源究107

 

No テーマ 月日 No テーマ 月日 No テーマ 月日 No テーマ 月日
1651 慨世の言 11/29 1656 器にあらず 12/5 1661 向き合う 12/11 1666 歳の暮れ 12/17
1652 可視限界 12/1 1657 知らぬが仏 12/6 1662 県議選2日 12/12 1667 視座 12/18
1653 百花繚乱 12/2 1658 自由な時間 12/7 1663 随所作主 12/13 1668 追弔和讃 12/19
1654 薄利多売 12/3 1659 福祉の哲学T 12/8 1664 灯を消すな! 12/15 1669 羞恥心 12/20
1655 負けるが勝ち 12/4 1660 福祉の哲学U 12/9 1665 不法占拠 12/16 1670 矜恃を保て! 12/21

1651:慨世の言

内田樹著:『日本辺境論』新潮新書が売れている。
 巷に現実の世を嘆き憂える情報が氾濫しています。最近書店を覗くと書店そのものがコンパクトになり、本以外のモノを売る店が多くなっている。また書棚も新刊ものが並べてある直ぐ脇はマンガ本といった、何か私にはあまり興味の無い本ばかりが並んでいるように思えて仕様が無い。そりゃーそうだわな、今はインターネットで注文して2日後に希望する届け先に本が届くご時世だもの。
 さて、内田がこの本で言っている。「・・・私たちの眼に映じる世界像にどのようなバイアスをかけているか。それを確認する仕事に「もう、これで十分」ということはありません。・・・・」P4。
 バイアスとは偏向とでも理解したらよいだろう。政治的偏向などと使われるが偏った信条なれば、昔は暗黙の了解が存在した。今の状況はそれすら無くなってしまったと言えまいか。つまり、何を主張し何をどうするかという政党の基本が見えていない。有権者にとってこれほど深刻なものはない。誰を選ぶかという判断材料がない。これは民主政治を数の論理だけで暴走?した一部の実力者?の責任が大きいと私は思う。
 当選してから俄か勉強を行っても、元々政治的偏向を持ちえない人類だもの、直ぐにメッキがはがれるわな。
『慨世の言』とはまさに世をなげき憂えること。つまり、日本はしかじかのものであらねばならないという議論ができない土壌があって、常によその国の基準に比べて行われてきた。お隣の韓国の事情は日本人には到底理解することはできない。38度線を境に分断されて60年余が過ぎ、同じ民族でありながら、主義信条の全く異なった国となった。そして、常に国境地域では緊張状態が続き、今回の突然の砲撃問題も現実の難しさを全世界に知らしめた。
 韓国の海兵隊の司令官が1000倍の報復を断固として行うと亡くなった兵士の葬儀で誓った。この遣り取りを見ていて
果たして今の日本人にどう映っただろうか?日本だって先の大戦の後、朝鮮半島と同じ状況が起こりえたのだ。なぜ回避できたのか、その真相を知る日本人がどれだけいるだろう?
 不戦を誓った日本が、様々な難題にぶち当たっている。果たして本当にアメリカが有事に日本を守ってくれるのか?
 多分、戦後生まれの大半の人間は戦争の悲惨さを肌で感じることができない。頭だけの理解でそれ以上深め理解しようとする努力をも避けてきた。それは国会議員ですら全く同じ、彼らは2世3世の議員、自らの努力で国会の議席を獲得したというよりも親父の地盤を引き継いだものが多い。
 彼らとて2国間の条約を軽くは見ていないだろうが、日本のいま最も危うい状況は、相手国からそのように見られてしまうという事だと私は思っている。
 正直、教育現場では、先の大戦が過去のものとなっている。敢えて事細かに学習することを避けているではないのか。
そして、世界で唯一の被爆国という史実だけが強調され、その悲劇を2度と繰り返さないためにどうするかという議論が抜けている。もし他国からの侵略を受けた時に、どこかが守ってくれるという他力本願的理解しかない。
 それでいて、経済成長のために外国への様々な企業戦略を煽る。
 内田はその事を危惧し、歯磨きを例にあげて、昨日磨いたからもういいよとはいかない。常に繰り返して我々が考えていかなければならない責任だと断言する。
 マスコミの報道に批判が無いわけではない。しかし、本来、知る側の責任が問われるべきで報道そのものを最初から全面的に信じている人はいないはずだ。
 言った言わない。俺は知らなかった。という事案が多過ぎた。検察庁の犯した罪も大きい。しかし、それは全てでは無い。法によって罪を裁く仕組みは無くしてはならない。
 むしろ、国政を預かる人達の罪は、疑いが自ら払拭できないならば本人の潔い政界からの引退しか無いと思う、もはやそれしか推進力を失った政治に歯止めをかけることができないだろう。

1652:可視限界

常磐道の三郷料金所から外環に向かうと真正面に建築中の東京スカイツリーが見える。完成すれば高さが634mと開業時では世界一。東京の新たな名所になる。上野から北には今まで観光スポットが少なかったが、浅草やデズニーと併せれば集客力が増えること請負だ。この流れを利根川が堰き止める。その良否は様々である。
 さて、ウイキリークスという聞き慣れない言葉が最近、メデアに良く登場する。これは秘密情報をネット上で暴露するものらしく、どうしてこんな事が可能なのか分からない。創設したのは元々ハッカーで有名だったオーストリア人、彼は自らの生命を守るために居場所を転々としているとか。
 情報テロという言葉もある。秘密・暴露・・隠蔽・漏洩など、利便性とスピードを追い求めたネット社会になり、最初から予測できたことだろうが、足元をすくわれる事件が頻発している。ウイルスとのイタチゴッコは際限なく続く。
 要は現代社会の特徴として”可視限界社会”と言えば良いのかもしれないが、IT化が進めば進むほどある一定のところまでは隠れて見えないものが一瞬にネット上に出現する
それも世界中の誰もがアクセス可能で防ぎようが無い。通信手段が此処まで変わってしまうとこれから先どの情報を選ぶかは個人に任される。果たして制限無き膨大な情報に耐えるだけの処理能力を我々は備えているだろうか。
 今外交問題にまで発展するかもしれないと言われる様々な秘密文章の暴露、これに対する法的規制のしくみは不可能だと聞いた。
 人類祖先の誕生は200万年前という。これだって、地球の歴史全体からみればほんの一瞬の出来事、さらに、遡及可能な歴史は精々2000年、。。。。こう考えていくと、近年の動きは異常としか思えない。地球上の自然環境の破壊が急激に進んでいる。
 人類の歴史は、五感を上手く使って成しえたものだ。それが確実にバランスを失っている。使う機能だけが肥大化し、使われない機能は退化する。これ生命体の常識。
 人間の描く世界は、夢と現実から生まれる。可視可能なものと不可視なもの。昔から見えないものに価値を見出してきた。解り易く言えばその代表は”こころ”、これが片隅に追いやられている。
 仏教で言うところの三密(身・口・意)の(意)である。
 他国の事情は解らないが、日本ではこの三者バランスが崩れ始めている。例をあげれば切りが無い親子絡みの事件や一向に減らない自殺、これら全てがこの均衡が崩れたことに起因する。
 何故か?真偽は別として”豊かさ”を勝ち得た日本の見えない所での地殻変動とでも言えよう。つまり、地震は地球の成り立ちからどこかで常に起こっている。それを人為的に防ぐことはできない。もし絶対防ぐということであれば、地球そのものが宇宙から消滅する時だ。その未来は過去と同様のとてつもない時間がかかること。
 人間は人為的になんでも出来ると錯覚してしまったのか!それは自然現象のほんの些細な部分なのに。科学の進歩や経済発展という限度無き幻を追い求める。
 方や今の日本の政治に決定的に欠けているものを一つあげるとすれば、不可視な関係での信頼欠如と言える。
 先の身・口・意は今風に言えば、やっていること・言っていること・思っていることであって、ここに信頼関係を築くことに意義がある。
 これは一人一人の問題でもあるが、世界の全人類に通じる真理である。ネットには、網とか正味という意味がある。元々は人類が自在に結び合って人間と自然との共生型の社会を目指す運動から出た言葉である。
 いまの状況はネット社会の逆襲に余りにも無頓着しすぎる実態である。

1653:百花繚乱

上記スナップ・・奥日光からの定期便で送られてきました。”百花繚乱???”周囲の木々がまだ緑の葉をしっかり付けている中でツタウルシだけが紅葉しています。
 タイトルとはミスマッチですね。
世の中には、斯様な事っていくらでもあると思うのです。だから敢えて捻ってみたのです。斜視に構えるってことですよ。
 我が学園も新体系に移行を10月に行いました。思ったより混乱なく2カ月が過ぎ、小グループによる旅行が目白押し。
最近の3つのグループ旅行。@茨城空港から神戸・大阪の旅、A沖縄2泊3日B台湾・・希望の翼です。自棄に遠出をするなと思っていましたが、私は黙っていました。最初の関西グループ、ハプニングが結構あったようです。台風接近という心配事も重なって大変だったようです。特に乗車拒否ならず飛行機恐怖症?のSさんにとって、地獄を見る思い。無事帰ってきたのですが、私が「どうだった?楽しかった?」と尋ねるとピタっと固まってしまった。凄い形相で私を睨むのです。
 ま!飛行機は怖いものです。ハイ。次の沖縄、海が綺麗だったそうで、帰ってきたくなくなった程、良かったという。実はこれ同行したスタッフの弁。最後の台湾旅行、これは茨城県の後援で行ったもので医師と看護師同行の大名旅行。参加したKさん。昨日事務所に来て興奮気味で話してくれた。
「ああ  良かった!ほんと 良かった! 今度ハワイが良いな・・・」 「何が良かったの?」「食べ物上手かった。やっぱ・・違うわな。」・・・・「そうだね。一生懸命働いてお金貯めてね」「む・・・・・・・・」
 丁度、その日は就職面接があった。卒論のテーマを「・・・・障害者の自己決定へのプロセス(?)を纏めました」という学生。上記の3つの例を出して話してみた。自己決定というものは今流行のマニュアルには馴染まない。人それぞれだ。
 面接側の私が持論を展開、話が止まらない。学生はなんと思っただろう?自棄にうるさい施設長だわなとでも思ったかもしれない。
 久しぶりに糸賀一雄先生の事を話して通じた学生だったので私としてはいつに無く熱が入ったとは思う。
 ここにきてまた夜のヲーキングを開始した。筋トレをやっている人の刺激を受けた。腹筋毎晩100回は休まず行っている。でも何故か胴周りは細くはならず、ただ、腰痛は気のせいか軽減したように思う。これだって自己責任だ。
 少々、斜視に見るクセが付いてしまったものだから、ここのところずっと不平を言うことが多かったように感じている。粘着性拘り症候群とでも言ったほうが良いかもしれない。永田町の方向を見るとスイッチがONになる。ムラムラときて、言葉がとめども無く出てくる。鬼門だわな。
 それが不思議なもので、歩いていると気が落ち着く。それと草刈りも同じ効果がある。秋も終わりに近づき刈る草が無い。
 昨夜、ドイツから電話、Y氏、懲りもせず新人賞への挑戦中だと自ら暴露、なんでも太宰治賞とかいうものがあるらしく、。。。。私としてはなんとコメントして良いのか判らず、「応援します」、とだけ答えておいた。
 百花繚乱って、見て楽しむんじゃーないよね。自分の中の夢の花を開くことだと思う昨今であります。

1654:薄利多売

経済の基本は需要と供給のバランス。日本がデフレからなかなか脱却できないという状況をどう切り替えていくか? 単純に考えれば、需要が伸びずモノが売れない状況が長く続いているということ。だから物価が上がらず、収入が増えない。
 しかし、これは国の状況により違って当然だ。日本は現在、物が溢れている。店舗の数も多過ぎる。それに消費者の購入意欲は頭打ち。これって解りきったことでしょう。物が多過ぎれば廃棄処分してまで新たなものを買いたいとは思わない。売る側からすれば買ってもらいたいから他の店との価格競争に走る。この状態が長い。
 これを打破する方法として先ず言われるのが”経済”を良くするということ。それと価値観を変えることである。前者はどうにかしないと日本だけが取り残されると挙って危機感を煽ぐ。
 しかし、実態を良く見てみるとそう言いながら多くの矛盾が見えてくる。メタボ対策一つにしても贅沢極まりない。余分な栄養の取り過ぎの結果、こうなった。昼下がりや深夜のテレビCMの大半が痩せる商品の売り込みだ。こんな国、他に無いはずだ。
 早期教育の重要性を唱える。これに連動して閑散とした駅前通りに夜遅くまで明かりがつくのは学習塾。安売りで急成長したユニクロはいまではどこの街にもある。これだって飽和状態になっていないか。同種の店が増え過ぎた。
 昨日のテレビで知った。外食産業の生き残り戦術、いかに安価で客に食べ物を提供できるか、大型チェーン店で提供する焼き鳥と比べ半値で提供するという企業。このカラクリは徹底した機械化だ、つまり、人件費を極力抑えるという仕組みだ。外食産業の機械化は日進月歩で進む。殆どが特注による機械だから1台の値段は高額だ。しかし、考えよう、人件費にかける費用に比べれば数年で元を取る。求人広告費や労務管理という負担がないし衛生管理もしやすい。
 こうやって価格競争はよりエスカレートしているのだ。
 それでは人間が人間の手でサービスする業種はどうだろう。特に介護事業は担い手不足が常態化している。この事だけを見ると他の業種と一致しない。何故、需要があっても供給側が対応できないか?
 これは今に始まったことではなく確実に高齢化社会を迎えるということが解っていて、実態がこれだ。
 業界としても様々な対応策は練っている。だが依然として決定的な解決策が見いだせない。
 社会保障の仕組みは自国だけで完結することが無理な時代になった。どうやって外国から助っ人を受け入れるか?
 日本に今留学する外国人が激減しているという。それは難しい日本語の習得と資格取得という問題が大き過ぎる。嘗て40年ほど昔、私は恩師の紹介でイギリスで2カ月程だったが研修を行ったことがあった。当時、大規模な施設が存在してはいたが、スタッフの多くはかつての植民地からの出稼ぎの人達で賄われていた。決して英語に堪能な人だけでは無かった。
 時代が変わり、大規模施設は大分少なくはなったが対象者が減ったわけではない。その受け入れ先が変わったのだ。
 いま私が心配するのは、福祉にかける費用をどうすれば国民同意を得て捻出可能かという問題だ。
 日本の価値基準は、どうしても働き手を重視する。だから老人や障害者は現役の働き手の負担と見る。これが経済の豊かさを追い求め、勝ち得た国の有り様だ。何のために必死で働いてきたのだろう?
 GDP世界第2位の栄冠を誇った日本が過去のものとなりつつある。これは自然の成り行きだ。
 こうなった時のスペアー(?)の価値観が実は日本人には無かった。目標を見失い、既得権を死守し、形振り構わず自利にだけ関心が向く。誰しもが薄々は感じているのだが、勇気をもって舵切りはしない。
 最近実際に耳にしたこと。
 お寺が幼稚園や保育園、或いは福祉施設を行っているところが結構ある。「あそこの寺はカネもうけが上手い」と言った。このような見方が現実に存在するということは、問題が根深いと言う事である。自由主義社会のもたらした職業の多様性と役割の曖昧さはミックスジュースになった妙な味がする。

1655:負けるが勝ち

強いて争わず、相手に勝ちを譲る。謙譲の美徳という昔よりあった価値観が風化してしまったのでしょうか?新聞の記事に民間調査による自分達の県の魅力度順位があった。我が茨城はなんと自慢度は46位だった。県が発行した茨城の紹介パンフ、そこには全国1位から3位までの農作物生産のリストがあった。八百屋に並ぶ野菜でかなりの数の品々が茨城県産という事が分かる。良く言われるのは観光スポットがイマイチで生産品もブランド銘柄が少ないと。でも実績が示しています。
 私はこのような調査程いい加減なものはないと思いますよ。先日、山梨に行く機会がありました。県の人口が86万、県都の甲府は盆地の中にあって周囲を見回せば山ばかり、それでもそこを訪れる人々の気持ちを和ませてくれる。
 今流行っている食べ物でなんとか?というものがあるらしい。私には興味なし。天気が良くて南アルプスが見えただけでそれで十分満足した。こんなもんじゃーありませんかね。何も鳳凰三山や南の山々が自慢などしません。そこにあるだけ。
 最近、よく出かけることがあります。懇親会などの席で郷土の話がでますとね、必ず親戚が茨城のどこどことか言う話が出ます。「どうですか?茨城の印象は?」と尋ねると大半の方が「広くて便利で気候が温暖でとても良い処ですね」とお世辞抜きの評価をいただく。これで良いと思いますね。
 私達茨城に生まれ育った人間は郷土の素晴らしさを意識せず享受しています、だから取り立てて自慢することはしない。これぞ謙譲の美風でしょう。伝統文化ですよ。
 誰しも自慢話を喜んで聞く人はいない。しゃーない聞いてやるか!というのが本音でしょう。やっぱり水戸黄門様が今でも諸国を漫遊していると思っているんですよ。これってお目出度いことでしょう。私はそう思うな。
 陰徳を積むという昔からの教えもありますね。陰徳あれば必ず陽報ありです。自未得度先度他とも言えます。
 自慢度46番目という事を誇れば良いのです。逆転の発想? なにも敢えて自慢話などする必要は無く、平和に生活出来ている県という証です。そこなんですよ知事さん。私は本気でそう思っていますから。
 自慢したい奴には自慢させておけば良いのです。
 リンゴとミカンが両方取れる県って他にあまり無いでしょう。だから自慢する必要性を感じない。ただ水戸学の教えがどこかに生きている。桜田門外の変という映画を見て感じたんです。私は涙流しながら見たんですよ。過去の歴史つまり江戸〜明治〜大正〜昭和という激動の時代にあって我が茨城県人が必ずや登場しています。
 平時には無関心のよそいはしていますが、今だ!と思った時のエネルギーの爆発というか血気というのか凄いと思っています。だから我々が更に自慢などすれば、各県から怖れられる存在になりますよ。言わせておけば良いのです。
 実は私自身は名古屋の血と茨城の血が混ざっていますから、時と場合によって混乱します。でしょうが、構わない。
 これからの日本を考えた時に県の優位性云々に振り回されている場合じゃないと思います。
 名古屋市長のキャラクターに魅力を感じるのは、今が有事と見るからです。
 ただこれだって比較の問題、何をもって有事とみるかです。だってそうでしょう。愛知には世界のトヨタがあって、一人勝ちの地域だった。そのツケがいま一気に襲ってくる。そんな危機意識があるんでしょう。多分そう思う。
 正直に申しますが、自立支援法がらみのゴタゴタ騒ぎ、私は無責任かもしれませんが余り動揺しません。中央の幹部からみれば住田は協力しないと見ているかもしれない。構わない。それよりも、政権が変わったら急に鉾先を変えるような戦法に私自身は大いなる違和感を持っている。ただそれだけのこと。
 

1656:その器にあらず

何か役職を頼まれた時の断りの文句として、私の父は”その器にあらず”と言った。余計な事は一切言わず、私にはその能力が無いと頑として引き受けなかった。
 いま思い返すと実に懐かしい場面が浮かんでくる。最近の自分を振り返れば、実に様々な人々との出会いがあった。正直、殆どが記憶から落ちている。ただ、この年齢になって確信できることは、1日1日を大切に生きたいということだけ。
 友人や知人を失ってみて、いずれ自分の番になると痛感する。そして、その反動として焦りが増えている。
何を焦っているのだろうかと自分でも不思議になるのだが、結局、世の中は急には変わらないということだ。所詮、人間の為せる業、くっ付いたり離れたり、羨んだり嘆いたり、ああしたいこうしたい・・・・という状況は日常茶飯に繰り返される。
 だから、自分の居場所を見つけ出す事が実に厄介になった。目移りすることが多過ぎる。
子猫が猫ジャラシで戯れるが如く、一心不乱に騒ぎ出す。結局は自分自身が可愛いもんだから、自分のことはさて置いて周りのものを批判する。
 こうあって欲しいという希望は持っても良いだろう。しかし、こうあらねばならないという事は至難の業。そのところが極端に小さくなってしまった。
 人との関係もそうだ。何か薄ぺっらな表面的な付き合いが多くなっている。そう感じているのは私だけであろうか?
 何か事を為す時に、お互いができる協力をすすんで行うということが減った。このままいくと、何でもお金で解決しようということになり、実に厄介な関係だけが残る。
 年明けの国会審議では予算が果たして上手く通るのか。財源に対する徹底した論議がなされず、小出しに出すような結果に落ち着くのではないだろうかと今から危惧している。
 マニフェストという言葉が急速に消えて行った。実効性のない文字の羅列、先伸ばしと言い訳の山。じゃー何を選択の根拠にすれば良いの?自党内の意見集約ができず、議員数のメカニズムだけが目立つ。いま教育現場では、校長や教頭になることを拒否する動きが出ているという。責任ばかりが掛かって子供たちとの触れ合いの時間が持てない。管理者としてリスク対策や苦情対応など本来の教員としての業務とはかけ離れている。
 これは教育現場だけの傾向では無い。民間企業ですら同様の動きがでているという。こうなるとどういう結果が生まれるか。つまり、新たな取り組みはせず、前任者と同じことを大過無くやれば良いということに成り下がる。
 多分、世界の大きな流れの中で日本だけが特異な状況になっているんじゃないだろうか。先日、茨城県の障害者文化活動の一環として恒例の行事が行われた。県立文化センターの大ホールをメーンに様々な催しが行われた。幸い天気に恵まれ屋外での模擬店にも客が入っていた。
 私が一つ気になったのは、毎年VSで協力してくれていた福祉系大学の閉鎖という話だ。引率される教員は以前から知っていてとても協力的な人である。最後の学生が今回のイベントにvsで参加したという。毎年、福祉系の学校の閉鎖や縮小があることも事実、それに対して本気で解決策を議論したということも無かった。学校は経営を優先するから学科の変更で内部組織を大きく動かす。福祉から医療へという流れが一般的だ。
 正直、福祉職の働く現場事業所では、人手不足を常に問題提起はしているが、中長期の具体的な対応策は充分ではない。関心を呼ぶイベントなどは単発的に実施しているが、根本的な解決には結びつかない。どうにか辻褄を合せているのは不況という実態の中で職が無いということでどうにか人を集めている。決して前向きな状況とはなっていない。
 

1657:知らぬが仏

秋晴れの日、ここは茨城空港でありまーす。なんと我々6人組は尚恵学園を代表して始めて空の旅を郷土茨城空港から旅立つ決意で参上仕りました。『いってきまーす!!』
 彼らは何も知らない。飛行機がなんと恐ろしいものか?と。私の下に写真が届いた。みんな笑顔が一杯、この後が一騒動あったとは信じられません。知らぬが仏であります。
 年間、かなりの数のグループ旅行があります。機会をみてそのコーナーを作って、ご紹介しましょうね。今日は別にそのことを触れるつもりはございません。
 ここ数日間は天気が良くて日中は温かく、このまま冬を迎えるならば結構なことだと思います。でもどうやら今年の冬は寒さが厳しくなりそうだ。最近、派手なイルミネーションが流行っています。個人の住宅を電飾で見事に飾って目立つ家が増えました。当家の人の心境はいかがなものか?まだ、墓地を電飾で煌びやかにするお寺は見た事がありません。一度やってみたらテレビの珍百景の取材にくるかもしれない。近所から顰蹙を買うことは間違いなし
 昨夜は遠出して常磐道の守谷サービスステーションに立ち寄る。ここも見事に飾ってあった。良く知らないが電気代は大したことはないと言う。
 世の中、あまり良いニュースがござんせん。せめて綺麗だなと思うことがあれば儲けものでしょう。そんな心配りかもしれません。
7日は暦では大雪だという。師走に入り、1週間があっという間に過ぎた。今年も除夜の鐘の準備をしないと不味い。
 間際にならねば準備はしない。これ毎度のことであります。
さてとここにきて朝鮮半島をめぐるキナ臭い動きが目立つようになりました。ニュースで見る位では、何か現実感がないのですが、もしも万が一にもミサイルが発射され日本のどこかに着弾でもしたら、大変な事態になることでしょう。その対応策はできているのでしょうね。ちょっと前尖閣での漁船衝突のビデオ流出事件が大きな問題となりましたが、ウイキリークスの暴露は桁違い、果たして未公開の重要資料がどれだけ有るのか?どうしてこんなに簡単に秘密文書が洩れるのかね。
 いやいや恐ろしい世の中になったものです。人間の心理として隠されたものは見たくなるというものです。これって永遠にありますね。だから情報社会になった今では正直防ぎようがないんじゃないでしょうか。
 一番それを防ぐ確実な方法は秘密は持たないこと。でもどうでしょうか?有り得ないでしょうね。
 ならば”知らぬが仏”って言うのが良いのかも。
 最近の福祉現場は、個人情報の保護と情報の共有という2つの問題がありまして、大部分がコンピューターによってなされている訳ですよ。データー紛失ということもありますし、折角保管してあった情報が機械の不具合で全てがパーということだって無いとは言えない。
一体これから先どうなっちゃうのでしょうか。本日、定期MRI検査を受けました。時間にして20分程度、頭を固定され、ドームの中に横にされ、偉い騒がしい音のする検査でした。何度か経験したことがありますが、まったくまな板のコイという思いになりました。その後、主治医が映像を見て、フンフンとか言って説明してくれましたが、悪くもなっていないし良くもなっていませんね。私はハイと答えただけそれ以上何も話すことができなかった。
 体に影響はないという検査らしいが、何だか知らないが疲れてしまって暫く横になって休んでしまった。気のせいか頭の回転が少し良くなったように思う。

1658:自由な時間

巷には音や活字が溢れている。それを自分の目で見て音で聞いてインプット、この量が膨大でITを使えば無制限の世界に紛れ込む。現代を良く表しているものに街に出れば多くの人々が片手に携帯を持ち睨めっこ、何をやっているのか知らないが坐禅に通じる?集中力。そして入力限度目一杯に詰め込み、そこに安心感を見出そうとする。全く逆のことをやっているとしか思えない。
 情報依存が増すばっかりで、何が重要な情報かを仕分ける能力は退化する。正直、私自身もその種の人間だ。
必死に抵抗し、なるべくそうならないように努めてはいるが、知らず知らず引き込まれそうになる。
 これこそ、現代人の落とし穴、便利さの裏に潜む魔物だと思う。人間に与えられた時間は様々、もし自分の持ち時間が分かっていたら携帯と過ごす時間など激減するはずだ。周りの人々の多くが忙しくて自分の時間が取れないと嘆いている。果たして本当にそうなの?
 自由な時間というのは、本来、自由にもの思いに耽れる時間だ。いつでもどこでも頭を切り替えれば可能なことである。
 ただ、その時間に何を自由に考えるかという要を持ちえない。これこそ出力(アウトプット)の源泉になるはずなのに、出力は人の生き様と言ってもよいでしょう。限られた時間を有効に且つ悔いの無い人生をどう送るか!
PCで容量を増やさないと動作が極端に遅くなる。これと全く同じメカニズム)
 自分の為だけに時間を使おうと思うと、実は間が持てなくなる。何をどうすれば良いのか判らない。元の木阿弥。だから昔から言われてきた事を思い出して見て下さい。自分=相手(他人)と思いなさいと。他人の為に時間を使おうと思うと上限が無くなりますよ。
 そのバランスで人間の価値は決まると言われるでしょう。
 ただ無理しては駄目、直ぐに息切れするから。マラソンに良く例えられるように山あり谷ありの路をどうペース配分して走るかだ。
 途中で給水を受け、疲れたら小休止・・・・。
 私は40年前に東京で暮らした。時間を潰すには喫茶店を良く利用した。コーヒー一杯で1時間位いくらでも過ごせた。いま東京でコーヒー一杯でそれができない。寛ぐ場所では無いのだ。BGMなど皆無、セルフサービスで座席だって腰かけ程度。都会の生活はその意味では不便なものである。
 人間が築いた繁栄には多くの矛盾が存在する。いつも思うのだがエステやジムが大流行り、家事が自動化され歩く事が極端に減った現代は、ちょっと考えれば多くの無駄をしていることが分かる。これを諦めてはいけない。
 北欧の社会保障と根本的に異なる点は、人の数。長期休暇があるのは、夫婦共働きが普通で、それで経済が成り立っている。そこを日本人は理解していない。昼間パチンコで夜、エステ。これで人生良いわけないわ)
 どうにか自分なりの人生設計図を引きなおすべきだと思う。人の事は言えないと自覚しているが、政治や行政への不満をいくら言っても実は本質的な事は何も変わらない。むしろ実態が熟していないと私は観ている。
 戦後の急成長という言い方が良くされるが、そうではないと思う。江戸の元禄だってそうだろう。いつの時代にも浮かれ騒ぐ人はいた。循環しているのだ、日本の風土と文化が成し得た帰結が今と考えるべき。その時代を生きた人々が作り上げた社会だ。
 大勢を変えるまでには至らない。だから埋もれて息苦しく生きるよりも納得いく人生を送るこれが一番。
 これまで言っても解ってくれない?納得できる人生っていうもんは、自由な時間をどう生きるかってことだよ。
自分で考えろ。そこまで面倒みきれんわい。
2010ナイスハートふれあいフェステバル
 
”もし、貴方のそばに車イスの人がいた時
   貴方は どのように感じ
         何をしますか? 自らの意思で ”
日本人の優しさ

 いま それが試されています。
   この国の容が
     どのようになるか?
       自分達の為の地域づくり
     

1659:福祉の哲学T

阿部志郎先生が1997年初版で著した『福祉の哲学』誠信書房が改訂版として出ている。
 衝撃をもって読んだ。特に第1章【呻きに答える】第3節「福祉の哲学」P8 
・・・・福祉の哲学は、机上の理屈や観念ではなく、ニードに直面する人の苦しみを共有し、悩みを分かち合いながら、その人々のもつ「呻き」への応答として深い思索を生み出す努力であるところに、特徴があるのではなかろうか。
 それによってニードを、そしてそれへの対応を社会的共有へと拡げることこそ、福祉の哲学が抱く祈りにほかならない。
・・・・・・そこで、「彼らにたいして、また、彼らのために何をしてやったかということが問われるのではなく、彼らとともにどういう生きかたをしたかが問われてくるような世界である。」
 さらに今の世への提言として、松尾芭蕉の「不易流行」をあげ、変わりゆく社会の流れのなかで、変わることのない
思想・信念・哲学を土台に据えることが求められていると断言している。
 私は糸賀先生の「福祉の思想」を何度も読み返し、自省し自らの力不足を恥じた。お二人の先生に共通するものは、直に必要とする人たちの傍に常にいることであろう。そして発せられる様々な呻きに耳を傾け、その魂の痛みに真正面から対峙した。
 福祉事業家と揶揄される今、一番欠如している哲学がここに読み取れないか!障害者のためとか老人のためという言葉が容易に出てくる事自体が可笑しい。当事者と一般人との感覚のズレが事業家という蔑称に至っている。その本質が問われることなく、大手を振って市中を闊歩する。そして、臆面も無く、その代償を要求する。そこで、阿部氏が言うところの「どういう生き方」をしたかが問題となっている。そこにいち早く気が付き、自らの足元を検証し修正すべきところは修正しなければ、この先、どのような手練手管を弄しても社会的共有を勝ち取ることは不可能だ。
 若者が福祉にソッポを向く時代、ありとあらゆる方法で人材を集めたとしても、生涯の職とまで至らず、中途で去っていくことになりやしないか。
 日本人がいま一番必要としているものは、「どういう生き方」をしたら良いのかということに答えられる実践だ。
 私が戦後が終わっていないと感じることに、日本人の多くが過去の戦争で辛酸を嘗めた経験を有耶無耶にし、先人が築いた繁栄にドッカリ腰を下ろし、他人の呻きを自己責任だと突き離し、自分だけの幸せを追い求める人種に成り下がったと思われるからだ。
 本来、国のリーダーたる政治家が範を示すべきところ、魑魅魍魎が日が暮れて動き出すかの如く、画策を練っている。
 重要な案件があって何故国会を閉会した。我々と同様に週休2日以外の休みは許されないはずではないのか!
我々国民も大いに反省すべきだ。政治家に圧力をかけ、自分の要求を求め過ぎていないか。一つの食べ物を奪い合ってどうする。本来、福祉に携わる人間は阿部氏の弁を引くまでも無く分け与えることが本務であった。しかし、そうとは言えない現実を目の当りにして、余程大きな地殻変動でも無い限り、目が覚めないのかもしれない。
 仏教の「慈悲」の悲はサンスクリット語で「呻き声」という意味を持つ。

1660:福祉の哲学U

前項で充分、私の意を開陳することが出来なかった。そこで追加説明をしようと思った。彼らに「たいして」「ために」は英語で言えばforにあたる。本来の福祉に携わる者が殊更に言うべき事では無い。これだけ財政負担の割合が拡大した産業(?)において、今更何を言うかである。阿部氏や糸賀氏が言わん事を真正面から受け止めれば、「ともに」つまりwithの重視である。福祉の最大の弱点は、関係者のみの自己満足に陥ることである。なかなか社会的に認知されず、その取り組みや考えに対して共通理解が進まない。
 私自身の拙い経験を通じて知的障害者の福祉を概説すれば、依然として障害者に対する偏見が存在する。今、国レベルで制度改革の検討が進み、大まかな外郭が固まりつつあると伺った。一つの例をあげてみたい。施設を建てようとする時、依然として地域の建設同意を貰うという条件がつく。過去に建設反対運動が起こり、場所変更を余儀なくされた事例がいくつも有ったからだ。このこと一つにしても社会的認知が不十分であることがわかる。所詮、好まざる施設なのである。これをどうすれば改善できるのでしょうか?その辺の議論が果たして検討会議においてなされているのか否か。
 もし、国連の障害者権利条約を日本が批准しようとするのであれば、新たな法律の中に反対運動する者たちへの罰則条項を明記すべきではないか。これなくして、ノーマライゼーションもインクルージョンの考え方は画餅に帰すだけだ。
 比較として適当ではないかもしれない。しかし、お隣の韓国には徴兵制度がある。それ以外の国でも同様の義務を若者に課している。それを免除できる条件に一定期間福祉現場で働くことがあると聞いた。
 別に今の日本を軍事国家に逆戻りさせたいと言っているわけではない。国体として福祉国家を目指すのであれば、諸制度を作る前提に、国家としての意志を示すべきだと私は思っている。
 実は昨日、県内の某法人の60周年記念式典にお招きいただいた。創設時のご苦労は筆舌に尽し難い、いま、素晴らしい施設が完成し、初代の夢が花開いた祝いの席だった。
 正直、設備をどこまで立派にすればよいのだろうかという思いはある。ただ、その法人の歴史と尚恵学園をダブらせて考えた時に、私共の小さな小さな実践をいくら積み上げても高が知れているという無力感は拭い去れない。
 歴史的な政権交代に私たちが期待した所は、国としての容を明確に示してもらえると思った点である。
 人間は或る程度豊かさを得た時に、気の緩みと生きる意義を見失うと言われる。何を目標として頑張るかが突然、目の前から消え失せる。徒然草に「此の世を果無み、必ず生死を出でんと思はんに」とうたわれる状況が充満しているのではないだろうか。
 福祉の実態は、其々がそれぞれの要求をしている。何故、連携して方向付けができないのだろう。今の内閣府内で行われている検討が果たしてその壁を乗り越えられるか。
 少なくとも私の立場で肝に銘じていることは、関係者の連携をいかにすればできるかという1点に絞ったことである。
いつまでも議論を続けていても埒が明かない。自ら相手の懐に飛び込んでいく。
 少々、風呂敷を広げ過ぎたと反省している。本当に自分がやりたい事は正直他にある。今のところは企業秘密としておこう。悪しからず。
 

1661:向き合う

職業柄、ちょっと湿っぽい話になるのはお許しいただきたい。ある葬儀の席で白木の位牌に書かれる「新帰元」という上頭文字はどんな意味かと尋ねられた。宗派により違いはある。真言宗の場合は「新円寂」と記す。何故「新」なのか?
 字をそのまま読めば「新たに元に帰る」という。つまり新しく浄土に生まれるという意味だ。仏教の解釈で輪廻転生は正直難しい。なぜならば仏教の究極の目的は解脱、つまり、輪廻転生をしなくてすむ状態になることである。因果応報、善因善果、良き行いをすれば次に生まれ変わる時に今よりも良くなって生まれる。だから頑張って生きようねと教える。しかし、解脱してしまえば転生を繰り返さないのだから、生まれ変わりが望めない。このロジックは厄介だと私はカネガネ思っている。
 先行きが不透明な時代はいつの世も同じ。”苦”をベースに人生を見れば、確かに生きた年月に関係なく、誰しもが思い通りに人生を全うしたとは言えないだろう。どの辺かで妥協し、まー良い人生だったと思うしかない。小欲知足も根っ子の部分では同じ。
 60を過ぎれば誰しもが平穏に老いたいと願うはずである。本日の葬儀は、61歳の現役の方。奥さんが朝、起きて来ないので行ってみると蒲団の中で亡くなっていたという。脳出血だったという。筑波の研究機関に勤められ最先端のエネルギー研究をしていたという。私と粗同じ年齢、昨晩の通夜、家族は突然の大黒柱の死に気が動転しながらも必死に身を正し、弔問者に対応していた。
 普段、まさか自分の身の回りには起こらないだろうと思う事が突然襲ってくる。
 我々が生きて行く事は殆どが予測できないこと、その中で確実に言える事は誰しもが死を経験することだ。しかし、大半の人間は進んで自分の死に向き合おうとしない。
 歳を重ねるにつれ若い人には出来ない事。それは過去に向かう想いを抱き、かけがえの無い今を生きるということだ。
これは徳岡孝夫が『お礼まえり』の中で書いている。
 この世で大切な友人や知人を失うことは、いたたまれない喪失感を味わうものだ。しかし、過去の良き思い出の世界に生きることは、前向きな人生へ反するものではない。死と向き合うということからすれば、無理無く自然体で老いへの道に誘うことができるのではないだろうか。
 今年も残り20日を切った。時間は我々の想いとは別次元で動いていく。いずれ人間は当然と思っていた生活のパターンを変える時がくる。そこをどう上手く切り替えることができるか。
 こればっかりは誰かの責任となすり付けることができない自分自身の問題である。
 

1662:県議選2日

今日は茨城県議会選挙があります。今週は出て歩くことが多く、地元にいた時間が少なかったせいもあるのだろうか?選挙カーの音があまり聞こえなかったように思う。盛り上がりに欠けるのか、それとも選挙戦術がローラー作戦に変わったのか。私にはどっちでも構わないのだが、世間では今回の茨城の結果次第では政権への影響が大きいと注目をあびているらしい。各政党、大物が来県し応援演説をしていた。
 茨城の県民性が果たしてそれに動くか否か?いまいち盛り上がりに欠けた事は否めない。地元、土浦は急に候補者が若返った。知名度から言えばほぼ一線で予想も立てにくい。いずれの方が当選しても、土浦の嘗ての活気を取り戻すには並大抵のことでは無理だ。若い人の発想を一緒に考え、築いていくには議員の若返りはプラスに働くかもしれない。
 しかし、私もいろいろな処に行くが、茨城はあらゆる面で恵まれた県だと思う。先ず食べ物でとれないモノがない。海の幸、山の幸、いずれも種類が多く豊富ときている。それと、他県に誇れる自然条件、災害が少なく、気候も温暖。多少難を言えば交通アクセス、これだって都市圏での話、都内から1時間前後で移動可能なのだから、贅沢は言えない。
 本日、法事が多く、ゆっくりPCに向かっているわけにもいかない。続きは選挙結果が出てからにしよう。
 
 結果から見えてくるもの!
やはり戦前の予想はあたった。民主党公認24名で3/4が落選、かろうじて現有議席6名を死守。落選した人達が大差で敗れている。これは党として深刻に受け止めねばなるまい。この最大の敗因は、一言で言って、政党内部の不協和音である。それも地方にお構いなく、中央で昔と全く同じ権力争いを行い、国民目線どころか、自らの保身としか言いようが無い言動に嫌気をさしたということだ。
 国内外の政治課題に決定打が打てず、責任をとって要職を辞任したお二人がここに来て急に動き出す。
 これは一般社会では有り得ないこと。責任を取り第一線から退いた人間は出る幕では無いのだ。それに対し、意味不明の支援者が徒党を組んで自らの政権の足を引っ張る。もはや政党の体をなしていない。地方選挙は時間差でジワリジワリ影響が及ぶもの。この僅かな期間に一体何がプラスの要因としてあったでしょうか?
 これ以上のコメントはしない。13日は政倫審での説明をすべきか否かの話し合いがあるとか。いずれの選択をしても結果はプラスにはならない。蟻地獄から抜け出すには、相当の覚悟と犠牲が不可欠。果たしてその決断ができるか。
 県議選で言いたい事がもう一つあった。それは投票率の低さ、50%に届かなかった(49%台)。私は今までの選挙に一度なりとも投票しなかったことはない。県民がもう少し足元の政治に関心を見せなければ、良い政治家が育たない。

1663:随所作主

「随所作主 立処皆真」(そのことに一生懸命になれば そこに真実が現れてくる)という意味の禅の言葉「臨済録」、そしてその主人公たるものは、善悪の判断ができ、当たり前のことがあたりまえに出来ると言う。
 実は阿部氏の「福祉の哲学」を読んでいて、氏が仏教に造詣がとても深いことが分かった。
・・・P16 「衆生病むがゆえに我病む」(維摩経)、共感をもって「随所作主」(道元)・・・与えられたところで力を尽くす・・・が、福祉に働く者の職業倫理といえる。 更に「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(聖書)の言葉に励まされる。と述べている。
 つまり、一生懸命に働くことがそもそもどういう事なのかを解説している部分に目がとまった。
 私共が理念として掲げる『共生』とダブる。正直、職員各自が日頃の実践でそこまで理解して行っているとは言えない。
 現実の厳しさから希望へと繋がる道筋を描くことが実に難しく、自分に都合のいいような解釈で止まっている。
 ならば具体的な出来事で示したい。
 今月11日、先の南アフリカサッカー大会(もう一つのワールドカップ)に日本代表に選ばれ大活躍した3名の報告会が竜ヶ崎市で行われた。私は出席できなかったが祝電(バルーンメッセージ)を送らせていただいた。そしたら今朝、お母さんよりお礼のメールが届いた。
・・・自分には出来る事の限りは有りますが、本当に色々な方々に支えて頂き、過ごせているのだなあと実感できた事に幸せを感じながら、皆様のあたたかさ、心よりお礼申し上げます。・・・・と書かれてあった。
 遠征費用の募金活動から始まり、息子さんが勤務する会社の理解、それと多くの応援する仲間・・・これだって選手に選ばれた息子さんのサッカーにかける直向きな一生懸命さが周りを動かしたことだった。そして4年後のブラジル大会への希望にさらに繋がっている。これですよね。
 私は、ひょうんな事から、知り合いになった。私も高校時代下手なサッカーで燃焼した思い出があり、昨年の新潟での全国大会に応援に行き、その時のプレーに感動した。一生懸命になればそこに真実が現れる。そうなんです。そして周りの人に元気が伝わる。これこそが今の日本で一番欠けている事ではないのでしょうか?
 なんだか得体の知らないモノ、背伸びして高のぞみしているんじゃーないでしょうかね。つくづくそう思いますよ。確信が持てないでしょう。
 国の借金で今を生きていることが日本人全体が身分不相応ってことじゃーないの?もっともっと大切な事、人の温かさや助け合いに価値を見出さず、只管、世界の上位ランク維持に遮二無二なっているよね。それで果たして希望を生んだでしょうかね。何をおいても経済第1だと言われますよね。これって言葉のマジックじゃないですか、一つ間違えば魔境ですよ。
 今の考え方を止めない限り、無駄は無くならないと私は思う。一体何に役立っているのかさえ解らずに努力を強制されていますよね。いつまでこんな事をやれば良いのですか?
 随所作主 立処皆真 本当は身近に有るのに誰もが気が付いていない。
 安全と平和を勝ち得た日本が 更に何を求め、どう生きるかでモガイテいます。しかし、足元を見てみましょう。しっかりと根をはって小さな花を一生懸命咲かせている名も知らない花に気付くはずです。よーく見るととても綺麗で清純な花。
 それって、自分が自分がという思いからは決して見えてこない。喜びを分かち合える関係っていうんでしょうかね。そんなこころの余裕が欲しいよな。

1664:灯を消すな!

伝統の灯を消すな!
 ここ一番が踏ん張りどころだろうな。最近のニュースでちょっと気になったコメントがありました。その一つ目は、一連の歌舞伎成田屋の御曹司の起こした騒ぎに対し、人間国宝でもある歌舞伎界の重鎮が苦言を呈していた。「お客様があってのこと、家柄や人気で浮かれていては駄目だ。親が子に代わって出しゃばって謝るなんてことも私には考えられない。・・・」
 まさにその通り。彼が果たして伝統の歌舞伎界に復帰できるのでしょうかね。謹慎とかいっていますが、本質はそう簡単には変わらんでしょう。何代目か知らないが名をお返しなさったほうが宜しいのではないでしょうかね。
 とかく伝統を重んじる世界には有りがちなこと、親子と弟子関係の難しさです。勧進帳。よっ成田屋。義経と弁慶の主従の絆、これは舞台の上でのこと、現実の世界では筋書き通りに事が進まないってことですか。
 2つ目は全く別次元の話。菅さんが法人税5%を下げるよう指示したという。これだって正直半信半疑、1兆5千億という減収をどう埋め合わせするというのか? また謝罪会見では不味いでしょう。経団連の会長の弁、「これで少しは海外企業と競争できる下地ができたと思う。経営者は会社を大きくし利益を上げることが役目だから。。。。」
 別に目新しいことではなく当たり前のコメントをした。
 この両名の話に全く関連するものはない。でも私にとっては無視できない。”お客様があってのこと”と”会社を大きくし利益を上げること”という処でスイッチON。
 これぞ正しく社会福祉法人理事長の分岐点、どっちの道を選ぶかってことじゃないだろうか!そこで浮かんだ言葉が”伝統の灯を消すな!” 我々の伝統は何だよ?と考えてしまった。
お客様=利用者。果たしてそう言えますか。自責の念に駆られますよ。初代は私の知る限り、この事に一意専心していたと思う。だから周りに協力者が自然と集まってきた。利用者の家族からの不平など正直私は聞いた事がなかった。
 それに”カネもうけ”という評判など全く無かった。母親は米櫃に明日食べる米が無くて隠れるようにして借りに来たと酒の席で何度聞かされたことか!理事長は県庁に勤めながら住職をしていたから、もっぱら施設の事は母親が引き受けていた。それも決して表には出ず、炊事場に入って子供たちの食事を作った。
 この伝統はとてつもなく重い。昔を知る人は、必ず今の状況と比べるからだ。世の中が変わり、制度ができ、様々な恩恵を社会福祉法人が得ている。だからと言って経団連の会長の弁は、そのまま受け取れない。法人を大きくする事が果たして”お客様”の為になっているのか???
 手練手管に長けた経営で規模をドンドン大きくし地域で確たる地位を持つ。この評価は決して真に受けてはならない。
 所詮、公金を受けて為せる業、本来の趣旨に反する事はできない。
 日本の実状は公益法人見直しの動きに明確に示されている。立場を利用して上手い汁をすっている輩という見方が一方ではある。
 伝統の灯を消すなということに、私なりの言い分はこうだ。
 今、施設が必要でないとは言えない。ただ、その有り方を自ら真摯に反省し改善に努力しなければ、結果として存続を危うくし、一番の犠牲者が利用者になる。
 ”奢り””誘惑””自己欺瞞”・・・・・止む事無き外圧。これへの対抗策は、”伝統の灯を消すな!”という事だけだと確信している。
 

1665:不法占拠

ここ数日の間にめっきり寒くなって参りました。いよいよ冬の到来かと身を引き締めております。
 さて、本日申し上げたい事は実は夜な夜な私の蒲団の中に攻め入るモノがおりまして、大層困っております。実は、以前紹介しました我が家の2匹の猫、1匹は2代目でして生まれた時から一緒の生活をしていまして、まあ人間の歳で言いますと優に70歳、歯が殆どありません。ハナと申します。もう1匹は保護した猫、実は雨の日に捨てられていたわけです。この子が大病しまして1週間毎日通院しましてね。御蔭様で元気を取り戻し、今では手のつけられないヤンチャを発揮、障子は破くし、容赦なく引っ掻きますし、押さえつけると噛みつくのです。2日前には見事?に飛びはねて私の鼻のテッペンを引っ掻きまして、体裁悪くも鼻に傷。この子はオス猫と判明。名をミミと申します。異様に耳が大きいのでそのような名になっただけです。最初はこの2匹がどうしても相性が悪く、お互いに威嚇し合い、家の中が不穏な状況になりました。でもどうにか2匹で留守番ができるようになり、私としてはホッとしているところであります。
 寒くなったのでしょうか夜中に2匹が私の蒲団を不法に占領します。ハナは今風に言えばメタボ、体重を計ったことはありませんが、最近のストレスからかやたら食事が進むようであんこ型。これが私の上にドッコラショと乗る。ミミは少々風邪気味?で良くクシャミをするのですが、これが蒲団の中に入ってくる。少し余裕を持たせないと騒ぐもんですから、私は腕で隙間をつくる。
 この状態では全く私は寝がえりができない。  不法占拠です。
 今朝もミミは私の腕枕で鼾をかいて寝ていました。平和だなー!と思う瞬間です。 時計を見れば朝の4時、急いでラジオをかけました。すると奈良市の植村牧場の話。歴史が130年以上あって奈良市内の般若寺の門前で30頭の乳牛を飼っている。
 やけに良くお喋りをする女性、後で解ったのですが、3代目で牧場を継いだ代表の方。ここでは知的障害者の方を14名雇用し、宅配で瓶牛乳を毎日1000本、更にソフトクリームやチーズなども生産販売して有名だという。正直私は初めて知りました。日本一遅れている牧場と笑いながら話される代表、何せ喋りまくるから聞いているほうもキツイ。
 話しは最後まで聞かないと判りませんね。日本で酪農の経営が成り立っている所は、機械化や合理化した大規模な牧場だという。しかし、ここは一貫して機械化を拒む。何故か?知的障害者の人達がやる仕事が無くなるからだという。社会福祉法人化しないかと誘われたこともあったそうだが、企業として続けたいということで今も法人化はしていない。
 いま、福祉の世界はどうも似たような理念で経営されている処が多過ぎる。独自の理念によって確実に実績をあげている所は正直探すのに苦労する。
 明日も続きの番組があるという。一度、訪問したくなった。福祉の基本は”自立”と”連帯”、この実践がここにはあるなとピンときた。
 不法占拠の話しですが、これって別に私が可愛がっているからではありません。寒くなったからだけでありまして、所詮モノゴトはそんなもんですよ。大それた理屈を捏ねまわすから訳がわからんことになっちゃう。
 追記:障害者の授産品目で食べ物を扱っている所は実は大変なんです。例えば宮崎県で大騒ぎになった口蹄疫が入った時を考えただけでもお分かり頂けると思います。それでも続けるのは、強靭な意志でしょうね。
 それが無いんだよな。永田町の皆さんには、あーあっ、まったく困ったもんだ。

1666:歳の暮れ

色鮮やかなイルミネーションが目立つようになりました。電気代がいくらかかるのかと心配になる私はどうも古い人間の類に入るのでしょう。ここにきて急に悔みが増えました。寺の法事も駆け込みで多くなる時期ですから、重なってしまい、連日落ち着かない日々を送っています。そんな折、ニュースでは暮れと正月にかけての海外旅行の予約状況が流れていました。羨ましい限りです。1週間も10日もどうして休みがとれ、海外でノンビリできるんだ!こちとら、この時期のほうが忙しい。悩み多き友よ。一緒に南国の浜辺で語りあいたいよな。。。。
 木枯らしが吹くと折角掃除した庭が台無し、天を仰げば、いやーまだまだ葉っぱが沢山付いている。やる事っていくらでもあるんだ。これは天の思し召し、炬燵に丸くなっていないで外で動け!ってことでしょう。
 朝、今日1日の段どりをする。古河の施設でオープンセレモニーに出席したあと、近所に見舞いに行って、そのあと行方の知り合いのお通夜に・・・・。冠婚葬祭の一手販売。
 昨日は午後から急に気温が下がった。来客と歓談中、非常ベルのケタタマシイ音。なんだ?どうした?どうやっても音が止まらない。スプリンクラーの警報ランプが点いている。作動したのか?職員が走り回っている。
 結局、原因が解らなかった。業者に連絡すると急に気温が下がったところに暖房の温風があたったからだろうと言う。
 それでは困るということで、埼玉より修理に来て頂く、終わったのが夜の9時を過ぎていた。すでに蒲団の中に寝ている利用者もいれば、廊下やデイルームをウロウロして歩き廻っている方もいる。これで火が出たらどうなんだ!
 青ざめた。
 普段から訓練はしているのだが、職員がローテーションで勤務するからその徹底が実に難しい。でもそんな事は言っておれない。近いうちに全職員に新たに設置したスプリンクラーの操作研修を再度行うことにした。
 また、この時期はノロちゃんやインフルエンザへの対策も大変だ。これが現場の偽らざる実態、それをなんと入所施設不要論まで飛び出すご時世。改革推進会議の中間報告を見ると、確実にその方向性が強まっている。
 私の気持ちとしては、それならやってみればという気持ちだ。地域で本当に安全にしかもご本人が満足したサービスが提供できますでしょうか。けっして甘くは無いはずです。私共の取り組みは53年の積み重ね、今まで一度なりともこれで良しと思ったことなどありません。仕方が無いと自らに言い聞かせ工夫しながらやってきた細やかな実践です。
 その事を何故、あの人達は理解しないのだろう。結局、理想という目くらましで現実と別次元の結局は自分の為ではないのか?自分がこうやって欲しいことを相手に行へ!本当にそこまで徹底できますか?と私は言いたい。
 腹の虫の居所が悪いのか?壁を足蹴りして壊す人、大声をたて騒ぎ立てる人がいるんです。この人達の人権を本当に守る人達がどれだけいるのでしょうか?
 受刑者の中に知的に障害のある人が大勢いるという報告、あれは山本とかいった元国会議員だったと思う。自ら政治資金規正法かなんかで収監され、刑務所内で見た人々を自著の本で紹介したのが切っ掛けでしたね。なんで今更という気持ちです。私たちは別に彼が公表しなくとも解っていましたよ。でもそれが現実、日本の実態です。臭いモノには蓋をしろという考えが現に存在した。スプリンクラーの話しだってそうです。群馬県で起こった介護ホームでの焼死事故が切っ掛けで一斉に通達が流された。要は、事が起こってから急いで対応するやり方でしかない。
 これだって待機者が多く、やむを得ず受け入れてきたという現実。そして、お決まりの回答は、予算の裏付けがないので今度の課題として重く受け止めるという常套句。
 いま、国会の関心事は、政倫審に出るか否か、何をトンチンカンな事をやっているか!自党内の事だろう。さっさと辞めてもらったらどうなんだ。元総務大臣が政権交代の立役者の首を晒し物にするのかと猛反発。アンタはつい最近まで閣僚だったんじーありませんかね。全く永田町に毒されてしまっている。国民は政権交代そのものに疑問をもっているのを解らない。だから見なさいよ、弁護すればするだけ有権者は離れていく。もう世間様の意見など耳に入らない。これだー!あああやんなちゃった。驚いた。
 政治家は国民のやってもらいたい事をやる。そうじゃー無かったのかな?特定の政治家の下僕ではならぬ。
 

1667:視座

政府の次年度予算の大枠が示され、2兆円という金額に各省の大臣折衝によって上乗せ攻防が行われている。事業仕分けとの整合性はどうなのか?法的な根拠が無いというものが多過ぎるように感じてしまう。穿った見方をすればパフォーマンスと受け取られても仕方が無い。長期の自民党政権の中で堆積した様々な事象は(私は全政党の責任だと考えている)、確かに急激に変えようとすれば軋轢が生じる。押し問答があっても収まる処に落ち着けば良い。どうもそれが不安だ。取りあえずという政策が多過ぎないか、また、決定されたことが簡単に覆される。その繰り返しが多過ぎるから、国民は政治に信頼が持てない。
 ”視座”というものは視点である。何をもってという大義が大切となる。日本人の特徴として、内田の「日本人辺境論」の中で言及されたことを出すまでも無く、オリジナルな文化的・社会的な意義というよりも他からの模倣という手法を取り易い。対語として”創造”をあげれば、日本人の生真面目さが逆にマイナスに働くのではないだろうか。
 福祉と寺という世界に長く身を置き、他の世界に全く疎い私は、正直、昨今の時流にどう対処して良いのか判らない。
 その一番の理由は、批判覚悟で敢えて言わせてもらうと、”ホンネとタテマエ”の2重構造への危機感である。
 福祉というものは国の支出の総体を言うのではなく、個々の人間の満足度で評価されるべきこと。これは実際には大変難しいことで、人間一生をかけても成し得ることではないかもしれない。ただ、これだけは確信している。何が満たされないかという事を見つけ出す取り組みはできるはずだ。
 水戸学の教えのなかで「隗より始めよ」というものがあると伺った。思い立った者が先ず始めなさいということだろう。
 歴史にあまり強くはないが、徳川御三家の水戸が幕末において尊皇の旗を掲げ大政奉還の先がけを担った史実は、闘争的な一部の人間が起こしたものというよりも、当時の基礎的な教養としての儒学に日本古来の学問思想や伝統を加味した行動であったと思う。幕末の水戸藩は他藩と比肩できない犠牲を出している。それがあってこそ国内での西洋の傀儡戦争を回避し明治維新が成し得たと言えよう。これは決して贔屓目ではなく、我々今を生きる人間が歴史から学ぶ重要なポイントであろう。
 維新からみて140年以上が経ち、当時と比較にならないほど日本の国際的地位は高まった。その地位を長期に維持する事は容易にできることではない。世界史的に見ても140年という期間は決して長くは無い。その短い期間に成し得た勲功は枚挙に遑が無い。
 ただ、気がかりな事はこれから先我々は何を教えとして生きて行けば良いのかという1っ点である。多様な価値観が溢れ、平和と繁栄は当たり前、本当の意味の苦労をせずに大人になった人間が増え過ぎた。
 その端的な例があるという。日本にあって途上国にないものが何であるか。直ぐに頭に浮かびますか?
 子供の自殺だと言います。途上国を訪れた時、誰しもが感じる子供たちのギラギラ光る眼、残念ながら日本の子供たちに”夢”を語らせた時に、びっくりするような夢を語る子が少ないと聞いた。妙に大人びて人生を達観したかのような子供を見ると気味が悪い。
 生きるということの原動力は、夢だと私は思っている。実現不可能だとわかっていても挑戦しようとするエネルギー。
 3Kとか言われ、依然として人材確保に四苦八苦している分野、実は表には出ず、影で支える職業に多い。未知の分野でもあるわけで、諦めて寡黙になるのではなく、何か妙案を見つけなければならない。
 視座をどこに置くか!今後益々、そのことが問われ続けていくものと私は思っています。

1668:追弔和讃

” 人のこの世は 長くして 変わらぬ春と 思えども
   はかなき夢と なりにけり あつき涙の まごころを
     みたまの前に 捧げつつ おもかげしのぶ 悲しけれ
       しかはあれども みほとけに 救われて行く 身にあれば
         思いわずろう こともなく とこしえかけて やすらからん   
            南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛  ”
 豊山流和讃の中で人気のある追弔和讃である。最近、お通夜の席で唱える僧侶が増えている。茨城県は和讃が全国に比べるとそれほど盛んに行われてはいない。四国遍路をすれば大師堂の前で御詠歌を唱える人と必ず出くわす。網笠をかぶり鈴に合わせて唱える七五調の讃は言い知れぬ風情を醸し出す。物悲しい曲調で唱えられる中にも心安らかにする何かがあるから不思議です。それはなつかしい子守唄と同じ陰旋律で唱えられるからかもしれません。そして唱える者と聴く者が一緒になって身近な人との永訣の哀しみを乗り越え、生きる勇気と、やがて訪れる自らの死に安心を与えてくれると言われます。
 葬儀の容が変わってきました。都会で行われる通夜は、早めの焼香、そして自席に戻る事無く、そのまま通夜ぶるまいの部屋に移り、お帰り頂くという流れが定着しています。ベルトコンベアー式です。葬儀の意味が見直され、業者による様々な工夫が先行し、我々僧侶の出る幕が益々少なくなっています。
 私は布教師という役目を仰せつかり、本来ならば葬儀の席での法話を広める責任があるようです。しかし、どうでしょうか?実際には聴いて頂く状況はないと言っても過言ではないでしょう。ならばどうする。ご焼香の時間に追弔和讃を唱えるというのが良いと思っています。
 でも、あくまでも調べであります。カラオケを例にあげるのはどうかと思いますが。生来の音痴という方は止めた方が無難です。
 現在行われている葬儀や通夜の進め方は同じ宗派でも地域やお寺によって一様ではありません。最近、親戚での悔みが続いたこともあり、清宴の席に出る機会が増えました。大体、そこで出る話題は、お寺への不満ですね。時間が長すぎるとか簡単なお経しか唱えず手を抜いているとか。お布施が高いとか・・・・一体、どれ程が合格点なのでしょうか?
 また、『あのお坊さんはカッコが良い、お経も上手、あんなお坊さんにやってもらいたい』なんて話も希に出ます。
 まっ前段の話題としては、お寺の事が多いようですね。徐々にアルコールが入ると故人と関係する昔の話になります。ここからが本来の葬儀の意義になると私は思っています。挨拶で差し障りの無い坊さんへの誹謗中傷(?)が出て、お互いの面通しが終わった後でやっと盛り上がりが出てくるようです。ですから、坊さんは酒席の肴という訳です。
 よりによってキンピカの衣を纏って厳かに登場するものですから、格好な見世物?という具合になる。これを粋に感じる方もおればそうじゃない坊さんもいます。正直に申しますと私は後者であります。
 最近、九〇歳を超えた方の葬儀が続きました。長寿銭や紅白のタオルをお返しに入れる習慣が出てきました。悲しみとお祝いを一緒に行うということです。いやはや参った。
 なかなか実現できないのですが、今度遍路に行った時は御詠歌を唱えながら歩こうと決めています。
 私は良く言われるのですが、坊様アレルギーになっていませんかと。そうです。そうなんです。闘いですよ全く。
  ♪ ひーとの この世ーーーは なーがーくーして・・・・・・チン。
 

1669:羞恥心

昨日は親戚の法事があり、菩提寺で行われた。久しぶりに東京のAちゃんに会う。彼とは1つ違いだから、もう定年間近の年齢である。彼は頭脳明晰であり、彼とアカラサマには比較はされなかったが、粗同じ年頃だったことから良きライバル?だったのかもしれない。IBMという世界でトップシェアーを持つ企業に就職、今まで勤め上げてきた。
 その彼と全国社会福祉協議会のトップとが同級生だったという話を聞いた。今度一席もうけましょうか?と言われたが「いやーその器にあらず」と即座に答えてしまった。
 60年という時は多くの知り合いを作った。これは私の最大の財産だろうな。両親のどちらのDNAを多く受け継いだのか判らない。でも、噛みついたら離さないという性分は確実に親父からのもの、名古屋の血だ。
それが昨日は母親の親戚の法事。名古屋とよくもこう違うのか酒を飲む人間は殆どいない。コップ1杯でまっかっか。それで清宴の席はどうなるのかと思うのだが、結構話が盛り上がる。不思議なものだ。
 日本人の特徴として”羞恥心”をあげる人が多い。確かに外国人から見れば自己主張しないでコツコツ真面目に自分の役割を果たす人が多いとみられるだろう。
 羞恥心とは恥じらいの感情、こんな事を言って変に思われるとか突拍子も無い振る舞いで周りからはみ出してしまうことを恐れる。
周囲への気配りが強いのか。自分はどう思っているのかを中々言わず出し惜しみしてしまう。
 テレビでハーバード大学の教授が日本の有名大学の学生を集め討論集会(講義)をする番組を観た。殆どの学生は耳にイヤホンを付けていた。教授との意見交換に入り、名指しされた学生が意見を述べる。多分5名ほどいたと思う。そのうち2人は日本語で、1名は外国人の女性、それと2名の日本人学生は流暢な英語で意見を述べた。瞬間思ったのは帰国子女かなんかだろうなということ。
 羞恥心は多分、日本人の語学力に原因があるのじゃーないかな。日常会話さえできない人が多いから。
 それと日本人の生真面目さはユーモアを解せない国民が多いと誤解されている。実はジョークという言葉は良く知られているがそれを上手く翻訳することができない。川柳や俳句で果たしてその真意を外国語に翻訳できるかと考えれば解る。日本では”道”という言葉を良く使う。武道・茶道・香道・華道・書道・・・・武士道、侘びさびの閑寂な風潮など。
 ここに昔からの文化価値を見出す。実は道というものが厄介ときている。分派が網の目のように広がる。其々が本家を主張する訳ではないが、なにしろ複雑である。
 最近、決まって政治に対する思いを記すことにしている。それは私自身少々背伸びした思いがあるのは承知している。
大道廃れて仁義あり・・・(老子:第18章)ということだ。大道(根本の道徳)が廃れてくると、どうも世の中に虚偽が多くなり、仁義の強調が必要になるという教えに至るわけだ。
 もしも、日本人の持つ感性として恥じらいを美徳と思い続けていて今よいものか。
 一つの具体的な例を示したい。障害者の認定審査という問題だ。ご存知の如く審査は市町村に任されている。その実態に異議あり。障害者をどう思っているのかという不満が私にはある。事務的な対応、それと不服を言えば毛嫌いされる。現状で、泣き寝入りする人が多過ぎませんか?疑問があればそれを言いなさいと私は常に言っている。
 市町村の担当者にとって、障害判定の区分がどうであっても痛くも痒くも無い。
 不服を申し立てすることは事業所ができない。家族が行うという仕組み。これだって問題は多い。何十年も一緒に生活していない家族が質問に答えられますか?
 世の中の変化に対して、いま現場ではこのレベルの事が整理がついていない。
 

1670:矜恃を保て!

どうして? 何が原因? と首を傾げることが多い。利用者の中にドアや壁を足蹴りして穴をあけてしまう方がいます。目が届かないのか対応が不味いのか、それともご自身が持つ病的な行為なのか? できれば壊して欲しくは無い。それが私の本心だ。しかし、一向に止めてくれない。修理が間に合わない。それとモノを壊さないが、大声(奇声)をやたらとあげる方もいる。これだって今に始まったことではない。何十年と同じことを繰り返す。
 本人も辛いだろうが周りへの影響も甚大だ。「理事長はいつも施設にいないから判らない」と言われた。
 それに対し私の唯一できることは「矜恃を保て!」と吠えること位、情けない。あえて矜恃(ちょうじ)という難解な字を出した、その意図は解決する事が一筋縄ではいかないということを私自身も承知しているからである。判り易いことばでいえば、”誇り””自負心””プライド”を持てということだ。福祉を職とするものへの望まれる指標?これに慣れっこになってしまった。
 「与えられる福祉」から「つくる福祉」への方向転換が提唱されてから大分日が経つ。受け身のスタンスから自らが足を踏み出す社会づくりへということであろう。
 一方では入所施設の不要論という云わば嘗て経験し無かった逆風に我々は直面している。本当にそれで良いのでしょうか?良く聴いてみるとそこまでは言及していないようだ。今までの有り方への反省と新しく生まれ変わって欲しいという要請かと受け止める。
 人間が人間を相手にする仕事で100%満足できることは有り得ない。しかし、壊れた壁をそのまま放置するということは、どのような言い訳も許せない。どうすれば問題となる行為を減らすことができるかという改善への取り組む努力が欲しい。それがプロとしての矜恃を保て!という真意だ。
 施設に社会の縮図をみる思いがする。先人が警鐘を鳴らしている。
・・・・「社会福祉は豊かさに奢っている文明社会に対するチャレンジであり、新しい人間像、社会観を導く文化創造の営みであり、真の近代化への役割を負う積極性を持つ」・・・・・P57「福祉の哲学」阿部志郎著。これこそが糸賀理論の真髄である。
 本来、福祉とは挑戦への気概があって為されるもの、そこに「制度」という仕組みが入りこみ、気概よりも手法を重視する傾向が強まった。こころ無くしてテクニックに走ると排他的になりますね。問題な人を避けようとします。外の眼を気にしすぎるようになり、問題を隠蔽しようとする。
 この負の循環を永遠に繰り返す。気概とは「真の願い」といっても良い。
 今の日本で障害者が社会にとっての負担と見られていないか!この考えには歴然とした差別視がある。自分には障害が無いという”奢り”と言っても良い。果たして本当に障りがない人がこの世に存在するのでしょうか?福祉の根本原理たる「自立」と「連帯」に欠かせない条件をあげるとすれば、私は「分かち合い」だと思っている。それと「見てみぬ振りをする」ことをやめ自分の事だと思うこと。
 現代社会の抱える問題の具象として、”引きこもり”というものがあります。これこそが、「分かち合い」の欠如と「見て見ぬ振りをする」人間社会への自己防衛であろうと思うのです。