源究63

    

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771 ホームカミング 1/31 776 持続循環型福祉 2/6 781 1日10分禅 2/12 786 彼女の真意 2/21
772 比較&競争 2/1 777 災害対策 2/7 782 小さな芽 2/13 787 住宅事情 2/22
773 ストロー現象 2/3 778 壽萬年 2/8 783 時間 2/14 788 今だからこそ 2/25
774 世界の動向 2/4 779 がんばれ山祭町 2/9 784 何をどうするか 2/16 789 市場格差 2/26
775 シナリオ 2/5 780 語らい 2/11 785 退出のルール 2/20 790 失敗事例 2/27
光徳街道

771:ホームカミング

水の行く先は・・・海  草木の行く先は・・・大地  いずれも静かなところだ
・・・・
すべてのものは大いなる流れに従って定めのところに帰る。ーーー老子ーーー
現代社会を文字で表すとすれば「比較」と「競争」となるという。そこに人間の生来の欲が働き、際限の無い混迷の中に埋没。当に昨日の国会中継を見ていてそう思った。与党も野党も明らかにマスコミを意識したパフォーマンス、何かの文字を大書きした紙をテレビカメラに向け声高に叫ぶ姿は、一体彼等は何を考えての行動なのか?
政治の世界は他党との政策の比較競争である。しかし、現実には不透明そのもので違いが見えない、両議院議長の仲立ちでいつの間にかつなぎ法案も手打ちとなった。その経緯も明らかにされず、国民は財布を彼等に預けてしまったから、どれだけ小遣いがもらえるのか、ポケーンとして待つのみ。これが国民の目線なのだろうか????与野党50歩100歩。
 「比較」と「競争」が巷に溢れている。これが人間の中にある以上は、ありのままには生きられない。「比較」と「競争」から自由になれれば、どれだけ楽になり、自分らしさを取り戻せるだろう!
 障害福祉のお題目は「地域で有りの儘に生活できる社会作り」であった。その施策を考えた輩が、実は「比較」と「競争」の人間なのだから、絵に描いた餅。同期との熾烈なバトルを繰り返し、負け組と勝ち組が決まった時点で、その場から天下る。
 このパターンを日本は戦後ずーと続けている。
 人間が自らの死を受け止める方法に、天寿を全うするというものがある。しかし、実は誰しもが死を遠ざけ、真正面から見つめようとしない。老後の生き方として、体を労り、病を未然に防ぎ、天寿を全うするという生き方が理想と考える。しかし、本当にそれで良いのでしょうか?後悔しないのでありましょうか?心からの安息が見いだせるのですか?
 本来、人間は体と心の両面を認めている。心は残念だがなかなか安住の場所を見つけられない。それは老後を消極的に捉えるからだと思う。家族に面倒を掛けず、ひっそりと生きる。そうではなく、積極的に老後を迎える攻めの養生が必要だと思うのだ。何故そう感じるのか!それは障害福祉を考えると一目瞭然である。
 障害を持って生まれる事がハンデイと捉える。可哀想である。手を差し伸べる人達だ。何も出来ないから税金で賄われるべきだ。これらの言葉を家族:支援者:地域の人々から言われ続けてきた。昨日の田中玲子さんの演目、「目の見えない私が個性です」は何を言わんとしたことなのかという事です。
そして、その延長線上に福祉施策がある。だから常に本人がどこにいるのか見えてこない。ホテル並の立派な施設に入居することが幸せなのか? 地域で1人で生活することが理想なのか?確かめることもしないで決め打ちする。
 それは周囲の者からの押しつけではないのか!そう考えた時、ありのままに生きるということが一体どういうことなのかというヒントが浮かんでくる。
 人生を旅に例えれば誰しもが死に向かって進んでいる。若くして亡くなった方が高齢で亡くなった人に劣るものではない。また同時に本人がそのことをどう思っていたかを確かめる術もない。
 ホームカミングとは、大きな世界に帰るということ、孤独感と解放感、喜びにときめきだと言った方がいた。
 ・・・・逝く人を帰る人とするならば、生きている人は行く人といえよう・・・・・このエンバイの言葉は意味深である。

772:比較&競争

テレビを何気なく見ていると4人のお子さんを育てたモデルさんが出ていた。旦那が写真家だという。家族写真集を出している。モデル業は如何に綺麗に見せるかを職業とする。だから写真写りを意識してしまう。プロカメラマンの旦那は自然の振る舞いを撮りたい。そこにミスマッチが生じるという話をしていた。
 実はこの何気ない語りの中に、私の言う「比較」&「競争」がある。旦那さんのカメラアングルはあくまでも自然体、有りの儘の姿。元モデルの奥さんの望みは、長年のモデル業から得た価値観。どちらもプロとして生きてきた。ありのままに生きると言うことは脱ぎ捨てていく生き方だとも言う。人間は長く生きていると様々な物を背負ってしまう。社会的責任や役目。そしてこうあるべきだという自らが作ってしまう枠組みに息苦しさを感じながら。
 自分を生きるという事がどのような事なのか、この一番大切な事が解り難い世の中になった。何かに救いを求め、何度も裏切られ、自暴自棄になる。
 つい最近起こった事である。
 3人のお子さんで男の子2人が重度の知的障害を持っていた。奥さんを早く亡くし、80歳過ぎた旦那さんが1人自宅で生活していた。その方が自ら死を選んだ。
 外に嫁いだ娘さんがこれからは2人の弟の親代わりとなる。
 何か不条理を感じる。お二人の息子さんがもし障害を持たずに生まれていたら、この家族の人生はどう変わっただろう?
2箇所の施設に預けた息子達の面倒は先に亡くなったお母さんが一手に引き受けてきた。お父さんは一生懸命に重機を運転して家計を支えた。健常に育った娘さんは、外に嫁ぎ、お父さんは結果として1人、息子達が帰省する家を守った。
 何故、80歳の齢を重ねてきた今、自ら決行したのだろう? 真実を知ることはできない。
 長年、私は施設で働いている。これからもどこまで出来るか解らないが、逃げるつもりは全くない。家庭帰省を皆さんはどう考えますか?
 今度の自立支援法の冷たさは、日割り計算を導入したことにも伺える。施設で生活している利用者さんは、帰省を楽しみに皆さん待っているのです。それが帰省期間中は費用が施設側に入らなくなった。年間の収入減は私の法人で1000万という大きな金額、それを防ぐために、多くの施設は帰省期間を短縮したのである。家族との触れ合う温もりの機会を結果として、今回の法律が奪った。
 国は、その間に短期入所を受け入れれば良いだろうという発想、これも実態が全く解らない者達の考える事。施設は帰省期間に設備の補修や職員の公休消化に当てる。それに最も気を使うことに、帰省できない利用者さんへのサービスがあるのだ。今年は私の法人全体で60名近い方が園に残った。彼等の家族の役割を果たすことなど出来ないことは重々承知している。
 だが、寂しそうに耐えているメンバーを職員は外に連れ出し、少しでも良いから慰めたいと思うものだ。
 迎えを待っている我が子を家に連れて帰れない親の気持ちは複雑だ。だから私の法人では、無理に帰省をお願いしていない。
 その事が今回の事件?に何らかの影響を及ぼしてはいないだろうか?
 ありのままに生きるという事は、「比較」と「競争」の中ではできないという。もし、お父さんの気持ちの中に、施設の仲間が正月を家で迎えるのに、二人の息子を連れてこれないという葛藤「比較」が無かったのか?否、必ずお父さんの心の中には「有った」はずだ。だからこそ、・・・・・・・・。
 私達の仕事の原点は、必要な手助けを何気なく目立たず行うことである。
それが、周りを見渡してみて必要以上のお節介をなるべく目立つように行う実態がありませんか?
その事が、制度の中には何も語られていない。

773:ストロー現象

高速道路など交通網を整備することで人の移動が便利になり、過疎化や人口集中が今まで以上にすすむことを言うようだ。20年ほど前の本四架橋によって四国の人々が本州側の岡山に皆さん就職や遊びで移動してしまい、四国側が疲弊してしまった。
 道路特定財源の一般財源化論議はひとまず下駄を預けた形、全国知事会がガソリン値下げに反対し、地方にまわされる財源の確保に奔走した。どうも税金の使い道が霞ヶ関のやり方で決まるものだから一般の人には解らない。補助金絡みの事業は、必ず受ける側に条件が付される。それに対して問題有りという論議が当に特定財源の期限切れで噴出した。
 もっと多いに議論すべきですね。何が問題でどうすれば今よりも良くなるかを国民に解るようにして欲しい。
 ストロー現象は確かに良かれと思って行ったことに付き物である。車を使わなくても生活が成り立てばそれにこしたことはない。しかし、地下鉄など公共交通が整備されている都市とは違って大半の地方はそうじゃない。地方格差を引き起こす原因としてインフラ整備の立ち後れを指摘する。これも一理あるだろう。
 歌手の加藤登紀子さんが6年前に夫を亡くされ、今、ご主人が千葉県の鴨川で始めた有機農園を引き継いでいる。彼のご主人は学生運動の先駆者であった。彼がこう言ったという。地球に土下座して生きると。そして、東京での生活を捨て、自然の中で農業を中心とした生活を始めた。加藤さんが夫を亡くし、30年の別居生活?を振り返り、夫の目指した生き方を理解できたと言っていた。それは半仕事半生活ということらしい。今の日本人が忘れかけている生き方かもしれない。
 東京での仕事オンリーの生活に耐えられる人間ばかりではない。田舎に来て自然と触れ合う事で何かの安心を感じることが多い。折しも中国ギョウザの中毒騒ぎが起こっている。誰しもいずれ起こるだろうという事は予想していた。あれだけ環境が汚染されている中国は、急激な経済成長の影で多くの問題を孕んでいるという証だ。
 それが解っていても安価だという理由で食料を海外に依存してきた日本の在り方が問題、中国国内で使用を禁じられていた農薬が輸出用野菜には認められていたという。これは一体何を意味しているのだろうか?安全性よりも見た目を重視する日本人の求めに応じたとは言えないのだろうか?
 生産地から我々の食卓に並ぶまでに様々な中間業者が入る。この流通ルートに検査のメスを入れることは不可能だとも言う。
ある方が言っていた、野菜ぐらい日本で作らなければいけないと。しかし、日本の農業の実態は、白菜が出来すぎて価格破壊を起こすから収穫直前の白菜をトラクターで踏みつぶしている。
 これはもう論外である。地球に申し訳ない。
ストロー現象は今に始まったことではない。江戸の時代、参勤交代によって各地にあった本陣は、殿様が宿に使うためのものではあったが、主な街道を利用して江戸との交流を可能にした。だがまた生まれ故郷に戻る制度。
 霞ヶ関を牽制すべき永田町の偉い人は、地方選出という肩書きはあっても小学生の頃から今に至るまで生活は東京、これで地方の真の実態がわかるのでしょうか!選挙が近くなれば挨拶まわりという事でなにやら会合を開いては演説をされるようだ。でもなーそんな時ばかり来たって意味はねーよな。
 だったら自分が本当に信用できる秘書を地元に貼り付けておけばいいのに、これまた長続きしない。先生にイエスマンしか置かない。これじゃーダメ。
 自分に苦言を呈する人を大切にしろと言われていません?
 ストロー現象は地域の生活が地域で充分賄える時代になれば自然消滅するんだわ。
 

774:世界の動向

自国の事のみを考えていれば良いという時代ではなくなった。ベンチャービジネスにかける起業家が日本でも話題になった。若いという武器を余すことなく発揮し、事業を展開している。そのリーダーの仕事にかける意気込みは並はずれている。資金を集めるには上場することが不可欠、そうやって会社を大きくしている。
 日本株の6割は外国からの投資だという。トップ企業のM&Aも凄まじい。茨城県にはゴルフ場がいくつあるのだろう?営業を続けるゴルフ場の多くは名前が変わっている。それも外資系の資本、会員券は紙切れ同然、誰もその事を自慢気に話す人はいなくなった。
 これが過去30年の間に起こった。大都市にはシンボル的高層ビルが林立し、勝ち誇っている。さーて実際はどうかな?
ガソリンの値段が今国会で大騒ぎ、必要な道路と無駄な道路の区別は一体誰がどのうようにして決めるのだろうか?私の身近な例である。神立から土浦に抜ける県道、距離にして1キロない。その部分が歩道がなく道幅が狭い。通学道路になっているから朝晩中学生が自転車で通る。一台自転車が走っていると車は渋滞する。その道を拡げるという話が具体化してやっとその動きがあった。それも今年は30メートル位の距離の拡幅工事だけ。こうやってほんの少しづつ予算の許す範囲で工事が行われる。これが財源が県に廻れば早まるのだろうか? 地元の要望次第?
 確かにこの仕組みが延々と続けられてきた。間に議員が入る。地元の要望を上に上げるという役割。ここまでは問題はない。だがどこで狂いが生じるか?
 それは一言で言えば、自分の利を優先するか否かということだろう。もっとはっきり言えば自分のポケットを潤すのか否か。 実は、これが政治を志す人に一番大切なことである。
 だが、今そのような事を言っている場合ではないと言う。それは日本が今まで出来ることを条件に築いてきた豊かさ、海外からの資源や輸出が覚束なくなった。それに対する対策が充分ではない。
 その点を国会の場で第1優先で議論すべきである。
私はサービスの受け手の負担に関して、応能か応役かを考える。アメリカでクリントン女史が大統領選挙に出馬する際に、戦略を変更したという。民主党の内部ですら考え方の違いがある。予備選の各候補者の演説を聴けばわかる。その戦略変更は中道路線だという。あのアメリカでさえ、国民に是非を問う場合には片方に片寄りすぎては戦えないという判断である。
 日本ではどうか?福祉の財源の問題一つにしても介護保険に組み込むか否かという論争はどこかに行ってしまった。
お得意の先送り。私はこの財源問題をこの国はどうするのか!ここをはっきりしなければ先に進めないと考える。
 こちらを減らした財源を回すというような手法では、その場凌ぎだ、与党の抜本的見直しが中身のはっきりしない一番の理由はここにある。同じザルの中の金では様々なの要望に応えられない。
 福祉目的税でもなんでも良い。税負担で賄うべき、これが障害福祉の財源とならなければまた同じような事を繰り返す。そして福祉立国で行くことを世界に宣言すべき。それが戦争で世界で唯一被爆国となった日本の責任だ。物の豊かさを追いすぎた反省を国として行ってはどうだろう。政官癒着問題などはまだ本論ではなく枝葉の問題、そんな事が言えなくなる時代は、直ぐそこに迫っている。
紙面が足りないのでこれ以上は止めよう。ただ、これもまた世界の動向であることは確かだ。人間の歴史は600万年だという。

775;シナリオ

昨日の新年会で2008年は打ち止め!後半戦は出席メンバーは大体同じ、「昨日はどうも。」という挨拶を何人もと交わす。この忙しい時に困ったもんだと職員には言えない。理事長はいつも居ない、偶に居ると驚いたりされる。こんな事をいつまでもやっていて良いのでありましょうか?
 水戸までは高速を使う。40分ぐらいで県庁に着く。しかし、ものは考えよう。愛車B4を制限速度いっぱいで走らせCDの音楽を聴きながら自分の時間を楽しんでいる。車好きにはスバルのB4はたまらない。高速で運転すると指一本でも路面と車体がピタリとくっつき一体感は最高だ。最近は会議まで時間があると千波湖の周回道路をヲーキングするようにした。1周3キロ、早足で40分はかからない。昼休みなどは大勢の方が歩いている。湖には様々な鳥が泳いでいる。不思議と鳥たちが人間に驚かない。慣れているんだ。
 会議にはシナリオが付き物、落とし所を予め想定する。しかし、突如として話の進み具合が変わることも屡々、その微妙なズレが実はホンネが出るきっかけになるものだ。
 国会中継などを見ているといよいよ肝心要の質問に入る時になって、時間がありませんからこれで質問は止めにしますという言葉をよく耳にする。何か騙されたように感じる。政治の中身が解りにくい理由として公開される情報が少ない事があると思う。密室での会議。防衛問題などは確かに仕方がない。公の情報源としてNHKのBSにでも国会専門チャンネルを作ったらどうだろう。開会中ずっと流すのだ。これぐらいのサービスはしても当然でしょう。
 それから嫌らしい注文を出させてもらえれば、出欠の状況、更に居眠りの有無などなど。(お疲れなのは解りますが子供達が居眠りしている先生方を見たらどう思いますか?)そして今日の質疑への感想をネットでアンケート。国民の目線といくら口で言ってもですよ、従前のやり方で行っているわけですから、もっと創意工夫が必要でしょうね。
予め質問表を出して、回答書を担当者が作成する。議会のスムーズな運営上、多少は仕方がないとは思う。だが、聞いている側からすれば紙に書かれた文章を棒読みする問答には迫力は無いし誠意を感じない。
 現場を預かっていると、シナリオ通りに物事が進むことは先ず無い。予測できない事態に直面し、それに如何に対処するかということで鍛えられる。昨日の会議ではクレーマー対応の話題が出た。苦情処理はシナリオにうまく填らない。しかし、半分呆れた話題を紹介しますが某老人関係施設で足を3箇所ほど蚊に刺された親を「ここでは何を介護しているのか!」とクレームを付けてきた息子がいたという。一瞬開いた口が閉じない。
 事業所側がいくら対応マニュアルを作っても新たなクレーマーが現れる。「そんなことをおっしゃるならばご自分で看たらどうですか!」と私ならば言うだろう。クレームは宝だといった方がいらっしゃたが、さーて 何方だったか?

776:持続循環型福祉

まだまだ充分に浸透はしていないが、持続可能な循環型社会への取組は現代社会の最大のテーマとなっている。
 エコエネルギー先進国の北ヨーロッパは大分以前に訪れただけで最近の状況はわからない。ただ、ヨーロッパの街並みを見ただけで解ることがある。それは昔風の建物が大切に守られ、自然と一体となった都市が多い。これは国が政策で何らかの後ろ盾がなされているから可能なのだろう。例えば、日本の最近の住宅事情はパターン化している。プレカットされた資材を現場で組み立てるやり方が主流、耐用年数も多分30年が良いところではないのか。住宅貸し付けの条件を見れば大体想像できる。30年のサイクルに建て替えるとなれば、日本全体でどれだけの産業廃棄物が出るだろう。最近は竹1本でも自宅で燃やしたりすれば近所の目が気になる時代。資材に要する膨大なムダが短期サイクルで繰り返される。 大量消費大量生産のルールが今も日本では確固として存在するのだ。
 しかし、人間はそう簡単にはいかない。感情があるし物を言う。さすれば今風の言い方で「持続循環型福祉」とはいかなるものか!
 日本の歴史を紐解くと私がいつも思うことがある。それは「結」(ゆい)という習慣である。神立地域にも今も言葉だけは残っているが実態は無くなった。結い返しと言って無償の助け合いである。農家では昔、ため池を地域の財産として大切に守られてきた。私の小さい頃、毎年決まった日に近所総出でタナさらいを行った。ため池に草や土が流れ込み浅くなった池をさらって綺麗にする。これが共同作業としての恒例になっていた。しかし、今は水道が完備され、ため池の必要性も無くなった。
 池の水を農業に利用するわけだがその畑が荒れ放題になっている。
これは一つの例である。何も昔の時代に戻れということではない。私が言いたいのは、今の時代で何を媒体として地域の人々が一体感を持てるだろうかということ。お祭りやバザーが地域の行事として行われているが、関係者だけの楽しみとなっているだけ。お互いが助け合って住みよい地域にしようという盛り上がりにはなかなか至らない。
 福祉も実は、同じ。様々な主体の福祉事業が地域に生まれている。現実はお客さんの奪い合い。サービスの質の良い所に自然と客が流れる。市場の原理を推奨した結果である。
 だがサービスを受ける側のホンネは、ちょっと違う。サービスを受ける内容によって量が数値化され、お金が見え隠れする。制度が事業の継続に重きを置きすぎるとこれがあからさまになるわけだ。そこがトラブルの原因になる。
 また、利用する側が選択できるサービスを目指す、これも狙いには異議はない。ただ、選ぶだけのサービスが現実にありますか?
私の所に様々な事業所のサービスを受けておられる方がおります。上限管理という一定量のサービスを超えないような仕組みがあって、これがやたら面倒である。だからちょっと気を緩めると限度を超えペナルテイを受ける。だが実際は誰が管理するのですか?いくつもの市町村が関わっている場合など、何がなんだか???
 本来は利用しやすいサービスを目指したものが、どうもやればやるだけ複雑な手続きが付いてまわる。
 持続循環型福祉を可能にする条件として、もっと解りやすく単純化すべきである。それにはどうするか。市町村の窓口にも専門職としての職員(専門官)を配置すべき、制度を充分理解していない方が窓口業務をしている実態があるからだ。
 日本には、余りにも多くの制度があります。それは必要があれば作ってきたからで、何を廃止して、新たにこの制度で進むという整理がなされていない事が一番の問題である。国の仕組みを出来るだけシンプルにすること、それが先ずやらなければならないことでしょうか。

777:災害対策

宮崎県の山村が台風の被害に遭い、水や道路のライフラインが寸断され、そこで長年生活していた人達のご苦労が報道された。あの東国原知事で有名になった県である。私の山仲間が宮崎県庁に卒業来勤めている。今頃、偉くなったんだろう?
 小学生の頃、焼き畑農業で学んだ山間地が確か宮崎だったと思う。九州は自然がまだまだ多く残っている。温泉も至る所に湧き出ているから羨ましい。だが、災害には脆い。関東平野のど真ん中で育った私などには想像できないこと。山が海岸線まで張り出し、生活する空間が思ったより少ない。これは四国も同じ。日本全体が山国であるから関東が例外なのだ。
 何百年と生活をしてきた人々が2年前に台風の影響をモロに受けた。地滑りによる。沢から飲料水を引いていたからたまったもんではない。沢の水がそのまま飲めるということは、逆に我々には考えられない。汚染がないという証明。
 先祖が埋まっている墓も土砂の下に埋まった。被害にあった初老のご主人が、「家が壊れたのは仕方がない。だけれども墓が埋まり、先祖が切り開いてくれた田畑が使えなくなったことが先祖に申し訳ない。」と目を潤ませながら話していた。
 その言葉が実は私には意外に感じた。「田畑が使えなくなったのは仕方がない。でも家が崩れたのが残念だ。」と言うのではないだろうかと思った。私の周辺を見回しても、実は田畑を作っているのはほんの一握の農家、荒れ放題にしているか頼んで耕作してもらっている持ち主が殆どだ。先ほどの方は父親と50年かかって、鍬と鋤で山を開墾し、田を作ったという。このご苦労があるから、自分の家よりも先に田畑が使えなくなったことを悲しんだ。
 この微妙な違いが、実は今の日本社会を象徴していると思う。先祖から受け継いだ農地をなるべく好条件で売り、立派な自宅を建てようと考えるか否か。私の友人で数少なくなった農業後継者、彼の考えは土地を守るにはアパートを建て、借金を親名義にして相続税を少なくしたいという。それが住宅メーカーの思うつぼ。
 現実がそうなのだ。食料自給率が39%という先進国でダントツに低い日本。国が考えることは、農業従事者に様々な補助政策を行うというもの。果たしてこれで自給率を上げることができるのか?
 中国に食糧を依存している。今回のギョウザ問題も何か弱みにつけ込まれたという感じがする。確かに今の日本で世界に誇れるものも沢山ある。だが、バランスが極めて悪いと思いませんか。高度な機械を輸出することで外貨を稼ぎ、それ以外のものは輸入で賄う。この在り方が立ち行かなくなった。
 バランスが取れていないと何がまずいか、それは有事に大混乱が起こるのだ。どうしてバランスが崩れてしまったのだろう。
富めるものと貧しいものがはっきりしてきたこと。日本人総中流階級などと言われた事があった。しかし、今、そのように思うものはいない。格差社会がより進むことを危惧する。
 そこに追い打ちをかけて社会保険庁の問題、民間保険会社の不払いなど。
自分達が食べるものを外国に依存する事態は決してよくない。自らの足でたっていない。もし、今回の毒入り事件の原因が解ったとしても二度と起こらないという保証はない。災害対策の基本は、自らの足で立つ社会づくり。その中での福祉論議でなければ上辺だけの薄っぺらなものでしかない。

778:壽萬年

障害者美術展
第11回茨城県障害者美術展の入選者28名の表彰式が県庁講堂において行われました。絵画・書道・写真・造形工芸それぞれの分野で多くの出展があり、その中から最優秀賞から努力賞が選ばれました。「壽萬年」という書は、身体障害のIさん、見事最優秀賞を受賞され、彼が受賞者を代表されて謝辞を述べられました。
 壽萬年とは、いつまでも変わりなく長生きすること。(三言句)審査講評にこの作品はゆったりとした温かみのある作品と書かれていました。
 Iさんはどのような気持ちを込められて書かれたのでしょう。今の世の中が、誰もが忙しなくなんでそんなに急いで生きるのよ!冷たい悲しい事件ばかりが目立つ・・・・そんな事を嘆いているのかも知れません。謝辞を述べた姿は、不自由な手で書かれた紙を抑え、はっきりとした言葉で話されました。
 彼等は真剣に生きています。下向きにそれでいてしっかりと周囲を見つめながら。多分、我々福祉の世界で飯を食っている者へ言いたいことが沢山あるのでは無いでしょうか!県の主催するスポーツ大会、実はここでも反省する場面がありました。茨城は全国大会に参加できる人をなるべく多くの方にということで連続で出場することを禁止しました。入賞できなかったボーリングの選手の方が、今年はできなかったけれど一年間練習して来年こそはメダルを取りますと帰ってきて報告したという。これが適えられないルールを作ってしまったのです。健常者が良かれと思って行うことが実は障害者にとって意欲をそぐ結果になっていることが結構多いのです。
 話は変わります。今、学園は風邪で体調を崩すメンバーさんがいます。布団の中に身を屈め熱と闘っているのですね。これは毎年繰り返されることです。壽萬年・・・・・誰しもが望むこと。自分だけが良ければという気持ちではなく、仲間と一緒になって健康な生活を喜ぶ。これですよねー。
 私は、頭の中でいつも考えていることがあります。設備が老朽化してきたので至る所を補修をしなければならないからです。昔、建物全体を暖めるために大型の暖房器具を備えました。しかし、今では効率が悪く、使用していないくて無用の長物と化してしまった。その代わりに単体のエアコンを居室に付けています。その数が法人全体で150台を越しているのです。専任のメインテナンス担当が必要な位、さらにテレビなども相当の数あります。
 これから建て替えるまでに毎年多額の修繕経費がかかります。建て替えるにしても膨大な自己資金が必要で、その蓄えも考えなければならない。
 いやー参ったなー。ひょっとしたら理事長室も明け渡さなければならないかも、周囲の視線を感じるのです。SSの希望者に応える部屋が無いんだーと。今日は今から、段ボールをもって部屋の整理をしようと思ってタオルを頭に巻いた。
 我亦紅・・・・・親の事など気遣う前に  後で恥じない自分を生きろ!(♪♪・・・)    あいよ 了解つかまつりました。

779:がんばれ山祭町

茨城県と福島県の県境の町、山祭町は根本町長のユニークな町政運営で話題になった。その町長が勇退し、今朝のテレビでは議員報酬日当制を議会で決めたということを知った。合併を頑なに拒否し、住民と共に歩み出した小さな小さな山沿いの町だ。私は大子から福島に行く時に何度かその町を通った。気付かない間に通り過ぎるような町。でも凄い。18人いた議員を10人に減らし、年収300万であった議員報酬を日当制にして年額90万にしたという。これは議会での英断。アッパレアッパレ!!!
 何しろ議会は廃校になった学校を利用、それに面白かったのは町長のイス、継ぎ接ぎだらけのものだった。確かにマスコミは興味を煽るようにカメラに映し出すが、嘘ではない。
 障害者自立支援法で報酬を日割り制にした。自分達の議員報酬はさすがに上げることはしていないが、多いに異論があった。
議員報酬日当制に賛成した議員のコメントが良かった。「田舎町で年収を300万とれる人はそういませんよ。だから議員は自らの仕事で生活の糧を得て、議員活動は出た日だけで我慢するべき・・・・」。一方反対した議員は、「100%自分の仕事をして、その後議会活動をしろと言っているのと同じ、若い人で議員になる者がいなくなる・・・・」どうも説得力に欠ける。
 その番組には、野党と与党の議員が出演していた。気のせいかもしれないが、気まずそうに、時々首を傾げる。出演している全員の顔に迷惑そうな感じが私には取れた。ひねくれ者の私だからかもしれません。しかし、グーグルで山祭町を検索すると、結構多くの人からのがんばれメッセージがあった。議員は専門職であれ!議会出席だけではなく、事前の調査や機関誌の発行など経費が必要だ。これも頷けます。しかし、果たして専門職と成りうるのでしょうか?むしろ有権者が報酬の安い先生達にタカルことを控えるだろうから選挙に金がかからないという見方もあるんです。
 ドイツの議会の話を以前に紹介したと思う。確かに夜議会を開いている。昼間はそれぞれの自分の職に就いている。この日本版が山祭の英断である。北海道の夕張市が財政破綻して大騒ぎをした。その時、日本中でどれだけ多くの自治体が危機感を持ったのだろう。合併時の特例交付金は、どこの自治体でも既に使ってしまったんじゃないだろうか?
 夕張市には、場違いの立派な公共施設?が立ち並ぶ、その全てが赤字経営、ひも付き補助金によって設備投資をし続けたツケが破綻の一番の原因だ。反面教師として、山祭町は合併を拒否した。それも町民の意向を選挙で計った上でのこと。交付金は当然もらえない。今でもボロ庁舎である。そして議員定数の削減は否応無し、次なる段階で日当制の議決という流れとなった。
 もしもだ、国会の先生達1人1人に意見を聞くことができればそうすべきだ。地方と都市の格差を大声で叫ぶ先生達は、自ら血を流すことをしない。参議院の本会議を見ていると、いつも変に思うことがある。議員の総数に対して議席数が非常に多い。中央に固まって会議を行っている。一方、衆議院は議員数も多い。この数の格差はどこでどうなったのか?興味は無いので調べない。
 国の借金の比率は、山祭町とどう違うのかいな。いな、比べる事自体がナンセンス。
 例のサブプライムローン問題に関心があって自分なりに調べてみた。実はモノライン保険会社という金融保証専門の会社への影響が懸念されている。実はこれが上の問題と関係があって深刻なんですよ。保証会社と地方債が密接な関係を持っているからだ。地方債を発行していない自治体は無いとなると、これまた今以上に財政破綻の勢いが増すのではないか。
 要は自分の力以上の事を行っているから、悪循環から逃れられない。
新法の日払い制廃止と議員報酬日当制、どうですかこの辺で手を打ちません。生臭坊主の独り言。

780:語らい

昨日は大学時代のサークル(GWV)の集まりが目白であった。ドイツからY先輩が帰国したので仲間内で集まる。20名近く集まったが遠くは大阪のYや静岡のAなど、私は結局東京に泊まる事になってしまった。午後の1時から始まり、終わったのが夜中の11時過ぎ、良くもまー話が尽きないものだと呆れる。
 定年を間近に控えている連中だから、ついつい話が定年後や老後の事になってしまう。学生時代の限られた期間だけの付き合いなのだが、どういうわけか今でも一緒に山登りをやっている。私は山とはきっぱりと縁を切ったから、卒業以来一度も山に登っていない。だが声をかけてくれる仲間がいるので東京での集まりには参加している。
 皆さん無理な山行はしていないようだが、何人かは日本山岳会に席を置いている好き者もいた。今月はもう一度集まりがある。これにも私は参加するつもりだ。新潟の奥只見にクラブの山小屋が建っている。私は山小屋委員を2年の時にやっていたので良く小屋に入った。その小屋の近くに伝の助小屋というものがあって、そこの主に大変お世話になったのである。何しろ冬は3メートル以上も積雪がある所だから5月に入山するときは二階の窓から部屋に入った。
 その伝の助さんご夫妻が間を置かずに亡くなった。その偲ぶ会を17日に行う。
当時1学年10名以上の部員がいて、合宿で集合すると40名ぐらいの人数でキャンプファイヤーを囲み盛り上がったものである。それがなんと現在は4年1名、2年1名という現役2名だけ風前の灯火、OB会名簿には400名を超える人達がのっている。
 新宿駅から夜行列車で信州に向かう時、汚い格好でキスリングを担いで集まった頃が実に懐かしい。昨夜はそんな取り留めも無い話で盛り上がり、結局四次会まで付き合ってしまった。
 何故話が尽きないのだろうかと考えてみた。既に卒業後35年が経っているのである。しかし、一つ一つの思い出が蘇る。
キザっぽくなるが、何かに燃えていた時代である。今、それぞれが自分の生活がある。特に興味を持って聞く訳ではないのだが、自然とプライベートの話になる。私は僧侶である。多分全部員の中で私一人かもしれない。あの時代仲間に一言もその事を言わないでいた。あの異常なまでの気兼ねは一体なんだったのか! 「僧正さま」「あんたが一番」とか冷やかされる。でも全く気にならない。
 あの時偶然に合格し、入った学部が仏文科、一番最初の授業でパンチを食った。それ以来何度と無く辞めようと悩んだ。
その時に山登りのサークルに誘われ4年間やり通したことが卒業までどうにか耐えられた一番の理由。
 現在の仕事も実は中途半端。僧侶と施設の2足の草鞋をずっとはいている。いい気なもので昨日居酒屋で大騒ぎしている時分に風邪で熱を出している利用者が大勢出ていた。
 私の同期のYが話したことが妙に頭に残る。「仕事は仕事として割り切れる。」OFFとONのスイッチを持てるということを言っていた。俺にはそれが無い。この生活が長いから慣れてしまったのだろうか。だが、昨年あたりから体調があっちこっちガタがきてしまった。足腰が痛いのは仕方がない。爽快な汗をかくというよりは冷や汗をかくことが多い。
 俺は酒で忘れることができない。酒が飲めないから。さーてどうすんだー。
 

781:1日10分禅

ストレス・うつ・生活習慣病・・・・・現代を象徴するやまい。自分は絶対に大丈夫などと考えていると突如として忍び寄ってくる。厄介なものだ。そこでにわか師家で申し訳ないのだが、私は密かに座禅を始めている。朝の時間、本堂の片隅で座っている。時間にすれば10分ぐらいなもの。正直に申しますが、私は足が太くて短い。それで正式のケッカフザという座り方ができない。片方の足を腿に乗せ、もう一方を乗せようとするとひっくり返る。何度挑戦しても物理的に無理。だからハンカザという片方だけを腿に乗せるやり方。これでも良いという。
 我が宗派(真言宗)にも実は観法という座禅がありまして、特徴としては前に掛け軸を置くやり方。それも梵字のアという字が蓮の花の上にのっているものと月(月輪観)が書かれているもの。
 様々な流儀の座禅があるようだ。しかし、共通するものがある。それは呼吸法、数をひとーつ、ふたーつと数えながら呼吸を整える数息観、または随息観という無念の中でただ呼吸する方法。面白いのは口から実際は呼吸しているのだが、ヘソや足下から息を出したり入れたりするという。それも1回の呼吸に2分ぐらいかけるというのだ。そんなの無理だよ、窒息してしまう。まだまだ私には無理。だがこれが実は生理学的にみて先のストレスなどに効くという。呼吸をゆっくり行うと血液に二酸化炭素が増える。そうすると脳の中にセロトニンという物質が増える。この物質が脳を活性化し、気分を明るくする働きがある。現代医学で証明されている話だから間違いない。そこでうつの状態が改善するというのだ。
 それに呼吸をなるべく体の下の部分で行うという意識化が実は大切なんですね。一度皆さん試して見て下さい。
人間は運動などによる体の疲れからはストレスは生まれないというのです。むしろ心理的な原因が一番、自分で解決の糸口が見いだせない事が重なるとそうなる。呼吸を口で行うと、頭の中での思考が多くなり、頭がさえ、眠れなくなる。この循環が結果として自立神経や交感神経などに影響を及ぼし体調に異変が起こる。これが病のメカニズムである。
それがヘソで息をすることを意識するとですね、確かにあまり頭で考えなくなるものです。血流が良くなるという感覚も出てくる。これが人間の生来持つ自然治癒力となる。逆に薬物療法というものは人口的な施術、薬によって半強制的に調整するもの。これは副作用が当然何らかの形ででるものだ。
 でも一般にはたった10分座ってそんなに効果がでるのでしょうか?と疑いを持たれる。それは当然です。この私が実は坊主であって今までそう思って軽視していた。(なんであんな事やって修行になるの???白隠禅師の動中の修行は静中の修行に勝ること百千万億倍なりとおっしゃているでしょうが)と考えていた節があった。
でも最近の私の実体験を紹介しますね。
 歯の具合が悪くて今治療しているのですが、私は大学病院の手術室に初めて入ったんです。事前説明の中でドクターが懇切丁寧に説明してくれた。人によっては手術室に入れられただけで血圧が急激に上がり、手術が出来なくなる例もあるんだそうです。そうかもしれない全身麻酔ならば夢心地で手術台の上に寝かされる。局所麻酔は違う。医師の話し声もはっきり聞こえている。それに自分の心臓の鼓動、そこで私が考えたのが寝ながらの数息観をやとうと。これが実に良かった。
 ひとーつ、ふたーつ。そのうちウトウト無事手術が終わった。
皆さんで私の話に興味があれば連絡下さい。座禅のセットを5つ購入しましてね。今のところ私一人でやっているんですが、一度試されたい方がいれば、どうぞいつでも道場を開放しますから。
 人生たかが80年、600萬年の人類の歴史からすれば空気中の塵にもならない。
それから最先端の医療に従事しているドクターが結構座禅しているという事を知っていますか?
 

782:小さな芽

今、土浦駅までYさんを送った。ドイツから1年ぶりに帰国し、九州を2週間彷徨ってきたあとに土浦に来られ、明日またドイツに返る。昨夜はチュービンゲンを訪れた人が6名我が家に集まった。既に10回も行かれたご夫婦もおり、驚きであった。
 ドイツでの障害者への手立てを伺う。それはそれは比べるレベルの話ではない。皆さん聞いて力を落とされるのではないだろうか?でも話ましょう。
 グループホームを息子さんが利用し始めてから丁度1年が経つという。土日の週末は自宅に戻って来るらしい。息子さんの口座に毎月振り込まれる費用がなんと3000ユーロ(日本円で約48万)それに日本では施設を利用する方には特別扶養手当が支給されなくなるのだがドイツではグループホームを利用する親にも振り込まれる。それにプラス介護保険からもである。日本ではGHの利用は施設入所に準ずる。だから家族への手当てが利用と同時にストップするのだ。
 GHを利用されている息子さんに親が週2回会いにいくという。自由外出や訓練などに親も参加するためだ。建物は20世帯ほど入るマンションで三世帯分を三名づつで利用する。夜間はスタッフはいないが学生が隣の部屋を利用しているので何かが起こった時は対応する仕組みになっているそうだ。これも大学の街だからできることなのか。
 だが日本で福祉を志す方が夢を失い、事業者は先行きに大きな不安を持っている実状とは、あまりにも違い過ぎません??
 ドイツは現在ガソリンが1リットル210円ぐらい、消費税が19%だという。しかし、あまり国民からの不満は出ないというのだ。これって一体どういうことなの?と執拗に聞いた。それは社会保障がしっかりしているからだという。老後への安心が国の手立てで成されている。だから現役の時に税金を多額に納めても文句がでないというのだ。
 その話を聞いていた他の6名・・・・・・声が出ない・・・・・
日本の社会保険庁の実態が暴露された。だがしかし、誰が責任をとったのでありましょう?元厚生大臣とかは黙秘権、どこに雲隠れしたのであろうか。
 社会保険庁の為体を政治家が批判する。これで納得するとでも思っているのでしょうか。全く世間知らずもここまで来れば大したもんだ。何故政党の中で議員の考えを圧縮するのだ。国民の福祉や安全、環境それらの問題は党利党略ではすまない。超党派で意見を出し合うべきなのだ。
 せっせと貯金をする日本人を世界の目はどうみていますか?自己防衛?保険に保険をかける日本人をあざ笑っているのですよ。
しかし、既に船出してしまった大型船をどの港に向かわせるか、正直どこから手を出して良いのか誰も解らない。経済の発展とムダを差し引いたら一体どれだけの金があれば人間は生活していけるのでしょうか?この辺の話を政治家や官僚ができない。それは自らの財布の中身は教えない謙虚さ??全国一律福島県の山祭方式にすればいいんだよ。
 ガソリン税の暫定税率問題も、論点がはっきりしない勿体ない時間を掛けている。結果はどうなりましたっけ?あそうだ、ひとまず小休止だった。しかし、あんたらは本当に日本をどうするんだよ!京都での議定書も守れず、むしろ悪化している日本。政治に何を期待するか、やはり一党独裁の政治は良くないということだ。国民に真の選択肢がない。だから先送り事案があまりにも多すぎる。アメリカの政治は良く解らないが、今の予備選の盛り上がりは日本には全く無いでしょう。約束が果たせなければ他の政党が責任与党となる仕組みがない。日本人は期待が持てないと思うと投票を棄権する。
 昨日集まった夫婦の中でDVの救済活動を行っている方がいた。自分達が住む地域にあまりにも多くの問題がある。
その事へどうアクションを起こすのか! その事が今国民一人一人に問われている。あまり悠長な事を言っている時間はないと思うな。

783:時間

年をとると時間が早く感じる。大体の人がそのように感じている。それは何故だろうかと考えてみたが、答えが見あたらない。いざ自分はどうなの?と自らに問うたならば、「そうかなー?」と思う。確かに毎日が本当に毎日が様々な事が起こっているんですわ。今はインフルエンザとの闘いの日々である。何しろ防御が無いのだから、静かに過ぎ去ってくれるのを待つしかない。私は現場に出ていない。職員がマスクをしてメンバーさん達のお世話に走り回っている姿、悪いなーと思いながら、格好付けて外回りを担当。
 だから、このような時は正直、早く暖かい春にならないかと願い時が過ぎるのがとても遅いと感じる。
また、メンバーが一人老人施設に移ることになった。その人の入所した時を思い起こせば時間が経つのが早く感じる。そう考えれば時間は何と比べるかによって異なってくるということだろう。
 出来れば60歳という年齢を一区切りと考えて自分の人生をリセットしたいと考える。後残り2年である。だが、それが出来ないという自分をもう一人の自分がせせら笑っている。ちくしょう、なんてこった!
 だがよーく考えてみろよ。すみたふくしという人間はこの世に私ひとり、季節が訪れれば衣替えするようなものじゃーねーだろう。この世に生まれてきた、それがスタートでゴールなんだ。
 名もない花に 春を感じて そよ吹く風に 夏を見つけた  ・・・・松山千春「生きがい」より
できることならば自然と一体になって生きたいものだ。
 最近の話、私は毎日、この子の事を考えています。喉が燃えるようにあつく、誰にその事を相談して良いのかわかりません。
でもこの子を親の私があやめてはいけない。そう思って毎日を送っています・・・・・この話を聞いて何も言えなかった。
 実は日本中に同じように思って毎日を必死で生活されている方が沢山いるんですよ。でもね、その事を知らないでノヘーンと生きている人の数のほうが圧倒的に多い。それが幸いと感じるか否かだよね。老後の問題だってそう思う。いずれ誰もが迎えるであろう老後の生活、俺の老後はずーと先のこと、今から考えたって仕様がないと先送りする。
 天台の有名な千日回峰行で戦後12人目を満行された藤波源信師の話、7年の歳月を掛けて行うもので、700日目を終えた時に行う「堂入り」は9日間、不眠,不臥、断食、断水のお籠もりだ。この行を終えた時に急いで物を食べたり水を飲まないという。体を慣らすために1ヶ月ぐらいかけるという。眠れる事の喜びや横になれ食事を摂ることができること、普段の生活で当たり前に行ってきたことが実は行を通じてそうではないと気付く。このことは行という自らが選んだ実践によって感じたことかもしれない。
 そして7年で満行すれば、それでお終いということではなく、それからも行を行う前と全く同じで修行の生活を送るという。
私など坊さんとしてそのような行を行ったわけではなく、にわか坊さんを自他共に認めている。
 今では大分お腹もへこんだが、毎日ズボンのポケットに万歩計を入れて歩いている。これを白装束で編み笠かぶり寺の周りを歩き始めたら、どうだろう。  やっぱーな。かわいそうに。ウーン、やっぱーなー  とか近所の噂になること間違いない。
 

784:何をどうするか

家族会への提案PDF

上記のPDFに掲載した内容は、尚恵学園家族会の研修会に提出するものです。月日が経つのが早いか遅いかに無関係で時間が流れ確実に齢を重ねている。この事は個人により若干の違いがあるのは仕方がない。 だが意識していない事は気付いた時点で時計の針が急いで回るものだ。こと尚恵学園の狭い空間の出来事として、入所施設では毎年決まってこの時期風邪で体調を崩すものが増える。油断しているとあっという間に蔓延してしまう。
 どうも納得できないことであるが、家族が家で静養させますというケースが極端に少ない。事情があるのは解ります。でもどうでしょうか?我々には家族の代役は実はできない。我々だけで悶々としているのではまずい。そう考え、明日の研修会に私が提案すること。家族の役割・施設の役割・地域の役割ということです。

 家族会は大勢の方が参加してくれた。8つのブロックに別れての話し合いも熱心に行われた。
さて、私が当初考えていた事が充分に知らしめる事ができただろうか?参加者にマスクを配り、対面する形での会議になった。私が最初に挨拶をするとき、何か異様な感じを受けた。大半の親たちが皆さんマスクをして、私が何を話始めるのかと目を凝らす。職員の配慮で受け付けで全員にマスクを配布したのだった。
 家族の役割で帰省中に体調を悪くした時にはその旨学園に知らせて欲しいという事を話すつもりでいた。その効果は充分に出た。学園で流行する病気は殆どが外部から持ち込まれるからだ。
 だが、もし病気に子供さんがなったら家に連れていってくれますか?という話。直接ではなく婉曲に話をしたので真意が通じたか否か。
 これを言うとまずいという気持ちは私の中にある。しかし、長い期間預かっていると、どうも家族が遠のいていくように思える。それが言いたかった。

785:退出のルール

19日:20日と2日間の東京での研修に参加した。経営セミナーというもの。会議が終えての率直な感想は、ちょっと内容が欲張りしすぎたように思った。シンポジューム形式の研修は、いつも起案者と発表者とのズレが生じる。それは時間的な制約もあり、発表者が予め準備した資料によって発表されるというより説明がドンドン脱線して広がってしまうからである。焦点がぼける。これはある程度仕方がないことである。むしろ何が問題であるかを参加者に考えさせる、その切っ掛けになればOKである。当に今回の研修も同様であった。
 だが、テイタイムで知り合いと雑談、その中に「初めてでしょう今回”退出”という言葉が出てきたのは?」新たな時代における福祉経営の基本的方向性(試論)の中で”退出のルール”が明確に示されていた。【*質の低い法人・経営者は退出を誘導*合併・事業譲渡・協業化の推進云々】
社会福祉法人側に何らかの問題があれば退出(事業廃止)させるという事を明言した。当然の今の時代、企業におけるコンプライアンスは常識ルールだ、社会福祉法人だけがぬるま湯に浸かっていることはできない。私の地元土浦でも最近マスコミに取り上げられた介護事業所は退出(事業所認定取り消し土浦市への1億6千万円の返還命令))をさせられた。一般市民の反応は「当然だ!何故今まで放置しておいたの?」という厳しいものだった。
 更に、従来の1法人1施設という国の推進してきた施策に反して、合併や事業譲渡を推進し大規模化させようとする内容が述べられていた。2日目の分科会に発表された方は四国で大規模に施設経営をされている我々と同じ仲間。2年後には四国から東京に進出する具体的な計画もそこのHPを開くと公表されている。
 私は、どうも頭の整理がつかなかった。今時事業拡大をはかる法人のトップはどんな福祉観、経営理念を持っておられるのか? 新たに事業を起こすとなれば、開設持で50名近いスタッフが必要である。その手立てや見通しがあるのだろうか?
 どうも尻込みしてしまう。(その法人の決算書では次期活動収支基金が約40億あるという。単年度の事業収支差額で約4億の黒字経営。)
園に戻り、夜の定例主任会議で私は研修での収穫?を資料にして説明した。どれだけ通じたろうか。昨日は全員が集まり、総勢12名の話し合い。各部署での状況報告のあと、私が話した。家族の役割、事業所の役割、地域の役割と合わせての”退出のルール”だったから焦点がボケたと反省。
 新法の対応が当面する現場の最大関心事、私の場合はその大分先を見ている。このズレは一体何によるものか?
 情報量の違い?自由時間の違い(理事長はヒマ)?
そうじゃないと思う。
 生き残る戦略は、利用される方、働く方にとって安心できるものでなければ意味がない。そして地域の支えと理解があれば恐い者なし。寧ろ拡大路線を良しとする風潮は、企業の経営感覚から得たもの。福祉と企業の一番の違いは福祉業は地域が育てば自ずと廃業する宿命を負っているということ。闇雲に産めよ増やせの経営はリスクが大きすぎる。

786:彼女の真意

これこれしかじかと物語るには、ちょっと複雑で重い。
 父親と二人暮らしだった彼女が父の入院の為に緊急でショートステイ、頑なに食べ物を拒否、挙げ句の果てに肺炎をおこし、毎日点滴をすることになった。その彼女が園での仲間との生活に少しずつ少しずつ慣れを見せ、顔に笑みが戻った。父親も無事退院し、父と一緒に自宅に帰っていった。初めて親元を離れた彼女の戸惑いを思うと言葉を発しない彼女の心中ははかりしれない。笑顔で帰宅してから2日前にまたショートステイを利用した。今度は父親の入院ではない。今まで自宅だけの生活には見せなかった彼女の変化と親亡き後を考えた末のことだろうか? 今回は見違える程の変化、スムーズに寮に入り、前回は決して仲間と食堂で食事が取れなかった彼女が自ら食堂に入り、仲間と一緒に食事を摂っていた。
 そして入所希望の登録をされたのだ。
 この流れと今の地域生活第一主義の考えをどう絡めたら良いのだろうか。昨日の研修の続き、北欧ではノーマライゼイションの反省が起こっているという話。果たして北欧やヨーロッパには彼等知的にハンデイを持った人達が受け入れられ充分に満足出来る地域が存在するのであろうか!
 確か・・・・・日本から視察に行けば、良い所だけをざっと見て驚き如何に真似るかということを誰しもが思う、これがお決まりのコース。此は企画の段階で想定している流れだ。実態は違うだろう。真似などできやしない。予算の裏付けが全く違うし、流れが逆。日本は交付金という言葉を何の疑問もなく使われる。まさにくれてやる式。
 それに単年度で数億の黒字が出る法人が果たして理想の姿????経営が上手?合理的??どうも変だ。
そうは思いませんかねーだ。これが体質だよな。ドイツのGHの利用に関すれば施設にお金が入るのではなく、利用者個人の口座に入るしくみだ。だから、日本みたいに施設が裕福?で利用者の通帳はいつもカラッポということにはならない。
 もとれ!裕福という言葉には誤解を生む。正確に言えば裕福な法人もあるということであります。しかし、どうも日本のシステムは道路特定財源と同じ類の肝心なところは霞に包まれているように思える。堂々と基金を積み立てることも必要でしょうと言いたいだけ。民意を得ていればの話だ。
 そこで所謂、市民感情を無視してはいけないということ、一連の不祥事(内部告発)に関しては、どうも経営者に対する不信感に共通点があるのではといつも自らを反省するのであります。
 面白いデーターがあるんですね。老人関係施設の職員の給与平均は年収ベースで約280万とか施設長は800万、一方障害関係施設では職員の平均年収は350万で施設長は600万強という。正確な比較にはならない。それは勤続年数等が異なるからである。しかし、傾向として見ればハハーンと思う。ハハーンとな。
 これが実態。
そこでまた一つ。
人材確保が問題になっています。ヨーロッパ視察(施保連)での報告書に、
「福祉の仕事は、良い仕事です。」だけではダメ。「良い仕事をすると、いい人生を送れる」
これが一体何を示しているのかだ。「福祉を経営することは、良い仕事です」OR「施設の経営をすると、いい人生を送れる」というオーナー最優先の土壌には本来福祉は馴染まないのかもしれませんよ。立場上これ以上独白するとですね、どうも冷たい視線を感じるんです。やーめた。
 今日はネモさんと火燃やしやんだー。
 

787;住宅事情

建築法の改正にともなってなのか、今年になって建築が急に落ち込んだという。建築確認に手間取るらしい。だが本当に需要があるのだろうか。アメリカ発の住宅ローン問題がまだ先行き不透明の中で、果たして市民感情としてローンを組み新たに建物を建てようとするだろうか?相当の覚悟と勇気がいる。
 だが地域の実態はまさに供給過剰の様相を示している。土浦の市内には新築マンションが乱立、完成しても入居者が集まらない。入居募集の大段幕を吊してある。最近新築したマンションで5割入居が決まったところは未だ良い方だ。多分これだって多額の借り入れを起こして建てたものだろう。そうなれば自ずとミニサブプライム問題の再燃となりうる。
 一方では先祖から受け継いだ土地持ち農家のアパート建築はまだまだ収まりそうもない。膨大な借金を30年ローンで組み、相続で税金を減らす。これは一体何を狙ったものだろう。家主はオーナーという肩書きを頂戴し、自分のアパートの部屋数を自慢?する。今の時点で30年先のローン返済は孫の時代に上手く行って、返済完了だ。果たして今のアパートがこれから30年手直しせずに原型を保てるのか! 私の考えではまた、リフォームでかなりの借金を背負うことになるはずだ。
 この辺の先の見通しはMAXの状況で試算するから、目減り幅は相当なものになる。
 まー自分はアパート経営など考えたこともないし、それに回す金も無い。
 だが、私にとっての住宅事情は深刻だ。今時、果たして4人部屋の居室で良いのかということ。この現実にどう対処すれば良いか、大きな問題なのだ。
 空き屋同然のアパートを借りて、そこを利用する事も考えた。だが実際にメンバーの状況を思うと可能性は限りなく少ない。もし、一般家賃並のお金が払えるならば、法人としてアパートを建てることも可能だ。だが、現実には4人分の家賃合計が一所帯分になれば良い。それは6万〜8万の年金収入しかない人達の現実だ。それにお金の問題以上に近所とのトラブルなどをどう調整するか、実はこれが一番の課題である。我々のGHでの苦労話は全てがその事である。世話人だけの対応では所詮無理というものだ。バックアップ施設の設置が取り除かれている。果たしてそれで問題など起こらないのだろうか。

でもなー今時、バラック作りで生活でもさせたら、マスコミの餌食になること請負だ。虐待だ!搾取だ!いつのまにかGHも7箇所になり、様々な問題対応に四苦八苦。
 昨夜、久しぶりに夢をみた。私が家出することになったという筋書き。「いやーヤレヤレ。すかっとしたー。何もかも忘れよう!」 その時、ラジオこころの時代の4時を知らせる目覚ましがなった。これが私の個人事情&円循環。弱音を見栄で偽装し、外観だけは整える。これもまた耐震偽装と同次元???ケセラセラ。文句ありまっかー!!夢で会いましょうよ夢で  ユメでムニュムニュ。エーイ どうにかしてくれーだ。独り言。
 

788:今だからこそ

今年3回目の法人役員会、補正と給与規定の変更を協議していただく。議案は特に問題はなく承認され、その後の意見交換になった。私の現在の心境を述べる。それは人材確保の問題。役員の中には実際に福祉系の大学で教鞭を執っておられる方もいる。また、大学を経営されている方もいる。どうもこうも今日の福祉を取り巻く環境は良い話がない。事業所側はそれないりの工夫をしている。
 今回、私の法人では手当と初任給をアップすることにした。手当は子供さん一人につき6,500円付ける。初任給は格付けで一号上げた。どうも福祉の業界は若者から敬遠されている。3KOR4Kとまで揶揄され、ハローワークなども決して好意的ではない対応だ。これは我々一つの事業所がどうのこうの騒いでも仕方がない。国全体の何らかの手立てを打つべき。
 私の法人は直接処遇のスタッフには職務手当13%を現在でも支給している。基本給にプラスされるわけだから、大卒初任給166,000円だから187,500円がベースになる。それが求人の際には基本給166,000円として出していた。今時そのような事業所があるのかとまで言われてしまった。それよりもボーナスまで月給に組み入れて求人票に出す事業所が多いという。月収×12月という表記である。その方が確かに月収は多くなる、数字の比較が先ず最初ならばそうすべきなのか。何か騙したように感じてしまう。
 最近、このような話を聞いた。某洋菓子店に勤めた方が5年勤めて今回退職することになったという。理由は5年間給与アップは無かった。朝の4時からの勤務。彼はパテシエを夢みて、修行の意味も込めてその業界に飛び込んだ。その街では行列ができる程の人気のある店。
 実習生に尋ねたという。卒業後は友達はどんな所に就職するの?殆どが公立の保育所だという。それは育児休業に入っても、また復職できる場が保障されているからだと。ちょっとした所なんだ。私の法人は少子化に協力してきた。職員で3人の子供さんを持って長く働いてくれているスタッフが多い。これには仲間の協力が不可欠だ、でもそのような経験ある職員が戦力になると実に頼もしい。私は法人の方針は決して間違ってはいないと信じている。
 それに経営面で今だからこそやらねばならないこと。これが実は厄介である。
SJKネットサービスの理念の実現は、果てしなく遠い。永久に実現できないのではないのかなー!
城山三郎が書いた『仕事と人生』を再度読み返そうと考えている。
 

789:市場格差

今年になって燃料費が急に増えている。この時期どうしても暖房を使う割合が多くなるから例年のことではあるが、小麦値段も大分高くなり、パン工房の対応も限界に来ている。値上げをすれば当然売れ行きが落ちる。
 これは多分全国的な傾向だろう。しかし、私の住む街を見てみると、デスカウントショップが空きテナントなどにドンドンオープンしている。陳列などは構わず所狭しと品物を山積みしてある。確かに値段が安い。品質はどうなのか?
 それに不動産屋さんに張り出される売り家やアパートの数がもの凄く多いと思っている。こんな事が最近あった。メンバーさんがアパートをかわることになった。新築のアパートへの入居、完成するまで同じメーカーのアパートに入っていればと考えたがどうも出来ないということだった。多分担当の営業マンが違うのだろうか、お互いが社内のなかでノルマを課せられ競争しているからなのかも。
 お隣の韓国が大統領が変わる。経済界の大物、それも下積みからのし上がった人物、韓国の人々は隣国の中国やベトナムなどの急激な経済発展から取り残されたという思いが強い。そこで鳴り物入りで登板した新大統領、誰もが彼の動きを注視している。
 日本の政財界を見回してみると、どうも同じ類の伝説的人物が目立たない。良く調べれば同じような人物もいるのだろう。最近の日本の首相など2代目やらエリート一族の先生が多い。決して妬みをもっているわけではない。
 何を言わんとするか。その先生達には福祉というものが実感として解らないのではないでしょうか。周囲の者たちも敢えて提言しないようだ。
これは実は大変憂うべき事態である。
 最近話題になっている。中国製品の問題、その先生達には中国製の食べ物など買わなくても良いからだ。日本全体で安い食べ物を新聞の折り込みを見て買う人達が圧倒的に多いはずだ。それが政治を行う人達にはどうも実感がない。
 各団体が政治運動をする。当然それは団体の要望を実現したいがため。道路特定財源の問題も地方では政党に関係なく陳情や利害がからむ。必要でない道路と必要な道路を一体誰が判定するのでしょうか?
 いろいろ考えるとどの辺で手を打つかという程度の問題だ。
福祉事業を行っていると多くの矛盾に遭遇する。職員面接をまた始めた。メンバーさんが皆さん元気になり束の間の平和のこの時期に。1対1で話をすると1時間など直ぐにたってしまう。気が付くと私が8割がた話している。これでは相手もたまったもんじゃねーだろう。伝えたいという思いが強すぎるのだ。OJT とか OFF−JTとかマネージメントの手法があるようだ。しかし、現実は上手くいかない。
 先日の法人理事会の席で「日本は今の体制を選択したのだからしようがない・・・・」という話が元国立大の教授であった理事さんからあった。北欧との比較の話が出た時だった。確かに投票というルールで国民が選択した今が現実だ。今のアジアでヨーロッパが導入したユーロなど統一した貨幣の仕組みなど考えられないだろう。まだまだ社会全体が成熟はしていない。むしろ何が問題なのかを冷静に見極める視点が大事だと思っている。
 

790:失敗事例

私は今までに何度も失敗体験がある。不思議と上手くいったことよりも、その事を良く記憶している。同じミスを起こさないなどと言ったところで、そうはいきませんね。何度も繰り返すものですよ。日本の経済小説の先駆者である城山三郎が「仕事を追い、猟犬のように生き、いつかはくたびれた猟犬のように果てる。それが私の人生」と語った。気骨溢れる作家であった。
 何故彼に私が惹かれるか良くはわからない。だが彼のような生き方ができれば良いだろうという憧れを持っている。
 私の場合は猟犬というよりもダックスフンド、足が短いのは父譲り、ジャージをニッカボッカのようにはいていた親父だった。
私は思いつきが多いというか一貫性が無く、切り替えも早い。だからかもしれない。今までどうにか皆さんに迷惑をかけながらやってこれたのは。城山の五感というものは凄いんだと思った。経済の裏に通じている彼だから読者の興味をそそる。
 私が福祉や寺の裏に通じているかといえば全く違う。むしろ一歩引いて見ている節がある。
自分の性分を解しているからだろう。一つの事に熱中する。周りが見えなくなる。片方では加島の生き方(タオリスト)に憧れている。我が儘というか身の程知らずなのだ。変形多面体の生き方だ。
 そのような自分に叱咤激をとばす人がいる。それが障害を持つ人達だった。彼等の目は時に猟犬の目となる。それは想像できない背景があって変化するのだ。福祉の重みというか?考えようによっては醍醐味となる。彼等との付き合いは近づきすぎても鬱陶しがられる。適当な間を置くことが必要。「共に生きる。」四六時中一緒に生活することではない。いずれは誰もが息を引き取る運命。認めようが認めまいが仕様がない。最後は一人で逝くもの。
 人生はその過程での有り様だ。
 どうも最近嫌気を起こしてきたことがある。前789で言わんとした、「何が問題なのか?」という自らへの問い。様々な委員会に出席する。その大半が形から入り、形を作る作業。意見の集約とまでは時間的に無理だから、事務局案が結果として採用される。そこで流れが止まる。次の実行部隊は誰がやるのか?そして目標達成のチェックはどの時点で誰が行うのか。
 日本の制度は、付け焼き刃。担当者はそれを強く否定はする。そりゃー気持ちは分かりますよ。残業しながら資料を作り、そのご苦労は相当なものですからね。だが最後は「予算がない」という印籠を出されて引き下がる。予算裏付けの無い事業がどれだけあるだろう?これ、現場にいる我々が何度となく味わってきた苦渋ですよ。
 だから一歩退いた目で眺めるクセがついてしまった。猟犬の目って何だっけと。