源究97

 

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
1451 寿命 4/21 1456 共感 4/27 1461 情報の真偽 5/6 1466 ワールドカップ 5/11
1452 信用失墜 4/22 1457 普段着 4/28 1462 信用不安 5/7 1467 二諦相依 5/12
1453 葉桜 4/23 1458 牡丹まつり 5/2 1463 安心 5/8 1468 践み行う 5/13
1454 朝帰り 4/25 1459 思いつくまま 5/3 1464 草取り療法 5/9 1469 自損事故 5/14
1455 伝え残す 4/26 1460 言葉の重み 5/4 1465 目標チェック 5/10 1470 先人の教え 5/15

1451:寿命

大変お世話になった中村先生が94歳で亡くなった。亡くなる4日前に病院へ見舞いに行き久しぶりに話をしてきた。本当に元気な方で半年前に脳梗塞で倒れるまでは自分で車を運転して土浦まで来てくれた。私は40年近く先生から指導を受けた。そして何か迷った時はいつも相談した。決して指示的な意見は言わず私の話を良く聴いてくれた。
 県内で先生を知らない人はいないと思う程、障害福祉の現場に精通していた。また、他県に対して茨城の顔でもあった。県立コロニー建設の際には、中心的役割を果たし、300名以上の新採用職員の指導を一手に引き受け、現在のあすなろの基礎を築かれた。寧ろ先生は私の父との関係が深く、いつの頃だったか紹介され、それからのお付き合いだった。
 病院で会ってお暇する時にはっきりした言葉で私に話された言葉は、『お父さんによろしく』だった。もう私の父は16年前に亡くなっている。
マージャンと野球が大好きで、常にその場にはいたと思う。昨年まで先生を囲むマージャン大会が毎年正月に開催され
30名程の人数が集まっては卓を囲み談笑した。
 奥様から電話を頂いた時、とても穏やかな最期だったという事を知った。ご冥福を祈ります。近いうちに先生を偲ぶ会を行うことになる。
 また、私にとって大切な方が彼岸に渡った。寿命と言えばそうかもしれない。94歳まで元気だったということが何を示しているか敢えて言うまでも無い。人は一人では生きられない。でも死ぬ時は一人だという。寂しいか悲しいか?自分自身の最後は誰も経験が無いから正直分からない。茨城県では元県立医療大学の太田先生が考案した老人向け健康体操が各地に広がりを見せている。これは自分ができるだけ健康に老いること、寝たきりになって介護の手を借りないようにという予防の意味がある。いま指導員の養成や公開講座が全県に全て無償で開催されている。
 世界1と言われる日本の平均寿命、しかし、病院や介護施設で過ごされるお年寄りの数もカウントされている。大切なのは健康寿命である。それは各自の日頃の努力による処が大。そして、老いることを楽しみながら過ごせる社会づくり。
 この発想は前向きだ。面白いのは”無償ボランテア”によって支えられているということ。この最大の理由は関わる人達が自分自身の為であるということを共通認識されていることだ。
 障害福祉を考えると、イマイチこの点のインパクトが弱い。自分の事という思いが有れば見返りを期待しないものだ。
 私は様々な団体に関わっている。その中でも長く続いているものには核に成るリーダーがいることと活動事態を喜んで参加しているかということが重要な要素になっていると思う。
 定年後、男性の参加が思うように増えていないという。この一因として会社一途の長年の生活に疲れきってしまったこともある。だからといって老後に楽しみを見出して生活されている人は決して多くは無い。
 会社一途という生活に問題があり、仕事の合間に自らの楽しみを持てるか否かということだ。往々にして仕事と趣味が逆転してしまった人も見かけるがそれはそれ、趣味を通して周囲に何らかの効用は蒔いている。
 

1452:信用失墜

福祉現場で一番気を付けなければならないのは利用者への虐待と経理の不正である。これが事件として表沙汰になるのは余程のことである。しかし、最近はそのような事件不祥事が後を絶たない。最近起こった千葉県内の入所施設での事件、これなど問答無用、当然のこととして関係者は罰を受けるべきである。
 多分、一般の人達の福祉事業所に対する見方はそれ程悪くは無いと思う。これも間違いかもしれません。でも、どこかで福祉に関係する者が事件を起こすと不信感は瞬く間に全国に広がる。一度起これば長年の積み重ねによって成し得た信用の全てをゼロにする。この責任は実に重い。
 一方では氷山の一角という見方もあり、堰が切れるが如く問題が一気に表面化することもありうる。その点、この度の千葉県の協会のいち早い動きは良かった。県全体で問題に取り組む姿勢は、末端の現場や行政に対して何らかのメッセージとなるはずだ。
 相も変わらず政治の混迷は続く、どんどん泥沼化し政権の体を成していない状況になっている。箍が外れたというのだろうか、各大臣は一生懸命職務に専念しているようにみえるが、どうも至る所で齟齬をきたしている。それを総理が恰も他人事のようなコメントをするから尚更だ。誰が責任者なのかと言いたい。
 福祉の制度作りも暗礁に乗り上げた感も否めない。様々な意見が出されそれを集約して果たして納得のいく形がつくれるのだろうか?
 もしも政権がまた途中で変わるような事態になれば、一体我々は何を根拠法として事業を行えばよいのか判らない。
 今の永田町の混乱は政権交代の課程で多少は大目にみるべきだとは思う。しかし、国民の生活は立ち止まることは許されない。議論をどれだけ重ねても明確な結論が示されなければ、ただの混乱で無為無策と同じだ。
 この辺の信用失墜は実に様々な分野に影響している。いま、せめてもの期待は、事業仕分け? でも果たして1時間程度の審議でどれだけの実態の把握と結論が出せるのか。闇雲に仕分け人が突っ走る状況も2度同じことが繰り返されると食滞気味となるだろう。
 昨夜は新年度恒例の職員の歓送迎会が土浦市内のホテルで行った。時間にして約3時間、円テーブル全てを廻るには時間がいつも少ない。昔は毎年、どこかの温泉で1泊旅行で行った。座敷の大広間で車座になり、宴会が終われば部屋に戻って時間も忘れ話こんだ。そのような旅行は今は無くなった。ホテルでテーブルに分かれての会食という形になり、いつも思うのは消化不良でのお開きということになる。
 今年度は3名が退職し、6名の新人が仲間に加わった。皆さん個性的でまだ1カ月経っていないから緊張している様子が見えた。彼らがこの仕事の面白味を感じ取り、遣り甲斐を見つけられればこれに越した喜びは無い。
 

1453:葉桜

花が散り若葉が出始める、夏を表す季語である。しかし、今年の天候は異常とも思える日に日に変わる気温、夏物冬物交互に着るような生活を日本中で繰り返されている。
 雨に濡れた若葉は中々なもので、これから立派な葉になって夏の日差しを遮り我々に涼しさをくれる。自然の営み、四季折々の風情は日本人の心の深層に根付いている。
 春は1年中で力が一番漲る季節である。冬の期間休んでいた田畑に鍬が入る。いまはトラクターがエンジン音を弾ませ土を掘り起こしている。種まきや田植えの時期が直ぐそこに近づいている。・・・・小休止・・・・
 この時期、藤村や賢治の影を感じる。明治5年信州馬籠生まれの藤村、明治29年岩手県花巻市(現)生まれの賢治、いずれも地方の裕福な家庭に生まれた、それに対し当時の農民の悲惨な境遇に疑問を持ち贖罪感と自己犠牲を作品に投じた。今に残る彼らの遺作が近代化を果たした日本人の心に奥深く響く。橋の無い川を著した住井すゑは今はない。
 揺れ動く政治の世界、果たして落ち着く場所に行き着くのであろうか?離党し新党を旗揚げした面々は何か大義を感じない。だからと言ってどっちつかずで保身最優先で居残りを決めた人も同罪だ。
 選挙前になると俄かに騒がしくなるものの、どのような公約を掲げたところで有権者は冷めた見方をしてしまう。どうせできっこないという諦めだ。
 実しやかに議員定数の減を掲げても一向に真実味を感じない。一つのアイデアとして全国比例で当選した者が何らかの理由で議席を失う時に、次点したものを上げるのではなしに定員を削る方法はどうか?そうでもしないと今の慣れ合い政治、足の引っ張り合いは終わらない。相手への攻撃が常に虚しいのは、政策論争ではなく揶揄中傷の週刊誌的討論に貴重な時間を割いているからだ。これではいずれ飽きられることは目に見えており、結果、無党派層の急増ということになるわけだ。
 全く、日本はおかしな方向に進んでいる。国民が声を上げなければ何も変わらない。その事は一貫した私の本心である。
 この世にあって純真で温かな心を持ち続けている人達がいる。その確信は更に強くなってしまった。
 私がお付き合いさせて頂いている知的障害の人達、彼らの願いは万人の願い、決して政党や議員一人の穿った願いではない。残念至極なのは、我々福祉に従じる者の周辺も世の中の毒に汚され浸食されている。歌い文句に非は無いが、裏と表を使い分ける。業界が圧力団体に化し、本心から行動する気を感じない。様子伺い、ゴマスリ、。。。。
 この状況を末法の世と決めつけるには忍びない。
 何か方法はないのだろうか?自分さえ良ければ良いという社会は決して長続きしない。良くも悪しくもいまが正念場そんな想いで葉桜を楽しんでいる。

1454:朝帰り

個人情報の漏洩になるかもしれない。本人は一向に気にしていないから此方としても罪悪感は薄い。
 どうもここ数日の天候不順は彼女にとっても混乱があるようである。今朝もそうだった。夜姿を見かけないと思っていたら私がトイレに起きだした処、「ニャーニャー」と窓越しに声がする。開けてやると急いで部屋に入ってきた。そして 背伸び、どこかで寝ていたらしい。
 朝帰りの張本人は「ハナ」である。それからいつものパターン、これが実に面白い。なんで早く開けないのかと怒っている時もあれば、仕様がねーな、どれ一緒に寝るかとか、ハナの表情でその時の彼女の気分が手に取るように分かる。
 今朝は、後者のほうだ。エサを食べ終わり、例の如く足で顔を撫でながら私の蒲団の中に入ってくる。これが実に道理に適っていて、頭をチョッコリ外に出し、私の枕を半分以上占領する。そしてお世辞ともとれるようにゴロゴロ喉を鳴らし、眠ったふり。決して寝ていない。時々耳をブルブル揺らす。これは私の鼻息が気に障るという合図、朝帰りの一幕でした。
 何も斯様な事を書くつもりで無かった。しかし、あまりにも私を小馬鹿にしたハナの態度に心を感じたからである。
 さーて、5月の連休を前にして何かと落ち着かない昨今である。法事を受けたのが今日まで後5日ばかりは奈良に行く。多分、全国からどっと押し寄せる観光客、人混みに向かって行くと言うのも余り気が進まない。ただ、3日間はお仕事、長谷寺を訪れたお客さんに向かって法話をしろとの上からの命令?
 私にとっては初めての経験、病みつきになるかもう二度と引き受けないかのどちらかだろう。資料の事前準備は止めた。俄かに詰め込んだ話をしても心が通じない。ならば私が自信をもって話せる内容で勝負する外はない。そう決心すると気が楽になった。そんな時、ハナの朝帰り行動に目が行く。普段の行動を熟知していることが相手に通じる条件になる。全く初対面の人ならば尚更、どこかに書かれてあるような話は禁物だと言う事だ。
 それからもう一つ、近所に住みついた兎の話。
 もう1カ月以上になる。寺の周りに兎がいるという噂、そんなはずは無いと疑ったが、私が草取りをしていると直ぐ傍までピョンピョンやってきて逃げない。薄茶色した兎、後で分かったのだが兎小屋らしきものが竹藪の隅に置かれてあった。多分誰かが飼っていた兎をここで放したのだろう。人慣れしている兎はそれから周辺に何度も出没、住みついてしまった。
 野犬にやられてしまうのではないかとの周囲の心配もどこ吹く風、エサになる草が豊富なせいか少しずつ太ったように思える。いま、少なくなったのは野良犬、その代り犬の散歩に来る方がめっぽう増えた。本来、番犬である犬が鎖につながれ、小屋で飼われるべき兎が外で自由にすごす。これも又世の常識の逆転現象の一つかも。
 もうそろそろ春暖の挨拶ができる季節になるはずだ。そして人の動きを感じる今日この頃、あまり中央の偉い方達の動きに翻弄されることもアホらしくなった。
 一つだけ気になった番組、仙台市議の海外視察を盗み撮りされ、その面々の言い訳が無様(ぶざま)だった。視察どころか昼間からビールを飲み、挙句の果てがカジノ通い。ビールを「なんというのか泡がぶくぶく出る飲み物・・・ジンジャエールみたいな・・・?」写真を示されビールだった事をあっさり認めた。仙台では市議一人年間100万円の研修費用が出ている。東北随一の森の都仙台の先生方の海外視察の1幕でした。
 国会の先生のみならず、この国は地方議員までが有権者を欺く行為が常態化してしまったようだ。
結論から言うと、やはりなんですな!国民が真に怒りを発しないとこの国は変われないということではないですか?そうでないっすかー。
 朝帰り 言い訳無用で 菩薩道   (ちょと格好付けました)

1455:伝え残す

奈良に行った時、是非とも訪れようと思っている場所があります。東大寺です。それは大仏開眼に至る多くの民衆の願いが凝縮し、世の平穏を今に至るまで無言で祈り続ける大仏に対面したい。実は今までに何度か私は訪れています。ちょっと今回は違う。
 某新聞のコラムに東大寺境内に子供のホスピス事業(病院)を始めるという記事を読んだ。そうだ。これなんだよな。行基が大衆の力を集結し大仏建立できた大願は、そして成し得た事業。京都や奈良の大寺はどうも観光客相手に力点が置かれてしまった?という思いがありました。そこを今回確かめてみたい。
 いまの日本に何かが足りないと感じている人々は多い。それが一体何なのか?
 制度や仕組みに関しての喧々諤々といくら論争しても医療・教育・介護の根本の問題まで至らない。否、至れないのだ。それは財源問題という壁があるから?問題の先送りを続けた結果今がある。
 平城遷都1300年、何故都を移したのか?歴史探訪、現地に赴いてそれを体感したい。東大寺大仏の建立は時の天皇である聖武天皇は病弱であった、自らの病気平癒を願うこともあっただろう。実際は権力闘争が裏にあって様々な憶測が語られる。そして歴然として存在した民衆の苦しみ、いつの時代も権力を持つ一部の人達には分からない。行基という僧侶は定住をせず、主に近畿地方で様々な社会事業を行っている。貧民救済・治水・架橋など数限りなし。民衆を煽動するという理由から弾圧も受けている。(僧尼令違反)
 行基の凄さは一貫して民衆の側に立って活動したということである。
 745年(天平17年)行基は朝廷より日本最初の大僧正の位を贈られた。それから1265年が経ち、宗教界も様変わり、位階(僧侶)は各々の宗派によって贈られている。
 東大寺にホスピスを置くことに大いなる価値を感じた。それもお年寄りので無しに子供の病院だという。年齢に関係なく不治の病に苦しむ人達が何かに救いを求めている。私が20代の頃、イギリスの病院(クインメアリーホスピタル)で研修した事があった。その時の記憶は決して薄れていない。1000名以上の定員がある当時としては大病院、妹尾先生の紹介状を持ってたった一人で病院を訪れた時、廊下で神父さんとすれ違った。その時の衝撃はその後の私の生き方に大きく影響している。何故病院に神父さんの部屋があるの?もし日本の病院で坊さんが衣姿で自分の部屋で待機でもしていたら縁起でもないと一喝されないか!
 今でも入院されている方の見舞いには仏滅を避けたり、根のある花は持っていかないなどの習慣がある。略衣とは言っても一目で坊さんと言われる格好で見舞いに行ける状況に今もない。
 数は少ないがその後お寺で診療所や病院を行うところがでてきたという。末期の患者さんに対して宗教の関わる分野が特に少ないのは日本の特徴かもしれない。
 身近に感じる自分の死に対し、恐れと不安を持つ人達の傍にいて一緒に対峙する事が宗教家の大きな役目では無かったか!
 貴方はこんな事をやりませんでしたかとか先祖供養を蔑ろにしてきませんでしたかなどなど。病気で苦しむ相手に余計不安を煽るような振る舞いが無かったか。
 今の政治や行政への不満をいくら声を張り上げても何も変わらない。できない理由を矢継ぎ早に言われるのが落ちだ。
この辺で自らの足元に目を置くべきなのかもしれない。寺の役割???病気で苦しむ人達へ手を差し伸べる、もしかして今の教団が屋上屋を架すとは思ってはいないと信じたい。
 

1456:共感

他人の体験する感情や心的状態を自分も全く同じように感じたり理解することが果たしてできるものでしょうか?ある小学生の書いた作文にこんなものがありました。9歳の時に44歳の若さで突然死した父親をその悲しみがまだ癒えない11歳の時に書いたものです。
「・・・・お父さんが死んだのは僕が悪いことをしたからなのですか?・・・・・私がいま一番怖いのは大好きなお母さんがこの世から居なくなることです。・・・・・」と作文に書いた。私は友部インターあたりを運転中にラジオで聴いた。
前項(No:1455)で紹介した子供のホスピスだって大変な事業である。正直誰もが出来るというものではない。老若男女、自らの死を意識した時、人間の示す行動は一様ではない。如何に信仰心が強い人でも自分の死に対し全く不安が無いとは言えまい。自分は覚悟しても後に残していく家族や友を思えば・・・・・。そう考え夜も眠れない日々を送る方が多い。
 どのような慰めの言葉も本人にとっては心に響くものとはなりにくい。それじゃー何が出来るか?傍にいてあげる事しかできない。
共感することは多分難しいと思うのだ。
 心のバランスを保つことが如何に難しいことか。結局は本人自らが諦めることしかない。ありのままに受け入れる。痛みや苦しみを取り除く緩和ケアーは薬物による一時的なもの、当然、その副作用が別の形で表れる。
 ”悟る”という言葉にはとてつもない重みがある。”諭す”という言葉には後ろめたさを感じる。結局、本人自身が自ら答えを見つけることしかない。その時間が長いか短いかは関係ないと思う。如何に正面から立ち向かったか・・・・それは病を知った時からではなくそれ以前からの生き様からだ。
 もしもそれが嘘に塗りつぶされたものであったとすれば気付いた時点でその人自身がどう自分に正直になれたかだろう。そして、残していくものに何を伝えていくか。これが終末期の人間の辿らねばならぬ道である。
 幸い私は多くの人から教えを受けた。その大半の人達がこの世にはもういない。断片的ではあるが記憶を辿るとその方から言われた言葉が浮かぶ。否、言葉というよりも生き方そのものが浮かんでくる。
 いま直ぐに正確には思い出せないが、突然前触れ無く、私の前に現れる。そして迷う私を導いてくれたりする。最近それを強く感じる。
 人間がこの世で為せる業は微々たるものである。如何に大風呂敷を広げ大言壮語しても誰も認めてくれないだろう。後々、解ってもらえるのが関の山だ。しかし、自暴自棄になり、世を儚み周囲の人びとにその鬱憤をぶちまけることはしないほうが良い。見苦しいというよりも折角頑張ってやってきた事が無駄となる。
 事業仕分け第2弾が開始した。今回は仕分け側が自棄に大人しく紳士的だと批判されている。メデアの評価はそんなもの、面白おかしく取り上げる材料を探している。国民は事の真相を冷静にみている。どうせ出来ないだろうからと半分諦めている。しかし、関心は高い。今まで秘密裏にあった事の実態が見えてくるから。知れば知るほど腹がたつ。この仕組みは長年の積み上げで出来上がった牙城。本丸に辿りつくには相当な労力が必要だ。これを変える方法があるとすれば、名古屋の河村市長の奮闘劇があげられる。彼は税金を安くするために何をどうするかという緻密な計画を持っている。議員定数を半減する提案で反対する側は現職の議員、これは政党に無関係、全議員と敵対する。味方は名古屋市民で敵は市民が選んだ議員。この齟齬があるから議会運営をより複雑にしている。国会も全く同じ。有権者が選んだ議員の活動に不満があるとすれば、有権者が行動(投票行為)で示す以外に選択肢はないはずだ。政党内の自浄作用など期待するのがチャンチャラおかしい。これが民主主義だと言えば全くその通りだから仕様が無い。

1457:普段着

2日まで本山に行ってきますので、暫くお休みさせていただきます。
 長谷寺は奈良県桜井市のはずれにありますから土浦から行くと5駅で乗り換えてやっと着く、決して交通便が良いとは言えません。多分、連休で平城京遷都1300年の記念年とはいっても奈良市内に比べれば人混みも然程ではないかもしれません。奈良県内のホテルはこの時期全て満室だということで全国から多くの観光客が押し寄せているものと思います。
 正直、気持ちが高ぶっています。法話と言われても一体何を話せば良いのか?多分、話す直前まで迷うことでしょう。別に相手は私がどこのダレベーか分からないわけですから、気楽と言えば気楽なんですがね。
 昨日は教区布教師会の会計監査を受けました。早いもので4年間の任期で後1年を残すのみとなりました。丁度60歳を迎える年ですから、表舞台からは少しずつ身を引こうと思います。いつまでも調子にのってという声も聞こえてくるでしょうからね。
 寺の方も徐々に、施設の方もそれなりに、その他モロモロ整理しないといけないと思っているのです。そして再スタート、エコドライブと洒落込むか!
現実は甘いと解っています。そんな思い通りに事が進まない事は重々承知のすけ。でも、今の状況でエンジン全開では体が持たない。周囲の状況を見て痛感している処です。
 どうなんでしょうね。座に居座り続ける事は。引き際を間違うと偉い迷惑をかけますからね。
 大義名分とは行動を起こすときの根拠です。人として守るべき節義と分限であります。そして、その判断は自らが行う。当然責任が付いて回りますからね。多くの国民の支持を得ているという判断の根拠でありますが、周囲にゴマスリばかり引きつれておれば情報は偏りますわな。自分の意に合わない者は遠ざける。これが宰相の取るべき道でありましょうか? それから人が良いということも時と場合によっては問題が大きい。優柔不断と同体ですからね。この二人三脚の構造を変える勇気が無いのでしょうか?冷静に見てですよ。
 今の日本でこの人でなければ改革が出来ないという事は有り得ない。このトラウマが足枷になっていませんか。
 昨日久しぶりに筑波大の中田先生からメールが入りました。また、アフガニスタンからの研修を受け入れて欲しいというものでした。二つ返事で引き受けました。アフガニスタンの特別支援教育の指導を何度も現地に行って行っています。
 この連休明けにアフガンにまた行くとのこと。JICA関連の海外プロジェクトのリーダーです。私が奈良に行くのとアフガンでは大分違います。命がけで取り組んでいる人達がこの日本には沢山います。多分、国に対して言いたい事は山ほど有ると思うのですが、直向きに自らの信じる事をやっておられる。頭が下がります。
 嘗ての日本には自国の事だけでは無く世界を見据えて国の形を真剣に考えていた人が多くいた。いま、その大義が自らの政党が選挙で議員数を増やす事ばかりに血眼になっている。どんどん海外から日本は無視されるのではないでしょうか?
 生命の危機があるような最前線の仕事はアウトソーシング、政治家や官僚が良いとこどりが多すぎます。
 障害者問題も全く同じ思考パターン、自らの利になることを大声で訴える人達、そうじゃーねーだろうと本心では思っていても声を出さず、様子を伺っている。
 普段着という事の価値をもう一度見直しませんか?着飾った者同士がいくら議論を重ねても所詮、借り物でしかありません。
 

1458:牡丹まつり

遍路
牡丹

長谷寺
真言宗豊山派の総本山長谷寺(奈良県桜井市):5月の連休は丁度ボタンの花が見ごろで、多くの観光客が訪れます。私は今回、牡丹期の布教を頼まれ観音堂脇の御影堂において2日間布教を担当しました。初めての経験でした。
 全く勝手が分からず、初めての人の前で話す事の難しさを痛感、自分の至らなさを感じました。1日に30分法話を10分の休憩を間に置きずっと続ける。3人の布教師により行ったのでしたが私は合計で8回話すことになりました。
 正直、大変疲れました。
 左の写真は長谷寺名物の登廊山門から本堂まで399段の石段を登る人達です。私はここを何度も往復し、息切れしました。中央の花が牡丹(150種・7000株)です。今年は気温が低かった日が多かったためでしょうかいつもでしたら咲き終わってしまった牡丹が見事にこの時期に咲いていました。そして右の写真が五重塔、新緑に映える見事な姿です。
 今、終わって見て充実感を感じてきました。不思議ですね。
 今年は平城遷都1300年、奈良市を中心にイベントが多く開催され、人&人で大混雑でした。
 役目が終わってから昔の仲間と落ち合い、奈良周辺を見て回りました。これも良かった。天気に恵まれ、大満足でした。
 そこで写したスナップ2枚を紹介しましょう。
朱雀門
イベント:当時の衣装をまとった兵士へ一斉にカメラを向けました。

時代観
奈良は京都に比べ自然が多く残っている街です。
でも私は違和感を感じたのです。よーく見て下さい。復元なった建
物に鳳凰がありますね、その右手、鳳凰???
なんとボーリング場のピンでした。
 自由と歴史。文化と規制。
この不思議さを備え、日本が今に至ったということでしょうか。

 710年に都が平城京に移されました。歴史が好きな人達には堪りません。登場する人物の想いは果たして現代に生きる私達に理解できるでしょうか。長谷寺は724年(神亀元)聖武天皇の聖勅により建立されたものです。丁度、平城京に都が移された時期と同じであります。
*物見遊山で訪れる人達の中に一心に仏様に手を併せている人を見ました。その姿はとても神々しいものでした。
 もしも私達に自分でなんでもできるという”奢り”があったとしたら、・・・・・。
 いろいろな事が頭によぎって参りました。

1459:思いつくまま

私は本山(長谷寺)に行くといつも昭和寮(歓喜院)に宿をとります。本山が用意してくれた宿坊で山門をくぐって直ぐ左手にあります。今回こんな経験をしました。2晩とも夢を見たのです。最初の夜は窓を開けろと誰かが窓越しに怒鳴っているのです、何故?誰?分からないのです。そして2晩目は夜中に鈴(五鈷鈴)の音がしたのです。
 どちらもハッキリと覚えているのです。何しろ12畳程の和室の真ん中に一人で寝ていましたので・・・・
全く車の音もせず静まり返った夜でした。
 近頃、自宅では殆ど夢など見ません。それが一体どうしたのでしょう?観音様の霊験だったのでしょう。
 私が本山に初めて登ったのが今から38年前でした。若かったね22歳ですから。泊った場所も全く同じ、でもその時は山籠(さんろう)と言って1カ月の特別研修の時でした。正直、その当時は取りあえず坊さんの最低限の資格だけとっておこうという不純な動機でした。あの時、3〜4名の研修生の中に70歳を超えた方がおりました。その方は毎朝、誰よりも早く起きて登廊の一番上から掃除をやっていました。もうその方も大分前に亡くなったものと思います。
 その方にこのように言われました。「貴方はまだ若い。本当に坊さんになるんだったらこの参籠だけじゃー駄目だ。大正大学に入り直して1からやりなさい・・」と。いま思えばその方も観音様?
 それから38年が経ちました。今回は、本山にて説法をするために登ったのでした。そして初日目から鉄槌を食わされました。一番前に座っていた若い女性の方が私の話が半分も終わらないうちに、席をたって御影堂から出て行ってしまいました。どうして?失礼な!と一瞬思ったのです。
 これだって今思えば誰かが形を変えて私の前に現れたのだと思います。
 俄か勉強した長谷寺の歴史を話始めたものですから、簡単に見破られたわけです。正直焦りました。
 初座が終わり落ち込んでいると、また、こんな事が浮かんだのです。「お前が一番自信があることを話せばいいだろう!」という天の声です。
 そして、今まで自分が尚恵学園で感動した経験を話すことにしました。すると気のせいか皆さんが真剣に聞いてくれるのです。誰も席から立とうとしません。御影堂の外で立ち聞きする方も出る始末。
 後の7回の話は全てそのようにしました。
人間は一生の間にできる事は限られている。長生きしたから良いとか短命であったから悪いという物差しはなんの役にも立ちません。自分が全力を投入して生きてきたか否か。これだと思っています。
 まさに今回の3日間の本山での経験は、その事を思い知らされたわけです。順調な時は、恰も自分の力で成し得た事と奢り、逆風の時は自らの非は棚に上げて周りが悪いと思ってしまう。こんな自分勝手な生き方を人間は気が付かずに普段行っている。その事を指摘してくれる人が傍にいれば鬱陶しく退ける。
 2晩とも見た夢は、当にその事を私に気付かせてくれたものと思う。
ついでにお話しいたします。3人の坊さんで交代の法話。私以外の2人の坊さんは見事に頭を剃っています。私はそうじゃない。これはマズイな。そう思い。風呂場で持ってきた剃刀で頭を剃ろうと挑戦。途中で気が付いた。今の剃刀は3枚刃、伸びた毛は滑ってそれない。耳の周りだけ剃れたのが逆に可笑しなものに。しまった!
 どうしよう?その時閃いた、そうだ研修生にバリカンを借りよう。早速、法類で研修所に来ているHさんに頼む。持っていた。5厘で刈った後は3枚刃の剃刀で綺麗に剃れた。
 虎狩りの頭で法話することだけは寸での処で避けられた。生臭のナマグサの所以がここにある。

1460:言葉の重み

”認識が甘かった”という釈明を頻繁に聞いている。今の政治に”言葉の重み”を全く感じない。然程昔に遡らなくとも、自ら公言約束したことが如何なる理由を付けようと果たせなかった時は、責任有る立場の人は切腹あるいは禄高を減らされ辺地に流された。
 ここで培われた武士道が日本人の世界に誇れる唯一の精神風土であった。鳩山さんが沖縄に行った。実に妙なのは、「秘策」があると盛んに言いふらしていた割には全く秘策では無かった。既に巷に流れていた代替案を説明しただけでした。もう5月ですよ。
 沖縄の人達の長年の苦しみをいとも簡単に踏みにじった。米軍基地の県外移転を公約にのせ選挙に臨んだのはどの政党でしたかね。”抑止力”云々の昨日の説明も今更なんだという話でしょう。貴方が認識が甘かったと言えばそれで済む話ですかと言いたい!
 私は新政権に期待がありました。旧態依然とした長期自民党の残した膿をいくらかでも吐き出してくれると思った。
 それがどうでしょうか?唯一国民受けする”事業仕分け”これだって2番煎じは通じない。最初は闇のカラクリの実態が見えたという評価がありました。しかし、実効性ある結果が不明だった。今回も有権者はそれ程期待は持っていない。だってそうでしょうが、省庁間の遣り取りだって同じ党内からでた大臣相手ではないですか、表の動きと裏の動きがあるはずだ。それがチラチラ毀れ見えてしまう。それと一番厄介なのは絶大な権力を有する人の一声、彼の関心は選挙最優先があるだけ、この国の将来を本気になって考えているとは到底思えないのです。
 民主党の若手の議員に言いたい。貴方達は何を恐れて口を閉ざしているのですか?少なくとも貴方達に期待し票を投じた人達へ応える責任があるはずだ。それが全く見えてこない。
 天下りを廃止すると言った貴方達が、いま、現に行っている幹事長室一極集中の有り様、これは天下り以上の大きな問題ですよ。一方ではメデアを駆使し派手派手の目立った動き、方や旧政権以上の密室政治を行っていませんか?
 この明と暗の実態が混在している。
 参議院選挙用にまたもやマニフェストを作成しているとか、先の公約の見直し or 上塗り???正直、できないことを幾ら掲げても有権者の心は動かない。貴方がたの最後の名誉挽回のチャンスは何だと思いますか?
 それは鳩山&小沢体制で選挙に臨むことでしかない。
結果、有権者がどう判断するか。ここから先は国民の責任だ。
 孫子の代まで借金を残すことを選択するのであれば仕方が無い。最近のユーロー圏でギリシャやスペインの例があるでしょう。
過去の日本の取ってきた対外支援はNGOなどでお金で解決してきた部分が大きい。果たして同じ事がいつまでできるのでしょうか?
 そして、万が一、日本がギリシャのように経済破綻した時に果たしてこの日本に援助をしてくれる国があるのでしょうか?
 特定の人びとが利権で膨れ上がり富を独り占めしているような国に。
 外交の問題が一筋縄ではいかないことは誰にだって予測できることでした、今の状況を考えると由々しき事態だ。
 国のトップに立つ者は少なくとも決断力が資質の第1条件、鳩山さん貴方は言い訳が多すぎますよ。言葉の重みを感じない。何故でしょうね。それは貴方自身が気づいていてしかも実行に移さないことですよ。
そして、影の動きが非常に目ざわり。国民の8割がNOを突き付けているのに、まだこの状態を続けるつもりですか?
 基地移転の問題を5月に公言した通りにできなかった時、どう貴方がたは行動に移しますか?お互いの非を中傷しあうのでしょうか?
 たった一つの残された選択肢。首を据え変えるなどと言った小手先の対応では駄目です。
 鳩山&小沢の2人体制で衆参同時選挙を決断することしかないでしょう。
 財政・外交・防衛・・・・この3本で国民に是非を問うべきなんですよ。
基本的な政策は棚上げし、枝葉の案件に時間を割いている場合じゃないでしょう。
 少なくとも今の日本を築いてきた多くの国民は真偽を見抜く力はありますよ。何も一部の政治家や官僚が今の日本を築いてきたとは誰ひとり思っていません。寧ろ甘い蜜をすってきた輩だと思っています。私はそう思っている。
 

1461:情報の真偽

どうもメデイアから攻撃を受けている人からは、情報操作とか意図的な報道とメデイアに対する批難が起こる。確かに話題性とか真偽を確かめる先に踏み込み過ぎた報道が有る事も否定できない。
 今回の鳩山さんの沖縄訪問で、以前よりご本人が言われていた「腹案」があるということに多少なりとも関心があった。それが既にリークされ、なんら新鮮味を感じなかった。
 鳩山さんのガードの甘さは、彼の人の良さを頼りなさに増幅させてしまう。やればやる程周囲の反感を呼ぶ。実に困った状況がずーと続いてきた。あれはいつ頃だったのか、奥様がパタリと姿を見せなくなった。誰かが忠告したのかもしれない。
 清濁併せ呑むとは、政治の世界で良く言われることで本来の意味は分け隔てすることなく受け入れる度量の大きさを言うものである。それが今の政権は一人の政治家というよりも首相と幹事長の二人三脚?で清濁・明暗の役割分担が成されているようにみて取れる。強面の幹事長が悪を演じ、お育ちの良い首相が善を演じた。しかし、一国のトップたる立場にある人においては、これは通じない。そんな事今更勉強しなくとも最初から分かっていたはず。
 制度の善し悪しだけの問題ではない。大統領制をとる韓国や米国のトップは足腰の強さを感じる。有権者が直接選んだ人だからその負託にこたえるという責任と強固な意思を感じる。
 その点、日本の首相は直接選ばれた人がなるわけではない。国民と首相との間に常に溝がある。
 それから情報の真偽について、多少は偏りがありオーバーな報道があるかもしれない。しかし、その事で国民が誤った理解をするという事は余計な心配だ。寧ろ我々としては確認するために情報を利用する。そこを誤解している政治家が多い。国民をバカにしなさんな。
 沖縄の民意という問題がクローズアップされた。米軍基地存続の賛否を取れば必ず幾つかの意見に分かれるもので、一面だけで決めつけるのは少々無理がある。

 たった今、学園より電話、田んぼに賽銭箱が捨てられているから寺のものかどうか見てほしいという。急いで行くと警察が来ていた。通報したのがGHのSさん。彼は良く気が付く。それはかなり古いもので一人では運べそうもない。結局近くの神社の賽銭箱だと分かった。誰がここまで運んできて捨てたか?信仰心など無関係で世知辛い世の中になったものだ。
 神宮寺の賽銭箱は大丈夫か?本堂に行ってみたらあった。そこに信義さんが近寄ってきて、盛んに自分の頭をなでる。私は本山に行って頭を剃ったから親近感を示す。彼もまた周りを良く見ている一人だ。
 話が纏まらない。・・がしかし、人は良くみているものだという事を言いたいのである。
 メデイアの情報にクレームをつける輩に言いたい。
「火の無いところに煙はたたぬ」という事だわな。

1462:信用不安

ニューヨーク市場でのダウ平均1000ポイントの下落は過去最大、ギリシャで今起こっている経済破綻が何故このように世界の株価暴落に結び付くのか? これは従来の欧米主導による金融システムの解体・崩壊へ向かうのか?
 BRICSと言われる新興国の経済発展が桁違いに進んでいるというニュースと同時に今、中国の不動産値の暴落が急速に進んでいる。そして、至る処で暴動が勃発、この事態を我々は傍観しているだけでよいのだろうか?
 日本に目を向ければ以前として経済不況からの脱出に確信がもてない。普天間問題を事の発端として政治への不安が拡大している。
 目の前の対策では駄目で先を予測した根本的な対応策が今政治に望まれる。それがどうも首を傾げてしまうのは、世界の動向に疎い人達が重要ポストにいて理想論を掲げるが、大半の国民はその事を本心から信用していないという構造が出来上がってしまった。ならばそれに代わる政権?どうも野党だってお手並み拝見というスタンスで休眠状態、政権を奪い取るという地下マグマの爆発的勢いは全く感じない。このような時期だからこそ冷静に事の真相を読むことも必要だが、それすら感じない。政治に関わる人達の当事者意識の欠如が蔓延している。
 ギリシャの実態を他山の石以て玉を攻(おさ)むべしである。今の状況になんらかの対応をしなければ日本国債の信用不安が高まり、暴落する。膨大な財政赤字に対する政治の責任、この改革の先頭に立つべき首相の為体はもはや限界に達していないのだろうか?
 自分の周りを見て感じることがある。宗教に関する見方が確実に変わったこと。日本人の死生観が変わった。
 先祖を敬うという気持ちが薄れている。その表れとして葬儀の形が変わった。この理由はちょと複雑で一因だけ取り上げることはできない。少子化や高齢化も一つの原因、それと葬祭業主動の作られるセレモニー、地域の互助活動の衰退、そして一番大きな理由が宗教者への信頼の欠如。
 奈良で感じたことがある。それは1300年以上も前に行われていた遣唐使、当時の船の復元されたものをみて、よくもこのよな小さな船で大陸に向かったのかという驚きである。吉備真備が717年に初めて唐に向かったのが23歳の時だった。17年、唐に滞在し、制度を学んだ。そして2回目はなんと57歳の時。死を覚悟して事を成し遂げる人達の思いはどう表現したらよいのか分からない。政治生命を賭して事にあたると言ったのは誰だったでしょうか?
 言い訳が多過ぎて何を信じて良いのか分からない。これが信用不安の根源にある。
 私は還暦という節目を大切に思っている。諦めるという事では無く、自分自身の立つ位置を確かめながらゆっくり歩を進めたい。余りにも多くの事を引き受けてしまった反省として、自分が何をしたいのかという事を真剣に模索したいのだ。
 いま計画を密かに練っていることがある。手始めにやりたい事は四国を歩くこと。編み傘と金剛杖で。
 何かを得たいが為ではない。過去の自分を思い起こす為である。
 ”何をもって自立というか”この明確な答えを持たないままにこの先福祉の仕事を続ける事への疑問。
 知的に障害を持つ人達の本当の願いがぼやけてしまった。多様な価値観が湯水の如く溢れる社会、その中で遠慮しながら片隅で生きている人達。
 これを伺い知る時間は、あるようで無い。その事に専念したいと思っている。
 

1463:安心

孜々として日夜生業を営むといえども、悲しいかな、・・・いまだ生死の一大事を覚らず。
これは真言安心章(しんごんあんじんしょう)の中の一文である。要は、自分がこれだけ家族の為に一生懸命働き頑張ってきたというのに何故このような病気に罹ってしまったのか?と。人生の苦悩から脱することができず、誰にその不満を訴えて良いのかも分からず、自暴自棄になってしまう。
 私は僧侶として自分の力不足を痛感しています。何故励ましの言葉がかけられない。相手の苦しみを取り除く教えが言えないのか!自らの非力を嘆いても仕様が無い。何も変わらない。
 安心章の中にこのように書かれている。
「心・佛・衆生、三平等の観に住して、凡聖不二の深旨を信ずるをもって安心の宗要とす。」その誓いをもって、三密の妙行を修することだと。三密とは身・口・意である。
 つまりこのように言っている。本来我々は菩提心をもっているのに、普段は気が付かない。不自由を感じた時に慌てるもので、その白浄の悟りを求めようとする思いを感じ、やっていること(身)言っていること(口)思っていること(意)を一致させていく。それが唯一、人生の苦悩から脱皮できる生き方だと教える。
 言うは易い。しかし、そうせざるを得ない多くの人びとが現実に存在する。
 日本人がどうしてこのようになってしまったのかと嘆く声を聞く。それは不自由を感じない社会を築こうとみんなで頑張った結果である。なんと皮肉な運命なのか。人の手を借りずとも簡単に希望が適える時代、そして更に利便性を追い求める。この結果、生死の一大事に自ら納得できる答えが見出せない状況を招く事を知らない。
 辞世の句、この世に別れを告げる言葉。愛する家族、仲間と別れる事は辛い。自らが過去に体験したことがない”自らの死”への恐怖。これは結局、自らのパイの中で答えを見出すことである。
 死後の世界をどう考えようとも第三者が採点を付けることはできない。
 何を残し、何を伝えたいのか!これは残された時間の長短ではない。思いの強さである。
 私が還暦という節目を斯様に思い至った理由は敢えて言わない。
ただ、現実に私の周辺には不自由を感じながらも生きている多くの人がいる。その仲間達の願いをどうすれば適えていけるのか?
 ここ二日間私は作業服に着替え、2台の草刈り機を持って汗を流す。本当に久しぶりだ。すると仲間たちが周りに集まってくる。
 ネクタイしめて無為に時間を過ごす会合に何度出席したことか!本来、私がやりたかった事はそんな事ではない。
煽てられ良い気になっていつまでそうしているのか!
 実は、本山に登り、観音菩薩の足に触れた時、稲妻が走った。なんと劇的な瞬間であったことか!
 

1464:草取り療法

佛作佛業(ぶっさぶつごう)という言い回しがあります。要はこの世の全てが仏の為せるわざという事でしょうか。ふんふん分かったようで分からない。うんじゃーね。キリスト教を信じている人にはどうなんだい?その時は全てがキリストのなせる業なんだよな。そうです。そう信じなさいということ。
 苦境に陥った時に、これも仏の成せるワザと考えると不思議と光明を感じませんか。そうか、仏様が私に試練を課してくれている。そう考えると自棄のヤンパチにならずとも済む。
 試練というものには量の大小や軽重の基準がはたらかない。その人にとってどうなのかという事で同様の事が別の人にとっては楽しみと感じる場合も有りうる。つまり絶対ではないということ。
 この時期私の楽しみの一つに草取りがありますから、その事に関して一言。
 何らかの道具(鎌や草刈り機)を使っての草刈りと手での草取りとでは違います。私は手で取るのが良いと思っている。例えば杉苔の中に出てきた雑草を抜く時は、細心の注意を要する。苔まで一緒に抜いてしまうからだ。芝生の中の草は、かなり指の力が必要だ。芝の根っ子に絡んで抜けないからだ。
 長い時間の作業だと腰が痛くなり最後には、這いつくばってやるようになる。目を地面に近づけ、草とのニラメッコは自分で言うのも変だが絵になるもんです。
 草にも小さな花がある。そして蟻や虫が集まる。抜いてしまうのは申し訳ないという思いと自然の再生力というものは凄い。抜いても抜いても芽をだす。
 人間が頭の毛を刈るのと同じだ。でも私みたいに毛の絶対数が減ったものは再生しない。それは風前の灯・運命だ。
 草を見ているといろいろな事がわかる。威勢の良い草は一気に仲間を増やす。成長も早いからあっという間に他の草を圧倒し我が物顔。そんな時、ワザと隠れてしまった草を助けたくなる。
 自然界で繰り広げられる事が人間社会にそのまま当て嵌まる。名も知らない草の小さな花に目が止まる。参った参った頑張ってますね。
 世の中がとても薄っぺらになったと思う。上辺だけの事が多過ぎる。言うだけ言って後は知らない。尻をまくって退散か。某小学校での奉仕作業の話。子供たちの通学道路を清掃する父兄に様々な意見。我が子が通らない道の掃除に不満を言う父兄がおると言う。馬鹿かお前!と私がその場にいたら言っただろう。斯様な事が至る所に起こるようになった。
 権利を主張し、我が義務を果たさず。何を持って義務とするか、それすら弁えない者が多過ぎる。そして言う事がすばらしい。口から先に生まれた者がウジャウジャ。息苦しく住み辛い。
 障害者との付き合いが長くなり、余りにも多くの事を経験した。親子という関係に私の許容範囲を超えてしまった事も多い。我が子の年金を目当てに様々な理由を付けむしり取ろうとする親。かと思えば家族全員で助け合って共に生活をしている人。この格差はどうしようもない。これも佛作佛業。仏は差別することなく普く、万事安穏を垂れたもう。
 草と対比させてはどうかと思うが、我が子の年金を食いつぶす親に気付きがないという事だろう。何のための年金か!
これすら理解できない生活の苦が根にあるとすれば、それはもう国の体がなっていないという事だろう。
 勢い或る者だけが市中を闊歩するような社会は不自然だ。名も無い草が時が来れば花を咲かせそして枯れた後に自らの体を栄養にし、翌年また芽を出す。
 この価値が見出せない社会は、いずれ早い時期に内部から崩壊する。これを草取り療法と名付け給う。

1465:目標チェック

自らの反省として、目標を見失った時にどう軌道修正するかという事は重要だが実に難しい。簡単な目標チェックとして季節の変わり目での衣替え、ズボンがきつくなった事は分かり易い。最近急激に日中の気温が上昇し、夏服を早めに取りだし着始めた。今年は多少太ったようだ。多分、体重は然程変化は無いと思うのだが胴周りは確かにキツイ。
 年と共に筋肉が落ち、贅肉が増えたということだ。これは食事をした後、直ぐに分かる。
 勿体ない病で私は大分前からの服を洗濯して取ってある。それが殆ど着られない。いつかまた痩せた時に着ようと思うのだが、多分、私の年齢で痩せる時はあまり体調が良い時ではない位の想像がつく。
 太ってしまったと言う事は逆に健康なのか?メタボ騒ぎも一時期から見れば大分おさまっているのだが、私の胴周りは85〜88センチ、身長が169センチだから多少太目というぐらい。世の中には異常に腹部肥満の方がいるから、そんな人に皮肉めいて忠告するが、ご本人は全く気にしていない。取りあえず体重の目標値を1年で3キロの上下に置いている。
 昨日、本当に久しぶりに映画を観た。アリスのなんとかという映画、今噂の3Dメガネをかけて観る。確かに驚いた。画面から飛び出してくるものを反射的に避けたりする。メガネを外すと画面がぼやけている。どんな理屈で立体的に見えるのか、メガネがずり落ちてちょっと気になったが、これはもしかして病みつきになるかもしれない。
 土浦にオープンした郊外の大型ショッピングセンターにある映画館、なんと9館ある。夜の8時過ぎに映画が終わり、店の中を散策、外国の人達が多いのに驚いた。香港かホノルルにいるような錯覚、これも3D効果なのだろうか?
 人間は正直なものだ。多分、その時間帯土浦の旧市街通りはシャッターは全て下りて閑散としているにちがいない。
人が集まる心理は、目新しいものや華やかさに先ず引かれる。買い物する人は少なく、ウインドウショッピング。しかし、人がいなければ商売は成り立たない。
 巷では政治への失望が充満、後手後手の対応と言い訳が常態化してしまった。この国の将来に果たして光明を見出す事ができるのでしょうか?
 焦ることは無いと思う。何せ1億2千万を超す人々を抱えて今日までやってきたではないか!どこに焦点を当てるかにより評価は分かれる。
 ただ、信用できない人がトップに居続ける状況はよろしくない。何がなんでも公約を実行しろとは誰も思っていない。そんなこと分かっている。・・・・が、それに対する言い訳が全くピントはずれ。このほうが深刻だ。
 永田町の論理とかで、野党は今の小沢・鳩山体制で選挙に入って貰いたいらしい。国民は誰しもそうは思っていない。
政権への支持率はNOがなんと78%に達したという。末期状況を超えた数字だ。
それでも続けてほしいというのが本音だと。ふざけんじゃーねーよ。国民を愚弄するのもいい加減にしろだ。
 マズイ。また怒りのムシが目を覚ました。
 たった今、あるご夫婦から電話があった。土浦の姉妹都市がアメリカにある。親善交流大使として今回アメリカに行くと言う話をされた。なんの親善?尋ねるまでもなく、「カッポレ」だという。「??」  趣味でやっているカッポレの踊りで参加するという。来月に息子さんの3回忌の法事が寺である、その塔婆を頼まれるついでの話。
 いつまで悲しんでいる姿は黄泉に渡った息子さんも喜んではいない。ささやかな目標が人の気持ちを和らげる。 

1466:ワールドカップ

世界的なイベントが目白押し、上海万博も始り、人気を博しているようだ。そしてサッカーのワールドカップが南アフリカでもう直始まる。首都のヨハネスブルグは世界一治安が悪いという評判、私の認識とは全く違った。私は中高時代は地理が好きで良く世界地図を開いて見ていた。南アフリカは喜望峰があり遠洋航海の要所、それと金の産出量が多くアフリカでは近代化が進んだ裕福な国というイメージが強かった。何故、いま治安が悪くなったのだろうか?想像はつく、アバルトヘイト政策などによって貧富の格差が大きいからだろう。私は行ったことはない。いずれチャンスがあればアフリカを訪れてみたい。
 ワールドカップの日本選手団の発表が昨日あった。岡田監督の描くチームに上手く入れた選手、実績はあっても選考から漏れた選手、思いは複雑だ。世界のレベルにまだまだ日本は達していない。そこは野球との大きな違い。
 競技人口とファンの数が野球とは圧倒的に違うから比較するのもどうかと思う。
 さてと、昨日、茨城県の障害者スポーツ文化協会の理事会が県庁であった。私も末席を汚している。一年間の障害者に関する事業の総元締め、全国大会への派遣などを決める。昨年全国障害者スポーツ大会は新潟県で開催された。その時私も参加した。国体の後すぐに行う大会で地元の受け入れはどこの県にいっても好意的で素晴らしい。その時、茨城県のサッカーチームが関東地区予選で優勝し出場できた。見事初戦では札幌市に勝った。その時応援スタンドに選手の動きをチェックしている人達に気付いた。後で分かったことだが、ワールドカップの後開催される知的障害者のサッカーの日本代表を選ぶコーチの人達だった。茨城チームの前評判が良かったのかどうかしらないが何人かの選手の名前が囁かれていた。
 そして昨日の会議で茨城県から三名の日本代表選手が選ばれたと事務局から報告を受け、やっぱりそうだったのかと得心できた。
 親御さんも喜んでいるにちがいない、昨日、県庁に報告に来ると言う。多分、知事さんから激励の言葉を頂けるのだろう。選ばれた選手の中で一名を私はハッキリ覚えていた。彼は茨城選手団の旗手を務め、試合本番での動きは群を抜いていた。
 日本チームに選ばれた事を心身協のHPで紹介して欲しいという、即OKした。茨城県は鹿島アントラーズが抜群の知名度で県全体のサッカーレベルの底上げに貢献している。J2でも水戸ホーリックは我々のサッカーチームの練習にとても協力的だと伺った。
 障害者のイベントがややもすると関係者だけのものとなっている中で今回の偉業は我々に勇気を与えてくれるものとなった。
 テレビ中継はどうかと思うが、南アフリカでの障害者サッカーのVTRでも流してもらいたいものである。
障害者のスポーツは、常に二つの意見が出される。勝敗か参加かということ。私は両方だと考える。何度か全国大会の引率に参加したが、どうしてもメダル獲得の数が気になる。確かに本人は良く頑張ったにも拘わらず入賞できなかった方もいる。しかし、彼らも悔しい経験をバネに次は頑張るという気持ちに必ずなっている。そして、メダルを取れた仲間を心から喜んでいる。この独特のムードは障害者スポーツの真髄だ。自未得度先度他の心が満ち溢れている今時貴重な存在だ。

1467:二諦相依

二諦とは、世法と仏法を言う。基づくところは同じ(相依)というのだ。チョト小難しい話になりそうだ。否、分かり易く言うと世の中のしきたりというものは仏教で言う処の規範と何ら変わりは無いということだ。なんだそんな事。
 人間の常として分かっていることができないのではないでしょうか?と。 殆どの事が実は皆さんご承知なんですができないか分からない。それで悩む。悩み苦しみからの脱皮をお手伝いするのが宗教という事ですよね。
 我が真言宗は何をもって究竟の理想とするか?「即身成仏」(そくしんじょうぶつ)と「密厳国土」(みつごんこくど)です。
壮大な理想を掲げているのです。実はあらゆる宗教の理想とするものは大して変わらない。そこにどう導くかという事になれば様々な便法を用いるわけです。根本の教え(経典)や行が違うから多少の枝分かれが生じます。でも幹の部分は同じ。
 今日は別に自宗の教義を述べようというのではない。多分、今の私の能力では語り切れない。
ドーンとレベルを下げましょう。最近、私の信頼する人から「最近どうも迫力がないね。大人しくなったみたい。もっと怒れ!」という激励(?)の言葉を頂戴しました。実は意識的にシフトチェンジしようと思ってはいますが、所詮、同一人物簡単には変われない。まっその辺を熟知されているからでしょう、ちょこっとおちょくってやれという具合かも。
 今打っているパソコンの上に張り紙がしてあります。それには「内省」と「感謝」という二文字が書いてある。いつもそうです。なんで不平不満を飽きもせず書き連ねるのかと自問自答するのです。私流の手法ですね。だってそうでしょうが、どういうわけか私の周囲には多くの仲間たちがいる。彼らは「障がい」を持っています。上手く自分の気持ちを表せない。二諦相依と言われてもですよ、現実には多くの隔たりがあるでしょうよ。そこが納得できないのですよ。そこが。それだけの事。何も悪気があるわけでなく、他人を今の座から引きずり落とすなど全く思いません。
 昨日、こんな話がありました。職員が夕食後に利用者さんと外出するという。なんで?と尋ねると、買い物を約束したという。それもCDという。彼らの欲しいCDは昔のもの、いまそれが売っていない。中古ショップなどにあるかもしれないとのこと。
 これを一般の人はどう捉えるかという質問。はい、どうでしょうか?
 大半の方は、小遣いが少なくて新しいCDが買えないから中古で我慢と思うでしょう。×です。そうじゃーありません。彼らが喜ぶ曲(ex:歌うポンポコリン)が売っていない。それが中古ショップには良く探せば見つかるというのです。
 お金の節約ではなく、彼らが望む物なんですね。人間の価値観って千差万別ってことですよ。
 それから、仲間たちは時々外食するんです。今日は寿司を食べたい。そうか、うじゃー回転ずし。混んでる店と比較的暇そうな店。質問2、ハイどっちを選びますか?
 結論、混んでる店が正解。その理由は美味しいから。半分○で半分×。空いている店は皿だけがグルグル回っていて注文を受けてからにぎる。彼らはそれでは何を注文すれば良いのか分からない。だから混んでいても目で確かめられるほうが良いという。
 実はこれだって実際に体験した中で分かったことの一部です。障害者の福祉と簡単に言いますが一人一人違うのです。それを覚ったようにハイハイと言ってなんかいられません。言うべき事は言う。ここだけは譲れませんね。今後とも。 

1468:践み行う

宗教が変わるべき時代に突入!
 内省を込め、今感じていることを記します。実は昨日東京で施設団体の会議がありました。全国大会や地区大会の話題になり、茨城県は全国大会を開催していないという話になった。説明を求められ、宿泊者の収容能力が充分でないから開催できないと答えた。すると何人かから、その県の事情で開催すれば良い事で順番制にしたらどうかという話になった。過去の開催をみると、1500人〜2000人の参加者がある。それを水戸やつくばで実施するとなると無理だ。茨城県の特殊性というか、北関東3県でもホテルの数が少なく、集中していない。結局、結論は有耶無耶で切り抜けた。
 全国大会は毎年実施しなくても良いだろうという意見も出ている。確かに開催県はどれだけ参加者が集まるかに最大の関心が向く。予定に達しないと赤字になるからだ。本来、内容の是非が問われるべきなのだが、どうも外ずらの数字が重視されてしまった。
 宗教が変わる。もっと言えば寺が変わるということだ。いま3冊の本を交互に見比べながら計画を練っている。四国遍路である。時間の制約があるので一番効率的に廻るにはどこから始めるのが良いのか。全くこれも先の大会の関心事と同根だと気が付いた。何の為にという事がスッポリ抜け落ちている。
 大分前に私は88か所を車で廻った。その反省として、全く記憶が無いのである。どこの寺がどうだったという事が思い出せない。旅の期間出会った人や嬉しかった事がうっすらと思い起こせる位だ。
 88か所のお寺が全く趣を異にする。立派な伽藍があって如何にも裕福そうな寺、そうかと思うと小さなお堂の脇に納経所を構え住職が一人で対応している寺もあった。どうしてこんなに差があるのか良く分からない。ご朱印帳には同じ書くスペースがあってそれぞれの寺の本尊の種字と印が押される。値段も同じ300円だ。
 さて、ここで考えた。寺の役目って何?法事や葬儀を行うこと。お墓を守ること。種々の行事を行う事。・・・・等々思いつくままに挙げてみたが、これって昔からそうだったのだろうか?
 時代を大分遡ってみた。仏教の伝来があってその後の100年、いま奈良に行けばその辺の事情が分かり易く説明してくれる。奈良国立博物館の中を見て回るだけでも時間を忘れ、タイムスリップできる。仏教は元々、実践の教えだ。仏像や経典は後の時代にできたもの。いま我々が実際に目にできるものが、仏像や伽藍、それに膨大な量の経典の類。
 一生をかけてもほんの一部しか覗けない。33間堂の千体の観音菩薩、良く見ると作者が分かっている数は少ない。無名の仏師が彫ったものが多い。33間堂から京都駅に歩いていくと、見過ごしてしまうような小さな看板を見つけた。
仏師定朝の住んだ場所、その後の鎌倉時代に出た運慶や快慶も住んだという所だった。仏師が彫った仏像に魂を入れる。それが何百年という歳月を超えて今、多くの観光客の人気を博す。これも又仏教。
 ”践み行う”という事は、道徳や教えを口で言うのではなく実際に行うことである。実践が伴わない事は、美辞麗句を並べれば並べるほど虚しさのみが残る。
 どうも世の中全般が、その方向に進んでいるように思えて仕様がない。知識ばかりが重要視され、実行がなされない。
理想論が現実と乖離すれば、それはそれで大きな罪である。
 

1469:自損事故

保険で自損事故は保険金がおりましたかね?
 元民主党議員の方が今の状況は党内での自損事故だと言った。政治とカネの問題、それから選挙公約の実行度、更にはトップの言行不一致などなど。何もせずとも自分たちで支持率を落としている。最悪な事は党内でダンマリ病が蔓延し、院内感染状態。下手に風通し(報道向け)をよくするから防疫体制が整わず、パニック状況を呈している。鳩山言語録をよくもマスコミは保存していたものだ。野党時代にあれだけ自民党を批判してきた彼が当にそのまま自分に跳ね返る。
彼の真意を深読みする気にもなれない。
 この日本の現状をより深刻にするものがある。それは野党すら今の執行部に残ってもらい選挙に突入すべきだと目論んでいる。全てが選挙に勝つことが主眼となってしまった。国民目線とかいくら後付けしても、その辺はとっくにお見通し。
 こうなると付ける薬がない。どこまで腐ってしまったのか、我々国民は嘆き悲しみ諦めの3大溜息。・・・・・。
何もここまで悲観しなくとも良いのでは?でもね、事業仕分け一つにしても果たしてどれだけ実行力がありますかね。
 タイで今現実に起こっていること、ギリシャ然り。
 政治に保険は効かない。いま或る意味では無法地帯(聖域)が永田町、不言実行ならまだしも、有言不実行が常態化。
相も変わらず国会の専門委員会では紙に書いたテレビ向けビラを掲げ、委員長席に集まって抗議、マスコミは滑って転んだ女性議員(?)をピンポイントでカメラに収める。政治家としての気骨を感じない。
 ああ・・・何もかもどこもかしこも・・・・・。
 多分、鳩山さんは人柄は良いのだろう。そして優しいお気持ちの持ち主だ。でも最大の欠陥は、突出したお育ちだ。彼の人生に危機感は無かったのではなかろうか?お金で困る事はなく、身の周りの雑用は全て誰かがやってくれた。だから彼は「ご苦労様」&「ありがとう」を言っていれば良かった。「本人は否定されますよきっとね」
 自分が頭を下げればどうにかなったお育ちは、国の舵取りを任されるリーダーとしてはそれが仇となる。彼の補佐役がこれまた正直何を狙っているのか不透明。このコンビは始めから水と油、多分これ以上続けばお互いがお互いを誹謗中傷する間柄に。
 こんな永田町劇場に付き合っている暇と余裕は今は無い。このウネリが果たして大きなものとなりうるか!
こう言っても私はこの国の将来に希望を持っている。それは無党派層の人達だ。彼らは今の政治に信頼が持てないからで、政治に無関心というのでは決してない。目の前にぶら下がったニンジンに飛びつくことをしない人達だ。彼らがcasting voteを握っている限り、大崩れはしないと信じている。なにせこの国は長いこと投票率50%に満たない中で勝った負けたの泥地合を演じてきた。国民の多くが望んでいるなどと大見得を切ったところで、その実態は2〜3割が関の山。
 それと言いたくなった事がもう一つ。条件が揃えば国会で説明しましょうと腹を決めたとかという話、あれ政治倫理審査会でのこと?あれって非公開で偽証罪も問えないんじゃ無かったですか?そうじゃ・・ないすっか?
 こんな説明ならハッキリ言ってやらん方が良い。これこそ国民を馬鹿にした選択だ。これを何故党内で言わんのか!
 限界だわな。貴方達に政権担当能力は無いと証明するようなものです。ハッキリ言ってそうとしか思えません。
これは決定的な自損事故になりますよ。日本という国が先の大戦の敗戦で犯した過ちを国民全体で清算せずここまで引きずってやってきたということだろう。
  論語(衛霊公)・・過ちを改めざる、これを過ちという。

1470:先人の教え

形の模倣から始まれば所詮、その域を出まい。それは何故か?分かり切った事で心は真似ることはできないからだ。見えないが故に節々にその人となりが見えてくる。
 理想と現実、このギャップを繋ぐものは方法論ではない。とうとう20%を割った現政権の支持率、もっと下がることは間違いない。さて誰にその後の舵取りを任せるかこれが全く見えてこない。この歯がゆさは政治家全ての責任でしょう。
 英国の2大政党制が揺らいだ。この形を範とする日本の将来像に暗雲が立ち込めている。形の模倣の薄っぺらさが現実味をおびてきた。いま参議院選挙を前にして各政党が公認候補を1本釣り。競馬の予想ではないが彼らは踊らされているのに気付かない。落選の後は虚しい事を知るべきだ。
 彼らにとって、今般の英国の動きが日本と偉く違う事をお気づきであろうか?
 この200年で最年少の首相となったキャメロン(保守党党首)は43歳、連立を組む自民党党首も同年齢だという。そして政権を担って来た労働党ブラウン党首(59)は首相の座を譲り渡し下野した。そのコメントが実に良い。「必要以上にこの職にとどまるつもりはない。家庭の良き夫に戻る・・・・云々」潔さとユーモアを感じる。
 そこには、変な憶測を呼ぶようなドロドロ感は微塵も感じない。これぞ紳士の国、イギリスだ。伝統と文化を感じます。
 一方、我が国に目を転じれば、同じ政党政治を目指す割には、全く違いますね。果たして40歳前後の政治家でキャメロンに匹敵する議員が何人いるか。この国をどうしたいのかという明確な政治理念を兼ね備え、且つ人望がある人間は。
 進退を潔くしない輩と自らの意見を発せない輩が多過ぎます。最悪な状況は一度落選し、苦渋を嘗めた人間がどうにかしてまた返り咲こうと画策する。自分の利になる事が最優先の腹の内が見え見えときた。これではどうなんでしょう!
 政党の体をなしていないばかりか、貴方はなんでどうして政治を志すのかが見えてこない。
 更に目先の事をコロコロ変え過ぎる。日本中が財源問題という超えなければならない壁の前で右往左往している。はっきり公約にする勇気が無い、意気地無さ。消費税を10%でも15%でもすると何故いえない。今の借金を作った責任は我々が背負うべきだ。言えない理由が便法に聞こえる虚しさよ。
)話は横道に。イタリアの首相が離婚した奥さんに毎月3600万円を慰謝料として支払うという、いつまで払うのでしょうか?鳩山さん、本当にお金が有る人の自己責任とはこんな事かもしれませんよ。言い訳なしで払うものは払う。これがトップのど根性。あの方名前なんて言ったっけかなー?
 福祉の業界にも問題あり。真剣に身を粉にして・・・この気概が薄れ、甘い話に群がる。喧嘩もできない同業者。みんなで渡れば怖くない。もっと頭にくるのは、木の上で様子を伺い、今がチャンスと思えば飛んできてエサを盗み取りするハゲタカ人種。
 この土壌で良き若者が果たして育つのでありましょうか?私もこの業界に入り、もうじき40年、長過ぎたという想いは常にある。しかし、今更他にやりたい事も見当たらず、裸一貫になって人生をリセットすること位か!そうでないと黄泉の国に渡れまじ。
 気が付けば自分自身が老害の年齢に、引き際を間違いないようにしないとな。先人の教えが範を示してくれている、その事がせめてもの救いである。