源究1717

(NO201〜210)

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
201 足るを知る 5/1 206 会議ラッシュ 5/13
202 巨人しっかりせい! 5/2 207 ギックリ腰 5/16
203 和讃&御詠歌 5/3 208 講演会 5/18
204 危機管理 5/6 209 引きこもり&NEET 5/20
205 自分と向き合う 5/8 210 郷土を見直す 5/24
皐月の花・・牡丹・・

201:足るを知る

知足!人間は死ぬまで欲から逃れることはないのだろう。生きる力にもなるからだ。こうしたい。ああしたい。これも欲しいと欲望は際限なく広がる。その点を仏教ではどう解釈しているのか。大欲という言葉がある。自利利他にも相通ずる意味を含む。一般に言う世のため人のためということになるのか。理趣経に恒作衆生利という言葉がある。つまり自分の懐にばかり入れることではない。しかし、これが紙一重なのだ。つまり、福祉の業界は当にこの点に注意しないとならない。今、国の政治は混乱をしている。郵政民営化論争、自民党内部の意見統一は如何なものか。マスコミを意識したパフォーマンスではないのか!一般人には何か別世界で自棄に張り切っているなという傍観者の方が私を含め多いのではなかろうか!テレビ放映でオンエアー以外の遣り取りを放映するとかなり実態がわかるような気がする。国会中継終了後の廊下での議員同士の話などをスクープすると。私の母の実家は町の郵便局をやっている。従兄弟は今、他の人に局長を任せ引退している。だから全く感心が無いというわけでもないのだ。福祉の世界にも厚生労働に強い先生がいるのは確か。族議員などと御本人は思っていないだろうが。予算時期になるとこれまた永田町に陳情団が終結。業界団体の連中。全く同じ。
 他国の状況は知らない。しかし、少なくとも福祉先進国にはこのようなことは無いだろうと思う。それは何故か?福祉文化というものが根底にあるからだと思っている。日本人は先祖からの財産を守ることに必至になる。その典型が最近話題にあがった某大手鉄道会社のオーナーである。まさに時代錯誤、組織の中で誰しも変えることができなかった。ワンマン経営である。財産を減らすことに異常な拒否を示す。死んでまでお金は持っていけないということは誰しも分かることなのに。一方、昨日のテレビに軽井沢にコンサートホールが完成したというニュースがあった。某電気会社の社長が退職慰労金の11億を全額ホール建設に寄付されて完成したものだ。退職金の額も巨額であるがそれを全額寄付するというのにも驚いた。彼は異色の経済人であった。プロの声楽家から転身して世界的な電気メーカーの社長に抜擢され、最後は会長となった人である。お世話になった軽井沢に文化的施設を作りたいという考えで寄付されたそうである。
 これまた先日の話、筑波山周辺の歴史的遺産の発掘と展示、文化的施設の建設。これも私は大欲の中に入れて良いのではないかと思う。自然と文化と人間の共生である。旧筑波線の線路跡は今サイクリングロードになっている。土浦から出発するとその時期ごとに風景が一変する。コスモスの咲く時期、殿里周辺の水田には見事にコスモスが咲き誇る。のどかで時を忘れていつまでも花を楽しめる。秋の紅葉時期もしかり。昨日は27度を越す夏の暑さであった。大小の自転車を連ねてサイクリングロードをいく親子の姿を見つけた。時あたかも5月連休の初日であった。何も高速道路渋滞30キロの流れに入らなくともいいじゃない!
 首長さん!村おこし、町の活性化は何も変わった企画を立てることじゃないと思うよ。その地域地域の自然文化を楽しむ姿勢だね。マニュアルなんかないんですよ。

202:巨人しっかりせい!

開幕来、巨人の体たらく、全く情けない。あれだけ金を使って集めた選手が総合力として機能しない。批判の的は当然監督に向かう。堀内は個人的にあまり好きでない。選手の頃から言葉に何か棘があって、生意気だなーと感じていた。原監督は坊ちゃんというイメージがあったが何か清清しさを感じた。堀内には全くそれを感じない。彼なりの威厳だろうか?開幕当初は顔中髭をはやしていた。開幕来投手と打者がちぐはぐだから勝てない。
シーズン途中で監督交代か!組織のトップの能力は非常に大きい。また、トップを支える執行部の力も大きい影響がある。私は長年の巨人ファンだが、今は全くテレビを見ない。勝っていても逆転されるような気がして見ていられない。それからゲームに感動がない。勝負への貪欲さがない。ないないないなんにもない。監督自らが選手のやる気を奮い立たせるパフォーマンスが堀内にはない。
 長島監督のイメージが強いから、後を引き受ける監督は大変だろう。それは分かる。しかし、監督を引き受けた以上はやらにゃーうそだ。今年はオープン戦ではトップを独走していた。しかし、実際に開幕してから全く勝てない。しかしだ。実はこうは言ってみたものの気にはなっている。どういう意味でかというと、組織つまり施設のトップ理事長として私はその器なのだろうか?スタッフがやる気を奮い立たせているだろうか?自ら先頭になって進んでいっているだろうか?などなど。いやー 参ったな!俺も実は堀内みたいなんだなきっと。でもな。それじゃ、いかんでよ! 巨人よ しっかりせい!この 馬鹿たれめが!ああー腹が立つ。

203:和讃&御詠歌

どういう心境か!私は宗派より和讃のCDを取り寄せた。正式に習ったことがないから上手く唱えることができない。そこで俄かに独習しようと発心したというわけだ。三日坊主かもしれない。特に追弔和讃に私はこころ引かれる。
  人のこの世は長くして 変わらぬ春と思えども  はかなき夢となりにけり あつき涙のまごころを みたまの前に捧げつつ おもかげしのぶも 悲しけれ しかはあれども みほとけに救われていく身にあれば 思いわずろうこともなく とこしえかけて やすからん 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛
 和讃は御詠歌と同じ、節をつけて韻文を唱える。ある通夜に参列した時に僧侶が和讃を唱えた。言葉の意味が分かりやすく節をつけて朗々と唱えるその調べに多くの参列者が涙を流した。これは決して演出ではない。送られる人が遺された人への思いを切々と語る、その祈りが聞く者の心に訴える。和讃は昔から唱えられ続けられてきたものだ。仏教は教義というものを重要視する。教えの根本に置く経典が異なる。その結果多くの宗派に分かれて今日に至った。本来、悲しみを共に感じ、涙し、慰め合い、死を受け入れ、そのことで心が癒され、亡き人への感謝の気持ちと後に残る者として力強く生きることを遺影に誓い報恩の道を歩もうとする。その宗教の儀式が本来の姿ではなかったのか。以前にも記したことだが、今やセレモニーとして葬祭業者の様々な演出?により厳粛なるべき葬送の儀式が執り行われている。最近は市場原理が最後の儀式の中でも見え隠れする。つまり、良い葬儀という中身が全く狂っているのだ。参列者が多く、経費が嵩む葬儀が業者からみて良い葬儀という。
 派手な見送りを好む方にはそれでよい。しかし、静かに本当に悲しみを共有する方だけでの葬送の儀を望む方も増えている。いずれ、淘汰され本来の姿が残ると信じる。

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204:危機管理

JR脱線事故が起こって連日、マスコミによってJR内部の危機管理体制の不備が暴露され、被害家族はもちろんのこと一般の人々の怒りが最高点に達している。何故かと問うことすら馬鹿げていると感じてしまう。経営幹部だけの問題なのか!否、否、そうじゃない。人命最優先の輸送サービスという認識が欠如している。社内のルールが一般常識に優先している。社内規則はむしろマニュアル化されたどこにもあるようなものであろう。JR西日本は社員3万2千人というマンモス会社、その中で細かに区域が分かれ、他との業績の競い合いが起こっている。その結果マイナスの情報は隠蔽する体質が自然に生じてきた。サービス業の宿命であろうか、24時間365日の業務である。運営管理が複雑化し、緊急の情報がスムーズに流れない。故に、JRの関係者が説明しようとすればするほど内包された問題がさらけ出される。目先の対応では解決できないことをいま誰がどのようにして改善していくのか。
 当然、現在の経営陣は責任を取って辞めていくだろう。しかし、問題の根本解決は首のすえ替えだけでは出来ない。むしろ、問題をうやむやにするだけ。国鉄から民営化されたJRが以前として負の体質を持って今に至っている。
 第3者を今まで以上に多元的に導入すべきである。一昔前までは労働者と経営陣との対立があって処遇の改善などの要求をしていた。ストライキによって利用者が不便を余儀なくされた。今、JRは労働者(現場)と経営者側が協働して問題の解決に全力を挙げるべきである。
 また、我々交通機関を利用する者にも一考すべきことがある。朝夕のラッシュ時間に他人の迷惑など関係ない自分だけがよければという者が目に付く。これらのルール違反を起こす利用者が多ければ多いほど時間のロスが生じ、運転手への負担が増える。首都圏の電車運行の実情は世界に例がないほど過密化している。人がある時間帯にのみ集中するから、そのような現象が起こる。これは、国全体で考えるべきことである。
 今回の痛ましい事故が繰り返されないことを誰もが望んでいる。JR西日本だけの問題ではなく日本人全体が考えていくべきことである。

205:自分と向き合う

永遠のテーマだろう。自分と向き合うこと。日々の生活の中で果たしてどれだけ自分の事を考える時間が持てるだろうか?遣り残したことが頭から離れず、どうすれば良いのかと思い煩う。多くの先人が同様の思いを持って旅立っていったことは確信できる。一人の力で出来ることなどほんの些細なこと。いや、それとて一人の力で成し遂げたことではない。多くの有形無形の支えがあってこそ成しえたことだ。今月届いた本に滋賀県の大木会(社会福祉法人)の糸賀、田村、池田の3人の先生方の写真と記事があった。近江、一麦、信楽と夫々の先生が残された学園がいま大きな木となって聳えている。私は2度ほど訪問したことがあった。素晴らしいな。別に施設の中を案内されなくとも正面玄関に立っただけで分かる。2回目は15分という短い時間だけの滞在で満足した。これは一体何故なのだろう。苦労を苦労とは思わず、喜びとする。真剣に生きた証。その伝統が今も引き継がれている姿を確認できたからだ。糸賀先生とはお会いして話を伺うことは出来なかった。しかし、先生が書かれた本を通じてお考えを垣間見ることはできる。田村先生、池田先生には実際に会って話を伺った。決して自らのことを自慢することはなく、自らの夢や思いを熱く語ってくれた。それが私の財産となっていることは確かだ。
 こんなことを書く気持ちにしてくれたのは直木賞作家、山本一力さんの話をラジオで聞いたからである。高知県で生まれ中学3年の時に上京、住み込みの新聞配達をしながら学校(工業高校)を出て、自ら事業を起こし、事業拡大の絶好機が長くは続かず脆くも崩れ倒産、膨大な借金を背負った。一生働いても返せない金額をどうするか。自己破産を薦めた方も多くいたというが、自分は楽になるが、自分を信じて貸してくれた人達への裏切りになると考え、その方法はとらなかった。ここに彼の真骨頂がある。
資金がなくても出来ることは何かと考えた末に選んだ道が、鉛筆一本で出来る作家の道だったという。見事直木賞(2001年第126回「あかねの空」)を受賞、授賞式の時家族で自転車に乗って駆けつけたという。彼の話からは有名な賞を受けた作家に往々にして見られる慢心の欠片もない。何か、聞く人の心を動かせる雰囲気をもっている方だと感じた。今時、成金主義で権力や地位を掴もうと躍起になっている輩は捨てるほどいる。残念であるが、これは日本が豊かさを得た後の負の代償である。ここで本来の姿に立ち戻るためには自分と真剣に立ち向かった先人から学ぶ姿勢が大切だと思った。知識として誰もが持っていても実践が伴わない。簡単に自分の考えを変えてしまう。楽な方向に直ぐに進もうとするなどなど。55歳を迎えるにあたり、人生設計の再構築をしなければいけない。
 

206:会議ラッシュ

4月、5月は会議のラッシュ。役員や委員を頼まれているのが20位あるかなー。それが一斉に会議時期になる。全てに出ているわけではない。1日に3つ掛け持ちという時もあるからだ。そして、寺の用事が途中に予定無く入ってくるからメチャクチャになる。優先順位が日々変わるから相手にとっては偉い迷惑だと思う。半分以上は辞めたいのだが、どうもそう上手くは断れない。なんでも引き受けるからだよという影の声が聞こえる。それを敢えて否定はしない。企業では電子会議などが主流になっているのかな!福祉や寺の業界では皆無だね。決算書なんか途中で逃げ出したくなる。数字の棒読みに耐えるのは大変だ。これどうにかならないのかね。
 どこの国でもこんなことやっているのかな?先日、オーストラリアに15年生活している甥っ子と久ぶりに話すことがあった。西オーストラリアのパースという町にいる。彼は高校卒業と同時に渡っていった。向こうの大学を卒業し、今、留学センターなる会社を自分で起こしてやっているようだ。全く儲からないと笑って話していたが、どうも儲かる仕事って逆にどうなんだろう?つまり、日本人の留学感覚?いかがなものかということだ。1年間のワーキングビザでモコ探しの女性やブラブラ組みの若者が多いという。この人達を対象にして金儲けと考えると本人は悩んでしまうと話していた。根が正直なんだよな。
 仕事が全てではないとは私も思う、しかしだ、これは若い時から必死になって働いてきた者に与えられる慰労金みたいなもので、初めからフーテンではいかがなものでしょうかね!生活をエンジョイしながら自然と共に生きられたら究極の理想。それができない。
 恒例の会議に義理で出席し、資料が山積みされる。正直後で書類を処分するのに難儀する。日本中いたる場所で同じようなことが繰り返されている。資源の無駄じゃないの。私は流行に遅れまいと、いち早くPCを導入、ケース記録などPC管理をしている。今、個人情報保護法やら情報開示など相反する制度の中で省力化されたどころか余計複雑になってしまった。便利さと裏腹に不便さは交互に繰り返されている。そこをビジネスチャンスと考える輩も多い。どうなっちゃてんの。訳がわからない。
 私の夢はいずれ南洋の島かななんかで魚採りしながらのんびり過ごす生活だ。しかし、どんどん夢が遠ざかっていくような夢を昨晩みた。

207:ギックリ

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いやーダメだ。全くどうしようもないな!今度はギックリ腰ときた。寒暖の差が激しい梅雨の時期は多いようだが、まだ5月ちょっと早いか。最近この欄に書くことがどうも体調のことやら愚痴などとマイナス思考になっている自分を感じる。どうしてかな?私の本質はこの辺にあるのかもしれない。虚弱体質人間。それを無理やりニンジンをぶら下げて前に走ろうとしているのかもしれない。実のところは良く分からない。今日、薬局でコルセットを買ってきた。病院に行けば保険でいただけるのに、目に付いたものだから買っちゃったわけ。慣れない物を腰に巻いたものだから歩き方が異様。会う人会う人に「どうしたの?」と聞かれた。窓ガラスに映る自分の姿を見た。やだよ、これ本当に俺かよ?まいった。でも、腰痛になって同じ病気で苦しんでいる人の気持ちが分かる。これホント。世の中には医者嫌い薬嫌いの人がいる。がまんして直しっちゃうんだそうだ。自然治癒力というものか。我が家の花子(猫です)もそうだな。舌でペロペロ舐めて直してしまう。すごいよな花子はなー!今回のギックリ腰の原因はそれとなく分かっている。
足踏みの運動器具だと思う。娘が買って誰も使わないものだから、私が時々使っている。それを無理して3日間続けた。5年前にはフルマラソンを走ったという自負があった。なんだオモチャじゃないのこれ。それがこのざまだ。この年齢になるとあっちこっちにガタがくる。血液さらさらとか言って薦められたバナナ、これだっていつまで持つか?黒酢を飲んだり、青汁飲んだり、薦められると直ぐにやる、この努力はすごい。しかし、長続きしない。こんな中年の男は私だけではないだろう。
 思いかえす事は昔とった杵柄ばかり、山歩きをやっていたときは40キロのキスリングを背負った。護国寺の階段を人間背負って何度も往復した。それが今頃出たのかどうか!今日は買い物籠すら重く感じた。今にみてろよ。
 努力あるのみ!

208:講演会

ある会合で1時間ばかりの話を依頼された。夜7時からの集まりだった。場所は国民宿舎『水郷』。ここは支配人が民間ホテルからきており、昔風の公営の宿舎の沈滞したイメージが一変し、スタッフの接客態度が明るくなり、それと同時に集客力も増えた。また、設備も改修してお風呂専用棟を増築、日帰り入浴客も400円で受け入れている。実は尚恵学園の親子、職員全員(約300名)でのレクレーションの集いを7月に企画している。その下見も兼ねて早めに会場に出向き、風呂に入ることにした。浴室はあまり広くはないが2階にあって窓から霞ヶ浦が展望できて、実に素晴らしい眺め。残念なのは休憩室が1階なので何回も入浴するのには少し不便と感じた。しかし、400円という値段からすれば申し分ない。私は前項にふれたように腰に違和感を持っていた。入浴は体に良いと思ってちょっと長湯になってしまった。腹が減ってきた。それから頭がボーっとしてきて眠気がさしてきた。7時から私がOHP持参で話すことになっている。もういいやこのまま帰ろうかな!前段の話を始めてやっと本題に移ろうとしたころ、隣の部屋からカラオケで『北国の春』?なんかが聞こえだした。50人ほどの宴会真っ盛り。私が話す内容はといえば「障害者福祉の今日的課題」。
もうこれ以上書かなくとも良いでしょう。最初から何を話すか決めてこなかったから良かった。臨機応変。
 結構いろいろな場で話す機会があります。しかし、話す環境のセッテングは重要ですね。それから、参加者の中身が全く知らないというのもチグハグしますね。へんな腰格好でスクーリンを運びこみ、その甲斐あってかどうにか私の誠意は通じたような気がしました。お蔭様でした。

209:引きこもり&NEET

全国では引きこもりやNEETと言われる人が大勢いるという。NEET(Not in Employment,Education or Training)という言葉は耳慣れない方も多いことでしょう。「仕事をしていない、学業についていない、就職しようと職業訓練をしていない人」のことを呼ぶ。原因は様々であろう。その形には4つの型があるという、@ヤンキー型,Aひきこもり型、B立ちすくみ型、Cつまずき型。但し、確実にいえることは働かなくても食っていける状況があるということ。それほど贅沢しないと思えば、日本中24時間何か食べ物を売っているところが見つかる。自給自足ということではない。半世紀前は無我夢中で働き、その糧によって食べ物を調達した。一方、引きこもり、本人からすれば自ら好き好んで引きこもっているのではないと思う。他人との関係を上手くできないとか、社会の中で積極的に生きることを拒むわけだ。私は家族の中にそのような状況のものがいたら、周囲の人は何か腫れ物にさわるような気分ではないだろうかと思ってしまう。現代は自分の部屋から一歩も出なくても情報はいくらでも入るし、食べ物に不自由はしない。それだからこそ引きこもっていても生きていける。世の中の変化が早く、緻密で複雑ときているからだと思う。マスコミにも責任が多いにある。報道の自由ということが度を超えて個人の権利を侵害したり、興味本位であげつらう番組がおおい。それなら見なければ良いじゃないか!残念ながら電車の中でも駅のホームでも情報が氾濫しているから様々なニュースが眼に飛び込んできてしまう。いき過ぎた情報社会の中で必要なものだけを選択して生きていくのは至難の技になっている。逆にそれを避けるためにはある一定の場所に引きこもり情報遮断する以外にはない。だから少なからず現代を反映した現象がひきこもりといえる。
 そこでどうすれば良いのか!大分昔の話だが坊さんの修行の一貫で本山(奈良長谷寺)に1ヶ月入ったことがあった。短い間だったが、その時は新聞もテレビもみることは禁止された。朝の5時から就寝まできっちりとスケジュールが決められていた。退屈はしなかった。むしろ1日を充実して過ごせた。なぜなのか!世の中の流れに関係なく寺の中で生活をするからである。そして、期間が限定されている中で自分に課した目的をはっきりと自覚し納得しているからである。今がどうか!無目的に且つ世の中の変化に右往左往して生きている。自分たちで工夫すれば今この時から実はできるのだと思う。車を利用する替わりに歩いてみる。スーパーで食材を買うのではなく山菜を摘んでみてはどうだろう。レストランで食事をするのではなく川の土手に腰をおろしておにぎりを食べてみたらいかがなものか!決して無理するのではなくあくまでも自然体で。しかし、恥ずかしいことだが私の生活は全く逆の生き様なのである。これは引きこもることより出て歩くことに喜びを感じる典型的なタイプ人間だからと納得している。

210:郷土を見直す

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最近遠出をしなくなっている。時間の余裕もないのだがそれより体力的に気になっているのが正直なところかもしれない。持ち前の動きたがりの性分は変わらない。先日は大岩田の国民宿舎水郷に行ってお風呂に入ってきた。400円だった。昨日は会合の合間を縫って、乙戸沼の周辺を歩いた。1週25分位かかるから結構な距離だと思う。お金かからず。駐車場には丁度日陰になる桜の木が沢山あって、無料の駐車場にて車の中で休む。泊まって休んでいる人も多く、ナンバーをみると全国区である。つくば市に近いせいもあるのだろう。沼は公園になっていて魚つりもできる。先日通勤寮の2名の仲間が自転車で魚釣りに来ている。彼らは本当にお金をかけないで遊べる場所を上手に見つける。地元にいて中々地元の良いところを気づかずにいる人が多いと思う。土浦は今回新治村との合併になる。どうも近隣の町村からは土浦と合併するのを嫌っているとの風評がある。人口は確かに行政の評価にはなる。しかし、どうなのかな?いくら町の人口が多くとも地元に魅力を感じ住んでいる人の満足度がなければな!実は週末になると県外から多くの魚釣りの愛好者が土浦の霞ヶ浦湖畔にて釣り糸をたらす。蓮の田圃の中で魚釣りができる場所が全国でどれだけあるか?また、景色が良い。関東の名峰、筑波山を眺めながら、それから東の空を眺めると丁度成田空港への着陸コースに霞ヶ浦の上空があたっている。海外の航空会社の便名がわかるくらいの高度で飛んでくる。旅愁を起こす。そんな郷土土浦に住む自分を今密かに喜んでいる。