源究34

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
371 公開講演会 6/21 376 やったー! 7/5
372 利便 6/25 377 オセロ 7/6
373 歩く 6/29 378 ふくろう 7/9
374 祖国 7/2 379 施餓鬼準備 7/11
375 全国一 7/3 380 大量注文 7/13

371:公開講演会

三宗四派のご詠歌
つくば国際会議場において大正大学公開講演会が6月20日に約450名の参加をみて盛況の中で開催されました。私は大正大学のOBです。今回の同窓会茨城支部の主催の企画で事務局長という大役を仰せ付かり今無事終えてほっとしています。今回の企画はご承知の通り大正大学は仏教系の大学で創立は日本でも古い大学の中に数えれている。実は私の親父もここを卒業し私の倅も今年卒業したので親子3代に渡る卒業生ということになりました。少子化の現在、いずれの私学も学生募集で苦労している。今回の事業も実は大学の紹介を目的として多くの方にご理解を図る企画。1年前からその準備を行い、浄土:天台:真言智山:真言豊山の三宗四派の設立大学である。今全体の学生数は5,000名を越え、福祉や文学部などの一般学生の数が寺関係者よりずっと多くなっている。今回、何が一番客寄せに良いか?頭を絞る。ご詠歌を先ずそれぞれの宗派(上記スナップ)でやり、その後講演ではどうか?ということで纏まった。結局、第125回(2001年)芥川賞受賞作家の玄侑宗久氏を頼むことになった。玄侑氏は臨済宗妙心寺派の福聚寺(福島県)の副住職であり、今や講演や出筆に大忙し、それでも無理をお願いして引き受けてもらった。テーマは「日本人の心と社会」であった。予定より150名オーバーした参加者は立ち見の人もでる始末、約90分の話はとても面白く好評であった。
 一大イベントが終わり、今本当に良かったと思っている。

372:利便性

近代文明と共に追い求められてきたものに”利便性”がある。生活の質{QOL}の向上を願い、その結果人間は多くの負の遺産?をつくってしまった。人類の歴史は争いと無縁ではなく、至る所で常に殺戮や略奪が繰り返され、負けたものはその報復を誓い、それが宗教の名を借りて世界的な広がりを見せている。
 足元を見れば、子が親を殺す、またその逆の事件が増え続けている。最近、起こった奈良での事件は、当に現代の2重構造を示している。外見的には何不自由のない幸せな家庭、しかし、内面的には家族それぞれがオープンにできない複雑な心の葛藤を持っている。この二面性は実はどこの家庭にでもあることである。しかし、良く考えてみると、何かエリートと称する世界の仮面が見え隠れし、親子という本来ならば許し合える関係のバランスが崩壊しているように思えて仕様がない。今も昔も医者になることは大変である。医学部という難関を先ず突破することができるのはほんの一部の頭脳明晰な連中だ。私の知り合いにも五年も医学部に挑戦して、結局諦めた人がいる。医者が子に後を継がせる、これは日本独特のあり方だ。
 坊さんの世界も似ているところがある。私自身の経験からして、中学生ぐらいの時にその事を強く意識した。自分は特異な家庭に生まれたという。あの当時一番将来なりたくない職業は?と問われれば、はっきりと『坊さん』と答えただろう。そして、親父がお前が成績が悪いから坊さんにはなれないと言って、頭でも殴られたら、今だ!と喜んで家出をしていたに違いない。幸い家族の誰からもそのような仕打ちはされたことはなかった。結果として今坊さんに自らの意志でなってしまった。南無大師照金剛!!!!!
 自由&権利や利便性&不便という対比の言葉には、実は極端に走ることへの警鐘の意味を含んでいると思う。仏教的には「中道」という言葉なのか!
 世の中には自分が経験もしなかったような辛い悲しい経験をされた方が大勢いる。どうも、先の事件の深層は分からないが、狭い限られた生活経験の場で、本人の意志は二の次、周囲の圧力で将来の方向性が決められるという環境がそこには有ったのではと感じた。子供は成長と共に生活経験を増すことで様々な事を学んでいく。家庭という安心の巣がもし、そうでなかった場合、特にそれに対する反発の気持ちは何倍にもなるだろう。
 これもまた私の知人の話、二人兄弟の兄が障害者であった。それも中途にてなった。妹さんは会社勤めしていたが、一大発心して医学部受験、見事合格し、研修医を終えて今病院勤務医として働いている。これなど誰にでも出来ることではない。確かに希なケース。しかし、はっきり言えることは「医者になるという決意は自らがした。」ということに最大の意義と価値を感じる。

373:歩く

歩く効用とでも言うのか、夕方最近歩くのを日課にしている。今日みたいに真夏日という暑さの中でも完全武装して歩いているものだから、すれ違う人が変に思うらしい。住職が歩いているということで結構地域ニュースになっているらしい。ま!健康のためということだが、歩いているとくよくよ考えなくなるという効用があると信じているからだ。イヌを連れての散歩をする人は非常に多い。私の家には生憎イヌはいない。猫がいるのだが私をあまり信用していないので一緒には歩いてくれない。確かに猫に紐をつけて歩いている人に出会ったことがない。いくら訓練してもだめだろう。学園まで、歩くことを増やした。そうすると利用者さん達とすれ違う、毎日決まった時間にまんだらパンや畑に仕事に出かける。これがあるから皆さん健康で元気にいられる。何もしないで毎日テレビづけという生活は不健康だ。
 声を掛け合い、すれ違うのも気持ちが良い。
 今、万歩計を付けて歩いている。何もしない日はせいぜい4000歩ぐらい、それを一万歩まで伸ばすのは相当努力が必要だ。東京に出張したときなど軽く越えるのだが、日常が車での移動に慣れてしまったから、田舎にいるほど生臭になるのだ。
 季節の変わり目などとても気分が良い。今、田圃は蓮の葉が大きくなり始めた。また、梅の木には梅のみがなっている。鳥も囀りあたかも桃源郷のような風情を感じる。年とともに自然との触れあいの喜びを感じる今日この頃である。

376:やったー!

今、寺に植木屋さんが入っている。お盆月前に境内を綺麗にしようということで恒例になっている。今年はネモさんが助手?である。いつも草取りやってくれているネモさん。植木屋さんが切り落とした枝を上手に纏めてくれる。彼にとってみれば大して面倒な仕事ではない。しかし、いつもたった一人で仕事をしているのに今回は植木屋さん2人と一緒だ。お茶も3人で仲良く飲んで休憩、何を話しているのか?彼ぐらい人生経験豊富だと話題に事欠かない。今日そっと植木屋の親方に聞いてみた。「どうです?ネモさんは良くやりますか?」「いやー良くやるよ。確実だしな。」それを聞いて、ネモさんに話してみた。「ネモさん.植木屋さんがとても喜んでいたよ。助かるってーな。」するとネモさん少し照れ笑いしたが、急に足取りが速くなって、「やったー!・・・・」
とガッツポーズ。
(注)皆さん、どうですか。現実はこうなんですよ。自立支援法だか自滅支援法だかわからないけど。彼らの正直な生きる姿は、人から認められるということも決して難しいことじゃないんですよ。日常の生活の中にこそあるものなんですね。それが給与がいくらとか時間がいくらとか、本人達には全く関係ないところで、自棄に難しい手続きをつくってしまう。何かおかしいよな。
ネモさん3年目でやっとお互いの気持ちの中に少し入れるようになってきたんだよね。それを障害認定がどうだこうだと。所詮人間の全体像を数値化することが無理なんだ。

374:祖国

数は少ないが、私は何人かの外国生活している友人がいる。既に日本を離れてから20年以上経っている方もいる。ドイツに渡り、主夫(主婦ではない!)を職業と公言していたYさんもその中の一人。今は便利だ。探して欲しいという本を2冊送った返事が即メールで届いた。彼はこの秋に日本に来ることを楽しみにしているようだ。特に今回は何を思ったのか四国を歩きたいといってる。そこで四国に関する本を送ってあげた。確かに私には長期に外国生活した経験はない。20代前半に4ヶ月だったがイギリスで生活したことがあった。施設での研修であったが、結構自由であった。人間は不思議だなと思う。自由な時には実は何をして良いのか分からなくなる。1日が非常に長く感じたことを思い出した。Yさんは本も書いている。その題材を探すのかもしれない。彼なりに外地で生活するための生きる知恵がそうさせたのだろう。人間毎日散歩という生活は出来るものではないのだから。
 しかし、外国に限らず、人間には誰しも祖国を持っていると思う。生まれ育った時代とか家とか地域とか、それぞれ多少は異なるだろうが、大体人間は多忙だといっている時が実は幸せなのかもしれないな。昨日だったか、法事の席で昔の下級生にあった。事情は尋ねなかったが今無職であるという。充電期間ですねと私がいうと何かホットしたような顔をした。相当気にしているんだということが一瞬にして分かった。昨日の法事は53歳という若さで亡くなった方の法事だった。彼は病院生活で携帯のストラップをつくることを覚え、たくさんつくってあった。彼にとっての祖国はなんだったのだろうか?
日本には充電期間を送っている人たちが大勢いる。その人達に言いたい。自らが考え、納得した生き方を探してくださいと。
 

375:全国一

霞ヶ浦周辺は全国一の蓮の生産地です。この時期蓮田には青々とした葉が育ち、夏の日差しを受けて、見事な花を咲かせるのです。私が好きな花の一つが蓮、毎朝蓮田の脇を通ってきます。泥深い田に見事な花を咲かせる蓮は昔から仏教の教えに例えられ、大切にされてきたのです。九州には芥子レンコンという名産があるのですが、その点に関して言えば県民性でしょうか、どうも茨城県人は宣伝が上手くないのですね。土浦は今、カレーで町のイメージアップをしようとしています。近隣の都市でいえば、お隣の県の宇都宮はギョウザ、カレーについても今一知名度がないと思う。蓮を利用したレシビコンテストもやっている。県や農協の肝いりだ。尚恵学園のまんだらパンも仲間に入り、挑戦しているが、蓮の粉でのパン制作は難しいようだ。クッキーならどうにか形になるようだが。
 全国一になるには実は様々な条件が揃わないとできないものだ。土浦にはもう一つ全国に誇れるイベントがある。秋に開かれる花火大会だ。これも集客力は相当なものだ。しかし、これは一日だけのイベント当に線香花火みたいなもの、昨日実は川越に用事があって久しぶりに行った。日曜日だっこともあるのだろうが、街が人で大変に賑わっていたのに驚いた。小江戸というふれ込みで観光に力をいれ、駄菓子横町やお寺巡りと歩いたり循環バスでの観光客が多い。街の活性化に成功した数少ない街の一つだ。
 これとて、常に先のことを考えながら今できることは何かと考えている。
 何でも同じだが好ましい状況を長く保つ努力は決して生半可なものではないということだ。
何か皆さんで蓮の活用の良い案があれば教えてください。市長に代わってお願い申し上げます。
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376:やったー

ネモさん上機嫌、何故って?植木屋さんと一緒の仕事を今やっている。彼は観音寺の掃除責任者、たった一人で毎日頑張っている。お寺の唯一の準社員だ。お盆前で植木屋さんが入った。切り落とした枝を纏める役目を彼が請け負った。「どうですか?ネモさんは仕事やれますか?」と私が植木屋の親方に尋ねた。「いやー良くやるよ。たいしたもんだ」と好評の様子。それを今朝車ですれ違った時にネモさんに私が伝えた。「ネモさん。植木屋さんがとても喜んでいるよ。助かるってよ」それを恥ずかしそうに聞いていたが、「やったー」とガッツポーズをして足早に仕事に行く姿をバックミラーで確認した。

(注)ネモさんの話は何度もこのコーナーで紹介した。お酒が好きで無断外泊の常連、水戸からタクシーでご帰還はもう何度あるか。その彼がここ数ヶ月非常に落ち着いている。何が原因か分からない。でも私との関係では何かが確実に変わったように思える。「助かるよ。綺麗になって」と会うたびに声をかけてきた。
 自立支援法だか自滅支援法だか危ないものだ。今、障害者福祉は大混乱、先行き不安、4月からスタートして全国で2ヶ月間に8名の方が自ら亡くなったり親子心中という。世を儚んで死を選んだ。この悲劇をどうにか止めなければ!
 彼らの喜びってなんだろう。ここがスタートになるべきだ。障害認定で一喜一憂することなどない。何が一番大切なのか今の福祉にはここがズレている。
 ネモさんの喜びはなんだろう?このこと一つだって国の頭の良い人たちには答えが見いだせない。そりゃーそうだ。彼らとのつき合いが無くて何が分かるかだ。
金の辻褄だけしか感心がないんだもの。寂しいね。ネモさん。こんな日本に誰がした。

377:オセロ

心身協主催の第六回オセロ:蓮珠:将棋大会が県立リハビリテーションセンターにおいて選手100名を越す多くの参加者をみて開催されました。カラオケ大会と隔年で開催しているレクレーション行事、県内各地より9時に会場に集合、熱戦が繰り広げられました。(スナップ)
 私は実は始めて参加したのでした。群馬での関東大会に用事ができて参加できなくなったので急遽こちらに出ることになったのです。先ず、驚きでした。オセロの発祥の地は水戸なそうです。知らなかった。世界大会が近いうちに開催されるとか!オセロのルールは分かっているのでしたが、盤をみて先ず疑問が湧きました。番号がふってある盤があったのです。「これ、なんで番号が書いてあるんだい?」と審判の方に尋ねたら
自分の指したい場所を言葉で指示するんです。という答えだった。車椅子の操作を口で行っている方、確かにそうだな、指が使えないんだもの。正直心身協の行事でこのことが分かっていなかった自分が恥ずかしくなった。車椅子もそれぞれが自分の使い勝手が良いように改造してあった。目に止まったのは、デジカメをしっかりと固定してあった車椅子があった。ああーそうか、カメラが好きな人なんだなー。最初は身体障害者の方達のレクレーションとして始まったもの、二障害が一緒になってから知的障害の方達との交流が徐々にできてきた。何人か知的障害の参加者もいた。微笑ましい。
 主催者挨拶で私はまた風呂敷を広げてしまった。「皆さん、これからこの大会を北関東や関東大会へ発展させていきましょう・・・・・」いつものことだが私の勇み足のパターンだ。これだけはいくら年を重ねても変わらない。実は職員のゴルフ大会を茨城県ではもう一五年以上行っている。知事や県社協の会長も出てくれるまで大きくなっている。その大会の関東大会が7月14日茨城が主催で60名以上の参加者を予定して行う。これだってそうだ。最初は北関東三県で持ち回りで開催したものがいつのまにか関東大会にまで広がってしまった。人間は県の代表という看板を背負うと頑張るものだ。
 昨日のニュースで王監督が緊急入院とのこと。WBCの日本監督として金メダルを獲得した、その疲れから体調を崩したのではないかというコメントがあった。丁度私がオーストラリアに行くときに出国手続きを私の目の前で行っていたのが日本チームのそれも王監督だった。両替所でドルに換えていたのを良く覚えている。
 横道にそれた。オセロの大会が発祥の地水戸から日本中に広がればいい。
 何かムズムズしている自分を感じている。更年期なんて飛んでいけ・・・・・・・!

378:フクロウ(梟)

梟は智恵のある鳥である。尚恵学園と観音寺には石造りフクロウが何羽もいる。別に特別の意味を持って求めたわけではなかった。自然の筑波石の形を利用して彫るから全てがオリジナル、微妙に表情が変わっている。”智恵”にはいろいろなものがありますね。”知識”と考えるとどうも不味い結果がでるような気がしてならない。奈良県で起きた事件もある意味ではそうだ。医者にさせようと我が子を不自然な形で教育しようとした結果が悲劇に繋がっている。これなどマサに”知識”偏重の弊害だ。取り返しのつかない結果になってから気づいても遅い。”智恵”はここが大きな違いだ。つまり、先人の生き様から学ぶというツールがあるのだ。身近な先人として親がいる。しかし、これだって、親が子の意志を無視したような強制によることではない。子自身が自ら学びとろうとすることが重要、親子関係ほど実は難しいものはない。親は我が子の成長を赤子のうちから見て知っている。逆に子にはそのルールは働かない。その辺の微妙な食い違いが子育てを謝る一因になっている。フクロウは自分の子をどう育てるのか?よく知らない。
 動植物は自然との共生なくして生きられない。先日ラジオで『地球温暖化』という訳語は間違っているという話を聞いた。『温暖化』という表現は心地よいという意味があって危機意識が薄れるという。それならどのように訳すか?『地球高温化』だという。二酸化炭素規制に関しても何かのんびりと構えている印象だ。至る所で現実化している自然災害など、まさに地球環境が昔と急激な勢いで変化している結果だ。
 人間は”生きる知恵”はあっても”共生する智恵”はフクロウに及ばない。何故か!・・・・・・中東での争いが解決しない内に、きな臭い事件が東アジアに拡大している。北朝鮮のミサイル発射などはそうだ。自国民の生活費100万人分が一夜にして吹っ飛んだという。ミサイルにかける金と自国民の生活を考えることの重要性がどこかで食い違ってしまった。フクロウは必要以上の食べ物はとらない。そして立派に子育てを実現している。

379;施餓鬼準備

毎年恒例の7月末日の施餓鬼の準備に入った。トウバ書きや新盆の方の永大供養の掛け軸、もっと大変なのは境内の掃除だ。今日で植木屋さんが1週間入っている。同時に下水工事もやっているからてんやわんやといったところ。お寺は8月を中心に廻っている。この時期はいつも住職として体力の勝負になる。
 今年は施設の団体の役割が増えたので出かける用事が急に増えた。その合間をぬって早めの準備をしている。昼間は出来るだけ寺にいるようにしている。かなりの数の電話が寺にあるからだ。いつもは殆ど電話がないのに、この時期は問い合わせや確認の電話だ。檀家の人たちは住職は寺にいるものだと考えている。そこがどっこい、そのギャップが大きい。連絡ミスやら食い違いは日常茶飯事、こっちが悪いから最初に謝ってしまう。これが一番だ。
 今年はどういうわけか知らないが蚊が少ない。それよりも毛虫が多いのには参った。今日刺されてしまった。痒いのなんのって。気候の変化によるものか?寺にいて再確認する。昼間は学園の子供達が大勢作業で寺の周りにきているんだ。それにデイサービスなどの利用者が散歩に通る。神立のこの地域は尚恵学園の存在はかなりと大きくなっているのが分かる。妙な声を出す利用者さんもいるから、周りの人たちはどう感じているのかなー?地域で暮らすこと・・・・・実に難しい。国の制度を考える方達は、実はこのありのままの姿を知らないから困る。絵に描いたモチになってしまう。
 施餓鬼は寺の風物詩?、否、仏教行事ではとても大切なもの。先祖の供養の原点だと私は思っている。この準備をしていて、日頃気づかないことが改めて知らされる。仏教社会事業は実はここから出発したといっても過言でないからだ。大切な行事である。
蓮の葉のスナップ

380:大量注文 毎度ありがとございました。

地元の自動車販売会社よりお客様感謝デイに使いたいということで大量の食パンの注文がありました。1日に400キンというのはまんだらの能力からしてかなり厳しい量だった。しかし、スタッフは頑張って約束の時間内に納品した。それが3日間続く。その忙しい時間に水戸から新任の役員が挨拶に来た。私がまんだらを案内すると丁度明日の納品の準備で大忙し、結構、見学者にはその対応も慣れているスタッフだが、猫の手も借りたい時には正直迷惑だろう。外から作業風景を見て次に移るつもりだった。そしたら庭のテーブルにコーヒーと出来たてパンのサービスを受けた。2人の来客は偉い感心していた。別に今から客を連れて行くと言った訳ではなく、いつものように有りのままをみてもらうべきだというのが私の考え。
 仲間達の接客の対応も本当に上手くなってきた。顔に自分達がつくったパンだという自信が伺える。毎日作業に通う仲間が10人を越している。皆さん休まずに通ってくる。一般企業での就職が難しい人たちだ。何度も今まで勤めては失敗を繰り返した。働くことに自信が持てず、引きこもりがちだった。その彼らが元気を取り戻していく。これこそハビリテーション?かな。いずれにしたって人間は働くことで元気を取り戻す。何もやることがないことは悲しいこと。今、我々が取り組んでいる地道な仕事が、実は根本の生きる支えなんだと再確認。
 お寺と福祉・・・・これだって本来それが当然のことなんだ。どこかで狂った。宗教のあり方は単に教えを説くだけではない。また、巨額を掛けて建物を競うことでもない、人間との血のつながった実践がなければならない。これが私の原点。
 お客さんに焼きたてのパンが配られ、食卓にあがったまんだらパン、好評であればさらなる大量注文がくるだろう。いやー たいへんだわ。スタッフのみんな。