源究65

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
811 春まだ遠し 3/26 816 ねじれメリット 4/1 821 報道の責任 4/7 826 ワンルームM 4/13
812 悲喜交々 3/27 817 ねじれデメリット 4/2 822 戦後 4/8 827 抱きしめて 4/14
813 実習生事情 3/28 818 はたらく 4/3 823 dream 4/9 828 トラブル 4/16
814 百花繚乱 3/29 819 異動メール 4/4 824 沈思黙考 4/10 829 森林&砂漠 4/18
815 20年度は? 3/31 820 桜華の下で 4/5 825 安心 4/12 830 内部留保金 4/19

811:春まだ遠し

春はまだまだ遠い。昨日は全国会長会議が竹芝のホテルで開催された。我々地方会長は組織上は評議員になっている。理事を含め現執行部と対面する形で会議は始まった。
 気のせいか執行部のお歴々はお疲れの様子とお見受けする。片や地方会長も同様に疲れているといった感じ。私がこの席に加わってからずーと同じムードの会議に明け暮れた。全体の雰囲気が疲れているという会議は如何なものでしょうか。会議後の懇親会にどれだけの人が参加するのか、私は用事があって失礼した。浜松町の駅まで3人の他県の会長と一緒、あまり、会議の内容についての話はしなかった。飽和状態。
 羽田が近いといってもだ、九州や北海道の参加者は自宅に辿りつくには大変だろう。その事を考えると何か良い会議の持ち方がないものか。
 協会の財務状況は毎年収入が減る中で、経費削減に苦慮している。主な収入源である機関誌「サポート」の購読者が毎年減少していることも一因である。それに資格取得講習参加者の減少も楽観できない。
 東北の某会長が意見として述べたことにフロアーから唯一拍手があがった。
それは現状の協会の役割として、法や制度絡みの課題を検討する従来の政策委員会とは別に事業所の存続を危うくする人材確保や助成金減額を検討する経営委員会(仮)を設置してはどうかという意見だった。私なりに理解したのは、施設長でも経営も兼ねる立場の人と運営だけを任されている施設長との問題意識の違いである。経営つまり理事長を兼務する施設長が全国でどのくらいいるのか?
 経営協なる全種別の加盟する団体もある。しかし、種別によって微妙に課題が異なる。その辺の不満は燻っているわけで、福祉協会にも同様の問題があるということだ。私は以前からその疑問をもっている。経営する立場で一番関心があることは目先の事ではなく、長期展望をもった協会の役割である。協会そのものが国の人事異動と同じ歩調で動く。政策はデータの収拾に基づいた提言、経営はもっと奥が深い。
 その方の意見は確かに頷けることであった。だが地方に戻れば、既に団体やら委員会が乱立、寧ろ再編して簡略にすべき状況がある。
私など、経営協・セルプ・福祉協会・社会福祉士会・茨城県社会福祉審議会・県社協・土浦市社協・県福祉協会・市民間施設協議会などなどに関わっている。もっと挙げれば切りがない。
 これだけ複雑にしてしまった原因の一つに、それぞれの団体独自の思惑がある。限られたパイを奪い合う、だが、良く考えればサービスを受ける対象者は同一人物という不可解な現実。
 茨城県には精神と身体の全国の代表者がいて、国の社会保障審議会障害者分科会で活躍されている。三障害の中で二障害の全国の代表がいるというのも珍しい。そのお二人から情報を得る機会もある。厚生労働省が当面のターゲットであるかの如き報告が昨日もあった。しかし、実際には財務省からの査定ハードルが高いということだ。財布の紐が固い。
 そこで国は早急に施設の経営実態調査を行うという。大騒ぎした結果火の粉が思いも寄らない自分達の懐具合まで入ってきたという事ではないのか!
 反省として事業所の財務実態をどれだけオープンにしてきたのかという事を真剣に考えるには良い機会である。介護保険と同じ過ちを起こさないために。
 私の記憶では、職員の常勤換算方式が国から示された時、かなり多くの事業所が飛びついた。経費を削減するには絶好の改正ととらえた。その結果、報酬単価の引き下げ。そして人材が離散した。
 なんでもかんでも反対というスタンスは取っていないからまだ永田町よりマシだ。それは何故だろう!我々事業所は現実に利用されている人達を抱えているからである。
 春を愛する人は こころ優し人・・・・・・・♪♪  春まだ遠し

812:悲喜交々

3月の末、この時期になれば人事異動が気になる。
昨日の某理事会の席で、協議事項が全て終わり、最後に若干の役員、事務局の異動があり、変わる人が挨拶。その時だった会長が「住田さんには縁がない話だな」と言われた。「そうですよ。一度で良いから単身赴任というものをやってみたいんですね。」と言うと大笑いされた。「坊さんは終身だ。ははは。。」という誰とは無しの声が聞こえた。会長は全国の石油関係団体の理事長を行っている。また今日の公益団体の会長を誰も変わる人がいなくて長期に引き受けている。私は公私ともにお世話になっている。その方から学ぶ事が多い。
 それは何故か?片田舎の一企業を会長の努力で県内のトップ企業に育てた実績、社員も3000人を超える。グループ企業の屋台骨が石油関係事業、それがこの時期大変な事態になっている。それにも関わらず、今日の会議に顔を出し、2時間以上の会議を仕切る。出席役員全てに発言の機会を持たせ、時々、今の政治や行政のズレに苦言を呈する。この気配りと引き受けた事への責任の取り方をこの会長より多くの事を学ぶ。
 ゴルフも好きなようで、ヘタなゴルフで失礼とは思いながらも何度かご一緒させていただいた。驚くなかれ、会長はカートに乗らない。それに2ラウンド廻ることもへっちゃら。
 体力が無ければ団体のトップは勤まらない。その自覚と日頃の気配りそれに先見性。
さて、転勤が望めない私には羨ましそうな人事異動、悲喜交々である。だが、変わる者変わらない者、それぞれが決して不要であるからとは思わないで欲しい。人にはその人でしかないものを必ず持ち合わせている。今を大切に生きることが悔いの無い人生・・・・・{こんな事を言うつもりでは無かった}
 私の深層心理に異動願望が有るからだな!
今思えば私が僧侶としてどうにか勤まっている一つの出会いがあった。隠すつもりはない。長年悩んだ末、坊さんになる決心をし、本山への1ヶ月の山籠に入った時、4人ほど仲間がいた。その中での65歳を過ぎた方との出会い。これが決定的だった。
今、その方はどこかの寺で住職をされているのだろうか?音信不通で分からない。生きておれば100歳に近い。
 出身だけは分かっている、山形県の小國という町。この方は、自分の意志で率先して作務を行う。他の連中がやろうがやらまいが関係なし。本山の石段の掃除、トイレ、食事、部屋掃除、読経・・・・・・・
 1ヶ月のにわか免許で取りあえず坊さんの資格を取ろうと考えていた私は脳天を一撃された。山籠中、一度だけ私からその方に声を掛けた。「どうして○さんは、坊さんになろうとしたんですか?」と。しかし、何か聞いてはいけない事を聞いてしまったような気まずい空気が流れた。そして答えてはくれなかった。私は自分自身の気持ちを正直に話した。熱心に聞いてくれた。そして「住田さん。喰わず嫌いということあるよね。本当にこの道に入るなら専門的に勉強しなさい」と言われた。
 その後、何度か年賀状の遣り取りがあったが、一度も会ったことがない。坊さんになって、いつの間にか30年以上が経つ。今でもその方に言われた言葉を思い出す。
 人間は本当に悲しんだ時に人の優しさを知る。そして心から喜べた時、周囲の人の心をも和ませる。
 残念ながら、今の日本の有様は経済第一主義の大波にその全てをさらわれてしまったように感じます。土浦で最近起こった24歳の青年の殺傷事件、この実態はわからない。でも、翌日に同様の事件が関西で起こったという。多くの人の心の中に誰でも良いから人を殺したいという欲求があるのだろうか?
 身近に悲しんでいる人がいた時に誰でも良い、声を掛けてあげられる社会、恨みをもたれ仕返しを恐れるあまり、知らぬふりをする人々。
 これは我々大人達の責任だと思う。上記引用の引き受けた以上は責任をもって努力する姿。(トップ官僚や政治家の責任の取り方に範となるものが見あたらない)。そして残念ながら私が出席する殆どの会議が一方的な事務局説明を黙って聞いていて、「異議なし」拍手式会議。
 形から入る全てのやり方。坊さんもしかり、実践活動が伴わない説教は心を動かさない。
 マザーテレサの活動があれだけ多くの人々の心を動かし亡くなった今も後継者によって続けられている。彼女は苦しむ事を決して否定しなかった。それは何故か?本当の相手の心の叫びを感じることを望んだマザーだったから。信じる宗教は関係ない。
 彼女が開いた看取りの家で亡くなる人は、その人が信じていた宗教のやり方で葬儀をする。イスラムありヒンズーあり。
大分昔であるがインドに行った時に彼女の実践の場を覗くことができた。
世の福祉事業家と称する皆さん!ステータスを追い求めても空しさだけですぞ。
 

813:実習生事情

年間を通じ、多くの実習生を受け入れています。最近の若者の福祉離れ傾向にも拘わらず、当法人において実習される学生の人数は変化無し。ただ、大きく様変わりしたことがあります。限られた期間だけで一人の人間を評価することはできないことは重々承知はしていますが、一昔前と比較すると実習生の質が両極にはっきりしてきたという印象を持っています。
 正直、実習を受けるレベルに達していない方もいます。生活面で全く常識が身についていない方、短期間であっても、実習が耐えられない方もいます。養成校として学生集めに苦労されている事がこの辺からも推測できます。
 ただ、今回の実習生は良い意味で特異な存在であった。
 彼女達は実習期間は、神宮寺の客殿を利用したり、GHを利用する。正直、私は実習担当の職員に任せっきりで彼女達と実習期間話す機会を持ってはいない。これは反省している。
 今回の一人の実習生は職員一人一人にお礼の手紙を書いて置いていった。私にも一通の手紙が届く。その中には実習当初の戸惑いや自分がどう動いて良いか分からなかった事を正直に書かれてあった。そして、メンバーさんとの触れあいの中で様々な気付きを経験し、これからの自分の生活への決意が短い文章ではあったが書き留めてあった。
 この実習生とは、話をしてみたかった。
資格取得の条件として、仕方が無いからと思って実習に参加する人が多い中で前向きな考えを持って来る方もいる。そのことはまだ日本の若者も捨てたものではない。否、全員が本当は素直な気持ちを持っているんだ。
 一方、4月から新採用の方も卒業し、事前研修として勤め始まる。今年は1名が退職し、4名を新採でとった。上手く育ってくれれば良い。
 障害福祉に関しては、今様々な憶測が飛び交っている。昨日、県庁での会議に、国の審議会のメンバーになっているS先生と会議の後、コーヒーをのみながら話した。厚労省の内部が大混乱している状況を伺った。それはそうでしょう。担当部局が違っても、社会保険問題やC型肝炎訴訟、介護保険見直し、少子化対策、医師不足それに障害者問題。全てが大きな問題で当事者は必死である。
 だからといって、諦めてはいけない。問題はどのようにアクションをおこすか?である。
昨日の会議は、膨大な資料であった。ただ、説明する側が要領良く上手に説明してくれた。そのために委員が意見を述べる時間が多く持てた。これが大事なんですね。
 事前に資料が配られているのだから、参加する側の責任として目を通しておく。そうすればズブの素人が集まるのでは無いのだから各自の意見を出し合うことに時間をさくべき。その点では年度末の会議としては満足できた。
 実習生に鑑みて自分の足元をみる。措置から契約に制度がかわり、意識転換ができなかった。情報を一番知り得る立場の私が地に足がついていなかった事を認めざるを得ない。
 昨日の話では、法律として出来あがったものは、そう簡単に変更はできないという話。制定に至る過程での問題をいくら指摘しても時間が刻々と過ぎていく。それならばどうするか?
 運用で工夫する。これだわな。実は法律でがんじがらめに縛っているわけでもない。このように考える私自身、随分大人になりました。私は基本的には保守的な人間である。生命を預かる立場の人間は基本的に保守的にならざるを得ません。
はい さいなら といきますかってーんだーよ。この解らず屋。

814:百花繚乱

いよいよ野に様々な華が咲き乱れる季節になりました。一雨毎に温もりを感じます。平成20年度も残り少なく、ドタバタ騒ぎ、これとて毎年繰り返す恒例行事。
 本日は土曜日であります。理事会だけで3カ所あります、最後4時からが自分の法人、これは出ないわけには参りません。それに法事と葬儀が重なり、体が引き裂かれそうであります。ここんとこ肩がこりまして困っていました。そこで恥ずかしいのでありますがWillという任天堂のゲームを買いましてテレビに向かってやり始めたんです。ヨガとか有酸素運動というパターンがありましてね。先ず初期設定で基礎体力を測定するんですが、なんと体力年齢が69歳と出まして、折角買った機械を蹴飛ばしてやろうかと思ったんです。
 まー良いかと思い直し、運動開始、これが結構はまりましてね。若いお兄さんのインストラクターがやる気を出させるんです。以前ビリーズキャンプというものを始めたのは良かったんですが、息切れしましてね、結局続かず。今、そのCDはお蔵入り。
 百花繚乱・・・・・私の性分には堪らない。興味が転々。
そんな時に、春到来を感じさせる奥日光からの写真入りメールが届きました。今年は例年になく雪が多かったようです。
 でも一気に雪解けするもんですね。光徳小屋周辺も土が見え始めています。なんと猿が出てくるとか。テレビに向かって猿さんチームとサッカーをやっている自分をなんと慰めてよいのやら。今年私は58歳になるのですが、69歳という不当な判定への抗議、レッドカード覚悟で突き進んでやる。
 それからここだけの話。昨日の通夜に迎えに来てくれたタクシーの運ちゃん、私は初対面、乗るが早いか「私はゴルフが好きでねー。いつも運転を買って出るから飲まない。それで昼飯なんでも好きなもの食べろやって言うんですよ。そしたらウナギぐらいしかなくてね。これが上手かったー!」乗るが早いかこれです。私も変かも?「そうけー運転手さんはどこでやるの?」と聞いてしまった。それから延々とゴルフ談義、「おれ、今年69歳、100切れなくなっちゃたー。だめだなー・・・・・」
69歳???どこかで聞いたような話。道路が混む時間帯、20分ほどで斎場に到着。
よし、頭切り替え。出迎えてくれた遺族に「ご愁傷様でしたね。大変お世話になりました。」百花繚乱。人生いろいろ。
坊主もいろいろ。ムニョムニョ。

815:20年度は?

3月31日、今日と明日の間に特に変わったことはないのだが、一つの区切りとして年度を設けている。これはいつ頃から始まったことなのだろう?暦からみれば正月を迎えて2008年・平成20年がスタートしているのだが。
PーD−C、確かに計画から実践、その結果のチェックと事業流れを掴む上で、その手法は重要である。ただ、仏教の無常感から見れば、PDCなるものは自己満足の領域を出ない。その微妙なズレを補完する手立てがマネージメントとして様々な手法が紹介されている。人間そのものは何ら変わるものではなく、生老病死を繰り返す。今年ぐらいからですね団塊の世代が大量に退職する。定年後の人生ほど実に楽しく希望に満ちたものは無いはずだ。私にはその定年が無い。決してナイモノねだりからではない。辞める時は命を閉じる時だろうな。
 柵から解き放され自由が自らの手にあるのです。書店を覗けば、ノウハウものが所狭しと並べてありますよ。
 しかし、ちょっと気になる。定年を迎えてから何をやろうかと考えるのはどんなものか。仕事があったから出来なかった事も確かにあるでしょう。・・・・が、ちょっと違うように思うんですね。やりたいこと=生きる喜びと考えて見ましょうか。
 大半の人々が60歳まで生活の糧を得るためにだけ仕事をしていたとする。それが生きる喜びでなかったならば、人生80年と寿命を考えても、実に勿体ない時間を浪費したということになりませんか?
 解りにくいですか?
具体的な実例で話をしたほうが良いかな。尚恵学園の役員さんに92歳になったお二人の理事さんがいます。それぞれが若い頃から一つの道に徹して生きてきたというか、実績を充分に築いてこられた方です。それは、ご本人が言うのでは無く、周囲の人々の話から充分解ることです。年に3回の理事会には、ネクタイをきっちり締めて背広を着て誰よりも早めに来られて会議に出席しています。
 理事長の私がこんなことを言うとまずいのでしょうが、事業計画やら予算の審議などより、お二人が理事会の席に座っているだけで充分なのです。後光がさしてくるというのでしょうか、私どもが分厚い資料をいくら説明しても、全てお見通しという具合で説明する側が必死になっているわりには淡々としているのです。
 29日の最終理事会には残念でしたがそのお二人は欠席でした。植木の移動を行っていて腰を痛めてしまったことと、風邪がその理由でした。お二人とも92歳ですよ。
 戦前戦後の混乱期を経験し、お一人は福祉、もう一人は農機具メーカーの分野で実績を上げられた。
 何故、理事会に居るだけでその存在感がおおきいのでしょうか?
 福祉も企業も実は同じです。人の力が一番で提供する製品やサービスをお客さんに如何に喜んでもらうか。
 トヨタ方式が世界で認められ、トップ企業になった。その後、どこでもマニュアルが流行りました。しかし、いくら立派なマニュアルがあったとしても実行する人間が問題でしょう。それに気付くことが大切。
 マニュアルと似たような言葉でマニュフェストというものが流行し、やたらと政治家が使います。これも全く同じ如何に立派な公約が書かれていても、それを守らなければなんにもなりません。
 夏目漱石が日本と外国を比較して、外国では文明開花は内発(?)から起こり、日本では外発(?)によって進められたというような事を言っています。外国特にヨーロッパは文明開花を100年以上の時間をかけて作り上げたが日本では10年という短い期間で行ったとも。
 島国故かどうかは別として日本人が自らの欲求や衝動で築き上げてきた制度や仕組みは他の国と比較して少ないように思います。むしろ外から出来上がった制度を取り入れて真似るやり方には素晴らしい能力を発揮する。
 これが長年の積み上げで上辺だけで中身の無いものに慣れてしまった。 それを端的に示したものが、障害者自立支援法であったと思っています。不満が噴出、その欠陥を後手後手に改正するものだから、複雑でとても使い辛いものとなったのであります。これが平成19年度の私の総括でありまする。悪しからず。
 法律が悪いと言っているのではない、仏を作って魂入れず。さて魂を運用でカバーできますかねー?ザルの中のお金をグルグル回しても所詮ザルの中のお金と言っているのです。財務省に負けずに厚労省がんばれ!

816;ねじれメリット

平成20年度
 福田首相がテレビに出演し、国民向けに窮状を訴えていた。ねじれ国会の中で安倍さんから引き継いだ福田さん、私からみてお気の毒と思う。彼特有の飄々とした受け答えは、今にも泣き出すんじゃないだろうかとさえ感じてしまう。ここまで国会が空転すればどうなんでしょうね。それはご本人が一番解っていること。だからといって他の誰が手を挙げました???野党の親分? 彼だって豹変するでしょうが、ちょっと前までこちょこちょ内緒で話し合っていましたよね。何を考えているのか。
 《君子豹変 小人革面》
 だが、諸外国の状況から見れば、まだまだ日本は生ぬるいと思いますね。国民も含め、まだどうにかなるだろうと思っている。地方格差を訴える。政治の仕組みや意識は地方ほど旧態依然として昔の風習が残っている。その最たるものが我が県かもしれない。
 ねじれのメリットをこの際だから考えようよ。様々な不祥事や信じられない公費の出費などあぶり出しがなされた。
 問題を問題と感じない状況が歴然として有ったという証拠だ。これが明らかになれば、政治も官僚も変わらなければならない。それがメリットの一点。それから世界の動きに鈍感な日本であっても、自衛隊の海外派遣から始まり、サブプラム問題など、他国の事と知らぬ顔でいられない時代、直面する様々な課題、それを審議拒否とか言った言わない論議でサボるわけにもいかなくなった。実際にこの辺の内政事情を外国にどう理解してもらえますか?英訳するにも大変だ。これは般若心経の世界、色即是空 空即是色だ「否定の否定は肯定?」。私はこの際、大連立だとかなんとかではなく、本当に志しを同じくする者が超党派で協議すべきだと思いますよ。何故ならば政党の中ですらねじれが有るのだから。なにも集票のためにだけしがみつくことは褒められたことではない。志を持て!この超党派の協議の場がメリットの二点目。最後には民意を問う為の選挙かなー?
 これとて、依然として政党間の公約の違いが不透明、解りづらい。これは何から来ていると思いますか?
 言行不一致だからですよ。基本的に信頼が持てないからだと思いますね。
今年度も相変わらず好き勝手なことを書かせて頂きます。言っておきますが「独り言」ですから、お構いなく。
今日は年度当初の全体会議、理事長が話しをすることになっている。
 あまり多くの事を言うと焦点がぼける。そこでポイントを決めて話すことにした。
@これから面白くなる。Aそれには何が大切か!これは企業秘密だから、簡単に教えられませんね。
あっ そうそう、昨日締切の自主研修ですが、15本出てきました。ちょっと少ないかなーとも思いますが。1年間を通じて実現します。そしてその結果報告をまとめてみようと思います。
 私も番外参加します。ドイツのグループホームで体験入寮してくるつもり。
 贅沢ですか、正直に私もそう思います。
 役人の話をいくら聞いても全国各地の実践報告をどれだけ耳にしても、所詮、日本の枠の中でのこと。
 私自身の中のねじれを解ぎほぐすには、ちょっと時間が欲しい。生臭+我が儘坊主でござんす。

817:ねじれデメリット

さて、ねじれのデメリットは何があるかな?
 多分ですよ、上のほうでは関係ないと思いますね。政治をゲーム感覚で行っている人達にはね。だってそうでしょうが、テレビ画面に出ていない部分を追跡報道すれば直ぐに解りますよ。表向きはけんか腰、裏では談笑ってか。
 これは国民を余りにも愚弄していませんか。バッチを直ぐに返上してもらいたいものだ。彼等のデメリットは次回の選挙に追い風が吹くか向かい風が吹くかだけですよ。ここまで決め打ちしてよいものか、それを確信させる証拠はいくらでもありますよ。
だって、そうでしょうが議員定数削減の話などどっかにいっちまって、国会に一人送り出すに一体いくらの税金がかかっているんですか?いかなる理由が有ろうとですね、審議をしないで空転する事態が可笑しくない?
障害福祉の報酬は日払いですからね、もっと酷いのは時間割りですよ。私は矢祭町のシステムにすれば良いと思っていますよ。
国会空転中は議員の給与差し引きですよ。その金を国庫に戻すべきでしょう。
 これぐらいの常識、GNP世界?位を誇る皆さんに解らないはずが無いでしょう。
 ガソリン税を下げることで一体どれだけ国民生活が潤うか知ってますか?年間3万4千円だそうです。ふざけんな!
 今時、パチンコ屋で30分持たないでカラになるんだから。
 片やですね、一人のバッチに要する金、桁が違いますよ。必要な道路と不必要な道路、一体誰がどう調べるの?それよりどれだけの議員が必要なのか超党派で激論かわしなよ。
 今のままでいくと必ず国民が爆発するんじゃないでしょうかね! 中国や北朝鮮の政情不安を議論するほど、貴方は愛国心が有りますか?(私は最近土浦で起こった無差別殺人事件の犯人の心理状態、誰が考えても不可解です。何がおかしいのか解らなくなった社会、間違いに気付いたら引き返す勇気、これ深刻でしょう。その欠如に底辺では繋がっていると思います。)
 これだけの借金を抱えた日本を孫子の代に渡すのでしょうか。つまり政党間のねじれではなく、国民と議員のねじれです。これが最大のデメリット。
 次ぎに社会保険問題についての論議。私は今の舛添さんを気の毒に思っています。彼は大学で教鞭をとっていれば良かった。木に登る性分があるんだわな。大言壮語。これは私にちょっとばかり似てる。
 何年、今のポストに居たかわかりませんが、精々1年でしょう。公約違反だから問責決議?いやーもっといるんじゃないの?何年もそのポストにいた人達が、寡黙に徹したほうが得ですか。可笑しいよ。
 問責決議するんだったら、議員さん全員だ!立候補した時の公約を全て守っている先生いますかー。いねーよ。これが次なる国民のデメリット。
 最後に、この状況が何を生むか心配ですね!日本を捨て外国移住?国が夕張になる日。
その時になって慌てても遅い。食糧を自給する体制を早く作らないと、輸入ギョウザ問題など序の口。何に金を使うのか?
その事を真剣に討議しないと早い者順という最悪の事態が待っている。経済発展をどこまでも追求するとですね。見えなくなるんですよ。何が大切かという事が。この辺のことを解らないのかなー?物の豊かさには際限はありません。

818:はたらく

今、アメージングブルースのCDを聞いている。賛美歌?午後から葬儀があり、法衣を着ながらです。なんという坊さんか!
心配しなさんな、仏さんも神様も心が深ーい。
 実はこれには訳あり。新年度に入り、心機一転私もやる気を出してきた。手始めに法人内の様々な活動を写真に収め、HP上で紹介しようと考えた。そこで昨日はおもちゃ工房に忍び込んで作品のスナップを撮った。今朝は猫の手も借りたいような忙しい時間帯にまんだら工房に入り、写真撮り。その時にスタッフからこのCDを手渡されたので聞き始めたのです。近日中にそれぞれの紹介コーナーをネット上で公開できるでしょう。
 写真を撮り終わり、工房より出た時に、丁度パンの配達に出かけるところのUさんと目があった。そして一枚失敬。
 彼は職人気質を持っている。特に彼の専売特許である空き缶潰しは実に見事。何が?   集中力である。声をかけても完全無視、悟りを会得した高僧のよう。
今日はUさんの私への気遣いを感じた。「今から配達?」と尋ねるとニッコリ笑ってくれ、それから徐に車のドアを明ける。
 工房でつくるパン製品は20種類ぐらいあるのだろうか、詳しくは知らない。昨年半年、東京からコンサルタントが入り、半年であったがプロジェクトチームを編成して検討を重ねた。県も多少は期待しているのか、もう半年継続することが決まった。工賃倍増事業の一環である。
 はたらくということ、この意味は実に深いものがある。有史以来、生業として人間は働くことを良しと考えて生きてきた。解字すれば人が動くことを『働』という。今朝のこころの時代も良かった。ラップランドでトナカイと今も生きる人々を取材した番組だった。民族文化映像研究所の姫田さんの話、解りやすく実体験を元に話をされるから興味が湧く。その人々をサワメというらしい。日本のアイヌの人々と同じもともと住み着いていた人達だ。アイヌとサワメは共通の意味があるという。それは「人間」という意味だ。○○人とか区別する世になったのは基層文化の視点にたてば歴史が浅い。人間は生あるものの大切な命を糧としていただいて生きながらえてきた。そのことが共生の基本思想、感謝という思いに通じる。それも自然との共生が基本だ。
 また、こんな話もあった。(言葉で話す)とハンカチを落とした時に使う(手を放す)は訓読みではどちらも「はなす」である。
日本語には発音が共通の訓読みというものがある。つまり、言葉ではなす(話す)ことは自分の内面を解きはなす(放す)という意味が元々あったという。
 本当の日本語が今、廃れている。これは91歳の作詞家、丘さんが言わんとした(No:794)ことに通じる。
国は工賃倍増計画を推進している。しかし、非常に残念なことであるが、「何のために工賃倍増なのか」という説明が欠如。これは一体何を意味しているのでしょうか?
 全てに通じることと言っても過言ではない。昔から大切にされてきたもの(文化)を軽視し、新しいものに飛びつく日本人の行動パターンの典型である。
 働くことは「やすらぎ」となる。多分、どうしてやすらぎになるかを、国の政策担当者には答えが見いだせないのだと思う。実際に体験がなく、彼等は少なくとも「働く」ことの意義を自分の出世や保身に置いて奔走していないだろうか?
 空き缶潰しを夢中でやっているUさんの姿を見ていると、今、日本が方向を見失って迷走する理由がなんとなく分かる。
 やすらぎと言う共通言語が有れば、いつの世も困った時に手を貸してくれる人が現れる。
 ★山奥の生活には懐が深いものが有ります。自然との共生が人間をそうさせてきた。平安時代の乱世に、平家の落人をかくまった山村が日本の至るところに今も残っています。

819:異動メール

4月になり、メールで転勤や異動を知らせてくれる人が結構増えた。当に時代を反映している。私には今後も有り得ない。終身である。これもまた・・・・・。
 近況を知らせたくとも出来ないことも辛い。事情は様々。本当に世の中は求不得苦、これは多くの事を求め過ぎるからと一蹴されて終わり。こうやって取り留めもない事を書き綴ることで「我 元気でいます。」との一方通行の伝言。
 もし、その事を感じ取って下されば私は幸せ者です。大変お世話になりましたと。
それでと、昨夜WILLというゲームで健康診断、前回は体力年齢69歳とでた。この判定は今でも信じていない。そして昨夜の結果発表はなんと70歳・・・・「相当お疲れですね」というコメント付き、いよいよこのゲームもお蔵入りか。むしゃくしゃして外に飛び出しジョッキング、5分と経たないうちに息切れ、。。。なんとも言えない重い気持ちになった。
 昨日、電話で約束があった、某檀家さん。菓子の入った紙袋をもってやってきた。どことなく元気なし。「住職、俺もそろそろ年貢の収め時かなー」「どうしたんですかー」・・・・・・「ガンだって言われてよ。今月、東京で手術する。その前にお墓を直したいんだ」・・・・・・
 年は81歳になるというのだが、大分前に芝刈りを何度かご一緒した方、几帳面にもスコアーカードを全て残して持っているという。重ねると30p以上の厚さ、ゴルフをしなければ蔵が建ったと冷やかされると笑っていた。
 20年ぐらい前だろうか、一緒にゴルフをして楽しんだメンバーは皆さん彼岸に渡った。
 人間の一生は長くない。昨日の葬儀は40歳の方であった。発病して1年という。余りにもあっけなく人間は命を閉じるものだ。
 先月の土井さんの宇宙ステーション建設の報道を見ていて、この茨城もまんざら捨てたもんじゃねーぞと思った。シャトルとの通信はつくばの宇宙センターで行っている。次回、搭乗予定の飛行士はつくば生まれの方だと聞いた。
 宇宙から見た地球も神秘的であろう。それにも増して、宇宙全体の無限の星の煌めきは言葉を失うに違いない。
人が亡くなると星になるという。本当にそうかもしれないと最近思う。そう信じたい。確実に星の数のほうが、人間が彼岸に渡った数より多いはず。
 遠い遠い未来に星になった自分がこの地球にいる人達へメール宅急便を送る。そんな事を考えている。

820:桜華の下で

前から決めていた。草が伸び、掃除をしたいと考えていた。軽トラックを持ち出し、GHのNさんに声かけすると「いいよ」と快い返事。暫く二人で鎌をもって土手周辺をかっていると、現在失業?中のSさんが私達のことを遠くから見ている。「Nさんよ、Sさんにも手伝ってもらおうや」と言うと、彼は早速Sさんを連れてきた。Sさんは現在会社の都合で職を失い、落ち込みが激しい。つい最近放浪?の旅から戻ってきたところ。
 この二人は凄い戦力だ。みるみる中に草だらけの庭が見事にきれいになった。すると寮のメンバーが私達の周囲に集まってくる。その中でMさんが何かを話しかけてくる。彼はおっとりした性格で生活には殆ど問題がない。それが逆に集団生活の中では目立たない存在になる。どちらが良いのか解らない。
 彼が「指を示しながらムニョムニョ・・・・・んだ。ムニョ   ぺー」とか盛んに私に向かって話しかける。「一緒に手伝うって言うの?」 怪訝な顔つき。指を示している先は成人寮だった。はっとした。「そうだ。Mさんは成人寮にいるんだよな?」「ウン」
 「どうした? 向こうは嫌になった?」首を横に振り、はっきりと否定。「そうか、向こうが良いのか!」「ウン」
 彼は自活ホームでの生活を始めている。個室で静かなホーム。建物が出来てから、もうじき半年になる。その間、どうしてなのか解らないが、嫌だと言って元の寮に帰ってきてしまうメンバーもいた。彼ははっきりと自分の気持ちを伝えてきたのだ。
 日差しがあって温もりを感じる天気。メンバーはスタッフと共にグループに別れ散歩に出かけた。
いつも外に出て、お母さんを待っているNさんも「一緒に行く?」と誘われたが嫌がった。
 だからと言って何をやる訳ではない。掃除などまったく関心なし。ニヤニヤしながら見ているだけ。
 暫くして違う女子のスタッフが数人のメンバーを連れて散歩に行くという。その時Nさんは自らそのスタッフの手を取り、一緒に出かけると言い始めた。
 彼等は生活の中ではっきりと自分の目でスタッフを選んでいる。

821:報道の責任

私は毎日、全国紙(A:Y)二社と地方紙(I:J)二社に目を通します。じっくり読み込むというよりは、表題に目が止まった部分の走り読みだから、記事の細部までは理解していない。
 タイトルの書き方に各紙の特徴が出る。活字離れが進む中で、以前として影響力が強い新聞報道。
外国での事件報道も容易に耳にできる時代になった。昨日はスリランカで市民マラソンの最中に自爆テロがあり、閣僚など多くの死傷者が出たという。スリランカは御存知の通り仏教国である。チベットでの焦臭い事件同様、政治や宗教対立によって依然として争い毎が絶えない。主義信条から他人の命を奪って自死する行為が果たして宗教の教義からみて認められることなのだろうか?そしてそれへの報復が必ず起こる。
 報道は決して興味本意ではないとしても取り上げ方次第ではどうにでもなるから恐ろしい。映画「靖国」の上映拒否問題が起こっている。政治宗教色を抑えたドキュメンタリーという触れ込み。監督が中国人であるから反日映画と決めつけてはいないのか?
 最近、耳にした気になる言葉。「保障の先送り」
国民の生存権の確保を目指す国家的保障が先送りされているという。私も少なからず関係を持っているから関心が大きい。
社会保険・生活保護・社会福祉事業・公衆衛生に関わる問題が急浮上、一番大きなものは国の財政に関して、借金を返すメドがたたない中で、その負の財産を将来の子供達にまわすことになる。責任の先送り。
 福祉に関しても全く同様の事が平然と起こっている。今、すべての福祉事業所への費用は二ヶ月遅れとなっている。
国は苦肉の策として、支払月を遅らせることで辻褄合わせを行ってきた。事業を止めない限り、永久に二ヶ月分の事業収入が入らない仕組みである。(未収金が決算期に毎年二ヶ月分計上される仕組み)これも先送りの一つ。社会保険に関しては、ここで敢えて言うまでもない、呆れた実態が明るみに出た。
 もう一つついでに気になる言葉を挙げてみよう。「熟年ひきこもり」という言葉。
現代の世相を表す造語である。仏教でいう「林住期」とは違った意味のようだ。後期高齢者医療制度がネーミングで差別用語という批判が出て「長寿医療制度」と改称した。これで良しとする官僚感覚への不信感が更に増している。
 これも医療費がウナギ登りになることを想定しての予防手段の一つだろうが、素直には了解できない。
自らの非を有耶無耶にして、高齢化社会という大義によって国民への負担増を続ける。
 全ての改革がこの国を一体どうしたいのかという明確な展望にたっていない。ねじれ国会の病みの部分を強調するやり方に疑問が残る。野党&与党の歩み寄り政治が果たして望ましいことなのだろうか?寧ろ、明確な方向性を解りやすく説明する責任を感じる。今のままではどこの政党に投票したら良いか判断に迷う。
 自己責任の中に、将来の安心を買う為には応分の負担を誰しもが覚悟していると私は思う。全て国家が負担するという事を望むので有れば社会主義国家への選択を選べばよい。今の日本は真の野党としてのビジョンが見えてこないという別次元の問題もあるのだが。
 ある意味では政界再編成の時期がとっくに来ていると思う。国民の代表という本来の姿から逸脱し、資金が集まり安い団体、業種のご用聞きと化していないのか!これが民主国家なのか!
 どうも下克上ならぬ先取り横行の時代へ突入する危惧を感じてしまう。「先送り」と「先取り」は表裏一体ですぞ。
 

822:戦後

戦争の責任は、国がどうあるべきかという国体に基因する。今の日本は防衛に対する基本的な問題を国民全体で確認し、構築するレベルに達していない。誠に憂うべき状況である。事務方トップの私欲に塗みれた実態は誰もが強い落胆と危惧を感じたに違いない。それが時と共に風化しようとしている。そして、厚生労働省の失態、次ぎに国土交通省、更に追い打ちを掛けるようにして文部科学省の幹部職員と業者の癒着。。。。枚挙に遑がない。
 このような国の堕落した現状を嘆き憂いているだけで良いのでありましょうか。
朝から大雨です。満開に咲いた桜がその優美さを充分誇ることもなく今年は散ることになるのでしょうか。
今日は享年91歳のおばあさんの葬儀があります。この方は旦那さんを戦争で亡くしたのです。遺骨が届かず、形ばかりの遺品を墓地に埋葬し弔ったということを伺いました。その時一人娘は1歳であったという。実は私が住職になって5年目にその娘さんが41歳の若さで亡くなり葬儀を頼まれました。その時のおばあさんの顔が今でも浮かびます。戦後63年、たった一人で娘さんを育ち挙げ、その娘さんが結婚し、3人のお孫さんの顔を見ることができた。幸せな時でした。これからという時にその娘さんが小学生と中学生の子供さんを残し病気で亡くなった。この家族にとって戦争が起こっていなければ、全く違った人生が送れたのではなかったでしょうか。
 だが、決して戦争への不満や責任をそのおばあさんから聞いたことがなかった。私には良く理解できないが、戦地で国の為に命を落とされた旦那さんに対する敬いの思いからではなかったのでしょうか。おばあさんが寡黙に徹した事が何を意味するかである。それを受け止める感性をどれだけの日本人が持ち合わせているだろう。
何か桜の花の心を感じてしまいます。日本には同じような経験をされた方が大勢いるに違い有りません。戦後の繁栄を自分達が築いたと自負する人達も良く考えて欲しい。戦争で犠牲になった人がどのような思いで今の日本を見ているかという角度から。
 この反省と謙虚さが無さ過ぎませんか。強い者は、自分達の力を自慢し自分の努力で勝ち得たと勘違い、弱い者を見下し勝ち誇ったかのように振る舞う。その人達の心の中には自然を愛し、桜の花の心を感じ取る”大和こころ”が失われている。
 昨日だった。ラジオである議員が障害者自立支援法の質問をしているのを聞いた。原稿を棒読みし、迫力に欠けた。障害者は弱者である。彼等はその烙印を敢えて否定せず歯を食いしばって生きている。その事を知らずに何を質問できるのでしょうか。
 今日の葬儀はお孫さんが喪主をつとめるそうです。彼女が小学3年の時にお母さんが亡くなったわけですから、おばあさんが母親代わりをしてきたに違いない。「今は遠くに嫁いで名前も変わりました」と通夜の前に私に挨拶された。
通夜が始まると、弔問客にしっかりとした態度で対応されている喪主の姿が25年前のおばあさんの姿とダブる。
 薄幸であったと言えば叱られるだろうが、私としては残された遺族が少しでも幸せを感じる人生を送っていただきたいと思う。 それがギリギリまで生き抜かれたおばあさんの形見の言葉です。

823:Dream

「dream of doing] どうして私は次から次に遣りたいことが出てくるのか自分でも解らない。熟年になり、また違った趣の夢が湧いてくる。
 只今の関心事は英語で考えようとすることです。6月にドイツに行こうと密かに計画しているからだ。あちらでGH入寮を是が非でも体験したい。尚恵学園では現在7カ所のGHを運営している。正直どれひとつみても満足できない。設備面が一番であることは承知のすけ、それと生活の中身にも大いなる不満を持つからだ。
 GHを一時的な住まいの場として考えるわけではない。国はその辺の明言はさける。正直に言えよ!できないんだろう?制度の中でいくら試行錯誤しても限界を感じている。その一番の理由がアイデアが浮かばないこと。果たして今のままで良いのかと自らに問えば、答えは「否」。
 私の大半の人生は知的障害の人々との関わりである。決して後悔はしない。寧ろ自分では納得していることだ。
 先の事を心配しても仕方がないと言われる。そうかなー?
 若い人が本当に満足してこの仕事に就ける時代に果たしてなるだろうか?私達の年代は制度の無かった時代を遮二無二生き抜いた先輩から引き継ぎ、質量共に大いなる進展をみた時代に関われた。だが、これからの時代を考えれば誰もが先行き不安な時代を感じているはず。
 県内の某事業団の所長が30年の歴史の中で初めてプロパーの方が就任した。昨日私の所に挨拶に来てくれたが生憎私は葬儀に出かけていて会えなかった。今回の事業団の英断に心から拍手を送りたい。
 国は天下り反対云々で委員会審議が各駅停車、いくら与党から日銀総裁の人選案を提案しても拒否。
 どうもこの戦略は私には理解できない。全てがその時々の理屈で変わる。一貫性を感じない。
 障害者対策も全く同じ。改革には痛みが伴うとは良く言ったものだ。果たして政治家や高級官僚と言われる方達で痛みをどう感じました?? 特会(とっかい)という言葉を最初とっかいひっかえ変えるからその言葉を皮肉って言っていると思っていた私は相当無知。特別会計の特会であった。膨大な金が回されている。そして表に出てこない金と単年収支のムダ。その団体に一部の官僚が天下る。天下りは天孫降臨の意味?本来はそうだったはず。神仏は庶民の為にあまくだるんだよ。
 これが自分のためだからなー!それで痛みを伴うことで一番解りやすい事。それは議員の定数を削減し、経費を半減することに尽きる。半額でもお国の為に頑張りますーーーーという方だけを国政に送れば良い。それぐらいの覚悟と意地を期待したい。
 最近、どうもテレビ出演が少なくなった先生、あれ誰でしたか、野党で名古屋弁を使う先生。多分、自嘲しなさいとか言われたんじゃねえだろうか。 私は密かに応援していたんだ。それがよー。最近頻繁に画面に登場する野党の先生達、プロフィールみたら皆さん元自民党だもんなー。どこでどう変わったのか、これまた不透明。
 与党から野党に天下る  国の為 自分の為 そこはそれ 貴方が選ぶ清き一票。
【熟年なれど坊主の世界では未だはな垂れ小僧より一句進呈】

824:沈思黙考

越後の雪の中で沈思黙考する良寛・・・・・・・『無常という名の病』山折哲雄著P56
 歯止めが利かない状況になった時に静かに思い考える事が大切です。新しい年度に入り、昨日は関係機関に挨拶回りをしました。異動があったポストの方への顔つなぎ。例年の如く席を外していた方の机には多くの名刺が置かれています。
 そのままゴミ箱へポイかもしれないが一応私も置かせていただいた。
 先の山折氏の本を読み終えた訳ではない。昨年だった、宗務所で開いた佛教講座で山折氏の講演を聴いた。前にも触れたことが有ったかも知れない。彼は浄土真宗の開教師であった父親の任地:サンフランシスコで生まれている。真宗は海外布教も積極的、我が宗派とは偉く異なる。大きな声では言えないが、この私が県2号支所(130ヶ寺)の布教師会会長なんですよ。これが全く腰砕けでして困ったものです。含羞といえば格好はつく、しかし、本心から布教そのものに疑問を持っている。不立文字といえば、これまた聞こえが良い。
 布教にも実は様々な手法がある。文章布教というものがあります。私は口下手なもので若い頃、ガリ版で便りを作って配ったっけ。そして今は止めてしまった。その代わりといっては?、IT上での自由気儘な投稿ページを続けてきた。
 実は、これもまた空しさだけが残る。その理由は分かっている。実践が有るか無しか。この自問自答の繰り返し。
沈思黙考・・・・・良寛の生き様がそうだった。誰もが思い浮かぶ良寛の姿は、子供と戯れる無心な姿。現代に良寛が存在するのか!
 いない。  何故断言できる? 時代背景が余りにも違いすぎる。豊食になんら疑問を感ぜずに済む時代。良寛は春になると飯乞いに集落を廻る。その途中で子供を見かけると手毬りつきなどで遊びに興じた。今の時代、托鉢だけで糧を得る宗教家はいない。
今やIT産業は決して日本特異の産業ではない。工場がどんどん海外に進出し、生産高でも質でもインドや台湾、韓国に追い越されている。寧ろ、これからは食糧の確保(自給)と環境への取組が最優先で先端産業となる。だが、一向に国はその転換への舵を切ろうとしない。
 相も変わらず工業技術立国への憧憬によって必要以上のモデルチェンジに奔走している。
昨日、早めに水戸から帰宅して、党首討論を見た。「何かお茶を飲みながら討論しているように思えた。」といった若手議員がいた。これなど昔だったら党籍剥奪のお仕置きだろうな。今は自由な雰囲気がある反面、たがが緩んでいる。
 公共の貴重な電波を使用しての二大政党党首の討論会だぞ。
 この有様が永田町界隈それに霞ヶ関にも充満している。この現状は当に山折氏が言わんとする『病』の症状である。
果たして特効薬があるだろうか。神戸で起こった大地震、あの光景を思い出す。経済繁栄が築いたインフラがものの見事に破壊してしまった。
 実は至る所から悲鳴に近い警鐘がなっている。その音に耳をかすか否か。これには日本人誰しもが沈思黙考、この一大事に党利党略関係なく知恵を出し合うべきである。
 成熟社会の見本となるべき日本が、実は一つの獲物を奪い合う餓鬼道に落ちている。なにもそこまで悲観的にならずともと言われる方もおいでであろう。それは自らの体に致命的な病巣を持ちながら自覚症状がないのでノウテンキに暮らすことと同じ。
 人間の持つ自然治癒力も確かにあるだろう。しかし、これは自分一人のことであれば、そう言って何もせずにいることも許される。その意味では良寛の生きた時代と根本的に違ってしまった。

825:安心

いつの世であっても安心を得ることは難しい。明日13日午後7時10分よりBS1で自閉症の人との対応を考える上で参考になるであろう番組があります。それはどんな時でも抱きしめるという実践の紹介、興味が有れば観て欲しい。
 最近、子育てに不安を持つ若いお母さんが多いという。子供の成長に合わせて子供の要求の度合いや仕方が違ってくる。憤かる我が子にどう対処して良いのか分からず、自分の意志とは反対の対応をしてしまい、自分を責め続ける。
 その子が寝静まり、あどけない寝顔に涙する。子は徐々に成長する。体験を通して。それを側で見守る。見てもらっているということで安心をする子供。
 某法人の理事長が55歳で亡くなったという知らせを聞いた。直接、その方と話した経験はない。だが、親同士はある時期、会合等で会っているはずだ。私自身もその方から「どうせやるなら日本一の法人を作りなさい」と檄を飛ばされた。
 その事が何を意味しているか未だに答えを見いだせない。県内でトップクラスの規模を持つ法人を築き上げたその初代理事長の後を継いだ彼は私より二歳若い。
 福祉や医療に関わる人間は患者さんや利用者さんからの際限の無い要望に晒される。それをどう受け止めるか?
 その人の人間性が試される。創設者は自らの意志で事業を興し、その思いを残した。だが事業経営のバトンを引き受けた者は、そうではない。この重圧はその立場にならないと決して分からない。
 彼はその事を自分では納得していたに違いない。だからといって誰にでもその思いを打ち明けるわけにはいかない。
事業の継続とは外面だけで計り知れない。
 安心を求め続け、修行と称して自らを追いつめる。名を残した宗教家には数多く実話として言い伝えられてきたことがある。本人は決してそうあることを望んだわけではない。
 人間はそんなに頑強ではない。折角咲いた桜の花が数日続いた風と雨に散ったように。だが桜は無欲の強さを持っている。また訪れる春には見事な花を咲かせる。こうやって何百年も根を張って頑張ってきた。
 人間の生命は長くて八〇年、命を閉じれば次なる時代にまた花を咲かせることができるのか?
 理屈で考えても答えがでない。その便法としての信仰心を考え出した。信じることで癒され安心を得る。
 これは形になって見えるものではなく、易々とは得にくいものである。

826:ワンルームマンション

近所にワンルームマンションが建った。100メートルと離れていない。そこに卒園生の一人が入居、今まで一人アパートでの生活を長くしてきた、この度、訳ありで我々が目の届く所に引っ越してきた。
 本人は以前住んでいたアパートにシコタマ物を溜め込んで、これだけの量良くも集めたもんだとスタッフは一様に驚いた。結局トラック2台分は優にあった。その殆どを処分。今度の住まいにはテレビから冷蔵庫洗濯機全てセットされている。便利なものである。
 ただ、残念なのは洗濯物を干す場所まではない。引っ越してまだ2週間足らず、夜暗くなってからも彼の部屋の窓に洗濯物がヒラヒラしている。これが気になって仕様がない。折角乾いたのに夜露に濡れるだろうに。
 一方、密かに彼が引っ越していったのを喜ぶ人がいる。一時仮住まいしていたGHの同室の方、そりゃーそうだわな、突然舞い込んできて彼に仕切られたんじゃたまったもんじゃーない。しかし、彼はニコニコして決して私には愚痴を言わなかった。
 彼が最近、水戸まで遠出しなくなったのはひょっとすると何らかの関係が有るのかも。
 悲喜交々、自画自賛、隠忍自重、破願一笑・・・・・これら四字なる語、この有様が日々の生活の中で見事に展開されている。
 一つ一つの事柄を気にしたら、もうどうにも止まらない。杯中蛇影 
 そうは言っても地域にも臨界点はあるはずだ。地域で生活しましょうよという掛け声は立派だ。異を唱える人はいないでしょう?
だがですよ、暗くなれば窓から皆さん顔を出し、道を通る人達に大きな声で挨拶する。一体どう感じますかねー。
 ついでだから、昨日気になった事がありました。
 通夜に出かける前に、Kさんが一人GHへ帰るところ、それが生憎、電話線工事中、交通整理を赤い誘導灯を振り回している係の人と鉢合わせ。Kさん明るい時間になんで懐中電灯をつけているのか気になったのか?
 誘導している制服姿のおじさんの前で立ち止まって動かない。
「こんにちわ」「ウン  ウン」「こんにちわ」「ウン  ウン」 自分が挨拶しているのになんでこのおじさん返事してくれないの?自分から挨拶して、自分で答える。
 彼のこれが拘りのはじまり。もう気になってしようがない。相手のおじさんも気になってしようがない。
 飛んでいって私がそのおじさんに「ハイと言ってくれれば気が済みますから」と言えば良かったのか?
 こちらも生憎、迎えの車が来てしまった。
 あの後、どうなったのでしょう。斎場に着いてからも気になって仕様がない。これも拘り?
あーあ! ワンルームマンションか、俺が入りてー。

 

827:抱きしめて

昨夜BS1で「僕たちを抱きしめて」という特集番組が2時間に渡って放映された。イギリスで2007年に製作されたドキュメンタリーであった。予告でだけの情報だから詳細は分からなかった。でも、何かインパクトがあった。
 見て良かった。日本では多分、同様の学校は無いと思う。普通学校で対応できない子供達を40名、3年間預かり、また普通学校に通えるようにさせる。その数が実に8割という。それにスタッフの数も半端ではない。108名のスタッフ、実に1人の生徒に2.7人の先生。
 映像に映し出された様々な場面、全編は9歳で入校してきた男子が12歳で卒業していくという時間の流れを追った。
統計の数字は確認できなかったが、入校する全ての子供達が適応障害を持っている。パニックや他害行為、元々集団学習が苦手でこの学校に入ってきた。何らかの家庭的な問題を持って。8歳という年齢は日本の小学2年生である。
 イギリスでは昔から移民を多く受け入れてきた。人種差別もある。従来からの植民地政策で労働力を英国以外に頼ってきた歴史がある。その人種間の格差は今でも大きいと思う。
 家庭的な問題は両親の離婚や暴力(DV)が主なものであった。一概に離婚が問題ということではなく、親子関係の歪みが起因していることが多いということである。
 この学校は多くの寄付金を受け入れることで運営されている。40人の子供を寄宿生活させ108名のスタッフで対応する。マンツウマン以上である。そして基本的な対応は、如何なる時も抱きしめるという事であった。
 パニックを起こした子供を辛抱強く落ち着くまで抱きしめながら待つ。そして、何故このような態度を取るのかを根気よく聞いていく。このベースとなる考え方は、子供自身の力を信じるという事。家庭や地域で何度も何度も裏切られた経験を持っている子供達の心の奥を。
 今の日本では対症療法が中心になっている。(教育や福祉現場)ここでの実践はそうではない。子供自らの立ち直る力を信じることから始まっている。教育現場の問題は様々である。少人数学級を日本でも推進しようとしているが、ここでの実践の比でないことは一目瞭然。
 それではスタッフの人数が充分であれば、日本でも可能なのか? 正直、今の日本の主流派の考えは、成績を上げることに主眼が置かれているように思える。世界のトップクラスであった日本の子供達の学力がどんどん落ちている。これでは大変だという焦り、エリート教育に課外授業まで認める。常にここで置いてきぼりになる子供達が出てしまう。その子達への対応はお粗末である。エリートと人間的優しさは一体でない。
知的障害の人達との付き合いが長く、私自身冷静な判断ができないかもしれない。
 今、新たな問題として教育現場を悩ませている発達障害と言われる人達。そして高次機能障害は交通事故や脳の疾患によって中途で起こる。
 私は、これら適応障害を持つ人々は、その人自身が問題というのではなく、彼等を取り巻く外的な環境の問題であると思っている。能力の個人差は生来のものである。もし、一律に学力優秀の人間を育てることを目指すならば、実に恐ろしい社会と表裏一体である。この考えを推し進めれば絶対に非人間的な対応をせざるをえなくなる。エリート教育に「抱きしめる」という手法は似合わない。
 
エリート教育(欄外)
 茨城県内でも最近中高一貫教育を行う学校が増えている。これは学校の経営戦略から早めの学生の取り込みということが大きな理由。表向きは決して全面に出せないことである。だが、学校側にもそれなりの結果責任が重くのし掛かっている。教育機関の一般的な評価基準は進学率でどれだけ多くの学生を有名校に送り出せるかという尺度が今も歴然と残っている。大手新聞系列のM週刊誌には特集記事として毎年、全国有名校の合格者順位を掲載している。それを悪用しルール違反を起こした問題が話題になった。優秀な生徒に受験料を補助して数多くの大学を受験させていた。数字だけを見れば高い評価になるわな。
 国立の某大学の入学式に新入生の数の1.5倍の父兄が出席したという。親離れ子離れの次元でなく、我が子が最高学府であるT大学に入学したことが全て。親子で勝ちえた勲章か!
 一方では個人情報保護という縛りをかけながら、この実態は如何なものだろう。
障害者福祉は、対極に位置している。ただ、危惧する事は、同じルールがこの分野にも忍び込んでいる。
それはどれだけ多くの障害者を一般就労させたかとか、どれだけ多くの工賃を支払ったか!という評価尺度。
 人間の価値を、数値化することはできないと思います。ただ、安易な基準が横行すれば、その一番の被害者が利用される人々になるという些か困った結果を見ることになるのだが。『私どもの実態は入所30年の皆さんが多い、これもまた多いに困った現実でありますが。。。。。』

828:トラブル

東京に会議があって土浦まで車で出かけた。すると道路が自棄に渋滞している。事故でもあったのだろうか?土浦駅に行ってわかった。水戸よりへ2駅先の踏切での車と電車の事故、全面ストップ状態で駅には警察官が待機し、多くの乗客が足止めをくっていた。駅員に尋ねると朝6時に起こった事故らしく既に3時間この状態だという。
 結局、動き出した最初の電車にのって、予定時間に少々の遅れで浜松町まで行けた。事務局のスタッフは事故の状況を知っていた。テレビで放映したようだ。このような事故が最近連日のように起こっている。それに殺人それも猟奇的な信じがたい事件。
 一体日本はどうしたんだ?会議が早めに終わり、若干の新旧の入れ替えがあった。その慰労会を兼ねて貿易センタービルの地下へ。そこは早い時間から店があいている。午後の三時頃には店一杯の客、週末ではなくても毎日このような状況なのだろう。まー自由を謳歌することは良い。酒で鬱憤を晴らす。飲めない私にはちょっと時間が長く感じたのだが、結局は三時間弱そこの居酒屋で騒いで、皆さんそれぞれの県に帰っていった。
 夜、疲れたので風呂に早めに入っているとドイツのYさんより電話、また日本に五月に来るという。何か別次元の世界からの電話に感じた。雑談に「ドイツでは殺人事件など起こっていないですか?」と尋ねると「あまり聞かない」という。そして、「日本人はみんな不安があるんじゃないだろうか?」という事を話された。確かに最近の話題の大半が不安を煽るようなものばかり。過去:現在:未来。若者:成人:高齢者等々。 どこの時点で区切りとするかによって違うのだが、一般論としては、戦後の繁栄を過去として考える。高々60年の時間的経過であるが、論議のポイントは少子高齢化に伴う労働人口の減少、産業の空洞化、外資系ファンドからの防衛・・・・・・(きりがない)、そしてお金を得る視点からのマイナス要因、教育福祉医療へのお金の出具合への危機感、それに政治と官僚の弛み。次から次に明るみに出るムダ使い。湯水の如く使い切ってしまうやり方に何の疑問も感じなかった人々。いよいよ財政破綻かという所まできて、今右往左往しているのだ。
 たまに東京に出ると相変わらず新たなビルが建設されている。取り壊すビルもまだ充分使えるのに、隣のビルが真新しくなったから建て替える。本当にお金が有って設備投資がなされているのでしょうか?(実態は全く違う。入居者離れを止めるための無理な投資だ。) それと全く同じ手法で地方都市にもマンションや大型商業ビルが建てられている。土浦の現状、最近建ったマンションの入居率は50%に遠く及ばない。それに郊外型大型ショッピングセンターもテナントに入る店が確保できなくて計画変更を余儀なくされている。
 これで資金が問題なく廻るのだろうか? アメリカで起こったサブプライム問題とまた違った金融危機が起こらなければ良い。日本では今のままで充分なのに、それ以上の高望みとも考えられる。(知足でなくて浮き足)
 福祉や医療で最近話題になることがあります。それは施設や病院が後継者がいなくて廃業や売りに出されているという状況です。公立民営という時代はもう過去の事、負債も老朽化した建物もつけて民間に委託する時代。指定管理者制度とは聞こえが良い。赤字経営で回転率の悪い事業から順に民間に委託する。成績の良い事業は民間に委託しませんから。
 最近、地元の市でも火葬場を民間に委託しました。
 福祉の業界でも法人の合併や事業譲渡という動きが加速するでしょうね。我々のスタンスとしては、これが千載一遇のチャンスとみるか否か。私は後者の立場である。事業を引き受けて、人的にも資金的にも長期的な手立ての保証が持てないからです。
 一つの法人の傘下にするのではなく、別個の法人でグループ化するほうがリスク分散ができ実効的な人的交流も出来るしベター(ベストではない)だと考えるからだ。
 このノウハウは、寺院経営の歴史から多いに学ぶ。私の住職する二ヶ寺はそれぞれが六〇〇年の歴史がある。私は35代目。浮き沈みはあっただろうが、なぜここまで続けてこれたのか、それは時々の制度や流行に左右されず、一つの柱を守り続けてきたからである。その柱とは規模の大小とか外観(?)ではなく、何の為に存在するのかという一点に絞られる。平時であろうが乱世であろうが終始一貫していることです。 

829森林&砂漠

この地球を今コンピューター上から検索できる。地球儀大から最大限に拡大してみると、観音寺に車が何台駐車されているかも識別できる。これは残念ながらリアルタイムの映像ではない。しかし、軍事目的に使用されるものは比較にならない位精密であるから、1メートルの誤差もなくピンポイント攻撃できる。
 いざ戦争になれば、どこから攻撃されるか全く予想できない。戦国時代の戦の準備や城壁などは無意味、瞬間の出来事として終わる。
 地球は大別すれば砂漠と森林それに海に三分割される。この異なる環境の中で宗教や文化、生活様式が独自の発展をみせてきた。そのうちで森林的思考は仏教、砂漠的思考は砂漠の周辺で生まれたキリスト教やユダヤ教に代表される。対比して大きな違いは、生きる知恵に見られる。砂漠で生きる為には水の確保が不可欠、水を求め左右に分かれた道をどっちを選択するかで生死が決まる。だから上から下を見る鳥の目を持つ。一方、森林では差程苦労しなくても水場を見つけることは可能、逆に森林の中で方向を見失わないように下から上を見つめる姿勢が自然に生まれた。その例として、ヨーロッパに行き飛行機から街並みを見下ろすと見事に調和が取れた家並みが望める。屋根の色や建造物の形に規制をしているからだ。日本などにはそのような風景が見あたらない。(非常に狭い地域ではあるが飛騨高山に辛うじて残る) これなどそこに住む人間が視点をどこに置いているかということを物語る。
 宗教に関しては、教義信条から幾多の比較研究がされている。キリスト教と仏教を私なりに理解整理すると、キリストの復活と仏教の成仏思想の考え方の違いに辿り着く。信仰心というものは、何れの宗教においても安心を得るために生まれたものであろう、何を信仰し、どう生きるか!を説いてきた。
 その安心を妨げる要因に欲があることは誰しもが理解できる。キリスト教に於ける福音書、仏教においては膨大な教典、その中で説く教えに信じる者が救われるか?
 二つの宗教には、様々な宗派が現に存在する。どうしてこれまで複雑に枝分かれしてきたのか?このことをどう理解すれば良いのでしょう。
 先日、こんな話が出た。寺と福祉事業をどうみるか。私の場合は好き嫌いは別にしてあくまでも僧侶という立場が最優先であるから力以上に福祉事業を拡げることは危険だと話した。これは年と共に強くなっている。それならば福祉事業(幼児教育でも同じ)の規模はどれくらいが適正かという話題になった。
 「あまり手広く大きくはしたくない」と私が言うと相手は「本当は大きくしたいのにできないからだろう」と言った。彼の知り合いの韓国の寺が経営する福祉事業はどんどん規模拡大し大きな病院まで経営しているという紹介があった。
 宗派やオール仏教で行うのであれば話は別、太平の江戸時代、全国各地の寺で地域の子供達を受け入れ寺子屋なるものが存在した。ノーマライゼーションなんて横文字を使うと何か難しいい話になるのだが、一般の人が考える地域福祉ってそんな長閑な実践なんだと思う。関係者が難しく難しくする傾向があるんじゃないだろうか。
ちょっと話が纏まらない。
 

830:内部留保金

国会で大きな問題になっている道路特定財源論議から今まで明らかになっていなかった部分が大分見えてきた。情報を共有しなければ民意を問うても意味がない。こうやって今までの日本は既得権益を堅守しようとする連中と新たな参入者との間の予算の奪い合いがあった。それが財源が乏しくなって難しくなったのです、今更遅いという感もするが、内部からの告発という形での情報漏洩が出て来たということでしょう。勿論、国会議員の人達は天下りの実態も特別会計の使い道も知っていたはず。それが今になって急に騒ぎ出したのはなぜでしょう。族議員の皆さんは必死でしょうね。でもこれからはダメだわな。
 政権が交代になったらですよ、左遷それとも鞍替えしてすり寄るのでしょうか?今こそ官僚魂を見せて欲しいーな。俺達が日本を守るんだ!
 問題→調査・検討→改正。それを強調するために『抜本的な』という修飾語まで添える。嫌らしいね。公益法人の見直しが国会で決められ5年後に特例民法法人へ移行しなければならない、社団や財団も対象になる。そこで我が協会はどうしますか?答えは一つ公益社団への選択だけ。一つの認定目安として「不特定かつ多数の者の利益」の基準が組み込まれる。認定する機関は民間有識者による合議制という。行政改革も同様の中間に審議会を置いて行うから似た者同士。
 ここで重要な事は、委員の人選を誰が行うかということです。恒例により、事務局案で決まるんじゃーねだろうな。
 疑い深くなる自分が嫌になる。
さて、長年、福祉法人の会計は行政にあわせて単年度決算を行っていた。正直、年度末には内部保留金の上限額を超えないために頭を悩ます時期もありました。そこまでして何故 無理して年度末に買い込む必要があるのかという疑問があった。国は上限を超えた場合にはペナルテイをかけ、次年度の予算を削る。この方法を堂々と行っていた。その延長線上に今問題とされているムダ(?)な支出があると私は思っている。これしかない。理由は単純だ。
 しかし、社会福祉法人の会計は大きく変わった。改築費、人件費など将来の支出を賄うためにできるだけ多くの基金を積み立てる経営に変わった。当然といえばそれまで。福祉サービスが社会福祉法人の独占ではなくなった。制度上の規制が撤廃され自由な運営ができるようになった反面、責任が重くのし掛かっている。経営に行き詰まり万歳する法人も出てくる始末。
 それは経営の見通しの甘さといえばそれまで、時代と共に変わる制度に起因する部分も大きいのです。
 それではどれだけの内部保留金があれば良いのだろうか?確実に言える金額としては、法人全体予算の2倍、何故ならば一つの建物を全面改築するのに使い切ってしまう額では少ないということになる。継続可能な事業となるために。
 人材の確保にしてもだ、3kとか言われ福祉離れのマイナスイメージに翻弄されているのでは失格、地域の事業所に充分対抗できる給与を払えれば自ずと解決することだ。
 そのための基金はいくらあっても構わない。
 時代は変わった。昔、剰余金の金額を表に出したくなかった時代あり、今はどれだけ内部保留金が有るかを堂々と公表する時代になったと思う。そのことが法人として健全に経営している証であるし、従業員に対する安心を与える一つの要因になるからだ。
 (*決算時期になり、留保金が今年度執行額の2倍、とてもとても貯まるどころか羽をつけて飛んでいかー)
    いつかある日 山で会ったら 古い山の友よ 伝えてくれ・・・・・・とかいう歌をフト思い出しました。