリスクが増えています。私も痛感しているのですが福祉の理想と実態のギャップは相当大きなものとなっています。
 そのような時に心のケアーという利用される方と支援するスタッフの関係作りにこの方法が役にたつのではないかとと考えたわけです。利用者と支援者の関係は常に良い常態にあるべきです。分かりきったこと。しかし、これができないという現実をどう捉えたらよいのでしょうか?ごまかさず隠さず現実に正面から立ち向かう。今回の私の狙いは支援者側の心の安定をどう獲得するか!ということです。結果として利用者へのサービスが向上すれば儲けもの。
今回は第1回目、研修はアウトラインの内容でした。定期的に実施することでより中身の理解を深めるということが大切。
 次回にはまた多くの参加者を迎えて研修会を実施しようと考えています。

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184:入所待機

今日も東京都在住の障害者を持つお母さんから電話があった。息子さんを引き受けてくれる施設を捜しているとのこと。東京都には捜しても見つからない。千葉県もいっぱい。そして茨城県、何かの名簿をみてかたっぱしから電話を掛けているという。どのような事情があるのか分からないが、多分福祉事務所に頼んでも一向に埒が明かないので、自分で電話を掛けて、受け入れてくれる施設を自分で捜しているのだ。明日は茨城県の手をつなぐ育成会の理事会がある。私は施設の代表でメンバーに入っている。県育成会は会員の構成が施設利用者の親とか在宅の親が入り混ざっているから纏めるのは大変だ。茨城県には現在でも入所施設希望の待機者が300名いるとのこと。いつまで待てば良いのか?誰も答えてくれない。この辺の現実を変える一翼を県育成会にあると今日提言しようと思っている。殆どの親たちは出来るならば自分の子を家庭で見たいのが本音である。しかし、できない状況があるから何時入れるか分からない入所申請を出して登録している。
 昔は養護学校の高等部に入っているのに中途で辞めさせて入所施設に入った人がいた。今はそれはない。登録しても何時入れるかが全く分からないからである。私は現在の茨城県の入所登録制に大きな問題があると思っている。どのような仕組みになっているかと言えば、県の福祉相談センターでの登録制になっている。申請手続きは先ず入所願いを地元福祉事務所に提出、そうすると相談センターから判定の日時が示される。判定を受け、その後登録の順番が教えられるという。この間かなりの日数がかかる。県内の施設の直近の登録者の数は相談センターのHPにて分かる仕組みにはなっている。考えようによっては待ち人数の少ない施設を選んで登録する方法もある。
 しかし、本来はおかしい話だ。支援費制度の趣旨と相反する。選ぶ利用者、選ばれる事業所。更に、問題なのはこの登録システムの問題点を改善しようとしない点にある。何故なのか理解に苦しむ。当時私どもの事業所団体が県に要望すればとの声もあった。今その盛り上がりは鳴りを潜めた。半分諦めているのも事実。
 お金が絡むから余計難しい。日本の福祉はどうも先の見通しが暗い。グランドデザイン(案)が示されて半年がたつ。なるように成れというのが施設関係者の過半数だと私は思っている。これだけ短期間に制度が変わるのでは行政も事業所も利用者も混乱するだけ。国のレベルでは我々団体の関係者も入って検討をしているようだ。しかし、何を基準にするかによって全く違った方向にすすむ。福祉の先進県の代表者にとっては国の流れが歯がゆい。すでに大分先をすすんでいるからだ。しかし、全国的にはその逆が多いのではないのか。茨城県の場合はお世辞にも福祉先進県とはいえない。三位一体、権限委譲の時代においては茨城県独自の仕組みを作っていかなければならないわけだ。社会保障の公平性という原則の影に実は心の通わない事務的な対応というものが常に問題になる。本来その隙間を民間事業者が埋めていく。
 相談センターの入所判定に不満をもつ。何を根拠に優先順位を決めるているのですか!はっきりとした基準があるのでしょうか!あるならばその基準を公表すべきだと私は考えます。しかし、その点については全く答えてくれない。守秘義務という天下の宝刀をふりかざす、だが私は正直優先順位を決める根拠はないと思う。介護保険の認定審査会なる機関もない。全てが分からない所で決められる。否、判定業務自体のやり方を見ていてそう思わざるをえないのである。1〜2時間の聞き取り面接で何がわかるのかという大きな疑問だ。もし、本当に判定する気持ちがあれば少なくとも1週間ぐらい施設に泊まって観察するぐらい当然やってしかるべきだ。その上での優先順位を決めるのであれば納得しなければならないかもしれない。施設現場はそれだけの気構えで毎日悪戦苦闘していることすら分からない。ちょっとでも係官に批判めいたことを言うものだったら時間がない、そこまでの規定がない、自分の汚点にしたくはないというのが見え見栄、この流れは一向に変わっていないのだ。 この意識が変わらなければ日本の福祉は決して変わらないと断言できる。毎日、爆発寸前でどうにか自分を抑えている。親も怒れ!施設長も立ち上がれ!

185:三無原則

焦らず:怯まず:諦めず  三無(ず)の原則。私の生きる幻想である。挫けようとする一方の自分とそれを必至に後ろからツッカイボウをして支える自分である。どうも人間は楽な方に流れてしまうような気がする。苦よりは確かに楽がいいのに決まっている。抜苦与楽という仏教のことばがある。しかし、これは自分を基準に自分で思い込んでしまうこととは違う。また、自利利他ということばもある。実はこれとて自分だけの自己満足ということではない。
そうなるとどうなるの?ということになるわけだ。そこで一つの原則(OR 幻想)を自分に課したのが三無なわけだ。焦るということは結果を早く見たいと思うこと。そのために順序通りには事を進めず中抜きをすることだ。結果は殆ど良くない。つまり望む結果は常に変化し続けているからである。次に怯まないこと。物事をおこなう前から恐れをなしてたじろぐということかな。特に閉塞感が蔓延している今の時代、何か新たな試みをしようとすれば、誰しも経験がないから不安がある。これは今の日本人に一番欠けているいることかもしれない。怯むと引きこもる何か共通の視点があるようだ。最後に諦めず。本来この言葉には真理を明らかしめるという意味があるという。だから、幻想を追い求めるのではなく、これが本来の真理だよと明らかにするという意味である。
ほとんどの人はGive Upの意味に捉える。もう辞めたということ。つまり、真理を明らかにするということは大変だという裏返しなんだな。しかし、これを常に追い求めようとする人が過去には多くいたということも事実。最近では奈良の薬師寺の管長をされた高田好胤さんは「永遠なるものを求めて永遠に努力する人を菩薩という」という言葉を残された。当に大業を遺された尚かつそこに甘んじない高田管長の生き様を感じる。更に、古くはゲーテの名言に「人間は努力する限り、迷うものである」というものがある。皆さんも聞いたことがあるでしょう。そして、その方たちの生き様言葉はその方が亡くなってからでも生き生きと今の時代に残されている。これをどう感じ自分にどう置き換えるかということであると思う。ま!。言うは安しであるが極めて単純なこと。
 そこで今私が感じ、ささやかなる実践の原則として掲げた三無。
 184に記したこと。行政への批判:不満。実はこの辺の本音の交流が実は必要だと思っている。なんだ住田は例のごとく調子にのりやがってという批判を甘んじて受けよう。敢えて否定はしない。いくらでも言い分反論があれば受けて立つ。
 何も逃げる気持ちはないし、正直逃げられない。腹の中に収めておいて影でグツグツ言うのは性分に合わない。何しろ寅年のしし座で終戦記念日8月15日お盆真っ只中の御生まれさんだ。

186:13枚の写真

参ったな。○○さん。今度誰々さんがそっちへ行ったから仲間に入れてやってくれやー。頼むわ。毎朝のご挨拶。
観音寺の本堂右脇間には尚恵学園の利用者で亡くなった仲間の遺影が飾ってある。13枚です。一人一人の顔を見ていると思い出す。「○さんにはあの時は参ったな。どこにいっちゃたかと思って大騒ぎだったんだよ。電車で青森まで行っちゃうなんて。それも無銭乗車だ。凄いよな。」「△さん。今何してんのかな?お母さんと一緒だもんな。のんびり好きな折り紙折っているのかな」「◆さん。君とは良く取っ組み合いしたっけな。君はいつも俺怒っても良い?と最初に断ってから怒り出したっけな。家に帰っていて夜中に自転車で飛び出しちゃって6号国道で自動車と正面から喧嘩したんだっけな。」みんなみんな凄い。みんなの想い出は忘れないし、今でもハッキリ浮かんでくる。それだけみんなは個性的だったし、自分の生き様は持っていたよ。頑として曲げなかったっけ。そんな仲間が今、13枚の遺影になって俺たちを見守ってくれているんだろう。そうだよな?
 自問自答の中で、今そう思うことで自分の気持ちを落ち着けています。一人じゃできないこと。だからみんなの協力があってどうにか毎日が送れる。すみません(内省)ありがとう(感謝)
 福祉という名前を親父がつけたからか!正直プレッシャーにはなっている。そんな親父に反抗して泣きじゃくった時代はもう大分昔の話。そんな時黙って見ていてくれた母も今はあっちの世界。13人の子供たちと親父とお袋
が多分第二尚恵学園分場ホームの園長せんせいをやっているかもしれない。
 縁という言葉、これは仏教の基本の教え。縁があって我々はこの世に生を受け、それぞれの人生を全うする。長い短いは宇宙の悠久の時間からすれば大したことじゃない。縁を信じること。人間完全な人はいない。短所や長所皆それぞれが持っている。それを補い、時には自らが変えようと努力していつの間にか時を重ね。老いを迎える。

187:なぐさめ&励まし

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相手の話を聞くこと。実はこれは大変難しい。何故かと思えば、自分の側に聞くだけの余裕(信頼)がなければ、相手は直ぐに察知して話を止めてしまう。しかし、聞くだけでもこちら側に聞く誠意が見られなければ、これまた相手は直ぐに感じて止めてしまう。このようなこと今の時代誰もが経験していることでしょう。誠意を持つということはどうすれば出来るのかな? 同じ立場、同じ悩み、同じ環境などなど。相手の立場に自分を置き換えて感じることが条件かな!今年、尚恵学園はノロウイルスという流行ものに感染して大騒ぎになった。大洗の施設長会議で私は時間を頂いて70名近い施設長の前で敢えて報告させていただいたのだが、その時の反応は実に様々だった。自分の施設には感染者がいないからという醒めた気持ちで聞いている施設長も多くいた。それとは逆に私が話を終えた時に拍手までした仲間もいた。彼らは自分の施設で過去に同様の感染症で同じ苦労をされたものだった。これは人間の性(さが)だろうな!災いは経験しないと分からないし、親身になれない。日本の初期の公的扶助など劣等処遇などといった如何にもしてあげているという原理原則がまかりとおっていた。お国のために戦って戦死した遺族補償であってもだ。今朝のNHKこころの時代、タイでのボランテア活動をおこなっている秦辰也さんが出演していた。懐かしく聞いた。もう何年も前になるがバンコックのスラム街で活動している秦さんを知った。今でこそ有名人になったが秦さんの奥様はプラテーク女史、1978年アジアのノーベル平和賞といわれるラモン、マグサイサイ賞を受賞された方。秦さんはシャンテイ国際ボランテア協会の常務理事になっている。アジアでの難民救済をタイを拠点に幅広くおこなっている。その協会は元々は曹洞宗のボランテア活動であった。現在のタイの人口は6千万人でスラム街で生活している人達が5%以上約300万人いるという。今でもビルマ、カンボヂアからの難民も増え続けている。私は実際にその活動拠点のスラム街を視察したときがあった、今朝の話も良く理解できた。秦さんが言っていたことで気にかかったことが一つある。「今自分が心配していること、それはスラムの子供たちが起こす様々な問題は原因がなんとなく分かる。しかし、日本で今起こっている様々な事件は何が原因なのか良く分からない。それが何故起こるのか?地域の連帯が薄れ、家族の中で子供を育てる機能が低下し、教育や職場での人間関係などなどが複雑に影響しているのか。今の日本人が逆にアジアから学ぶことが多いと思っている・・・・・」当にそうだと感じたのです。人間の優しさ、思いやりという本来人間として持つべき品性を子供たちは親たちから教わったこともなく、むしろお前は勉強していればそれが幸せだという一方的な押し付けの教育を受けて育った子供たち。私もそうだが戦後に育った世代が親として正面から自分の子供と接することができない。それは何故か、飴と鞭ではないが、悲惨な戦争によって一瞬のうちに失ったもの、その復興に汗水流して頑張った世代、何か大切なものを置き忘れてきてしまった。その大切なものが発展途上といわれるアジアの国々に今でも残っているという。貧しさが物質的なものだけで判断されてきた日本がやっとこれはちょっとおかしいなと感じ始めてもう大分時がたった。マスコミは今毎日のようにライブドアとフジテレビの買収騒ぎに明け暮れている。リスナーの反応は様々、しかし、果たして良いのでしょうか?この騒ぎの番組になると直ぐにチャンネルを回す。もううんざりしている。しかし、マスコミはどうか?追っかけマンさながら英雄気取りのHさんを取材している。ああ!、子供たちがその大人達の争いをどう受け止めているのでしょうか?怖い怖い話ですよ。初めに戻って相手の話しを聞くというのが大変難しい時代になりましたわ。

188:障害者自立支援法

今国会で障害者自立支援(給付)法が制定される。昨年10月に国のグランドデザイン案が示されて、本法律の具体的な中身の検討がなされてきた。先日22日の厚生労働省の部長さんのお話では法律の中身の検討はこれからだということだが、そうは言っても大筋では決まってしまったのだろう。いずれにしても介護に要する財源が無いのだから何らかの手立てが必要なのは明らかだ。介護保険制度が老人介護を先駆けでスタートして丸4年が経過した。
今、その見直しがされている。結局のところ法律がどのようになっても事業者側はそれに沿う形で事業展開をせざるをえない。傍目でみていると、どうも老人関係のサービス事業所は経営内容がすこぶる良いとおもえる。収支バランス面だけでのことであるが。どうしてかな?経費を節減しようとする手立てはいくらでもあるという。総収入の5割程度に人件費を抑えていると言うから我々には考えられない。アウトソーシングというものの導入、更には臨時職員への正職員の切り替えで支出を抑えているようだ。サービスの内容は果たしてどうなのか?分からない。この辺が経営の能力だと言われれば私など理事長の資格はない。また、障害者自立支援法なるものは、想像以上に大きな変革を狙っている。施設種別の見直しがなされる。授産や更生という種別がなくなり、通所やデイサービスなどの仕切りも変わるようだ。通勤寮や福祉ホームというものは完全に無くなるのか!ケアーホームやグループホームへ段階的に変更するという。ほんとそれで良いのかよ!
もし、そうだとすれば一挙にGHが10箇所になる。また、今建築中のデイサービスセンターがどのような位置づけになるのか?日中支援の中に入るのは確かなようだが従来の通所授産や通所更生とどこがどう違うのか、あるいは一緒になるのか。個人的な意見では一緒になれば大助かりだと思っている。なぜならばデイサービスの単価では全く経営は成り立たないからである。更に、17年度の支援費も1,7%の減額になる。また、収入が減る。
 人件費の伸びを抑えなければならないのは重々承知しているが、新たな事業をやればそれだけスタッフの手立てが不可欠。課題は山積、だが明確な内容の提示がない今ただただ祈るのみ。全く障害者の自立支援ではなくて施設が自立しなければいけない時代なのだ。今に職員と利用者が街頭に出て托鉢をやる時代になるのかなー!せっせとお寺で稼いで施設に貢ぐ世の中になりつつあるかもしれない。40年前と同じになるんだな。これが。
南無大師遍照金剛。

189:頭(こうべ)を垂れて

福島県三春の枝垂れ桜は有名である。私の寺にも苗木を貰って植えたものが大分大きく成長した。
頭を下げて季節が巡ってくれば自然と見事な華を咲かせる。桜は綺麗な姿を意識して見てもらおうなどとはしない。何か今の日本人が忘れてしまったものを桜が持っているような気がする。自分の力以上に頭を上げて、考えられる全ての手練手管を用いて時期はずれの花を咲かせる。どうだ!見事だろう。何が悪い。合法だよ!これだって想定内の話云々。当に裸の王様が得意満面で歩いている。
 今回私はある意味では大きな賭けをしたと思っている。個人情報保護法というものができて4月1日より施設においても個人情報保護規程を設けなければならない。当然実名はさけよう。今回は利用者とスタッフの想いがギリギリのところまできた。ここ1年の間、当直勤務の職員が夜、廊下に寝ているという話があった。実際は眠れないから廊下のコーナーで待機しているという。私どもの施設は職員数の関係で夜勤体制はとれない。当然10時以後の仮眠時間が許される。現実には利用者の状態が仮眠を取れる状態でなかったのが理由。夜殆ど寝ないトイレに起き出してきては転倒、大怪我をして入院、病院での1日4交代での付き添い、個室の対応、・・・・・実は1年半の間に最長で4週間、実に7回の入院に対応してきたのである。本体の施設での勤務をしながらの病院体制、月初めの勤務表など無くても同然の毎日の調整は綱渡り、父親も本当に頑張ってくれた。営業の仕事を終えてから病院へ直行し病室にて寝て朝5時ごろ職員と交代した。本人も辛かっただろう。24時間の点滴と食事の制限、人一倍食事にはうるさい方だから感情むき出しのパニックになる。病院で大声を立てれば誰しも想像がつくでしょう。その状態が実に7回の入院中ほとんど毎日続いたのだった。真冬の底冷えする寮の廊下にコタツを置き、夜中ずっと寝ずに勤務をしていた職員。それを知ってから理事長として正直眠れない日が続いた。自分だけが布団に入ってぬくぬくと寝ていて良いのか!
今回、いろいろな人に迷惑をかけたと思っている。彼を受け入れてくれる所を探すのに自分の知りうる限りお願いして歩いた。ある友人が経営する病院(精神科)では3ヶ月だけなら受けてくれるという話になった。話がついたと職員に連絡を入れたその電話で今体調が急に悪くなり他の病院へ入院したという返事。ああーダメか。本人の状況が悪いのにそれを隠してまでお願いはできない。3週間ばかりの病院生活での悪戦苦闘が続く。そして退院。
 日に日に弱ってくるのが分かるのだが、夜寝ずに出歩く状況には変化が無かった。
寮は男女二人の職員が夜勤務についている。正直、一人につきっきりになるから、他の利用者への対応ができない。大きなジレンマ。福祉現場の実態は大なり小なり同じようなことが起こっている。
 今まで頭を下げて涙ながらにお願いする家族を何百人と見てきた。「そんなにお母さん頭を下げなくて結構ですよ。私たちが出来るだけやりますから・・・・と」。今、そのことへの自省の真っ只中。何を格好の良いことを自分では何も出来ないくせに!これもまたどこからか聞こえてくる影の声。聞くまいと思えば思うほど聞こえるから不思議だ。
このままでは家族が崩壊してしまう。焦った。受け入れ場所を探していますと父親には言えない。尚恵がここで手を切ったら正直何をしでかされるか分からない。県の相談センターにも何度も相談。実情を訴えた。ただ返ってくるのは決まりきった杓子定規の答え。腹が煮えたぎった。電話で大声を立てて怒鳴った。
 これ以上は触れない。昨日、やっと公立の病院を備えた施設に移すことができた。
 枝垂桜が咲くのはまだ先のこと。5月下旬だったかなー。

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190:個人情報保護法

個人情報保護法が今年の4月から施行される。個人情報が最近特に問題になっているのはIT化が進み情報を悪用する者が増えたからである。最近あった事件では役所の住民台帳を閲覧して、独居老人宅に狙いをつけ強盗に入る事件が茨城県の鹿嶋地域で連続して起こった。二人の独居老人の方が亡くなっている。情報開示が進む一方で全く逆の問題が起こる。どうしようもない。もしかして、新聞のお悔やみ欄も近く無くなるかもしれない。法事に行くと良く聞く話、死亡の知らせを新聞に出すと石屋さんの営業が物凄いと聞いた。仏壇や墓石の売りつけ攻勢だ。インターネットの迷惑メールもそうだな。どこでアドレスを知ったのか毎日10通以上得体の知れない嫌らしいメールが入ってくる。いくら防ごうとしてもできない。また、福祉の世界でも同様の問題が起こっている。障害者も自立した生活をということで地域における支援ネットワーキングの重要性が増している。当然、支えあう関係者の情報の共有は大切になる。しかし、ここでいつも問題になるのは守秘義務ということ。それは関係者の当然守るべきモラルであろうが実はこれが曲者である。どこまでという線がはっきりしない。施設開放や社会化だって全く同じ、垣根を取りはずせば当然様々な形での交流が増える。それじゃ、今回の保護法でどれだけの情報漏れが防げるというのか?疑問である。実はこれらの問題が起こる理由の一つに都市化の弊害があるという。それは余りにも個人主義になって地域での支えあう機能が薄れたということに起因する。国は様々な形での地域交流センターなるものを制度化した。しかし、実態はどうであろうか?どうも関係者だけが利用する閑散としたものになっていないだろうか!規制を緩和しながら同時にそれを管理する規程を作らざるを得ない結果だ。私自身の足元を見ても、尚恵学園は昭和31年に神立の地で産声を上げた。50年目だ。当初は正直反対する人もあったと聞いている。そりゃーそうだろうな。住職がなんだか訳が分からない事を始めたのだから。しかし、徐々に地域の理解が生まれてきた。近所の農家より畑で出来た作物を頂いたり、そのお返しに草取りのお手伝いをしたりしてきた。ま!昔流の結『ゆい』である。今風に言えば互助会かな。それがどうも指導監査においては都合が悪いようだった。給食費が数字に出ないということを指摘された。貰ったものに値段を付けろという。馬鹿言うんじゃないよ!善意を金で計算するのかと怒った。話は横道にそれる。全国棚田サミットというものがあるという。山の上まで続く千枚田のことである。耕地面積の少ない地域での昔からの智恵である。司馬遼太郎が言った。日本中の棚田を合わせると優に中国の万里の頂上に匹敵するという。石を積み上げ、水を有効に活用する。これは実に鉄砲水や土砂崩れという自然災害を防ぐ重要な役割を果たしている。機械化が進み、1枚田圃で1町歩以上もある田が土地改良事業で全国に作られた。一方、棚田は機械も使えず手作業である。当然休耕になって荒れ果てた棚田が全国至る所で目立った。その危機感がサミットを開くきっかけだった。スローライフは実は自然と共生する生き方。自然破壊も言ってみれば人間の作り出した弊害。それに誰もが気づかなければいけないのだ。
当時と比べると時代は大きく変わった。国は物凄いスピードで制度を変えようとする。制度がいくら変わっても我々を利用してくれる人達は全く変わらない。従来の施設ユートピア論も基本的にはなんら変化はない。サービスの質の向上は中身において同じ取り組みだ。言葉が一人歩きする時代は怖い。如何にも美辞麗句を並べて自慢する輩が福祉の業界にいつの間にか増えた。ウイルスの増殖に似ている。実態が分からないからだ。マニュアル中毒も同類だ。マニュアルを作ったことで終わったと思ってしまう。仏を作って魂入れずだ。たわいも無い噂が人間関係をダメにする。自分のことはさて置き他人の悪口を盛んに言うものがいる。結局は自分に跳ね返ってくるのだがその事が理解できない。今回の個人情報保護法は対象者5000人以上の事業所に設置の義務がある。我々には設置の義務はない。だが明日27日の法人理事会において尚恵学園個人情報保護規程を上程する。その狙いは自分達の日頃の業務でのチェックになれば良いと考えたからである。