源究187

  

N O  テーマ  月日  N O  テーマ  月日  N O  テーマ    月日  N O  テーマ   月日 
 3251  乱高下  2/9  3256  悲憤慷慨 2/28  3261  今が一番若い  3/16  3266  場所さがし  3/30
 3252  頑固or律儀  2/13  3257  リコール 3/3  3262  ルールの周知  3/18  3267  バナナ  3/31
 3253  夢が目を覚ます  2/19  3258  どう感じるか? 3/7  3263  死者の叡智  3/20  3268  新元号雑感  4/3
 3254  古い人間で  2/23  3259  梅・・さくら  3/10  3264  政治を弄ぶ罪  3/24  3269  誕生日  4/8
 3255  新しい人間って  2/25  3260  是々非々  3/12  3265  彼岸  3/27  3270  見極める  ☆

   おお 寒ウ~

おいでやす

2/10/am6:00


3251:乱高下

 暮れから殆ど雨が降らなかったが2月に入って周期的な寒気団に見舞われている。早朝 外を見ると薄らと雪化粧、本日 昼頃をピークに大雪になる予想、雪に不慣れな関東平野部は交通網が大混乱するかもしれない。茨城県が最高気温が0度というのは今冬一番の冷え込みである。一日の気温差が20℃になるのも何度か経験した。春一番がどうなったか、立春が過ぎ 春の訪れを日本列島何処も待ち望んでいる。
 乱高下はお天気だけではない。今更 言うまでもないのだが 不安を煽る事件や憤慨に堪えない事象が多すぎます。平常心を保とうとしても 足を掬われ 立っていることも儘ならない。こういった事も慣れてしまうのでしょうか?
 私の拘りは益々強くなる。何もない日には 軽トラックに道具満載にして職場に向かう。暫く放置しておいた竹林に挑戦だ。平坦な場所は作業も捗(はかど)った。友人にユンボで大きな穴を掘ってもらい、そこで木の枝や竹を燃やした。あっという間に終わった。それでも1週間はかかったかもしれない。次に土手の竹山に相棒と一緒に挑戦し始めた、枯れた竹が縦横に倒れ、それを除去するのが大変、足元が覚束ない傾斜地での作業。数度転げ落ちた。幸い怪我はなかった。
 畔の草刈り、田お越し、それと蓮田に顔見知りの農家の人がチラホラ仕事をしている。昨日は大型トラックがぬかるみに入って二進も三進もできなくなり、作業中の農家の人に応援を頼んだ。4駆の軽トラック威力に脱帽、その時 相棒が・・・・≪だから いったっぺ~。手で運んだほうが良いよって≫ 独り言だった。
 
 ユーチューブで日本の歌を開くと森山直太郎の『さくら』宮城県の某女子校コーラス部との合唱だった。自然と涙が出た。春に咲く”さくら”を待つ人たち 日本を襲った数々の災害にめげず、いまこの時も懸命に生きている人達がいることを改めて考えた。自然の厳しさと美しさを両方知っている日本人が情緒を大事にするのは こういった理由があるからだ。厳しさは緩んだ気持ちを引き締め、美しさは荒んだ気持ちを慰める。日本が今抱えている課題を試練と考えれば良いのだろうか。他国の事をトヤカク言う前に日本の歴史に目を向けたほうが良いと私は思っている。今は数字に振り回されている。ヤレ 順位が上がった下がったとか  そして 気が付けば 自分達がその数字の奴隷となっている。 大部分の真面目に仕事をする人達が 何の為 誰の為か判らず 事が起これば その責任を取らされる。恐らく 自然は そんな今の日本人を憐れみ悲しんでいるはずです。
 いつの間に夏川りみの『』になった ・・・・泣きなさい 笑いなさい いつの日かいつの日にか花を咲かそうよ♪・・・・
 そして次は さだまさしの『風に立つライオン』・・・・・ やはり 僕たちの国は、残念だけれど 何か大切な処で 道を間違えたようですね・・・僕はよどみない生命を生きたい・・・と歌い上げる

 AI技術の最大の壁は 人間の感情をどう扱うかということだと思う。未知の世界に踏み込むことに 何の躊躇もなく 寧ろ 勝ち誇るかの如き振舞は 人生100年の計ぐらいの短期間のことではないはずだ。これは人類の歴史始まった時からの永遠の課題なはずで 脇に置き 他の事に夢中になる。 それは それだけの価値が本当にあるのだろうか?、
 ☆棚卸の時期はいつだったか?”三本の矢”はそろそろ倉庫にしまって 上の”3つの歌”をみなさん一緒に歌いませんか。

3252:頑固or律儀

 頑なさと律儀への評価は今日 大分変わったように思います? ・・・・教以人倫 父子有 君臣有 夫婦有 長幼有 朋友有「孟子」・・・・ 古来から人倫の道として人と人との秩序、守るべき道を軽んじれば国は亡びるとの教え。
 親・義・別・序・信  漢字一文字一文字に込められた意味を人は噛みしめながら生きるよう諭した。今 盛んにはやがねが鳴る、大人が子供達の範とならず 浮かれ血迷ったように 自己の満足を追い求める。それを自由と誤解し豊かさとか平和という”怪し火”で路を照らして 果たして道を迷わず目的地に辿り着けるのだろうか?民信無くば立たず 座右の銘にあげる政治家は多い。実態は 言葉が軽く欺瞞に満ちた言動が溢れている 
 『メリー・ポピンズリターンズ』(吹替版)の映画を観た。半世紀前(1964年)にジュリーアンドリュースが主演のミュージカル映画、今回はそのリターンズで続編となる。今回ポピンズを演じたのがエミリー・ブラントで前編とは違った役柄を演じていた。
 映画の大筋は 一年前に妻を亡くした銀行家マイケル、長年住み慣れた家を借金の抵当に取られそうになる。そこにポピンズが傘を持った例の姿で空から降りてくる。次々に身に降りかかる災いに家族の絆が壊れそうになるのを 救世主ポピンズの魔力で救っていく。結末は 欲得に塗(まみ)れた銀行頭取が 最後は信用も財産も全て失い、一方 家族の絆(愛)を守り通したマイケル一家は自宅を取戻し 以前の生活に戻れるというもの・・・・・ 
 初編は1910年の大恐慌時代が舞台、その時の厳格で気難しい銀行家バンクスの子供が今回のマイケルというシナリオである。
 
 久しぶりの雪景色とは対照的に 政治に対する失望は もうどうしようもない状態になっている。ハッキリ言って国会が劇場化してしまった。前もって配役が決められシナリオに忠実に上手く演じられたものが評価される。私たちの国の民主主義の根本が揺らぎだしたのはいつ頃からだったでしょうか?
 質問する側も それに答える側も 演目を次々に変え観客の疎らな劇場で それも変わり映え無い顔触れでロードショーを演じているようだ。こんなデーターがある。先進国で2世・3世議員は日本が断トツに多いという。主役を変えても 何も変わらない。この諦め感で 息苦しさを感じてしまうのは私だけでしょうか?
 おいで!おいでよ そっちより こっちのほうが良いよ。この呼びかけに応じてしまう軽さ。ここに頑なさと律儀、それを守る信義と覚悟は感じない。多分 例の不正問題も曖昧なまま 誰かに責任を負わせ幕を閉じるつもりなのだろう。
 ” 二度と同じ問題を起こさないよう 正常な組織の立て直しに専念し職責を果たします ” 日本語では 三度目はレッドカード 即退場と思うが どうも あそこの劇場だけは違うようだ???? ルールが有って無いような別世界、いずれ相手にされなくなると思うが どうも御育ちが良く煽てに乗り易い人達なのかも知れません。幸か不幸か  明日から2日間 私が住職する寺に税務署が入る。改めては何も用意せず 有りの儘をみてもらうだけ その覚悟はいつも出来ている。
 
 後ろめたさを感じるのは 姑息なやり方や自分を偽るからでしょうね。それが無ければ怖いものはない。後ろめたさを隠そうとすれば 更に偽り続けねば 気が付けば 自分を失って後のまつり。良寛さんだったか誰だったか?あの生き様が未来へのヒント。
 因循姑息・・・その場の一時凌ぎは 戯れだ。
 寒風の中で竹林と悪戦苦闘、竹用のチェンソーを買って 目指すは 京都東山? 目標は高く持て!今まで支えてくれた多くの人達に心より感謝 それに報いるのに何が出来ると考え、出た結論は 環境整備、先ずは足元からと ・・・・・。
 荒れた場所にはゴミを捨てる。綺麗にしたら ゴミが減った。どんな人にも後ろめたさはあるだろう。思いがけず病気になり考えた。病は誰の所為でもない ただ 向き合うのは自分 因循姑息は有りえない。それからは寺周辺を両手にステッキを持ち徘徊が始った。お蔭でワンちゃん同行の知り合いも増えた。
 そこで思った。有効な時間の使い方? スマホ内臓の歩数計、同じ1万歩なれば山掃除で切った枝を運ぶ歩数も同じ。更に判ったことは汗をかき達成感は何にも替え難いとい事だった。単純様相 三段論法でそこに帰結した。
 幸い 周辺には利用せず手つかずの土地が沢山ある。そして浮かんだ構想は 遊歩道 四季折々の花を咲かせ 自然を肌で感じる。途中にベンチを置き 茶屋も作ってしまえ。原資が無ければ何もできないと形振り構わず何処もかしこも金かねカネ もういい加減にしませんか! 使っていないものの再利用、他は手作りでいいね どうにかできるかも。 
 そう思った途端 夢が目を覚まし イライラが減って 気持ちが晴れてきた。

3253:夢が目を覚ます。

 良かれと思って考えた事が 待てよ! こんなはずじゃ~無かったと そんな体験がありませんか? そこで元に戻れば良いのに 何故か それが出来ない。 もっとのんびりゆっくり歩こうよ! 産めよ増やせよは 戦後 焼野原となった国土を目の当たりにした日本人が立ち上がるエネルギーだった。いま豊かさは曲者だと言えば爪弾きにあう、でも 良く考えてみなよ。首を傾げたくなることってありませんか。豊かさを獲たら満足どころか空虚感が残った。節分の後売れずに破棄された恵方蒔きが10億円という。これって変だと思いませんか?
 日本人が忘れたもので何が浮かびますか。塩梅加減の判断力ではないだろうかね。イケイケドンドン・・・日本全体がこの症候群にスッポリ浸かってしまった。深刻なのは そうなった病態の原因が判らないこと。良かれと思ってやってきた事が果たしてどうだったのか 間違いを感じても修正できない。例えば食べ物を感謝して頂きなさい!「いただきます」これができない。 節分という意味だって分からず なんとなく それとなく・・・・ 福は内 鬼は外・・・。
夢が目を覚ます。日本語としてオカシイですか???? なんとなく それとなく。 
 
 夢・・・・なんでも有り社会だから 将来実現したい願いが逆に持ちにくいってことになっている。流れに掉さす。本来の意味は棹を使い流れを下るように、大勢のままに進むことだった。大勢は 世の成り行きです。それを正確にどう掴むかが 怪しくなっているから。
 世界の趨勢をどう見るか、実は日本人が一番苦手とするものかもしれないね。島国ニッポン! グルーバル化がどんどん進む世界の中で どう棹をさして 進んでいけば良いのか。その舵取りは 過去には無かったから手探りしかない。
 そこで数々出されるデーターへの信頼度に問題が起こった。
 昨日 葬儀がありました。奥様を亡くされ 喪主はそのご主人で 90才になる。故人は50代で病気が判り その後の30年は闘病の車イス生活だったと聞いた。戦争中 住んでいた日立市で 艦砲射撃にあって必死に橋下に逃げて命拾いした。その奥様が長年使っていた車イスに寄りかかるようにして喪主のご主人が弔問客に頭を下げていた。火葬棟に向かう時 位牌をその車イスにのせ ゆっくり押しながら向かった。参列者に気丈に振る舞う姿が 印象に残った。
 夫妻には3歳で事故で亡くなった長男がいた。荼毘を終えてから 真っ直ぐその墓に埋葬された。
 
 
 昔を懐かしむ事は イケナイ事でしょうか? 過去現在未来 何が大事かを考えると どうしても 人間の生き様が問題となってきますよね。私がもし僧侶になっていなければ 多分 人の最後(死)にそれほどの関心は無かったと思います。
 昨日 ご主人を早く亡くされ その後60年もの長い間一人で子供さんを育てられたおばあさんの49日忌法要がご自宅でありました。二人の曾孫さんが今まで家の中を走り回って大騒ぎしていたのを読経始めるとパタリと止めて神妙に座っていました。
  今の日本で失われたものが この家では普段から守られてきていると思いました。
 子供の躾をどのようにしたら良いか判らない大人たち? 国は児童の虐待防止法を急いで改正するという話です。私は 今更 騒いでも遅いと思っています。 そうじゃないでしょうか? 何処の誰がその検討をするというのでしょう。自分達のことは扨置き 何をどう変えるのかですよね。罰則を強化することでは 無くなりません。戦後 日本が手を抜いてきた結果 もう どうしようもない状況があると考えるのは思い過ごしでしょうか?
 日本の法律で 一番の欠陥条項は 権限を有する人達が法の網をうまく潜れるという事を範として示してきた。この由々しき事態に ホッカブリしようとしていないでしょうか?何かが起これば 即 法改正 核心なき一時凌ぎにNOと言えない大人たち  益々良く判らない国となってしまいました。
 『しています』と「させて頂いています」の違い、この差が判りますか?
 難しい統計手法を論じ合うよりも 貴方達に欠落しているのは 謙虚さだということでしょうね。 

3254:古い人間で・・

 昨日 病院の待合室にいたら 大きなマスクで顔が判らない男性がウロウロ。ヒョットしたら???。声をかけてみた。最初はポケーンとしていたけれど 『俺も福ちゃんかな~と思っていたんだよ』 小学校からの同級生、もう随分長いこと会っていなかったから お互いおぼろげな記憶、でも 凄いな! 若い頃の記憶は 間違わず 残っているものです。それも 同じ診療科だった。私より病院付き合いはベテランで 大分前から 通っていることを知った。
 前回もそうだった 知り合いと病院で偶然に再会した。これもまた 同じ診療科 『この歳になれば 薬を飲んでいる人が殆どだし 何個飲んでいるんだい?』どちらからともなく そんな会話をしてしまう。大きな病院の待合室 悲喜交々 不謹慎かも知れないけれど そこでの人の動きを見つめていると 実に面白い。。 主治医がこの四月から違う病院に移ると伺った。半年足らずだったが とても親切で分かりやすく説明してくれお世話になりましたと伝えた。
  道を究めるには 生涯学ぶ姿勢が大事、医療の最前線は毎日が患者と医療者の関係の中でそれが活かされる、双方に満足できる結果になるとは限らない。世話になった若いドクターの口癖は≪一緒に頑張りましょう!≫だった。
施設の仕事も同じだと思っている、我々支援する側と利用する側、思いもよらず その関係がギクシャクすることがあります。その時 どう対応したかが大事。出来ない理由を挙げれば切が無く、僅かな成功体験があって 続くものかもしれない。でも成るようにしかならないとは 真理です、そこにいろんな事が絡むから 訳が分からなくなってしまう。
 歳を取り古い人間ですと遠慮しながら生きているのは 如何なものか! 長く生きてきただけに多く修羅場を経験したと思えば、どうだろう・・・・。 今の時代こそ 老人パワーの見せどころ 病院にいると 何故かそんな事が 沸々と。
 
 ボケ防止になるのだろうか? この一週間 パソコンと格闘していました。現在 私は三台のパソコンを使っている。パソコンを使い始めたのは 早かった。その寿命はどれ位? 5年位だと聞いたことがある。使っているOSで古いのがウインドウーズXP、これは もう大分前に保障期間は切れている。主に使っているのがウインドーズ7だが こちらも後1年で期限切れ? メーカーの都合もあるだろうが どうして こう頻繁にOSやソフトを変えるのか? 
  今回 今まで使ってきた機種とソフトとの相性の悪さ?で不具合が起こった。寺の会計は ソフトが大分古い、判っているが 変更できなかった。慣れ親しんだものを 新しくする勇気がなかった。そこで思い切ってソフトを最新のに変えたら 今までのデーターが上手くプリント出来なくなった。使用説明書と睨めっこ どうしても駄目、 幸か不幸か 税務署が入っている話は既にしたと思う。必要なデーターをプリントしようとしたら なんと印刷できない。それから奮闘が始まった。 機種(OS)の能力とソフトの相性か?
 机の周りには 上手く稼働した時の操作手順を書きだした貼紙が一杯、今回 判ったことが2~3ある。ウイルス対応ソフトの邪魔、これが厄介だ。否、正常にウイルスソフトが働いているということだろう。 どこかで同じような話があるように思った。そうだ 国境の壁づくり。
 ま~ いいや! それよりもこちらが非常事態宣言だ。それが なんと昨夜 解けた。なんてことはない。壁(ウイルスソフト)を切ったら プリンターが動き始めた。
 市場メカニズム これだって人間が考え出したもの。 所詮 人間が考えたこと 便利さと不便は表裏の関係?失敗は成功のもと?自分の為か相手の為か???? 最悪の場合 手書きでやろうと覚悟したが 今の処 そこまでやらずとも済みそうだ。機械に責任を負わすつもりはありませんよ。
 
 竹藪(たけやぶ)との格闘も天気に左右されるから 思ったほど進まない。でもやっと半分ぐらいは綺麗になりました。平坦地であれば もっと作業がはかどるのだが 急傾斜地に足場を確保しながらだから 悪戦奮闘。途中からヘルメットを付けた。縦横に枯れた竹が倒れていて いつ頭の上に落ちてくるか判らない。余分な竹を切りながら枯れ枝を運び出す、そして 掘った穴の中でNさんが燃やす。何しろ 何十年と掃除をしたことがなく過ぎた竹林である。
 竹の生命力は 計り知れず。次々にタケノコが生え 直ぐに密林と化す。
  竹にとって生育に良い環境は 適度の間隔があること、それは人為的に管理しなければ できない。 作業するのに一番良い時期が春になる前、この時期である。
 高が竹と馬鹿にするな! 一本で大人の体重位の重さになる。そして 地中に張り巡る根は 昔から土手崩れを防いでくれた。
 竹には節がある。節は高く伸びるためにあり、軽さと強さとしなやかさを併せもつ理想的な構造、それを「自律的」に形成しているというのです。

     ⇔  
   before    after

 

3255:新しい人間って?

 春の兆しを感じるようになりました。それに身構える人達も多いと思います。花粉症の時期到来、目を赤くしてクシャミ、鼻水と尾籠な話が聴こえてくる。インフルエンザと花粉症、その予防策のためにマスクをする人も増えてきた。私は育った環境が杉が生茂る所だった為か 花粉症にはならないで済んでいる。だが いつどのように 体が反応するか わからないから油断できない。
 古い人間は”時代遅れ”人間か?
・・・・・目立たぬように はしゃがぬように 似合わぬことは無理をせず 人の心を見つめつづける 時代おくれの男になりたい ♪・・・・・
 NHK 特番『阿久 悠 歌は時代を語り続けて』で河島英五が唄って大ヒットした歌である。丁度 その年がバブル景気の終焉とダブる。 今の時代を詞えば どんな風になるのだろうか?一世風靡したフォークソングも70年~80年代が隆盛期、丁度70年を挿み私が東京で過ごした時期と重なる。頂点に達した学生運動の熱気は東京から地方に流れた。誰も疑わなかった(?)景気浮揚策は 結局バブルの崩壊を迎え その後の 長期デフレ社会に入る。酒場の片隅で独り 好きな酒を飲む男は 嘗ての企業戦士か? 個と社会を風刺した目立たず はしゃがず 無理をせず。。。。 今も 密かに謳われる”時代おくれ”の曲の背景には 時間差にめげずに共通する世相を感じるのです。
 日本人が信義や常識をも失い 景気第一とはしゃぎ過ぎていないか? もし それを時代を築く”新しい人間”と呼ぶのであれば 1991年のバブル崩壊以上に 人として在るべき姿、核心と良心をも失う危うさではないか。
 共生は何も人間と人間だけではあるまい。自然との共生ができて 初めて人と人の間の問題を語ることができるはず、このボタンの掛け違いを どうも 理解しない人が自らをフロントランナーと称する人達に多い様に思ってしまう。
 
 自称フロントランナーの宿命は 不安と偽善から抜け出せないことかもしれない。本心からでは無く、みせかけにする善事、言い訳と圧力を繰り返し その終末は孤独と大衆迎合の紙一重に唖然とする、その人個人の問題なれば 自己責任で済むかもしれぬ。 立場によっては他への影響が計り知れないから悠長に構えてはおれまい。
 紙一重というのは 正義と不正、豊かさと貧しさ、安全とリスク、便利さと不便さ・・・・・・ 物事にはこの二面性があり、どちらを選ぶかは人間の判断能力を超えたもの、だから、そこに”大いなる”ものの存在価値があるという。仏教で謂えば、”密”と”業”の二極化である。今日は 沖縄の基地建設の是非を問う県民投票がある。
 身口意や心技体に通底するものは  人は自分自身の道を持てということになる。人の心を見つめつづける 時代遅れの自分でいたいという歌詞が何故 こころに響くか???? その一つの事由としては 社会が”物”の豊かさに偏り過ぎたことにあると言われてきた。いつの頃からだろう?政治家・社会福祉事業家がいなくなり 政治屋・社会福祉事業屋が増えたという。これも時流ということで受容しろということか? 
 懺悔・自戒を忘れず 必死に押し流されぬようもがく人を何人か知っている。その人達に共通するのは 決して 自ら 自分を誇ったり美化するような言葉は発しないこと。それをも時代遅れと言うのでしょうか。  その方達と話すとなぜか気持ちが和(な)ぎになるのですから。
 
 
   自暴自棄に陥った人に どんな慰みの言葉も通じないかもしれません。でも 時間が誰にも同じように流れるように 何かの切っ掛けで立ち直ることはあると信じている。雲間から差し込む一瞬の日の光、 それを掴むか否かはその人の意志ではなく 偶然です。
 それに人生は その人の生きた時間の長短ではないことは確か。
 昨日 水戸である宴席に出席した。2次会まで入れると5時間。間断なく笑いが続く 中味は それぞれの記憶を辿りながらのものだったが 私にとっては後味の良い時間となった、いつも車で来る水戸 今回は最初から電車を使うと決めてあった。安心感からか 危なく神立駅を乗り越すところだった。
 普段 話したこともない人と話をする機会となった。諸先輩で若いな~と感じる人達の共通することは 信念をもって今も仕事(?)を続けているということかもしれない。中々出来る事ではないと思う そこには自戒を忘れず 諦めない意志の強さを感じる。
 絶望名言という本がある。著者は思いがけず20代で難病に罹った。13年かけ 病を克服し 現在は 南海の島に居を移し出筆を生業としている。早朝4時のラジオ深夜便である。
 番組の内容は川端康成を取り上げていた。川端文学の中から 自殺に対する彼の否定的な考えを紹介する、だがその川端は自死を選んだ・・・・・・・・
  水戸から戻る電車を一本遅れたら 常磐線の南千住で人身事故があり 不通 帰宅は深夜になったかもしれない。 
 

3256:悲憤慷慨

 夕刻のニュースで児童養護施設長が元利用者に刃物で刺され死亡したという事を知りました。一体なにが起こったのか 判らない。今朝の新聞に 『施設に恨みがあった。施設の職員なら誰でも良い殺したかった・・・・』と22歳の容疑者は語っているという。
 やまゆり事件は元職員が利用者を刺した反対のケース・・・・・・。現場に立つ私達は これらの事件にどう向き合っていけば良いのでしょうか。おそらく この国では 言葉とは裏腹に 真正面から向き合い 原因を究明し その対応を国策として真剣に取り組むことにはならないと思ってしまう。立法府での今の遣り取りを見て そう感じてしまうのです。 責任と原因を当事者個人の問題として収めようとする。このやり方は あらゆる処に蔓延してしまった。親の虐待で10歳の女の子が亡くなった事件も同じです。当事者の問題という処理方法では 包み切れない程 いま この国の実態は危機に瀕している。
 そしてまた 新たな法律や制度がつくられるかも知れない。 意に反し、その目的や内容が末端まで行き渡ることはない。核心なく 国会の答弁同様にその条文に心を感じない。上辺だけ 繕っても 根本の解決とはならない。担当者は それで職責を果たしたということになるのだろうか?景気の実感調査も全く根っ子は同じ。なぜ 次々に同様の問題が繰り返されるのだろうか? 
 日本人が トラウマの如くお金さえあれば全て解決ができるとなってしまったのか。メザシを食し清貧・質実剛健 経済界を牽引した嘗ての土光会長が生きていたら今の状況をどう思うか?
 自由と平等・・・・この言葉の裏で 何が起こっているか誰も判らない? 規制緩和とか、景気回復だって危うい。
”無節操”×”悲憤慷慨”やりきれない気持ちだ! 沖縄での投票の結果をどう日本国民が考え支持するかだと私は思う。
 
 
 国民に知らされず 何かが進んでいる。 今の状況がこの国が描いた理想の民主主義と考えて良いのだろうか! 私は目くらましにあったような気分だ。そもそも 老人を負担と考える国は どこかが狂っている。 それを市場メカニズムでしか発想が浮かばない国は 最早 先進国とは言えまい。社会保障を器を作れば それで空腹は満たされるという 単純な考えに思えて仕様がない。恐ろしいのは、それがもの凄い勢いで隅々まで広がっていることだ。
”守銭奴”というモリエールの小説を思い出す。ドケチの主人公アルパゴンが演じる喜劇だ、勿論 当人は 気付かない。周りの者達が どうにかして お零れを頂戴しようと画策するが、結局は守銭奴当人は みじめな最後をとげるという筋書きだ。
 17世紀のフランスが舞台、モリエール自身は約350年前に51才の生涯を閉じた。鋭い諷刺の効いた作品を数多く書いた。今の日本、400年の歴史の差を感じない。”忖度(そんたく)”フェークニュース”が流行った、これを悲劇か喜劇かどちらに見るかは後の世に任せるしかない。守銭奴も忖度も”欲”が絡んでいる。 人の為、国の為と言っているが 実の処は 良く判らない。何故って? 何も知らされない者たちに 判れといっても無理ということでしょう。
 今回の沖縄県民が示した意志を国民投票で実施するべきと私は思う。憲法改正も同様に。そう思わないですか?民主主義と言っても その選挙実態を見れば そう考えるしかないでしょう? できるか出来ないかの公約で選ぶより、テーマを明確にした各論で賛否を問うべきだ。そのほうがハッキリする。
 ★ 2月26日の原子力規制委員会で報告された。 1月30日の東海村原発の放射性物質漏れデーターの一部が 破棄されていたという。(毎日新聞)
 
 
 『小林秀雄の文章にはある種の型がる。「学問」や「現代」を否定しながら、その時代の実用性が美を鍛えたという結論に至るのである。・・・・・刀の鐔(つば)が美しさを持ったのは美についての思想があったからではなく、実用性の中から自然に生みだされたものだ・・・』と説いている。
  人工知能やロボット開発を制限無く突き進むことに 諸手をあげ 賛成することはできない。実用性は上がるかもしれないが 果たして それだけで 人は心の安らぎを獲ることができるだろうか? 必ず 進歩すればするほど それを悪用する者は必ず出てくる。不安が拭えないのは是非判断する人が 自分がどちらなのかさえ 判らないこと。 これでは無謀としか思えない。巷では その根拠を示せというかも知れないが、効いてくるには時間がかかる。ただ、その兆候は 既にこの国の至る処に出てている。
 その最たるものは 従来の福祉に対する思いが戦後、どんどん消え失せてしまったことだと考える。どうしてこうなってしまったのか?敢えて言えば 先ずは大人が変わるということだろうとしか言えない。生まれてきた無垢な赤子が生涯背負うことになる重荷にどう向き合うか。それはデーターを改竄し 己の実績を誇り傲り 徒党を組み 責任の所在を曖昧にするような大人社会に籠城する人たちを見て 子供たちが何を感じるかです。
 

3257:リコール

 自社製品の欠陥があれば それを公表し無料で修理する。リコールは メーカーにとっては義務であり、もし欠陥を知りながら隠していたら致命的、 企業存続できない程の社会的制裁を受ける。 部品などの共用はグローバル化社会の常識ですから どこに責任があるかが難しくなった。リコールには もう一つの意味があり公職者に対し 住民の意志によって罷免する直接民主制度の一つだ、余程の事が無ければそこまで行く前に 職を辞す場合が多いが中には籠城する人たちもいる。
 鹿島神宮に要石(かなめいし)という石があって 昔から地震のしずめと言われてきました。茨城は地震の多い処で要石には 動かし得ぬ物事のたとえの意味もある。 ベトナムで開催された 米朝首脳会談は合意文書を取り交わすまでに至らなかった。日本にとって 遠い国の問題ではなく 結果次第では 大変な事態になる。息を潜め 成り行きを静観するしかないのだろうか。日本の要となるのは勿論総理だが 大丈夫なのだろうか? 時を同じくしてインドとパキスタンのキナ臭い問題が起こった。地球上 至る処に未解決の問題がある。 この現実を政治利用するようなことになったら 収拾がつかない。
 リコールの本来の在るべき姿は リスクを消費者誰にも判るように公表し 早くその不安を取り除くことにある。あらゆる企業の取り組みはその最先端にあり いかに合法であっても 一度崩れたイメージは消費者離れというペナルテイが課せられる。
最も遅れた分野は 言わずもがな・・・・・・。誰にも判るような説明努力が無さすぎるのではないでしょうか。
 
 
 サテライト ホームという言葉は聞き慣れないと思います。グループホームからアパート生活に移行する人たちへの支援を行うものです。日本の現状は 入所からGHへ、在宅からGHへという流れがあって、時間をかけて地域生活を進めてきました。GHは4人~6人という共同生活になります。一般就労し サポートがあれば 自分で身の周りのことが大体できる人達は 一人でのアパート住まいを目標にします。現在 尚恵学園では4カ所のサテライトがあります。現行の制度では一か所のGHが一つのサテライトを持つことができますので 希望する方は増えています。
 東京の児童養護施設であった悲惨な事件は 我々と施設の種別は異なりますが 支援の仕組みは同じ考えです。支援者と利用者の信頼関係を築きながら、様々な課題に向き合い 地域での自立生活を目指すわけです。
 問題は決して単純なものではありません。一人ひとりが違うからです。社会も 様々です。 このような環境で生活することは 自分がその立場になって初めて判ることが殆どです。
 犠牲になった施設長さんは 子供達のことを常に考え 優しく接していた方と伺いました。
 支援する側の難しさは 子供たちと出合う前に 彼等は様々経験をし、育つ環境も皆違うということから始まるということです。児童養護施設の場合は利用できる期間に18歳までという制限があり、その年齢に達した時に退所していきます。
 退所後の支援も それぞれの事業所で工夫しながら行なっているのですが残念ながら 施設に代わる地域での支援がこの国は充分でありません。いま格差拡大が問題となっていますが、収入や財産によって階層化が生れ、共生できる環境がどんどん少なくなっています。昔から人が生きていくのに環境が障害になると言われてきました。私の経験からみて 50年前の日本より 豊かになった今の日本のほうが 支援を必要とする人たちへの優しさは少なくなったと感じます。
  制度や設備は随分変わりました。でも それで 問題は解決できたでしょうか?  
 
 人間はマイナスのイメージを本能的に避けようとします。陰陽で言えば 陰性の事柄、明暗で言えば暗部、損得であれば自分に不利益になること・・・・等々。論理飛躍の誹りを怖れず言うと、これを突き詰めると経済第一の考えに辿りつくようですよ。実は マイナスと思われている事の中にこそ 大切な本質がある。この考えは どうも受け入れられない?(無財の7施)
 豊かさと平和は決して一体では無いですね、寧ろ豊かさ故に標的にされることもあります。羨望の的っていうヤツです。そして優しさをお金で買うことができますか? 人間の心をも経済のメカニズムでどうにかできると?金銭のやり取りは多い少ないが必ず問題になりますね。昨今の葬儀事情、何処かしこも葬祭業者の急増です。新聞のお悔み欄に掲載する数が激減した一番の理由が そこにあるようです。また 参列者は 確実に減っている。葬祭業もノルマは歩合給、この実態をどうみたら良いでしょうか? 
 起業する自由は緩和国策で拡大、増えすぎた同業者、けれども それをチェックする機能が麻痺している。社会保障全体の所管庁は厚労省、その実態が暴露された。本来の姿に戻れるかどうか?
 競争することで質の向上をはかると言うけれど これだって限度がありますね。不正までして見せ掛けの実績を作ることになりかねません!
 もし人生を勝ち負けで決っするのであれば 何が基準になるでしょうか? それが曖昧となった社会は不安が増すという。この国は これから先 何人のドン・キホーテを量産したら満足するのでしょう。さらに言えば 自ら買って出て誰がロシナンテ(痩せ馬)役になると言うのでしょうか?
 

3258:どう感じるか?

 SNSやAI技術に懸念を抱くとすれば  使う当人が”どう感じるか?”という確証力の欠落だ。電車の中の異様な風景、何かにとり付かれた様に殆どの人がスマホと睨めっこ、そうでない乗客は 赤子とお年寄り位でしょうか。会話は殆ど無い。
 現代人の多くが罹患する心の病、その最大の誘因は環境に 自分が置いてきぼりにされたと感じてしまうことだとか。どうしようもない孤独感や疎外感に苛まれている人が 唐突に個の尊厳とか言われても じゃ~どうすれば良いのか判らない。仮想現実 そうそう夢を見ているようで 最も重要な現実と向き合うということが棚上げされている。ドン・キホーテは転じて”空想的理想主義者!”との見方がある。然もありなん。
 仏教は 修行によって伝統が守られてきた。閃きや悟りが突然起こるのではなく 単純なこと(己と向き合う)を 長く続けることで獲るという。その意味では 知的に障害の重い人達と向き合う仕事に通じる。もしミスマッチが起こるとすれば 私たちは 親の代替わりはできないということ、彼らはその思い(現実)を大切にもち続けているのだから。
 これは確証です。ITロボットが癒しと成り得るか? 失った人間性の獲得は 今世紀最大の課題だ、これは どのような論理や科学技術の進歩を尽くしても解明できまい。
 空き缶を 洗って 潰して ・・・・・(愚痴ひとつ出さず 誇りと親との約束)
 
  悔やみが続きます。いつの頃か 読経の終わりに 遺影に向かって ほんの数分だけれど 語りかけています。遺族から故人のことを伺い 自分が感じたことを そして 参列された皆さんと一緒に合掌をして式をとじる。
 亡くなった人の弔上げ(といあげ)は33年目として、昔は杉の葉のついた卒塔婆をあげ 死者が祖霊に融合すると考えた。人生100年を迎えた今、喪主が70才を超えている場合が珍しくなくなりました。親の歳まで生きられるか そんな話がどこからとなしに聞こえてくる。私たちは死後の世界をどう考えているでしょうか? こればっかりは 確証がありません。体験し また現世に戻った人は皆無、そうじゃないと感じている人はいると思いますが、現実的でない。釈迦・キリスト・マホメット 世界三大宗教といわれる祖は いずれも 現世と来世について断定はしていません。 長いか短いか いずれも2000年以上前に起こった宗教で 様々な変遷をへて今があります。来世を聖域とし、こうだと断定しないのは 恐らく 人間の性(さが)を知り尽くしていたからに違いありません。
 仏教の教えは 余計なものを身に着けることを戒め 素に生きることを是としたのです。現実にはそれと真逆の価値観が世の中に溢れています。それが 喜びなのか安心なのか判らずに ・・・・・・。人生の大半を勝ち負けの競争に明け暮れ、運良く得た膨大な量の金品、夜毎 それを眺めニヤニヤ、これを幻想と認めようとしない? そして それが適えられなかったものは 他を責め 己の人生を儚むのでしょうか・・・・・
 上記スナップは 普段はパンつくりをしているUさんで 彼は皆が飲んだ空き缶を1週間に一度 つぶして 回収業者に持っていく仕事を続けています。 帽子のツバを後ろにして被り、黙々と作業する姿から 何を感じるでしょうか?  
 
 竹は地にしっかり根を張り、真っ直ぐ上に伸びようとします。そして 時が過ぎれば 枯れる。青から茶に色を変え、徐々に水分を吸い上げなくなる、それでも 真っ直ぐに立っている。最後は あれだけ強く根を張って強風に耐えていたものが 簡単に倒れてしまう。それは見事という言葉しかない。根があった場所は抜け殻だけ 綺麗に穴だけが残る。
 そして 春になれば その周辺に子が芽をだす。
  誰かに頼まれた訳ではない。竹は自然の生態系の中に身を置き有りの儘に生きている。先人達は その竹を生活に活かし 利用した。特に越前では竹を使った様々な文化が生まれた。
 便利なものを次々に考え出した人間は 道具として竹を利用することをいつの間に止めてしまい。竹林は一部を残し 荒れ果てた。
  役目を果たし 時が来たら枯れ、跡形を残さず 消えていく。現代を生きる私たちは 竹から学ぶことがありやしないか・・・・・・。 
 日本語には 先人の教えが多く含まれる。≪竹を割ったよう≫という言葉は、邪悪な心や曲がったところない気性を謂った。
  たった一本で 人間の大人の体重にまで育つ竹、それに反し 人間の成長は 多くの人達の支えがあって 成し得ること いい加減に”自惚鏡”を持ち歩くのは この辺でお止めになったら いかがですか!

3259:梅・・さくら・・

 一足先に紅梅が蕾をつけ 仄かな香りを漂わせ、少し遅れてサクラが蕾をつける。 去年の夏 気温40℃という異常気象に日本全土が襲われ 木々が枯れてしまうのではないかと心配になった。でも 植物の底力は凄い、じっと耐え 今春もまた花を咲かせる。
 自然の営みから 昔人は多くのことを学んだ。私たちは今その謙虚さを忘れていないだろうか? 思いのままにならぬことと知りながら 強引に自然を破壊し 自己満足、この馬鹿げた行為を反省もなく続けている。
 弥生三月 平成30年度を振り返る。今年一年 日本に限らず 地球上の至る処で 自然災害に見舞われた。飢饉に苦しむ多くの人々がいるにも関わらず 勝ち誇ったかのような振る舞いをする人達。中には他人の不幸を糧に富を得た者もいるはずだ。そして 人間が考えた掟では それをも合法と見做してしまう裏事情。このままいくと 格差の拡大は天上知らず、ストップをかける者が誰もいない。それで地球が持ちこたえられるのだろうか?
 ハイパーインフレという言葉があります。鶏肉2.4㌔の値が1460万ボリバル、紙幣を積み重ねると73センチの高さになる。事も有ろうに原油埋蔵量世界一というベネズエラで実際に起こっている。インフレ率268万%、それが1000万%になるIMFの予測もある。
 貴方は想像できますか? 政権の失政によって本来 豊かな国であるべき国が 脆くも最貧国になってしまうのです。なぜか日本のマスコミはあまりその事を報道しない。
 インフレの反対はデフレということは誰も知っている、長期デフレからの脱却を最優先に掲げた国ニッポン、 国民にどう理解されているか恐れた? かもしれない。この国だって 嘗て 同じような状況になった。戦後の昭和20年~25年 闇市で食料を必死に求めた。 お金の価値が紙屑同様になったのは その時である。更に広大な土地を持っていた地主階級は小作人に田畑を強制的に解放させられた。(農地解放)
 現代は豊かさ至上主義症候群! データーの改ざんまでして 景気の上向きをアピール、毎年公表される 国の借金は1000兆円を優に超えている。これは 現在の一万円札を重ねて その厚さは成田からヒースロー空港【イギリス】までの距離(9596㌔)より厚くなる。これが止まるどころか 更に厚くなっているのが現実です。これで 良くも あんな風に自慢話が出きるものだと思う。深夜にまたがった国会審議、一晩だけで関係者の残業代タクシー代合計が2200万。
 ・・・・・梅・サクラ  仄かな香り 風運ぶ・・・・・・  悉知。
 
 
 良きに計らえ! 面倒な事が起こると  決まって担当者を引き合いに出す。止めないことは一人表舞台にて自論を全開・・・・・。戦後最長の景気拡大とは ・・・・?負の材料をひた隠し、業界用語のエビデンス=雇用拡大を 惜しげ無く恥じる事も無く 持ち出す。敢えて言わせて頂けば 貴方達が課題に挙げた高齢・少子化は結果でなく原因だ。働く人が減れば 自ずと雇用は伸びるだろう。何も有識者の弁を借りずとも 小学生でも判る算術だ。それを難しく難しく 説明するから墓穴を掘るんだね。
 何も 戦後最長なんて誇らなくても良いじゃないかと世間の人達は 皆さん思っている。この辺が庶民感覚とズレている証(業界用語エビデンス)だ。
 ・・・・黙秘権 都合しだいで 憲法38条・・・・
 戦後最長の景気拡大⇔戦後最悪の景気拡大。この違いが判りますか?恐らく 納得いく説明はできまい、ベネズエラの通貨ボリバルを調べれば ”円”もどうなることか?無視はできないと思いますよ。 
 
 結局 周囲の事を どうのこうの言った処で 空しさを感じるだけかもしれない。そうではなくて 自分の足元をみるべきなのですね、これは 2000年変わらない真理? 困ったもので寺入口の道路に昼夜関係なく車を停め 何かをやっている人が増えた。皆さんスマホでゲームをやっている。例の○○モンとかいう奴。寺が 大切なポイントになっているそうで、私は 知らなかった。了解を取らず場所指定したところで違法ではないらしい 。 朝晩は結構車の通りが多いから 見通しの悪い処で事故でも起こらねばと心配するが 当人たちは無関心。
 昨日 お会いした方と連絡先を確認したら 自分は携帯は持っていないし 車は運転せず自転車だと言われた。それで不自由を感じないと。 ”凄い”と思った。
 それから定年後 再就職、 70過ぎてそれも辞め、畑で農業を始めたご夫婦。畑に植えたのは野菜や栗の木ではなく、クヌギの苗だった。どうするのか尋ねたら、笑っていたが 薪ストーブの燃料にするためとか。。。。タイムスリップ? 
趣味と実益、安全と責任、無駄と有益、・・・・ それを考える能力は日本人は優れていると思っていたが 段々変わってしまった。増えているのが 儲け話ばっかり。安く作って 高く売る。この能力に長けたものが 成功し 勝ち組に入れると信じてしまったようである。・・・・原因&結果?
 手抜きや不正、これは 最初からあったものかどうか  恐らく 結果を良く見せたいと考えるばかりに ”まやかし物”が増えたんじゃ~ないですかねエ。
  

3260:是々非々

 良いことは良い、悪いことは悪い。
 この言葉の同義語は、「厳正中立・公明正大・公平無私」などがあります。逆に反対語では、「専断偏頗」(せんだんへんぱ)。辞書を開かずとも ネットで簡単に調べることができますね。 例の如く 私の拘りが出始めている。春の訪れを間近に感じ 眠っていた?虫が動きだす。 複雑・多様な世の中、これに反して 容易に知る道具(ツール)が手の平サイズの中に納まっている。人との会話、言葉が一人歩き、考えて話すという手間を省き 通り一遍の挨拶。通り一遍の意味は、義理・形式・表面だけで、実意のこもらないこと。
 言った言わない、根拠を示せ! 知らない、忘れた、そして最悪は破棄した。こういった事象が渦巻く、例えようが無い危うさを感じませんか?こういった状況でも 是々非々で判断できますか? 多くの皆さんが同様に思っている? でも それを変えるとなると不可能と諦めている。隔て心(低迷期)
 だからかかも知れませんインパクトのある標語を連発する政府、・・・・働き方改革は、一億総活躍社会実現に向けた最大のチャレンジ・・・・・(首相官邸HP)。
 これをどう理解すれば良いのですか? そこには 5分でわかる働き方改革という丁寧(?)な解説つき。 何か違和感を感じ素直に受け取れない自分。俺がオカシイのかな? 言葉が実態と乖離し、烏合の衆(?)と化している。そんなイメージに映る。
 アナログ人間には 到底皆様の真意が理解できないのかも知れません。私見として  [最大の]の言葉は余計だと思うね。さらに言うと「一億」も同様に。
 胡散臭さを感じてしまうのは 公約が目立ち過ぎる内閣だと思うからです。どなたの提言か知りません。
 是々非々を言うのであれば 先ず 自らの足元をと言いたいのでありますが それを箴言する方は どなたもいらっしゃらない? それだって 勿論想定内とでも言うつもりだろうか?
 
 3月11日、午後2時46分18秒、東日本大震災が起こった。今日で8年目を迎える。地震の揺れによる被害は桁違いだった 津波 そして原発事故、国は全力で復興にあたることを宣言している、本日 全国の寺で地震の発生時刻に鐘楼の鐘をつく。未だ行方不明の方も大勢いる。日本人が 喪に服し 犠牲になった方々のご冥福を祈る。そして この国の在るべき姿を考える日となったと信じよう。
 世界銀行の推計で自然災害による経済損失額は史上一位と言われ、被災地を応援する様々な活動も行われているが被災三県合計でこの8年の間に約30万人の人口が減ったという。 地方の過疎化が全国的な問題となっている中で 実効性のある対策は未だ手探りの状態が続いている。 
 
 災害は予期せぬ時に起こる。 東日本大震災の起こった時 私は寺にいた。今までに経験したことが無い立っていられないような、突き上げるような大きな揺れ、それが長く続いた。少し落ち着いた頃 本堂を見に行った。仏具が散乱し位牌堂は全ての位牌が床に落ち、足の踏み場も無かった。庭に出て唖然とした。弘法大師の石像は足元から折れ、幾つもの墓石が倒れていた。
 それから 急いで学園に行くと スタッフが利用者の皆さんをグランドに避難させていた。
 あれから8年が過ぎた今も復興は道半ば、放射能汚染で強制避難地域は徐々に狭まってはいるが 未だ住める状態ではない所がまだある。
 大惨事のあと、様々な対策が取られているが どれも完全なものはない。もし また 同様の地震が起こったら この国は どうなるのか? その一方では 原発の再稼働の動きが着々と進められている。
 再稼働の決定を地元市町村の判断に任せると国は言っている。  東日本大震災の復興費用の概算を約20兆円と見ている。ある調査機関によるとその4倍の80兆円という試算もあるという。 これだって 放射能汚染の被害をどこまで組み込んでいるのかは定かでない。今後どれだけの年数がかかるか? これだって元の状態になることは有りえないだろう。
 先の沖縄の県民投票の結果は 地元の判断では無かったのだろうか? そして、与党幹部が漏らした≪この国は『えらい病』に罹ってしまったのだろうか?≫を どのように受け止めたら良いのでしょうか・・・・ 
 合掌。

3261:今が一番若い

 人がやらないことをやる!今が一番若い!。・・・出口治明氏のことばである。
 ラジオ深夜便の「明日への言葉」での話をメモに取った。読書三昧の年季は幼児からという 今もって読書量は1週間で平均10冊を続けているそうだ。古希を期に ご自身創業の会社を辞し 請われてAPU(大分別府)の学長に就任した。タイムリーというか 混沌として予断を許さない現代に於いて話しの内容が実に新鮮に感じた。歴史を学ぶことの大切さを 分かりやすく実学自論で語った。氏の書かれた本が出版、感心するのは参考文献の多さ。早速 注文した。
 今朝のラジオでは”知的探求”を続けて楽しく生きるというもの。爽やかで 後味が良かった。 最後に話したのはご自身が大切にしている言葉で”人 本 旅”ということだった。
 過去を懐かしむことは簡単だ。時間は流れている。今が一番若い、その実感が我々はあるだろうか? 人がやらないことをヤレ! 確かにそうだ。他と比べ どうのこうの それは 真似てみて、あわよくば お零れでも頂戴しようという思いがどこかにあると思う。世の中には類似品が溢れている、そこで勝ち負けを決めるなんてことは あまり意味がない、見様見真似は赤子の時なら良いかも知れぬが それで人生を終えたら どうなのよ。
 
 疲れた時は 休むがよい。自律神経は意志とは無関係に自動的に調整する神経機能だ。これが 異常をきたす病が代表的現代病になっている。これには 特効薬はない。人間が受け入れ可能な限界を超えてしまったのが最大の病因 ・・。
それに加え 自浄力の劣化は 恐らく 今の私達が失った最大の理性ではないでしょうか?  権利と義務や自由と規制の混乱が未整理の儘、流されてきたツケが今になって出てきたと思うしかない。凄い勢いで拡がった主我主義。まさに国体崩壊への路である。
 綺麗ごと/たてまえ/いじめ/うそ/・・・/出世/世間体/・・・・・富/・・・・・自死・・・   巷に溢れかえっている様相を象徴するコトバ、 私たちは 既に慣れてしまった?
 どうなんですか? 法律や制度をつくる人が 守らない世の中であったら それは 無法地帯そのものですよ。
 今日は ホワイトデー 貰ったチョコレートのお返し、義理チョコでも何でも構わない、要は 堂々と感謝の気持ちが伝わること。
 この習慣は日本で始まったそうですね。ヨーロッパなどには無いそうです。 なるほど 分かる気がします。
  
 
 産業構造の変化、企業はそれに付いていくことに躍起になっている。その見返りに収益を獲て規模拡大をはかる。 この仕組みは将来も変わらずに続くのだろうか? 資源の枯渇、環境汚染、貧富の格差、・・・これらの解決を見ない儘に、
目論見は思い通りにいくのは難しい、運良く上手くいったとしても 模倣品が必ず出てきて 市場相手に鬩ぎあう。世界中にパテント(特許)がどの位あるのだろうか? 下手すれば 白黒つけるまでに時間がかかりすぎ そのうちに用無しの特許紛争に成りかねない。そのシステム自体が限界に達していないだろうか? 善悪の判断ができない状況になっても 止めようとしない。最も危険なのは 豊かさ と 便利さ の為に 平和と安心を放棄してしまうこと、 これは 歴史や自然を軽視し過ぎた人間の驕りで負うて当然の代償でないのか。
 今が一番若いという考え方は、この国が抱える課題と向き合うのに必要な発想の基底になる。渋沢栄一という明治を築いた人物をドラッカーは『経営の「社会的責任」を論じ、実行した最高の人物』と評した。
 グローバル社会の中で企業の存在価値が認められるかどうか、自社(自分)の利益ばかりで社会的責任を論じ実践する経営者がいないとなれば いずれ忘れ去られてしまうのが落ちだ。
 一人の人間として 社会的責任というものは その立場を退けば 責任免除(回避)できるものではない。 それは付いて回る。これが 本来の個の尊厳の姿だと思う。
 昨今 年老いたという言葉は責任回避の言い訳にしか聞こえない。結局 それがこの国に 社会的弱者という言葉を生み その延長線上に 障害福祉の根底を揺るがしている最大の病巣があると思っている!

3262:ルールの周知

 円周率は3.14と学んだ。小数点以下で31兆4000億桁まで計算したという記録がギネス登録、それに日本人女性が関わっているという。計算に使ったものはクラウド技術というもので 例のスーパーコンピューターとは別物で仮想化技術というものらしい。なんとも 人間の考え出すものは 我々の理解能力を超えて 異次元にあるようです。まあ~ 小数点以下をどれだけ計算できたとしても 日常生活を送るのには関係はないでしょう。 これは その数字が重要ではなくて そこまで進化した技術が売り(価値)だという訳でしょうから。
  人間の能力で 31兆ケタ以上の数字を読み上げるとしたら 何年 否 そんな時間のレベルではありません。この技術だって 宇宙空間を測るにはまだまだ技術の初歩段階だろう。○○億光年離れた星を現実にどう測るかという事、その一助にはなるでしょうがね。宮沢賢治が今生きていたら彼のイーハトーブ 心象の理想郷はどんな風に描いただろうか 正直そっちに私は興味がある。
 宇宙誕生は永遠の謎かもしれない、人間が創造した大いなる存在(神や仏)も 越えてはならぬ一線を引いた。此方の世界と彼方の世界、生~死までの一生に与えられている時間は100年前後がピークなはず、それをどう思うかですよ??? その議論は 今までに殆んど進歩をみない。なぜか?終末への畏敬の念が有るからです。 科学の進歩に 果たして 何があるか 此方の事が抜けているように思えてしまう。
 今以上に現実⇔仮想の関係(類似・矛盾・共存など)が明らかになるのでしょうか? その前に ”ルール” ”拠るべき基準”が作れるかです! どうも 何事かが起こってからという従来の後付けルールになるように思える。それしか 思い浮かばない!
 そのルールさえも 仮想化技術で創るとなれば 住む人のいない新しい街をつくるようなものにならんでしょうか! 叡智と過信は違う、歴史と自然が見過ごしはしないだろう。
 
 豊かさ(?)便利さ(?)によって 得たものと失ったもの、外観と内観から探ることによって自分で見つけるしかありません。心理学に内観法という心の研究方法があります。研究者による観察法に対し、被験者自身が自分の経験を内観し報告する方法です。仏教の瞑想法や阿字観に通底するものがあります。
 心の問題はその人の経験や環境によって様々なことは言うまでもありません(無常)、中でも今は環境要因が大きくなっています。親子の関係一つとってみてもそうです。 愛着障害など 本人の責任というより 周囲の環境です。
 特に深刻な問題は AI技術やSNSがどんどん進化する中にあって 人間が善悪(恩恵と被害)の区別ができないという状況が起こっています、これは 未だ人類が経験したことがない未知の世界です。
 ニュージーランドで起こったテロ事件は 深刻です。いま地球上で安全な場所が見つからない。被害にあった人達は まさか目の前で殺戮が起こるとは思わなかったでしょう。それも神に祈るモスクの中で起こり、容疑者は自らFBを使って襲撃の様子を動画で送信していた。
 それは一瞬にして世界中に流れます。深刻なのは それが素通りしてしまう。他人事でしかないのです。仮想なのか現実なのか 識別できないともいえる。私も普段パソコンは使います。メールに入ってくるものの大半は関係のないもので、迷惑メールに自動的に入るモノが増え続けています。
 これら 際限無しの追いかけっこが 象徴的なものとなっています。
  それへの防御策は ウイルスバスターを各自が自分に持つしかないのかもしれないが 相手のスピードが早すぎて どんな策を考えても それを潜り抜けてくる ・・・・・。(円環思想&空)
 
 多様な価値観は 多様な情報によって増幅し攪乱されます。何が大切かが 実に判り辛い社会になりました。それを規制し 繰り返さないというルールは 有って無き様なものとなっています。塗料の上塗りをあまりにも多く行ってきた所為で 元の色が判らない状況と似てしまった、  大衆迎合か強き者の庇護のもとに身を置くか それとも 一切の関係を閉ざして 生きるか 2者択一? そうじゃないと判っていながら 他の方法が見つからないと諦めている人も多いだろう。
 1883年 スペインで産まれたオルテガの『ドン・キホーテをめぐる省察』の中にある≪私は私と私の環境である。≫という有名な言葉があります。彼が生涯を通じ語り続けたこと、それは 20c初頭のヨーロッパを大衆(トポスを失った凡庸かつ大量の「平均人」)による「超民主主義」に覆われていると説き、「寛容=リベラル」「死者の叡智による制約」の大切さを訴えた。(『大衆の反逆』中島岳志:NHK出版)
 ここで言う「トポス」とはギリシャ語で「場所」を意味し、要は 20cのヨーロッパにおいて 既に「居場所」「拠りどころ」の見つからない大量の人達がいたということになるのです。
 今年新元号になる日本は、それから100年が経過し まるでコピーのような 同様の状況に陥っていると考えられないでしょうか? 三権分立がタテマエ論として取り沙汰される今日、それは実態が伴なっていないという証でしょうし、お決まりの如く、有識者会議や第三者委員会を設置し重要課題を検討している。これは 万が一失敗した時の逃げ道を用意しているとも言えます。オルテガは「専門家は間違える」と主張し続けた人です。
 公示される数字に信頼性を欠いた今 何をもって是非の判断をすれば良いのでしょうか? 極々 単純な疑問なのに、それに対する回答は ご覧の通り。
 ルールとは”信義則”です。権利や義務を履行するにあたて 相手の信頼や期待を裏切らないように誠意をもって行動する法理、それが今のような 政党を簡単に変え 自分の「居場所」を求めるような行為が許されるとしたら、三権分立を語る以前の問題でしょう。(無我・梵我一如参照)これぞ「死者の叡智による制約」を学べというオルテガの箴言であろう。

3263:死者の叡智

 数百万年の栄枯盛衰、この地球上で刻まれたヒト科の原人の歴史である。そしてホモ・サピエンス(智慧のあるヒト)の誕生はグレートリフトバレー(東アフリカのタンザニア)で今から約20万年前のことらしい その当時の地球全体の人口は5000人位と言われています。(『全世界史』出口治朗著) 西暦で2019年は、その歴史からすれば 薄皮一枚という程のものでしょうか。2000年の間でさえ様々な事が繰り返されてきたのです。人生100年という括りにどのような意味があるのでしょうか?
 オルテガが説く死者の叡智による制約とは ≪条件を課して自由に活動させない≫死者からの道理(メッセージ)です。未来志向もいい加減にしないと 道を踏み外し 取り返しのつかない過ちを犯すとの警鐘です。戦争や核開発が 果たして人間の理性では避けられないものなのでしょうか?オルテガは大衆をトポスを失った凡庸かつ大量の「平均人」と説いた、未だ盛り上がりに欠ける憲法改正の論議に想うことは、あの人たちにとってのトポス(拠りどころ)とは何なのかということです???代表者を選ぶ側も確たる「拠りどころ」が無い?此れが恐らく超民主主義と言われる所以ですね。
 暗雲の隙間から射す一条の光を信じたい。古来から日本人が大切に守り繋いできた風土や文化は与えられた自然の恵みに感謝し 勤労により生活の糧を獲た道である。寛容と謙虚さがあったと思う。
突然ですが貴方はリベラルという言葉をどう理解しますか?
反保守 or 自由主義ですか?ならば”自由”とは”保守”とはいかなるものでしょう?  オルテガが説くリベラルとは寛容です。少数意見(者)を差別軽視しない精神です。大衆迎合が紙一重の危険を孕むという忠告も同様の理由から発していると思います。
 
 
 彼岸中、突然の訪問者、某金融機関の社員二人だ、何のことはない 今より率の良い商品への切り替えの営業、カチンときた。彼岸の最中に突然、寺に来て儲け話か!
 昔は 遠慮があった。失礼だというジョウシキがあった。時代は変わった、儲け話と言いながら 結局は自分のノルマをはたすため そのやり方は形振り構わずだ。。。。。。そっちがそう来るならばと 例の問題を出してみた。≪貴方達は いつも一万円札を数えているんだろうから金融のプロ、 直感で良いから国の借金の1000兆円って一万円札でどの位の厚さになると思うかね?≫と尋ねてみた。≪100万円で1センチ・・・・だから どの位かな~≫≪直感で良いから 言って見なよ≫≪ウーン 10メートル位ですかねえ・・≫と二人で顔を見合わせる。
 最初の挨拶は 現在の利子が0.01%だから もっと利率の良い投資信託を奨めたいということだった。カチンときた。チコちゃんの怒り『何 ボーっと生きてんじゃーねーよ!・・・』が喉もとまで出かかった。≪あんたら 金融のプロだろう!国の借金の1000兆円は 1万キロの厚さなんだよ。成田からロンドン・ヒースロー空港までの距離だ、それが 今の日本の実態だ ・・・・・・≫  まだ帰らない、そこでベネズエラの話をしてみた。ハイパーインフレは知っていた。すると 片方の人が≪ですからですね そうなった時のために お金より安心な商品がありまして 金の先物とか≫を言い始めたのである。≪もういい。帰ってくれ!≫
 この国は狂っている。 ”専門家(プロ)によって失われた「教養」””無知な知者” と謂ったのはオルテガ、そのオルテガを評価し、”起きている現象に目をつぶるな。勇気をもってコメントし続けろ”と謂っていたのが西部邁だったと思う。
 
 この国は根底から狂ってしまった? ”ウーン 10メートル位”と1万キロの差、天文学的(?)な感覚鈍麻が現に起こっている。
 様々な社会の現象に対して 常に疑い続ける、その疑いの先に英知があると信じ生きた先人を 今の社会はともすれば変人扱いし、葬ろうとして来なかっただろうか? 懐疑続けた先人達に共通するものは 深い自省と自戒のこころだと思うのです。
 口先だけの謝罪、居場所無き大衆の迎合、数字の虜、・・・・・。ごちゃ混ぜになってしまった社会で悠々とした態度でいられるヒトは 仏教でいう解脱では無くその真逆と考えるべきだ、その証を自らが本当は知っているはず、己をも欺く、そんな人生ならば・・・と考える人も徐々に増えているのも確か。だが 潮流はそれさえも 容赦なく流してしまう。
 ”死者の叡智”を無視続ければ 何が起こるか? その問いに真剣に向き合うことは 誰でも今すぐにでも出来ると思いますよ。

3264:政治を弄ぶ罪

 彼岸中日、先祖の墓前で何を報告しましたか? 遺影は・・・・ なぜか 微笑んでいるものが多い。これは 遺された者の故人へのせめてもの思い遣り?・・ いつも変わりなく私たちを見守っている遺影に 貴方は どんな気持ちで見つめますか、 梵我一如 これが 輪廻から解脱する究極の真理とすれば 誰も間に介さない遺影との対面で 自分を欺き続けることができますか? 

 敢えて”政治を弄ぶ罪”という事を言わせて頂きたい。公約を 貴方達はどんな風に考えているのでしょうか? 政治生命?それでも できなかった時の為に前もって保険をかけ、幾つもの引き出しに言い訳を仕舞い込む。それでもまだ辻褄が合わずとなれば 責任を誰かに擦する。これは 人を質にいれることです。
 ただ 問題はもっと深い。日本の現行制度の中に『統治行為論』という耳慣れぬ考え方があります、高度な政治性をもつ国家の行為に関しての政治決定については最高裁判所は憲法判断しないのです。良く知らないが 特例で三権は分立しない。
 民主主義と立憲主義の分かれ目で憲法をどう考えるかということに関しても どれだけ 私たちは承知しているでしょう。そもそも 先進国(?)の中でも常に最低の投票率で民主主義を声高に主張するのもどうかと思う。 ご都合主義で数の論理を行使 『してはいけないこと』を強引にやってしまうようなものでは無いはずです。国家行為で政治性の高い低いを何を基準に決めるのでしょうか?貴方達には そこをハッキリと説明する責任があると思いますが 何かを隠しているような思いがしてならない。
★隣の阿見町には予科練平和記念館があります。全国から14歳~17歳の若者24万人が入隊、その中で 2万4千人が特攻隊員として戦地に赴き、その8割の1万9千人が戦死。 
   住所:阿見町廻戸5-1 電話 029-891-3349
 
 
 是非の判断を辞書を見てしか出来ないとすれば 何かがおかしい。辞書は使わずネットで調べるとでも言うのだろうか?それとも人工頭脳に託すのか? それに違和感を持たなくなった時代は、気が付けば 自ら考えるということを放棄してしまった社会かも知れぬ。
 だから 政治性の高い低いの判断を 本当に出来るのかどうかという不安が常に付き纏う。制度を弄ぶ罪と言っても良い。有識者会議やら第三者委員会 公の専門会議、そこで選ばれる委員の中立性(?)はどうなのか?選任者の意図が忖度され 予定された場所に軟着陸、・・・・・。私は四天王の足で踏みつけられ動けない小鬼か その非難は甘んじて受けましょう。
 ≪お彼岸は どんな意味があるんですか?≫と聞かれた。
 彼岸とはサンスクリット語でパーラミター、それを音写し波羅密で悟りを開く六つの修行(徳目)を行なうこと。その六つとは 布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧で六波羅密となると教わったと正直に答えました
 お馴染みの般若心経は 正式には般若波羅密多心経と言い本文266文字で大般若経600巻の要を纏めたものだと教わったことを正直に答えました
  キリストの教えに『原罪』というものがあるそうだ。 人は何らかの罪をもって生まれ、その為に様々な難に遭う、そこから救われようとして 「してはならぬこと」を定めた。仏教もある意味では同じだと思います。完璧な人間はいない。現世で受ける苦しみは欲や迷いが原因 そこから 抜け出したいがため、信仰が生まれた。私はそのように思っています。
 
 立場を弄ぶ罪・・・
 マスコミは 狙った獲物(?)の一挙手一投足にカメラを向け スクープをねらう。 あまり関心はできないが ネット上の片隅に遠慮気味に載せられていた写真は、某国会審議の大臣席を撮影 恐らくTV放送がないのでしょう。読書中 お喋り 居眠りと一枚の写真に写った光景の TVのライブ中継との較差に唖然としました。
 日本が議会政治の範とした英国、会議場は四方が階段教室みたいな作りで一瞬 闘牛場を思い出す、議員席より数段低くなった中央が 答弁者の席となる。日本ではそういった改造の提案はなぜか 出ないようです。
 老化ピラミッドの頂点(究極)は、忘却忘却病とか  忘れた事を忘れてしまう状態、自分では施しようがないと・・・ドイツ文学者の池内紀(おさむ)さんの話から。氏は老化に対し 独特の考えを持ち 老化を楽しんでいる。TVと縁を切り、情報からの自立を奨める。現代は一方的に送られる情報に 知らず知らず自分で考えることをしなくなる。それと問題外だが マスコミに対し圧力をかけるような事が起これば 知らず知らず・・・・・・?
 至れりつくせり 何でも用意された環境が 果たして便利で豊かな人生を送れる為の条件かは疑わしい。自立とは 自分の責任で選択し他の所為にしない。このルールさえ 守っていれば 密室とか伏魔殿という酷評を受けず 分かりやすくなると思います。
  

3265:彼岸

しだれ桜 
 

 法人の役員会が開催されました。 折角 忙しい時間を割いて出席して頂いた皆さん、その話を聴きたいと可能な限りその時間を作るように努めてきました。大分、流れが出来て来たと感じています。私は 幾つもの役員を引き受けてしまったから この時期は 連日出て歩くことになっている、もう 10年以上続けてきただろうか?その会議の殆どが 黙って聴いているもので、これを疑問に感じてきたから 先ず足元から変えたいと思った。
 今回は日程調整が上手くできず、なんと彼岸の最中で それも土曜日のお昼に開いた。 尚恵学園は元々 2つのお寺の支えがあって出来た法人、だからと言って 宗教の違いで 差別することは全くありません。寧ろ その逆 ”まんだら”の考えで 隔てなく 誰もが 自由に参加できることを旨とした。
 桜の開花が 少しづつ早まっているのは 地球の温暖化の影響でしょうか。 時間が過ぎるのが自棄に早いように思うのは 歳の所為でしょうか。
 少しでも遅らせようと自分なりに考えたのは 実は読書です、常に数冊を併読しています。1日精々読んだと思っても数ページ、でも時間がゆっくり流れるのが実感できる。どうしても理解できないのは 天上知らずの科学の進歩 特にSNSやAI技術、皆さん危うさや疑問を感じないのだろうか?  人間の能力と理性への過信だと思いませんか。介護ロボットだって 同じです。これは 多分 止むを得ずとの思いから考えられたと思う。それで良しと思える方なら良いでしょうが 目を外に向けたら 地球上で飢えに苦しんでいる人達が凄い数。一方 暇とお金を持て余している人も増えている。一緒にゴチャゴチャポ~ンといかないのかな~。赤と白の絵の具を水で混ぜるとピンク色になる。日本人は 桜に特別の想いをもっている。東日本大震災の復興の歌もそうですね。苦境に遭った時に 何故か癒す力が 桜にはあるということです。その花は 真っ白とか真っ赤ではなく その時々に色を変え咲いている。 
 
 
 辞世の句に・・・≪裏を見せ 表をみせて散る紅葉≫・・・と詠んだ良寛は 住まいを各地の空庵を転々とした。 その心境に少しでも近づきたいとおもいますね。今の日本にどれ程多くの空き家があるか知りませんが なぜ こんな状況になってしまったのか?
 大型サイクロンの被害で 住居を失ったモザンビークの多くの人達、亡くなった人の数も正確に判らない。アフリカ南部インド洋に面した マングローブとサンゴ礁の続く絶景の地、ジュゴンの生息地でもある。地球上を容赦なく襲うサイクロンを塀をつくることで防げますか?それに需要の数値を誤魔化し、それを判っていてアパートを造り続け、方や 空き家の増加を止めることができない。どこかの国の有様か、敢えていえば 政策のミスマッチ、 決まって経済の発展を どこの誰が作ったか定かでない数字を惜しげもなく提示してきた。目標に達成できない理由は 代わり映えしない・・・高齢化と少子化だ・・・・。働き手が減れば求人倍率が上がるに決まっているでしょう。それを 実に解かり難い理屈で自分達の実績だと言っているようにしか私には聞こえない。
 多くの人が良寛にこころ動かされるのは 良寛自身が清貧を旨とした生き様だったから。逆に 皆さん! ・・・≪表をみせ 裏を隠して 散る桜≫と読んだら いくらなんでも桜に失礼でしょう。
 誤解と錯覚は自己責任 それをも他人の所為にするとは  なんとなんと。 
 ☆ 殊勝にも 今年もつけた しだれ華(はな)  (ナマグサ) ☆ ・・神宮寺境内の三春桜の玄孫・・・上写。
 
 【私は、異様に妙な国家の異常に変な時代に生まれ合わせたという自意識に幼少の頃からとらわれてきた、一介の変人にすぎないのだから、私のことなど、これまでと同様に、放念しておいてもらいたい」と】(『大衆への反逆』西部 邁:文藝春秋)
  本のあとがきにかえて このように書いている。西部を知ったのは いつ頃だったか某民間テレビの討論番組だったと思う。彼は独特の風貌と喋り方をし、手にいつも手袋(?)をしていた。大衆に対し 何かを訴える。声を荒げることもなく 淡々と。その時は 彼が言わんとする意味を正直理解できないことが多かった。時間が経つにつれ ああ こういう事だったのか!と気付く そんな深みを感じた。
 ナマグサの私などが西部が語るオルテガ論に言葉を挿むのは礼を逸した行為である。
・・・・・”共に独り”でいることの緊張に堪えぬく精神、つまり大衆に迎合することも唯我に自閉することもない精神、それがオルテガのいう、貴族、選良あるいは勝れた少数者たることの条件である・・・・・(上記本P88~)。
 戦後の異常さは 際限ない経済第一主義の呪いに魘(うな)され 学問の最高学府たる所までもが 権威主義の坩堝と化した。先を見通すことの前に 現実を心眼で観る事ができないことに恥じらい危うさを感ぜず 便利さやモノの多さに現を抜かす これで 持続可能な社会云々・・とか 再生可能なエネルギーと恥じることもなく公言する。 結果は誰もが責任を取らない社会となり 、それを 平和と安心とに摩り替える。
 2018年1月 西部は ”放念しておいてもらいたい”の言葉を残し最愛の奥様の待つ彼岸に渡った。
 

3266:場所さがし

 例のごとく虫が動きだした。トポスという言葉が蜻蛉のように私の目の周りを浮遊する。もしかして西部の怨念か? 氏が生涯を通じ探し求めたのは 自らのトポス(場所)だったように感じる。
 トポスという字を検索した、するとユートピアという語があった。それを理想郷と訳した(和製漢語)。またBc4頃の 「荘子」には無何有(むかう)之郷。現実には決して存在しない理想的な社会で これは現実社会と対峙させ、現実への批判という解説だった。時代に関係なく人間誰しも居場所を求め彷徨っている。
 Oさんは 今 病と闘っている。彼は5歳になる前、尚恵学園にやってきました。その時の様子をオボロゲに私は憶えています。それから 約半世紀です 彼は私達と付き合ってくれている。本人は いつも明るく振舞い、必ず 宴の最後は彼の『イクゾー エイエイオ~』の掛け声でしめた。和紙班の仕事でも 常にリーダーで その統率力はずば抜けている。ここ数年は 体調もあまり良くなかった。でも 人懐こい性分を遺憾なく発揮して 無くてはならない存在になっています。
 彼の人生を辿ると 寡黙にならざるを得ない。不条理という言葉は 彼に大変失礼だと思うから 決して言うまい。 だって、彼はその事をおくびにも出さない強さを秘めている。
 四国には 遍路宿というものが 今でもあります。同行二人の遍路ビトを迎える 決して豪奢なものでは無い代り”おもてなし”がある。今までに多くの人が一宿一飯 旅の疲れを癒すために利用した。もしかしたら私達の仕事は その遍路宿なのかも知れない。
 訪れる人達に旅の思いを尋ねる事もなく 有りの儘・自由にすごして貰う為の。
 
 夜中 1時前 枕元の携帯がなった。Oさんの様子が変なので 今から救急車で病院へ行きますという。今 夜が明け その後 何の連絡もない。 前日に妹さんが会いに来られ 食事に行ったという話を聞いた。誰もが良かったと思った。
 
 『ガンジスに還る』という映画を思い出した。輪廻という意味は 我々が三界六道に迷いの生死を繰り返すことだ。できれば迷わず生を全うしたい。そう願うのは当然、現実には欲深く 今の自分に満足せず これでもかこれでもかと欲を満たそうとする。今の社会に充満する何か正体知らずのもので、時に奨めたり、脅かしに使ったり、よくもこんな風にできるなと思うことがある。
 ヒョットしたら Oさんが 私達をそんな風に思っていたとしたら・・・・、西部氏がオルテガを評する文章を読むと 難解な言い回しだけれど 特に・・・・「真に理性的な人間とは その理性に限界があることを理性的に把握できる人間である」・・・・という箇所に釘付けとなった。
 自分達が良かれと考え 行なってきたことが 果たして正しいのかどうかと疑い続ける、その先に英知があると謂っている。そのオルテガが生きた時代は2つの大戦の間だった。
  それでも家族や教育、産業、政治、行政など 「してはならぬ」制約が今よりもあった。その基底となっているものが何なのか??? これこそがお二人の謂う「居場所」無き大衆社会の迷いなのだろうと思うのです。
 
 平成30年度もあと2日を残すだけとなりました。時間が過ぎるのが こんなに早いものかと思う。記憶が怪しくなり 振り返っても 思い出すことが減ったというのが一番の理由であろう。誰かが言っていたのは歳取れば感動が減るんだと。
 だったら 今を大切に生きよう、これしかないよ。
 何十年?と荒らし放題だった竹山を相棒のNさんと、コツコツそれもほゞ毎日やって どうにか終わることになりました。直線距離で200メートル以上ある急峻な土手になった竹林、見違えるようになった。気が付くと身体じゅうにアザができていた。
 一カ月以上 格闘したご褒美だ。 これで止めておけば良いのかもしれない。隣の家で倒木を怖れて 何本もの杉を切った。真っ先に変わったのは 朝の陽光、何か得をしたように思う。夜明けと共に周りが明るくなるのを知った、樹齢100年を超す杉の大木、今は材木屋さんも持っていかないことが判った。あちこちの家で自分の山の木を製材し 天日乾燥し 利用したのは 然程昔のことではない。今は手間賃を考えると製材するのが歩に合わない。
 でも 正直勿体ない。昨日から手頃な太さの杉をタダで貰い ベンチつくりを始めた。 竹林のベンチ  風流じゃないでしょうか?? 現実はやぶ蚊・・・・・。どうも場所さがしは思うように参りません!
 玄孫へと 植えた杉 先のことは 先のこと・・・・
 

3267:バナナ

 バナナとコーヒー 朝の定番、それも起き掛けの早朝タイム、今朝はチェロの音楽がBGMだ、これだと 優雅ということになるかもしれない。実際はユーチューブからでその時の気分で選曲は変わる、演歌あり民族音楽ありですね。
 昨日 某法人の役員会があった。理事長には大変お世話になっているから いつも出席している。合間をみて 隣の先生と話をした。先生は国立病院のドクターをしていて 独立、その後特養をつくった。”人材確保はどうですか?”と尋ねたら”もう 大変ですよ。やっと派遣会社からの職員で賄っていますよ・・・・”とこぼしていた。病院だって同じ、社福よりも もっと深刻だと その先生は言っていた。確かに 市内の産婦人科の個人病院は全て 入院対応を止めたり病院そのものを閉じた。 
 いよいよ地方銀行が人材派遣業をやるようになったと聞いた。本来の業務が 先細り、やむなく国も規制を緩め 金融業以外の事業ができるようにしている。今、派遣社員は この国の全業種が対象となっている、人の需給バランスが崩れているから何処も苦労している。 繋ぎの人材として働いてくれるのが2~3カ月が限度、方や派遣会社への手数料はウナギのぼり、年俸の30%が相場とか、これだって 下がる見通しはないそうだ。これでまわせる業種ならよいが そうばかりではない。派遣会社そのものが人材確保に四苦八苦しているのが実態だ。
 日本の目指す方向は 正直 判らない。福祉現場の実態を見れば この国の縮図が見えてくる。近頃は訳のわからない事が起こっている。事業所の全体の数どころか、その内容・実態の把握ができていない。事業の認可と運営内容の検査を分けたから どうなっているのか掴めない。これは忌々しき事態だ。それでいて次々に新手の事業を考え出してくる。どこの現場も その対応に四苦八苦、膨大な労力と経費がかかり このままでは事業そのものが疲弊してしまう。
 バナナは どこの店頭にも並ぶ。果物の中で値段も手ごろで 変動が少ない。それとヨーグルトもそうだ。何も高い金を出して御馳走を食するより 健康的で安心だ。
 「木を見て森を見ず」という言葉があります。この傾向がより強まった感がする???
 竹や杉が利用されなくなって久しい。当然の事として竹林や山は荒れ、無惨な状況になっている。土砂崩れを防いだり水質保全という役目を果たしてきた竹林や山林、 今の儘放置すれば自ら枯れてしまう。そんな事 誰も関心がない。
 人間だけではあるまい、利用するだけ利用して ポイでは 物言わぬ植物や木々だって 。。。。逆襲に転じる!
 

3268:新元号雑感

 本日 新元号が発表され平成も残り一カ月、五月一日より新たな元号になります。多くの国民が皇太子殿下が新しく天皇になることを 固唾をのみ見守っています。
 尚恵学園も新たな年度を迎え、本日 新採用者の辞令伝達、異動発表、その後 各部署に分かれ 話し合いを持ちます。夜七時より、市内のホテルにて新採職員の歓迎会と併せ 食事会が行われます。スタッフの数も徐々に増えて 現在140名を超す人数に成りました。
 『願一共生』は 創設時に 掲げた願いです。私が6歳の時ですから62年が経過したことになります。その間 多くの人達との出逢いや別れがありました。社会も随分変わりました。多くの制度もつくられ、事業者も格段に増えました。
 最初から神宮寺と観音寺の協力と支援を頂き ここまで来たという正直な思いです。自分を田夫野人と言いながら 笑顔で子供たちと触れ合っていた初代の理事長、それを支えてきた職員や地域の人達。平成20年にその願いを忘れないようにと有志で神宮寺本堂裏に筑波石により碑を建てました。その直ぐ傍に 尚恵学園のお墓があり、手狭に成った為に納骨堂を大きくしました。
 『この子らを 世の光に』 糸賀先生の言葉は 私が共生と共に目標とする願いです。
 今年は 私にとって新たなスタートの年としたいという思いがあります。引き受けてきた 様々な役目を次の方に引継ぎ 尚恵学園の仕事に専念することになります。☆新年度尚恵学園の基本
     昭和35年    
 茨城新聞

(ここに光あり!)

 
 
 【令和】 新らしい元号が発表されました。・・・初春の月にして気淑く風ぎ梅は鏡前の粉を披き蘭は珮後の香を薫らす・・・・(万葉集)からなそうです。 その意味を どうな風に解釈すれば良いのでしょうか?外国のメデアは【令】という字の自国語への訳が難しいとか。 日本人が大切にしてきた【和】と合わさって これからも 仲良く平和な時代であることを万人が望んでいるのは間違いない。 その為に どうすれば良いのか もっと国民に分かり易く参加できる社会になって欲しい。
 桜・辛夷(こぶし)・菜の花・桃・椿・・・・・卯月に入り尚恵学園の周りは これらの花が一斉に咲き始め 当に桃源郷だ。環境によって 人間の心は大きく変わる。一人ひとりの心の奥底を探ることは 難しい。でも 福祉の仕事は そこが肝心、先人達が辿った道程は どこまでも続くだろうか?社会がどうなろうと 要の教えは引き継がれていかなければならない!
 私の願いは その一点だ、人任せでなく 自分達ができることから始めようという事ですね。職住分離とか地域生活を掲げる割に どうも シックリいかないのは 模倣や焦りがあって 見栄えへの拘りが強いからだろうと思っている。
 竹林の掃除が終わって 頭に浮かんだ事は ベンチ作りだ。いま 暇さえあれば 杉の皮むきをやっています。横を通り過ぎる人達が何をやっているのかと声をかけてくれる。≪切った木を使わないから 自由に使って良いと言われたので、ベンチを作ろうかと思って・・・≫ 昔の人は 屋敷の周りに木を植えた。それは 子孫が用材にする為と防風林、時代が変わった。周囲に新しい家がドンドン建つ、すると 台風で木が倒れ被害が出る事が心配になる。だから 100年~150年の成木が 用材になることもなく伐採される。そんな時代になったのです。木は何も言わないが 木霊(?)が聴こえる。何かに使ってよ!という声です。変でしょうか?
  明らかに高齢化の先進国である日本だからこその視点と思うのです。 令和は5月1日からスタート。
 
 夜中12時半 管理者からメールがあった。 脈拍が異常値なFさん 夜間救急診療してくれるK病院へ通院し、点滴を行って園に戻ったという連絡だった。我々が24時間対応しているからこそできること、付き添ったスタッフの数は3人と知った。今日は管理宿直がベテラン職員だったことと新採スタッフが勤務だったことの理由からと後で判る。
 おそらく 世の中の人は こんなことが園の中で常に行われていることは知らないと思う。この国は これらの実態も 個人情報保護????とかいう法律で 抑えてしまう。その結果 我関せずとなったと私は考えています。
”大義親を滅す”という春秋左伝(前770年~前403年)にある故事が浮かぶ。君主や国家の大事に私情を捨てねばならぬという例えです。約2500年前の中国の戦国時代である。夕べのラジオ放送で国会珍事発言集(?)なるものがあるのを偶然知った。
電波にのり国会審議の遣り取りの録音が そのまま流された。故事とは似ても似つかぬ真逆の実態。大義どころか私情そのものだ。 挙げ句の果ては 某副大臣の地元応援演説の失態、「私は忖度しますよ」身内の集まりだからとの安心感がそうさせたのか、ガードの甘さを 通り越して 内部崩壊の前触れ? それが 国家の大事と摩り替えに、 その職責を果たしたいという不変の閉め言葉。あの方達は国民をどう思っているのだろうか?国辱・屈辱・侮辱・・・(現代版三辱)言葉が見つからない。自らの退路を学ばぬ者は 如何なる功も 辱となる。これもまた 先人の教えであったと思う。

3269:誕生日

 相棒のNさん 67才の誕生日、スタッフから電話で”今日 Nさんと付き合って下さい”と謂われた。了解したは良いが二人だけでもどうかと思い、以前、三人で食事したことがあった設計士のMさんを誘う。結局4人で 本人ご希望のすぎのやで細やかな誕生祝い、翌日 同行してくれたスタッフから「68才の誕生日には寿司を食べたい」と話していたと耳打ちされた。
  翌日 GHに戻る途中、自転車で通りすがったSさんが” 3月 64才になりました!理事長も 頑張ってるな~ アンタは エライ 褒めてつかわす!”といつものように敬礼の恰好をしながら訴えた?恐らく昨日のNさんとの誕生会の話を聴いたのかもしれない。でもSさんは水戸にお兄さんがいて 誕生日には 一緒に食事をしていると聞いていた。
 石屋さんで働いているFさん、週末は必ず寮に来る。顔を合わせると いつも筋肉隆々の腕で私の頭を掴み、”コラッ~ ぶくし 何やってんだよ”いつもの波状攻撃。その後 必ず”母ちゃん 元気だよ”と擦り寄ってくる。
 今までも同じだった、だが こころ此処に在らずだったと反省。何故か今 故郷に帰ってきたような思いになって毎日が楽しい。
 皆さん頑張っているんだ。帰り際、お菓子屋さんで働いているSさんが サテライトのアパート住まいの様子報告に来て偶然会った。”どうですか?”と尋ねると”疲れちゃった、だって社員が辞めちゃって3人でやっているんだもの。でも がんばる!”土浦では老舗のお菓子屋にもう大分長く勤めている。
  諦めて何もしなかったり 不満を言うより 小さなことで良いから自分がやれることが必ずあるからガンバレ!と普段から言っている。
 有りの儘に生きるなんて言うのは簡単、行なうことは難しいよね。相手と向き合うことだって そうだよね。寧ろ 相手から教わることのほうがずっと多いと思うよ。
 
 もし 人に二つ目の誕生日があったら どうでしょう? 大病を患い医師から余命を宣告され、全てを失いどん底を経験、そこから 見事這い上がった映像写真家”保山耕一”さんをラジオ深夜便の明日への言葉で知りました。今は365日欠かさず 始発電車に乗り、奈良県内の写真を撮りに出かけている。氏の写した写真に多くの人が勇気をもらっているという。いつか来るかもしれない 病との対峙、できれば誰だって健康で不自由なく生きたいと願っている。けれど突然そうなって 茫然自失から抜け出せず悲嘆の日々を送るかも知れぬ、 そのような人が世の中には沢山存在する。夢であって欲しいと何度思った事か、でも誰も替わってはくれない、自分で 現実と向き合っていかねばならない。
 もし、感心があったら保山耕一でネット検索すれば 彼の作品やプロフィールが出てきます。
 二つ目の誕生日を再スタートと置き換えても良い。定年まで勤め上げ仕事を辞め、その後 何をして良いか うまく見つけられない方も大勢いると思います。
 ならばそれを捜すことから始めようじゃありませんか! すると 今まで気にならなかった事が新鮮で輝いてるように見えてきました。僧侶という我が身とどのように向き合っていけば良いか?正直 こころは遍路さんですね。 私にとって 指南役である尚恵学園の人達から多くの力を頂いて来たことを 本当に有り難い事だと思います。
 
 杉材を製材してくれる方が見つかった。丸太では座り辛いだろうと 蒲鉾形半分に切り 1本で2個のベンチを作れば良い。私の拘りは老いて益々盛ん。夢中になってしまうから 体の節々が痛いのも 後から判る、寝れば疲れが取れるだろう。これは 若い時の話、そう成らない事を只今痛感しています。
 人には休息が必用、休むことと休む場所、どうも 最近は 見つけるのが難しい世の中になったと感じませんか? それは 社会も同じ、経済原則とかいうものに縛られてしまったから一時の休息もない 財やサービスが生産・分配・消費の遣り繰りで関係を保てるはずだと思ってしまったようだがそれは無理ですよ。
 バブルを経験し、その時金融の闇が露呈した、それでも時が過ぎれば 同じ過ちを犯す。ハッキリ言って”欲”があるからで 誘惑に負けてルールを曲げてまで 欲を満たそうとする。損得は 利を得ようとするから、ならば喜捨すれば 起こるまい。
 全ての生業に金銭を介在させれば、複雑になる。それは消費者に満足してもらう為にですか? 競争激化の自動車業界、一台の車を開発するために 数万個の特許がある。それを守るために 膨大な負担が生じているのです。
 一億総活躍や共生、持続可能な社会・・・・・その実現にどれだけ近づいたでしょうか?そこには 喜捨の考えは皆無。財源確保の為には経済を発展しなければとの決まり文句を繰り返し、無駄が何かを真剣に考えようとしていない。
 高層ビルが林立する都市が繁栄の証ですか? 40年後~50年後 あのコンクリートや鉄を解体するのに どれ程の蓄えが必用とお考えですか? 某銀行マンが利殖話で突然寺に来て、正直腹が立った。ならば 国の借金1000兆円の金がどれ位の高さになるか判るかと尋ねた。その結果は唖然たるもの、なんと10メートルだった。ある時 某市長への同じ質問で 彼は富士山の高さかなと答えた。此れが GDP世界?位を誇り その牽引車と考える専門家の感覚です。
 1000兆円の札束【一万円】の話は 何度もここで出している。今の日本を示す最も判り易い例えに成るからです。最新のジェット機で10時間飛んだ距離以上の距離になる。
  仏典を求めインドまで歩いて行った河口慧界老師が今の日本の状況をどうみるでしょうか 呆れるだけでしょうね。
 4月8日 灌仏会 お釈迦さまの誕生日です。

3270:見極める

物事の真偽を見極めることが 難しい時代に私達は生きている。この最大の原因は スピードと利便性への現実を度外視し,盲目的・過剰な欲求にあると私は思っています。 そこまでして 貴方達は何をどうしたいのですか? この問い掛けに 誰も答えられない。当然だ 誰しもが できれば長生きしたいと思っているし 安らぎを得たいとするからだ。
 先人の経験を軽視したツケが 様々問題となって処かまわず浮遊している。未来志向もいい加減にしろ!とほざいても 無視されるだろうか。仏教は諭す、妄心は迷いの心、誤った分別から起因すると。
 命の尊さは 看取りの現場で 延命蘇生をするかしないかの判断が待つ。家族がその判断をするのは 断腸の思い、だが その家族がいない時はどうするか? 私達は 今までに何度も そんな場に臨んできました。≪おれ 死ぬまで 貴方の子ども・・・・≫という歌詞があります。 それさえも言うことができない方がいる。個の尊厳とは 尊くおごさかで、犯しがたいこと。
 
 Oさんは 今 どのような思いで病院のベット上でいるのだろうか? 思い出が 次々に浮かぶ、彼は精一杯 明るく 優しい気持ちを忘れずに生きてきた・・・・・。 スタッフより教わった折り紙を暇さえ有れば折っていた。自分の部屋に千羽鶴が飾ってある。
 輪廻の再生思想は古代インドのバラモン教が起こり、その後にヒンズー教や仏教に継承され アジア世界における死生観に大きく影響してきた。キリスト教やイスラム教では最後の審判を受け、永遠の生命を与えられる(天国)か 地獄に堕ちるか、「復活」の思想によって 死後の世界が決められるという。
 仏教では生前行為によって行く世界を明確に分けた。(因果応報)
 いずれ誰もが逝く処、できれば極楽・天国を望むだろう。生前の行為(生き様)は 懐かしく語り継がれることもあるが いずれそれも忘れられ消えて行く。そういった無常感は不条理な個々人の生を直視し絶望に陥らずに どう生きるかという最大の課題を見極めることだと思います。
・・・・梅の花散らまく惜しみ我が園の竹の林に鶯鳴くも・・・・・(万葉集:梅の短歌0824)
 
 偶然 朝のWowowで映画『空海』をやっていました。主演は北大路欣也、 撮影には真言宗各本山が協力、当時私の知り合いも僧衣の姿で出演した。いま何故 再放送かの事情は分からないが、空海は平安時代、鎮護国家をかかげ、血なまぐさい争い絶えぬ暗黒の世に、嵐を鎮める牙となると留学僧になり遣唐使で中国に渡った、そして真言7祖の恵果和尚より密教伝授を受け8祖となった。「この世の一切を遍く照らす最上の者=遍照金剛は空海のことを指す。
 空海(承和2年3月21日:835年)の入定から、もうじき1200年となる。平成の次の元号は令和、承和と同じ和が入る。当時 大陸に渡るために造られた木造船は全長30m幅8mという荒海を航海するには小さすぎて決死の覚悟がいった。
 勿論、今の時代と比較はできない。なにせ モノが溢れ、24時間休み無く、動いている現代は異常かも知れない。4月より働き方改革法が施行されたは良いが、何かシックリしない。空海が長安で20年という決められた滞在を2年で帰国した。教えを習得する努力は想像を絶するもの、強固な使命感と行動力は 今風の尺度では測れまい。豊かさ=平和とは決してならないからである。