源究158

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 NO テーマ  月日   NO  テーマ 月日  NO  テーマ   月日  NO  テーマ   月日 
2671  マッサージ  8/23   2676 つれづれと  9/2  2681  度量  9/10  2686  関わること  9/20 
2672 こんな事かな  8/25   2677 愁訴  9/3  2682  研修会  9/13  2687  大地の恵み  9/23 
 2673 おかげ様  8/26   2678 風の便り  9/4  2683 彼岸前  9/15  2688  彼岸明け  9/26 
 2674 盆と彼岸の間  8/30   2679 好かれるタイプ  9/6  2684  ミイちゃん  9/17  2689  老子第24章  9/28 
 2675 悠々閑々  9/1   2680 自然にまかせ  9/8  2685  自立とは  9/19  2690  お寺 9/30 

2671:マッサージ

 夕方の時間帯を選んで歩き始め、もうじき1年になります。さすがこの暑さですから日中から歩いている人は見かけない。夕方から夜、それと早朝の涼しい時間帯は実に多い。夫婦仲良く歩いているかたも見かけますが、大半は一人黙々と歩いている。続けていると顔なじみとなって挨拶を交わすようになりました。
 表向きは健康の為とは言っておりますが、私の場合は気持ちの切り替えでしょうかね、あれは還暦を過ぎた頃から物忘れが酷くなり、食べたものを思い出すなんて無理、それより食べたかどうかも忘れてます。そんな中、歩いていると今日1日の事が次々に思い出すんです。そして明日は何をするか、法事が何件あって自宅かお寺か、さらに神宮寺か観音寺かどっちだ。このチェックをしないと不眠症?になる。何せ何度法事を忘れたか、謝罪と懺悔を凝りもせず繰り返す。
 それとやたらと会議が多い。ダブルブッキングなんて屁の河童、・・・・・・。もともと信用なんか無いから構わないが、考えれば当然の結果です。
 昨日、知人から勧められた、八郷にある町営のお風呂に行った。目的はマッサージを受けるため、裏筑波の山沿いに建つお風呂、行ってみて驚く、結構な数の客が入っていた。それも県外ナンバーの車が目立つ。梨やブドウの収穫のシーズン、それを目的にこられる観光客がついでに立ち寄るのかもしれません。
 噂のマッサージのおばさんに幸いやってもらえた。幻のゴッドハンド、そう言われるとなんとなく体が楽になったような感じ。これぞ、高度なテクニシャン?このおばさんが最後に説明してくれた、目が疲れるとこの筋がこる、「これこれ ここがこってるでしょう!」、腰が痛いのは、「これこれ ここがこってるからですよ」とか言われて、妙に納得。「そんじゃー どうすればいいだよー?」と聞いてみたくなったが、「お客さん また おいで」と言われるのが落ちだ。
 このお風呂は町営だから値段は安い、タオルは持ち込みだ。レンタルは100円。それとここの売りはなんたって風光明媚、緑豊かな山裾で景色が実に良い。お世辞にも派手さは無い、これぞ茨城だという見本のようなところ。帰る時に露天風呂が塀で覆われていて外が見えなくて残念だと受付のお姉さんに言うと、『最近は周りに別荘が建つようになったぺーよ うだからだーよ』と塀が高い理由を説明された。
 へー別荘ね。変われば変わるものです。でも 勿体ない。
 途中、車で通った集落には、代官屋敷のような立派な家が何軒もあった。このアンバランスが実に良い。 観光ついでに レンタル鎌で屋敷の草取り体験ツアーを提案したくなった。
市の観光課、どうだ やってみろ。どうせ あんたら暇でごろごろしてるんだから。うだっつぺー  うだな~・

2672:こんな事かな?

 何かに夢中になって、その後、我に返り、ふと気づくことがあります。一言で言うと『 こんな事かな? 』という感覚。
 つくば市の寺の施餓鬼が昨日あり、これで今年は全て終わりました。布教を頼まれ30分お話をさせていただく。先ず最初に30分で必ず終わりますと宣言、でも、皆さんそれを信じません。いつだって時間延長、蒸し風呂みたいなお堂で独り言を聞いている身になったらそうかもしれません。そこで目覚ましをセットしました。
 今回は全く事前に何を話をするか考えずにマイクをとった。その場の雰囲気は寺によって違います。最初から静かなところ、最悪は途中からズカズカ入ってきて、話中なんて関係なく、皆に聞こえる大きな声で「ゴメンナサイ ごめんなさい。時間間違っちゃって遅くなって 前を ゴメンナサイ」と分け入ってくる。こんな時、何を話していたか判らなくなります。「アンタ 入らなくて良いから出て行け!!!」と本当は言いたい。でも、マズイ。
 他の方の反応も様々、「俺も 遅れちゃって 今日も暑いな・・・・」とか話が弾んだり、「静かにしてよ」  と迷惑そうな顔をされる人。百物語だ。
 これが現実です。そんな中で「仏教とは・・・・という教えによって・・・・」なんて話を始めて誰が聞くというんですか。ダメだ。私もこの歳になればいろいろと修羅場(?)を潜らせて頂きましたから、事前に準備せずにその場の雰囲気で話すことに決めました。
 結論から言うと  何を話すかに関係ないことが分かった。自分自身が普段から何を信じ何を行ってきたかに尽きる。これぞ一幕。
ついでに二幕は、価値観は人それぞれという事です。国際法に不可侵権というものがありますが、そんな大それた話ではなく、人付き合いのルールですね。そして思いもよらない時に顔を出す。本性は順調な時には出ません、ピンチに陥った時などヒョイと見えるもの。
 もっとハッキリ言うと、皆さん、最近の国会の動きで風向きが変わりましたよ。関心事が次の選挙(総裁選とか)にと。だってそう思いませんか?同じ仲間同士での綱引きが表に出始めている。これが本性かどうか知らない。
 今までは何だったのか??? 疑いたくなるような事がこれからどんどん出てきますよ。だって、今までのことは”序章”だもの。
 彼らが本当に日本の事を思ってやってるとは思えません。表向きと裏を使い分ける人たちは、最終章で必ず後悔します。
 実は これが仏教の掟でした。・・・・・こんな事かな?・・・・・・
 

2673:おかげ様

 初めて会った人と偶然にも共通の人が無二の親友だったことを知る。その親友も既にこの世にはいない。すると、お互いに初対面であったとしても相手の人柄は充分に分かって、旧知の間柄という具合になる。
 そんなことをつい最近経験しました。お礼のメールを打つと直ぐに「今回お会いできたのはOさんのお蔭だと思っています」という返信があった。Oさんとは大分若かった頃、同じ仕事だったので機会あるごとに良く語り合った。私はOさんから学ぶことが多かった。ここまで一生懸命取り組む人がいるのかと関心させられた。全国障害者スポーツ大会の県選手団の監督を長く引き受け、晩年は体調が悪いにもかかわらず、薬を飲みながらも選手と共に全国の大会に参加していた。茨城では”自閉症”と言われる人たちのエキスパート的存在、言行一致で彼の右に出る者はいなかった。その方が亡くなり、もう何年が経つか?しばらくご無沙汰していたので奥様にご主人と共通の人との今回の出会いを手紙に書いた。熱く夢を語り合えた人だった。
 私も年齢の所為だと思うが、昔お世話になった人達のことを良く思い出すようになった。いま様々な研修や書籍で学ぶことより、先輩達が直に教えてくれた基本的なことが実に懐かしく、大切だと思っている。
 それは、どんなに世の中が変わっても一貫して変わらずそこにあるもの、それを追い続けて来た方達だから見習いたいと思うのだ。
 この国が彷徨っていると感じる理由は、ここなんです。制度に振り回され、軸がぐらついている。良いとこ取りの継ぎ接ぎだらけ。
 今更恥ずかしいのだが、こんな事かなという事がすこし分かりかけてきた。自分の視点を変えてみれば良い。もっと身近にそして足元を見るほうが良い。必ずや今に至るまでに強く影響を受けた方達が大勢いる。
人生を語るということは、自分の血肉になった教えや人々を思い出し、確認することなのだろう。
 ”おかげ様”という日本語は凄い。私の言葉への拘りをお許しを頂きますと、和英辞典で”おかげさま”を引くとこうあった。
  ” How are you?" "I`m fine, thank you."
 なるほどね。日常誰もが使っている言葉なんですね。
 それを 難しく難しく しているのが 今の日本の実態ではないでしょうか!thank you  ではなく thank me なんだよね。 これで自分達の平和や安心を望む。オカシイよ。
  ☆ 自衛権論議の中で”おかげ様”という話が全く出てこない。何のための誰のための憲法か あの人たちは一から勉強したほうが良い。

2674:盆と彼岸の間

 1年を通じ、春彼岸~盆~秋彼岸があり、仏教では昔からその期間様々な取り組みがなされ、宗教に縁遠く普段先祖や自分自身の死を思うことが少なくなった人々に束の間の心の洗濯(?)となっている。穢れの積み重ねによって起こってくる病の部分は、苦が伴い、それをふり払おうとすればするほど深みに入り身動きができなくなる。実は誰しもがその可能性をひめているのです。それを人間の性(宿命)という言葉で括られる・・・・
 何故、太陽が真東から昇り。真西に沈む日を、彼岸の中日として定めているのか、前後各3日間と合わせ、春秋の彼岸は7日間とした。多分、今の苦しみを耐えることに微かな光を添えたのではなかろうか!必ずまた元に戻ってこれるという希望。世間には毎日必死になり身にこびり付いた埃を払おうとする者もいるだろう。
むしろ、怖いのは気付かずに毎日を安閑と暮らしてしまうことかもしれぬ。諦めるという日本語はGive upではなく、come to light, 判らなかったことが明らかになること、また、そうしようと努力することだと教わった。
 人によって違うだろうが、人間精々80年の人生とすれば、自ずとできることには限界がある。それを弁えないと際限のない欲や誘惑に自らの立ち位置を見失い、六道の世界を彷徨う。それが死を恐れる最大の原因ではないか。
 私の知る限り仏教書の殆どが、言葉が違っても言わんとすることは似たようなもの。知識として知っていても、実際に行うことは至難の業、だから彼岸や盆という行事が今も受け継がれ続いている。
 いつの頃か人間は2足歩行を覚え、それを当然だと受け止めてきた。本当にそうなのか?これは体の絶妙なバランスが取れてできることなのに、それは忘れてしまう。親への感謝の気持ちもそうだ、何か形を変えて理解されてしまった。自らの足で歩くことができない人も多くいます。私はその存在を知ってしまった以上、そこに何らかの関わりをもって生きたい。
 頭の良さが望みをかなえる最短の道だと勘違い。学歴社会や経済の豊かさに最大の価値を認め、戦後の日本の社会が築かれてきたのです。そこには当然のこととして較差が生まれた。優越感や挫折は、実は幻のようなものかもしれない。
 仏教において信仰というものは、願い事が叶えられるという此方側の問題と仏自身の願いに触れるという事が同時に行われるものだ。一方的に此方側の問題を解決してくれるというならば、それは似非宗教と言われるものではないか。
一緒に悩み苦しんでくれるという存在が本来の宗教の持つ価値だと私は信じる。
 仏像には合掌(印を結ぶ)をしている姿が多い。その意味を考え自分を誤魔化さず、生きていく、それが信仰心というものではないだろうか!
 

2675:悠々閑々

 今日から長月(9月)です。関東地方に続いた連日の猛暑が嘘のよう、急に気温が下がり、半袖では風邪を引くような季節となった。先日、久しぶりに日光に行った。東武日光駅周辺は8月末のため、観光客の数は多くなかった。タクシーの運転手さんに尋ねると昔と比べ、訪れるお客さんの数はかなり減ったという。その代りに外国人が増えたそうだ。緑豊かな中禅寺湖、私は用事があって後から参加したので行けなかったが、もう周辺の山並みは秋を感じる季節だったと聞いた。
 光徳小屋の管理人さんがいつもメールで送ってくれる周辺の写真は四季折々のもの、これからは秋の紅葉そして初冬から雪の積もる静寂の世界となる。
 まだ1年を振り返るのは早いが、今年は自然の不思議とそこで生きる人間への無言の警鐘、世界各地で気象変動による災害が頻発した年になりました。長い地球の歴史で今ほど自然が牙をむき、あからさまに怒っている時はないのではないでしょうか?
 宇宙に向けて様々な観測衛星が放たれ、小惑星から塵を持ち帰り、宇宙の謎解きが世界から科学の英知を集め行われている。果たして遠い将来、人間は宇宙で生活が可能となるのだろうか。私はこう思う。地球を脱出することを考えるより今の地球を大切に自然環境を保つことに力を注ぐべきだと。
 自然の猛威の前に人間はなす術がなく木端微塵にされている。否、その反面では地球が奇跡的に生物が住める星だという事をもっと真剣に考え、感謝すべきなのです。
私は毎日雑草と格闘しています。人間が考え出した除草剤は使わない。除草剤を撒かれ、変色した草が近寄ると変な匂いを発している。
 草を抜くことはどうなのか?でも、歩くことと同じ効用をもたらしてくれる。名も知れぬ草が見事な花を咲かせ、それを自ら誇ることもせず、時が来れば散っていく。翌年、その場所にまた芽を出して同じことを繰り返す。
 悠々閑々・・・急がずのんびりと・・・・
 農家の人に何故除草剤を使うのか?と尋ねると、暇がないという。確かに今専業農家は確実に減っている。後継者がなく、田畑が泣いている。早く苗を植えた田は稲刈りが始まった。大型機械をフル稼働しても一枚の田んぼが狭く、進入道路もないから作業が捗らない。
 少子高齢化対策を政府は緊急課題として取り組んでいる。
 皆さん、何か違和感を感じませんか?地域に行けば、不似合の豪華な建物があり、そこから送迎用の似たような車両が出入りする。
 人は歳をとり、誰かの手助けを借りないと生きていけない。そこに本人の意思がどれだけ反映されるか? これは、全く障害者の方々の支援と同じです。
 その時々の優先順を決めることは、関係する人たちの利害が絡み実際は難しいのだと思います。私は心から願う。弱者の立場になって物事を決めて欲しい。
 世の中には自分の力で勝ち得たものと地位や財産を誇らしげに語る人もいる。それとは全く違った人達が確実に増えているのも確かです。
 

2676:つれづれと

 なすこともなく、ボンヤリとしていたらどんなにか心癒されることか。つれづれとという日本語は実に趣きがあります。俳句や詩を嗜む能力があれば現実の社会と上手く折り合って目くじらたてず生きられると思うのですが、私にはそれがどうしても出来ない。
 昨日、ボルネオから中澤さんが便りを送ってくれた。その中にメモ書きが入っていてこんな事が書かれていた。
・・・・・少し離れて見ていると日本にいる日本人は感覚が鈍り、価値の光も消えかかっていて可哀相!便利すぎる貧しさの中で、自制心も想像力も衰弱してしまって。・・・・(文章前後略)
 図星です。何が大切かという事が見つけられず、放心状態でひたすら歩き続け、皆が皆、疲れている。マスコミの報道を鵜呑みにすることは危険だと判っていても、自分が納得するような記事を虫眼鏡で捜し読む。
 自制心とは、自分の感情や欲望を抑えること、想像力とは感性と悟性により認識する能力。日本の外交の切り札としてODAというものがありますが、総理がなぜか精力的に外国に出向き、その切り札を乱発しているような気がしてならない。それが自分たちのできる範囲であれば何も言わない。でも、本当にそれで良いのかと勘ぐってしまう。インドの元首が日本に来て官民挙って最高の歓迎をしている一方、隣国の中国や韓国との関係は怪しげな方向に向かっているのではないか!日本の切り札は、本来、誠意ある外交であったと思う。それが過去に自分たちの犯した非を認めず、いつでも対話の準備は整えているからどうぞというのではいかがなものか。
 中澤氏の便利すぎる貧しさということとダブるのですが、日本が経済大国になったその驕りを感じてしまうのです。切り札は乱発すればその効果は自ずと落ちるもの、1000兆円になろうとする国の借金をもっているにもかかわらず、その返済に回すのでなく、経済外交に使っている。
 結局、これも我々国民の責任になるのでしょうね。他に選ぶ政党が無いと言いながら幻の安心を追い続ける。
 いや違うな。今を生きている我々が最終的な責任は負えまい。子や孫の世代にそのツケを回して良しとするしか無いのでは。
 

2677:愁訴

 正直に自分に向き合うと、何というか、世を憂い切なくなることってありませんか?”愁訴”という言葉があります。苦しみや悲しみを嘆き訴えることを言うそうです。
 過去をいくら悔やんでも仕方がない。判っていても繰り返してしまうのは、何故でしょう。それが普通だよといくら言っても本心では納得しない。私達は時間を止めることはできません。話題になった本で東大救急センターの臨床医が書いた本を読み終えました。救急医療という人間の生死と向かい合って最前線で戦っている医師が「人間は死なない」と題し摂理と霊性を思索した。
・・・・「我々の人生の旅は死後も続く、摂理の意思は悠久の生の中で折り合いがつくよう働いている」(P201)・・・・・人生における様々な失敗や挫折、病気や怪我など自分の身に起こる災厄とは、摂理が個々の人間に、それぞれが自身で責任を負って大切な何かを学ぶために与えた試練ではないか・・・・・と続く。
 科学と宗教、先人が探し求めた折り合いは理屈ではなく自らの体験によって信じるか否かに尽きると思います。摂理は自然界を支配している理法という意味の他に宗教でいう神や仏が人の利益を慮って導き治めること。
 微かに雲間から射す光を見るか見ないかは、人それぞれ、私は今、僧侶という身に自分を置き未だ見ぬ光が誰しもに必ず差し込むと信じたい。
 人間は愚かにも自らの不公平さや理不尽を嘆く。そうやることで矛盾が解決できただろうか?
 昔から人生を旅に譬え、道標や案内人を求めた。しかし、案内人であっても迷い戸惑いを持って生きている。そこで言われるのは”同行二人”一緒に悩み語らえる存在である。

 ☆ 昨日、近くのコンビニにKさんがたった一人でスポーツ新聞を買いにきたところを偶然出会った。彼は『ハートマップ』を首からかけ、財布からお金を出して満足そうにデイリースポツ新聞を受け取った。
  それを見た人は感動して涙が止まらなかったと話してくれた。 
 

2678:風の便り

 前項で登場いただいたKさん。今朝私に新聞の広告を見せにきた。それは中古の軽トラックの写真、「どうしたの?」と尋ねると手真似と顔の表情で「学園でもトラックを買え」と言っている。昨日は丸一日、草刈と火燃やしを私が相棒とやっていたのを遠くから眺めて知っていた。Kさんの観察力は凄い、そして実に適格な要求を突き付ける。ウ・・・とかア・・・とかしか出ない彼独特の言葉で、彼とは長い付き合いなので何を言っているのか大体わかっているつもりだ。
 先月救急車で病院に搬送し生死を彷徨ったTさんが、奇跡的に回復し退院できた。「寮のメンバーたちは彼女が返ってきたのをそれぞれ違った仕方で喜ぶんですよ」と感極まる声で職員から報告を受けた。
 彼らとの付き合いが長く、私はいつの間にか人が発する言葉や表情で相手の気持ちの真偽を見分ける術が身に着いたと思っている。(自分だけでそう思っているのかも知れぬ)
 自らの頭を壁にぶち付け奇声を発するHさん。どうしてそうまでして感情を露わにするのか?彼らは言い訳をしない。目の前で起こっている様がすべてなのです。
 ・・・・風の便り。・・・・
  トップニュースで昨日はどこもかしこも閣僚人事のことばかり、見るのも嫌になる。彼らは永田町という牙城で一体何をしているのか、さっぱりわからない。国民不在とはこのことではないでしょうか。
 それが そうとも言えない。「おれんちの先生が今度大臣におなりになさった。さあ・・祝いだ 酒を用意しろ・・・・」これが我が日本の実態ではないか。いやだ嫌だ。1年ぐらい大臣のイスに座り何になるのでしょうね。
 今度、Kさんにどう思うか聞いてみよう。
 ゴマをするのが実に上手な人達がいるでしょう。その人達って本当に可哀相と言うかもね。
 昔、稲作農家では水の確保が生命線でした。今はそれが一変した。人間の力が及ぶ限度を超え、稲刈り前の田が雨が降れば一気に水があふれる。この様を目の当たりにして茫然とする農家の人達。
 これへの対策を政治に期待しても、ここまで便利になった日本では根本的な解決策が出ない。金を儲け外国からコメを買えばよい? 田畑が荒れ放題になるのは時間の問題とまでは考えない。
 水路が許容量を超えている。舗装された道路の水がみな一か所に集まり、調整が出来なくなっている。もう30年も前から要望していても全くその見通しはない。
 今のままいくと、恩恵を受けられる人とそうでない人の較差が拡大するだけ。これで良いんですね。皆さん。私たちが怒らないから自然が怒っている。
 

2679:好かれるタイプ

 好かれるタイプというものがあるのかも知れない。具体的には言えないが、その逆を思い浮かべれば直ぐに納得、嫌われるタイプはいくらでも挙げることは可能だ。例えば自己顕示欲が強すぎるタイプ、話題の中心に自分がいないと落ち着かず、相手の話に割り込んで自慢する。
 本人がそれを自覚しているかどうかは関係ない。実は好き嫌いは背中合わせだと、短所が長所になることも時にあり得る。ただ、言行一致かどうか、これは決定的で、身から出たサビで言い逃れすればするほど嫌われる。
 ”人間まんだら”一人一人が違うから面白い。お互い気心を知っているという間柄は、現実にあるのだろうか?
 寡黙だが筋を通すタイプ・・・私の理想とする人間像、思えば思うほど離れて行く。嫌いなタイプ・・・・八方美人かな。ヨイショ型・太鼓持ち・・・・・嫌えば嫌うほど近づいてくる。なんてこったー!
 今週はずっと掃除をした。草が伸び、伐採した木が無造作に積み上げられ、その上にツタがからみ、気になって仕様がなかった。幸い気温が一時と比べ大分下がったので助かった。それでも一日2回着替えるほど大汗をかいた。
 外で火を燃やすのは、通報があればできない。幸い周りが水田で住宅はない、朝早く6時からの掃除は、実に気分爽快。その作業が昨日やっと一段落した。
 朝6時頃はスタッフの車も三か所ある駐車場に数台あるだけ、それが7時~9時と徐々に増える。勤務時間がずれているからなのだが、いつの間にか随分スタッフが増えたのが車の台数でわかる。来年から成人寮を別の場所に移す。どうなることか多少の不安はあるが、これからやっていく人たちが検討会を何度も重ねてきたことだから、私は口を挟むことはしなかった。失敗を恐れずやってみれば良い。
 24時間365日休み無し。この良否は判らないが、自然とこのようなスタイルになってしまった。そしたらどうだろう?入所型の事業所への風当たりの強さ、地域での生活を良しとする。そんなこと今更言われなくても分かっている。何度でも言うが、自然とこんな風になってしまったんだよ。地域が彼らを受け入れてくれればその必要もない。
 家族を思えば複雑だ。
 最近、北欧の仕組みを見てこようという誘いを受けた。でもねーできるかね?
 内閣改造の評価が各紙バラバラ、これが何故か。結果への何らかの意図を感じる。質問の内容を少し変えるだけで賛否が変わる。人間の心理なんてそんなもんだろう。
 この国は何をやってもイタチゴッコ、寡黙で筋を通す人間が減ってしまった。
 
 

2680:自然にかませ

 夜中の2時に目を覚まし、起きだしこの時間にコーヒーを炒れ飲みながらパソコンに向かっています。夜昼逆転?まっ良いでしょう。この時間に眠らず夜勤で仕事をしてくれている職員を思えば、眠れないのに無理して寝ることもない。
 枕元のパソコンで知人からのメールを見て、即返事を送った。彼の送信した時間は2時だった。世の中が随分様変わりしているなー。寝静まるという言葉が訳が分からなくなってしまったではないか。
 これだって日本に住んでいるからで、紛争の真っ只中の国ではミサイルがいつどこから飛んでくるか分からない。生命の危険を感じ極限状態の中、その場所から離れることができず逃げ惑う人達もいる。
  70年前の日本だってそうだった。同じ過ちをまた繰り返すのか!
 核の平和利用とは、よく言ったもので、実際に広島・長崎そして福島での大惨事を経験したにも関わらず、相も変わらずそこで止まっている。これって豊かさを得るための代償? その豊かさへの価値が揺らいでいる。原発の再稼働の是非は、一部の国会議員の判断で決めるべき事では絶対にない。このことだけで国民の信を問うべきだ。今の議員にその覚悟があるか!いつ解散の決定を下すか必死に”風”を読む。どのような言い訳を用意してもダメなことはダメ。
 犬の遠吠えみたいで虚しさと切なさだけが残る。
いつだってそうだ。何故こんなことばかり凝りもせず独言を続けているのか!実のところ自分でも判らないのです。
 でも、言いたくても言えない人が沢山いることを知っている。純粋に母を慕う人、それも40年という長き年月を只管待っている!彼は7歳になった時に義務教育の就学免除という制度で入学を許されず已む無く尚恵学園を利用した。
 不条理という言葉で片付けてはどうなのか? だからといって私たちが関わる今の施設を否定しているわけではない。充分ではない事は百も承知、自立支援法⇒総合支援法への改正、言葉なんかどうでもよい。実態がどう変わったのかだ。
 国は利用される人たちの立場に立って仕組みづくりをしているのか疑問がある。より複雑で面倒な制度は、本来の姿ではない。彼らは挙って財源問題を理由に、苦肉の策だと説明した。
 
 1位韓国、2位ガイアナ、そして3位が日本。最近発表された順位(WHO)です。なんだか判りますか?

 女性の自死者の多い順番です。私はどんな理由があっても授かった命を自ら殺めることは許されないと思います。生を受けた者の責任(義務)は残されし人たちの幸せを願い、どんな小さなことでも良いから只管そのことに意義を感じ努力することではないのか。しかし、何故女性が?
 別れて生活することに耐え、Nさんが只管外で母親の来るのを待つ姿、それをどう理解すれば良いのだろうか?ぎりぎりの所で踏みとどまっている。逃げてはダメだよ。
 

2681:度量

 清濁併せ飲む・・・・善悪の隔てなく、来るがままに受け容れる。度量の大きいことを言うんでした。
 でも日本語って難しいですね。解釈を如何様にでも作れてしまう。この意味を『アイツはなんでも構わない』と解釈すればどうしようも無い人間になる。メデアの真髄は言葉、その媒体がなんか可笑しなものになっている。どちらにも取れるような表現が増えた。ああ言えばこう言うタイプの論説。一方に偏した見方は今風ではない。それは責任を問われるからかもしれない。今の日本で一切の情報を遮断して生きて行くことは先ずできまい。不安を煽り、疑心暗鬼が生じ、自らの立つ位置を見つけられない。心を病む人が急増しているのは、溢れんばかりの情報に圧倒されて闇雲に突っ走るからだと思う。当然、自分のペースが掴めないから無理してしまう。歩き遍路のような、途中で休憩をし、道端の花を楽しむような余裕が消えた。
 それと最近では旅先で相部屋では眠れないということで個室を希望する人が増えた。本来は枕を並べゆっくりと懇親を深めお互いが分かり合う絶好の機会なのだが個室に入りテレビをみて過ごすわけだ。
 私は若い頃、ワンダーフォーゲル部に入って重いテントを担ぎ山歩きをした。10人位のパーテイを作り、一緒にテントで眠る。40年以上が経っているのに最近妙に懐かしく思い出す。そのクラブもその後部員が集まらず廃部となった。キスリングを背負い上野や新宿で夜行列車を待つ姿は今は無し。
 山歩きのリーダーの条件は、一番体力に自信がない人に合わせること、それが今どうなった?強いものだけとかお年寄りだけとかに分けてしまう。福祉の仕組みがまさにそうなった。専門性という言葉の綾の下、分類化が進んだ。
 戦後の日本が社会保障の仕組みを欧米から学んだ。確かに形だけは整備されたが、何かが足りない。その何かを必死に探ろうとする人もいることは知っている。・・・・が、国は大きいことは良いことだと規模の拡大を推奨、驚くような規模の法人も出てきた。法人が目立ってそこを利用する人が目立たない。本末転倒とはこのことだ。
 そこでやっと足りない事に気付いた、人を育てるということ、国家資格を作ったまでは良かったが、実態は足踏み状態で先に進めない。
 いつの頃からか家庭での躾や教育現場の問題が問い質される。知識偏重の教育が常識となり、生きて行くために必要な術(常識)を教えず、障害があれば前もって周りでブロックするようになった。だから良い塩梅というさじ加減(自立)ができない。自らの舌で味を感じる経験がないのだから、結果は見えてくる。
 となると、どうすれば良い。
 そうだな、時間と忍耐が必要だ。『デフレの正体』を書いた藻谷さんが、里山・・・云々の本を出した。外にばかり目を向けず、昔からあった日本の良きものをもう一度皆で見直すことも今必要なのですね。
 

2682:研修会

 市民公開講座での話を頼まれました。何人集まるのかも分からず、参加する方の多くは保護司だということは判りました。それも前日に事務局に電話し知ったということですから、講師としては既に失格です。
 一応、電話の内容から触れるべき内容の資料は急いで作りましたが、どうなることやら。
 日本中で様々な研修会が開催されています。その量と内容ときたら凄いでしょうね。政官財学が入り乱れて高額な参加費にも関わらず申し込み者で直ぐに一杯になるものから、用意された席に空きが目立ち、盛り上がりに欠けるものなど様々です。
 厳しい競争に勝ち残るためにいずこも必死になっている訳ですが、私は今の状況を決して良いとは思っていません。
 事業の効率化を最優先すればするほど余裕がなくなる。何せその種の人は余裕を無駄と考えますからね。募集要項の中には副次的な効果がありますよなんて言うのもあって、最初から言い訳を考えているものもあります。それじゃー副次的なものって何なの?と言うことになります。
 1進1退、これが世の常、私自身もその繰り返しをずっとやってきた。
 今朝の新聞でJR川越駅で起こった全盲の少女を蹴って怪我させた容疑者のことを知った。真相は今後明らかにされるだろうが、変な方向に進むことが無ければ良いと思っている。
 障害者が障害者を怪我をさせるなんてことに。「障害者差別禁止法」「虐待防止法」「権利擁護条例」・・・・等々、障害者をめぐる法律や条例が次々にに作られている。しかし、実態はそれについていけない状況があるのではないだろうか。自分さえ良ければ良いと考える人たちが増え、無関心や拒絶も目立ちます。これは差別(しゃべつ)ではないか!
 津波と同じです、高波が押し寄せ、折角築いてきた大切なものをあっという間に浚っていってしまうことが往々にして起こります。障害福祉の歴史をみると当に地道な努力が事件が起こると一瞬に水の泡ときす。
 1進1退これを仏教では○(えん)で説く。○という字を立てて見れば頂点から下にさがり、また頂点に向かっていく。その字を真上から見たとき、同じ○も違って見えます。生きていくという事はこの視点を持つことだと言う。
 研修会の話がどこかに飛んで行ってしまいました。
情報量はどれだけ多く持つかが重要なのではなく、大切なことを探し求めるためのもの。残念ながら他人から聞いた話からではなく、自らの足で歩んでこそ見えてくる。一進一退の波動力学そのものと言えますまいか。
 障害者or障がい者か?
 ”害”という字を問題にする方がいます。『害』を『碍』・『がい』と言う字に直すべきだと。
 いずれも”さまたげ”という意味なのですが、私は正直、どちらでも構わないのです。要は言葉でなく、ご自身でどうかかわるかってこと。いくら声を張り上げても聞く人がいなければ意味は無し。日本の障害福祉で先人達の持つ気概や覚悟は凄かった、それが育っていないと思う。何故ですか!
 ハッキリ言って、制度という枠から勇気をもって自らが一歩足を踏み出すことを躊躇してきたからだと思います。現状に満足してしまった。だから”言葉”の問題ではなく”実行”こそ大切だと思っています。
誰一人完全な人はこの世にいないということ。自分だって障害者だと認めるか否かですよ。だってそうでしょう、誰にも”さわり”はありますからね。これって言葉遊び以前の問題です。

昨日の研修会でそのような意見の交換がありました。

2683:彼岸前

 今日は敬老の日、100歳になった方が知事さんの訪問を受け語った言葉が印象的でした。「皆さんのお蔭です」と話された。
 彼岸を前に今日も法事があり、今、白衣を着てパソコンに向かっています。机の傍には開いた過去帳があり、戒名を見ながらその方を思い出しています。彼岸は此岸に対し、仏の世界、光り輝き、四苦八苦とは無縁の理想郷・・・・・  仏様に手を合わせ願い事、それは誰しも安心を得たいと思うから、人間は決して強いものではない。私はそう確信します。だからこそ世界中の人達が何か絶対なるものを身近に据えたい、それが今も進行形なわけですよ。
 匍匐前進(ほふくぜんしん)腹ばいになり地べたを這う姿を思い出してください。それと同じ五体投地は仏教の修行者が行うものでチベット仏教に今も残っています。
 何故、そのような過酷な行をするのか多分、今の日本人には理解できまい。関心もないかも知れぬ。這い蹲って生きようとする人を嘲笑い、そんな生き方まっぴらだと。こう言ってしまっては言い過ぎですか。人生を達観したかのごとく、順風満帆行くところ敵なし。こんな人も時に見かけます。今にみていな、必ずやそうでない事を痛感する時が来るから・・・・・・・
 これは、過去帳に記された人たちの叫び、そんな風に感じてしまうのですよ。変でしょうか?
 嘆き悲しむことは誰も経験することですし私もそうですから判ります。でも、良く考えてみませんか! 今本気になって考えないと大変なことになるということ。自分達さえ良ければ良いと思うことが妙な理屈で許されている。それを加担する識者やメデア、だからでしょうね皆さんが混乱しています。
 その病巣が下で、様々な問題が起こっています。
 仏教では何故彼岸を据えたかを良く考えるんですが、此方の岸、つまり我々が生きている世界は決してユートピアではない。寧ろ苦と背中合わせで思い通りにはならず、いつ何時自分を災いが襲ってくるかもしれぬ不安は拭い去れません。
 知足とか空とか無とかいろいろな言葉を用いて仏教は説きます。残念ですがそれを否定する輩はいます。その方にとって何か他に支えになり、心穏やかに過ごせればよいのですが。
 仏教は川を渡る前の時間を大切にと説いています。諦めること、これは決してギブアップすることではなく、明らかにすることです。
 泥と埃に塗れ、砂利道を足と手と頭を地面にこすりつけながら目的地を目指す。。。これだって”今を生きている”ということを実感したいのです。そこにどのような解説もいらない。
 そして今こうしているのは皆さんのお蔭ですと心から言えた時、世の中が違って見えるように思います。
  ★ 久しぶりに友人からメールを頂いた。「少し元気が出たようですね」と、そうかな・・・・?   心にしかと刻みました。ありがとう。  

2684:ミイちゃん

 吾輩はミイである。
 我が家の猫ミイは最近私の事を噛むようになった。何故だ?多分良くケンカをしたハナが姿を消したからかもしれない。猫は自分の命が終わりに近づくと身を隠すという。ハナはもう相当な高齢だったから、今頃、おそらく彼岸に渡ったと思う。ハナよ成仏してください。1匹残されたミイはケンカ相手がいなくなり、精彩を欠き、独りもの思いに耽っている時が目立った。それから大分時間が経ち、今度は私への攻撃が始まった。
 これも彼流の愛情表現か?家の外には高窓から自分で出ることはできるが中に入るのができない。私が帰宅するとどこからか寄ってきて一緒に家の中に入る。
 最近気になるのは、少々太り気味になったこと。老けるのにはまだ早い。果敢にどこかの猫ちゃんに戦いを挑み、怪我をして帰ってきたではないか。
 猫は人間の気持ちを理解できるのでしょうか?
 お寺周辺は絶好の散歩コースとなっており、毎日ワンちゃんを連れて歩く人がいます。いろんな種類のワンちゃん、よく見ると犬と飼い主が会話をしている。これだって、相手がどれだけ理解しているかは不透明、でもねー平和を感じますね。迷惑なのは紐を付けられたワンちゃんでしょう。規則でね、紐なしでは家で飼えないだってよ。ミイ判ったか!良く考えろ!
 さて、今日は今から東京、永田町界隈は殆ど行ったことが無いからグーグルで調べてみた。神立からだと3回電車を乗り継ぐことに、面倒だなー。行くのを止めようかな・・・・。
 俺だって誰かに噛みつきたいよ。ウウウウ・・・・ニャーン。
     
 

2685:自立とは

 昨日はお墓掃除の日でした。境内にある墓地には何人も来られ草を取ったり落ち葉を掃き集めていました。お盆の後まだ1ケ月しか経っていませんが、既に草が伸びています。早くご主人を亡くされ,女手で一つで子供さんを育てられ、そのお子さんも結婚され、お孫さんと買い物に来られたのを何度も見かけた方もご主人に語りかけるように掃除をしている姿がとても印象に残りました。
 昨夜はお通夜がありました。78歳のご主人を亡くされたのです。その奥様は何度も電話をかけてこられ、今日が来るのを覚悟し、その準備をされていたのです。
 ご主人は26歳の時に難病に罹り、視力を失ったと伺いました。それから全盲の奥様と結婚され、マッサージ業を自宅で行いながらお二人のお子さんを立派に育て上げられた。私はそこでよくマッサージをやっていただいた。
 ちょっと気難しそうなご主人と愛想の良い奥さん、お二人で本当に懸命に働いた。
 ご主人は晩年、体調を崩し、仕事は止めていたそうです。大分昔の話ですが、上のお嬢さんを保育園に連れてくる姿を何度も拝見し、地域の皆さんも暖かく見守っていてくれました。本来ならば入院して治療すべき状態だったと伺いましたが、最後の最後までご自宅で看病された。涙を見せない気丈夫な奥さんが、『最近は ありがとうという主人の言葉がとても優しくなりました』と語った時に涙を流されました。
 ご本人からお許しを得ずここで紹介させて頂きました。
 自立という言葉が曖昧になっています。ややもすると公的な助けを当然と考え強く要求する方もいます。これを否定するつもりはありません。重度の障害をお持ちの方は当然何らかの支援を必要とします。
 自立=地域と短絡的に捉えることに違和感を持っています。果たして地域に受け入れる用意があるのでしょうか?と考えるとまだまだ日本ではそうなっていません。依然として反対運動や嫌がらせが有るのも事実です。
 昔からそうだったのでしょうか?私の知る限りそんな事はなかったと思っています。

 9時からのお葬式です。境内墓地に生前、お墓を作ってありましたが今日は納骨しないそうです。ご主人の弟さんにそのお墓をみせた時に「立派すぎる」と言われたと笑った時の顔を今もハッキリ覚えています。「自分では見えないから判らないけど・・・・」 その言葉の重みは計り知れないものがあります。
 

2686:関わること

自然体で人に接することができたら、それだけで人生は開けるかもしれない。良く思われたいとか自分の責任からこうしないとと考えるとそれだけでどうしたら良いのか判らなくなる。
なんでも関わることの難しさは単純な所に原因があるのかもしれません。仏教の教えを突き詰めていくと、どうしてもそこに辿り付く。”無明”が一切の迷妄・煩悩の根源、真理に暗いから無明と説いた。一条の光という言葉は暗闇に射すひとすじの明かり、これはその存在を自分が信じ掴むものだろう!
 施設と寺の仕事をもう40年以上続けてきたけれど、正直何一つ満足できることは無かった。何らかの理由で家族が見られない人たちを受け入れる。これは入口の部分です。受け入れてどう関わっていくか一人ひとり違うのが本来の姿、理屈では理解できても現実には様々な”さわり”があってできない。そして出口の事がいま問われ始めている。
 この先、どこまで続ければ良いのだろうかと思った瞬間、頭に浮かぶのは父と母の姿。私が物心ついた時には、お寺には多くの人達が住んでいた。父は県庁に勤め、帰ってくるのはいつでも学園が先だった。母は裁縫を教える仕事を寺で行い留守番。そして僧侶と施設の仕事も同時に行っていた。それが変だと思ったことはない。
 でも、今の自分はどうかといえば、その半分もやっていない。世の中が変わったという言葉は禁物だ。要は自分がどう関わるかということだけだろう。
 当時、そんな住職夫婦の姿をみて、出来た野菜やコメを一先に持ってきてくれた人たち、お寺の子が来ているよと態々教えに来てくれた近所の人、それと、お金に無関係に手を惜しまず貸してくれた人たち、絶対その人達がいたから今がある。
 来年は私は65歳、自分では一つの区切りと考えているが周囲が許してくれるかどうか、ただ、できれば、僧侶としての道を本気で歩いてみたい。それが一番のやり残した事だと強く強く思うのです。  

2687:大地の恵み

 
 手漕ぎ井戸
 東日本大震災から3年経ち、被災地への必死の復興もどこまで進んだのでしょうか、被災に遭わなかった多くの人々にとって、あの想定外(?)の災害を個々人がどう受け止めたことでしょう。地球は宇宙の中で唯一生物が生きて行ける惑星です。その地球が我々人間に対し警鐘を発している。自分たちの快楽のために地下資源を堀り尽くし、それでも満足せず、力で奪い合う。
 3年前を思い出してみてください。私が住む土浦でも公共水道が断水、飲料水を求め給水車を並んで待った。その体験を忘れていないでしょうか?
 デフレからの脱却を最優先に掲げ、政府は一丸(?)となり、様々な手を繰り出す。その効果はどうなのでしょうか? 何か目眩ましにあったような気になっているのは私だけでしょうか?
 地下資源が無尽蔵にあるとは誰も思ってはいない。必要以上の明かりを深夜に灯し続け、その間カーテンを閉め寝る生活に何ら疑問を持たない。これが豊かさの象徴ですよね。もっと智慧を使えと誰かが言っていますよ。
 今日は彼岸の中日、秋分の日です。
 どこの墓地にも花が手向けられています。近年の気象の変動は日本だけのことでは無いようです。今年は毛虫の異常発生だと皮膚科の先生が言っていました。逆に蜂が少ない。これも何かの関連があると思う。人間以上に住む環境に敏感な昆虫は、生きるために工夫をしてきた。今の人間どもは自らが絶滅種になるなど考えもしないだろう。
 自制心ということをどう考えますか?果たして斯様な私達がイザと言う時にストップをかけられますかね。誰かが言っていましたが、今の日本の状況は先の大戦前に似てきたと。実質一党独裁、離合集散を繰り返す野党も彼らが唱える政策に大きな違いを感じない。見なさい、それを巧みに自分たちの離合集散の言い訳に使っているでしょう。
 先人達は2度と戦争をしないと誰に誓ったのか? それすらも曖昧になった時代、私達が生きていることが将来を担う子供たちの負の遺産となりませんか?
 
 最近の私は変なのかも知れない。世を憂うるばかりです。現実を直視せざるを得ない今、足掻けば足掻くほどいらだつ。せめて、何も考えないですごす時間を作るようにしています。
・・・・上記の写真・・・・。
 ある檀家さんから亡くなった母の供養にとお寺にあげてくれたお金を元手に手漕ぎポンプ井戸を掘った。
 彼岸に間に合うよう、休みも返上し、作ってくれた工務店に感謝。
  土浦市で作った手漕ぎ井戸地図に載せてもらおう。とても冷たい水が出る。深井戸のため特別のポンプを設置、折角だから小屋も建てた。名前を考えた。『青木の井戸』:青木山 神宮寺の本堂裏にある。
 いつまでも涸れることなく地域の人達に美味しい水が提供できますように・・・・・・・。こんな小さな願い事でも、一歩を踏み出せば何かが見えてくると信じて。  ありがとうございました。
 
 

2688:彼岸明け

 26日は彼岸明け、1週間が瞬く間に過ぎました。寺の周りには彼岸花が急に目につきます。まっすぐに伸びた茎に赤い花を咲かせています。この植物は成長が実に早い、彼岸前に草刈りをした場所に彼岸花だけが背を伸ばし花だけを付けるのです。それも幾何学的模様をした見事な花です。
 それと朝晩の気温の変化、あっという間に秋を感じさせてくれますね。
 日本人が一年の四季を実にうまく取り入れ、様々な風習や文化を築いてきた訳で、新緑から夏の日差し、そして紅葉から木枯らしの吹く冬を迎え1年が廻る。これが近年の異常気象によって、脆くも崩れさるような不安を誰しもが感じているのです。
 稲刈りが済んだ水田は、これから疲れた土壌をいやし、体力をつける養生期に入る。畑も秋の収穫が終えれば同じ。そんな自然の営みは人間が意図して作ったものではなく、人間が自然から学んだことなのです。
 それが、いつの間にか、自然を自分たちの都合の良いように作り変えようとしてきた。
 仏教では、大きな河を置き、犯してはならぬ対岸を理想の世界として添え、いずれ誰しもがその河を渡る時がくることを説いて、それまでの生き方を教えた。
 今もって混沌とした中で紛争が激化している中東社会、ここには日本のような四季がない。あるのは灼熱の砂漠、生き物が生存するための水や食べ物でさえ得るのが不自由な場所である。そこに近代になって石油という地下資源が豊富にあることが発見され、それからこの地域が大きく変わったと思って間違いない。イスラム教には仏教と同じく様々な宗派がある。大きく違うのは宗派対立の有無、・・・・。だが、メデアが伝えるようにハッキリと宗教が紛争の原因だと断定できる根拠は見えない。
 できることなれば争いごとの無い世界を早く築いてもらいたい。
 ただ、この日本でさえ、いま様々な事件が毎日繰り返し起こっている。猟奇的な事件の真相は何が原因なのかハッキりとしない。それだけでなく、人生の勝ち負けを必要以上に誇張し過ぎていないだろうか!
 仏教が一番嫌う事は、実は此処にある。束の間の繁栄(喜び)を得た者は、それを失うことを恐れて死守しようとし自分さえ良ければ良いと考えやすい。そのために自分にとって不利な存在や弱い者に対し侮蔑や拒否の思いを強くする。
  この図式は、いくら書物を読んでも他人から聞いても身に付かないでしょうね。自らの足で歩んでこそ少しずつ理解できることだと思う、その為の時間をどう設け絶えることができるか、それが人生(寿命)そのものだと言って間違いないじゃないでしょうか。
         ★ 向こう岸 渡りたいのは山々なれど 未練残して逝くは 望まず。
 

2689:老子第24章

 人間の智慧を侮ってはならない。生きる術を本能的に掴んでいる方を見かけます。私の細やかなる体験を通し、そのことが不図頭を過ります。それは知的に障害を持つと言われてきた方々からです。彼らとの付き合いが大分長くなり、私が住職している寺の本堂には、毎年のように仲間の遺影が増え、既に飾り切れない程になっています。それぞれが向こう岸に渡っていきました。毎朝、その遺影に向かって懺悔の文を読みます。自然と涙が出てきます。
 ”企つ者は立たず(企者不立)” 老子の第24章にあります。この意味は「背伸びしてつま先立ちでは、しっかり立つことはできない」ということ、さらに”自ら見(しめ)す者は明らかならず(自見者不明)”自分からこれが正しいと吹聴するものは、明智の持ち主とは言えない。と続きます。
 何故、彼らから気付かせてもらえるのか? 道家の祖が説く人の道をあの方たちは、誰から教わった訳でもなく、身につけている。
 今の日本人が陥ってしまった深い穴、そこから這い出そうとすればするほど危うさが増す。永く無為を得て解脱の岸に至れる(今昔物語)には、遥か彼方で辿る術を見いだせない。
 周りを見渡すとススキが勢いを増し秋の到来を告げている。そのような季節に信州の御嶽山が噴火した。多くの登山者が秋の紅葉を求め訪れていてその被害にあった。
 改めて日本は火山国で地震や噴火が絶えることが無く今に至ったことを知らしめる。それなのに、一方では原発に頼って繁栄を続けようとする。原発絶対安全の神話が脆くも崩れ、想像を絶する痛みを経験したにも関わらず、原発再稼働の動きを加速する。果たしてこの日本で原発に頼って、しっかりと立つことができるのだろうか!その保証をハッキリとうたえるのか。
 繁栄=幸せという構図はまやかしではないだろうか。一回の呼吸で吸える空気の量は高が知れている。いくら大食漢だと言っても食べる量に大差なし。政府や日銀は敢えて言わないが、繁栄で勝ち得た豊かさ(金銭)が一瞬の出来事で紙屑同様の無価値なものと化した歴史を忘れたか。
 人間の寿命とて精々80~90年、その事をいつの間に忘れてしまって背伸びする。
 地球の歴史から見れば人の一生など閃光に過ぎず、何を恐れてつま先だちで先を急ぐのか私には理解できません。

2690:お寺

 真言宗豊山派だけで全国に3000ケ寺あるといいますから、オール仏教では日本で寺院がどれだけあるのか判りません。当然、宗派にはそれぞれに祖師がいて、その教えに基づいた信仰活動が行われるわけです。『檀信徒宝典』というものがあり、宗派の歴史や教えが判りやすく檀家向けに解説されています。
 お寺の住職は寺を守り、教えの宣布がその重要な役割であります。昔から保育園や幼稚園を経営するお寺も沢山あり、小さい時から仏教の教えに接し、仏の子として育てられてきました。
 何百年と続くお寺、その地域にあって昔から大切な役割を果たしてきたと思います。これから先の事を考えれば、正直どのようになっていくのか判りませんが、時代時代に応じた寺としての役目は決して無くならないと信じます。
 私は僧籍を取って40年になりますが、僧侶という仕事を手探りで行っているというのが本音です。じっくり腰を据え先師達が歩んだ道を辿りたい。
 一方、いま境内において行っている施設の仕事、寺で行っているからどうなのか? 福祉の領域にも株式会社の参入が当然となっています。利益を上げることを目的として事業の拡大をはかる。全くそこと同じ土俵で勝負するという事に違和感を持っています。私が20代の頃、仏教社会事業に関心をもち、必死(?)で学んだ。その当時の本を最近取り出して読む機会が増えました。
 宗派に関係なく、私が直ぐに浮かぶ先師は一遍や行基という方々です。書物からでさえその方々から凄いエネルギーを感じます。それがどうでしょう。評価は天と地がひっくり返ったようなもの、あそこの住職は金儲けがうまい・・・・・ってことに、ああああ・・・・・言葉が見つかりません。だからですね。原点回帰なんてことに拘ってしまって、周りは偉い迷惑だと思いますよ。
 数日前に土井たか子さんが亡くなったことをニュースで知った。衆議院議長まで務められ、その存在の大きさは今も語られている。安倍さんが女性の重要ポストへの登用を盛んに行っている。果たして土井さんに続く人がその中に何人出るか?
 英国・ドイツ・韓国・・・女性がトップとなり堂々と政界で活躍している国と比べ、何か付け焼刃的と言ったら言い過ぎでしょうか
 お寺の世界も最近は女性の僧侶が増えました。寺を守るということから跡取りになった方もいますが、堂々と檀務を行っている方もおられます。仏教は伝統や歴史を重んじ、最も保守的な社会ですから大変だと思う。
 今の時代は変化が実に激しい。電車に乗れば、スマホと睨めっこ、ホームを歩きながら携帯に夢中な人たちが増えた。何をやっているのか知らないが、多分昔なら新聞を広げ読んでいる感覚なのでしょう。
 情報は誰もが容易に得ることができます。ですから評判も瞬時に広まる、そんな時代に生きて行くのは大変です。だからこそ、自分自身と向き合い、何が一番大切かを自分で見つけ出さないと生き辛くなりました。
 過去に囚われず、今をどう生きるかです。
 

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