源究68

  

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
871 是なる時 6/7 876 朝一杯のコーヒー 6/14 881 違和感 6/19 886 一人旅 6/26
872 伝えること 6/8 877 歩き疲れ 6/15 882 福祉の専門性 6/20 887 東京葬儀事情 6/28
873 茨城施保連 6/9 878 本人部会 6/16 883 人生の冥利 6/22 888 一日の始まり 6/30
874 秋葉原 6/10 879 親孝行 6/17 884 仮想現実 6/23 889 抱え込みリスク 7/1
875 隣り次ぎ 6/13 880 福祉デルタ 6/18 885 一人芝居 6/25 890 情勢分析 7/2

871:是なる時

国是・・・。国家行動の基本となる準則。いま国家としての方針が読めない。足元から何か大切なものが崩れようとしている不安を誰しもが抱く。
 与野党の遣り取りの中で良い方法があれば貴方が示せという議論があった。これをどう受け止めればよいのか。このような状況が今、国政や地方政治に歴然と起こってる。そして確実に押し寄せてくる波、原油の高騰や食糧確保問題、全てが生活に直結することである。本来、最優先の課題であるべきこれらのことが一向に討議がなされない。全く次元の低い問題ばかりが目立ち、国民をあざける。高齢者の医療費が嵩むなど、とうの昔に予測できたこと。今更なんで?
 それでも道路を作りつづけるのですか。優先順位からは大分下がったでしょう。
 国民もなんとお人好しなのだろうか?今般の居酒屋タクシー問題、どこのどなたが命名したのか分からないが標語大賞の有力候補間違いなし。各省庁の大臣のコメント、気のせいか迫力に欠けた。同じ穴のムジナだからですか。
 昨日の時点で、居酒屋の接待(?)を受けた者、自主申告で省庁全体で502名、出るは出る出る。厚労省は現在調査中、この難問を前にして申告もしづらい。
どこでこんな風になってしまったのだろうか?”奢り”&”倫理の崩壊”だわな。
 それから今日銀行に残高証明を取りにいって待つ間に週刊誌に目を通していた。サンデーMという週刊誌、相も変わらず全国の一流大学合格者一覧なる特集記事があった。編集者は何を狙っているのでしょう。不可解です。教育の評価を依然として国立の某大学の合格者数で丁寧にもランク付けしている。つまり、ランク上位の大学に入らない若者はダメだと言っているのと同じこと。そうじゃーねーだろう。そこでの温室育ちが国家の中枢に沢山いることは確か、寧ろ今の状況を招いた責任はその者たちに多いにあるのでは?逆に恥ずかしいことでしょう。全てでは無くとも、彼等は自ら汗をかき現状に疑問を持つ能力が極端に欠如している。だからタクシー接待は20年以上も前から行われていても何とも感じなかった。
 学歴偏重の日本では、いつになっても知的にハンデイを持った人達は立つ瀬がないわけだ。これで本当に良いのでしょうか。もし彼等がタクシーにのってお酒でもご馳走(?)になれば警察沙汰になるでしょう。昔なら「これ、食べる?」とくれたであろう情けがあった。今は良いお客ではないからあげない式の考えが常識?親たちが遠慮している。もっともっと怒って下さい。
 果たして今回名乗り出た公務員の皆さんがどんなペナルテイを受けることになりますか?始末書でも上司に提出してお咎め無し。その上司だってどんなもんだか。この不信感は深刻です。果たして自らの力で疑惑を払拭できますかね。
 彼等が作った個人情報保護法という天下の宝刀がこんな時に力を発揮する。個人名は公表せず。つまり、今回の程度のことは大したことではないという判断ですね。確か茨城では11億もの金を3年で競艇に注ぎ込んだ人もありました。この返済は同じ職場の上司と役員が返すということになったようですよ。当然です。
 これが国の段階では是ということにならないのが不思議です。
 今、福祉の現場は正直大変です。職員募集をハローワークに出した。二人が見学にこられました。お一人の方は朝から晩まで働いて手取り11万だという。これがもし現実ならば夢を抱くにはほど遠い職場であろう。シフト勤務で夜勤もこなし、タクシー代など無縁の世界。こうやって福祉を支えている人がいるから、貴方達が考え出した制度が形を辛うじて保たれているのです。このギャップはどう理解すれば良いのでしょうか?Q&Aですよ。福祉のサービスを受ける人と提供する人達も怒っている。まー金が無いから仕方がないでしょうと他人事に片づける人が中枢にいる。これ実態。
 これじゃーいけない。その辺の議論は、要求が無ければしないのですか?それともできない理由があるのでしょうか? 
 人間の評価は上や強い者に媚びるのではなく、その対極にある人達に如何に灯りを照らせるかで評価されるものだと思います。お釈迦様もキリストも孔子もモハメッドもそのように言っていましたでしょう。そうじゃー無かったですかねー。
わたくし毒舌は一向に止まりません。無視して結構ですから。・・・・・・・・・ム!仏罰だ。
 

872:伝えること

伝えることの難しさ、伝えることの大切さ。これは人間有史以来の課題である。言語的な手段はややもすると双方に誤解を生じやすいものである。それはお互いが相手をどう見ているかという判断が影響するからだ。
 職場や家庭では、このことが意識せずとも日常的に繰り返されていること。難しさと大切を誰しもが感じている。当人同士が対話という形で直接話し合うのであればまだ良い。噂話など不確かな情報では何が真理なのかわからない。(疑心暗鬼)(言行不一致)
 最近の傾向は、小うるさい上司は疎まれる。好かれたいと思えば、見て見ぬ振りの良かれ様が一番、これが大きな間違いの元だと感じてきた人も出てきた。
 誰しも嫌われたくはない。それを承知していながら、私は相手に小言する。組織の大小に関わらず、社是とか経営理念は存在するものだ。それが次の代に引き継がれていって今がある。時にセミナーなどを覗くと、経営者の交代は企業のトップマネージメント&戦略であるという。最初、その事が何を意味しているのか分からなかった。それが最近年を重ねてきたせいだろうか、私自身に真実味をおびてきた。一般企業では今何が起こっているか!
 私の住む神立に有る工業団地、会社名が半分以上変わっている。それも明らかに外資系のカタカナの社名に変更になった。例えば金融機関の合併、実質的に吸収された側の銀行の元社員は冷や水をのまされる。これが常識だとか。
 閑話休題!仏教の衰退(語弊が有りますが)は、戦後常態化した住職の世襲制によると言われる。私自身が現在住職をしている寺で私は35代目である。住田としては3代目、それ以前は全く住田家とは無関係な住職であった。
 寺社会の独特なものに”血脈”と”法類”があります。前者は真言宗の場合、大日如来から延々として続く血脈相承を示した変更はないもの、後者は血のつながりではなく法(教え)の繋がりを言う(変更は有りうる)。存続継承は寺社会にあってトップマネージメントとして存在した。時代を遡ればその交代時期に争いも多く起こっている。ここまで宗派が細分化した最大の理由が実はここにある。
 お隣の韓国は系図を大切にする。国の侵略の歴史の中で、ルーツを重んじる思想が生まれた。
それも頷ける。
 昨日、茨城県の施設保護者連絡会(施保連)の役員会議があった。古い施設は親の会ではなく兄弟会が主体となっている。もう親が亡くなっている方が多い。そこで話題になったのは、存続継承という問題だった。今受けているサービスが将来も受けられるか否かという不安は参加者全員に共通している。だが正直言って、我々事業者の立場とは微妙に異なる。また、親と兄弟の受け止め方も異なることが分かった。
 それが一緒になって団体を作り、運動を展開することになる。組織化を画策したのは、何を隠そう私だった。だから逃げられない。逃げようなど考えた事もない。全国で組織化できたのは20数番目早くも無く遅くも無し。これが茨城流だとつくづく今感じている。様子伺いが得意で腰が重い。(私の場合は、半分名古屋(父方)の血が混ざっているからかな)
 そして、ここにまた、伝えることの難しさと大切さが併存するのだ。

873:茨城施保連

正式名称は茨城県知的障害者施設家族連絡協議会、昨年発会し漸く全国への仲間入りを果たす。正直、遅れを取ったことは否めない。まだ設置していない県もあるようで丁度真ん中位の位置であろう。いずれにしても、制度改革や今後の施策へ利用者の立場からの運動展開が不可欠、最初は関西や九州から活動の烽火が上がったと聞いている。
 その後、関東でも機運が高まり、千葉や神奈川が牽引役となり、準備を進めてきたのであった。会長にあいの家の松井氏を選出、ヨチヨチと歩き始めたのである。
 全国20数県の施保連で家族会だけの活動は千葉と福岡の二つだけだと伺った。茨城スタイルは事業者(施設)と家族会の連動型、母体に茨城県心身協があり、そこに事務局を置く。現在、心身協は加盟事業所が130数カ所、身障施設も加盟している。これも全国的には特異な存在となっている。全国サポート協会(互助会組織)の事務局も併せもっている、福祉の常設店ハーネスも運営、事務局体制は5名で社団法人として県総合福祉会館の1Fに構えている。
 数多い団体の中で自前で事務局を持っている所は少ない。皆、社協の職員に業務委託している。はっきり言って自立団体でない。その点我々は県社協に対しても堂々と物が言える立場である。(これは、実は私だけが思っていることかもしれません。)
 その団体が茨城県知的障害者施設家族連絡協議会を受ける。やっと利用者と事業者の接点を組織の中に築くことができた。将来を見据えた時に、様々な事業主体の参入が考えられる。その時に活動実績が物を言う。近年の動きを見ると金融法の改正があった。いばらき互助会を廃止せざるを得なくなったのである。その時に東京や埼玉と何度も協議を重ね、全国サポート協会を設立した。この時は金融庁との掛け合いに苦労した。最初は茨城を含め、6カ所の団体で発足、今、これも20カ所(県)以上にまで増えている。
 国は三位一体改革というお題目によって、一括りで責任を地方に転嫁する。確かに全国で東京や愛知など財政基盤が整っている県は、その政策の恩恵を得るだろう。だが大半の自治体は絶対量が充分でない。その限られた財源の中で障害福祉の予算を獲得するのは至難の業だ。それに法律の改正は国レベルのこと、如何に地方の首長が理解を示しても抜本的な改革は望めない。その事を嫌という程知らされた。そこで立ち上がったのが施保連ということ。
 果たして茨城の県民性がどう出るか?
何しろ腰が重い。「誰かがどうにかすっぺーから、黙って見てっぺー」これもまた嫌と言う程、経験させて頂きました。
What is your playgrand? Ah........?  Try to feel more strongly about this  issue !
時間が無いのですが、今月29日に総会を開催する。そこでどれだけの盛り上がりが出ますか?
 ホント!立ち上がってよ。 

874:秋葉原

日本中を震撼させた事件がまた起こった。無差別通り魔殺人である。事件後徐々に真相が明らかになるにつれ、誰しもが「何故だ?」という疑問をもった。犯人は25歳という年齢である。土浦で起こった同種の事件の犯人も24歳、テレビは挙って生放送で事件の様子を繰り返し報道する。犯罪心理の専門家は、各チャンネル掛け持ちで犯人の心理を分析する。
 世の中が病んでいる。
秋葉原は一昔前の面影はない。電気街で有名であった街が今急速に変容している。大型電気店が熾烈な値下げ競争を行い、昔から店を開いていた中小の電気店は存続が危ぶまれている。そしてモエちゃんとかいう少女趣味の男性客目当ての風俗店が急に増えた。つい最近、私はつくばエキスプレスに乗るために秋葉原の駅に降りた。平日とは思えない程、多くの人が駅改札口に屯していた。
 犯人は静岡から何故わざわざ東京まで出てきて秋葉原で犯行に及んだのだろう?彼は出身は青森という、今流行の人材派遣会社から静岡に働きにきていた。
 何故、若者を人を危めるという絶対に許されない行為に駆り立てるのだろうか?考えれば考えるほど謎が深まる。
現代への警鐘であることに間違いはない。大きな原因の一つに若者が大人社会への不信感、不満があることは確かだ。
 エコエネルギーのラジオ番組でアンケートをとったという。何が電気のムダかという問いに、一晩中点滅するネオンが一番、3番目になんとテレビの国会中継という結果がでたというのだ。
 本来、国民の誰もが関心をもち、政治や官僚の活動を目で確認する唯一の機会、その議会政治の公開番組をムダの3番目にあげる。
このことを当事者が真剣に反省しなければならない。テレビが入る日の議会は拡大されたパネルをテレビに向けて質問を行う。派手にパフォーマンスを繰り広げる政党の悲しい程にピントズレした実態。正直彼等の周りにあるものは疑惑と嘘、保身、責任転嫁、とぼけ:高慢・・・・・・のなにものでもない。
 老人や障害者それに子供達、これらの社会的弱者に冷たい国は人間をヒステリックにし、他人を思いやる気持ちを奪い取る。
犯人の膨大なメールでの告白の中に、勝ち組への殺意や派遣会社が自分達を人間として見ず物として扱う実態に強烈な批判をしている。だからといって彼が行った行為は絶対に許されることではない。これは如実に現代の病みの部分を象徴している。そして私が一番危惧することは、日本中に同じような不満を持つ人達がいるということ、連鎖的事件が起こらないかということである。
 福祉の仕事に市場の原理を導入、サービスを金で換算する仕組みに変えた。その事で現に起こっている福祉現場での目に余るマネー競争。それが質の向上に最良の制度と考える人達(政治や官僚を含め我々の同業者)の神経を疑う。誰が考えても福祉の効率最優先を唄えば、人件費を削り、割りの合わない事業は敬遠されるに決まっている。
 施設現場で何が起こっていると思いますか?割りに合う事業で業績を伸ばし、それを声高に誇る。先人は誰も手を差し伸べない人達に自ら立ち上がった、今の福祉の変貌が秋葉原の急変とダブる。
 人間一人の力には限界がある。その人間は社会の様々な関わりによって育てられる。その原則を忘れている。
 この打開策は、あるのでしょうか。誰しもがどこから手を出して良いのか分からなくなっている。複雑化した社会のシステムを変えることは並大抵の努力ではできない。
 唯一可能性として有ること。
 政治家:官僚:事業者:家族:地域・・・・・などなど全ての人々が、自らを反省し、それぞれの役割を確認し先ず足元から変えることからスタートすることだけ。 

875:隣り次ぎ

寺の世話人さんが亡くなった。長い間、手伝って下さった方で、私が住職になりたての頃からだから30年以上になる。寺の役員は13名いる。私が住職になって一番大きな事業は本堂の新築であった。これは準備から完成まで約5年の歳月を要した一大事業であった。無事完成し、皆で喜んだ思い出は忘れることができない。その当時の役員も半数近く亡くなってしまった。
 今、12名の役員の方々に葬儀の知らせを電話で行う。
 昔は回覧版というものがあり、隣り次ぎで連絡を行ってきた。最近でも市報などを配布する時に隣り次ぎで行う。私の住む地域もアパートや新築の家が徐々に建ってきてその家には隣次ぐことはしない。
 同じ町内であっても昔からの家と新しく移り住んだ人とは別立てである。徐々にこのようなしきたりも無くなっているが、生の情報交換としては貴重なものとなってきた。
 地域での交流が薄れて、様々な問題も出ている。なり手の無い区長や民生委員は、行事を取り仕切ったり、訪問調査など用事が多いから見つからない。
 確かに私が民生委員をやっていた時、「何しに来た!」と怒られたこともあった。切なくなる。
〈小休止〉
 公憤慨嘆という言葉が有ります。公に関することで憤り、憂い嘆くこと。またか!何故?どうして?・・・・・いま誰しもが感じていることです。これが止めどもなく続いている。こうなると人間はどのような反応をするか。
無視→不信→不安となって自分に返ってくる。それに対し何も出来ない無力感を感じ、その責任を他人に転嫁。被害者意識が強くなり、他害暴力的な行動に移る。
 自分の住む地域で何か事件が起こると一様に”まさか身近に起ころうとは”ということになる。ここまで地域のコミュニケーションが薄れている。
 そして家族のコミュニケーションも同様である。自由を謳歌することは個人主義に価値を見いだすことではない。人は一人では生きていけない。今、私の周囲に様々な課題が起こっている。心情的には出来る事は要望に応えてみたい。
 ただ、福祉のサービスはマンツーマンとは言っても支援する側は一人ではできない。グループで関わることでしか継続的な支援はできない。ウチでは出来ませんというと相手は急に態度を変える。
 お陰様で、まんだら工房の評判が良くて注文に応じきれない状況がある。この時期、学校ではバザーなどが多いようだ。つくば市の3つの高校よりクッキーの注文を大量に受け、スタッフはその対応に時間構わず対応してくれた。常設店の数も増え、作業量も増えた。
 私の友人からメールが届く。
・・・・後藤新平の晩年のことば『人生の終わりに金を残すは下、仕事を残すは中、人を残すは上』とありました。最も大事なことは、財を残すとか、立派な業績を残すかではなく、人材を育て残すのが、人生心意気かと。いかがですか?・・・・・
 何か時を得た内容である。
 また、現状の日本を経営や戦略がもっぱらの関心事、国家としての進むべき哲学が無い状況は危険だとも。
 当に今の日本の病巣を示す事がまた昨夜のニュースで見かけた。三重県で起こった病院での点滴による集団院内感染(?)、院長がニヤニヤしながら記者会見、看護師が行ったことで自分の責任を認めない。それが一夜明けて態度を一変、責任は全て自分にあると述べた。医療現場も吉兆も一道に徹するという規範を微塵も感じない。そのような病院や老舗割烹を好き好んで持ち上げる人もどんなもんか?

876:朝一杯のコーヒー

 家に居るときは良くコーヒーを自分でいれて飲む。特に朝一番の喉越しがなんとも言えない。束の間の至福の時である。贅沢でしょうか?サザコーヒーの「将軍コーヒー」を豆で購入し、飲む前にミルでひく。さーて、今日もやるぞー!と気を入れるという程の事はありません。悪しからず。あくまでも自然体、職業上では、抹茶で香を聞く位の余裕が欲しい。だが、正直、その境地にはほど遠い。以前はミルクと砂糖を入れないと飲めなかった。今、ブラックでないと逆に飲めない、少しは通に近づいたのか。
 ほんの一瞬だが目をつぶる。するといろいろと思いが馳せる。
 水辺にある小さなレストラン、良く立ち寄った。岸に打ち寄せるさざ波を見つめていると目が回った。上空に飛行機が飛ぶ、そんな店があった。
いつの間にか年を取る。コーヒーは最初の舌ざわりが肝心、濃くもなく薄くもない、その微妙さが落ちどころ、不思議な事は、たった一杯のコーヒーから沢山の思いが浮かぶこと。
 そして、昭和40年代後半のBGMが有れば気分は最高。
ゆっくり旅でもすれば、また良い気分になるかもな。
 そんな感慨に耽っていたら、県から通知が届いた。今年のゆうあいピックの県選手団の副団長で参加依頼があった。九州大分で10月に行う。OKの返事をする。何も知らない人は、羨ましいと思うかも、現実はどうしてどうして。5泊6日で缶詰、3年前は岡山に行った。その時は正直早めに帰りたくなった。今回はどうだろう?尚恵のメンバーがボーリングの選手に選ばれた。彼の応援でもしよう。何もすることが無いのも正直つらい
 何事も同じです。決められた日程、自由が無い旅は得るものが少ない。
はたと思い当たる。 今、私どもがお預かりする人達の生活は・・・・・。
CDから井上陽水の唄が聞こえる。せめてこの自由が必要だろう?
 やっと昨日アマゾンに注文した本が届く、某出版の人生論3冊。読みやすい内容でこころの時代にそこの編集長が出演していたから買ってみた。
 その本の中程に書かれたあった。・・・・「夢をみることは重荷を背負うことだ」・・・だれか有名な人が語ったという。何気ない言葉である。しかし、読者はあの人が言った言葉ということで、その真意を探ろうとする。私も何度”夢”をみたことか。
 次の瞬間には消えて無くなっている。
 今日は土曜日のせいか、朝の6時ちょと過ぎた時間なのに、鐘楼の鐘がさっきからなっている。誰かがついているのだろう。もう少しで鐘楼ができて丸1年が経つ。昼の12時、夕方の5時と6時についている。これが何を隠そう私(住職)でない。
 どこまで生臭なのか!都合の良いときに仏さまにお願いする人生57年10ヶ月。夢多き人生をいつまでも。

877:歩き疲れ

梅雨明けを思わせる好天の元、私は充分歩きました。それも山の中に分け入ったり、谷を下ったり。杖を片手にキノコ捜し。
直接、ゴルフをやりましたというのには遠慮があるんです。そりゃーそうだろう。皆さん、人が少ない中を仕事をしている時間だ。覚悟を決めました。正直に言います。やりました。笠間の○○GCで44名の参加、成績は上記の如く、方向定まらず、行方不明になったボールは1個、やけに距離が遠く感じる1日でした。
 私は、急遽メンバー変更で、接待係、これがまた、電動車に乗らない方、そして歩くのが早いときた。私の性分でしょうね。一緒に今日は歩きますと最初に言ってしまった。禿頭には日差しがきつい。それに履き始めの靴が容赦無く、足を痛みつける。そのお方に言わせると今はルールを弁えないプレイヤーが多いとのこと。マグレで入ったボールに飛び上がって大喜び、前の組みの方が一瞬此方を向く。ここで気付いた。そのお方が私を見る。「住田さんよ、。。。。。。」
ここでやっと気付いた、先ほどのルールを弁えないプレイヤーが私だったことを。
 でもその方がショートホールでピン側30pにまぐれ(?)でつけた。一瞬前回の再現か!そうはいきませんよ。その後、私は何度も何度も「4番で打った、どうだ上手いか?あー」とお話になるのを聞かされる役。あのーこれは紳士のスポーツでは如何なものでしょうか。
 ズボンのポケットに入れた万歩計は優に20000歩を超えていた。
今回の反省としましては、昼に日本酒を嘗めたことが敗因であると思っています。何せ、あの方様のご実家は造り酒屋、同じ組で私を含め3人がアルコールアレルギー、そこでまた、悪い癖。「住田さんよ、つき合えよ」と向けられた冷や酒に、「ハイ」と言ってしまった。
 午後は日焼けで顔が赤いのかチョコで嘗めた酒が効いたのか、大袈裟に言えば3ホールまでは星出さんの心境。
 靴ズレに腰痛、日焼けに酒、これで結果が良いはずないでしょうよ。そのお偉い方は後半も歩き通す。電動クルマに乗ってはくれない。ウーム。
最終前のホール、前の組みのもう一人の偉い方が池に打ち込んだ。私が「やったー」と言って喜んでしまったから、こちらの偉い方の目がチラリ。性分とは如何ともし難し。
 その罰が私に廻ってこようとは、今度は私が池にポチャリ、その瞬間、あのお方様の顔がニヤリ。今日唯一の行方不明のボールでした。
 言っておきますが、今朝職場に寄りタイムカードに『公休』という印を押してきました。
    生臭がー  数珠より重い 杖を持ち
                 右に左に  回峰行     
 

878:本人部会

15日の日曜日、第三回本人部会茨城大会が開催されました。主催は茨城県心身協、共催として手をつなぐ育成会と精神障害者福祉会連合会で総合福祉会館を会場にして三障害約80名の方が県内各地より集まり、自らが当事者として仕事や恋愛などで困っていることの意見交換を行いました。
 私は午後からの参加になりました。丁度分科会に分かれ、予め決められていた司会者を中心にグループ毎に討議をしている時でした。8つのグループでの話は、それぞれが特徴的で話好きの方がいるグループでは、その人が大きな声で「・・・・・みなさん!おかしいと思いませんか?意見を聞かせて下さい・・・」と立って言います。すると他のグループの方全員がそちらを向いてしまう。話の進行上でのご苦労を感じました。
司会は一対一の質問形式で何かを聞き出そうとします。「何か仕事で嫌なことはありませんか?」「ありません」「何か仕事で嬉しいことはありませんか?」「ありませーん」みんながアレレと腰砕け。
 また違ったグループ「僕はねー給料を月に16万から17万もらいます、最近は残業が少なくなり、でも8時頃までやってます」付き添いのスタッフも目を合わせました。「へー凄い」
 隣りのグループ、「僕はパチンコが好きです。給料が足りません・・・・・」「?」「ダメだよ。給料の分ですごさないと」と忠言する。
 ギャンブル好きなどこかの国保連の方に聞かせたい。
 私は直ぐに戻らなければなりませんでしたので、1時間ほど覗いて帰りました。
三障害の方達が一緒に交流する機会はあまり無いと思います。本人部会として種別毎には活動している県もあるようです。茨城はある意味では先駆的な試み、しかし、実際の運営と中身は難しいというのが正直なところです。彼等の本心を聞ければまた違った思いを持っておられるのでしょうが。
 午前中、檀務が有り、どうしても出席できず気になっていたのです。朝、学園に行った時「福祉さん、今日は行かないの?」とSさんから声がかかったのです。「どこに?」「あれー水戸で今日」    そうでした彼は今日の分科会での司会役を頼まれていたのです。現在失業中なので、「俺でも良いのかなー」と気にしていたそうです。その彼が行けないと言うと寂しそうな顔をしたのでした。
 幸い、午前中の法事が早く済みました。急いで水戸に向かったのです。会場に行くとSさんが手を挙げて私に合図をしてくれた。尚恵学園のGHのメンバーが大勢参加していたのです。皆さんいつもと違った感じで、他の仲間達と積極的に関わろうとしている姿が頼もしく思えたのです。
 会場にいた何人かの施設長と話ましたが、果たして自分の施設で何人の利用者さんがこの集いにこれるか?次回は参加させて見たいと思うと。
 去年は確か、分科会には施設のスタッフは遠慮するように言われたと思います。しかし、今回は傍聴を許されたとか。
本心を聞くことは難しいし、それをみんなの前で話すことはそれ以上に勇気がいることです。支援者の言動に対して不満を抱く利用者もいるのは事実、しかし、この問題の解決は、お互いが本心を理解することから始まることです。
 昨日の出席者は身体に障害を持つ人達が車イスで、視覚障害の方は介添え者と同伴、精神障害の方も勇気をもって自らの思いを述べていました。それに知的障害の人達、彼等は大半が就労を目指して頑張っている人達。皆さんプライドを持っています。
 一人一人個性があるように、彼等の抱える問題も様々なようです。でも、何か共通するものがあるように思えました。
 それは自分達が自分らしく生きられる社会を望んでいるということ、その事は確信できました。裏方のスタッフの皆さんご苦労さまでした。この会が益々発展することを祈っています。

879:親孝行

斎場の祭壇には彼が描いた絵が所狭しと飾られている。高さ2メートルを超える等身大の作品からA4版ほどの画用紙に描かれた電車の絵。享年49歳。3人兄弟の長男として生まれた亙さん。昨夜、自宅近くの斎場で通夜が行われました。
 彼が住む旧千代田町(現在かすみがうら市)は、土浦市と比べれば、人口も少なく小さな町である、それが昔から障害児教育に関しては土浦など比較にならない程、県内でもトップクラス、わざわざ千代田町に転居してくる障害児を持つ家族がいるほどであった。確かに小学校にとても熱心な先生がいたことも大きな理由であった。
 昨夜の通夜に経を読みながらもう一つの理由が解った。沢山の弔問者が通夜に駆けつける。これは斉藤先生ご家族の地域での実践がそうさせた。決して順風ではなかった活動が下向きながら決して卑屈でない草の根運動として徐々に開花し、町全体に障害者に対する理解を広めてきたということだろう。
先生に了解を得ずに、ここで紹介することになる。お許し下さい。
 亙さんのご両親はお父さんが音楽の先生、お母さんは看護師(婦長)さんだった。私どもとの付き合いは長くなるのでここでは控えよう。亙さんは知的に障害を持って生まれました、とても穏やかな性格で頑張り屋、絵を描くことが大好き。
 彼の作品の一部をこのHPで紹介している。【亙の世界】彼の作品が認められ、ベルギーで個展を開いた。その時にご両親もベルギーに家族旅行も兼ねて行ってきたのである。あれは何年前だったことだろう?
 亡くなったという知らせを聞き、自宅に伺った、お父さんが一番先に言った言葉が、「亙は最後まで親孝行だったんです・・・」と目を潤ませてお話になった。気丈夫なお母さんも泣いていた。昨年病気が分かり手術を年明けに受け、その後自宅に戻っていた。亡くなった晩、家族がいる居間に出てきて「ここがいいや」とソファーに横になり、皆と過ごした。その数時間後「お母さん、もう体が動かないや」と小さな声で話、その直後ソファーの上で大きな深呼吸を3回ほどおこない、そのまま息を引き取ったという。
 なんという事か。「亙」という字には、ものの一方の端から他方の端まで張り渡す意味があると聞いた。
彼はその意味を理解していたのだろうか? 他人を思いやる優しい性格、争い事を極端に嫌い、黙々と好きな絵を描き続けてきた。祭壇中央に飾られた絵は、両親に抱かれた赤ちゃんの絵であった。まだ生まれたばっかりで裸の赤ちゃんが両親に両脇からしっかりと抱かれている。
 これが彼が絵に託したメッセージだと確信した。
愛情深く自分を育ててくれた両親への感謝と後に残していく二人の弟、そしてその家族。
 更に、障害を持って生まれてきた仲間達や、その家族へ。多くの無言のメッセージを投げかけている。
 彼の生き様から我々が何を感じ取るか。
参列者の中に、地元選出の県会議員がいた。絵を見ていた彼の目には涙が一杯、今にも流れ落ちそうだった。
 「頼むな!」と私が言うと彼は私の手を強く握ってきた。彼ならば何かをやってくれる。
 私がこの欄に好き勝手なことを書き始めた原点は、黙っていては何も変わらないという事だけです。町の片隅にひっそりと息を潜めて生きているだけでは、一般の人には何も分からない。それが障害福祉の本質。
 亙さんの生き様は、当事者として心に響くものがある。彼の絵を見て、涙を流せる議員がまだ存在するということは、まだ諦めてはならない。そして、家族や関係者が今こそ勇気をもって立ち上がるべきだと思います。今日11時から告別式がある。
 

880:福祉デルタ

福祉デルタ(三角州)なる事を考えている。いくつかの川が海に出るところで土砂を堆積させデルタが作られる。
 昨日の通夜から葬儀、様々な人間模様を見た。お父さんの喪主の挨拶には参列者全員が涙した。そして、先に神奈川の知的障害者CH火災の容疑者がなんと大家であり、ケアーホームの世話人の女性だという。外見はボランテア熱心な資産家の女性を装い自分で建てた家を知的障害者へ提供、そして何に血迷ったか全てを無くしたいと自ら火をつけた。3人の尊い命を失う。家賃が減額になったことと給与が減らされた事への不満が引き金になったという。福祉を金で買う卑劣な輩。言語道断心行処滅!
 当に、福祉という名を借りたエセ者が横行する、世の中にはこの類の人間が多いのですか!無性に腹がたってしようがない。彼等に何を信じて生きよというのか!
福祉デルタを作る泥流河川である。デルタは清流と泥流が合流し、運んできた土砂によってできる。肥沃と言えばそうだが地盤は決して固くは無く災害に脆い。
 どうも日本という国は何かに浮かれているとしか思えない。国土全体がデルタ化してしまった。GNPだかGDPだかしらないが、全ての価値が金絡み。地獄絵を見るような思い。どうか錯覚であって欲しい。
 昨日の祭壇中央に飾られた両親が赤子を抱く絵、お父さんの話からその題名が分かった。それは「イラク」。
彼の目に大国の利害優先の殺戮がどう映ったのだろう。平和を望む多くの人々が銃弾の犠牲となった。そして両親が赤子を真ん中で優しく抱きかかえる。背景はぼんやりとした色合いで塗られ、政情不安なイラクをあらわす。しかし、何も知らずに抱かれる赤子の顔は眠っているかのごとき穏やかである。それは彼の心からの願いだ。
 このキャンパスに描かれる情景は、考えようによっては今の日本を映し出している。
経済的繁栄ばかり追い求め、強い者が我が物顔で弱き者から金品を搾取する社会。当然の帰結として人間の心は殺伐とした荒野と化す。日本人誰しもが問題を感じながら、それをどうしたら良いのか答えを見いだせない。
 先の事件の原因の一端は、障害者自立支援法にあることは誰がみても明らか。だから62歳になる老女(容疑者)のみを責め立てたとしても根本解決にはならぬ?
 当然、法人の理事長にも責任はある。そのことを彼がどう受け止めるか、私は慎重に見極めるつもりでいる。過去に神奈川や東京は潤沢な金を福祉にばらまく。補助金と称して、他県と比べようがない予算をつけてきた。このツケが今、あらゆる所で噴出し始めている。
 福祉は国が一定のルールで行うべきだと言う私の根拠がここにある。
 族議員という人々を上手く使って我々事業者を骨抜きにする、(その実態は、議員にお願いすれば、その見返りを要求されません?私はその手法に異常なアレルギーがある。全てとは言わないが本来の役目を履き違えている議員の多いこと。先の老女の価値観は永田町や霞ヶ関に蔓延しているウイルスが感染したものかも)。このような不安定極まりない土壌にいくら上等な箱物を建てても納得できる社会は築けまい。
抗ウイルス剤の早期な開発が望まれます。 
★6月21日、ご家族から先の絵の題名が「イラク」ではなく「抱く」であるという話を伺いました。司会者の説明を良く聞かないでてっきりイラクと思いこんだ私が間違いでした。でも、彼のメッセージは当に平和と親子の情愛そのものに違いはありません、訂正しないでそのままにさせて頂くことをお許し下さい。(21日記)

881:違和感

東京での会合出席の為、朝から出かけた。日暮里から山手線に乗り換えて大塚まで。常磐線では座席に座ってこれたが、山手線は時間帯により、車内のイスが折りたたまれていて、全員が立たなければならない。その時間に当たっていた。そして直ぐに奇妙な世界に入り込んだという感覚を覚えた。半分とは言わないまでも3割近い乗客が携帯電話と睨めっこ。メールでも打っているのだろうか片手で器用に操作しているもの。時々、上を向いて溜息などつくもの、この情景に違和感を感じた。
 全国で同様の事がなされているとしたら、空中には無数の電波が行き交っているにちがいない。よくも混線しないものだ。そのような時に、刃物を持った何者かが急に殺意を抱き、無差別に斬りつけてきたらたまったもんじゃない。秋葉原の事件後まだそれ程日がたってはいない。
 見ず知らずの人と無理に会話をする必要はない。しかし、電車の中で見た情景は、人と人の関係が完全に遮断されている。そして、肩でも触れたものならば急に切れる者もいる。遮断状態で何かの切っ掛けで通電するようなメカニズム、その瞬間に火花が散るのも当然といえば当然だ。
 私も携帯は持っている。最近新しい機種に交換した、活字が大きくて操作が簡単という。お年寄り向きの新機種だ。
利便性には際限がない。どこまでも追求していくと、何もしないで息だけする羽目になる。皆さんで経験された方はおりませんか、腹巻きが自分で振動して、何もしなくても痩せるとか、テレビの見事な肉体美のインストラクターと自分をダブラセながら真似する何とか体操、これでも効果無しとなれば、これまた○○薬品のサプリメント。肌の保湿性とかシミがどうのとか。
 関心が完全に外見へ向かっている。
 利便性の追求と美への憧れ。正直、ムダな抵抗と思うのだが、その熱意には敬意というよりか驚異を感じている。
良くて1ヶ月。
 さて、電車の中でそんな事を思っていて、大塚駅に降りる。護国寺までタクシーに乗る。これまた偶然であろう。
運チャンが乗ってから降りるまで、全くの無言。居心地がすこぶる悪かった。これが大都会東京の実状だ。土浦は違う。良く葬儀に乗せてくれるタクシーの運チャン、うるさいくらいお喋りだ。自分の趣味の釣り談義を面白可笑しく披露する。
 人との繋がりは、決して距離の遠近ではない。それと美辞麗句を並べることが相手を思いやることでもない。お節介でもなく寡黙でもなく、丁度良い塩梅が良い。今日のところは、このへんで。
 夜中にぱっちり、昼間にこっくり、丁度良い塩梅。

882:福祉の専門性

現状の福祉を徒然思い嘆くに、我が若き時、障害福祉と格闘した日々が懐かしくも既に過去の1ページと化したのか!
 それは何故に左様あらしめるか?純真無垢なる相手には余りにも常軌を逸した環境の変化、本人にとっては無論のこと、その家族や支援者にとって解りにくく複雑な仕組みとなっていることが大きな理由として挙げられよう。もっと単純に解りやすく何故しない。
 少子化や高齢化対策が関連性が有るにもかかわらず別個の対応になってしまった。同じ厚労省の中でさえ、一貫性が持てない。これは何を意味しているか?省庁内部での予算を絡めた各課の力関係が旧態依然として存在する。
 単独で対応できるものは何もない。少子化論議の中で取り上げられた次世代子育て対策、高齢化に関しては介護報酬及び負担の問題、何れも共通することは誰がどのようにサポートするかという社会の仕組みである。
 行政にとって既得権益を守ることが能力評価の尺度となる。これは省庁内部の利権そのもので、本来の役割とはかなりずれている。
 福祉に取っての専門性に対する私見を述べる。
 福祉系大学や専門学校で行われるカリキュラムは、細分化し過ぎている。そして最大の欠点は理論と実践の関連性が薄い。教育実習や介護体験で福祉の現場に学生を送る。だが現実は事業所任せ、何をどうしたいのか具体的な実習カリキュラムは施設へ丸投げなのである。
 教育機関にとって留年学生や中途退学者を出すことは、学校のイメージを悪くし、直接経営に影響するから絶対に阻止したい。その事を学生自身が解っているから始末が悪い。学業を終え、我々現場に入ってくる学生資質は様々、一人前に育て上げるまで仕事を続ければまだ救いようがあるが、かなり多くの者が3年を持たずにやめていくという。この現象は、最大需要の介護事業所に顕著になっている。離職者の絶対数が評価基準となるから、悲惨な結果となる。福祉現場は3Kというレッテルを貼られ続けてきた。そして、そこに追い打ちをかけるように最近の若者の仕事に対するルール欠如が問題を更に大きくする。その一例が年度切り替えの3月に職を辞するならまだしも、来月辞めます式の就業規則を何とも思わない人が増えていること。
 だが、言っておくが全てではない。中には生涯の仕事として自らの意志で飛び込んでくる若者もいる。
福祉現場の醍醐味は、なんと言っても人と人との触れあいである。喜怒哀楽を共有する中に人生の妙を感じ取る生業だ。
 専門性を誤解している向きもある。それは知識が優先し、相手と関わる前からイメージを作りあげ、そこに無理矢理押し込めようとする自称専門家。語弊があるかもしれない、敢えて言わせて頂くと、その傾向は障害を類型化して考える人に多い。自閉症やADL、高次機能障害とやたらと症病名を付けたがる。この類の連中が福祉の本来の専門性を見えなくしていると私は考える。病名で治療できますか?ってんだよ。
 医療にも通じることであるが対症療法で悪いカ所を切り取ってしまう外科的処置では、心の問題は絶対に解決できない。むしろ、人との繋がりや生活の背景などその人を取り巻く条件を加味した方法が取られるべき。
 月に一度であるが、法人全体で事業所事の主任者会議を行ってる。業務が終了してからの夜行っているのだが、最近、報告内容が以前と比べ大分変わってきたと感じている。それは会議の持ち方を見直してきた中で起こってきたのだ。 
 各自が報告することは、全体での共通認識の必要度が高いものや緊急性のある事が多くなる。その変化は、ひやりハットや事故報告、苦情申立てが増えてきたと同時並行に起こった。
 私の所に上がってくるそれら報告書の量が急激に増えたのである。最初これをどのように理解すれば良いのか悩んだ。
 この過程に、実は福祉の持つ独特の専門性があることに気付いたのである。
 現場で一番恐れることは問題を隠蔽すること、特に知的障害事業所では致命的になる。ご本人が上手く伝えることが出来ないからである。それをサポートするのが本来の役割。そもそも我々の対象者は生活する上で何らかの問題を抱えている方である。この基本に立てば、様々な問題が目につくはずである。目につかない事の方がおかしなことだ。何も無かったことがサービスの善し悪しではなく、問題を隠そうとする事業所の体質があるとすれば深刻だ。
 新たな課題として起こっていることもある。それは報告さえすれば責任を果たしたかのごとく考えてしまうこと。
 これでは元の木阿弥になる、
福祉の専門性は反復継続される実践に裏付けされた知識技術、それはすそ野が広く多種多様で一朝一夕で得ることなどできやしない。これに関しては、先人達の残された思想と歩みの中に、謙虚に学ぶことであろう、それが唯一我々が選択しうる専門性への道程となる。 

883:人生の冥利

冥加の利益というのでしょうか。昨夜、地元土浦で長年地域医療に多大な貢献をされていたT先生の通夜がありました。沢山の関係者が弔問に訪れ、先生の生前の交友の広さを感じました。
 享年82歳とのことで、亡くなる当日も白衣を着て診療をされておったという話でした。大変な愛飲家で、お酒が入った席でのお話はまた格別で自然と先生の周りに人が集まるとのこと。
 私にとって先生は尚恵学園の良き理解者というお立場でお付き合いさせていただきました。つい先月であったでしょうか、友人のHさんと一緒に当園を訪れてくれました、いろいろな話を伺い、近くの蕎麦屋で一緒に食事を共にしました。先生は東大医学部を卒業され、地元の協同病院において長く、地域医療に携わってこられた方です。晩年は息子さんと一緒に開業され、週に何日かを外来患者さんの診療にあたっておられたようです。
 叙勲の祝いに出版された本を頂戴し、先日、自筆で署名をいただいたばかりでした。
 それと、先日亡くなった亙さん、彼もまた逝き際が良いというのでしょうか、家族と長年すごされた自宅の居間で息を引き取った。完全燃焼された人生であった。
 最近の日本では大半の方が病院でなくなります。延命治療の末、意識もはっきりしない中で息を引き取る方が多い。
最後の別れを静かに家族と共に迎えるということは現実に出来ない状況があります。人の歩みの是非は、生きた時間の長短やその人の残された功績だけでは推し量れないものがあります。それは何か。逝く者と残る者とが共に分かり合える魂とでも言うものでしょうか。
 そして、その魂は徐々に残された人達のこころにしみ込んでくるものでしょう。
私が最近感じることです。悩みや苦労は多く経験すれば、後々それが必ずや活かされるということです。ご本人の人生を考えても然り、それと残された人達にとっても大切な宝となるからです。守成と創成は、どちらが大変かという問題ではないと思えるようになりました。今をどう生きれば良いのかということ。ただ、その事が短絡的な個人主義を是認するような生き方ではない。私は、一生を収支で計れば良いと考えます。それも人生の貸借対照表。赤もあれば黒もある。
 人生の冥利は、人智を遙かに超えた大いなる存在に委ねることかもしれません。しかし、その道程に於いては人それぞれの生魂があればこそであると信じます。お二人の冥福を心よりお祈りします。
 
 

884:仮想現実

仮想現実(バーチャルリアリテイ)という言葉を良く耳にする。ITや携帯が急激に広まったネット社会での様々な問題を絡めて言われている。現実の社会と仮想の社会の隔てが解らなくなった時代、これは嘗て人間が経験したことのないことでもある。何かテーマが重い感じになることをお許し願いたい。
 現代社会の様々なストレスを解消する手段としてネットゲームなどが若者に人気がある。私はやった事がないが、コンピューターゲームの走りでゲーム喫茶などでそこそこ遊んだ覚えもある。それは100円硬貨を入れて遊ぶ程度のものだった。 ネット社会が進むに連れて、本離れが起こってきた。活字に対して面倒臭いということなのか、私は大学で仏文科を選んだ。元々本を読むことは好きで外国文学に憧れがあった。多分、愛読者の数はそれほで変化は無いと思うのだが、街に本屋が少なくなったことは事実である。
 世の中に膨大な量の情報が交錯し、スピードが段違いに早くなっている。このような社会に馴染めない者や排除された人間が増えている。不思議なことに豊かさを獲得したと同じ頃から新たな問題として格差社会が生まれている。
 自殺者の数が2007年は33000人を超えた。過去10年の間に3万人を越す人々が毎年何らかの理由で自死している。
一向に減る兆しの見えない中で自殺防止に万策尽きた感がある。そして原因が理解できない殺人事件、その犯人は何処の街にでもいるような普通の人間。社会学者でなくともこれら現代の病みの部分を問題視しない者はいない。
 本来 人間は何のために生まれてきて何を生き甲斐として生きていくかというテーマをもっている。その誰しもが持つ命題を一生をかけて自分に向けて探し求めることなのに、社会や他人に向けてしまう傾向が強まったいる。無差別殺人などは、当にテロである。見ず知らずのものを殺めるなどは許されるものではない。
 私はここに割り切れない物を感じている。それは犯人が心神耗弱で罪の対象にならないという事への疑問。以前、精神鑑定医師の面談記録が漏洩し、本になったことで大きな社会問題になった。事実を明らかにすべきという出版社側の言い分。だが、人間が人間を裁くと同じ次元で、一人の精神科医師の診断が果たして絶対なものであるのだろうか?
 それと現法務大臣になってから10人以上の死刑が実施された。死刑廃止の世界的な流れにあって、日本は現に死刑確定を受けたものが100名以上、拘留されている。死刑が犯罪の抑止力となりうるか?
 現代事情を良く表していることに、医療界の動きがある。産婦人科や小児科が少なくなり、心療内科が増えている。
これは何を意味しているのかということ。医師の立場からすれば、訴訟事件へのリスクである。精神疾患に関すれば、もし患者さんが何らかの反社会的な事件を起こしても、いくらでも責任を逃れる道がある。
 残念だがそれが現実だ。
世の中の病みの部分に何らかの手を差し伸べるべき宗教はどうか!内部告発になるから言いたくはない。最近、上田という方が書いた『がんばれ仏教!』という本を読んだ。既成仏教にあって住職の孤軍奮闘の事例が紹介されている。
 少しでも現代の僧侶が何らかの刺激を受けて発憤しアクションを起こせば良いのだが。
 とにかく今をどう生きるかかという切実な問いかけに良き道標を提示できる状況に今の教団はない。仮想現実という言葉は自らが自らの責任で自らの足で生きていない社会を風刺した言葉である。
 

885:一人芝居

殆どが偶然に知ること。ヒルテイ『幸福論』というものを知った。ご多分に洩れずNHKこころの時代から。早速、アマゾンにて注文、極めて便利な世の中だよ。
 枕元にメモ帳が見あたらず、寝る前に読み始めた文庫本の表紙に急いでメモする。人間は自らの人生をどのように捉えるか?それには4つあるという。@宿命論A克己主義B利己主義C信仰。
それに人間の本質はエゴイストであるとも。・・・・・。何故急いで本を買い求める気になったのかと言えば、書かれた内容に触れてみたいという事もあるが、どうして宗教家で無い方が熱心に自らが信じるものを究め、その人自身の内面を語ることができるのか!むしろその事への興味(?)が大きかった。キリストの復活は、多くの民が実際に確認している歴史的事実・・・・・。復活が信仰の転機になる・・・・
 仏教の僧侶である私が言うのもどうかと思うのだが、決して贔屓目に見たものではなく、キリスト教の熱心な信者さんには、自らがその教えに救いを求め、理解しようとする控えめ且つ熱心な態度を感じる。それが信仰心なのだろう。そして博識な人が多いと感じる。
一方、仏教はイマイチ整理しにくい。祖師や宗派事の難解な教典や教えが全面に出過ぎてしまうのではあるまいか。教理も重要な事は理解できるのだが何か不合理を感じる。それは教えに基づく行為(実践&信仰心)というその人としての生き様に。
 果たして在家信者にとって枝分かれした宗派にそれほどの拘りは無く、仏教=釈尊という単純な整理で充分なのでなかろうか?国の仕組みが道州制など再編が検討されている時代、旧態依然とした枝分かれ教団への疑問は大きい。
宗派という枠に拘れば、そこに属する僧侶という立場が微妙になるのは当然だ。教えと実践の一致、自戒を込めて正直に言えば、私自身、布教などできる資格は持っていない。
 私は2足の草鞋を履いている。福祉と僧侶。この何れもが世間様に言わせれば、事教一体のものを要求される。私自身は真言宗の僧侶。弘法大師の教えを如何に広めるか!ここでもう超えられない大きな壁が立ちはだかる。大師の教えをどこまで自分が理解しているか?その教えを現代に如何に活かせるか?この疑問に対して確信の持てる実践の場が見いだせない。この悩みはずっと持ち続け無力を感じてきたこと。
 ならば、一宗一派に拘ることないじゃないの。という開き直りとも言える考えが頭に浮かぶ。また在家信者としての仏教の実践家は影に隠れてしまっている。数少ない一人、宮沢賢治は既にこの世にはいない。
 ここでいつも私の足元に目を向けると、知的に障害を持っている人達こそ、仏子と呼ぶに相応しいとの確信に至る。全てでは無いにしても、彼等は財産や名誉、地位に価値を見いだそうとはしない。現代の日本社会においてそれらの欲得から一番遠く離れた存在だとも言えよう。
信仰は一つの決意だという。人間は順風の時は何かに救いを求める気持ちにはならない。どん底の中で自分の無力を感じた時に何かに縋ろうとするものだ。少なくとも私の周辺にいる我が子に知的障害のある家族達が、いままでずっと持ち続けてきた苦しみや悩みをずっと抱え込んでいるのではなく世の人達の目に映る絶好のチャンス。
 その事に気付いた人達が、やっと動き始めた。他人任せでは埒があかない。自らが立ち上がる。
一人芝居で結構でしょうよ。ヘタな策略を講じてまでパフォーマンスするのではなく、正当法でいきませんか?
 飛騨牛の偽装がまた明らかになった。年商100億がなんですか!・・・・泡の消え入るやうにて亡せ給ひぬ:::

886:一人旅

NHKBSの番組でアメリカのアパラチアントレイルの存在を知った。全長3500キロ、世界一長いハイクコース。南側起点はジョージア州のスプリング・マウンテン、北側起点はメイン州のマウントカタデル。スルーハイカーという一気に歩き通す場合は約六ヶ月要するものである。スタートは南を起点にするか北にするかは自由、それから間の区間をハイキングする人も多い、番組で紹介された中に、裸足で全行程を歩いている人がいた。彼はベトナム戦争時代、従軍し、友達が多くベトナムで戦死、たが彼は実際には本国に残った。上官に「自分は人を殺すことが出来ません」と正直に話しをしたことがベトナムに行かず、今も生きながらえているという負い目を持った。その事を退役後36年間ずっと抱えながら、生きてきたという。第二次大戦に従軍した父からは弱虫呼ばわりされたという。彼は裸足で歩くことで戦死した多くの人々に何かをしたいと悩み続ける。そして実に196日間で歩き通した。それも建築廃材のシートをシュラフとし、木の枝を杖にまるで修行僧のイデタチだ。彼の最終点マウントカタデルでの言葉が心に残った。
 「私の苦しみは終わった。しかし、(帰還兵のための)仕事は終わっていない。」アメリカには従軍し、帰還した兵士で心に病をもち、今でも社会生活が出来ない多くの人がいるという。彼はこれからその人々のために活動し続けるという。
生きる目標は人それぞれ、彼は自らの経験を礎に残された人生を歩むことを決意。それは自分に課した使命であり、それを成さずに生きられない。
 一方、日本においても何か底辺の所で通じるものがある。全長1200キロ、四国遍路である。規模は3/1で、歩き通すには約40日かかる。遍路もまた、挑戦する人々の思いは様々、病気、離婚、リストラ・・・・・等々、失った目標を見つけ出す旅だ。自分を見失い本当に何がやりたいか、これから先どのように生きたらよいか?成満することで、自信を取り戻す人もいる。
 先に紹介したアメリカの元軍人が話していた。「強い意志が有れば誰でもできる」と。
 たった一人で山中を歩き通すのも心細い。避難小屋で会った人と暫し語らう中に、悩み苦しんでいる者は自分一人ではないということに気付く。誰しも触れられたくない事は一つ二つ持つものだ。それが自分のせいではなく、生まれつき持って生まれたものも有るはず。それをいつまで不満や逆境として悩み続けてよいのだろうか。どこかで自分で自分を納得させる答えを見つけ出すことが必要だ。
 弱き者強き者の尺度ほど曖昧なものはない。確実に人間は老いに向かって進んでいく。そして、早い遅いの差こそ有れ、人間は生まれ出てきた大地に戻っていくのだ。
 一人旅は、自分を見つめるには都合が良い。できれば自然の中で誰からも邪魔されず。
人間は本質的にはエゴイストだと思う。他人の幸せをどこかで妬み、自分の優位さを無意識に讃じ、卑賤の人をみると避けて関わりたくないと。
 真実の愛は、決して後悔しない。誰かが言った言葉。もし、親子の情愛がそれに一番近いものであるならば、柏で起こった悲惨極まりない事件をどう理解すれば良いのでしょう?
 今の時代、悩みを抱えない人がいるとすれば逆に恐い。ただ、その中で藻掻き苦しむだけで人生を終わるとすれば、そんな悠長なことを言ってはおられまい。
    今月29日施保連の総会が有ります。皆さん、心のどこかに、誰かがやってくれるから。こんな気持ちは有りませんか? 多くの方の参加を期待します。
 

887:東京葬儀事情

昨日は、私どもが大変お世話になった方の通夜が東京の桐ヶ谷斎場において行われました。三時の電車で向かいましたが、五反田にある斎場で、到着したのは30分前の5時半でした。東京は博善社という最大手の葬祭業者があり、6カ所?ほどの大きな斎場を持っています。私も東京の檀家さんの葬儀に何度か利用しました。
 亡くなるとそれぞれの家でお願いした葬儀屋さんが全てを請け負います。斎場だけを借りるというやり方が一般化しています。そこで感じた事です。受付にクロークというものが無い、タクシーは各自が手配する。これだけの斎場でサービスという点から見てどうかなー?と思いましたが、通夜や葬儀という特殊な事情では仕方がないと思いました。不特定多数の方の出入りがあり、同時に7カ所の法要が行われるような状況では無理だと思ったのです。
 通夜開始10分もしないうちに、焼香に入り、終われば清宴会場に移動し各自が用意されたものを口にして帰るという流れ。
当家の方との挨拶を交わす時間も無いというのが当たり前。田舎は違います。法要が全て終わってから、遺族と弔問客が一緒に忌中払いを行う。そこで故人の思いを語らう。ですから時間もかかります。
 そうか! 大都会での葬儀事情は年々変わっているな。社葬が少なくなった事情も頷けます。身内だけでの密葬で後日偲ぶ会、これが一番無理のないお別れ会なのが良く解りました。
 常磐線に乗って帰る時に、喪服姿の方を何人か見かけました。遠方からお悔やみに伺う事も今後段々と少なくなるかもしれません。
 それにお寺さんの動きも難しい。何か通夜の席で話をしようと思っても、弔問客は皆さん帰ってしまう。だから読経だけにならざるを得ない。すると葬式坊主という批判を受ける。悪循環ですね。
 布教も様変わりしています。パソコンを駆使したものや文章布教など。しかし、その効用はどうでしょう?
 それから、途中秋葉原を通ってきました。一瞬、最近起こった惨事を思いだしました。この人混みの中で突然刃物を振り回されてもどうすることもできない。それに電車を待つホームで後ろからちょっと押されたらどうなるだろうか?
 その日、中央線で人身事故があり、ダイヤが狂っていました。
常磐線沿線にも高層マンションが林立、部屋の電気がついて、そこでの生活が営まれている。ここでまた気になること、下水管がつまったらどうするんだろう? 古くなって壊す時にはどうやって壊し、入居している人はどうするんだ?
 都会生活には、現在の利便性を求めたものばかり、20年先30年先を考えたものではない。
 人が一極に集中する事で様々な不都合も生じている。その一番は、こころの余裕を失ったというものかもしれない。
それに今回も電車の中で携帯を盛んに見ている人が目立った。一つ勉強になったこと、それはメールをしている人ばかりではなく、ワンセグとかゲームを行っている人が多いということ。電車に乗っている時間が無駄だという考え方。
 私みたいな田舎者には、人間の動きを観察するには貴重な時間なのだが。私が今日の坊さんの立場だったら、と考えるとまた眠れなくなる。  肌に粟を生ずである。

888:一日の始まり

月曜日の朝、今日は朝から工事の方が来て、トラックより荷物を下ろす作業をしている。そこに通りかかったGHのメンバーさん、先ず一番先がKさん。工事している人に盛んに何かを話しかけている。「なにーし・て・る・のー?なに、なに?」同じ抑揚で声高に何度も尋ねる。作業している4人の工事の方が何が起こったのかと動きが止まる。
 私が「今日からね、工事始めるんだってよ」と説明するとKさん「うん」で納得。次ぎに多少おカマ(?)気のある I さんがしゃなりしゃなりやってくる。「あらーやーだ。フン」とか言って無視して通り過ぎた。またここで4人が動かなくなった。お互いに目を合わせて 何か変だー!まー良いか説明不要。いずれわかっぺーな。
 それに違った場面では、Nさんが工事中の方に「危ねーど、あぶねーど」と忠告、「Nさんのほうがあぶねーんだよ」と私が言うと、ニッコリして「かあーかん くっとー」(母さんが来るよ)で納得、
 1日の始まりの一コマであった。
彼等のこの生活を壊したくない。どうでしょうね。現実には全く次元の異なった所での論議がされている。障害程度によって区分する、折角、生活リズムができあがった人達に、夜中に見回りする仕組みを拵えて、夜勤制を導入、電気をつけ見回り、それ以外の時間は夜勤室で記録付けという。これを取り入れれば日中のスタッフはいなくなる。こっちを立てればあっちが立たず。もう既に一部の事業所では新体系でスタートしている。
これからが多いに心配になる。毎年2200億円の社会保障費を削減するという3年前の財政諮問会議決定、今の与党は今後も堅持するという。確かに膨大に膨らんだ医療費の見直しも解る。日本は先進国の中でCTスキャン利用率がダントツという報道があった。必要かそうでないか医師の判断、だがそのことで全てを無条件カットという手法は国民の同意は得られまい。それと徐々に増えている介護事業所の倒産、これまた新聞報道(6月26日茨城新聞)であるが今年になって1月ー5月期で昨年1年の倒産数を越し、負債額は100億円を軽く越えている。「東京商工リサーチ」
 国の示す退出のルールにのって速やかにお引き取りを願うということなのか?そこには現に利用されている人々への配慮は微塵も無い。
 先日、東京の国立極地研究所(板橋)で集まりがあり、初めて出席した。京大山岳部(AACK)が主体となってスタートした雲南懇話会という集まり。南極観測隊の元隊長さんの地球環境(北極:南極)の変化レポートや中国雲南省における焼畑農業の変容など4コマのスペシャリストの発表を聞いてきた。
 とても新鮮で面白かった。途中の休憩に南極の氷を入れた飲み物が出る。コップに耳を傾けると氷の中に閉じこめられた空気が音をたてる。なんと何万年前の空気を水と一緒に飲み込んだ。
 我々GWVは7名の参加、板橋区役所前の居酒屋で旧交をあたため別れた。皆さん60前の良いおじさん達、それぞれが思う事は定年後の事、それとも?
 いつもの事だが40年近くなる昔の話を良くも飽きもせずできるもんだ。我々の時代40名を超える部員がいた。それが現在2名だけ、その中の一人が腰を痛めて辞めたとか!これだけ世の中が変化している。福祉だってその例外ではない。
 1日が終わりまた1日が始まる。
 

889:抱え込みリスク

サービス事業の宿命として、ニーズ対応で抱え込みリスクというものが有ります。特に我々障害福祉を主たる事業として行っているいるものにとり、日々様々な相談を受ける。相手の事情を深く知れば知るほど、退っ引きならぬ事態に陥りやすい。
 それが抱え込みである。私情が入り、自らの能力以上にやれると思ってしまう。相手は一人であっても、その対応はチームで当たるという原則を忘れる。我々の事業はある特定の人に集中する事は危険である。継続が難しく、何らかの理由で中止せざるをえなくなった折には、感謝の気持ちが裏切られたと思うのが人間の常である。
 決して感謝を得たいがために事業をおこなっている訳ではない。その事を敢えて強調しなくとも50年以上の我々の実践をみていただければ理解してもらえるだろう。
 リスクというものは、何事にも付き物である。だが明らかに予測できるリスクには、それを無視してまで受け入れる事は無謀だし無責任である。
 今の福祉の流れは、利用者側の自己選択を重視している。しかし、残念であるが世の実態はそのようにはなっていない。
 家庭で介護したいという家族の思いは尊重に値する。だが、入所施設を選択し、現に我々の入所サービスを受けている家族はどうなのでしょうか? 親の義務を放棄したと見る障害者の親も沢山いるでしょう。その結果、先が読めない混沌とした今、施設を利用している保護者は育成会とは別立てで運動を展開し始めたのです。障害者を持つ家族同士の差別が実際には存在する。これが問題を複雑化させている。
 私どもは入所と在宅支援を行っている。すると、親たちの微妙な温度差を常に感じている。我が子に良きサービスを受けさせたいという家族の思いに反して、事業所を批判する人も現実にはいる。私の基本的なスタンスとしては、その声に謙虚に耳を傾けるべきであるということだ。だが、個人対グループという関わりの原則からして、個々の要望に100%応じられる保障はない。そこをお互いがどの辺で妥協するかということになる。これには異論もあるだろう。しかし、長いことこの仕事をしていると、感情的にお互いにズレが生じて、結果として上手くいかないこともあった。出来ないことをはっきり伝える事も事業者側にとっては重要なことです。それが対等の関係である。
 私は結構多くの医師を知っている。一様に言うことは、患者さんへの不満である。患者はその病院が気にくわなかれば、通院を辞める自由を持つ。一言さんお断りではないが、現実には医師の言い分はそこにあるようだ。そして、いつ頃か解らないが訴訟行為が急増している、望外なお金を要求されている医師もいる。人情としてどうか?リスクを避けたいと思うのではないでしょうか! 小児科や産婦人科がその割合が多い。医学生の中には、最初から自分の進路にその科目を除外しているものがいるという。
 私はこれも何かおかしいとは感じるのだが、この傾向はより拡大基調にあることは確かだ。
 先に、介護事業所の倒産に触れた、その主たる原因は何か。人材不足と報酬下げである。そしてその問題の根元には、仕事のリスクとそれに見合う給与との不整合である。
 これを解決することなく、抱え込みを続けると結果として無責任な対応を取ることになりませんか。確かに、東京や横浜は自治体が上乗せ補助を出し、我我と比べれば雲泥の差である。人材の配置しかり、設備しかりである。そうやって苦汁をなめさせらてきたわけです。やりたくともできないことへのジレンマと無いものねだりはできないということだった。
 しかし、その流れも今転換期にあるようですね。それは、人材の確保に関しては、全国共通の悩みとなっているのですが、むしろ地方よりも東京や横浜の事業所が苦戦している。そりゃーそうでしょう。初任給でかなり差がある他業種の求人票とどうやって勝負するか。大都市はいくらでも働く場所はあるからですね。事業を手広く拡げるリスクを経営のトップにあるものは常に見極めてはいるのだろうが。いずれその能力が解る時がきます。

890:情勢分析

世界の景気が不安定基調となっている。スタンダード&プアーズがこの半年間の株価が評価額1億ドル規模以上の企業で11.8%値下がりしたと発表した。特に毎年2桁台の伸びを示していたインドが43%、中国が28%下落するという、原油や食糧の価格の高騰によりインフレが起こりかねないという。この先行き不安から好景気にブレーキがかかってきた。
 2桁台の成長は異常としか思えない。何れバブルの崩壊かと誰もが過去の経験から予測はできる。しかし、日本の株価下落は6%という、影響が限定的である。これが世界の経済の動向だ。だからといって安心はできない。経済は生き物である。先に路線価格が発表された。3年連続の伸びであるという。特に伸び率全国第1位が仙台だという。なぜ?これが数字の綾、実態と遊離している。路線価格は1月時点の数字である、半年が経って今、土地の値段やマンションの売れ具合など、どれを見てもその基調は感じられない。なにせ路線価格は国税庁が発表する。ははーん。だめだこりゃー。
 それから全く別の話。最近、自治体職員への要求や逆恨み?が急増しているという。お前達は税金で食っているんだろう、なのにこのザマはなんだ!
確かに最近明らかにされる実態は尋常ではない。多分、一部の者であろう。大多数は真面目に仕事していますって。お世辞半分。
だが、他人事ではない。我々福祉事業者も一般の人からみれば公僕(Public Servant)、事業の原資は税金である。事業主体が公益法人であろうが、株式会社であろうが、原資は税金に違いはない。確かに業界内において、この自己意識が薄いのも事実だ。
 それが経営の最大リスク、舵取り次第では新聞紙面にのる羽目に。明日は我が身と心得よ。
これも昨日のニュースから、自民党の税制会議での意見、当然選挙を睨んだ展開は予想できる、言っている事に野党も与党も変わりないという印象。選挙に勝つことが民意だというのだが、果たして額面通りに受け止めて良いのでしょうか。
 最近、抜本的な改革が大流行!政策に行き詰まると直ぐに出てくる合い言葉。中身はどうです?実行性はどう?
確かに字面では直ぐにも実施するかの錯覚をする。僅かだが期待もする。だが、全てが期限付きで数字がお手盛り。これではどこまで信用してよいのか、先行き不透明。
 永田町や霞ヶ関は隣り次ぎ、何をするにも段取りがあるという。事前調整というもの。そこに果たして民意が入る余地はあるのでしょうか。私は断言する。本当に民意を問うのであれば、日本は消費税30%にして、社会保障は国が行うと宣言すればよい。なんだか知らないが、財源の補填はムダを無くしてそれを充当するとか。中途半端のオンパレード。
 私は一番のムダは政治家の数とその経費、エコ政治だ。(政治家がノーネクタイで登場するのに何か当てつけに似た感情を持つのは私だけ?)次ぎなるムダは行政の多重構造だと確信している。その話になると与党も野党もトーンダウン。この不満が不信をよび現実となっている。これが本当の民意だ。小手先の論議をいくら繰り返しても抜本的な改革になりますでしょうか?
 良く国は我々事業所に何か事が起こると実態調査と称して通知やアンケートがくる。逆に我々から国や政治家の皆さんに実態調査をしたい心境だ。
 @自分の存在がムダだと思う人。。。。。バッジを返上し、野に下りますか。○か×を付けて下さい。
 A今の仕事にやりがいを感じますか。。。。。。全く感じない。少しは感じる。解らない。
 B貴方は今の仕事をやめたら何をしますか。。。。。年金で生活する。仕事を見つける自信がない。親と同居。
果たして回収率が?。