源究 160

BACK   TOP

NO  テーマ  月日   NO テーマ    月日 NO  テーマ    月日  NO  テーマ  月日 
 2711 一つの重さ  11/14   2716 一休み  11/26   2721 ナイスハート  12/7  2726 こう思う  12/15 
 2712 榛名山  11/15   2717 比較と欲  11/27   2722 禍福は・・・  12/9  2727 清貧の極み  12/18 
 2713 友よ  11/17   2718 若い力  11/30   2723 忘年会  12/11   2728 風に立つライオン  12/19
 2714 話の辻褄  11/19   2719 合理的配慮  12/3   2724 ・・・べき・・  12/13   2729 払暁   12/20
 2715 不条理 11/24  2720 監査  12/4  2725 先輩  12/14   2730 "hataraku"  12/24

2711:一つの重さ

 世の中のことで今までに解明されていること、例えば科学や医学がどんなに進歩したといっても、全体の中で微々たるものしか現在判明していないと聞いた。9割以上は未だ解明されていない。とすればこの地球で人間だけが自然を自分たちの都合の良いように変えようとしていないか。世界各地で起こっている異常現象は元をただせば人間の横暴で無智な振る舞いが原因だと警鐘がなりやまぬ。
 けれども今の流れを変えることは、一国だけで変えられるものではなく、世界中の国々が賛同し、その道標にそって進んでいくという覚悟が条件となる。この世に生を受け誕生した一つの生命、人間が一人立ちできるまでには最低でも一年と言う時間が必要だ。その間、必死に生きようとする赤子を両親が暖かい眼差しで見つめ声をかけ、ちょっとした表情の変化に一喜一憂する。
 だが、一人立ちという意味には人の一生を時間軸として考えれば、そんな単純なものではない。例えば「学生期」「家住期」『林棲期」「遊行期」(バラモン教:マヌの法典・四住期)と人間の一生を時系列で整理しているものもあって、その時々に様々な体験を重ね、そこで得た知識で生きて今があるとみる。
 いま、その価値が問われている。凄いスピードで駆け抜ける生き方が良いのか、もっとゆっくり自分のペースにあった歩みが良いのか。
日銀の金融緩和策が発表されてから、俄かに騒がしくなった金融・経済の動き、APECが北京で開催されている最中に真相は知らないが、衆議院解散選挙のニュース・・・・・この国の今の動きは私は異常だと思います。そんな簡単にある人達の思惑で操作して良いものか?弁解を許さない仕組みを考える卓識(?)ある頭脳集団????最終判断は国民にと言わんばかりの言動に自分たちは影武者となり責任をとる心算も覚悟もない。
 万が一にも、年内解散で選挙があったとして、我々は誰に一票を投じるかの根拠を持たない。逆にこの機を利用して一気に突っ走るつもりかもしれない。
 この手法は常道を踏み外しているとしか考えられません。何もかも中途で投げ出し、約束や責任を反故して進もうとしているとしか思えない。
 養老さんがいみじくも言った「それもこれも国民の責任」という真意は意味深である。
 結局、日本の選択肢は曖昧な中で一定の方向を定めることなどできず、その時々の理屈で納得(?)させられ生きることしかないのかもしれない。経済大国という称号を死守するための代償をどれだけ孫子に残せば気が済むのだろう。
 今こそ我々にできることは”一つの重さ”を誰しもがもう一度真剣に考えることであると思うのです。
 

2712:榛名山

 群馬県高崎で2日間の会議があり、私は全線開通した常磐道から北関東自動車道を使って約190キロを車で行った。風がその日は非常に強く、注意して運転しないと自然と車線が変わっていたりした。足利から桐生に抜ける頃左側からの風が強さが増し、危険だと感じた。その時、前を走っていた大型トラックが急にブレーキをかけ車線変更、一瞬どうなっているのかと考えたが咄嗟の判断で私もブレーキをかけ、どうにか難をのがれることができた。車道に大きなトラックのシートが落ちていた。もし、踏んでいたら事故になったかもしれない。
 前を走っていたトラックは何事も無かったように走り去った。
 人生なにがおこるか判らない。会議は関東地区が順番で開催するもので、去年が茨城開催だったから何がなんでも出席しないとまずい。正直、出たくなかった。もうお役御免にさせて貰いたい。でも、義理固い(?)性分はDNA、
 今回、私が世話になった方の墓参りをどうしてもしないとと気になっていたのも来た理由、翌日少し早めに失礼して、友人の案内で寺を訪問させていただいた。M先生の笑顔で微笑む遺影をみて、肩の荷がおりた。「おお・・住田さんか 良く 来たな。元気でやってるか?」いつもお会いした時のお決まりの挨拶を思い出した。
 その後、友人が態々いろんな場所に案内してくれると言う。時間も遅くなり、榛名山にだけ行くことにした。上毛三山は赤城山・榛名山・妙義山をいう。那須火山帯にあり、至る所に温泉がある。榛名湖は前にも来たことがある。ワカサギ釣りやスケートで有名、近くに伊香保温泉もあり、大いに観光客で栄えたところ、それが、地球の温暖化で氷が張らず、スケートはできない。それからワカサギ釣りも禁漁中、なんと福島原発の放射能汚染が原因だ。どれだけ福島と離れているのか知らないが、マスコミは取り上げないから、皆さん知らない。
 山中にある榛名山神社を訪れ、嘗て賑わった参道は、いま人通りも疎らとなり、ひっそりと静まりかえって逆にそれが良かった。
 途中 ヘンテコリンな蕎麦屋によってお昼をご馳走になった。妄想竹に囲まれ、入るのにも苦労する昔風の建物(隠れ家)だった。至る所にコンビニやファミリーレストランがあり 主な道路で食事するに事欠かない今の日本で何か大切なものを落とし忘れた気持ちを持っている。
 日本人の勤勉さ緻密さは、時と場合によってマイナスに作用する。これが致命的なことにまで発展しなければ良いのだが、昨今の動きは、大いに危ないと思っている。
 どの会議にも嫌われものはいるもので、こんな事を言えば場の雰囲気が悪くなると恐れ黙ってしまう。無理に頷いたりするが、そんな人に限って話は上の空で聞いているものだ。
 私が参加した分科会で私が一番の年長であることが分かった。昨夜の3次会にお邪魔し、熱気のあるその場の雰囲気を感じ、若い人たちが確実に育っていると実感、切の良い時間に退席したが、ホテルに戻って目が冴え、眠れなかった。
  

2713:友よ

 2極分解という言葉に私は共感と反発を感じています。人間の営みを言語で表現しようと思っても無理、だからなんでしょう。どのような理屈をつけても言い手側の意図と受け取る側のミスマッチは生まれ、百家争鳴花盛り。こじつけの議論は美辞麗句を執拗に連ねても無味乾燥となる。昨今の活字離れが今後も進むとどうなることやら。もしもですよ。今衆議院が解散したとして、各政党の公約、正直我々はイチイチ選挙公約など覚えていないですよ。これがどなたかの意見ですとそもそもの誤りなんでしょうね。人物を選ぶと言っても何せいつも地元にいない先生達で、秘書任せでしょうよ。そんなに忙しいのでしょうか。
 結局、民主主義の根本が崩れてしまった。これは2極分解どころの話ではないわけです。反発はあるが共感がうまれない。公約が薄っぺらというかどこからか持ってきて付け加えたような中身、だから、どうせ・・・・という思いが有権者に蔓延してしまった。
 結局投票に行かない人が増え、この悪循環がずっと続いていませんか。自ら襟を正さず、良く議論できますこと。手厳しい人の意見に耳を閉ざし、見慣れた人達の差し出すぬるま湯に舌が慣れてしまった。
 「友よ」という唄がありましたよね。私なんか良く歌ったんだから、新宿にあった歌声喫茶で名前も知らない人達と意気投合、肩くんで、涙流して 
 ♪ ・・・友よ君の涙 君の汗が 友よむくわれる その日がくる  夜明けは近い・・・・♪  なんてね。 それが今、夜明けがいつなのか誰も判らないでしょう。手練手管にたけた人間どもが肩組んで無法地帯を闊歩する。
  あの頃  素朴な旋律で情感を奏でる歌が沢山あった。あれから半世紀が経ったんです、あっという間の出来事ですよ。
 是非を問わなければある意味では恵まれた社会になったともいえましょう。今の政治を見ているとそう思ってしまう。政治家を優遇し過ぎ、彼らは誰一人として政治改革なんて本気でやる積りはありません。自らの保身に血眼になっている、どんな目薬つけても充血した目をして、これから選挙運動にでかけるか!仕方がねーなと皆思っていますよ。これは2極分解でなく、思考停止です。
 涙や汗が報われるという言葉を子供の頃、よく大人達から聞いた。それが今、「何」に報われるか?という事をハッキリ言える大人が何人いるか!私自身にとり、最大の宿題がここです。

 ★現代人の”こころ”の病、人間の欲、特に承認欲求が強すぎることから生じているとの意見に賛成、ですから不満の矛先がその種の立場の人に向かうのは必然の結果。
 

2714:話の辻褄

 私の悪癖を許してください。言いたいことで相手がある場合 日本語では何かと支障があるようで、そこで和英辞典を持ち出し、どんな風に言えば良いかその婉曲表現を探る。控えめにしているつもりだが、困ったことに頻繁に頭を持ち上げる。
・・・・His behavior is not consistent with his words・・・・
 言い訳も様々、これを繰り返すと自分自身で何を言いたいのか判らなくなりますよ。なんで今、衆議院の解散なんですか?そのニュースで一色、一気に選挙モードに模様替え、それが驚くことに選挙にかかる税金が640億円となるらしい。ウーム。
 立候補者だって相当な負担があるだろうから、実態はもっと高額だろうと思いますよ。解散の理由を聞いて更にウーム。「消費税先送り」の是非を問う。これって選挙マジック?どうですか、消費税を先送りすることに反対する人がどれだけいますでしょうか?定数削減の議論は殆どなされず、それでいて今消費税を上げるべきだと誰が公言できるのですか?争点をもし、そこに置いたとすれば、国政は相当病んでいる。ここで、Their(his) behaviors・・・云々が出てきちゃう。辻褄が合わないのです。
 外国で何をお話されたかは知りません。でも、どうでしょう。各国首脳で納得している方がどの位いるか?その調査は全くない。
 私の予想としましてはですね。今回の投票率は相当低くなると思いますね。だって争点があって無いようなものだもの、今回ほど誰に投票したらよいか判らない選挙は無いと私は思っている。

 もういい加減にしてほしい。

 昨夜、学園から呼び出しがありました。夜間はいずこの事業所もギリギリの態勢で行っているものです。トラブルはそのような時に起こるもの。体調が悪くなったSS利用者のご家族と連絡が取れず、私が登録されている自宅に行くことにした。しかし、どうしても目的地が見つからない。最後の手段で警察に飛び込んだ。夜9時を過ぎていたので、どうかと思ったがさすがですね。5人のお巡りさんが私に対応してくれた。身分を証明するものを提示、そしたら、前任地が神立駐在所だったそうで、尚恵学園のことを良くご存知の方だった。調べて頂いている間に園より家族とやっと連絡が取れたと、お礼を言って帰ってきた。
 この原因は、県内で一番都市開発が進んでいる地域で住居表示が変わっていたこと。基本中の基本ができていなかったことを反省している。
 以前、社会保障と自己責任ということを触れたことがありました。サービスを利用する側の意識のズレと我々事業所側の慣れ、これは今、社会に蔓延る様々な問題と根源は同じだと思っています。
 その議論がなされず、法律や仕組みだけを先行してつくる。これが今の偽らざる実態だと断言します。
 

2715:不条理

 私は学生時代、カミュという人に恐る恐る近づこうとした経験がある。当時、サルトル(コミュニスト?)との論争で学友から問われたことがあり、それまで全く知らなかった自分が恥ずかしく、背伸びして彼の著作を覗いた。正直、理解するには程遠く、それを察知した友はその議論は一切私とはしなかった。
 カミュの代表作『異邦人』は、人間社会の不条理について書かれたもの、後に46歳という若さでノーベル文学賞を受けたのもこの作品によるところが大きいと言われた。彼はその年に交通事故で非業の死を遂げている。(1960年)
 彼の生きた時代(1913~1960)は世界大戦の最中、あらゆる人間社会の『不条理』に対し、一貫して平和主義に徹し「反抗的人間」などを著した。様々な解説書に紹介されるその思想は「馬鹿げた計画と明白な現実、理に合わない結果と当然予想される結果」という視点から、世の不条理に真っ向から立ち向かう。
 私が彼に興味を持った一つの理由は、彼が形成期に古代インド思想や仏教に関心を示していたということだった。
 現代の不条理という問題は、政治や思想は基より、富の較差や宗教、民族・・・様々な事の複合的な絡みから生まれていると私は思っている。それは「人間のなかにあるものでも世界にあるものでもなく両者の共存の中にあるもの」で「両者を結ぶ唯一のきずな」というカミュの思想に共感するからだ。
 国連において北朝鮮があからさまに日米への批判を行ったという報道、これを私たちはどのように受け止めるべきなのであろうか?なんとも言いようがないのは、その時日本は衆議院の解散を決め、重要政策は先送りか廃案という選択をした。
 平和を望まぬ人はいない。恐れるのは、平和=経済的豊かさという考えに、何ら疑問を持たない人達だ。GDPが想定外だったということと国の平和という問題をどう結び付けるのか?
 国は何らかの政策決定をするときに第三者の諮問機関を置いて、その意見に従うという方法をとる。しかし、いずれの専門機関も委員の選定は政府側にある。また、それ以外の手法としては、唯一選挙で信を問うというものだ。だからと言って今回は特に、有権者は誰に投票したらよいのか確信持てる材料がないというのが現実。これこそが不合理というものである。
 ある時、私は「机上の空論」だと言われたことがある。ならば議論をしないことが良い事なのかと反論しようと思ったがバカバカしくなり、それ以外その方とは挨拶を交わすだけになった。
 

2716:一休み

 私の散歩コースに神立公園があります。休日はよく少年野球をやっている。普段の日は人が疎らで犬の散歩やお子さん連れの人達がいるだけ。全面芝生の野球場は寝転んで空を眺めるのに絶好な場所、工場団地の中の公園だから、周囲の目を気にする必要もない。
 私は前から気になっていたことがある。高圧線の鉄塔の下で生活している初老の男性、公園の水道を利用して食事の準備や顔を洗っている。もう2年以上になると思うが、これから冬を迎えるのに、ビニールシートだけの住処では大丈夫なのだろうか?声を掛けた事はない。離れた場所から見ているだけ、日中はイスに座り本を読んでいる。決して悲壮感などなく、今の生活をエンジョイしているかのよう。
 それともう一人。この方の場合はちょっと違う。着古したオーバーを身に纏い、すり足でゆっくりと移動する。野球場のベンチで何することも無く独りで座っている。近くでは野球の練習に付き添ってきた若いお母さんたちが何かを食べながらお喋りしている。距離にして30メートルと離れていないお年寄りに全く関心を示さない。
 2日前には、その老人は見かけなかった。その代り、50代の男性が公園の水道で洗濯をしてフェンスに沢山の衣類を干していた。
 そういう私はどうかと言うと、芝生の上に大の字になり、空を眺めている。鳥瞰図的にはどう写るだろう。禅の言葉に「己事究明」(こじきゅうめい)というものがありますが、自分自身と自ら向き合い自己とは何か!を明らかにするというものです。
 制度や法律は明らかに哲学や宗教とは次元が違います。個人情報保護法に私は今強い関心があり、この法律は何のためにあるのだろうか?と。個人=自分と考えると余計判らない。
 極論すると、この法律を勝手に解釈してみると、関わるなということになってしまって今日話題となっている絆とか連携とは相反するものとなりやしないか。余計なお世話かな?。これが複雑怪奇ときており、正直何が何だかわからない。
 もっと単純明快にできないものか!
 空を見つめているとほんの一瞬だけれど現実からの逃避ができるような気になります。『はやぶさ2号』の打ち上げは、奇跡的な地球帰還を果たした『はやぶさ1号』の次なるミッション、この実施には約290億円の費用がかかるという。一方、衆議院の選挙費用は最低でも700億円という試算。それを無駄と考えるか否かは個人の判断に任される。
 己事究明を地球の誕生の謎解きと位置づけ、宇宙に同じような惑星が存在するのか否か、小惑星の塵を持ってきて分析することで究明しようとする夢のある計画だと私は思う。普段私たちはこの地球から受けている恩恵を忘れ、人間の欲を満たすためにありとあらゆる行為を正当化してきた。
 一方今回の解散が何の目的があるのかと多くの人達が疑問を持ちながら既に選挙戦に突入した。これはもう話になりません。マスコミは挙って過半数がどうのこうのと当落予想に熱が入り、選挙一色となっている。
 長野県で起こった地震、あらためて日本は地震国だということを証明したが、原発の議論はパタリと止まってしまった。そうではありませんか?

 

2717:比較と欲

 マレーシアにお住いのNさんご夫妻と最近になり、頻回にメールをやり取りしています。日本に住んでいると判らない事が現地での生活に今も大切に守られ息づいているそうだ。NさんはKapitという所に出かけていて、暫くは交信ができないという。マレーシア(ボルネオ)のサワラク州にあって傍をラジャ川が流れる街、グーグルで調べると何枚かの写真が出てくる。ロングハウスそれも真新しいものだ。私が想像した以上の長い建物、その中に何百人という人達が共同(?)生活を行っている。
 お年寄りから子供まで、役割があって日本では今は薄れてしまった共助の仕組みが出来上がっている。
 社会の中で個の位置づけをどう考えるかという意見を問うている、昔の日本を思い起こせば何故このようになったのかはなんとなく想像はできる。
 No:2715に触れたカミュが古代のインド思想や仏教に関心があったという。早速、取り寄せた彼の著作3冊の平行読みを始めたところ、仏教の何に興味をもったのかがうっすらと判りかけてきた。
 唯識&如来思想かもしれない。唯識は五感+意識+マナ識+アラヤ識で説明する。人は他と比較し自らの立ち位置を確認するものだ。優劣や勝敗に気を配りながら、安心しこころ穏やかに生きることを得ようとする。実体のないものをいくら追い求めても逃げて行く、それを”欲”という言葉で説明し苦の原因だと説く。
 比較ということで言えば国の場合、GDPの数字はその最たるもの、日本の一部の人々が遮二無二追い求める富だってそうだろう。経済的な豊かさと生活の豊かさ(安心)は残念ながら一体ではない。そのボタンの掛け違いは、なかなか修正がきかないようだ。
 富を実体無きもの(幻想)だと断定すれば、どうだろう。相手にされず、戯言だと言われるのが落ちだ。今の日本でボルネオに残るロングハウスに替わるものは見つけられまい。自由をはき違え、権利の主張はすれど義務を果たさない人間が増えすぎていなでしょうか?否、義務が何かが判らないのかも知れない。マスコミに望むことは、言論・報道の自由と言いながら、合理的な配慮を疎んじる。その結果、多くの人が泣いていることを知ってほしい。地方創生という旗印だって先ずは経済最優先。頭脳明晰な専門家達の予測は今回、見事に外れた。
 確かに彼らは自らの理論を正当化する数字を容易にあげることはできましょう、しかし理想と現実との乖離を指摘されれば、黙ることしかできないのではないか。
  もしも、人間がこれからもずっと他との比較で満足を求め続けていけば、止まることを知らず、破滅に至ると先人は警鐘している。
 今の政治で気になるのは、国の方向を大きく左右する重要事案を選挙で信を問うと解散した。公約というある意味では責任逃れの手法によって、それも短期間に限られた情報しか持ち得ない有権者に判断を迫るというのは、どう受け止めてよいのでしょう。これが政治と言うものだよと達観するには、聊か無責任のように感じます。
 私自身、今までに選挙で票を投じなかったことは一度としてありません。せめて日本国民の義務として、これから先もこれは変わらない。
  ★ GDPには、家事労働やボランテア活動は含まれず、一方、医療費は重要な要因で、薬を多く飲めばGDPは上がることをご存知でしたか。国の人口の違いには配慮しない。中国は日本の人口の10倍以上、それをどう考えるか?あくまでも指標であって絶対ではない。年間に廃棄される食糧や飲み残された薬の総額を示さないのは、実体が知れるのを恐れるからだと思えてしまう。そのツケが1000兆円という先進国(?)で最悪の借金財政国となったと言うのは言い過ぎでしょうか。日本人の伝統的な精神風土に、家事やボランテアは陰徳とすべきというものがあるようだ。結果、いま何が起きているか!この検証はなされず、社会保障の仕組みをお金ではかろうとしていないだろうか!東南アジアに進出する企業は毎年増加している、相手国から日本が何を学ぶか、その視点が大切だと私は思います。

2718:若い力

小学5年生と中学2年生の全国体力調査において、茨城は男女とも全国2位となった、これは凄い。我が茨城はどうも全国でのランク付けにはいつも低迷、そんなはずは無いと不満があった。県の魅力度が最たるもの、何故茨城が最下位なのか、いい加減な調査だと県民全てが思っている。そこに今回の2位、福井県が1位で少し遠慮して次席で甘んじたようだ。私はそう信じている。
 何せ自然は豊かで耕地面積はこれまた全国で2位、北海道に次ぐ。こればかりはあまり増やすと地すべりなどの災害に弱くなる。もともと広大で肥沃な土地、常陸風土記に記されているからご覧あれ!
 昨日は、つくばみらい市を会場に相談支援事業所の研修を実施、予定の人数を大幅に上回り盛況だった。盛り沢山の内容だったが、居眠りなどする参加者は皆無、皆さん真剣で、パネラーや司会者の皆さんが若く、正直私は場違いのような気になったが、若い頃を思い出してニヤニヤしてしまった。
 大丈夫、確実に若い人たちが育っています。美辞麗句を連ねることは茨城県人は元来下手だが、こころがある。障害者に関する施策は次々に国が改正してくるが、それが末端まで行き渡らない。計画相談が26年度内にサービスを受ける事を義務化した。現在県内での計画達成率は50%に満たず、暫定措置が取られ”セルフプラン”で良しとなった。今まで頑張ってきたことが何だったのかという不満が上がっている。
 これは最初から予測できた。どう考えても相談員の養成が間に合わない、研修を受講すれば資格が取得できるというものの、養成する教え手が揃えられない。見切り発車もいいところ、この混乱の一つの原因は、国は規制を緩和し、事業所認可を増やした。その結果、全国で凄い数の事業所が生まれたのです。利用される方が数か所の事業所を日替わりで利用するケースが増えチェック機能が働かないという問題が全国で起こってしまった。
 不満ばかりいっていても仕様がない、先ず身近な人達で一緒に勉強会をやろうとの声掛けに何人かが集まり、試行錯誤しながら続けてきて少しずつ形が整ってきた。
 やはり、形から入ると難しい。形式的で一方通行の話にただ参加したということになる。何もないところから今困っていることを忌憚なく語り合い、智慧を出し合う仲間、それが本当のサービス体となりうる。その芽が出始めている。
 昨日の研修には、様々な方が参加していた。登壇者も行政、教員、株式会社、NPO,そして社福と同じ障害者と関わる人たちが一堂に会し、熱心に学ぶあう姿は実に良かった。
  次の世代を担う若者よ、貴方たちの未来は自ら築け!そんな事を考えながら早めに帰路に就いた。
 何か元気をもらった気分、風邪気味で本調子でなかったが鼻歌が出るまでに回復し、病は気からとは良く言ったもんだと納得。
  

2719:合理的配慮

 日本が国連の障害者権利条約の批准を決めてから様々な動きがあります。「私たちをぬきに私たちのことを決めないで! Nothing about us, without us!」という前世界盲人連合会のキキ・ノルドストロームさんが国連でスピーチを行い(2006年8月)その4か月後に国連で条約が採択された。
 その条文の中に謳われた”合理的配慮”という言葉、JDFで判りやすく解説している。「障害者一人ひとりの必要を考えて、その状況に応じた変更や調整などを、お金や労力などの負担がかかりすぎない範囲で行うことが、合理的配慮です」というものです。
 また障害者虐待防止法が制定され、先日、その実態を示す数字が紙上で公表されました。障害の種別により、多少の違いがありますが、知的障害の特徴として、家族による虐待が80%という調査結果でした。これは何を意味しているのでしょうか?
 恐らく障害者を抱える家族は一般の人々には想像できないご努力をされて生活に疲れ、そのストレスから我が子に虐待と言う形になって向かってしまうのではないかと思います。
 私たちをぬきにという叫びは、ご本人のものです。私はそこに明確な意思を感じます。今までにいろんなご本人たちの声を私は耳にしました。尚恵学園の場合、自分の言葉で訴えることができる方は、ほんの一部の人しかおりません、多くの方はそれができない。言葉が無い人達が多いからです。でも、誰しもがそれぞれの方法で訴えようとします。その中で一番多いものは家族に対してだと言えます。
 私がこの仕事を継ごうと決めた時、父はこう言いました。「どんなに頑張ってもその子の親にはなれない」その意味を今しみじみと感じます。父は1歳の時に実の父を亡くし叔父さん夫婦に育てられました。
 現実には、言葉の取り違えで誤解を招き我々を訴えてこられる家族もいました。自分達の立場を思えばこちら側が下りるべきなのでしょう。本当にいろんな経験をさせて頂きましたね。でも、この家族の中には本人の居場所が無いと感じた時、私は切なくなり黙っていられません。
 それは、今も全く変わりません。体力が衰えてから更にその思いが強まったようにさえ感じています。
障害者権利条約の中の重要な主張、私たちをぬきに私たちのことを決めないでという言葉に対し何も言えない自分を感じます。
つい最近のこと、公平・中立・公正の報道要望書が各報道機関(民放在京5社)に流されたと知りました。多分、選挙戦に入り、報道の内容如何によって結果に大きな影響が出ると考えたからだと思いますが、この事は決して軽く流されて良い問題ではないと私は考えます。なぜならば与党筆頭副幹事長と報道局長連名で出された文章だからこそ大きな波紋を呼ぶような気がします。報道の自由???合理的な配慮???なんと判り辛く、面倒なものにしてしまうのでしょう。 私たちは自らの責任で世の中で何が起こっていて、この先どうなるのか?を知るしか方法はありません。ここ数年の障害者を取り巻く環境は、変化のスピードが速く、どんどん複雑になっているように感じます。
 私たちをぬきにわたしたちのことを決めないでという彼らの意思をどう解釈すれば良いのでしょうか!
 恐れるのは、見向きもされない仕組みや制度をいくら作っても当時者の幸せには結び付かない、その自覚があるかないか。これは障害者問題だけでは無くて、全てに通じる民主主義の原点です。
 高倉健さん、そして菅原文太さんが相次いで亡くなりました。何故、あの方達は多くの人達から慕われたのか、いろんなエピソードを知るにつれ、お二人の人間性からだと思いました。慢心がなく、人に優しいお人柄だった。
 競争や個人主義が行き過ぎると人への優しさが薄れるように感じるのは私だけでしょうか。
 

2720:監査

 昨日は、2つの事業に対する監査が県と市から担当者が来られて実施されました。結果は特に大きな問題もなく終了することができました。おつかれ様でした。
 いま、事業がいくつもに別れているので、何度も行うようになり、監査する側も受ける側も大変です。もっと簡素化できないものかと思うのですが、無理でしょうね。事業所にとっては、監査をプラスに考えるべきだと私は思う。どうしても日頃の業務に追われ、気付かぬうちに旧態依然のままやっていることってあります。そのチェック機能と考えれば、指摘事項も有難く思えます。
 最近はあまり良いニュースもなく、気分が晴れませんでしたが、気は持ちようだと考えることにしています。どうしても朝起きるのが早くなるもので、あちこち体の痛みを感じています。少し時間がたてば不自由さは感じなくなるのですが、いまこうしてPCに向かうイスの座り方が不恰好、足ばかり先に延びてイスから今にも落ちそうです。腰痛はこれ以上悪くならなかければOKと考えています。メガネを初めて眼科で作ることにしました。視力検査をして分かったのですが、左右の視力が大分違うのが判り、メガネが合わない理由を納得、コンビニで安価で求めたメガネは左右の視力差は考えていませんから、仕方がない。
 6日に出来上がるメガネ、今度は無くさないようにしないといけません。
 我々の事業は、利用される方に適ったサービスを提供することが肝心、人間対人間の仕事は相性や声の大きさ、顔の良し悪し、背丈の違い??・・・・など本当は微妙に影響しているんでしょうね。これを徹底すると逆に妙なことになりかねない。これって 何にでもあてはまることです。求不得苦(ぐふとっく)って言えばよいのかどうか。
 前項で触れた報道に対する要望書の件で、知る限りでは紙上でコメントを出した所は無かったようですが、ネット上では、結構辛辣な批評がありました。恫喝だ!とか法律違反だとか。
 その代り、どこの新聞もやんわりとした内容で当落予想を書いているように思えました。一枚の文章があんなに効くものなんですね。怖くなりました。
  さてと、誰に投票するか決まりましたか? 正直、何がなんだかわからないというのが私の実感なんです。今回の選挙で一番恐れるのは、どうせこうなんだろう・・・という諦め感だと思いますよ。アジアは世界でも今一番関心が高い地域に間違いありません。その証拠に台湾の選挙結果は凄いと思いました。マグマが湧き立つような力を感じます。台湾の人々一人ひとりが自分たちの国をこうしたいという熱きものを感じたのです。
 一方、日本はどうですかね。最初から諦めムードが漂い、盛り上がりなど感じない。メデアもテレビや新聞で双方入り乱れて激論を交わすような報道は鳴りを潜め、やけにおとなしくなっちゃった。
 なにせ選挙戦が始まっているのかいないのか知らない人が多いんじゃないですか?街宣カーの声は全く聴きません。もしかしたらあれって違法行為なんでしたかね。静寂保護法とかいうものを作ってしまい、禁じ手になっているのかも?
 全てがそうなんだから、やたら法律を作るから、結局自分たちで自分の首を絞めるようなことになっっちゃった。
 でも、私は”監査”は必要だと思います。その結果、改善がなされ良くなればという条件付きではありますが、    ”何がよ?”ってか。   そんなこと聞かない聞かない。ダメよダメダメ。
  

2721:ナイスハート

 昨日ナイスハートフェステバル2014 県立文化センターにおいて好天の下で開催されました。茨城県スポーツ・文化協会主催の障害者の文化活動として歴史ある催しです。今年は何をやるにしても天気には恵まれませんでしたが、雲一つない青空で千波湖の木々の紅葉も美しく、楽しい集いとなりました。私はこの集いに関わってからもう随分長くなります。今年は「ご当地アイドル」の5人皆さんの出演もあり、華やかでした。中庭では模擬店、協会出店のレンコンカレーやけんちん汁は列ができるほどの大人気、売上も伸びました。各事業所からも日頃の生産活動の品物を出店。それと絵画や書など約5000点の作品展示も見事でした。
 ややもすればこの種のイベントはマンネリ化する傾向がありますが、運営委員の皆さんの努力で毎回、新たな工夫が見られます。知事さんも出席、皆さんと写真を撮ったり歓談して楽しんでいました。
 県内には障害者の支援事業所が急激に増えています。そこで頑張っている方も参加するようになりました。『笑顔いっぱい・元気いっぱい・ハートいっぱい・いばらき』のキャッチフレーズ、そこに『一生けんめい』が加わり、春風のような爽やかさと癒しの時間となりました。
 運営委員やボランテアの皆さんに心より感謝申し上げます。

 さて、これで閉めるには少々物足りない。雑談の中で出た話題を2~3紹介しましょう。障害者各団体の代表の方達との話で会員に若い人が入らないとこぼしていました。良く耳にする話ですが、何故なんでしょうね?
 小さな事業所が沢山ありますが、その中心になって頑張っている人は大半が家族です。いつのころからでしょうか、自分たちは手を出さず、サービスの不備を声高に言う方が増えたように思う。忌々しき事態だと私は思いますよ。教育現場も全く同様です。これはどこかが間違っていると思うのですが どうでしょうか。
 イベントの数が多すぎるという問題も出ました。今は地域でも様々な集いが行われています。何を優先したらよいかということと纏めて開催するものを整理する必要があると思います。事業所にとって今一番苦労するのは引率のスタッフの確保です。いつも話題にでることですが、前向きな方向で検討し、新たな形に変える必要性も感じます。地域活動に差が出ています。ユニークで活発な活動をしている地域には必ず中心になる熱心な方がいるものです。
 文太さんじゃないですが、声を上げることそれと行動することが大切だということです。
 最近、尚恵学園から地域に出られ一般就労している方が二人表彰されました。一人は最初から同じ会社に23年、もう一人は18年勤めています。貯金を下ろしスーツを作り、会社の部長さんと一緒に県庁で受賞式に参加してきました。このような方達が体験を発表する機会も必要だと思います。
 近いうちに仲間でお祝いすることになりましたが、仲間たちには大いに励みになることでしょう。
 ナイスハート   言うは易しです。 これは打算・不満・他人事では絶対に生まれません。自らがどう関わるかという次元の問題だと思うのですよ。それと一生懸命さが無ければこころは動きません。
 

2722:禍福は・・・

 禍福は糾(あざな)える縄の如し。良いこと悪い事は表裏一体だという諺ですよね。そんなに落ち込んでどうします、必ず後から良い事が起こりますよ。皆さんも今までにこのような言葉をかけて貰った経験が1度や2度はあったと思いますね。わたしゃー毎日ですよ。何しろ体全体が心と一体なもんで、直ぐに周りに感知されてしまう。私は喜怒哀楽を諸に出すタイプなんでしょうね。誰の所為か知りませんが、DNAなんだと思います。オヤジなんか最たるもので、仏さんのような顔の時と雷みたいなオヤジしか記憶にありません。その点、わたしやーそこまでは徹底できません。小さい小さい。
 早いもので師走に入りもう少しで正月ですよ。1年が早い事、禍福ですかー 今年も有りましたよ。沢山経験させて頂きました。でも大分忘れましたからいい加減なものです。今、建築中(成人寮)の建物も昨日覗いてきましたが大分出来てきました。園内ではどうのこうの話し合い(?)がいよいよ煮詰まってきたようで、私は口を挟まないということを最初に宣言したから、気になりますけど、じっと我慢。これから若い人達にやってもらうしかありませんから、昔はこうだったの話は水を注すようなもので聴いてなんかくれません。この辺は判っている。私もそのようにやらせて貰ったから同じだ。
 最近は暇なようで暇じゃない。暇と感じるときは、普段は気が付かないようなことに不思議と目がとまるものですね。時と場所、これだって重要です。
 時間があれば考える、私の心残り(宿題)は四国歩き遍路全コース完走、正直自信は全くありません。でもな・・・来年こそ挑戦しようと心に決めている。今の腰の具合ならば、どうにかなると思っている。でも時間がとれるかだわなー?一気には無理としても1っ国打ちならできるかもしれません。
 寺も施設も誰かに任せて・・・・・・どうだっぺ!一丁 やってみっか。
それがここ数日の徳島の大雪被害には正直驚いた。あそこを歩くのかと思うとぎょっとした。地球温暖化と言われ始めた頃より異常気候が全世界的な現象となり、もう専門家の皆さんも何がなんだか予測ができないんじゃないでしょうか。今や過去のデーターが参考にならない。
 話はコロコロ変わりますが、昨日、テレビで見た芦屋小雁さんのご自宅、あれは凄かったね。驚いた。何しろ物が溢れ、残された空間の畳一畳で奥さんと二人で食事、芸能生活半世紀、その間集めた趣味の品、なんと1億円以上はかけたという品々、どれもこれも私にはゴミにしか見えない。鑑定のプロがそのすべてを現価で評価した。案の定 その総額が60万円、小雁師匠の落胆ぶりはと思ったが意外にもケロリとしていた。その傍で30歳若いと言う奥さんも笑っていた。
 芦屋兄弟と言ったら、嘗て関西だけでなく全国的な売れっ子の芸人さん。お兄さんは「裸の大将放浪記」の当たり役で有名な雁之助さん、この二人で上方漫才で一世を風靡した。まさに芸道一筋波乱万丈の生き方をしてきた方である。
 生き様が芸なのかどうなのか?
 禍福は糾える縄の如しを地で行く、ここまで我が人生を楽しめれば思い残すことはないだろう。あやかりたいものであります。
 

2723:忘年会

 忘年会のシーズンになりました。恒例の成人寮の忘年会に参加しました。市内の結婚式場はとても立派な会場、昔ならそこでできるなんて夢のような話です。でも時代は変わった。当然でしょう!と考える人が確実に増えました。これをどう考えて良いのか判りません。要するにそんなに単純ではないということですね。驚いたのは、今年は利用されている人が全員参加できたという事でした。いつもなら体調を崩したり、長時間参加できない人がいました。来年は皆さんが新しい寮での生活が始まる。私も不安がないと言えば嘘になる。何しろ嫁に出すようなもので、新しい場所に慣れ上手くやれるかな?という事が一番気になります。
 乾杯の挨拶をしたKさん、腰が曲がり、私がいた頃とは大分変った。『とうちゃんと母ちゃんが死んじゃって・・・・・・ムニャムニャ・・・・・それでは か・ん・ぱ・い・・・・・』正直、私は笑ってしまい声が出なかった。大変失礼なことだと直ぐに反省した。
 同じテーブルになった方達は、「もう家がなくなっちゃた」とか「姉ーちゃん具合悪いんだと」と実家の話をする。私は聴くことしかできない。最初はどうなるかと思ったが会食がすすむとお腹が満たされたのか、各テーブル落ち着き始めた。そのような中、一人走り回ってジッとしない方がいた。SSを利用されている方でこの場にいることを喜んでいるんだという事が判る。ラジオ体操始めたり、クルクルと回り始めたり、正直気になったが、利用者の皆さんは黙ってそれを許している。凄い。彼らは自分の不自由さを我慢し家族の事を誰かに話すことで慰める。新しい職員は、必ずその洗礼を受ける。反応で確かめるようだ。この人は安心できる人なのかどうなのか?理屈ではなく本能的にそうするようです。
 中には、日中だけ利用される人も交じっている。それと寮からGHに移った人。その場の雰囲気は私が心配する程でもなく、式場のスタッフも慣れたもので笑顔を見せながら上手に対応してくれた。
 その時、札幌から電話が入った。「こんどなー、道は30名のGHを認めるようだ。理解できない。あんたはどう思う?」 カラオケの音が邪魔で場所を替えてどうにか話が通じた。「昼間から忘年会?」「そうなんですよ、一つの寮のいつものですが」
 一瞬、感じたこと、そうだKさんは今までの入所施設をやめ全国で最初にGHにかえて今まで頑張ってきた方だ。相も変わらず、私は入所施設での今がある。このギャップは言葉で説明しても無理だ。
 今回、全国のGH関係者の危機感は強い。30名のGHを国が認めれば、自分たちの今までの努力が泡になる。それもGH発祥の地である北海道が一先に取り入れようとしているわけだ。確かに今の日本のGH制度には無理がある。急増するGHの数に予算の裏付けができない。
 今年になり夜間支援をつけなければできないGHへの補助をカットした。介護制度も全く同じ、社福の在り方検討の中で出された特養の利用者を介護度で高い人に限定する方向と何ら変わりない。ある意味では政策の逆行?
  私たち社福の事業所は、家族が何らかの事由で看られない人たちを受けること、当然、そこに特化されることは予測できた。いな、私たちは最初からその方針でやってきた。だが、日本の仕組みは、事業者や本人の努力を認めようとしない。だからなのか規模拡大で満足を得ようとする経営者が増える。膨大な借金を抱え、設備は用意できても人的配置ができない所が増えて、経営悪化となる。これも自己責任という裁定(枠組み)で、そっくり他の法人に任せなさいとなる。
 福祉は、本来そうでなかったはず、人として生きる尊厳をどう周りで支えるかという事にあったはず。それを一緒くたに制度で分けてしまう。これは、どのような理屈をつけても納得できないことなのです。私は日本が進める経済最優先や縦割り行政の落とし穴がその発想から生まれると考える。合理化をすすめ、無駄を省く、そこから得た利益を一部のものが独占する。これが自由経済だとしたら、多くの人が夢を追いかけることで一生を終えてしまう。絆や連帯という幻をいくら求めても遠のくばかり、このことを本来ならば気付くべきなのに、巧妙な理屈を並べ同意を求めてくる。
 最近良く耳にする言葉に、当事者はどうなっているのかな?ということがあります。事業者側ばかりが目立って、その陰に利用者がいて見えてこない。これは実は紙一重だ。
 今の日本は 一枚の紙切れを色を変えたり折ったり刻んだりして誤魔化しているように思えて仕様がない。私は逃げるつもりはない。だが、気付いたら後から誰も付いて来なかったということになるかも知れない。
 それでも自分の選んだ道だから私は後悔はしない。
  事務所に貼られた選挙立候補者全員の名簿、その中から○さんは自分の名と同じ名前を見つけ、この人を入れるんだと大喜びで私に訴えてきた。「選挙だね」と言うと「ウン」と頷いた。彼は今までに選挙を欠かしたことがない。いつまでもこんな状況だと、大いなるものは、日本の低調な選挙投票率の実態にいずれ鉄クイを打ってくるだろう。違う 既に地中深く打たれているのに気付かないのかも知れません。
 

2724:・・・べき・・

 水戸で忘年会がありました。8名ほどの気の合う仲間で好き勝手なことを駄弁る会、年齢も大差なく、共通する話題にそれぞれの価値観が交錯し、会話がうまくかみ合わないことを大目に見れば素晴らしい時間でした。何か元気を頂いたように感じで帰ってきました。本当は泊まる予定だったのですが、翌日急用が入り、電車を危なく乗り超しそうになりながら目をギラリと見開いて家にたどり着く。
 その夜は、やはり直ぐには寝付かれず、ラジオ深夜便を聞きながらウトウト、実にタイムリーな話が流れていた。誰しも・・・べき・・と思っていることがあって、それが違った方向に進んでいたり、思うようにならない時 イライラするという話だった。アンガーマネージメントとかいう協会の方の話、その筋では名が知られた方というが、私は初めて知った。
 言葉は違うけれど、”変わるべきことと変わってはならないこと”と同じことだと思った。これが何でも構わないとなれば、生きる価値さえ無いと思ってしまう。人それぞれに思いがあり、相手に寛容になれればいら立ちは消えて行く。判っているけどやめられない。宴席で盛り上がった話も実はそこだった。 選挙選に入り、選挙好きな方はいつになくハイテンション、そんな風なら自分で立候補すればと私が言うと、不愉快そうな顔と満更でもないという反応が返ってきた。
 イライラした時に、何故自分がそうなっているのか冷静に考えると、自分自身の想いを整理し確認できるという。この繰り返しと積み上げが相手に対し、必要以上の要求はせず、ありのままを良しと認めることができると。
 これだって、実際は皆さん判っていること。これを邪魔するのが所謂”欲”というものですね。そうでしょう?名誉欲・達成欲・承認欲求・・・
 水戸駅周辺は生憎雨模様で飲み屋街も決して人手が多いとは言えなかった。早く家路に帰ってのんびり過ごしたいというのが皆さんの想いだろう。
 今年1年を振り返ると無我夢中で過ぎたように思う。歳を重ねるごとに、丸みを帯びる方と余計頑固になる人がいるという。私はどうみても後者に属するようだ。なんでそんなに拘るのかと何度自問しても堂々巡り、これが有りのままの自分だと思えば多少は気が楽だが、世の中、そうは問屋が卸さない。

2725:先輩

 お世話になった人や師を敬うことは当然と思います。なぜなら自分の力で今があると思えば、自ずと慢心が起こり、周りに不愉快な思いをさせるだけ。それが、幼児の時から、人に勝ることを良しと育てられてみなさい。相手の気持ちより自分を優先するようになりますよ。立志伝中に出てくる人達の多くがそれとは逆の育てられ方をしている。その中には途中で道を誤る人もいます。そのような時に適切な箴言を頂ける方がおれば、軌道修正もできましょう!
 教育の重要性は、そこにあると思う。今風に言うと、生涯教育なんてものも騒がれますが、基本は少年期までの教えだと私は思う。
 順風満帆の人生を送れる人などいません。自分が苦しんでいる時に救いの手を差し伸べてくれた方もいますよね。中にはお節介好きで誰にでも手を差し伸べようとする方もいないわけではありませんがね。
要は、”おもてなし”とか”絆”という言葉が目立つ時代は、それが薄れている社会でもあると思います。
 生涯を通じての適職を見つける事は一大事、そこに描くやりがいとか生きがいというものは、脆く儚いものかもしれません。それは何かと比較するからですね。もっとよい場所があるはずだと勘違い。そうじゃない、あなた自身で作り上げていくのが本来の姿だと私は思います。
 正規社員でなく、パートや派遣社員の数が急に増えました。中には生活の為に安定する正規社員を希望する方も多い。実際は希望通りにそのような仕事を見つけ出すことは難しい世の中となりました。見切りをつけ転職することも良いかもしれない。でも、世の中はそれで目的を達成できる人は稀である。採用の時に職を転々とする方を果たしてどのような思いで採用するか、いずれここを辞めて行く人だろうと思われてしまいます。
 名の知れた起業家の多くが、一つのことに只管打ち込んだ結果その地位を勝ち得たと伝えられます。近頃はその粘り強さが消え、実に淡泊になってしまったと思います。それで満足できる方は良いのですが、それよりも不平不満がつのるものです。
 昨日、ある方と一緒に昼食を食べながら、こんな話になった。その方の住む地域の農家で跡取りが未婚の家が30軒もあると嘆いていました。若い人達の間では、先祖代々の土地を守ろうとする思いは薄れ、売れればお金に替えたいと思っている人が多いという。
 親が建てた入母屋造りの立派な家には住まず、傍に現代風の家をたて嫁を探すというような話は枚挙に遑がない。どうしてこうなっちゃたの?1年たったコメの値段を知れば誰だって判りますよ。30キロ袋の玄米が今年売ろうとしたら500円だという。コメ作り農家は高額な機械を揃えねばできません。そのコメが今年は驚くような値段で売買されています。これではな、やる気など出ないだろうな。明日投票になる衆議院の各党の公約にTPPのことが殆ど触れられていない。どうするんだろう?声大きいものが勝つとは限らない。諦めと冷めてしまった有権者の気持ちを奮い立たせるような特効薬は見つけられ無いのでしょうか。
 外交交渉だって一方的なものは何もないと思った方が良い。車を買ってもらうお返しに農作物を買えとなる。その構図は変更不可能でしょう。決定を先延ばしはできますが、当事者にとって夢の持てるような展開は望めまい。
 歴史を見ればこの国は紆余曲折、80年前に国是として海外に活路を見出そうと出兵し、結果敗戦を体験した、そこで誓った不戦の誓いが危うい方向に進もうとしている。
 情報操作など容易にできる時代になり、この国の行く末を案じて何をこれからの人達に残すか、実はそのことが問われていると私は思います。株価や為替の日替わり上下に一喜一憂する今の政治を根本的に変えねば先輩たちに合わせる顔がない。
 そう言うと、ならば具体的に何をどうするか示しなさいと叱られる。この決め打ち構図も相も変わらず昔流で、夢追い酒で酔い倒れでしょう。違いますか?
 

2726:こう思う

 衆議院選挙が終わった。有権者の一人として思う所を述べたい。先ず、尚恵学園の利用者の皆さんは今回も5~6人のグループに別れ、職員の引率で近くの投票所に行き投票を行いました。投票に向かう後姿を見ていて感じることがありました。あんなに勇んで彼らは、どんな思いで投票をするのだろう?彼らの持つ一票の重さを憶測で言う事は避けたい。それがどんなに神聖で光輝ある行為であっても私には彼らの心の内を語れる資格などありません。
 選挙が終わり、その結果を今更どうのこうの言っても仕様がない。これから彼らが自らが掲げた公約をいかに実行に移すかを見守りたい。今回承認されたと言っても全体数から見れば精々2割~3割の数でしかない。むしろ今回投票しなかった人たちの多くが何故に棄権したのかが問題だと私は思う。
 恐らく、今時関心がないという人はいないはず、その多くが誰に1票を投じて良いのか判らなかったというのが真実だ。それ故に、尚恵学園の仲間が自らの名を書くことさえできないのに意気揚々と投票所から帰ってきた姿をみてかける言葉が見つからないのです。
 社会保障という問題一つとっても私はその責任の多くは国民にあると思っています。どのような制度仕組みを国が作ってもそれを受け入れ支え合うという気持ちが国民に無かったとしたら、無用の長物でしかない。それでなくても自らは行動に移さず、様子を伺う人達が巷には多すぎます。障害者の地域移行を我々は彼らと共に真剣に夢中になってやってきました。その結果、まだまだ法の中で謳っている理想の姿には程遠く、むしろ彼らを排斥しようとする人が増えているようにさえ感じています。
 私が経済というものを最優先の政策と掲げることに危惧を感じるのは、いつの世においても障害を持つ人達が後ろめたく片隅に追いやられ、お荷物と言われかねない世相があるからです。その一方では多くの無駄を惜しみなく垂れ流す経済大国ニッポン、このミスマッチを外から見てどう思うか?その視点を政治家に持ってもらいたいのです。ベトナムを訪問して先ず感じたのは、ベトナム国民の真面目さ、そりゃーそうですよ。国を2分されたにもめげないで祖国の統一を果たした自信を感じました。日本人が先の戦争から何を学び、次の世にどんな夢を描いたか?いかなる理由を付けても隣国と争う事の無意味さ、これは経済の豊かさという代償を得るためであるとすれば致命的な誤謬となり得る。
 
 今回の選挙にどれだけの税金が投入されたか、自らの痛み(政治改革)は、勝利の美酒に隠れ、また先送りされることになりませんか。国のリーダーには、正々堂々、変な工作はせず、国民の意志を聴く度量が条件だと私は思います。
 一夜明け、選挙結果を見る気持ちにはなれず、ただ、自らの責を果たすのみと決めた。

2727:清貧の極み

 98歳で昇天された先生のご冥福をお祈りします。
 目立たずされどひたすらに福祉の仕事をされた方である。その生きざまは、知る人ぞ知る。いかなる時も声を荒げることはなく、冷静に人の話を聴きそしてポツンと自らの考えをお話になった。私がこの仕事を始めた当時は、県職で福祉の現場で働いておられた。定年後、請われて民間の施設長になり、そこで16年勤務された。晩年の先生の消息は全く判らないが、奥様を亡くされてからは特に目立った活動はされず、アパート住まいをされていたと伺った。
 何故、先生に私が惹かれたかといえば、先生はお寺に生まれ、その後改宗しキリスト教に入信されていた。その辺の事を生前先生に直接伺う自信が私にはなく、一度だけ、牧師をされている息子さんに土浦での研修に講師としてお願いしたことがありました。
 何事にも通じることでしょうが、一つの事業を続けていくためには、様々な条件が揃って初めて可能になると思います。その時に一番大切なことは、その事業を何のために行っているかという明確な目的、それとその覚悟だと思います。事業だけでなく人生そのものがそうだと思う。
 人間の持って生まれた性として、結局は自分自身が可愛いものです。外敵が自分に銃口を向ければ本能的に防ごうとします。それが言葉や噂であっても同じ、それと国と国の関係は、お互いがどこで折り合いをつけるかというサジ加減、そこでもう一度立ち止まって考えて欲しいことは、相手にどこまでを要求するかということ。経済最優先の旗印の下では、そのバランスが難しいと私は思っている。
 昨夜、突然ニュースで流されたアメリカがキューバに対し、長年続けてきた断絶された国交関係を正常化に向けて変更するという。ロシアのルーブルの下落や中国・北朝鮮の関係も微妙になっている。
 ルールなき戦いというには実態の複雑さからみてどうなのか?原油価格の変動は、かなり人為的なものがあり、一国だけの問題ではない。何せ、ネットを通じ、キイ操作だけで巨万の金を動かす人達がいれば、その日の食べ物を獲ることもできない人たちが沢山いるという現実。
 今やこの実態を知らないとは言えまい。
”便利すぎる貧しさの中、自制力と想像力を衰弱してしまった日本!”、国民一人一人が政治に関心を持つということは政治を志す人と託す人達との語りが十分なされなければ、どのような政策を掲げても意味はない。
 今回の選挙で、最終的にはそこをどう修正するかが問われていると思う。その視座無くして、この複雑多様化した世界の中で日本の認められる位置を掴むのは至難の業となりましょう。
 清貧の極み・・・・これが自制心を取り戻すためのキイワードだと私は思います。
 

2728:風に立つライオン

 『風に立つライオン』さだまさしの唄を聞いて涙が止まらなくなった。何とも不可思議なことで事の良し悪しは判りませんけれど、時として心を大きく揺り動かされるような事に出くわすのです。1987年に発表されたこの歌は、ケニアで医療活動をした実在の医師をうたったもの、彼の得意とする語りかけるような曲風、バックに流れ迫る”アメージンググレース”正直、この曲がラジオから流れてきた時に一瞬くぎ付けになった。そして涙が急に溢れ、寝ていられなくなり起きだしてしまった。
・・・・よどみなく生命を生き・・・風に向かって立つライオンでありたい・・・・この曲を聴いて医者になった人が沢山いたという。そんな聴く人に強いインパクトがある。国境なき医師団に憧れ、未開地や紛争地域に入り、今も活躍している人がいる。
 彼らは自らの行為を誇ることなど決してしない。雄大な自然や穢れ無き人間の瞳の輝きに触れることの幸せを胸に、この素晴らしさを守りたいと願うのです。
・・・・やはり 僕たちの国は残念だけれど 何か大切な処で道を間違えたようですね・・・・と語り続ける。
 誰しも自らを省みることはするはずです。でも、一歩足を踏み出そうとする人は数少ないのではないか。できれば楽をしたいし、好きなものを手に入れ、苦労なしに生きたいと願う。
 たった一度の人生、来世が有るのか無いのか信じることを避け、”幸せ”を獲ようともがき苦しんで無為な時を送ることになりかねない。。
  いまこの国に再びその力を呼び戻すだけの残された時間があるのだろうか?昨日、園に来客が大勢あった。一緒に食事をした時に、例の一万円札を重ねた場合の高さの話をした。予想した通り、全員が低くみた。今の日本で最先端で活躍している人たちでさえお金の認識で実態との大きなズレがある。当然の帰結です。お金を単なる数字でしかみず、それがどれだけの価値があるのか無いのかを確かめようとしない。
 定かでは無いが、日本人はいつの頃からか我利我利亡者に成り下がってしまったように思う。あっと思うような、心に深く刻まれるような大きな感動に飢えてしまった。
 これは止むを得ないことなのかもしれない。何不自由せず、恵まれた環境に育ち、親が築いてくれた道を当然と歩むことに疑問を感じない。そこから出てくる発想は、人心と乖離した危ういものとなりやすい。また、その真逆の人生を歩まざるを得なかった人も大勢いると思います。
 何かがうまくいかなくて逃げたくなった時、逃げたらどうなるか。風に向かって立つライオンのごとく孤高の雄叫びをあげ困難に立ち向かう。逃げたら一生その後悔に苦しむことになると思うから。
  人間は弱きもの、そして、いずれにせよ”さよなら”をいう時が必ずやってくる。それへの心の準備が今なのかもしれません。
 

2729:払暁

 友人からのメールに払暁(ふつぎょう)と書かれてあった。日本語の表現は実に多様であり、特に自然や季節に対して、思いもよらない実に見事な言葉をあてている。黎明・彼者誰(かわたれ)・東雲・曙・・・・等々、英語や仏語に見られない言い回し。いずれも夜明けを表わす。本来、ものごとを白黒ハッキリさせる事は苦手(?)な日本人が西欧の文化や風習を取り込む中で、微妙で婉曲な響きを生活の中で見失いかけている。
 対極であるアメリカは、言うまでも無く多民族国家、入植移民から始まり、今に至るまで一貫して”自由”という旗印を掲げ、世界の頂に君臨してきた。そのアメリカと日本は戦後がまだ続いているという人達の話と対等の関係を樹立し友好国として崇める人達、ホンネを言えば、日本人の感覚では、どちらか一方に与することは避けたいと思っているのではないだろうか?
 いい加減や良い塩梅という言葉は、無下に否定されるものではない。寧ろ、仏教の教えは、中観でいう現実を有と無の2辺に偏ることを否とみる。(天台:三観思想)
 人間の生業や生き方は、人それぞれで良いと言う『まんだらの教え』が実はそこにあると私は信じ今に至る。暮れも近づく今、三日続けの悔やみがこれから続く。遺族の方がそれぞれ語る故人への思いは、他人が言葉を挟むようなものではなく、その方にとってどうだったのかということです。僧侶として私ができることは、真面目に心を込めて経を読むことでしかない。全世界に何らかの宗教が歴然として存在し続けていることは、その形は変わりつつも意味があると受け止められているからだ。
 私が今の仕事を始めてから利用されている方達との思い出が私の宝だと思っています。多くの別れも経験し、いま本堂の片隅に飾った遺影がその証であり支えでもある。天涯孤独と思われた方に最近戸籍上の妹さんがいることが分かった。彼は三歳の頃に学園に入所、あれから40年以上の歳月が過ぎた。実母の死に立ち会うことも許されず、さぞ私を恨んでいるだろうと思う。彼のことを思うと不条理という言葉で言い表すことは大変失礼なことだと思っています。そこに突然湧いて出たような今回の話、果たして彼はそれをどのように受け止めてくれるだろう?
 数年前、彼に病気があることが判り、定期的な治療を今も続けてはいるが、体力が以前と比べ確実に落ちたことはわかる。それでも持ち前の明るさで寮の仲間の良きお兄さん的立場を今も果たしてくれている。
 家族は、これこそ様々で一様には語れない。払暁、夜明けが必ず来て太陽が眩しく光り、闇を照らしてくれる。当たり前だと思うからその大切さを誰も感じない。先の”風に立つライオン”の唄に、どれだけ多くの若者が医者になりたいと思ったか。それを形にできたものは勿論全てではないが、少なくとも私と同じように訳わからず涙した人は多いと思う。
 いま、福祉の仕事が大きな壁に直面しています。若者が福祉に興味をなくし、関わることを避けようとしている。この現実に手を拱いて福祉の仕事を廃業にしようと真剣に考えている仲間もいる。
 顧みて、何故尚恵学園は半世紀以上この地で続けてこれたのか、この先どうなるのか!我々を必要としている人たちが沢山いるということを知っているからこそ悩みが深い。
 斯様な思いでいる仲間は、全国に沢山います。時々連絡を取り合ってお互いを慰め励ましあってはいるが、私の場合、どのようなことになっても逃げるつもりはないと断言する。
 時と共に人の意識が変わり、物の豊かさや便利さを得た反面、心の貧しさを誰もが認める時代、いまこそ、本当の意味の”福祉”を自らの事として日本人誰しもが考えるべきだと思うのです。
 変えるべきことは勇気をもって変えるべき、でも、変わってはならないことが必ずあると私は思う。
 様々な誘惑に惑わされず、このことを心に確と刻みこみ、払暁が必ずや巡ってくることを信じ、同志と共に歩んでいきたい。

2730:”hataraku"

 ”hataraku"という字を戒名に必ず入れて下さい。83歳になった父親が亡くなり、葬儀を頼みにきた喪主の最初に出た言葉だった。最初、良く理解できなかったが、「オヤジは本当に良く働いた人なんですよ」と語り始めて納得した。
 戦後の開拓で今の地に住みついた初代のオヤジさんが死んだ、夫婦二人で必死になって働いてもそれは大変苦しい生活だったそうである。その長男として親の姿をみて育ち、後を継いで農業をやってきた。
 駅の近くの為、嘗ての多くの入植仲間は土地を売り、農業を続けている家はほんの僅かになっている。そんな中、頑なに土地を守り、畑で苗木を作る仕事を今も続けている。
「親父は死ぬ間際、意識朦朧とした中で苗木の根を切る真似をして俺に教えているんだよな・・」と話をした時に目を潤ませた。

 ”働く”という意味が曖昧になっていないでしょうか?。昔であれば丁稚奉公に出て仕事を学び、そこから独立、生業としたものである。今、そんな事を言えば相手にされず、軽蔑されるのが落ちだ。教育の必要性は否定しないが、もっと大切な人間としてどうあるべきかを学ぶ時間と場が欠落していると思います。伝統や文化の重みを語れる人が減って、楽してお金を得ようとしたり便利さをどこまでも追い求める。結果はどうなっていますか!非正規労働者の増加と較差の拡大、 地方は散々な目に遭っている。多分これは今後変わるという可能性はないのではと考えてしまいます、週末でさえシャッターが閉じた目抜き通り、精々駅を利用する人たちが時折通り過ぎるだけという有様、これは全国津々浦々で嘗て賑わいを見せた地方都市の現実ではないのでしょうか。この状態が何年続いているでしょう。都会に住む人達は、恐らくそれを感じない。だが、大きな誤りをしている。それは都会の豊かさ(?)を保つために、国は天文学的な借金を積み上げてきたではないか。
 地方で住み慣れた土地を捨てる人達、日本中に空き家(テナント)が一体どれだけあると思いますか。国は調査したのかそれとも公表できないのか、貴方たちの関心事GDPの数値にどうこれらが反映されるのでしょうか。
 
 新たな芽吹きが出てくれば、それを大事に育てようとする仕組みが必要だ。そこが場当たり的で継続性に欠けると私はどうしても思ってしまう。自由とは一度掴んでしまえば失うと不自由となる。豊かさも同じ。ですから考え方を変えないといつまでたっても不安から抜け出せない。よもや昭和30年~40年代の高度成長時代をもう一度という考えではないと思いますが、今の状況はむしろ(*)ハイパーインフレへまっしぐらという感じがして仕様がない。景気対策と言いながら積み上げてきた借金の事を思うから、(*ジンバブエと言う国では10兆ジンバブエドルのお札を印刷した。戦後の日本とて全く同様だった。)
働くという意味ですが解字すれば『人+音符動』の日本製の漢字で人が活動してはたらくの意をあらわすとあります。ですから、最初から成功や失敗を考えても仕様がない。人が動けることを良しとする視点(価値観)が無ければ、それが障りとなって厄介な問題になるとみる。働く=修錬とみれば、より判りやすくなります・・・・働く=豊かさという指標では今の時代、臭いモノに蓋をして、笛太鼓で踊らされる夜祭りに思えて仕様がない。
 
  ・・・・・盆踊り 一夜ゆえの 無礼講・・・・・
 

TOP