源究105

 

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
1611 挑戦! 10/16 1616 魅力&パワー 10/22 1621 情報量 10/27 1626 紅葉 11/2
1612 改革の是非 10/18 1617 新規事業 10/23 1622 個性 10/28 1627 ちょっとお耳を 11/3
1613 頑張らない? 10/19 1618 桜田門外の変 10/24 1623 気配り 10/30 1628 娑婆世界 11/4
1614 時雨之化 10/20 1619 駆け込み寺 10/25 1624 季節感 10/31 1629 人間開発指数 11/5
1615 もういくつ? 10/21 1620 語り伝える 10/26 1625 初体験 11/1 1630 筋書き 11/6

1611:挑戦!

2010南アフリカ大会
日本チーム
少し元気を頂きましょうね。昨日一通の手紙を貰いました。中には写真(上記)が10枚ほどそれに数枚の手紙とパンフレットが入っていました。
 そうか、今年のワールドカップの後に行われた障害者サッカー南アフリカ大会に茨城から3名代表候補で選ばれていたんだ。丁度1年前になるが、全国障害者スポーツ大会(新潟)に私は一緒に参加した。その時に茨城県のサッカーチームは関東地区予選で優勝し出場した。初戦は札幌市に勝利をおさめたが次の試合で優勝した静岡に負けて残念だが入賞は出来なかった。その時に日本チームのコーチ(?)が何人か観戦しており、私はその脇で観ていた。その時3名の名前があがっていたように記憶する。
 結局、茨城からは3名が日本代表候補に選ばれ合同練習をスタート、最終的には2名が選ばれて南アフリカに行った。
 手紙に入っていた結果表をみると10位だったようである。凄い。よーく頑張った。
 『お礼になった方々へ』という内容の手紙を送ってくれる。今回の経験を次のブラジル大会に活かしたいという実に前向きな内容に脱帽した。勝負事に勝敗は付きもの、それに代表選手に選ばれるものがいれば僅かな差でもれてしまったものもいる、その悔しさをバネに更に頑張ろうとする。彼らは皆、仕事を持っている。自分の休みの日に集まって練習を重ねてきた。そこには家族の応援や職場の人達の理解があってできること、その辺は彼らクラスになれば充分承知している。
 今年は千葉県で開催される全国障害者スポーツ大会は21日に結団式を県庁で行う。私もそれに出席するつもりだ。涙あり笑い有りの大会になることだろう。
 人間は無菌状態では育たない。いろいろな体験を通して少しずつ学んでいく。感謝は言葉では無い。喜びや笑いは作ってできるものではない。
寺に来られたある方がこんな事を言っていた。「私は親父に厳しく育てられたんですよ。父は軍隊生活が長かったからでしょうかね。良く怒られましてね。その時、親父は『こんな事も分からないのか!』と言って怒るんですよ。子供にはわかりませんからね。困りましたね・・・・」と。そんな時、母親は『それ!逃げろ』って言うんですからね。
 教育とは、分からないことを教えること。日本の教育が知識の偏重に成り過ぎた。いくら知識が豊富でも、生きて行く術にはならない。昔の人が良く言った”お天道様が見ている”という文句。お天道様とは太陽のこと。
 法律の谷間を法律で争う。検察官が弁護士を雇って自らの弁護を頼むという何か妙な状況がある。それから政治の世界で行われている実態も、まさに似たりよったりじゃーないか。是々非々とは上手い事言ったものだ、しかし一人の人間の是非で国会審議が止めることは絶対にすべきでない。それこそ大いなる無駄だ。
 人間の価値は、権力や地位ではかるものでは決してない。障害を抱えながら精一杯頑張る人達もいれば、形振り構わず主張を曲げず、自らの進退を決することもしない人もいる。人としての道は、やっぱー!お天道様が良くご存知ということだわな。政治家の皆さんの話を聞いていて憂鬱になるだけで元気は出ませんね。なにか暗い。チリの現場監督さんみたいな人間がいないのかね。その監督は「船長は一番最後に船を離れる」と言った。そしてその通りに行った。その意味を誤解していませんかね。自分は最後まで居座るということじゃーないよね。部下の犯した罪は自分が責任を取るという意味ですよ。
 長老という人間が最後列に座って何を考えているのかわからない。眠っている姿しか見たことねー。もういい加減にバッジを外しなね。年寄りばっかで元気なんかでっこねーべな。ななな・・・・・。
そうだ国会の先生の65歳定年制を決めたらよかっぺ!そしたら、大分スッキリすっぺーな。年寄りに改革は無理。所詮他人事だもの。

1612:改革の是非

冷戦構造が崩壊し、次に起こった中東での争いはテロやゲリラという単発で目に見えにくい抗争へと移っている。そして俄かに極東地域が世界の火種となって多くの外交課題を抱えている。日本は当にその極東に位置し当事国、他国との関係が微妙となっている。過去に起こした戦争と言う過ちを二度と起こしてはならない。
 私のような素人でさえ、分かる事は、今の繁栄の大部分が外国にモノを売って得た利益により潤ったものであること。日本国民誰しもがその恩恵を何らかの形で受けているという事実。相手国との共存関係は一方の急成長により崩れ、格差が拡がって不満となっている。中国での反日デモは昭和10年代にタイムスリップする。冷静に対応すべきだと両国政府は躍起になっている。中国でのデモ参加者は若い人達だという。当前先の大戦時には生まれていない世代。だから余計怖い。
 確かに日本企業は生産拠点を人件費の安い外国に求め、挙って進出した。最初は働く場ができたと喜ばれ、技術も進歩し、今では国内で作るものと遜色がなくなった。・・・此処までは良かった。その後の対応が変化のスピードに追い付かない。後手後手の対応と不満の連鎖。そこまで言うなら工場を閉鎖して他の国に移転するとまでには至らない。
 日本の国のトップが変わりすぎた為にいい加減、相手国もウンザリしているというのが実態だろう。
そして日本人の過半数は政治に無関心ときている、不平不満は言うが自らの責任(投票)は果たそうとしない。以前として熱心な人達は我田引水、だから国としての一貫性が保てない。
 改革の是非というものは、変わってはならないものまでも変えてしまう事への検証。そのまた逆で大半の人々が変わるべきだと思っていることが変わらない事にもある。現実には政府が変わっても我々の日常生活に変化が起こらない。朝食を取り、仕事に行き、夜、家に戻って寝る。1年は365日、誕生日を迎えれば1年歳をとる。義務教育を受け、その上の学校に進むものもあれば就職する者もいる。
 しかし、中身が大分変わった。教育の現状だけを見てもそうだ。高校進学率は昭和49年に9割を超え、その後上昇、平成19年度調査で97%を超えた。更に大学進学者は50%を超えている。この事は一体何を示しているのだろう。
 更に近年は、大学院への進学者が増えている。これは嘗ての院卒という専門を極めたスペシャリストという評価ではなく、長く学問をしたというレベルの受け止め方をされている。むしろ社会経験をした上で更に研究したいというユーターン組の評価が高い。エスカレート学生は無用の長物。
 また子供たちは様々な塾通いをしハードスケジュールを消化している。
 私は昭和44年に高校を卒業した、当時の大学入学の競争率は20倍は普通で30倍を超えていた大学が沢山あった。いま、一部の有名大学を除き全員入学時代に入っている。海外研修や超豪華な学生寮完備、工夫を凝らした学生集めで定員を確保する。これで果たして学生は勉強をしますかね。中には学費を自分で稼ぎながら学ぶ人もいるのも事実、彼らは いつか見ていろという気持ちで頑張る。彼らに期待したいと私は思う。
少子化を迎え、大学の数が自然淘汰され適正な数になるまでには時間もかかる。
 企業の採用は延びていない。有名大学卒を採用するという事にメリットが薄れたという。温室育ちで育成されたものよりも雑草の如く踏みつけられても芽を出すような人間を求める。
 働く場も変わった。年功序列の終身雇用制を導入する企業は確実に減った。
 福祉の現場も難しい課題が山積している。先行き不透明感は一向に無くならず、足元の事に対応することに汲々している。
一報、寺社会の実態は、前カンブリア紀の様相を死守、これまた内包する問題は深刻だ。この辺で弥勒菩薩の登場をみないと総崩れしないともかぎらない。改革の是非は、結局、誰かがやってくれるという待ちの姿勢ではいけないということですかね。このへんで閉じないと永遠に続きますから。今日はこれで”おしまい”。

1613:頑張らない?

頑張らない生き方とか言う本が売れているという話は大分前の事だったでしょうか?私には興味が無いので読む気になりません。頑張るも頑張らないも他人にトヤカク言われたくないわい。だってそうでしょう!障害を持つ人達との付き合いが長い為もあるとは思いますが、皆さん頑張って生きているんだから、必死なんですよ。
 それを頑張らなくて良いからなんて言ったら慰めにもなりませんね。多分、著者がどんな人か分かりませんが頑張らなくて良いのならどうすんの?と伺いたいものだ。
 皆さん頑なに生きているんですよ。
 向こう三軒両隣とは過去の事になっていますね。都市部にその傾向が顕著になっています。隣保制度というのか互助組合的な繋がりが面倒だと考える人が増えています。最近の葬儀事情をみると一目瞭然、その隙間に上手に葬祭業者が入っています。正式な名称は解りませんがセレモニーで働く為の資格があって1級と2級では経験年数の条件があり、国資格だと言います。どんな試験があるのだろうか?
 確かに、様々な斎場にお邪魔しますが司会の進め方が似てきたと感じている。式の流れで焼香のタイミングや僧侶の出迎えの時、立ってもらうか座ったままで良いのか。更に住職の足のサイズまでデーター保管すると聞いた。
 何故に足のサイズ?これは準備する草履の大きさの関係だと言う。
確かにここまで葬儀屋が準備すれば組合の人がやることない。高齢化がここまで進んだ日本では葬祭業は花形業種かもしれない。江戸の時代からの檀家制度に胡坐をかいていた坊さんは落ち着かない。だってそうでしょう。イオングループが葬祭業をやる時代、格安葬儀を売りにしている。規制緩和がここまで進むとは思わなかった。
 今枝由郎氏の「ブータン仏教からみた日本仏教」(NHKブックス)という本を読んでいる。
「戒律不在の日本仏教で、戒名だけは健在である。・・・・」(P114)
 これはターニングポイントだと思うのだ。自省を込めて正直そう思う。あまり我が業界の内情を明かすことはよろしくないと思いますが、どうでしょう一般の人はもう分かっているんじゃなかろうか。
 ですからね、頑張らないとか言う本をマトモニ取ってしまちゃー不味いでしょうと思った次第。もっと坊さん頑張れよと言って欲しかった。日本の仏教は特異な存在だという。第一にお墓があるのは仏教国では日本だけという。ほんと?
 そうね。そうかもね。となると余計難しいやね。
 

1614:時雨之化

遠回しの言い方や遠慮した言い方ではピンと来ない者がいます。そんな時はハッキリ言うべきでしょうね。こんな事を言われると落ち込んでしまうから注意しなければという配慮は却って相手の為にならない。
 私の場合は直言するタイプ、それで相手がどう私を思うが構わない。『時雨之化』という言葉があります。まっ タイムリーなアドバイスと言った方が分かり易いのでしょうが、敢えて孟子なんかを引き合いに出すのも乙なもの。
 今年ほど雨が待ち遠しかった夏は無かった。連日の猛暑日、夜まで30度を下がらない日が何日もあった。そして雨が全く降らない。植え木は枯れ始め、竹藪に居ても蚊が少ない。なにせホームセンターで簡易式スプリンクラーが品切れになるという異常さだった。北関東地域は栃木・群馬の山間部は夕立ちが毎日のようにあって、その雨でダムの渇水騒ぎは無かった。茨城は雷雲がやってこないので雨にならず、農作物には悪影響を及ぼした。時雨とはほど良い時に降る雨を言う。毎日のようにかけた水道水位では、到底ほど良いお湿りにはならない。
 『苦言を呈す』ことも時に必要である。誰がその役を引き受けるか、嫌われ役は誰しも遠慮したい。自分で言うのも変だが大分私はその役を引き受けてきた。だから今でも私を恨んでいる人もいるに違いない。
 組織は各人が守るべきルールがあって成り立つ、誰かが守らないと必ず不平不満が出て組織力が弱まる。誰だって苦労を喜んでするものはいない。最近は言われた事しかやらない人間が増えている。まだそのレベルは良とする。言われた事もやらない人間だって多い。口だけは達者で不満は人一倍いうがやるべき事をやらない。こういう人間が一番組織としては厄介だ。
 言われて気が付き治そうとする人間はまだ見込みはある。その逆はもう駄目だ。
 だが、本当は要の人間とは違うタイプな事が多い。これを見誤ると足元から崩れ始める。どんな人間か?
それは決して目立った事は言わないが着実に事をなす人間だ。それを敢えて公言することをしない。そうです陰徳を積むタイプ。
本来こうありたいものである。
 施設現場でそれが良くわかることがある。利用者からの人気、表情から大体察することができる。福祉の現場で本来必要なタイプである。この見極めができるかどうか?上に立つ者の力量である。
 さて、ここにきて利用を希望される方で困難なケースが増えている。様々な障害を重複して持っている方がおり、単独の施設では対応できないケース。医療との連携や学校・家庭・役所との綿密な調整、支援が個別化すればするほど環境を整備しないとやっていけない。ただ、それには相当の負担がかかる。経費節減の流れのなかで制度の形骸化が目立つ。あっても使えない仕組みが多過ぎる。
 世の中全てが同じ方向で進んでいる。善意によるミスというものはない。苦情や訴訟問題が増える一方でサービス側は腰が引けてしまう。困難なケースを避ける傾向だ。利用する本人が難しいというのは我慢できようが家族までは負担が多過ぎやしませんか!この種の問題が増えている。
 行政窓口が事務的対応をするのも仕方が無いが、その不満を事業所へ向けてくる家族には困った。
11月に法人内研修を行う。それは福祉職の原点を大先輩の豊富な経験より学ぼうというもの。いま、制度に振り回され過ぎている。先人は制度が無い時代どう立ち向かったか!知らず知らず我々が陥った穴は大きく深い。
 

1615:もういくつ?

もういくつ寝るとお正月。。。。♪ 早いなー時間が経つのがあっという間、何故だ。歳だからか?今の時間朝の4時を廻ったところ、最近我が家にも家族が増えました。まだ名前がない子猫、私の膝の上で寝そうです。おとなしくなりました。
 まだ1カ月半ぐらいなそうです。オスかメスか分からない。動物病院の先生に言わせるとまだどっちか分からないという。そんなもんですかね。ですから名前が付けられない。ハナと仲良くしてくれれば我が家で飼うようになりそうだ。とても可愛くなったんです。
 トイレは決まった所でやるんですね。どこで教わったのだろうか?
 まだ1年を振り返るには気が早いかもしれません。でも、本当にいろいろな事がありましたよ。何か4〜5年分纏めて経験したような気持ちです。60歳を迎えましたから、これからは儲けものの人生を送ろうと思ったのです。気持ちだけはそうしたい。
 今朝、枕元のPCを開いたらボルネオからメールが入っていました。???中澤さんからでした。先生も70歳になったという。それでも現地で頑張っている。老いて益々盛んと思った。11月は地方会を沖縄で開くというので帰国するらしい。次は茨城でやって欲しいと言われた。ウ・・・・ム。出来るかな?日本のグループホーム制度を作った人だから、現状の日本をどう見ているか!その辺の話はひょっとすれば結構関心がたかまるかもしれないな・・・とか色気が出てしまった。
 私は職員になるべく問題意識を持ちながらやってもらいたいと常に話をしている。そして思っているだけでは駄目で、自分たちの出来ることから始めなさいと。それには人との繋がりが大切だよとも。必ずプラスになることがあるから。
 私の周辺を見回すと大分知っている人が冥土に渡った。それから大病を患っている仲間もいる。歳かな・・・。
 正直、まだやってみたい事がある。もう少し、こちらの岸にいらせてもらいたいな。その時が来たら潔く命令に従いますから。
 ある日 山の中 クマさんに 出会った  スタコラサッサ どうしたことか、クマが山から下りてきて被害にあったとかいう話が多い。原因は分からないようだ、クマに聞いてみないと。
 でも、世の中、原因なんて分からないことばっかりですよ。仏教は因果説をとる。善因善果 悪業悪果。因果応報とか言いますがこれがまた可笑しな方向に進んでます。本来、先行き不透明なんだけれど、それじゃー落ち着かない。本能的に自らを守ろうとするんですよ。その本質を有耶無耶にしてああだこうだ言い始める。結局また元の場所に戻ってきたりするわけですよね。
 こうやって生きてきたんですね。 そして、これからも。  ネコが寝てしまいました。私のジャンパーの中で。

1616:魅力&パワー

イベントの目白押し。昨日は茨城県手をつなぐ育成会の総会があり、シンポジュームがあった。その後、全国障害者スポーツ大会(千葉)への結団式が県庁であった。
 シンポジュームには障害者本人で一般就労している方の発表があった。スパーマーケットでの鮮魚担当だと聞いた。給与が足りないと訴えた。いくら貰っているの?との質問に小声で”月10万位です・・”場内からウワーという声が出る。これは『凄いね。そんなに給料貰ってるんだ』という反応である。その後の発表を行った県の方より県内の平均賃金はやっと1万円(月)を超えたとの報告を受けたばかりだった。
 シンポジュームは、和やかで実に面白かった。特別支援校の先生からは、このような集まりに現職の若い教員が参加すべきだという意見が出た。私も施設関係者がもっと参加すべきだと感じた。どうも仲間内だけの研修会が多く、上手く機能していない実態がある。
 
 午後からの結団式、今回は70名の茨城県選手団で5泊6日で千葉大会に向かった。選手の中には緊張している方もいるが、もう大会慣れしたお馴染みの選手もいた。彼らの目は輝いている。初めての参加者もいるだろう。全国から集まってくる仲間との交流も楽しみだ。ご健闘を祈る。
 彼らと接していると無条件で魅力とパワーを感じる。何故なんだろう?直向きさかな?彼らと心が通じ合った時のなんとも言えない喜びは味わった者でなければ解りません。この魅力があるのに、制度と実態がピントがズレテいるのは何故?
 そうでしょうよ。昨年までは平均賃金(就労継続B)が月額9千円台だった。そこで工賃倍増に取り組み、結果500円程度のアップを達成、やっと1万円台になった。障害年金と併せても10万円にならない。
 次は地域生活としてのGHやケアーホームへの流れ、国は元々入所施設利用者の地域移行を念頭に置いた政策だった。それが在宅者の親なき後の生活の場という役割も加わった。
 急に見知らぬ人とGHで生活することになっても受け入れることが出来ない方もある。そこでGH体験利用というトライアル事業が県単で行われてきた。
 元々入所施設で集団生活に慣れている人達が地域で小集団で生活を行うことは然程問題は無い。しかし、家族と共に生活をして他の生活経験が無い方にとってはハードルが高い。
 個々のケースによって違いは有るが、共通するものとして受け皿としての地域理解である。これが実に厄介なのだ。
それから所得補償、これもまた充分ではない。
 国と同様に県や市町村も財政赤字で汲々としている。財源確保が悩みの種。ここで私なりの素朴な疑問。福祉施設が地域で飛びぬけて豪華になり過ぎていないだろうか?公共事業の一環として整備が推進され、ここ10年で洒落た豪奢な建物が随分できている。
 多分に負け惜しみも有りますが、果たしてこれで良いの?と思う。最近、木造建築も認めるようになった。鉄筋も丈夫だろうが何か冷たい。
 斯様に私としては原点を見究めながらゆっくり歩んでいこうと思っている。日本が豊かさを追い続けた結果、大切な物を置き忘れてしまった事への検証だと自らに言い聞かせながら。
 

1617:新規事業

県の心身協は『共同受発注事業』を10月よりスタートしました。活動強化員を6名採用、県内に其々核になる事業所に配置し、職場開拓や仕事を探すという事業です。先ず事業所の実態を知る為に登録事業所の視察を行ってもらいました。各施設での実践は長年の試行錯誤の積み重ねによって今に至ったもので、直ぐに変わることは難しく、変える事が果たして良いのかどうかも疑問です。
 ただ言える事は、従来の福祉施設での実践は何かが足りないという印象を持っています。それは社会で本当に認められる為の視点がイマイチ充分ではなく、活動時間を確保するという事に重点が置かれていたと思っています。
 特に入所型の事業所は生活と作業の両面からの関わりですから作業として本格的に取り組むことが難しい現実があり、受けたくとも出来ないということがあります。そこに、全く福祉には素人の強化員がどう切り込むか。私はこの事業の話が持ち上がった時に迷いました。
 そして、指をくわえ行政がやってくれるのを待つ時代では無いと言うことから、先ず出来る所から始めようと思ったのです。福祉の潮流は、地域と如何に関わりをもっていくかというものになり、今後もこの方向性は変わらないと思います。ならば、チャンスを実践から掴むという手法しかないと思った訳です。
 従来の有り方にメスを入れ、止めるべき事は思い切って止め、本当に必要とするものに挑戦していこうではありませんか!心身協は総勢11名の事務局体制、社団法人の一般社団への移行も検討中、事業本数も20本を超えています。
 団体が自立するには、未だ充分ではありませんが、徐々にその方向に向け進んでいると思っています。
 それには、現にどれだけの障害者団体があるのか判りませんが、それぞれが連携を持ちながら問題意識の共有と協力が不可欠と考え、活動していくことです。その為には団体の事務局体制を強化するという条件が先ずあります。
 従来の社協に事務を委託する有り方に疑問をもっていました。社協の担当者は一生懸命ですが、他の業務をこなしながら行う事に限界があり、障害福祉の激変時には無理だと判断したものです。打ち上げ花火式ではなく地味であっても継続性のある事業主体となるべきです。
 茨城には、どう言う訳か全国の障害者団体で代表をおこなっている方が何人もいます。そこから得る情報は正直、レベルの違いを感じます。我々の使命は、まず足元から固めることだという思いは強いのですが、全国の情報をなるべく入れてもらうようにお願いしています。
 制度改革の動きの最大のメリットは危機感です。制度の福祉にドップリと浸かってしまった実態は、現場の担い手、特に若者に魅力ある仕事では無くなった。福祉離れが今に始まったわけではなく、その土壌はあったのです。
 言われたことをやっていれば済んだ時代、責任の所在がハッキリしなくなった職場、全てが意図的では無いにしても不祥事が起こり易いのです。
 日本人はまだ現実に真正面から向き合っていない。高齢化社会という言葉だけが一人歩きして、自らの責任をどう果たしていくかという視点が抜けている。
 先週、就職を希望する学生と面接を行った。卒論のテーマを”若者の死生観”としているという。私達の時代には考えも及ばないテーマ、今は自死や無差別殺人という身近に起こる事象に若者なりの関心があるのだろう。
 他人事ではなく自らがどう関わっていくか、それが問われる時代だと思っている。

1618:桜田門外の変

気になっていた『桜田門外の変』の映画を昨日観た。主役を演じた大沢たかおは顔立ちが端整で最初は何か迫力に欠けると思いながら観た。しかし、徐々に心に秘めた並々ならぬ決意が滲み出て、最後に斬首の刑の場面では自然に涙が流れた。
 桜田門は国会議事堂の目の前に今も建っている。そのオープンセットを水戸の千波湖の畔に作り、水戸市制120年、水戸藩開藩400年の記念としてクランクインした。桜田門外の変が起こったのは1860年、今から150年前、事の起こりは様々な説があるが、鎖国にあった日本が列強国からの海港を迫られ、浦賀への黒船来航など微妙な時代であった。 大老井伊直助を殺害した事件として、関わった者たちは悉く刑に処せられた。当に誰を信じ、何をもって大義とするか激流の時代を駆け抜けた烈士達。その後の歴史が大きく変わっていく切っ掛けになった事件であることに間違いは無い。映画館に貼られた広告でサムライシリーズ5本の一つであることが分かった。約2時間半の上映はあっという間に過ぎた。
 何故、いまこのような映画が作られたのだろうか?この映画の最初のシーンを思い出す。それは現在の国会周辺の場面から始まった。つまりは、今に至った日本が名も無い者たちによって起こされた”変”が発端となったことを心に留め置くことを狙った。そして、主役の水戸藩士関鉄之介に『この日本が変わらねば日本は滅びる』と言わせている。
 時代が遡り、あれから150年という歳月が経つ現代にあって、斯様な大義を胸に行動に移すものが果たして何人いるか。暴挙と見るか否かは、その後の歴史が証明する。もしも、その後の明治維新に至る国内の激動を経験せずして、果たして今の日本の繁栄が有り得たか否か。
 大正〜昭和という歴史の中にあって、日本は様々な試練を経験する。その中で日本の有るべき姿が検証されてきた、それが当時の人々の描いた姿に近づいているだろうか?これは我々現に生きている者たちに課せられた責任として答えを出していくべきではないか。私利私欲に現をぬかす輩が多過ぎませんか!
 最後の映画のシーンは、江戸開城の場面、桜田門より入城する騎馬隊、馬上の西郷(?)が「あっと言う間だった」と独言するところで終わる。
 我々の寿命は、日本の歩んできた歴史から見ればほんの短い時間だ。そこに様々な人間模様が描かれる。
 最近、良く使われる政治生命を賭して事にあたる云々・・・この国のリーダーたる人達がチッポケに見えてしまうのは私だけの偏見か。いまこの時をどうみるか?
 誰もが満足した人生を送ることなど不可能かもしれない。自らの責任を回避してまで何を望むというのか!
 いつもの結論に帰結する。私は感情で動きやすい。それを嫌という程経験したにも関わらず変わることができない。
 羅針盤として持つには、・・・・・。ここに至り「福祉」という名前が自棄に重くのしかかる。
 

1619:駆け込み寺

果たして我々が知的に障害を有する人達の”駆け込み寺”となりうるか?
 先日の理事会において、様々な意見を頂戴しました。あまりにも手を広げ過ぎてはいないか。受け入れてもその対応が充分できているのか。元から利用している人への悪影響はないのか。・・・・・・尚恵学園の役員会のお決まりのパターンである。協議事項が終わってから自由な意見をだしてもらう。ここにホンネが出る。
 現在、365日全く休みなしの状況で、それを何十年も続けている。全国と比べて茨城の特徴は在宅サービスがあまり進んでいない。障害者へのホームヘルプサービスや移動支援など。実態を調査した訳ではないが、身近な例から推測で、家庭の介護力が都市部と比べて高いことと居住面積が広いことが何らかの影響をしていると思っている。
 緊急の用事ができた時でもお婆ちゃんがみてくれるという話を良く聞く。それに部屋の中だけでなく屋外で過ごす機会が多い。
 ただ、私共を利用される方でレスパイトを登録している人が非常に多い。300名は超えている?茨城県も県南部の都市化が進み、多くの新住民が移り住んでいる。そして、何かのサービスを受けようと思った時に身近に無いことが分かる。神奈川や東京から転居した人達はその格差に唖然とする。
 日中受け入れる事業所は急増した。だが、パニックや行動障害を持つ人達を受け入れてはくれない。彼らに対応するのは実に難しい。誰もができることではない。なにしろ何が理由で怒りだすか分からない。そんな人達が一度パニックを起こせば周りへの影響は計り知れない。
 やってもやっても後手の対応。この繰り返しを何十年と続けている。気が長いというのかなんと表現してよいのか判らない。ただ、確かな事がある。この人達の為に我々がやるべき事がある。。。なんて気持ちでいるとあっと言う間に挫折する。支援者自身が廻りが見えなくなり、引き込まれてしまうからだろう。私はそんな職員を何人も見てきた。
高邁な理想は、日々の実践があってこそ見えてくる。それに多くのリスクが伴う。もし、やる前にそれを回避したいならば、やらない方が良い。関わる決心をしたならば、トコトンやるしかない。
 駆け込み寺とは、そこに何かが有るのではない。自然とわき出るものである。
 私自身いまホッとしている事がある。送迎車両が小学生と接触事故を起こし、怪我が治りやっと示談ができた。後遺症も残らず、元気に登校していると聞いた。
 この時考えたのは、正直、前向きな思いを否定するものばかりだった。万が一、取り返しのつかない結果になっていたら、いま私自身どうなっているか分からない。責任はいつ何時もかかっている。
 最近、良く耳にする事がある。障害者を持つ家族がどこで相談すれば良いのか分からないという。少なくとも窓口が見えない状況だけは早急に改善してもらいたいと願う。
 計画や制度が活かされていない現実、・・・・やるべき事は際限なくあるのに。
 

1620:語り伝える

昨日は茨城県の福祉大会が県民文化センターで開催された。県内で一番大きなホールが満席であった。準備会の一員としては大いに満足した。記念講演が阿部志郎先生だったこともあるだろう。84歳という年齢を感じさせない聴衆を飽きさせない内容と話術は見事だった。豊富な体験を元に最新のデーターを組み入れた話は、誰が聞いても好感のもてる深みのある内容だった。
 分かり易く相手に伝えるお手本のような話方で時折間に挟まれた事例が多種多様で敬服した。『人生・・・愛し愛されて』と題した約1時間の話は原稿無しであった。
 その後、同じ水戸で大正大の同窓会があった。約30名ほど集まった総会で、大分趣が異なったがそれはそれとして懇親会も併せ夜の8時ごろお開きとなって帰宅した。
 世が常の如くある保障はない。方丈記の「よどみに浮かぶ泡沫(うたかた)はかつ消えかつ結びて」との例を出すまでも無く移り変わりがなんと激しい事か。
 だがどうでしょうか?変わらないものがありやしないか。憂い悲しむことばかりが有るのではない。何気なく見過ごされてしまうような些細な出来事に目をやれば、この国の素晴らしさや優しさを感じることができるはずだ。しかし、残念なことだがベールに包まれてしまってそれをどう表現すればよいのか難しい。
先の福祉大会で挨拶にたった山口副知事が原稿を読み上げる前に話されたこと。20年ほど前に出先機関で開催した研修会で阿部先生の講演を聴いたという。人生には折り返し点が有るのでは無く、登りつめる頂点が自分が死を迎える時だという話、だから人生前向きに生きてこそ価値が出る・・・云々。この話をハッキリ覚えていると話した。
 私も阿部先生の話は何度か聴いている。全くお歳を感じさせない。益々魅力が増していると思う。何故なんだろうと思っていたが副知事の話を伺って納得した。先生の生き様である。
 高齢化が社会問題と見る傾向がある。お年寄りを迷惑な存在とでもいう風潮だ。そうじゃー無いだろう。負担と考えるからおかしくなる。じゃーどうするの?それに代わる大切にしなければいけない事があるはずだ。福祉のこころを語る人が少なくなった。サービスにお金が絡むようになってから、公言することが敬遠されてきたように感じている。
 長年、障害福祉に関わっていると、知らず知らずに「手のかかる人達を面倒みている」という思いになる事がある。これは大きな間違いでそう思う自分の至らなさを知らされるということが「福祉のこころ」と言う。行為に対する見返りをお金で得る仕組みになってからその辺のズレが生まれた。
 経営を考えれば、働く人達や建物の維持に用立てるお金が必要だ。だからその財源を得るための当前の権利!
 しかし、一方に偏した目に余る状況が有るとすれば社会は受け入れてはくれない。そこには意図的ではないにしても不祥事が起こる土壌があるのも事実。
 阿部先生の話でこんなものがあった。ヨーロッパのどこの国だか知らないが、片親が外国人で亡くなりその子を日本の養護施設に預けることにしたという。その時、その国の大使が猛反対したという。私の国では1人の里子に対し、100名の里親を希望する人がいるから施設に預けることはないと言ったという。日本とは雲泥の差、これをお国の違いで片付けることはできない。何が一体違うのか?日本の福祉が箱ものに重点を置かれ過ぎていないか、片方では地域福祉という掛け声だけが自棄に目立つ。しかし、実態は一向にそれが進まない。実はその国の考え方の違いによるところが大きいのかもしれない。そして日本がどの方向に進んでいくかという確信が持てない事は不幸である。

1621:情報量

皆さんは”エントロピー”という言葉を聞いた事があると思います。私は急に思い浮かんだので、ちょっと調べました。物理学は全く分からないので熱力学的な説明はできません。興味があるのは、情報理論としてのエントロピー(情報量)ですね。何らかの情報があって、その起こりにくい確率を示すものだという。例えば「犬が人を噛む」という情報に対し、「人が犬を噛む」と言えばどうでしょう。後者に関して我々は有り得ない事だというイメージを持っているから、その情報源には一体何があるんだろうと逆に惹かれる。
 世の中には様々な情報が飛び交っている。その大半が「乱雑で不規則で不確実」という。皆さんの足元を見たってそうだと思いますよ。誰誰がこんな事を言った。誰と誰はつるんでいる。・・・・この情報源は実はあまり信用性がない。
 もし、それが事実であっても何がどうなるかという事までは読めません。取り越し苦労という時間の無駄をするだけ。
 その辺は仏教では最初からお見通しなわけですね。「苦」とか「空」という一語で表している。そしてそこから抜け出す生き方を示し、本来の生きる術を教えたのが仏教です。それが我々僧侶の怠慢ですかね。葬式仏教に徹しています。こんな事を言えば業界から多分猛反発を受けます。島田さんが書いた「葬式は要らない」(単行本)が売れている。それに対し、勇気ある?坊さんが、「いや、違う。葬式は遺族の精神的なケアーである。」と反論した。
 私は生臭を自称している。どっちでも良いと思うのだ。それよりも貴方達は現実にその思いをどう行動にうつしていますか?と問いたい。だってそうでしょう。島田教授がどのくらいの確実な情報源をもって活字に表したか良く分かりません。
 日本人の宗教観は初詣に代表されるように不確実なんですよ。
・・・閑話休題・・・
 組織に合わない人もいます。上司とうまくいかないから会社を辞めたとか。でも、この実数は日本全体でどの位あるのでしょうか?わかりませんよ。最近、内閣支持率調査などがマスコミで頻繁に取り上げられています。結果だけを見ればこんなに短期間で変わるのかと驚きます。でも、調査方法を良くみると精々,1000件ほどの調査でしょう。アンケートというものは、質問の仕方によって意図的に結果を導き出せると言われます。こんな国珍しいんじゃないでしょうかね。
だって自分たちが託した政党でしょうが。
 それに振り回され過ぎた国民は、結局、政治家は駄目、どこの政党も似たりよったりだと思ってしまう。
彼らが不況をどれだけ実感しているでしょうか。所詮他人事なんだと思う。日本人全体が活性化(明確な指示)していないものだから、ヨシャ、これで行こう!!!!とならない。
 身近な例で言えば職場の活性化、言いたい事が言えない職場では活性化ははかれない。好き勝手な事を言い出したらどうしようという恐れが先に働き、まあまあという妥協をする。でも、本心から納得していないから、積もり積もっていつか爆発する。それなら最初から言えば良かったでしょうと言う事に。この繰り返しをやっていると私は見ている。
 理事長が反旗を振ることはちょと頂けない。だから意地悪と思われても良いと刺激的な事を意識して言っている。
 人間相手の仕事はエントロピーの数字が大きい。不確実性の上塗りをするような仕事で責任所在すら分かりづらい。そう思ってやってきた。
弱きものは、仲間を作り、細胞分裂して小さな自己満足をする。でも、それでは日本の将来は開けない。
 情報は確かに何かを行う時に重要な要素となる。しかし、一方ではその情報に振り回されては元の木阿弥、プラス情報を如何に選び、実践に活かすかという事だ。
 そこには何らかの大いなるものが必要だと思うのだが。どこまで下がれば、それを誰しもが感じることができるか。

1622:個性

尚恵学園の1日はバラエテイーに富んでいる。24時間100名の人達が生活を共にする。日中は更に60名の人達がそれに加わる。家族に送られて来る方、送迎サービスを利用される方、それに地域で生活する人達は、それぞれの職場に通う。彼らの支援をするスタッフも今では総勢で80名を超えている。他に食事を作る人達やVS・・・・・。
 『おはよう』「ぎゃーお」「・・・・」朝の挨拶もマチマチ。
年齢も様々だ。毎日、どこかの病院への通院があり、小さなトラブルを数えたら切りが無い。来客や引っ切り無しにかかってくる電話への対応、・・・・なんと言えば良いのだろう。まっ 良く言えば活力に溢れている。その逆はシッチャカメッチャカ。こんな生活を虚弱体質(?)の私がよくも続けてこれたものである。昨日、野暮用があり、某施設長と電話で話した。彼は既に定年の年を迎えたが理事長のたっての頼みで今も続けている。『辞めたらゆっくりするよ』これが私との会話の常套句。
ゆっくりね?そうだね。できねーな。私を思っての言葉で自分の寂しさを封じ込める。
 誰だって過去を振り返れば、ほんの一瞬の出来事と感じる。大切な人との別れや又その逆も記憶の中では小さな小さな想い出だ。
 記憶の中で最も価値があるものはなんだろう?多分、思い続けていること!やり続けている事!ではないだろうか。
寿命の長短には関係ないね。個性だって、多分、そんな事の積み重ねだと思う。
 ここ1週間、他に用事が無い時は園内の掃除を根本さんとやった。彼が手伝ってくれなかったら、半分も終わっていない。彼がいま私の大切な情報源、正誤に関係なく彼は周囲を良く見ていると感心する。
 そんな彼と昨日は火燃やしをやった。古材が空き地の隅っこにうず高く積まれて置かれており、前から気になってしようがない。 そこに木製の引き出しが捨てられており、中に書類が入っていた。○○さんの机の中のもの。と貼り紙がしてある。
 濡れて腐りかけたノートが2冊あった。瞬間、今はいないその人の記憶が蘇る。
 読まずに火の中に投げた。
記憶には、思い出したくないものもある。どこかに残っているのだろうが何かのきっかけでスイッチが入るような感じかもしれない。
 人間には寿命というものがあるから人間をやっていられるのかもしれない。ゆっくり休んで、確約は無いにしたって、またの生まれ変わりを微かに期待するものだ。それを信仰心とかいうんじゃないと思うんだ。敢えて言えば本能かな?宗教って後付けですよ。だから枝分かれするんだ。
 本日、東京に会議あり。久しぶりに出る。都会は喧騒そのもの。無関係に動く。その中に蠢く人人人。個性とは言い難い代物。
 流行語となった”無縁社会”、これは都市化の波と同じくして押し寄せてくる。それを防ぐ防波堤はどうなの?
 いつものパターンで能が無いと言われそうだが、国を動かす人達が確実に無縁社会で泳いでいる。そうなりたくねーな俺は。
 

1623:気配り

地域の方で菊作りをやっているYさんが、今年もお寺に10鉢の丹精を込めた菊を持ってきてくれた。生憎、台風が関東地方に接近、昨夜寺に来られて、そのことを心配して来てくれた。玄関内に一時避難させようということになった。
 法事があるので大分その事を気にしていて邪魔にならないかと何度も何度も確認された。大丈夫ですよと言っても気にしている。
 「もしなんなら私が中に入れておきますから」と言うと、自分がやりますと言う。今朝も来られた、私が留守するからといって朝来られたようだ。菊作り特に3輪の鉢植えは開花時期や花の向きが重要だそうで、毎年、朝夕見回ってくれる。水の具合いや並べ方をチェックしていく。この気配りはもの凄い。ただただ恐縮するばかり。土づくりから始まって夏場の管理、花を咲かせるまでの御苦労はやった方でなければ分からない。まごころを込めて物事をなすとはこういう事だといつも感心する。
 昨日は久しぶりに東京に泊る。2日間の会議があったからで、宿は増上寺の脇の東京プリンスを取った。驚いたのは多くのアジア系の客が泊っている。皆さんお土産袋を持っている。韓国や中国からの観光客、部屋のテレビは韓国や中国の番組が目立った。朝、早めにチェックアウトし、増上寺に立ち寄った。大きな本堂はもう開いていてきちんと並んだイスに何人か座っていた。浜松町付近は通勤する人々で混雑する時間帯だが、増上寺境内だけは静寂の中、コーヒーショップで暇つぶしするならずっと落ち着く場所だ。何しろ徳川家の菩提寺として寺領30万坪を擁する名刹でオフィスビルが林立する芝周辺で際立った緑地帯である。
 2日目は会議を途中で抜け出し、秋葉原で開催中のイベントに顔を出し、夕方帰宅した。そこに菊作りのYさんがやってきたという時間の流れだった。

1624:季節感

季節の無い街に生まれ 風の無い丘に育ち・・♪ って吉田卓郎の歌にありましたよね。そんな街ってどんな処だろう?不図疑問が湧いたんです。今日で神無月から霜月に、今年ほど天気が話題になった年は無い。一ケ月前には残暑が厳しく体調を崩される方も多かった。それが気温が10度も一気に下がるという変化に戸惑う。日本では天気予報が至る場所で流される。電車のテロップや街角の大画面、ラジオやテレビは勿論、PCを開けば地元の天気が自動配信されている。
 要するに天気情報が溢れている時代になった。木々の葉の色づきで秋を感じ、朝霜が降りた道をコートの襟をたてて通勤する光景がいつの間にか無くなってしまった。
 価値観も変わった。私は様々な団体に加盟している。そこでいつも問われるのは情報量の多さとスピードだ。同じ福祉業界にあってもそれが当たり前になっている。量の多さは半端ではない。プリントアウトすると思ったら時間がかかるし要らない情報まで部厚い資料となる。そして不必要な資料はシュレッダーにかけて処分する。
 少し位早く情報を得たからといって何も変わらないのだが、それを疑問に感じることない。
お釈迦様の逸話・・・・。お釈迦様に死後どうなるかと尋ねた方が、明確に答えてくれないお釈迦さまに苛立って更に追究した。その時、釈迦は死の原因を矢にあたって死んだのか毒を盛られて死んだのか、その毒がどんな毒で、弓は何処から放たれたもので材料は何で出来ているかと問うても死という根本の解決には至らないと諭したという。
 これは実に意味深いものと私は思っている。世の中の多くの人達は枝葉の事に一喜一憂し、自らの生き様を見いだせない。超高齢化社会という現実を負担と考える。若い世代はお年寄りを支えることに喜びを感じるというより、迷惑とまで考える風潮がありやしないか?自らもいずれ行く道であるにもかかわらず。そこに行くスピードをなるべくゆっくりしたい。この矛盾が常態化している。
 私が思うこの国への心配は、余りにも形に拘りすぎていないかという事だ。社会保障費の総額を国としてどれだけ支出した事が論じられても意味は無い。国民一人一人が幸せを感じている世の中こそを目指すべきであろう。この考えは一貫している。
 しかし、この国の難しさは、日本人の油絵より墨絵を愛する価値観、確たるものより曖昧性に寧ろ安心をする心情。この価値観は今に始まったものではなく、墨という単色で濃淡や強弱で表す技を磨いた。奥床しい人柄が好まれるなど日本人特有の思いがここにある。
 そこに、外国より様々なる仕組みを取り入れようとするから混乱が生じている。仏教にある”無財の7施”なる考え方は跡かたも無く消滅しようとしていないだろうか?サービスを金で買う時代、格差が生じて不満がおこる、当前の事である。
 もしも、国対として方向性を出す事ができないのであれば、ほんのチッポケな試みから始めることでしかないだろう。
 或る就職希望者が見学に来た。彼女はHPで公開している当法人の『まんだら思想』に興味を持ったという。そして実際に見学し、その結果は面接をする前に相手から断りのメールがあった。
 憶測する事は意味が無い。それよりも何を根拠にどの方向を向かっているかという事に重要性があると私は考える。
 理想の形が現に存在するのであれば、我々の福祉事業は何も大騒ぎする必要もなく黙って立ち去れば良いからだ。
 

1625:初体験

茨城空港から神戸便が飛んでいる。2泊3日のお楽しみ外出、メンバー4名スタッフ2名合計6名。まだ、職員からその報告は受けていない。しかし、メンバーの一人から様子を聴いた。彼女は言葉がないのだが手ぶりで意志を伝えることが可能。そのように私は受け止めている。ある朝いつものように事務所前の掃除(?)をやっていた。「Sさん。良かったね。飛行機で行ったんだ?良かったね・・・・」と声を掛けると動かしていた箒をピタリ止めて、固まってしまった。「どうだった、早いだろう飛行機は?」・・・・凄い形相で私を睨む。なんだ・・・変だぞー?今度は持っていた箒でガラス戸を叩く仕草を始めた。怒っている。
 「また行くかい?」と余計な事を執拗に聴いたから更に顔つきがきつくなり、今度は本気でガラスを叩く仕草。変だなー?
 後で解った。彼女は飛行機が怖かったのだ。高所恐怖症?初めての経験、もう飛行機なんか二度と乗りたくないそうだ。楽しいはずの大阪旅行、出足から躓いたわけだから引率も大変だったろう。職員からぐったり疲れたという話だけは聞いた。
 後で思えば珍道中、楽しかった思い出だけが残るはず。今回、スタッフも学んだろう。乗り物を乗りついで行く事の大変さを。事前に説明しても解って貰えないからブッツケ本番ってことに、予定通りだったのかどうか、帰りは新幹線で大阪から帰ってきた。丁度台風接近の折だったから、無事戻れて何よりだ。
 私の経験からしても事前の予測は大体はずれるものだ。良かれと思ってやったことが相手には偉い迷惑になったり、その逆も多い。もう少したったら、もう一度Sさんに飛行機のことを尋ねてみよう。今度は私が箒で叩かれるかもしれない。
 ちょっと気になることが更にある、次なる外出組はなんと沖縄だと聞いた。大丈夫かいな?正直な話、私は沖縄に行ったことがない。できれば代わって私が行きたいと思っていたが、今はその気持ちは全く無くなった。
 そうそう、通所されているメンバーさんで家族旅行でハワイに行って来た方がいる。彼は1日中、玄関の自動ドアを手で開け閉めしているのが仕事。親は凄い!ハワイまでは神戸までの何倍時間がかかるんだっけ?
 今月末にはこれまた外出があって、茨城新聞主催の恒例のツアーに参加、これは台湾だからちょと違う。GHのメンバー4名とスタッフ1名、皆さん就労している人達だから、こっちは大丈夫だろう。多分大丈夫だ。
 年間に数えたら相当の本数の外出があります。知らない人は年がら年中旅行しているように思われるかもしれません。でも一人一人は待ちに待った楽しみの行事だ。なにせ小グループの外出をやりたいという希望が強くてシブシブ認めた。
 私の立場では何よりも無事帰ってきて欲しいと願うばかり。
さて、今年の新型インフルエンザはどうなることやら?ワクチン接種を近日中に実施する予定、罹ってしまえばどんな事やっても感染が広がる。心配したら切りが無い。経験を積んで学ぶものである。
 昨日の私は殺人的なスケジュールでしたね。朝一番の来客、その後、出法事があって、また来客、墓地の申し込みを受けて、衣を着替えてから入院している知り合いの見舞い、さすがに衣姿で病院には入りづらい。そのまま、つくば市での結婚式に出席、異常に長い挨拶を聴いて乾杯が終わってから失礼した。駐車場で衣に着替えて通夜に向かう。
 誰にも言う事が出来ないので、ぐったり疲れたと自分に言った。
 ああだ こうだと言ってもさ 何か変わるわけじゃあるまいし 時がたつのを 待つが良い。

1626:紅葉

奥日光に半月山という山があるという。光徳小屋からの定期便がまた送られてきた。既に紅葉が始まり、木々は冬支度をしている。落葉樹は葉を落とし厳しい冬に備える。落葉が何層にも積み重ねられその栄養を得て春が来れば新芽を出す。この1年通じての循環は世の中の動きに関わりなく繰り返されている。自然の営みから昔は多くの事を学んだ。材木一つにしても北斜面に育った木は年輪が細かく丈夫な木になる。木の目を読み上手く利用してきた建物は長年の風雨にも充分耐えれる堅固なものとなった。
 いま大半の住宅はプレカットによって加工され現場で組み立てる。大工さんがカンナを使うこともなく、外観は見事な住宅となって完成する。この風潮は全てに伝播されている。結果を重視するあまり、途中がスッポリ抜け落ちた。
 実はなんでもそうだが耳学問ではものにならぬ。過程における経験と学びがなければ自分のものと成りえないからだ。
菊作りだってそうだ。土作りから始まる。落葉として樫の葉が良いと聞いた。それだって長年の経験から掴んだ事。
 今後、日本はどうなっていくのだろうか?資源の無い国の宿命か、常に外国との資源調達の問題を抱えている。尖閣や国後の領土問題は、防衛上の理由もあろうが資源確保という狙いも否定できない。更に深刻にしているのは、円高によって企業は生産拠点を外国に移す。そうなればどうなるか、途中が抜けるから、技術の進歩や学びが国内では難しくなり、その分外国に模倣されるリスクは増大。この空洞現象は有り方を根本的に変えないと繰り返される。そして、いずれ日本としての生き延びる術を無くすことになるだろう。
 上記の写真を観て何を感じますか?
 我々はもう一度自然から学ぶ謙虚さを持つべきだと思う。今時、川の水をそのまま飲める国は世界広しと言えども数は多くない。日本の四季は自然のメカニズムによって機能する。綺麗な飲料水と山の関係は密接だ。温泉有り海あり山ありの国は余り知らない。人口減少を心配する人達よ。私は時が解決すると思っている。大都会の人口集中は異常と思えば良い。もし大地震が起こったら大変な事態になることは間違いない。日本の国土面積に対し、人口が多過ぎると思う。社会保障制度が進む北欧諸国のいずれの国も人口は500万〜1000万人の間、豊かさは決して経済的な繁栄だけでは計れない。これ常識。”福祉”=”安心”と考えれば解る事、人口が多ければその負担も増える。人口が少なければ、今日本で言われている心配は殆ど解決されると私は思っている。指を銜えていろというのではない。そうじゃなくて自ずと無駄が減ると思うからだ。
 ただし、1億2千万の現在の人口を急に減らす事はできない。当前時間がかかる。産めよ増やせは過去の政策では無かったか、戦争を永久に放棄した日本は、国土にあった人口であるべきだ。
 日本の貯蓄率が西欧と比べたら段違い、何故日本人は個人貯蓄に走るのだろう。それは将来への不安が一番、次に土地やモノが高過ぎるから貯めるのだ。
 事業仕分けの賛否はどうでもよいのだが、ある特会法人の事務所賃貸料が年間10億円という話があった。へー驚き。なんで1年で10億円も家賃を払うのよ、土地の安い場所(Ibaraki)にでも移つれば立派な建物が直ぐに建つでしょうが。
 これを無駄と言うのか否か。多分、その物差しは無いんだと思う。彼らはそれに疑問を感じた事が無かった。所詮 自らの懐には無関係。
 敢えて言うとすれば、今まで事業仕分けされる側の議員が今度は仕分けする側に立っている。これは大いなる疑問だ。だが、自党内から疑問が出ない。
 大ナタを振るうことができず、マスコミを集めていつまでも同じことを続けていれば当前飽きがくる。そこまで行かないと分からないのかも?困ったもんですね。一体、学校で何学んできたんだべー。

1627:ちょっとお耳を

少しばっかりお耳を拝借。もう半月以上になりますが、迷い込んだ(?)子猫をですね。結局は家で飼う事になったんです。一番心配したのはハナとの折り合いができるか?という事だったんですが、まーどうにか共存しているようで、偉い迷惑を被ってしまったハナは誰がみてもちょと不貞腐れ気味です。
 それでと実は子猫が風邪をひきまして、ぐったりして何も食べなくなり、体重も減り、目もトローンとなってしまい。こりゃー駄目かなと正直思いました。そこでやるだけの事はやってやろうという事になりまして、動物病院へ通院、案の定急激な気温の変化に風邪をひいたようです。親の免疫が無くなる頃、良くあることだというのです。それから毎日通院しまして何の注射か知りませんが優しいお医者さんで、毎日注射を打ちました。さすがですね徐々に食欲も出てきて、スプーンであげると一口二口食べるようになり、1週間で元の元気な状態に戻り、いま、手のつけられない状態でハナに立ち向かっています。先生は治療費を取らないんです。保護動物は最初はいつもタダだと伺いました。病院で知ったのでしたが世の中には奇特な人がいるもんで、なんと捨て猫を8匹も飼っている方がいるんです。その方も実は知っている人でした。先生は休診日でも連れてきて下さいと言って診てくれました。
 なにかこの子猫に運命を感じましたね。感心するのは、子猫は最初からトイレのトレーニングは出来ていました。
これって本能なのでしょうか?もう一匹の里親に預けた方は駄目なんだそうです。部屋のあちことにしてしまうとぼやかれました。
 先日、初めてでしたが家の中にハナと子猫だけにしましてね、どうなるかと心配したのでしたが、2匹で話し合ったんでしょうかね。その日からあまりハナが怒らなくなりましてね。自分たちの居場所を決めたようなんです。それにハナの方は子猫のエサを好んで食べるようになりました。ハナはもう年老いていますから歯が無い。2匹はこの辺で手を打ったのかと推測しています。
 共存共栄、・・・互恵関係とかやたら日本の外交問題がここにきてクロースアップされています。歴史をどこまで遡るかによって難しいと思います。誰しもが事を大きくせず穏便に解決していただきたいと考えていると思います。
 持ちつ持たれつという事が果たして上手くいくかどうか?自党内のゴタゴタ騒ぎもあって、政権など取らずに野党でいたほうが良かったと思っているかもしれない。その時は潔く大政奉還して下さい。引き受け手がいればですが・・・・・。
 問題を先送りした事で何も良い事はありませんね。
 そうそう今日は土浦市の市制70周年の記念行事があります。私も出席するはずでしたが、法事があって行けません。市民会館で何をやるのか知りませんが、朝の9時からセレモニーだそうです。私は合併推進派ですから、早く隣接市町村と手を打ってせめて50万人口の市にしないと時代遅れになるんじゃーないだろうか。茨城位の県人口(約300万)があれば2か所位あっても良いと思う。政令指定都市(人口50万人以上)となれば県との役割分担が明確になるし、相互牽制が働きサービスアップに繋がると思うんです。全国で19市も既にあるんですからね。
 無責任な私案でありますが、つくば市と土浦市と牛久市と阿見町が一緒になれば実現できるはずなんですよ。反対する人達は誰だか解りますよ。今更広域合併・・・・そんな元気は無いのかな!ちょっとお耳をで・・し・・た!

1628:娑婆世界

”娑婆”とは梵語でsahaで忍土・忍界と訳される。我々が住んでいる現実の世界を言う。只管耐えることでしか生きていけないのでしょうか?その前提にたって釈迦がどうすれば良いかを教え導くというものが仏教。しかし、現実にはその教えを広めるべく僧伽が片隅に追いやられているように感じてしまう。これは由々しき事態である。
 内部の事情をトヤカク言っても仕方が無い。宗教の枝分かれは政治など比較にならない。もの凄い数に及んでいる。信じる者は救われる・・・その逆の信じないものはどうなのか?パンドラの箱の例えもある、あらゆる災いを箱に詰め、其れを開けてしまったから不幸が飛びだし、急いで閉めたから希望だけが残ったという話。
 希望とは願いである。其々が描く夢といってもよい。それをどうすれば実現できるかというと実に厄介な命題である。アメリカの選挙結果がオバマ民主党の敗北で終わった。2大政党はある意味では解り易い。こっちが駄目ならあっちにしよう。二者択一である。日本の政治はそこまで熟していない。様々な主義信条が自由に飛び交う。同じ政党内ですら、整理が付いていない。希望を託して選んだ政党に時間を与える余裕があるのでしょうか。それならやるべき事があるでしょうと言いたい。どのような実力者であろうが組織として特別視することは許せない。政党を分離しハッキリさせたほうが良いと私ならば思う。
何か事ある毎に政治とカネが出てくることに国民の大部分はウンザリしている。その決断の勇気があるか!
 だってそうでしょう。自党内の意見調整に気を取られ、ネジレ国会の審議を他党と折衝する。これではな。国民不在の最たる政権となりませんか。
 日本のトップとして諸外国の前で良い格好を付けたくなる。前総理が約束したという二酸化炭素25%削減の話、まったく聞こえなくなりました。あれって約束を反故しても言い訳効くのですか? あれこれ思いつきで約束しないこった。迷惑が日本人不信という形でかかってくる。
 参ったな。誰を信じて希望を託してよいのか判らない。これって不幸ですよ。今の状態が続くと決して良い事はない。
彼らが行ったことでこれは良かったというものを虫めがねで見つけ出すような状況だ。
 まど みちお氏をご存知ですか。100歳を超えてなお詩を書いていらっしゃる。”最後の本物の詩人”と評される方だけに、生き方そのものが詩に表現されている。NHKスペシャル番組で最近取り上げられた。
 出身地は山口県、郷里の高校の放送部のインタビューが良かった。
「まどさんにとって幸せとはどんなことですか?」と問われると言葉を選びながら答えている。
「現実に生きている社会を肯定的に思えることが幸せだと思います。・・・・・」話はそこから様々な方向に進んだ。
1909年(明治42年)生まれ、今年で101歳になられる。童謡の「ゾウさん」や「1年生になったら」などの作詞をされた。詩人の谷川俊太郎さんがまどさんをウイリアム・ブレイクの「一粒の砂に世界を見 一輪の花に 天国を見る」を実践してきた詩人だと評した。
 100年は長いようで一瞬であったと話された。まどさんが先の大戦で2編の戦争加担(?)の詩を書いたことが一生の悔いだと言った。自らも南方戦線に参加し多くの戦友を亡くした。
ゾウさんの詩を書いたことの意義は「象ど長い鼻をもった動物はいません。あれって差別ですよね。でもね大好きな母さんもお鼻が長いのよって言うでしょう。この世で一番大好きな母さんだって同じなんだから・・・」
 これってもの凄いインパクトありますよね。親子の断絶や虐待が巷に溢れていますよね。この状況をまどさんは、言葉を選びながら「今生きていることをありのままに肯定できることが幸せ」だと言う。
 他人の事に目くじらをたてることを戒めているのかもしれないし、こうなって欲しいという願いも含まれているに違いない。 

1629:人間開発指数

今朝の新聞に人間開発指数が日本は11位という記事があった。なんの指数?調べてみた。人間開発指数(HDI:Human Development Index)はその国の人々の生活の質や発展度合を示す指標だという。パキスタンのハックという経済学者1990年に考え出したもの。平均寿命や教育、成人識字率やGDPを根拠に計算した数字で、1位はノルウエー2位はオーストラリア、アイスランドやカナダ、北欧諸国などが上位を占める。面白いのは伸び率が高い国はオマーンと中国だという。東アジアでは日本が1番だが疑問は残る。
 これもまた経済第1主義に対して起こった指標だから、是非をいう前に視点を変えることに意義がある。生活の質の実態は、伝統や文化というものも影響しているから一概に論じる事はできない。質と利便性は一体では無い。
 一例をあげてみよう。海外旅行をする場合、出来ればビジネスクラスに乗って行きたいものだ。特に飛行時間が長い時は痛切に感じる。一方、LCCという格安航空機が流行っている。上海まで4000円だという。ホントかいな?上海位なら多少窮屈な思いをしても我慢できるからそれでホテルのランクを上げたほうが良いと思う人もいる。
 要は同じ金を使うのならば何にかけるかという主観の問題となる。だが、それだけではない。船で行き、列車の旅を選ぶ人だっている。今時、これが一番贅沢な旅であろう。時間があればの話だが、それから久しぶりに海外に行くと盛り沢山になって強行スケジュールになりやすい。そうではなく1か所に決めて行くことも通な楽しみ方である。
 斯様に価値観は様々なのです。
なかなか実現できないのですが、四国遍路も一番贅沢な旅だと私は思っている。弘法大師の足跡を辿る徒歩での旅は、当に真言僧侶としては最高の旅である。
 人間は昔より自分の立つ位置を他との比較によって測ってきた。優位性を感じて自己満足したり、その逆の場合は妬みや反感を持った。そりゃー良い事に越したことは無いよ!と言うだろう。でもね、”良い事”が何だか分からなくなった時を我々は生きているって事を忘れている。
 だってそうだよね。”プライド”という言葉があるでしょう。日本語で言えば”自尊心”かな。これだって微妙だ。自らなんで尊厳を主張するんだい。”忘己利他”という言葉知っていますか?これが大乗仏教の究極の姿ってことなんですね。
 他人を押しのけてまで俺が俺がということを否定するんです。日本人が戦後、遮二無二頑張ってきた姿かもしれない。
 それに疲れてしまった。同じ価値観を共有できない。でしょう!人間としてどうあるべきかというモラルが欠如した状況だよね。囲い込み屋という職業知っていましたか?これ、ちょっと酷いよね。路上で生活する人達に生活保護を受給させてね、宿と食事を提供するそうです。取りはぐれが無いようにと受給日に役所の入り口でお金を回収するっていう。なんと100人もの人達をそうやって囲っているんだという。でも、本人は罪の意識は全くない。それよりも今の社会に反発している。「支援団体や役所が本来やるべきことなのにやらんから俺がやっているんだ」 宿といってもベニヤ一枚の壁でプライバシーなどない。食事は1品で粗末だと利用者は不満を言う。それだって本人と契約を取り交わし了解済みだと言う。
 もしも、これが実態としてあるのであれば、どうですか?介護施設が豪華さを競っている谷間で、本来、同じサービスを受けて良い人達がなけなしの生保の金を吸いとられている。これが自己責任だと片付けて良いのでしょうか?
 相当頭の良い人が考えているね。契約とか公助の仕組みを熟知しているんだから。
 この様な事は絶対数から言えば多いのか少ないのか判りませんが、皆無だとは言えんでしょう。
 余裕のある人達がシコタマお金を貯め込む。そして八方手を伸ばして脱税を行っている。某大学の理事長が親の海外預金(15億円)を相続して問題になった。果たして社会的制裁はどんな風に受けるのでしょうか?
 政治家だって同じです。だってそうでしょう、税金で食ってきたんだしょう。政治家としての責任の取り方は有るべきだよね。

1630:筋書き

物事は筋書き通りにはまいりません。解りきったことでしょう。22年度も師走になり、なにか忙しくなってきました。今年ほど記録的な猛暑や政治、景気・・事件と話題が多かった年は無かったと思います。全てが解決した事では無く、現在進行形というものが大半、特に検察庁の証拠改ざん事件は前代未聞、結局はどんな結末を迎えるのでしょうか。
 今騒がれているのは漁船衝突DVDの流出問題、いくらネット社会といっても国としての重要資料がいとも簡単に流れてしまうということは言い訳が効きません。防衛大臣が朝自宅のテレビでそのニュースを知ったとコメント、これも驚きです。なんでこの程度の事?一先に報告があってしかるべきお立場ではないのですか。
 マスコミが騒ぎ過ぎるという批判も否めません。日本のメデアは異常ですね、何しろ一斉に同じニュースを取り上げるんだから。民主党が政権奪取した時の活力が見えません。菅さんの表情も虚ろに見えます。そりゃーそうでしょう。強行日程をこなし、それだけでも大変な事なのに、次から次に出てくる難問、こんなはずじゃーなかったという気持ちではないのかなー。一国の総理というポストは大変なものです。いま自党内のゴタゴタにかまっている暇はないはず。そのことをどう考えているか?民主党の皆さん。足引っ張っているんじゃーないでしょうね。人倫の大道を歩みなさいよ。選挙で世話になったからとかいう小さな事で自分の考えを言えないような人間は国政に立つべきでない。ハッキリ言いたい。
 今がチャンスでしょう。主義信条も大して変わりない政党ばっかりで一致団結する動きが取れないのかね。まったく。
 その辺を隣国から見透かされているんじゃないのかな。
 よっぽどノーテンキか大義が無い人達なんだわな。これこそ大いなる無駄使い。
 外交は段どりが重要でしょう。思いつきで国の利害を左右する条約など結べっこ無いし、その下準備は本来専門家たる官僚が行ってきたもの。そこの関係がスムーズにいかない。
 確かに問題が表に出てきたことはある意味では良い事かもしれません。でも担当者の首を挿げ替えて済む話ではない、どうあるべきかを明確に指示すべきなんですね。これが国の方針というものになる。
 正直、両者の関係が疑心暗鬼なんですよね。お互いに尻尾を掴んで、いざとなれば暴露するっていう脅しをチラつかせる。そんな感じに思えてしようがない。
 まっ、私が思うに先に立つ人達が範を示すべきところ、ウヤモヤになっている事が多過ぎることが致命傷と思いますよ。どうするんだい、はっきりしなさいよ!というイラダチが国民全体に浸透しているんですよ。どうして分かんないのかな?
 政治に決断がなくなった時はタダの人。そのタダの人が多過ぎませんか。これをチェックする国民の責任、だから関心を誰しもが持つべきなんでしょう。
 人生にはシナリオは無い。だが一人一人が主人公、舞台でどう演技するかは、貴方自身の問題である。