源究208g208

  

NO テーマ 月日 NO  テーマ  月日  NO  テーマ  月日  NO  テーマ  月日 
 3671  伝えたかった事   2/7  3676  であい  2/18  3681  無力感 焦燥感  3/1  3686  代償と報復  3/14
 3672  融合と調和    2/10  3677  No.2のトラウマ   2/20  3682  可謬性   3/4  3687  愛おしさ  3/16 
 3673  理非曲直   2/12  3678  変化と選択    2/22 3683  平和    3/7  3688  人は人?  3/18
 3674  帰結の明暗   2/14  3679  断じる勇気   2/24  3684  玉石混淆   3/10  3689  宗教の役割 3/23
 3675  みそひともじ   2/16  3680  こだわる人生   2/26  3685  11年目   3/12  3690  善し悪し?  3/24

3671:伝えたかった事

 『日本人の宿題』で半藤が伝えたかった事(半藤史観の原点)は何だったか?
 ①勝ったという経験は、人間を反省させないし、利口にもしません。②教育によって国というのは立つんです。経済によっては立たない。この二つの言葉に半藤が伝えたかったことは集約できるのではないか。昭和史を時間軸で追う節目節目で確信したことであろう。私達が日本の戦前戦後で何がどう変わったかを観ることは戦争を知らない世代が圧倒的に多くなった今、何もしなければ 記憶は薄れ、いずれ無関心となっていくだけ。その例証は無限大、国は経済ではなく、教育によって立つものであるという半藤の考えを批判する者はいる。だが最近の10年、国の中枢(屋台骨・梁)において反省も無く曖昧にされてしまった事象の数、それを打ち消すかの如く数字の上下に一喜一憂する。斯様な国になってしまって果たして未来があるだろうか! 根拠となる数字さえも 真偽が判らないとしたら、”茶番劇”を態々金を払って観ているのと何ら変わるまい。
 競争社会だからこそ教育の重要性が問われるのだ、勿論、教育は知識だけではない生きる指標(智慧)を学ぶこと、何の為にという目標を見定め それに向かって励むこと、時時の色違いのスローガン旗がなびいているのとは訳が違う。
 10年前、ブータンの仏教寺院を訪れた時、ものすごい数のタルチョーをみた。寺や峠になびく旗(タルチョー)は5色で色の順番も決まっていて、5大(地水火風天)を表し それぞれに願いが込められている。当時のブータンは世界でNO.1幸福な国と謂われていた。
 
 (続) 歴史とは「人間」を学ぶこと。その歴史を継承することの大事は、残しておけば後の人が真実に近づくことができる。
 本の中で保阪正康が半藤のメッセージでもっとも重要なのは一言で語られると、その言葉とは≪戦争の被害者とは戦場で戦って死んでゆく兵士だけではない。後方にいる少年たちの感性もまた被害者である」(上掲:p183)と解説する。
 私は住職になってから お盆に新盆の家に伺って棚経を行っている。いつの間に50年という歳月が流れた。仏壇の上に飾られた遺影には 軍服を来た先祖の写真もある。現在の当主は、その方の子や孫に当る。それだけ時間が経ったということなのだ。
 上記した①勝ったという経験、日清・日露である。今はそれに経済大国(No2)になったという過去の栄光が加わった?高度経済成長期、日本は約10%の成長を毎年、それも20年間続けてきたという。そして 今・・・・。
②教育か経済かの比較は単純ではない。教育とは「人間」を学ぶこと。経済は想定外のリスクと対峙することが問われる。非常時になって慌てても仕方が無いと思う。
 その半藤は「絶対」という言葉をある時期から使わなくなったと言っている。

3672:融合と調和

 溶け合って釣り合いがとれている状態ならば両者の間で軋轢は生まれにくい。判っていながら それが出来ないのが常、平時なれば 目くじら立てることも無く過ぎていくかもしれぬ。だが、有事はそうじゃない。些細なことまで大袈裟に取り立てて騒ぎを大きくする。是もまた世の常である。
 魑魅魍魎(ちみもうりょう)とは、いろんな化け物、これが時々悪さする。仏教では 外だけでなく 自分自身の中に在ると観る。いや~参った! 誰しも思い当たる節はあるでしょう。こればっかりは 知らぬ存ぜぬ、俺には関係ないとは参りません。肝心なことは 悪さをしないよう上手く付き合う事だろうが これが実に厄介ときた。落語に”疫病神”の居候と、その家の主人とのやり取りが笑う種となる演目がある。
〇居候 角(かく)な座敷を丸く掃き〇
日常の挨拶 ”お元気ですか”と尋ねられ、 一応”ハイ、どうにか”と曖昧な返事をしたものの、返しに”そちらは いかがですか?”と尋ねれば、相手も一瞬ためらって”はい、ドウニカこうにか”。どうにかという言葉を強めるとどうにかこうにか ・・・・・・やっとのことで。(大辞林
 いま日本海側は記録的な大雪、一方太平洋側はカラカラ天気。この対照的な冬の天気、それは日本列島の背骨に山があるから。日本は一年が春夏秋冬に分かれ 四季を楽しむことができる世界でも稀な国、これが長年かかって文化を育くんだ。自然との融合と調和を阻む介在者は どうも人間が考え出したものが多いようだし、気付きながら言い訳し、先送りすることも増えている。(ナマクサ坊)
 
  境内の石仏(六地蔵)の前で手を合せる人が増えているように感じます。一心に何かの願い事をしている、今 そのような気持ちになるのも分かるような気がします。宗教の有るべき姿、それが 宗教の違いによって人間同士が争うようなことが無くならない。宗教の役割は救い、安らぎ、もう手の届かない遠い彼方へ行ってしまった?
ウイルスをどうのこうのいう資格が果たして我々にあるのだろうか?生物の中で捕食連鎖が人間が突出している。 融合と調和をどう考えているのでしょう?  人権外交には侵害と擁護の見極めが求められる。ユニセフという国連組織から毎年機関紙が届く。表紙は一点をじっと見つめるやせ細った子供の写真、薬以前に食べ物が無いという、日本でワクチンの手配が騒がれている今、この子供たちは生きるための最低限の環境さえ与えられていない。この国では毎日破棄される食べ物は一向に減らず、それに頓着せずGDPを上げる算段ばかり、これを先進国と呼ぶならば、次の世代を担う子供たちにどう伝えるのか・・・・!。嘗て 日本は貧困のどん底を経験したことが忘れられている。これは明らかに我々大人達の責任だと思いませんか? 半藤のいう”少年たちの感性もまた(戦争)被害者”という意味がここにある。
  一部の人達だけで議論する今の制度を改めねばならない。政治が本来有るべき体を為していないからです。核兵器削減もしかり世界の取り決め(条約)を批准するか否かも国民にはかるべきです。何故、オープンに議論することを躊躇するのかが全く分からない。何を恐れているのでしょうか 、それさえ判らず国の未来図を描けるとでも思っているのでしょうか? 日本が世界の平和に貢献するというのであれば 先ず自分達の足元を見よ!と言われても仕方が無い。
コロナが日本人に課した宿題なのではないでしょうか。低投票率と経済低迷は相関している。他と比べ様子を伺うというのも いい加減にしないと己を見失う。

3673:理非曲直

 「理非曲直」(りひきょくちょく)は、道理にあっていることはずれていること、これを弁えないと支障をきたす。先人の教えですね。フムフム。
 子供の頃、雪が降れば大喜び、寒さなんかものともせず外で遊んだ。遠いと~おい昔の話。それが今、雪降れば寒いさむいと愚痴の三昧めぐり。環境が変わったというけれど、人間の変わり身の早さのほうがずっと凄いでしょう。それに理非の境界が分かりづらくなっている。”盗人にも三分の理”どんなことにも理屈をつけようと思えば付けられる・・・という感じ。個の尊厳だって実は曖昧、解釈が自由で無罪放免の綾取りゲーム。なんと ま~困ったもんですね。。
 こうなることは想定の範囲でした、だから”宗教””哲学””道徳・倫理”などが生まれた。そのうちに”刹那的な喜び”需要が急増し、供給が間に合わない。こっちは想定の外だったかも、どうして?、(答)天井知らずだからです。ピンポ~ン!
  諦めるのはまだ早い。よ~く周りを見てみよう。『この子らを 世の光に』のこの子たちがいるじゃないか。どんな子よ?あああ・・理非曲直・・本日11日は建国記念日で祝日。たった今 花火があがった。  (ナマグサの自選復刻版)
 
 ≪当たり前と思っていたことが出来なくなった≫という話を良く耳にする。本当にそうだろうか?知らなかっただけではないか!貴方は当たり前の実体を問われたら模範解答が出来ますかね。ゴリラとチンパンジーの話を聴き、そんな思いに耽る。”群れ”という事を考えただけで 同じサル仲間でも異なる。群れを作らないゴリラは”不要な争いはしない”という。ここにチンパンジーとの差があって、その頂点に人間がいる・・・・・と。後付けの知識の多少によるのかもしれない。理想のリーダー像をゴリラにみる、トップとして備えねばならぬ素質、何だと思いますか?家長ゴリラは”えこひいき”しないという。ヘエ~!!。随分 人間とは違うな~。
 えこひいきを大事にして群れをつくるのに目が無いトップ。京大の霊長学の権威、山極壽一氏によれば、「人間社会がサル化していることを危惧する。。。」と。そのサルはニホンザルのことらしい、ゴリラは”不要な争い””えこひいきしない”と明言する。
 未来志向もいい加減にしないと”原点”を忘れ、何が最先端技術か科学の進歩かさえ判らず 群れを成し見栄えに現を抜かし 結果”理非曲直”、生命をも危うくすると思いませんか。
 

3674:帰結の明暗

「 原因となる事態から結果として生起する何らかの事態 」を”帰結”という。【哲・論】
 今は何を信じて良いか判らない時代になったかもしれません。私は『人間喜劇』を50年前卒論に選んだ。バルザックが長短編小説全91編に自らつけた総題、19世紀前半のフランス社会とそこに生きる人間たちを喜劇と題し描いた。あれから50年が過ぎてこのコロナ騒ぎ 当時はこんな事に成るなど思ってもいない。何らかの原因があったと観るか、それとも偶然で未知なるものか・・・?半世紀前、今と違う理由で授業がなかった。その時は学生運動でのロックアウト、あるものは雀荘に入りびたり、仲間か集まれば議論し、鬱憤をはらした。これは私の身近な人達ということでお許しを。ただ、この動きは時間差で地方に伝搬し終息まで何年もかかった。4年の間に学生を続ける意味を失い中途退学していく学友が何人かいた。自分では この4年間が転換点になり寺を継ぐ決心がついた。本山(奈良県・長谷寺)に参籠し僧侶になる道を歩む。
 偶然か必然か その時は判らない。後で振り返って こういう事になったんだな~と思うだけ。コロナ対策の遅れをあれこれ人はいう、他の様子を見てからという常套手段は 用心の上にも用心をするから当然の帰結? ? しかし、問題の核心はそこではなく、ワクチンの国内生産に未だ目鼻が付かないこと、それとチグハグな検査体制にあると思う。 この後れを取り戻すのは至難の技です。2年がたっても余り変わらない。この期に及んで民間企業に責任を負わすということは無いと信じたい 国民はこの辺のブレに不信感がつのるのではないですか!。
 50年の間に、目標に向かって前に進もうという活力が どういう訳か 方向が定まらず、段々と活気も萎えてきたように感じる。21世紀初頭の日本社会を描くとすれば 総題は?
 
 
 本堂右脇間の壁に幅2メートルを超す額がかけてあります。子供の頃から客間の壁にあったことを良く覚えている。”知足”と書いてある。身の程を弁えてむやみに不満を持たないこと”知足安分”、宣なるかな むべなるかな。
現に言行定まらず。戒め慎むべし!
・・・ 押し寄せる箴言 防戦一方余儀なく 安息の日よ いずこにありなむ。徒然なるままに 日暮しPCにむかひて なお懲りず。
    脳裏に浮かぶ友の顔 昔を懐かしむ 束の間の時。・・・ (ナマグサ懺悔復刻版)
 ☆ ≪大事なことは、「試す」という事で、世の中の成功者は誰よりも「試す」を繰り返してきた。どんどん新しいことに挑戦しなさい。だいたいうまくはいかない。でもともかく挑戦しないと何も始まらない。≫(『挑戦』山中伸弥・藤井聡太。P169)☆。

3675:みそひともじ

 みそひともじ(三十一文字)は短歌の別名、五七五七七の歌、万葉集や百人一首、日本の誇るべき文化、奈良・平安・鎌倉時代に盛んに詠まれた。
 介護百人一首というものがあると初めて知った。介護される側と介護をする側の思いを歌に詠む、このコロナ禍の中だからこそ その双方にとっての心の内を31文字に綴る意味がある。番組の中で選者が入選された歌を解説する。その選者自身も今母親を自宅で介護する。ラジオ深夜便『明日へのことば』夜明け前の四時を過ぎた時間である。
 特に印象に残ったのは97歳になるという方の歌だった。今回で3度目の入選という常連、番組の中で電話で娘さんと選者が話をした。娘さんは多分、私と同じ位の年齢だと思う。選者から短歌はそれぞれの年齢によって読まれる処に意味があると話されて、娘さんが”ああ・・そうですね”とこたえた、人生誰しもに悲喜交々の日々がある、そんな中で思いやりや寄り添うことの大切さを感じます。
 ☆ ≪ 誰も きみに 未来を贈ることはできない 何故なら きみが未来だから。≫ (谷川俊太郎) 
 
  追悼の文に≪こころ清ければ仏をみる≫という一節があります。いつも此処で想うことがある。仏は願い・望み?亡き人? 
 最近 なるべく歩くようにしています。毎日 仲間たちが 歩いているその道を。寒い日も風が少々あっても、小さなグループ別になり生活のリズムを保ち健康のため、その中にはビニール袋を片手に道端に捨てられたゴミ拾い班あり 様々。
  何処かで春一番が吹いたと聴いた、段々温かくなる季節がくるんだ~。足下をよく見ると枯草の下に芽吹きを発見、冬 じっと寒さに耐えていた草木は正直もの、誰かに教わったから そうしている訳じゃない。準備を整え、その日が来るのを待っている。私達は そういうことに永い間 無頓着でいすぎた。。
 だから道筋(歩み)が大事なことを わすれてしまう。結果を早く出そうとすれば 選択肢は狭って見栄えに偏る。念ずれば 花開く その花も いずれ枯れて散る命なれば・・・。社福のトップが横領で逮捕され、簡単に罪を認めた。 令和の時代に一町一法人しかない。 
 ☆・・身を観ずれば水の泡 消えぬる後は人もなし 命をおもへば月の影 出で入る息にぞと留まらぬ・・(別願和讃:一遍) ☆

3676:であい

 人は一生の中で いろんな出逢いがある。まさかそれを否定する人はいないでしょう! であいは人と人だけではない 自分が知らなかったことを気付かせてくれるもの、生きているという証などなど、そう思ったら良し悪しを決めるのは早合点。だってそうでしょうよ、私達が知っていることなんて微々たるものなんだし、判ったような事を言えば周りからは”胡散臭い人間”と思われ嫌われるのが落ち。でも それを生業としている人も中にはいますので。ですから 自惚れにならぬために謙虚さという態度を学ぶんだわな。
 現代を生き辛く感じている人は沢山いるでしょう!私はその標本みたいな人間かもしれない。なんでこんな目に合わなければならないの? あああ…いやだ!/////。そんな時 待ってましたとばかりに”じゃ~ どうすれば気が済むんだお前は?”と、もう一人の自分が横から口を出してきます。 誰だったか思い出せないけど”悪の無限的増殖”といった。   これもであいでしょう。ただ此の儘ならば誰にも迷惑をかけない。
 本とのであいがそうでしょうね。本探しは50年前と格段の差、書店で探したのは遠い昔、今はネットで注文し翌日には手に取ることができます、それも数多い本の中から選べる。でもね~ 昔と変わらないことだって有るんだよ。それは 何故その本を読みたいのか?ということですね。当たり前 ハイそのようです。
 ☆ 『仕事は 楽しいかね?』デイル・ドーテン著・・・・山中伸弥氏が薦めてくれた本です。
 
 2年以上も続くといい加減参りますね。突然流れてきた大型客船でのコロナ感染ニュースは衝撃的でした。降って湧いてきたというのは当にこのことかと思いました。状況が判らない内にあれよあれよと感染拡大、相手はお構いなしに変異を繰り返す、その度に大騒ぎさせられてきた。終息宣言はいつになるのか、規制と緩和を繰り返す。日本の総理が頻回に変わるのは世界でも珍しい。国会中継をみていると焦点が定まらず 国民に理解してもらおうとは思っていないように感じる。これもまた出口が見えない迷路。
 今回のコロナ禍は”人類全てのであい”。何せ100年に一度あるかないかの災禍、対応次第で国の存在基盤を危うくしてしまう恐れがあると史実が示す。そう考えると日本の今の状況は深刻さが最高レベルに達しているように感じます。
 今の政府に望むとすれば強いリーダーシップで一貫性のある行動、それを国民に判り易く、進めて頂きたい。そう願うだけです。
 ≪・・・もちろん、成功は努力のたまものである。ある事柄が”完璧に”できるようになったら、次は”完璧以上の素晴らしさ”を目指す、というくだりは、印象的だったというより脱帽という思いである。「完璧とは、ダメになる過程の第一段階」。これこそ、私たちが肝に銘じておく名文句ではなかろうか。・・・≫(上掲本、P181より)

3677:No2のトラウマ

 ≪目標に関するきみの問題は、世の中は、きみの目標が達成されるまで、じーっと待っていたりしないということだよ。≫(上掲本、P73)
嘗て良く耳にした”企業戦士”、その是非を云々するつもりは毛頭ない。ただ、現状の日本を俯瞰し どうも浮足立っているように見えてしまう。嘗ての名の知れた企業は この20年で大分会社名が変った。名は残っていても 調べて見れば外資系の経営となったものが増えている。これをグローバル化という言葉で覆い、時世の流れだからと気に留めない それで良いのだろうか。コロナ禍により 日本の弱点や遅れが炙り出されてる。西欧の国が出口を見据え、根拠に裏づいた緩和政策に切替ている中で 日本が今どのようになっているか?国として如何に自立するかを 国民を含め議論してこなかったことのツケは至る処に蔓延している、。
 ”No.2のトラウマ”とは?。それは過去の栄光(GDP)から脱皮できずにいるニッポンを例えたもの。ハッキリ言って 国の中枢にいる人達に根深く。権力の上に胡坐をかき、国の為という言葉を惜しげもなく使い何の責任も感じない人達ではないでしょうか!経済の成長だけに特化された関心事、大事なものを失ったことを反省しない。その間に 世界は待ってなどいないから 見なさい 今のこの状況を。
 家柄や親の傘の下で 不自由なく育った方に、有事の舵取りを託す!というのは 所詮、無理な話。”完璧以上の素晴らしさ”のビジョンを彼等に期待するには 子供の時から用意されたものに慣れてしまったら世態がフィルター越しにみえる。。
  これが”No.2のトラウマ”の後遺症、応病与薬への”焦り”である。(天の声)
 
 地元の為に働くという言葉の意味を誤解している。平時ならばまだ許されるが、この有事の際にあっては このズレが致命的になる。国の非常事態にどう責任を果たすかが問われているのに その判断を地方に回すのは如何なものか!都合主義・責任回避と謂われても仕様がない実態の深刻さを観じる、なぜか派閥の論理は健在(?)で 経験や能力の無い人に、重要ポストを任せてしまう。これで隣国をどうのこうの言えますか?(韓国は4回目接種を始めている)。変化に対する選択は ”言い訳”はきかない。
 残念だが 未だ機が熟していないようだ。『世の中は、きみの目標が達成されるまで、じーっと待っていたりしないということだよ・・・』( マックス爺さんの言葉。)
  『大きく変革するときに、人間というものは正体を現すんですよ』(半藤一利) 諫言者は 我々に宿題を課して既にこの世にいない。
  ならば正確な情報を判り易く国民に知らせることから出直すしかない。

3678:変化と選択

 ある程度 今の状況は予測できたことでしょうね。それも あらゆる処に伝搬するだろうと。評価が真逆に別れるのは”変化に対しての選択”の違いから。
≪成功するというのはね、右に倣えをしないってことなんだ≫(P75) 他人の成功をまねる事は 一つのところに群がって、小競り合いをすることに忙しいものだから、機を逸してしまう。世間に溢れる「成功者になるためのノウハウ本」 どれも 似たもの同士・・・・デイル・ドーテンはそう指摘する。人まねでは いつまでも後追いだから やっと形になった頃には 無用の長物。 日本が遅れをとったのは おそらく昭和の延長から脱皮できない何かの原因があるからではないか、焦れば焦るほど浮足だち戦後最長となるデフレの出口は未だ見えない、 個人消費が伸びないというのも、モノがあり過ぎて余っていないのか或いはお金が無いかのどちらかです!空き家の多さと新築の多さ、これは多分政策的なもので一時的な選択肢、もしや我々が踊らされているのではないか。外需が伸びなくなると内需をあげようとします、従来の発想で代わり映えしない。気が付けば 国の財政が借金漬けで天文学的数字ing、負の遺産断トツの世界一。それなのに なぜか 危機感と改善策がみられない、こうしている間にもデフレの中身は変化する。様々な理由(戦争・疫病・自然災害など)で物不足となりインフレとなる、言わずとも、いま世界で起こっているでしょう。日本は責任をとる者が誰もいないという異常な状況。 少なくとも世界の人々は そう思わない。・・・・”当たり前だ” それを選んだのはアンタ達なんだから・・・・・と切り捨てる。 真似るのが得意なことに安住し、その始末が判らないということが証明する。。 もう一つの厄介な問題は 投票率の低さ=(政治への無関心)、これらは深く結びついて固定する。目覚ましは鳴りっぱなし、バッテリー切れとなりかけても 一向に目覚めない。
 太陽が高く昇った。 戸締めして アイマスク、いつまで 寝ているのか ・・・・・。
 
 選択肢があるようでない。変化はないようである。合わせて2で割れば丁度良い?? そんなことはないだろう。武士道精神は日本人が大切にしてきた日本独自の人倫・道徳、『葉隠』は鍋島藩士・山本常朝が口述したもので 葉隠論語と言われた。『武士道』(英文)は新渡戸稲造の著したもので 日本より外国で先に評価された。
 剣道の教えに・・打って反省、打たれて感謝・・・というものがあるという。”残心(ざんしん)”は、剣道では打ち込んだあとの相手の反撃に備える心の構え、弓道では矢を射たあとその到達点を見極める心の構えをいう。この免疫力も弱まった。
 この教えは変わるべきものなのだろうか? 変わるとすれば どう変わるのだろうか?真のリーダーは、どうあるべきかが問われ曖昧模糊、だが いずれ そのことは判るだろう。 
 同じ読みに”讒臣(ざんしん)”がある。その者たち(讒言して主君におもねる臣下)に囲まれ、変化と選択を見誤らないことを只管祈るばかり。(生臭悲嘆独白ノ抄)
 ☆・・残しておけば、後の人が、真実に近づくことができます・・半藤。

3679:断じる勇気

 断じるには、覚悟と勇気がいる。 難しい選択をしなければならない時、相手との関係を壊さないように思うとどっちつかずになりやすい。こっちが変わらなくても相手が変わる場合もある。
 ある古代遺跡の石壁に彫られた画にボール蹴りしているものがある、その解説を聞き驚いた。当時、ボール蹴りで負けた側の王は斬首されたというショッキングなものだった。スポーツに限らず世界大会が開催されていますがその頂点のオリンピックは”平和の祭典”、その開催期間中に ウクライナで危惧されていたキナ臭い動きが現実となった。遠い国の出来事? コロナ禍の方が大事?。
 嘗て日本が経験した戦争を語れる人は減ってしまった。世界に宣言した不戦の誓い、それを次の世代に伝えていく環境は整っているだろうか?今からでも取り組むべきだと思います。戦後77年が経過した。その間に世界各地で紛争やテロは絶えることはない その形も大きく変わった。形の見えない敵への恐怖、最新兵器、電子戦、情報戦・・・日本人が自分の国をどう守るかを考えるのは当然のこと、それには過去のトラウマからどう立ちなおれるか? 24日 ウクライナで戒厳令が発令されロシア軍のウクライナへの攻撃が始まった。
 
 「戦争というものは、本当に人間がやってはならない一番最大の悪だ」と繰り返し言い続けた半藤一利は、15歳の時に敗戦を体験、断末魔の叫びをどれだけ聴いてきたことか!戦争を起こさないための5か条を『日本人の宿題』として残した。それは史実に基づき出来る限り判り易く語る・・・・・・。
 その5か条は、勝ったという経験は、人間を反省させないし、利口にもしない(第一条)教育によって国は立つ、経済によっては立たない(第二条)、大きく変革するときに、人間は正体を現す(第三条)、残しておけば、あとの人が、真実に近づくことができる(第四条)、歴史を積極的に自分で学ぶこと(第五条)。激動の昭和史を倉庫の奥に終いこんで 目に触れないようにしてきたことに何ら反省を感じない人達に訴える。ここが同じ敗戦国ドイツとの大きな違い。それを今更と思うか今だからこそと思うか!世界の情勢を見れば答は明らかなはず。
 組織の大小に関わらずトップに立つ者には 常に冷静な判断力と覚悟と責任が求められる。
 

3680:こだわる人生

 ”とにかく問い続ける。あきらめては全てが終わる” いつも そこに戻ってしまう。それで一体何が変わったでしょう? 古希を過ぎたころから 一層その思いが強くなってきましたね。これは どうしようもない。ならば 否定するんじゃなく そのまま行こうと決めました。
  こんな時、河島英五の♪時代おくれ♪の歌詞が浮かんでくる。河島が生きていれば今年が古希、49歳で早く世を去った。 私は彼の生き方に共感する。決して美声ではないが魂のこもった唄。競うようにして 時代に遅れまいとする人達が多い中、一歩引いて 自分に問いかけ続ける生き様に忘れかけた価値を感じます。 私のこだわりの源泉です。朧げな,記憶を辿り いつ頃からそんな風になったのか考えても ハッキリしない。
 いま ウクライナで起こっていることは 実に訝しい。大国が強大な軍事力をもって 小国を押さえつけ 自分達の思いを果たそうとしているとしか考えられない。
  嘗て 悠久の大義が守られた試しが有っただろうか! 平和を掴むには とにかく 諦めず 問い続けなければならない。判っていても それが実行できないなら。
 平和は経済・軍事によっては獲られない。 必ず 憂き目をみることになる。 いま 境内に”あずまや”をつくろうと毎日 草刈りをやっている。散歩する人達が春の桜、秋の紅葉の下で”のんびり ひとやすみ”できるように・・・・・。
  藤つるが 木に巻きつき つるの何十倍もある大木を枯らしてしまう 咲いた花を綺麗だと観るだけの人に 果たして大木の悲鳴は聴こえるのだろうか。
 
 お蔭さまで早寝早起きが定着した。以前は 外回りのことに時間をとられ、周囲への迷惑を考えず性分で夢中になってしまう生活だった。 殆どの役は 他の人に替わって頂き。これからは寺の住職に戻ろうと決めた、正直 どうすれば良いのか未だ判らず、手探りだが充実した時間を得たことに感謝、いつも朝4時にはPCに向かいユーチューブからのBGMを聴きながら思いに耽る。ここにきて、ある変化に気付いた。それは”癒しの音楽”を検索するとロシア語の投稿が急に増えていることが判った。今起こっていることを知ることが難しいならばSNSへ、自分で事実を確かめたいと思う人達は流れる。
 平和を望まぬ人は誰もいない。追いかける人も逃げる人も銃を向ける人も抵抗する人もだ。その平和を経済や軍事力で獲ようとしても無理、 それを獲たとしても矛盾は脹らみ大事なものを失う。そのことに気付いて欲しい。人間の欲望は際限がない。
  愛犬をこよなく愛するのは どうしてそうなったのですか?  誰にも大切にしているものがあるということを  真の強さが どういうことかを 貴方に聴きたい。 

3681:無力感 焦燥感

 どこにいても衛星放送を通して 情報を獲ることができる。今 何が起こっているのか? それを観て どう思うか? 国民は真実を知らされず 一方的な情報から判断せよといっても無理だろう、それだってブーメランのごとく自分に跳ね返る。民主主義も社会主義も共産主義もそうだ。大切なことはその国の体制や制度の前に何があるかです。力によって強引に事をすすめれば必ず不満が出る。戦争は尊い生命の犠牲無くしては有り得ない。どれだけ こういう経験をすればすむのだろうか。地球環境を壊しても反省せず 、欲しいものを手にいれる為、手段を選ばず人間同士の争いを繰り返す。この地球上に77億(2019)の人類がいることを その人達は考えず 自分のことだけを考えているように思えて仕様がない。何を焦っているのかさえ判らず 自分で焦燥無力感を大きくしているとは考えない。自分に反対する者がいれば追放粛清し一時の満足を獲たとしても、いずれ自分の周りから誰もいなくなり たった一人になって悔やんでも仕方ない。 その一部始終を”大いなるもの”はみている。あらゆる宗教に共通する 普遍妥当性をもつ理想的・絶対的価値で人間の弱さを見据えた”楔(くさび)”だと思います。2022・2・28.4:00am 
 
 昨年の東京オリンピックはコロナ禍の中で開催され、様々な意見があったけれどもどうにか終えることができました。その1年後、同じアジアの北京で冬のオリンピックあり、2日後にはパラリンピックが始まる。自国の選手が参加しているなど眼中になくロシアがウクライナを攻撃、そしてメデアの関心は北京からウクライナ一色と化してしまった。平和の祭典の間に真逆の事態(陰鬱、悲惨、破滅)に世界中が翻弄され、どうしようもない無力感と焦燥感に苛まれている。
 これは現代社会に課せられた最大の問題だということを共有できるかどうか・・・・・。一方通行の主張、妥協点は見えない。
 「 自由・民主と独裁の違いは・・・人びとが時に間違えるという可謬性を前提にしている。だから、多様な意見が尊重され、政権が交代できるようにするのだ。」(遠藤 乾)

   シンビデュームが
沢山花を付けました!

 念ずれば 花開く

(厚生園)

3682:可謬性(かびゅうせい)

 現代社会の危うさとは、自分以外には信じられないという”独我論”に陥る人々が増え続けることかもしれない。仏教は 知識と智慧を分けている。知識には可謬性があり、それを弁えないと知識に溺れ、権力は独裁に通じ、公私のケジメを見失う。智慧は六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の一つ。正しく物事を認識し判断する能力が条件、これにより執着や愛憎などの煩悩を消滅させると説く。釈迦の生きた2500年以上前の昔からずっと変わらない教え(真理)です。
 違うとすれば 現代は様々な道具(ツール)を使い・・・・それら全て人間が考え作り出したもの・・ 想像を絶する情報量の多さに何を信じて良いのか判らない状況となっている。こうなることを恐れ警鐘を鳴らし続けてきた声は届かず最早、後戻りすることはできない、寧ろ進歩と称し競争を更に激化させているのです。使い方によっては本来の目的からズレ、善悪・真偽の判断さえも狂わしてしまう。
 国民を守るというのであれば どうすることが良いのか、武器をもって成し得ようとするのは決して許される行為ではない。・・ヒューマンエラー、ブラックスワン、戦場の霧・・・・
 
 
 物心一如・・・人を大切にすることと物を大切にすることは一体・・・。今日の社会は、必要以上のモノを作ったり手に入れて自慢したり、それが”豊かさの証”と感違う。あたかも自分がそうであるかの如く成功・勝利者物語を自作自演しているように思えてしまうのだ。その舞台となった処はたまったもんじゃない。 他の持ち物まで欲しがるというのは今に始まったことではないが許容できる範囲を超えても 既定の路線となったのでしょうか。だってそうじゃないですか、多少の遠慮・恥じらいはあっても良いと思うが それを全く感じない。
 ブラック・スワン(黒い白鳥)理論、「有り得なくて起こり得ない」ことが現実に起こって、「よそくできない」、「非常に強い衝撃を与える」という説です。これは1697年にオーストラリアで黒い白鳥が発見された時から使われるようになったという。主に自然災害、金融危機を表したというが、今は 人為的に起こった災害(人災)のほうが 遥かに深刻である。人間同士・国家同士、一度失った信頼は そう簡単に戻らない。コロナ禍であれだけ謂われてきた”持戒:自粛”を 一部の人間の判断で簡単に変えてしまうのは如何なものか。それも言動の中で”核兵器”をチラつかせるとなれば ・・・・世界がそれを どう感じるかです。 鋒を倒(さかしま)にする事も(太平記 38)、要は”戦場の霧”は 簡単には消えないということだと思う。

3683:平和

 この2年間はいったい何だったのでしょう! 世界中がコロナと向き合い互いに助け合ってきた、これも偽りの行為だったと言うのだろうか!
 開催を一年遅らせ実施した東京オリンピック、そして中国で今開催されている冬の北京オリンピック、この二つに共通する目的は”世界平和”(オリンピック憲章)。こともあろうにその開催中に大規模な軍事侵攻(核施設攻撃)が行われた。人類の共通の願いを踏みにじる行為は大国の責任が何をもって為されるのかへの暴力的挑戦、核兵器によって目的を果たすつもりなのか!近代戦争は情報戦を重視、様々な手を使い相手を攪乱し、人々の眼を自分達の思うようにしてしまおうとする。≪開示による抑止≫、知り得た情報を相手に先んじて世界に開示し、出鼻を挫くことで戦争を抑止しようとする。国連総会の緊急会合での双方の言い分(シナリオ)は、真逆、最初から相手を罵(ののし)った、和解へのみちはまったく見えない。
 今の状況は第三次世界大戦に向かって進んでいるのだろうか!いつの世にも 裏側で暗躍し利を獲ようとするものはいる。それに冷静に毅然として立ち向かうリーダーでいられるかどうかが問われる、独裁者の避けられぬ宿命は 史実が証明するように最期は孤立する。 always,the best,Thanks! 恐れず 主に諫言する者が周りから出て踏み止まらせることが最期の望み。≪窮鼠 猫を噛む≫
 
 人は自分に耳触りの良い言葉には弱い、それも時が経てば薄れ、満足が不満と化し更なる野望を膨らます。 その鎖をたち切ろうと藻搔けば藻搔く程、正気を失って泥沼に嵌まる。(八大地獄)
 私が生まれた寺は、本堂が3×3.5間の約10坪ほどの大きさだった(移築現存)。創建から約600年、観音菩薩が本尊で、その脇に恐ろしい形相をした12神将が並べてあった、前住職から聞いた話で、太平洋戦争で破壊を免れる為、寺に預かり 守ってきた仏像(境外仏)である。江戸から明治にかけ、廃仏毀釈(仏教の抑圧・排斥)運動が起こり、日本各地で寺や仏像・石仏が壊された。それは今から150年程前の話になる。これらの諸仏諸菩薩は 時の流れ一部始終を黙って見つめ、人々は 仏の前で手を合わせ 祈ってきたのである。(*)12神将・・・主である薬師如来立像(県指定文化財、土浦市歴史館蔵)の眷属。
 第二次世界大戦(1941/12/8~1945/9/2)の3年9カ月の間に、軍人・民間人を含め世界で約8000万人(ウイキペデア)の犠牲者が出た。決して遠い昔の話ではない。今 過去の2度の世界大戦が起こった時と状況が似ているという。
しかし、 決定的な違いは、いずれの国の元首も過去の大戦を知らない世代であること、それと世界に存在する膨大な数の核兵器である。・・・幻想と現実 混淆の危機・・・

3684:玉石混淆

混淆の淆は”にごる””まじる””いりみだれる”の意、玉石混淆は価値のあるものとそうでないものが入りまじっていることをいう。
ドストエフスキー (1821~1881)ロシア帝国の文豪、『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』などの代表作がある。二人のロシア文学者によって”ドストエフスキーと現代日本”と題し対談した記録(『図書』岩波書店・2022/2)を読んだ。その中で大阪教育大学付属池田小学校事件(2001)、秋葉原連続通り魔殺人事件(2008)、相模原障碍者施設大量殺人事件(2016)の三つの事件を取りあげ、”ドストエフスキーのパラダイム(規範)の中で見ていくべき大きな問題”として対談が行われた。その内容はドストエフスキーが1860年代~70年代に遭遇し、小説に結晶した事件が21世紀の中で繰り返し起こっているということに着目し、個人の問題と犯罪との結び付きについて考えを述べ合う。 何故いまそれが問題になっているのか?。その事由は推定の域を出ない。私は3つの事件の中で最も衝撃的だったのは相模原で起こった元施設職員による利用者19人の殺害だった。犯人は「私が殺したのは人間じゃない・・・」と悪びれること無く語っているという、障害福祉の仕事を長年続けてきて、事件の起こった施設も知っていたから余計気になった。その後、地元神奈川で行われた集会に何度か顔を出した。事件について、いつの間に話題にも上らなくなった。本を送ってくれた友人に”あの事件は風化したんだ”と言ったら「風化しているのはうわべで、根ははってます。」と直ぐにSMSで返事があった。
 個人の問題か社会の問題か、この種の事件は 犯人の精神鑑定を行い罰を決めるのが一般的、裁判の中で 自分は国の為に殺害したという主張を変えず、死刑判決に対し上告せず、裁判は結審した。もし社会の問題だとしたら どこに問題があって その対策を考えねばならない 此のまま葬られてしまうのだろうか。 曖昧で後味が極めて悪いとしか言えない、”玉石混淆”が社会のあらゆる処に根がはり蔓延ってしまえば、特定の人物を罰しても問題は解決しない。地下でつながっているという指摘の意味である。
 いま世界は ロシアとウクライナという嘗ての朋友同士の戦いに翻弄されている。 停戦協議を何度か行っているが解決の目途はたっていない。その間にも犠牲者の数は増え続けている。幻想と現実の混淆の厄介さは相手が幻想に留まる限り常に変異を繰り返すので これからも長く続くと覚悟しなければなるまい。最期は国民一人ひとりの命を国民がどう考えるかである。  
 
 茨城県はコロナ感染に対する判断根拠をオミクロン株に合わせ変更した。一日の感染者数が1000人~1500人で高止まり状態が続くが病床使用率は低い、理由は専用ベット数を増やしたことと子供の感染が多くなり、症状も重症化するまでには至らないという判断で自宅療養者が増えたこと。だが新たな問題として家庭内感染が増えた、それへの支援体制が充分かと言えば 課題はある。
 多くの人と関わる我々の仕事はどうしても最悪の事態を考えてしまう。日々の生活の中で不安が入り混じるのは避けられない。この経験は 予想もしていなかった処で協力の重要さを実感した。外観でなくむしろ内観にである
 対照的なのは”戦争”だ。一体何を考えているのか判らないトップ、その周りにいる人達、いつ誰に密告されるか判らず戦々恐々としているに違いない。情報制限の中で漏れ聞こえてくる情報にロシア国民の多くが どういう思いでいるのだろうか。平和は遠のくばかり、心身共に疲弊し、正気か狂気かの判断力をも失わせる。 戦争は地球上で一番最大の悪といわれる所以(半藤)はここにある。
 これらが 現に今起こっている”混淆”の内・外観である。(内憂外患・外憂内患)
 ☆帝政ロシアは1721~1917に存在、首都はサンクトペテルブルク(ロシア西部大港湾都市)。第一次世界大戦(1914~1918)中に二月革命で終焉。

3685:11年目

 2011・3・11 Pm:2:46 宮城県沖、東南東130㎞、日本周辺で観測史上最大の地震(M 9.0)は起こった、今日が11年目にあたる。震災後、観音寺では毎年地震発生の時刻に鐘楼の鐘を撞いている。死者・行方不明者1万8425人、福島原発事故を合わせると未曾有の被害をもたらした。
 未だその爪痕が各地に残る、その間。一人の詩人(和合亮一)が被災地福島からツイターで発信を続けていた、その全てが詩集『詩の礫(つぶて)』として書籍化された。その本は今 私の横にある。≪放射能が降っています。静かな夜です。≫(2011年3月16日21:30)地震発生から5日目の呟きである。
 私達は あの大震災から何を学んだのでしょう。時が過ぎれば人々の記憶から徐々に消え何も無かったかのようになってしまうのか 。でも まだ見つかっていない大切な人を今も海に出て捜している人もいる。
 11年の間にこの地球の上で何が起こっているか、世界中がコロナウイルスに翻弄されて2年を経過、更に、嘗ての兄弟国同士(ロシアとウクライナ)の戦争は激化し 世界が分断され最悪の核戦争へ追い込まれそうになっている。恰も時計の針が逆に回っているかのように・・・・広島・長崎の被爆体験を語れる人が減り、焼け焦げた振り子時計が原爆投下時間で止まっている。
 どのような理由が有ろうと、一人の人間の望みを果たすために無差別殺人は許されない、それは”犯罪者”である。 人間が許したとしても 天は許すまい。
 ・・・俺は 悪魔に 呟くだろう 魂を返せ、夢を返せ、福島を返せ、命を返せ、故郷を返せ、草いきれを返せ、村を返せ、詩を返せ、胡桃の木を返せ
      魂の木を想う、魂が転がる闇を想う、魂は夜を明かす、魂は言葉を呟く、魂を生きよ、魂を生きている、あなた・・・・・(上掲『詩の礫』p259~)
 
 
 世界中に拡大した無力感や懐疑心、ウクライナの今がテレビに映し出される 軍服を着た若い兵士が、泣きじゃくる幼い子供を必死になってなだめている、その瞬間近くに爆弾が落ちた。子供病院が攻撃された場所からのライブ映像だった。
 世界で今起こっている事に、いかに我々が疎いか 思い知れ!(天声)・・・・ つい最近まで この国の代表たちが一堂に会し議論していたことは何だったのか? 例の花見会の真相?偽証?改ざん?不正行為?・・・・・これらの問題の真実を明らかにすべき事は当然、だが いつも その結果はどうなったでしょう。尻切れトンボ!  その核心を突かれた、 どれだけ多くの謝罪する画像を見せられてきたか?・・・・・
 隣国の大統領選挙に想う、有権者の8割(77%)に近い人が投票して終わった。稀に見る接戦で勝利した人も敗れた人も 自分に投票した有権者の思いを感じたことだろう。方や日本は戦後一貫して、国民が直接、トップを選べない制度を踏襲してきた。何を恐れて80年も 変えずに続けているのか その理由を知らない人達が大半なのではないか。ネット社会に遺された旧態依然の仕組み(制度)は有事には機能しないことが実証された。案の定 今の状況がどのようになっているか?言わずもがな。大は小をかね、小は大をかねない???謝罪すれば許される??この誤謬の根は限り無く深い。
 11年前の未曾有の出来事から 見た目ではなく 人々のこころはどう変わっただろう。そこに関心が向かないというのもオカシイ。、
 選挙の時に適当な人が見つからないから・・・・という言葉を選挙ある度に聴いてきた! 憲法改正一つをとっても ハッキリ言えることは それを為さんとする人物への信頼の問題だと私は思う。貴方は・・・・!

3686:代償と報復

 人間は 時として大切な人の命まで無差別に奪う、非情で悍(おぞ)ましい形相は、自ら手を汚さず、思いを果たそうとする”うしろめたさ”の証。されど誰が”検非違使”となり得るか!恐怖に狼狽(うろた)え、ただ泣き叫ぶことしか出来ない子供たちの姿が世界中の人々に知れ渡った。それさえも 自作自演の偽情報だと言うのだろうか!人権侵害への代償を、人権侵害で報復する。この連鎖を食い止める手立てを放棄し、殺戮を繰り返す。
 地球の何処かで 常に争いが絶えない世界のことを 阿修羅道と仏教では謂う。六道の一つ。その阿修羅が釈尊に教化され八部衆の一人として守護神となったように、アナタはそうなれますか。日本では興福寺(奈良)に三面六手の修羅像があり 今も多くの人々が像の前で手を合せている。私達に今なにができるだろうか、只管 手を合せ祈ることしかないのか!連日 現地から送られてくる映像は、人々の心に深く突き刺さり、その影響は計り知れない。自分達だけが救われ、他は全て地に伏して従えと貴方は暴君ネロのごとくなりたいのだろうか。
 世界の人々の視線は今一点を向いている。 核爆弾使用許可命令を出す”ボタン”だ。人間が考え出した最大の不条理。代償と報復の混淆連鎖の元凶だ。
  ・・・私たちは、それぞれ恐怖の猫を持て余している。ここまで書いていると、葉書が来た。「読むもんか」。人類は卑怯だ。「何が卑怯だ」・・・・(上掲『詩の礫』2011年4月9日。23:17 福島から発信した呟き)
  ・・・知識は常に感情を手取りにして、解体し殺戮せんとす・・・(『囚(とら)はれたる文芸』島村抱月)  
 
 今から1900年以上の昔 古代ローマ皇帝ネロ(54~68)が放恣残虐の末 暴君の呼び名をつけられ今に伝わることを不名誉と思うか 無視するか それとも”英雄”と・・・?
 歴史は繰り返すというが、誰もその結末をみない・・・。今生きる者たちが何をそこから学んだのか 胸に手をあて良く考えてみませんか?その真相は判らない。偽善の中から真実の針を捜すように有らん限り眼を開き近づけてみても事態を究明することは困難だろう!
そして力を獲たものの責任とは何なのか? 己の力を鼓舞することか!その元は 富が略奪によって獲たものと同じように、それでも 不満なのか そして この世に生きる全てのものに貴方が与えるものは、”悲しみ”なのか、それとも貴方が謂う”愛””正義”なのか?それを決めるのは残念だが貴方ではない。貴方が何を信じ 誰を愛おしむのかは知らない。それは貴方が 相手を偽りの愛と思うように 本当の事は誰も判らない。釈迦は ”こころ清ければ仏をみる”と説いた。
 行動する前に 自らに問い続けて欲しかった。何も知らない幼な子が一瞬にして 涙が枯れるまで泣き叫ぶ姿を 今更 知らないとでも謂うのだろうか・・・・・・・・!(仏教者の呟き:小住撰ノ抄)
  

3687:愛おしさ

 ”愛(いと)おしさ”には 二つの意味がある。深い愛情を感じ相手を大切にする事と可哀そうに思う不憫さ。(⇔矛盾対当)
 ・・・・後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ・・・・(源信の母の言葉)
 何度か この言葉に私は触れてきました。 幼き我が子を9歳の時に寺(比叡山)に預け 子に託した母の思い。それに応えようとする子。 必死につとめ、母が喜んでくれると思ったら悲しむ母を知る。源信の凄さは名誉や地位を全て捨て『往生要集』を著わし母の言葉にある世を渡す橋になる道を歩み続けたことにある。全3巻を通し 源信は地獄に関する記述を多く残した。それが民衆にとって往生(成仏)するための教えとして、後世まで大きな影響を及ぼすのです。
 今時 それは望めないことかもしれない。見栄とこころの乖離がここまで進むと 人は平和や共生への道標を失い、道に迷い、組織は船頭無き航海を余儀無くされ寄港地さえ見つけられない。そして、自ら造った橋を自分しか渡らせないということが往々にして起こるのだ。(⇒邪心)
世を憂うることはできる。今起こっている異常さを 誰もが感じている、だからと言って 行動に移せない、イラ立ちと焦り、その元を辿ると分岐点に突き当たる、愛おしさと悲しみの誤謬。更に嵩じて 仮想と現実の見極めがなくなるゲーム感覚へとなってしまうから。
 
 
 現代社会の問題は、急激な変化の暴走を許したことに起因するのではないだろうか、最初は一部の限られた人達の手によって為されていたものが 命令や強制されたりせず独りでに膨張(自発連動)しはじめる。それを止めようとしても止められない。
 足下を見ず 未来志向で得意顔、人間の過信と仮想への願望を見事に刺激し調和より分断を加速させている。これ幸いと思うか まずかったと思うか 判断の分れ目だ。だからでしょう、人工的なモノに囲まれた生活に息苦しさ(アレルギー反応)を感じている人も徐々(?)に増えている。一昔前ならば常識だった農業での土づくり、手間をかけるのが出来ないので機械や設備に投資する。これは機械産業を育てるには貢献したかもしれない。だが 肝心の農業とその後継者が育たない。これもバランス崩壊の実態です。
 コロナ禍と戦争とオリンピック、この3つを考えてみれば判るでしょう。この3つが 地球上で同時に起こったことを説明できる人はいない。
 コロナにそこを突かれた。戦争は人間の邪気と愚かさの象徴、オリンピックは理想と現実の分断を世に知らしめた。 それでも諦めてはならない。最初は一部の人間によって始まったことだから それを変えることも 最初は一部の人間が手を組めば 時間が掛かっても 望む姿に 少しでも近づくことができると信じたい。そう思いつづけることだと思います。

3688:人は人?

≪ あなたの望む姿は≫と問われて  どのように答えますか? 私は 大勢の人達の最期を見て来ました。別れの時が一様でないように人の生き様は一つとして同じものはない。
 しかし 今は そう思えないことが多過ぎます。急激な変化に誰もが免疫不全を起こしているからです。最も深刻な病巣は”核兵器”これからも背負い続けねばならない人間の創り出した最大の罪。
 ≪以前に観た映画に、「ニーゼと光のアトリエ」、ブラジルに実在の女医の物語り、大変感動しました。 ・・・お薦めします。≫という友人からのメールが届いた。ネットで調べたらありました。直ぐにそのDVDを注文しました。古い話ですが私は一年間 国立秩父学園治療棟で研修させて頂いたことがあります。丁度 その年に海外から戻られたばかりの精神科医のS先生から精神治療の歴史を伺い大変なショックを受けました。
映画は 精神病を患った方に対し実際に行われていた電気ショック療法やロボトミー手術、それに一人の女性医師が反対し立ち向かった勇気ある行動です。アイスピックから筆にかえることで患者が固く閉ざしていた心を徐々に開き生きる光を見出していく変容の姿を映し出す(精神病治療の変革の象徴です。)。
人権、専守防衛、 核兵器による抑止力など巷に溢れる言葉・・・此処には”人のぬくもり”をまったく感じない 言葉による交渉ほど不確実なものはありません、協定が簡単に破棄され、不条理さえも狡猾な手段として利用されてしまうからです。多数の民間人が死んでいる。これが許されるはずはない、 沢山の子供たちが避難している劇場が爆破された、さらに原子力発電所にも爆弾が落とされた。これら常軌を逸した行為は現実に今起こっている。
 昨夜M7,4の地震が11年前の東日本大震災と同じ場所で起こった。人間の力が 自然には到底かなわないことを私たちに教えている。 そして 再び 筆からアイスピック(ミサイル)に変えることがどういう事なのか 問いたい ≪貴方にとって 真の愛と勇気とは何ですか?≫。。。。。。≪”光のアトリエ”を”闇のアトリエ”に変える行為は貴方のような特別(?)の人ならば為し得ることなのですか?≫
 
 報復と報恩・・・・後につける字の違いでどんな風に変るか想像して見てください。恨み・憎しみ・悲しみ・・・・最期の字”み”は共通、報復と報恩のどちらによってその感情は起こるでしょうか? じゃ~”怨念”という言葉から何を感じますか?心の奥底に刻み込まれたうらみですか!
 戦争を起こさないための5か条(半藤一利)、最初に勝ったという経験は、人間を反省させないし、利口にしません。『日本人の宿題』として戦争の悲惨さを生涯語り継ぐと誓った半藤は去年、90歳で亡くなった。
 人間の狡さと弱さは 真逆の姿で暈される。少なからず誰もが持っている習性かもしれない。大半の人達は、それを弁え、自分でコントロールしながら生きている。(中道),それが出来ない人も・・・最悪は その人が強大な権力を持ち、形振り構わず走り出した時。
 正当と正統の違いについて
 ・・・・【チェスタトンが唾棄(だき)すべき異端とみなしたのは近代を彩るものとしての進歩主義そのものであった。ヒューマニズムの名において伝統にたいして破壊を仕掛ける革新主義、それは近代における正当の立場であっても、断じて正統なものではありえない。正統とは、歴史の流れの連続性にかかわるもの、とりわけその連続性を確保するためのものとしての伝統の保守にかかわるものだからである。】(西部邁:『正統とは何か』G,K、チェスタトンの序より)・・・・・
 問題の核心は 核戦争による文明の破壊だと思う。 生命いのちの違いを 現代人の病理の面からどう捉えるか!正当だと考えてきたことが違ったと気付いた時既に遅しとなるかもしれない。

3689:宗教の役割

 春草萌え出る季節を迎え・・・・・・・・・。弥生三月、季節のあいさつ。 本日、春彼岸の中日(21日)。、18日の入りから24日の明け、そろそろ梅の花が散り、今は桜の開花を待つ、≪池塘春草の夢≫若い時のはかない夢。
 世の中が混沌としている、 戦禍から着の身着のまま焼け出される人々の”もういい加減にやめてくれ!”という悲壮な叫びが聴こえないのか ! 大国の役目をなんと思う。それを解説する専門家たちの声が虚しく聴こえる・・・・・。長引けば いずれ関心も薄れてしまうのだろうか・・・・・。あれだけ 世界中で騒がれたコロナ、以前とは随分変ったように。
 自分の足元を見なさいよ! 宗教の役目、祈ることしかできないのでしょうか!せめて? この国で いま どういうことが起こっているか!、宗教の世界にも市場原理がひたひたと押し寄せる。 以前は無かったことで昼間堂々テレビで葬儀のコマーシャル、 安売りセール宛らに買い手を誘う、 そこに信仰心の微塵も感じない。生命といのちの違い眼中にないようだ。自由とは何だ?
 ①哲学的な意味では自らを自律的に統御し、内なる必然から自発的に行為すること。社会学的には・・・政治的・歴史的には・・・云々、②物事が自分のおもうままになるさま。(大辞林)、何度読んでも複雑怪奇、求不得苦。
 戦争の裏には 武器商人達の影が見える。進歩・革新・豊かさが 人のこころにどれ程影響があるか! こういうことには 何故か 関心がない。これも影響の一つだ。自粛には自戒がなければ ならない。(仏教の立場)
 当然、寺もしかり。寺離れを危惧する関係者、ややもすれば、そうなった原因を他に捜そうとしていないだろうか? 自分達の役割をどう考え どのように実践すればよいのか、寡黙に徹している場合ではない。
 
 「私の最初にして最期の哲学、私が一点の曇りもなく信じて疑わぬ哲学・・・・私はそれを子供部屋で学んだ」とチェスタトンが著書『正統とは何か』のなかで告白している。
 その本が出版されたのは丁度 今から100年前に遡る。当時の時代背景が今と良く似ているという。第一次世界大戦(1914~1918)に非戦闘員を含め1700万人以上の戦死者をだした。その原因として帝国主義政策の衝突 、同盟関係の複雑化と対立によるという、そして 同じ時期に発生したウイルス感染(スペイン風邪:1918~1921)によって当時の世界人口の4分の1にあたる5億人が感染、5000万人が亡くなった。その後第二次世界大戦(1939~1945)が起こり戦死者は約5000万人にのぼった。何故 人間は同じ過ちを繰り返すのだろうか?
 今 日に日に第三次世界大戦へのリスクが増している。 もし起こったならば どうなるか! 人類が今まで経験したことがない大惨事になるのは間違いない。文明の危機と現代人の病理は深く関係している 独裁者には何を言っても通じない。だが それは 必ずや自分に跳ね返ってくる。
 恰も 世界中の人々がSF映画を観ているようで 真実を知らされず、争いに加担しているという認識もない。
 宗教の役割はといっても 宗教それ自体が戦争の原因になっているとしたら だから 常に宗教の正統性は問い続けねばならない。

3690:善し悪し?

 ヒューマニズムが変異を繰り返しているように思える。一体何が真の人間愛なのか?博愛・平等・人権・平和・・・・・謂われ続けてきた人道主義 真逆の現実があることを誰もが知っている。昔であれば 頑強な城壁を造って敵の侵入を防ごうとした。古くは万里の長城、そしてベルリンの壁・・・・あれだけの壁を今 造ろうとするだろうか ・・・メキシコとの国境に壁を造るという計画は いま どうなっているのだろうか。騒がれなくなった代わりにガソリンを求めて越境するカリフォルニア・ナンバーの車が増えたというニュースがあった。
 トップが替われば政策もかわる。今 ロシアとウクライナで起こっている戦は 報道規制により 何が真実なのか国民に知らされない。自国内で戦争を肌で感じない?、それは貴方の国だけではないか。
 仏教の変遷の歴史、日本に伝わる間に大乗と小乗に別れてきた。だがその教えの基本は変わらない。本・支流に分かれても 釈迦の悟りは不変。時と人によって、容易に変わってしまう”本能(欲)”ではなく”根源(真理)” 
 進化や革新を礼賛するしないも光か闇かをはかるのも今の時代の混乱を象徴する。 そもそもの問題は善悪を見極める力が覚束ないことだ。争う事より もっと大切なことを互いに問い続け共通点を探るべきなのです(正統とは何か⇔善し悪し)。
 
 映画『ニーゼと光のアトリエ』のDVDが届いた。1944年ブラジルの精神病院入口の重そうな鉄の扉を叩く一人の女性医師、その場面から物語は始まる。6年間も続いた第二次世界大戦の終結一年前にあたる。2015年の東京国際映画祭において初めて上映されグランプリと最優秀女優賞をW受賞した映画である。人道主義が幻想と化している今の時代だからこそ観る価値はあると思う。
 為政者の強権と弱者(国民)を隔てる大きな壁、それは現在も存在する その最悪な結末が”戦争”だ。映画の中で二つのシンボルに気付く。精神を病んだ人への治療として従来から使われてきた”アイスピック”、その暴力的で非人道的な治療に対し果敢に立ち向かった女性医師を象徴するのが”筆”である。戦場から遠く離れたブラジルの病院を舞台にしたこの映画は、撮影に長い年月をかけ2015年に漸く完成した。
アメリカを中心とした資本主義とソ連を中心とした社会主義の冷戦は1991年に終結。しかし、その後現在に至るまで 地球上のどこかで武力による衝突が起こり止むことは無かった。国と国の関係の矛盾に対し、自らを正当化しようとする愚行は変異しながら今なお続いているのです!
 生物の中で唯一人間だけですよ。”武器”をもって人間同士で殺し合うのは。この善悪を自分達で決められない。これに愛想が尽かされたのではないでしょうか いくら防御の壁を高く堅固にしても観なさい。次々に災厄となって襲ってくる・・・・・・!