源究81

 

No テーマ 月日 No テーマ 月日 No テーマ 月日 No テーマ 月日
1131 ノウテンキ 4/18 1136 束の間 4/23 1141 水際対策 4/28 1146 環境容量 5/4
1132 地域矛盾 4/19 1137 話題性 4/24 1142 スローライフ 4/29 1147 おくりびと 5/5
1133 筍掘り 4/20 1138 暗黙の了解 4/25 1143 揣摩憶測 4/30 1148 人間関係の貯蓄 5/6
1134 等身大 4/21 1139 一寸先 4/26 1144 共存 5/1 1149 生活設計 5/7
1135 マラソン 4/22 1140 転職×天職 4/27 1145 大型連休 5/2 1150 約束 5/8

1131:ノウテンキ

自らをノウテンキと称した。その方は濃やかなる心配りをする。そんな人がこの世には存在するのだ。
私など実に恥ずかしい。何故って全くその逆の体を為しながら自らを悲劇のヒーローに祭り上げている。
 身を落ち着けていられない性分は、何を隠そう自分自身に自信が持てないからである。良くも懲りもせずに書き連ねてきたものか。一体、自分はこの世に何を足跡として残せるのだろう。何もない。その時々に自分を演じ、周りの人々に少なからず迷惑をかけてきた。大いに反省すべきである。
 ここ1週間ほどは自らに腹が立って仕様がない。持病と化した腰痛に情けないやら、誰が見ても不格好な歩き方、いつもなら庭の雑草を取り始める時期になっても今年は一向にその気になれない。
 明日は霞ヶ浦マラソン、法人の職員も何人かはエントリーしている。体調がイマイチだと気力すら減退することを実感している。
 いま唯一の楽しみは自宅と職場のパソコンに向かう時、するとどうだろう。視力が落ちたことを痛感。
どうしてもマイナス思考に陥るようだ。困った困ったと何度言ってはみても虚しさのみがコダマする。
 今、午後6時を告げる鐘の音が鳴った。もう1年半になる。5時と6時に決まって打ってくれる人がいる。
 さて、ノウテンキという言葉だが能転気とか脳天気と書く。辞書によれば軽薄で向こう見ず、なまいきな様とあった。果たして本当にそうだろうか?否、控え目だからそう言うんだよね。分かっている。
 となるとどうなるか?つまり、これから私自身の身の振り方である。控え目に振舞うのが良いのだろうかと自問した。
 何故、本日に限って斯様な気持ちになったのか?実は今日、2件の法事があった。参列者に私の兄を良く知っている方がおり、思い出話をされた。「尚ちゃんが亡くなったのは今頃だったよね」と帰り際に聞かれた。「そうです。ちょうど竹の子が出始めるころ」実は昭和19年5月9日が命日で9歳だった、大分昔のことだから、ここまで温暖化がすすんだのか4月の半ばで竹の子が出始めている。
 それからもう65年になるわけだ。生きていてくれたら74歳の兄がいた。
もう既に両親も兄のいる彼岸に渡った。今頃親子水いらずでいることだろう。
 正直に言えば、私自身は相当背延びしています。いま、160名近い知的に障害をもつ人たちと関わっている。
個々の詳細な状況までは掴んではいない。でも今我々は本当に大きな課題を背負ってしまった。どうして「我々が見ますから大丈夫、お母さん安心してください」と言えないのか、無性に自分に腹が立つ。
 私がこうだから、当然職員に伝播することに。
 この得体の知れない重圧は一体どうしたことか!明日も法事が入っている。気が早い人は6月の予約もしてくる。
 

1132:地域矛盾

言行が前後食い違うことを”自家撞着”という。分かり易く言えば矛盾。なんでお前は!捻くれ者めがと叱られる。
 余計な事である。私は隣の県の新しくなった知事に言いたい。「あんた、何か変だよ」
 宮崎や大阪の知事を意識し過ぎてんじゃないの?マスコミへの過剰反応、パフォーマンスが目立つ。
 でもね、前者のお二人と基本的に違う事があるな。それは一言で言えば”言葉を知らない”ヨッツとか見てねーもんと言った言葉は頂けません。聞く側に失礼です。その事だけは言っておきたい。ま!知事になってあなたが何をやるかだわな。
 彼も選挙公約?で訴えていた。千葉県を日本1にすると豪語。好きにやったら。お手並み拝見としましょう。
 いま、地方特に市町村ではおかしな事が起こっています。2004年に構造改革論議の中から出てきた三位一体改革、権限とカネを地方に移譲するという流れのなかで果たして本来の地方分権メリットが機能しているか否か?
 これまた日本のお家芸で仕組みは直輸入し、ちょこっと手直ししただけで制度化する。これマニュアル通り。しかし、そうは問屋が卸さない。何故か!地方、特に市町村の数が多すぎ且つ小さすぎることが念頭にない。問題が起こってから合併論議、これは本末転倒です。
 だから、逆に事務の無駄が増え、煩雑化している。全てが制度の改正に追いつく間もなく進まざるをえない。現場では何がどうなっているのか分からずに目先の事を処理するだけで精一杯。悲鳴が聞こえてきます。
 介護や福祉が諸に被害を被っている。それも利用者と直接関わる最前線で。
 その一例を紹介しましょうね。事業が市町村に移った御蔭で、真面目に取り組む自治体ほど負担が増えた。その結果いま何が起こっているか?面倒な事案やケースへの拒否反応、関わりたくないという事務方の想いが現実に起こっている。するとどうなるか、一番の犠牲者が本来、サービスを必要としている人達、次にサービスを提供する事業者ということになる。これが実態です。何故ここで取り上げたかと言えば、この傾向が改善するどころかより深刻になっているからである。
 いつの世にも法の網を上手くすり抜ける者は出てくる。表の看板は全く同じでその中身は守銭奴、サービスを金でしか考えようとしない連中だ。
 これを国が推進したから大手を振って得意満面ということになってしまった。ああ!介護も福祉も前途多難だー。
 これでもまだ分かりずらい、そうね、もう少し具体的な事例をあげましょう。
障害者自立支援法の中で市町村事業で組み込まれた相談支援に関すること。これが市町村間の連携は特にうたっていない。自立支援協議会というものを市町村が独自に立ち上げ自己完結をはかる。これが今、負の連鎖。つまり、相談支援の委託契約を当該市町村としていなければ知らんふり、”あっしには 関わりございません”という事が起こる。次に起こっている問題は住所地移動、流浪の民と言ったら叱られるか、でも現実に起こっている。前住所地の役所は厄介払いできてほっとする。知らないで住民登録された市町村は聞いていなかったという事になっても後の祭り。そこで、また新たな調査を始めることに。
 これが社会保障の地方分権化、まったくこうなることを想定できなかったのでしょうか!
そりゃーそうでしょう。お年寄りの介護の仕組みを作った連中が夜もチョウロクに寝ずに考えた制度だもの。お年寄りは動きませんよ、寝たきりや車イスでの生活の介護が中心ですから。それが障害者、特にボーダーの知的レベルの人たちは動きますからね。何しろ自転車でどこまでも行ってしまう。大分前の事でしたが、常磐高速道路を一輪車で逆走した人もいた位です。
 なれば、せめて制度の狭間で起こる問題に対処する仕組みを早急に作らないといけないんじゃーないでしょうか。その意味では茨城県が残してくれた*障害児(者)地域療育等支援事業が広域的且つ専門的機能を有する唯一のものと私は思っている。
*この事業は新法の導入によって多くの県が市町村の相談事業へ移行し、取りやめてしまった事業。

1133:筍掘り

観音寺と神宮寺には竹林がある。建物や霊園に開墾したから、昔程の広さでは無い。しかし、筍の根の勢いはもの凄い。アスファルト舗装など簡単に持ち上げてしまう。
 近くのスーパーの野菜コーナーに並んだ筍も、ここに至っては別に珍しくもない。毎年、時期が早まる。これは地球温暖化の影響であろう。 昔の話で恐縮だが、お袋が満濃を器用に使って竹の子を掘るのを見てきた。それは家族の食卓を飾るというよりも生家や親戚に送るためだった。
 私など出過ぎてしまった筍を伸びない中に途中で折る仕事。京都や四国の竹の本場に行くと見事に整備された竹林、日頃から手を入れているからできること。
 昨日だった。旧本堂裏のあたりで筍掘りをしていた孫たち、法事の合間に聞こえてくるはしゃぎ声は、おじいちゃん達と楽しんで掘っている姿が良く分かった。
 自然の恵みに感謝する。筍の姿に自分の歩んできた人生をダブらせる人も多いかもしれない。
踏みつけられても途中で折られても遮二無二芽を出そうとする。竹を割ったような気性と言われるように大きく成長してからの竹も実に見事である。大風にも決して負けず、建物を守ってくれる。だから田舎では家の周りに竹を生やしてきた。今でこそ竹細工職人は数を減らし、民芸品等で僅かに残っている位。
 時代の移り変わりと共に、昔の良き風習や楽しみがどこかに忘れ去られようとしている。テレビを見ると相も変わらず株動向への一喜一憂した番組、不況の底を打った打たない、これなど全く関係の無いところで自然の営みが繰り返されている。
 昨日は自宅での法事を頼まれていた。つくば市内のお宅にお邪魔する。ちょっと前までは畑と山の農村だった地域が見事に開発され、住宅が立ち並んでいる所。所々に見受ける屋敷の構えが突出している家がある。農家の家のようだ。住宅開発に伴い土地が高く売れたか貸しビルを持っているのだろうと勝手に想像しながら、横目で運転しながらその脇を通ってきた。
 急に気温が上がり、雑草も勢いを増してきた。これから暫くは暇さえ見れば草取り。しかし、ここ数年は腰の調子がイマイチ良くないから、無理すると今回苦しんだように1週間ぐらいヘッピリ腰で過ごす羽目になる。だから恐る恐る。軍手をはめ庭の草を取った。時間にして30分、これ以上は無理と判断、結局は数メートル範囲の草を抜いただけ。
 京都の大寺院のようにお抱えの造園業者を雇うまでにはとてもとても。最近、お寺を訪れる人が増えてきた。カメラの三脚をたて、暫く散策していく人も中にはいる。
 桜が終わり新芽の季節、この変化を楽しむ心境に自分がなった。老境に入ったということだろうか。
 

1134:等身大

言語道断,開いた口が塞がらぬ。漢検を巡る実態が次々に明らかにされるにしたがって元理事長親子の無軌道な振る舞いに強い怒りを禁じえない。
 産地偽装や古米混入事件であれほど騒がれたにも関わらず、依然として同種の事件が後を絶たない。
しかし、それ以上に悪質だと今回の事件を考えてしまう。財団法人という公益事業の認可を得た組織のトップである。関連企業への横流し、更には私的流用と歯止めが利かない。記者会見での元理事長のピントのズレ甚だしい弁明、改善計画に関連する企業との関わりを残した。これがこの親子の実態、どこまでも正義を食い物にする人達だ。
 障害者団体を絡めた郵便法違反事件も同根である。そして、必ずといって良いことは、政治家が関係する。官僚の既得権益で一番彼らが重要に考え死守する許認可権に絡む。そして、間に入った政治家は実名が暴露され、肩身の狭い思いを余儀なくされる。だが官僚はそうではない。なぜか!定期異動によって責任者が霧の中。この仕組みを変えようとした小沢さん自身が周知の通り。
 多分、また、何らかの法律か規制を考えるに違いない。そして、その法律は抜け道が周到に用意されているものになるはずだ。
切りがないことに腹を立てるのも実に馬鹿げている。無視すればそれで済むことではない。
 そこで頭に浮かんだ言葉が”等身大”。自分の能力に見合っていること、身の程を知れということだ。仏教の言う”知足”とはちょっとニュアンスが違う。(
 これらの不祥事はほんの一部の事であろう。大半の人たちは、真面目に働き、こつこつと貯え、一生をかけて自分の夢を実現するものだ。その直向きな努力は感じる。
 ここに歴然と存在していたのは、親の教え、生き方であった。今の30代〜40代の人達の親の年代は、貧しい時代を生きてきた人たち、一つのおやつを兄弟で分け合って食べた経験を持つ。大きい小さいの不満はあったけれど、それなりの分け前は回ってきた。
 それが、今の格差社会、隣人が飢えに苦しんでいても見向きもしない人がなんと増えたことか。
 いま田舎では講組とか寄り合いがドンドン数を減らしている。異口同音に言う事は、面倒煩わしいという理由から。
 そのような状況で障害者を地域に返そうという。これほど冷たい仕打ちは無い。これもまた考えようでは、公益性を表に出して実態無しの前例と通底する価値観だ。
 本気になって地域や在宅で障害者を支援しようとすれば、少なくとも今より5倍以上の費用は覚悟しなければできない。それが経費削減の意図が見え見えでの政策論だもの問題にならない。
 なんだか知らないが、日本全体が守銭奴になり下がってしまったように思えて仕様がない。
このまま進むと何か取り返しのつかない事態に落ち入ってしまう危機感を私は強く持っている。
 (ほのぼの一覧
 先日、GHのSさん「理事長いるかー!」「アイヨ ここにいるよ」「車洗ってやっから」そう言って彼は長靴に履き替え泥だらけの私の車を綺麗にしてくれた。丁寧にワックスまでかけて。
 「いやーありがたいね」・・・すると「ジュースでも、もらえれば良いよ」と小声で。100円を渡すと、すぐに自販機には行かずポケットにしまった。

1135:マラソン

19日には霞ヶ浦マラソンがあった。2万人を超える参加者は過去最高、天気にも恵まれ県内外より多くの人が土浦に集まった。尚恵学園からも7〜8名参加、結果は色々。フルを完走できたものは足の痛みも勲章だ。一方、途中棄権、中には途中で自宅に帰ってしまったものもいた。昨夜は恒例の職員の歓送迎会をホテルで行った。もっぱらその話題で花が咲く、松村というタレントが東京マラソンで心停止になったことで日頃練習などせず面白半分で参加する人達はどうなのか?
 いずれにしてもマラソンは自分を見つめるのには、絶好な競技であろう。私は、最初からエントリーなどするつもりはなく、当日は法事を3件も入れてしまった。
 油断禁物、昨日は腰の具合が良かったので草刈り機を持ち出して、庭掃除、今朝方、ちょっと違和感。
無理しない方がよさそうだ。
 桜前線は東北に移り、一瞬のうちに新緑の季節に変わった。近くの水田ではトラクターを入れ田おこしが始まっている。私はこの見慣れた風景が特に好きだ。田んぼの畦にはタンポポや名の知れぬ草が小さな花を咲かせている。
 21年度は新採用7名、例年になく多かった。宴席でステージに登り、それぞれが自己紹介、個性的で人間味を感じる人たちだ。彼らが仕事に慣れ、どのように育ってくれるだろうか。楽しみと不安が重なる。昨年入った者たちが今回は祝う席に陣取る。それぞれが何か一回り大きくなっているように思えた。
 昨年位からだった。通年で人材募集をHP上で掲載、採用の有無の問い合わせが次から次にある。今週、新たに2名の面接も控えている。人の流れが福祉にというまでにには至らないが風向きは変わりつつあるようだ。
 ま!今年は業務内容を試行的に変更する。新体系への移行を前提にしたものだが、あと数名のスタッフ増員を考えている。
 昨日の宴席で私は音楽好きな職員にバンドを作ったらと誘った。私が23歳の時に1年間だけお世話になった秩父学園で職員5名で音楽バンドを作った。仕事が終わってから講堂で練習し、利用者さんの前でライブ演奏した。私はギター担当、ドラム、ピアノ、トロンボーンそれに?
 あれから全く会っていない人達だが、私にとっては尚恵以外の唯一体験であり、今でもお付き合いさせていただいている方も中にはいる。35年も昔の話だ。
 知的障害の方に音楽は受け入れやすい。支援者が演奏する中ですごす情景、これだけでもう充分だ。学生時代に音楽をやっていた連中が結構いるようだ。業務命令などといったものではない。趣味から入るのが無理なく自分を表現できると確信しているからだ。
 それからもう一つやりたい事が見つかった。それは職員の旦那さんとの食事会?朝早くから夜遅くまで仕事をしてくれるスタッフは家族の理解があってできるもの、少し自分に余裕が出始めたのかもしれない。否、ちょっと目先を変えようと思っただけ。
 マラソンも良いが私は駅伝が好きだ。タスキが全て、いかに次の走者に渡すか、走る姿にドラマを見る。人生は当に筋書きのないドラマ、思うようになることなど何もない。一瞬一瞬が時を刻みながら変化する。
自分がどのようなステージに上がるか、そして役を演じるか、実に多種多様である。涙あり笑いあり。
今日は5つの施設での職員対抗のソフトボール大会、足を引きずりバットを振っても結果は自ずと知れている。いつの頃からだ、往年の名サードの私にはユニホームなど回って来ないし戦力外通知を貰った記憶も無し。
 

1136:束の間

尚恵学園が3年ぶりの優勝との報告を受ける。若手の活躍だったとのコメントあり。大分、前の話だが採用面接時、クラブで何の運動をやっていたかを最優先した時期がありました。ソフトボールの対抗試合を意識?。それも半分、しかし、運動部で上下の付き合いや勝負のルールを叩き込まれた経験は仕事でも必ず活かされた。
 最近は下手な運動部よりも文化部などのほうが、しっかりしている。これも時の流れ。
何しろ私が学生時代に山歩きで本当に助けてもらったクラブが部員ゼロとなった。そこでOB会が大慌て、入学式などにOB会役員が部員集めに奔走、結局だめだった。私は数少ない同期の代議員、あまりOB会には出席していない。何しろ田舎者には、あの華やかな雰囲気は性に合わない。
 いまどこの学校でも学生集めに四苦八苦、過保護なんだよな。
束の間の静けさを感じている。入院ゼロ、でも小さなイザコザは毎日です。
 今日は葬儀がある。朝鮮から昭和20年に引き上げ、現在地に入植した。その時17歳だった。8人兄弟で新たな生活を始めた。11歳から亡き兄と一緒に苦労した弟が喪主。いま周辺は宅地開発、昔の面影はない。でもそのお宅だけが昔と全く変わらない。殆どの方が斎場を利用して葬儀を行う昨今、今日は自宅から葬儀を出す。
 戦争を体験し、必死に働いてきた人がまた一人旅立っていった。家族だけのお別れ、気のせいか悲壮感は感じない。多分、苦労を共にし為すべき事はやったという想いがあるからだ。
 何が大切か  その事が分からなくなった時代を我々は生きている。世間体を気にし、必要以上に自らを飾り、結局自分で自分の首をしめるようなことになる。一攫千金を夢みた人もいるだろう。また政治の世界で確固たる位置にいつまでも君臨したいとも。
 これなど・・・あさ露のおくての山田仮初にうき世中をおもひぬるかな・・・・である。
人間は昔から自らの命の儚さを愛しい人との別れや自然が織りなす季節ごとの変化に映した。ここにこそ真実があると分かっていても敢えて避けて通ろうとする。
 そしていつの間にか年嵩を重ね、気が付くと親しかった人が大分身罷かってしまったと嘆く。これなど道理に敵ったことなのだが、その時になって慌てる節がある。そうじゃーないだろうよ。
 いつまでもギアチェンジせずにトップで走り続けることなどできやしない。ニュートラルが一番、でもそれじゃ車が動かない。
 明日、私は筑波大のN先生と夕食を一緒に取ることにしている。彼は特別支援教育の第一人者、つい先月までアフガニスタンに行っていた。そこから研修生を受け入れ、また当園に連れて来たいという。その事前打ち合わせ。政情不安なところに敢えて自らが現地に入り、活動している人たち。そこには確固たる意志を感じる。そこを掴みたい。
 なにもそんな危険をおかしてまでやることも無いのにと思う。
 今の日本が脆弱化している大きな理由が実はそこにある。分業化を推し進めた結果、大観する能力が欠落、それを繋ぐ役割を果たす人が育たない。育てない。全てに通じることだ。エジプトのピラミッド式の構造計算ではなく、紙の上での数字だけが頼り、経験がない、そして、外観だけは見事に整える。
 あの壮大な古代建築がどれ程の人力と年数をかけて作らてたかを考えれば判ること。その意味で日本が学ぶところは欧米の先進国ばかりではなく、歴史を大切に生きているアフガンなどの人々から多くの事を学ぶべきなのである。

1137:話題性

芸能関係者の問題は、一斉にマスコミが取り上げるから一瞬の中に広がる。元女優の父親の墓前での自殺、それにSMAPのメンバーの一人の真夜中の全裸騒動。同日に起こった事件で絶好のマスコミの餌食となった。真実は不明、ただ話題性は異常なまでに高まった。
 芸能界は常に熾烈な戦いがある。周囲の評価を気にするあまり、何が本来の自分の姿なのか見失う。
薬に手を出し、酒に溺れる、それと異性間のトラブルと絶頂期からどん底に落ちるのはあっと言う間。
 デビュー時ペアーで人気を博した二人が、後に単独行動になって、片方が飛躍し、一方が全く日の目をみなくなるというケースは非常に多い。これもまた本人の能力の問題と片付けるにはお気の毒。
 若手のお笑い芸人の数はいま日本で一体どれくらいいるのだろうか?人気が長続きする者はほんの一握り、厳しいプロの世界である。そして将来のスターを夢見て挑戦する若者が後を絶たない。
 今回のニュースで一躍有名になった男性は清純派芸能人の代表格である。その彼が何があったのか分からないが収監までされた。このダメージは再帰困難な程重く大きい。
 今頃、バカな事をしてしまったと猛反省しているかもしれないが、後の祭り。芸能界に寛大な手心を期待することなどできやしない。
 それと永田町は一気に衆議院解散ムード?国会審議も何か地に足が付いていない感じで、自らの選挙地盤が気になって仕様がない。
 昨日実はある会議があった。正副会長と事務局との打ち合わせ。3人来るはずだったのだが一人は急に都合悪く欠席。私は30分遅れ、葬儀を急いで済ませて急行した。
 そのようなこちら側の事情が有ったからだろう、最初事務局の説明があり、どこでどうなったのか分からないのだがカチンと来てしまった。例の悪い癖が出た。自分では意識して抑えようとしたが、益々イラ立ってきて、爆発!事務局へ不満をまくし立ててしまった。
 後味が非常に悪く、会議が終わって挨拶もそこそこに帰ってきた。確か昼飯も食べず、葬儀を済ませ、急いで着替えだけして滑り込んだ。そしたら一人は急にキャンセル、何か事前の調整済みの話とは違っていた。大事な打ち合わせというから遺族に許しを乞うてきたのに。そして話が実情認識のズレた前年度の踏襲・・・・・・こんな事で態々集めるなよ。
 正直、バカバカしくなってきた。
 施設の地域貢献という話、今更、地域貢献などと一般企業の2番煎じをしてどうなるの!社会福祉法人の目的そのものが地域貢献でしょう、上塗りなどしていかにもやってますよというパフォーマンスに受け止められるのがオチ。
。どうも違和感が取れず、退席したくなったが、大人げないと思って我慢した。
 福祉の業界も芸能界並みになるのだろうか、食うか食われるか、話題性をどうすれば高めることができるかなどなど。
 実は、これはどんな時に感じるかと言えば、相手の話し方、目のやり方、頷き、聞く耳を持っているか否かなどである。相性が悪いという人はいるものだ。
 ま!どうでも良いことなのだが、いかにも自分はやってますよと言いたがる者が多すぎて精神安定を保つことは容易なことでない。
 形から入るか中身から入るかってことかな!
 

1138:暗黙の了解

昨夜はつくば市のイタリア料理店で食事した。依然誰かと一度入った事があるから場所は直ぐに分かった。結局ゲストが来るのが少し遅れ、3時間ほどあっという間に過ぎた。色々な話が出る。今日の目的は6月にアフガニスタンからの6名の研修生を受け入れるための事前協議、ゲストは世界中を飛び回っていて、今朝、インドネシアから帰国したばかりだと。JICAからの依頼だから私には興味があり、幹部連中も同席してもらった。話の中で歌舞伎の黒子の話題になった。教育や福祉の現場で自分の立つ位置が分からなくなった時にどうすれば良いかという話になったと思う。その時、ゲストが間髪を容れず「歌舞伎か能を見せると良いですよ」と言った。「カブキ・・?」と私が意味が分からないというと「黒子(くろこ)ですよ」
 それは歌舞伎や能で黒衣を着て出てくる役回り、つまり、芝居の登場人物とはみなされず、必要に応じて動くのみで演技はしない。そして観客よりその役回りが「暗黙の了解」を得ている人物である。
 それが先ほどの支援者側には必要だという。なるほど。自分が主役を演じて良い気になっているものが多すぎる。あくまでも主役は利用者、我々は影の存在に徹すべき、それだな。
 また「気づき」という話になった。いくら知識や能力があっても「気づき」が無いものはダメだという。同感、が瞬時に「自分はどうなんだ?」と自らに問うた。
 暗黙という事に妙味がある。むしろ相手の存在が気になってしまう事が多すぎる。よく言われる所の「出しゃばり」って言う奴ね。これが始末が悪い。
 それに自分の言った事にすぐ言い訳をする人がいる。これが私の性分には受け入れられない。
「そんなつもりで言ったんじゃない。誤解ですよ。自分の言い方が悪かった」と。それは本心じゃない。相手が自分に不利なように受け取ったということだけで、実は相手の裁量の狭さを批判しているだけのこと。
 最近、このような会合が多すぎて、胃もたれ気味だった。少なくとも私は言い訳はしない。誤解もへったくれも無い。お互いに相容れない関係だったという割り切りだ。
 政治の世界がそうだ。後から発言の訂正が多すぎる。あれは自信が無いのか、それとも仲良しクラブでいたいのか、まあ保身だわな。
 それから政情不安定な中東などを訪れると道端に赤ちゃんを抱いて物乞いする人たちが沢山目につく。 こんな話もある。赤ちゃんはどこからか借りてきて物乞いして得た金銭の10%ぐらいを貰って、後は雇い主の収入、バックに居て巨万の富を得ているのがマフィア。
 そこの国民はその実態を「暗黙の了解」によって認めているという。それは生活の糧を得るための知恵だとも。昔、インドを旅した時にアンタッチャブルという人達が「ハッシシ」といいながら手を差し出してきて当惑した。それがそうなのかどうか知らないが、今言った状況も現実に存在するという。
 貧困と宗教、それに争いが絶えない社会。一方日本は外見的にはとても安全で平和の国。
だがその美味に酔いしれている間に、確実に侵入してくる何かを感じる。それが旧来の日本の良き伝統、文化への無関心と重層する生きていることへの感謝麻痺。
 ”俺は河原の枯れすすき 同じお前も 枯れすすき・・・・・♪”
 

1139:一寸先

”少年老い易く学成り難し””一寸の光陰軽んずべからず”と一寸という言葉の持つ意味が違ってくる。
 一生という言葉、人生は人間の数だけ存在する。世界の宗教の中で仏教だけが「一切衆生悉有仏性」(涅槃経)全ての生きとし生けるものに仏性があると主張した。
 これは自然との共存の基本的な考え方である。昨日からマスコミがニューストップでメキシコで起こっている豚インフルエンザを取り上げている。WHOも緊急会議、確認されただけで68人が亡くなっている。緊急事態でその対応に奔走している。鳥から牛(BSE)そして今度は豚。
 人への感染を恐れている。日本では初期段階で細菌侵入を防ぐ手立てがあるのだろうか?成田でのメキシコやアメリカからの入国者への聞き取り調査や紫外線カメラでの体温チェック。これなど取りあえずの対応で実に実に心細い。
 世界中で人々の往来がこれだけ自由になり、当然想定できる事態だ。今回のインフルエンザに効果的なワクチンが未だ開発されていない。新薬の開発は、事が起こってからの対応、国が認可するまでには相当な時間がかかる。実は、歴史的にみて、ずっと人間は新たな病気と闘ってきたのだ。基礎医学に余り陽が当たらないのは、時間がかかるのと直接患者との接触がないからであろう。
 細菌の歴史と人類の歴史は比較にならない。恐竜が絶滅したのは、巨大隕石の落下や気候変動によることが原因だと聞いた。
 地球の誕生が46億年前として、アフリカのケニアに最初の人類が現れたのが2500万年前、この説からしても、人間は地球上においては新参者である。嫌われ者のゴキブリなどのほうが先住生物、いつの間にか人間が彼らを追いやってしまった。
 巨大隕石や気候温暖化、このことに警鐘を鳴らす人はほんの一握りの変わり者、北朝鮮のミサイル発射問題で大騒ぎ、CO2排出規制への取り決めも一致をみない。
 これが人間の愚かさでなければ、なんと言うのか。
要は、いずれ人間は必ず死を迎えるということ。一寸先は闇という言葉、思いもよらず怪我をして入院することになって、初めて健康の有りがたさを実感する。早く元気になっていつもの笑顔。
 人間は適度な負荷は必要だ。筋力の低下を防ぐための運動、宇宙ステーションにいる若田さんが毎日トレーニングを行っている。これもその一つ。
 こうやって考えていくと、私はいつもここにおさまる。知的障がいを持つ人々との触れ合いの中で気付かされる数数の出来事。
 先日、入院後1か月で亡くなったIさんの話題が出た。「お腹に赤ちゃんがいる・・・・」このメッセージをどう受け止めれば良かったのか?そして達観したかのような最後。
 お釈迦様が教えた、生きているもの全てに仏性を見よと。これは、敢えて強調して騒ぎたてる事では決してない。有りの儘に何気なくさり気なくである。
 福祉に関わる人間で気をつけないと、自分はとか自分がと言うことになりかねない。どこまでも自らの徳を世に訴え続けていきたいようだ。気をつけないといけません。
 それから、・・・・・・・。

1140:転職×天職

change of job"(転職) × "mission"(天職)
 天職は使命感を持って行う職業である。だが実態は如何に? 自他共に納得して働いている方がどれだけおることでしょうか?正直な話、転職を一度や二度考えたという方が大半ですよね。
 いま、未曾有の就職難だとか、本当にそうなのでありましょうか。
私は、そう思っていません。依然として新聞折り込み求人紙が入ってくるし、ハローワークのPCを開けば多くの求人があります。働く人を求めているのです。
 条件を言わなければいくらでも有るさ!   給与?勤務時間?仕事内容?・・・・自分の条件に合わせればそりゃーピッタリ合う仕事など皆無に決まってるじゃないか。言わずもがなですよ。
 条件って何? 天職? 最初からそこに用意されているものなど有る筈がない。それこそ、自らが掴むものですよ。
事業に成功した方の自叙伝が相変わらず書店のワンコーナーを占めている。松下幸之助、本田宗一郎・etc・・・・。内容に共通するものがありますね。彼らが、”経営の神様”などと言われているが決してご本人の本意ではないはずです。社会の仕組みで誤解されている事、特に今の日本で特徴的なものは、弱きものへの国の支援、生活保障から住居の提供?。弱きものというレッテルは誰が決めたの?失礼でしょう。
 それじゃ、お金が有れば全てOKになりますか?今の日本で労働の対価イコール金という算式のみがまかり通る。与えられて人間は満足するものではない。自らの労働で得たものに価値を見出す。
 変動する株価や為替レートに一喜一憂、同じものを作って円レートが1円の上下で、某自動車メーカーの収益格差はプラマイ数百億円。
 この仕組みに疑問を感じない者はいない。誰が考えても可笑しい。だからトップ企業が内部保留金を多額に持っていても社員に還元できない。できるはずがないでしょう、明日1円高くなれば損失が数百億の世界。
 GMやクライスラーが明日の我が身と考えるか否か、あれは御存知の如く、潰したいが潰せないという事です。
 1年前は名古屋に行けば一人勝ち、駅ビルに隣接する有名デパートは開店時間前に並ぶ人たちが目立った。今それがどうだろう?
 この現実の中で、マイナス思考しか働かない人が多いのも確か、転職したらどうですか?国が福祉や農業、林業、漁業への転職優遇?政策を作り推進する割には動きが鈍い。
 これらの業種が負け組の溜まり場という考えを少しでも持っているのであれば、これは大変失礼な話。
そんな方には来て欲しくありません。
 ただ、私は変化の兆しを直に感じています。私の所のような小規模事業所に求職を希望する方が増えたのも事実。昨年から今年にかけ求人の倍以上の問い合わせがあります。
 一方、国や地方を問わず確実に公務員への流れが目立つ。県職の新採用試験の倍率を見せてもらったが、その高さに驚く。安定か高給か。実際に多くの県職の人を知っているが、本人は誰しもそんな風には思っていない。思わされているというのが実態でしょう。
 公僕になれば、それなりの苦労がある。そこで篩にかけられ、出世する者もおればそうじゃない人もいる。出世が何かと問われれば私なりの意見もある。それはここでは触れない。
 兎に角だ。目先の条件にばかり関心を持ってもだめだ。
福祉に働く人たちのモチベーションが上がらないという。3Kとか言われて良い気持ちになる者はいない。それがなんだと言うのか!おらーそんな事考えたこともねー。
 私流の思いはこうだ、専業主婦でお父ちゃんが働いた給料で豊かな生活ってか、これについては全面的に反対します。共働きが一番、子供ができても働く、そうでしょうよ。
世の奥様達にモノ申す!家事が大変でしょうか?洗濯!何言ってんのカップ一杯の石鹸でOK、食事!レンジでチン。掃除!やったことあるめーし。
 だからテレビの前でお菓子頬張りゴロリンコ、結果はメタボ症候群、痩せるサプリとヘンテコ体操。
なら働きましょう。一人の給与で食うと思うからダメなんだ。二人合わせていいじゃないですか、持ちつ持たれつ。親のこの姿を見て子供が何を感じるか、勉強しなさい、お父さんみたいになるのが嫌だったら”!
アヤノコウジのコントみたいなことが現実に起こっている。
 生活そのものを見直し、何が大切かをもう一度考える絶好のチャンスだと私は思っております。
24時間365日働きまーすんです。はい。
 片手に数珠、足には長靴、腰にはシップ、どうだー!文句あっか。
 

1141:水際対策

メキシコで発生した豚インフルエンザは日に日に感染者の広がりを見せ、WHOが警戒レベルを4段階に引き上げた。新型インフルエンザへの対策が現実味をおびてきた。茨城県では「あすなろの郷」が昨年新型インフルエンザ対応マニュアルを作成、民間事業所へも資料提供をお願いしていたところであった。
 我々はニュース等で情報を得るしか方法はないが世界的な大流行になるのかどうか不安である。もし、身近に感染者が出たら一体どうなるのか?考えただけでも頭が変になる。何しろ水際対策といっても防ぎようがない。
過去に1918年スペイン風邪で4000万〜1億人、1968年の香港風邪では100万人の死者が出た。
 地球上では50年周期で大流行が起こっている。私の記憶では香港風邪が流行った時は高校生だった。正直、その時どうだったかはあまり記憶に無い。ただ新たな疾病の発生は避けられないということを歴史が示している。病理学的に見て、抗生物質に効かない耐性菌、これなど菌そのものが何らかの過程で変容したもの、イタチごっこで研究者は休む暇もない。
 今回のインフルエンザはタミフルが効果があるというから冷静に対応すれば大丈夫かもしれない。
いつも思う事だが我々のような入所施設は看護体制を組むのが大変だ。隔離しようとしても現実には難しい。
 私のような素人が考えても今回の流行は一時的なものではない。何しろ新たな菌が現にこの地球上に存在するのだから、完全に終息することはありえない。
 スペイン風邪が大流行した時は、世界大恐慌の年だった。今回も100年に一度といわれる大不況に世界中が直面している。経済の動向と新型感染症の流行に因果関係があるのだろうか?
 人間の愚かさ脆さは自然の前(猛威)では無力で泡と消え去る。否、取るに足らないこととなる。
 つまり、滑った転んだ、アイツは気に食わぬ等の不平不満は騒ぎ立てる程の事じゃー無いということだ。
 生命の危険に晒されると最優先の関心事は如何に生命を守るかということになる。
 日本は今まで何かにまとまるという事が無かった。今回の対応で政治家自身が党利党略から脱し何をどうするかという大義の決めごとができるか否か、
 お前の責任だ、どうにかしろなどと言い争っている場合ではない。これでまた国政選挙に何らかの影響は出るだろうし、いまこの時期の政治家個人の言動に注意を払ってみていくべきである。
 

1142:スローライフ

”地球規模”という言葉がこれほど目立つ時代はない。グローバル化という現象は、通信や交通網の進歩と共に急速に起こってきた。
 新型インフルエンザの水際対策は、先ず感染者が出た国からの到着便への機内検疫。それに直行便受け入れの空港を4か所に限定してはいるが、現実韓国など経由で日本に入ってくる人もいて、それらの便は地方空港で発着している。潜伏期間がMAXで10日間というから絶望的だ。
 あれはテレビだったと思う、感染の広がりをシミュレーションで見た事がある。もの凄いスピードで広がる様は、防ぎようがないと思った。
 現代の盲点というか人為的に出来うることの限界だ、人間の限度を弁えない奢りに対して自然が発する警鐘と思われる。今後、暫くは予想できない状況に直面せざるを得なくなるに違いない。
 マスコミは感染者が出た国やその数を発表する。だが感染しているか否かのチェックもできない多くの国があり、その国の数は出てこない。
アフリカの最貧国などでは、飲料水を手に入れることすらできない。家畜と同じ溜まり水を飲んでいる。多くの人々が飢えや伝染病で命を落とす。この現実に対し見て見ぬふりをする人がなんと多いことか。WHOやユニセフの活動は、誰しもがその重要性を判っている。が自ら行動を起こそうとする人はほとんどいないのだ。
 今日の法事は千葉県から来られた方が大半、休日のためか高速はあまり混んではいなかったという。今回の新型インフルエンザ騒動が連休の人の動きに何らかの影響を及ぼすのは確実だ。それでも成田からは今日一日で4万人以上の人が海外に飛び立つという。予約しておいたから取りやめるわけにはいかないようだ。
 国が強制的に移動を禁ずることなど今の時代にはできない。
 私は連休中2〜3日は仕事を休もうと思っている。特にどこかに出かける計画もないが、好きな本でも読もうと思っている。昨日「良寛のスローライフ」(NHK出版)という本を買ってきた。良寛と横文字はミスマッチ、でもスローライフという文字に目が止まった。
 良寛は74歳(1831年)で亡くなっている。生涯、寺の住職になることはなかった。(*)庵に住み子供たちと戯れて暮らす。晩年は貞信尼というパートナーが現れ、夫婦という訳ででもなく、不可思議な生活を送っている。そこが謎めいていて一層彼の魅力を増している。
 もし良寛みたいな方が現代に生きておられたら、今のドタバタ騒ぎをどう見るだろうか?彼が詠んだ膨大な数の歌や詩にその片鱗を伺えるようなものがあるのだろうか。
彼の生家はご存じのように名主という家柄、でも家督を弟に譲って僧侶の道を選んだ。結局、実家は弟が町民と問題を起こし財産没収という憂き目に会った。彼ほどの修行を積んだ方ならばいくらでも寺の住職にという誘いの話はあったはず、それを全て断り、質素な庵での生活を選んだ。現世の財産や名誉に関心を示さない一貫した生き様、人生を急がずゆっくりと生きた、そこに現代に生きる我々を鋭く突いてくる何かを感じてしまう。
 何ゆゑに家を出でしと折ふしは心に恥ぢよ墨染の袖
暖衣飽食を避け.無位無冠を選んだ真骨頂がここに伺える。

1143:揣摩憶測(しまおくそく)

確信が持てないことに世界中の人々が揣摩憶測する。今の新型インフルエンザ騒動がいつ終息するのだろうか?これからずっと得体の知れないウイルスへの恐れを我々は持ち続ける他ないのでしょうか!
 嘗て不治の病と恐れられた結核は予防接取が普及し、急激に罹患者が減少した。でも近年また復活の兆候が現れ警戒され始めている。
 生命を持つものの宿命、これは地球に何らかの生命が誕生した時から背負っているものである。どのような有効な薬が開発されても耐性菌との戦いは地球が滅びるまではずっと続くはずだ。
 寧ろ我々が注意しないといけないのは、この騒動の陰で密かに侵入してくる人為的な病原である。
これなど社会的な問題として大括りすれば、いまマスコミで取り上げられる全ての事象が入ってしまう。
 集団&個人という比較の中で、様々な取り決めを作った。個人の尊厳・権利はいつの世にも虐げられた人達からの不平不満という形で表出する。
 人間の一生を満足(白)と不満(黒)で色分けしたとすると決まって灰色になる。水戸黄門ではないが「人生楽ありゃ苦もあるさ」ということ。
 しかし、これも考えよう。もし万が一にも俺の人生、楽ばかりと思うものがいたとする。するとあの人は変だ、病院に行ったほうが良いのではという事になりかねない。
 いい加減にしてくれよ、じゃーどっちが良いんだいってことになって、また元に戻ってしまうのです。
実はこれが真理、無変のものはこの世に存在しないというわけ。あの世に行けばどうなのか?分からねーよという事でしょう。誰も行って帰ってきたことが無い世界ですから。
 人間が作ったもので完全なものは無い。一番分かり易い例は法律、文言一つを後で変えようとしても膨大な労力を要する。
 障害者自立支援法の解釈一つにしても関係者の立場で真っ向から反発している。自分たちの利になること以外は悪法ということに。私はここ数年どちら側の立場にも身を置いてきたので、何が正しいのかが分からなくなった。
 だからかもしれない、このようなコーナーを作って迷走する自分をありのままに書き記しておこうと考えたのは。人生に安全運転はない。せめて酒酔い運転はしないように自戒するぐらいかなー!

1144:共存

我々の施設は集団生活が基本となる。今回の恐れる事態がもし施設に起こったならばどうなるのだろう。ただただ感染しないで欲しいと祈るばかり。不幸にも罹患した者が出た場合は、果たして医療機関で受け入れ対応してくれるのだろうか。
 某会議で質問した時、指定医療機関が対応することになっているという回答を得た。本当ですかとは念押しはできず、会議終了後、直接尋ねると”感染しないほうがいいよね”という事だった。
 いまNHKラジオから流れてくるニュースが気になる。昨日成田で疑いを持たれた方はA香港型であることが判明、新型インフルエンザではなかったという。升添大臣が深夜1時過ぎに緊急記者会見で発表している。しかし、今度は横浜の高校生が隔離収容されたという話。いよいよ現実味を帯びてきたと感じる。
 果たしてどうなのだろう?昨日、家族と話した。”なったらなったよ”と開き直って言うものあり。
 それは分かっているがしっくりいかない。
 実はこの世はリスクばかり、やることやっても上手くいかないことばかり。〈求不得苦〉。
EU連合で新たな動きが出てきた。加盟国内でのインフルエンザ対策として情報の共有と薬を融通し合うなどの協力体制を確認している。
 一方、アジアはどうか?感染疑い者の数字が上がっていない国が多いのは検査体制が取れていないからという理由だと私は思っている。特に中国などは人口が多く国土が広くて医療体制の格差も大きく困難だ。麻生さんが中国に渡って首脳会談、両国が協力して大流行を防ごうという声明を発表、実際に何をどうするのかには触れなかった。そして、孤立化を深める中国の隣国は、6カ国協議からの離脱を一方的に発表、例の独特の口調で外国向け番組でいきり立っている。どうも足並みを揃え、この非常事態に協力する考えはないようだ。
 政治や部族・宗教の違いによって、互いに殺し合う状況は依然としてこの地球から無くならない。
 今回の特徴として新型インフルエンザの感染のスピードは過去の疾病と明らかに異なる。人的な交流が進んだということと情報量の違いだ。
 行政の使命として、正確な情報を素早く伝え、その情報によってその後の行動を決めるという事は理解はできるのだが、逆に不安を煽られるような気になるのは私だけか。
 この一連の騒動が早く治まってくれれば誰しもが喜ぶこと。でも一過性の出来事というものでもないからなー・・・・・
 日本だけが被害を受けなければ良いという考えは許されない。世界には地下に潜り体制への批判活動をしている人々も多い、仲介者をたて、過去に何度となく話し合いが持たれた。しかし、どちらか一方が取り決めを破ったと争いを再開する。そして、必ずや子供・女性・老人という弱きものが犠牲になっている。
 ウイルスというものは、全人類共通の敵である。疾病と医療、ウイルスと薬・医学といった単純な比較では無い。酒の醸造には欠かせない酵母菌のようにプラスの存在として取り込めないものか。兵器開発に膨大な金と労力を使うかわりにできることがあるはずだ。
”共存””共生”言うは易しということか。

1145:大型連休

今日から連休の後半?いつからだったの?私には全く連休関係なし。今頃、休日を仕事から解放され多くの人がそれぞれの休暇を楽しんでいるのだろう。そう考えると正直、腹のムシが騒ぐ。尚恵学園では連休など関係ない。ほとんどの利用者が家に帰らずそのまま寮で生活している。日中活動のグループだけは休みになっているが、大半の方達は、今日は何をするの?と言わんばかりに上目で伺う。
 以前から5月連休の職員勤務は休日を他の月に分配する方法をとっている。こうしないと入所施設は成り立たない。
 今年は微妙だ。1週4休の企業などは正直休まず働きたいという気持ちの社員が多いのではないか。このままずっと休みになったらという不安もあると聞いた。
 県内の有効求人倍率が0.49という。また企業の倒産も一か月で30社を越した。いま言われている株価の底をうったという予測は実態経済とは遊離しているのではないか。
 休日の過ごし方で今年はどうなのだろう?高速料金が安くなった影響は各高速道路に出ているようだ。今回の感染騒動で海外旅行組はキャンセルが多いかと思うとそうでもない。
 今朝、中田先生からメールが入った。カブールからだという、アフガニスタンの首都だっけ?
JICAの海外支援プロジェクトで出張中、恐れ入りました。
 5月に入り、穏やかな天気が続いている。いつもと変わらない風景が見られる。田に水が入り、トラクターで田起こし真っ盛り。田の畦を色どったタンポポは黄色の花を落とし、クローバの濃緑の葉が目立つ。
 草刈り機で綺麗になった田の周囲は、腰を下ろし束の間の静寂を楽しむには絶好のポイント。よく見るとスケッチブックを持ち、デッサンをしている人がいる。態々人混みの中に行くことも無く、身近な自然を楽しむ人々も増えている。私の住む地域は、昔そのままの自然が残っている。散歩するコースになっていて、寺の周りを歩く人たちがこの時期さらに増えている。外トイレを新しく作っておいて良かった。利用する方が多く喜ばれているようだ その代りに、掃除をする仕事は増えてしまった。
 「良寛のスローライフ」を読み終える。江戸後期の人間模様は良寛の残した多くの詩歌から読み取れる。特に仏教界の有り様は、基本的には今とあまり変わらない。だからでしょうね寺の住職にならず、托鉢による乞食僧の道を選んだのかも。良寛は「愛語」を大切にして生きた僧、その生きざまが多くの人々から慕われ庵を結び74歳という天寿を生き抜いた。
 いやー参った。全く自分とは別世界、どうすれば良寛の生き方に近づけるのだろうね。連休や新型インフルエンザなんかに心動かされることなく、悠悠自適に生きられたら何と素晴らしいことか。
 通夜の迎えの運ちゃん、大きなマスクをしていた。「あれ!インフルエンザ対策?」と尋ねた。すると「いやー花粉症ですよ。住職は?」「治ったみたい。3日間だけだった」前に乗せてくれた運ちゃんで、その日私は急に花粉症?になり、頭を上に向けて通夜の経を読んだ。それがなんと3日でピッタリ止まってしまった。
 今回のウイルスは今朝の新聞では、なんでも4種類のウイルスが10年かかって結合変化したものとか、ここまで解明する技術にも驚くが、それよりウイルスに脱帽、彼らは人間が次から次に作り出す抗生物質と必死に戦う。やつけられたウイルス同士で連合を組み、より強固な形をとり、人間に立ち向かう。
 花粉症はアレルギー反応だから、人間側の問題、杉やアワダチソウは昔からあった、その花粉にこちら側が敏感になりすぎた。薬局に行けば、もの凄い種類の花粉症の薬が棚に並ぶ。
 人間は自然治癒力を持っている。細胞再生力は日焼けして皮がむけ、新たな皮膚ができることでわかる。薬には何らかの副作用があり、頑なに薬を拒否する人もいる。私は3年間ある薬を飲み続けてきた。朝1錠飲むのだがこれに胃薬が付く、最初に処方された時に主治医から胃に負担がかかる薬だとの説明があった。半年ぐらい前から違和感があり、その事を医者に告げた。しばらく頭をかいていたが、「そうね、3年たったしね、薬変えますか?」
「そうしてください」と私が即同意したので変えた。今のところ気のせいか違和感は無くなった。
 長期に薬を飲む人は多い。副作用を抑える薬まで同時に飲むことになるから、自ずと量が多くなる。
 投薬に関しては、仕事がら関心が昔から強い。利用者さんで精神科の薬を飲んでいる方が多い。いま、私が口うるさく職員に言っているのは、薬を変える時は家族に一緒に通院してもらうこと、それができない時は、必ず家族の了解を得るようにしている。
 今回の大型連休で自宅に帰った人は少ない。それは4月に春休みを取り、帰れる人はその時に帰省したからだ。昨日は本当に久しぶりに、園庭で日向ぼっこしていると利用者さんが近寄ってきた。ニコニコしながら私の脇に腰を下ろす。「よ!元気?」と言うと彼は直ぐに「カーカン」と言った。
 *カーカンは「母ちゃん」です。
 

1146:環境容量

いま過去とは全く違った状況がある。誰かが言った”文明の暴走”、この地球を人間の都合最優先に考え世界中が競った、その歪(ひずみ)が地球の環境容量を超えた。
 全世界を震撼させている新型インフルエンザ、はっきりした原因は不明であるが、いままで鳥や豚の中でしか生存していなかったウイルスが人間圏にまで入り込んできた。遺伝子組換えなど人工的な横やりが共存を許さず種の変容をきたしたのか。そのメカニズムが確かに変わったのだ。
 スピードの速さと世界規模に広まる有り様、これは過去とは明らかに違う。自国だけ被害を受けなければ良いのか?なんの疑問も感じないで”水際”対策などと言う言葉が出ること自体、私は疑問に思う。
 日本だけが良いわけがないだろう、それに不可能だ。”地球市民”という新語は環境問題から端を発した全人類の未来を危うくする事態に地球規模で対応する是非論から生まれた。
その中で環境汚染一つにしても先進国の責任は重大かつ深刻だ。経済第1主義を謳歌した結果が、ご承知のように金融破綻を引き起こし、世界経済を短期間に奈落の底に突き落とす。これもまた例外なく文明の暴走と言えまいか。

アメリカの3大自動車メーカーの経営破綻、公的資金の助けを借りても一向に改善の兆しは見えない。伝え聞く情報は、経営トップの常軌を逸した言行、それに労働者との溝の深さ。これが新自由主義経済の旗印の実態か!
 もし、依然として自国のみの繁栄を求める国があるとすれば、最終的には他国からの批難・攻撃の対象になるだろう。憲法改正論議をしている場合ではなく、自らの立つ位置を国民と共に考え築くことが重要だ。NGO活動一つを見ても政府は金銭援助を唯一日本が取れる世界貢献ととらえる。
危険を冒してまでも現地に足を運び、実践している日本人がいる。彼らに対して政府がどれだけの慰労と感謝の態度を示してきたか!
 その点は誠に残念である。先生達の目下の関心事は2世議員を規制するとか、道路財源をどう活用するかとか枝葉の事に時間を費やす。地球市民として日本がどう有れば良いのかなどといった次元の話は他人ごと。
 政治の貧困は国民の責任という。果たしてそうでありましょうか?言葉の綾取りゲーム。はっきり言って政治がゲームに興じているとしか思えない。それが許された戦後が存在したということも事実、だが、これからはそんな甘事を言ってはいられまい。それを痛感している庶民がいつまでもゲームに付き合う事はない。永田町の住民籍が危うくなった先生は地方挨拶まわりに奔走、いつもこうだ。選挙近くに顔を出す。私は居留守を使う。顔も見たくない。言って変わるような人ならばとっくの昔に変わっていた。
 国民目線などという輩ほど、実態を認識していない。情けなくて言葉も出ない。
 いつの間にか政治家という連中が先生呼ばわりされた事が道を踏み外したわけで、その意味では私たち僧侶も同じ穴のムジナ。先生と呼ぶ者は心からそう思って言う人はいないのであります。先生諸君!!その自覚と反省を。
 生臭坊主だから生臭、そのように私は自身を受け止め、精進努力いたす所存にございます。
”礼””着席”・・・・・・・です。

1147:おくりびと

連休になってから急に葬儀が続けてあり、3日連続となってしまった。それぞれが異なる斎場で行った。
 おくりびとが話題になり、それとなしに斎場の担当者に聞いてみた。ちょっと気になる事を耳にした。それは最近の葬儀の仕方に変化が見られるということ、2極化だ。どこの斎場とは言えないが、私が「どうですか?映画の影響は」と聞くと相手は私が坊さんだということで気を許したのか、ちょっと周囲に目をやりながら「いま、車も高級車か軽自動車しか売れませんよね。中型車は皆さん、買いをひかえていますよね・・・・」堰を切るように話しかけてきたのだ。一体何を言いたいのかと考えた。それは葬儀の仕方であった。斎場はセット料金で明朗会計の所が増えている。しかし、沢山のオプションが品揃えされており、ストーブ一つ追加があっても数%歩合が担当に付くという。全てではないが、このようなセレモニーホールもありますよと言うのだ。その辺の事情は私は全くといってよい程知らない。
 確かに近親者だけで葬儀を済まされるケースが増えている。社葬などという仰々しい告別式は数が減った。それに近所の手伝いも遠慮する家が増えた。斎場で行う場合は、特に何もやることはないからで、当家としては勇気?をもって断るようだ。しかし、受付一人?円という請求が後日、当家に届く。
 それにこんな話もしてくれた。葬儀は参列者一人ひとりに営業を行っていると同じだという考えが業界の常識だと。ここの斎場のサービスが良かったので次に頼もうかと思う人が多いという。
 一言客だからという考えはタブーというのである。
 そうね、そうかもね。菩提寺の住職というのは、その辺が時代遅れかもしれない。先祖代々というインロウを握っているからな。でもどうだろうか?通夜や葬儀の時間、じっと訳の分からない経を聞いている。坊さんの所作や声を否応なしに見聞きする。あの坊さんは立派だわな、今度あの坊さんを葬儀に頼もう!
というところまでは正直行っていない。
 だが、これも時間の問題だわな、いずれそうなると思う。その時になって、先祖代々の宝刀は効き目なし。
 何しろ斎場が生き残りに必死なのに、お寺さんは???
仏教が起こって2500年綿々と続いてきた事は、何を意味しているのだろう。他の宗教にも通底していることである。それは人間が唯一経験する絶対のもの、それが”死”ということ。必要以上に美化したり、忌み嫌っても確実に訪れる。その避けて通れない事があるから、宗教が形を変えてまでも存在しているのだ。
 僧侶・神父・・・呼び名はそれぞれ、教え・実践その全てが多様で決まり事で雁字搦めになっている。私はこの息苦しさがどうにも耐えられず、この世界に足を踏み入れるのに正直躊躇した。いまだって
ingである。
 だがこんな事をいつまでも言っている場合ではない。現におくりびとの一員として自分があるからだ。
 できれば自分なりに納得した位置を見出したいのである。
無性に四国を歩きたい、その思いが強まる一方である。

1148:人間関係の貯蓄

”老い支度”という言葉を最初に使ったという家事評論家の吉沢久子さん、現在91歳で元気に活動している。その方の話で”人間関係の貯蓄”というものがあり、メモにとどめた。
 老いを楽しむという本を出しただけあって、彼女の話には悲壮感が無い。旦那さんを四半世紀前に亡くし、子供に恵まれなかったためにその後は一人で生活してきた。
 人間関係の貯蓄とは、経済優先の世の中にあって忘れかけてきた人との友好な繋がりを大切にということ。少々穿った見方をすれば「老い」とか「人間関係」という言葉に対して大半の人々が尻ごみし、出来れば考えたくないと思う。
 そこで私なりの「人間関係」論を挟む。自分の性分を差し引いても私は白黒をはっきりする付き合いが好きだ。好き嫌いで言うのもどうかと思うのだが、妙に相手に媚を売ることができない。だから良くぶっつかる。そして自分からは謝ることをしない。分かんねー奴は仕様がねーや。なんと思われようが構わない。横着にできている。
 これでずっと今まで通してきた。
世間には多くの友人がいると威張っているものがいる。果たしてそうですか?”人間関係の貯蓄”という見方からすればその中には不良債権もあるでしょうと思ってしまう。不渡りを出して自己破産しないとも限らない。帳簿上の額面だけでは分からない。
 「振込詐欺」「派遣切り」・・紙面に良く登場するこれらの言葉、「信じる」「共助」という言葉を隅っこに封じ込めてしまった。
 昨夜から読み始めた単行本、ある著名な宗教学者が書いた。まえがきにこのように書かれてある。
・・・いま、日本は大きな曲がり角にある。日本においては、何もかもがおかしくなっている。政治も経済も社会も、教育も医療も、すべてが目茶苦茶である。それなのに、仏教は、何も教えてくれない。わたしたちがどう生きればいいのか、何を、どのように考えるべきか、仏教は沈黙をしたままである。お坊さんたちは、ただただ死者のお守りをしている・・・・『親鸞と道元』著ひろさちや:P5
 この本は10年前に書かれている。いま、そのままの状況が続いているのだ。寧ろより深刻になって。
今日は今から葬儀に出向くので、白衣を着てPCを打っている。
・・・葬式仏教・・葬式なんてものは習俗である。習俗と化したものは、宗教ではない・・・・同上:P3
 白衣を脱いで、どこかに雲隠れしたい心境だ。
”国体”をどうするか?この事が国民を含めて真剣に討議されたことがないと思う。国民に信を問うと言っても半分に満たない投票率、そこがこの国の根本的な問題なのだ。所詮、他人ごとと済ましてきたツケである。
 仏教が死者を弔うことで満足してしまってどうか?私はその事を自分に問い続けている。生きた人にどう関われるか、それにはいま何ができるのか。
 あまり欲深く考えても立ち往生するだけ、いま私の置かれた立場に精一杯自分を埋没させる、これが限られた一生でなせることだと私は思う。

1149:生活設計

NHKテレビで35歳1万人にアンケートを行った。親が戦後ベビーブーム世代でその子供たちで35歳人口が一番多いと言われている。その調査結果で深刻だと思ったのは、将来職を失うかもしれないと考えている人の割合が半数以上になっていたこと。今勤める会社が潰れるかもしれないという不安も同程度あった。転職経験者も多い。
 転職して条件が良くなれば良いのだが、大半は収入も減っている。極端な例では半分の手取り、そうなれば住宅ローンを組んでも返済のメドがたたない。結婚し子供の養育費が嵩む、共働きをしたいと考えても条件にあった仕事が見つからない。住宅ローンを組んだ一組の夫婦が言っていた、返済が終わるのは自分が68歳になった時、定年が60歳と考えれば、定年後も8年ローン返済のために働かなければならない。今の住宅は果たして30年後、資産価値が残っているのだろうか?マンションであれば、土地は無くうわ物の占有部分だけ、これが大凡の実態であるという。
 所詮、マイホームと言っても仮の住処、利便性を優先するから都心部に近いところを選ぶようになる。確かに通勤ラッシュを経験したことがない私にはその苦労が分からない。学生時代は時間差で混まない時間帯を選んで電車に乗った。田舎育ちの私にとって人混みは本能的に避けてきた。
 心象風景というのは、大体幼い時代に慣れ親しんだ風景だという。60歳を前にした私が老境に至ったかのごとく感慨に浸るのも戴けない。
 連休で何故競って海外や観光地など人混みの中に行くのでしょうか私には到底理解ができない。寺の檀務で全く休みが取れなかった腹いせもあるが、用意周到というのか、マスクをシコタマ買占め、タミフルまで持参して海外に出かけた人がいたという。
 もっと有意義な休暇を取れないのでしょうかね!
私が今気になっているのは、雑草で生い茂った土手の草刈り、雨が降って途中までしかやっていなかった。周りと比べるとその部分が見事に残っている。草刈り機や燃料は準備万端、いつでもできるのだが、今日から水戸や東京それに京都での会合が予定に入っている。私にとって移動の時間が自分の楽しみの時間となっている。多分、職員の誰かが残りを私以上に綺麗に掃除してくれるとは思う?いつも途中までやって後始末ができないという批判を我慢さえすれば良いのだ。
 生活設計が思うようにならないと同じく日々の生活も納得の行くものなど何もない。これが人生さ!なんて達観したかのごとく言ってもどうでしょう。内心穏やかならず。
 本日のご予定は、今から水戸で県との調整会議、午後1番で健康診断、これはキャンセルになるかも、4時からは自坊で坊さんの役員会議、監事監査を受け、慰労の宴席??ね。
 あ!そうそう昨日の葬儀、何十年かぶりに墓標を書いた。墓地が出来ていないので仮に埋葬したのだが、組内の手伝い衆がどう墓標を建ててよいのかが分からない。十三仏や六角塔婆など昔の埋葬具は葬儀屋さんにとって特注品。セット料金には含まれず。
簡略化する冠婚葬祭も時代を反映している。
 ちょっと予想外だったのは、十年以上も父親の遺骨を自宅に置いてあったお宅、お墓に行かなくても自宅で線香があげられるからという話だった。常識が非常識、確実が不確実な時代になったということかもしれないね。
 

1150:約束

世の中がなんでも有り、価値観の共有、規範、大義とはという問い掛けが虚しく響く。
 いろんな会合に顔を出して感じることである。ドタキャンとか忘れ、元々出席の意志がなくても何の連絡もしないなど、最低限のルールが守れない人がいる。いくら立派な事をやっても言ってもダメだわな。ミスは誰しもが起こす、私はその後の対応だと思うのだ。せめて電話で謝ることぐらいしても良いではないだろうか。何度も同じ仕打ちをされては、関係は冷え込む。
 職種で色分けするにはちょと無礼かと思ったが、敢えて私の性分が許さない。先ず、ドタキャンベスト1は坊さんである。お前は文句ばかり言っているが実は好きなんだという陰口を無視して、何しろ20年になるかな、布教師会やらなんやら事務局をやってきた。出欠連絡を取って回収率50%台、それと当日ドタキャン、これは一体どうしたわけなのか?
 更に福祉関係者もドタキャン上位を占める。これは忙しいという理由からだと思う。それにつまらない会合が多すぎる、そうは言っても最低限のルールはあるはずだ。そのように私は思って今までやってきた。
 今の日本が浮き足だっていると誰もが感じている。約束事がその場凌ぎ、それを批判されると財源をどう考えるのかという決まり文句、この遣り取りをずっと続けてきた。これからもそれが続くのであろう。
 不況下で市町村の生保の窓口がてんてこ舞い、申請者が急増し、その対応が間に合わない。
慶応の辛口で有名な金子教授が言っていた。日本は社会の仕組みを変えないと持たない。この真意はどうなのか?そこまで説明を求めなかったので分らないのだが、今までの彼の持論がより確信に至ったのだろう。同じ大学で大臣になった教授の持論は小泉さんの引退と共に過去の出来事、ま!彼流の振る舞いは同業の者からみて腹が煮えたぎる思いをしたに違いない。評論家が政治に関わると始末に苦労する。約束事を沢山つくってハイさよならでは、もう開いた口が閉まらない。
 あれから政府が打ち出す新たな政策は殆どが期限付き、高速料金が1000円になったと喜びいさんで遠出したはよいが、一般道路を走ったほうが早かった。これだって2年間の限定版。その後はケセラセラ。
 昔、切腹という責任の取り方があった。新渡戸稲造の「武士道」が英語版で発行され、日本人へのイメージに少なからず影響はしている。藤沢周平氏の本が以前として書店に並ぶのは、日本人の深層心理として憧れと理想を主人公に投影するからだ。
 それがどうだろう?最近の悲惨な事件で、自ら死を決するには痛いから罪を犯し死刑になるために無差別殺人を起こしたと自己弁明したものがいた。これは稀な事件である。ただ被害にあった人からすればどのように受け止めて良いのかわからない。
 特殊な出来事をマスコミが一斉に報道するから、日本人の心理に何らかの影を落としていると私は思う。その反動か一般の人には見過ごされてしまう仄々とした些細な出来事に光をあてたい。
 今日、あるメンバーさんの処遇について話し合う。彼は特定の人に攻撃?する。普段でも彼は耳を手で塞ぐ癖がある。大声を発したりする仲間がいると彼のテンションが急上昇、その事があっての腹癒せで時間差で攻撃するのかもしれない。ただ集団生活の宿命というかその対応には本当に苦労する。
 彼は自宅に帰ると問題はなくなる。母親を求め、静けさを求めている。