源究154

 

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2591 貴方にとって 4/2 2596  ウイルス奮闘   4/18 2601  半信半疑  4/27  2606  親として  5/8 
2592 自分にとって 4/3 2597  別れ  4/20  2602  大型連休  4/30  2607  マンネリ化  5/10 
2593 自利利他 4/4  2598 出逢い  4/21  2603  忘却は資なり  5/1   2608 さてと・・・   5/11
2594 鐘の音 4/6  2599 自徳 4/23  2604  牡丹  5/5   2609 凄いよな!  5/12 
2595 地鎮祭 4/8  2600 韓国船事故   4/24  2605 連休最後   5/7  2610  良心の自由 5/14 

2591:貴方にとって

昨夜は、法人内の歓迎会が市内のホテルを会場に行われました。午後6時から開始、64名の参加が有りました。昨年はどう言う訳か出来なかった。24時間業務を継続している職場の事情で多くの参加を見込んでもできない。今回は春の家庭帰省期間ということもあって例年にない大勢の参加者があったのです。
 某ベテランのスタッフと話をした。彼は雰囲気が随分変わったねと言う。確かに若返りが進み、私にとっては子供みたいな職員が増えた。彼らの会話に正直入れない自分を感じながら、賑やかに和やかに2時間があっという間に過ぎた。
 いつも思う事だが、スタッフの協力が無ければ何もできない。職場の異動もあり、それぞれにとって新たなスタートになるのは仕方が無い。
 理事長挨拶ということで普段思っている事を飾らず話をさせていただいた。どこまで私の真意が通じたか?
 一貫して私が考えていることは、利用される方、一人一人が何を感じ、どうしてもらいたいのか?ということなのである。
 実はそれを聞きだすことが大変で、それが出来るようになればこの仕事の面白味が判ったも同然だ。
 しかし、プロなればそれだけでは本当は不味い。実際に形にしなければ意味がない。
 組織力というものの真価は、ここにこそ発揮されるべきなのである。
 歓迎会の始る前に少し時間があったのでスーパーで買い物をした。消費税が8%になった初日ということがあってのことか、店内はガランとしていて客がまばらだった。
 税の値上げ分は社会保障費に全てまわすと政府は言ってはいるが、その公約通り上手くいくかどうか。
 今年7名の新人を迎えた。早く職場に溶け込み、其々の力を存分に発揮できるよう期待している。
  今日は午後、水戸の我々団体の事務局に出向く。新たに迎えたスタッフへ辞令を渡すために。7月に関東ブロック大会が水戸で開催される。そちらに時間が取られるのは仕様が無いと思っているが、代表をいつまでもやっていて良いのか否か悩みは尽きません。
 

2592:自分にとって

昨年、マスコミで報道された某施設での虐待死亡のニュース、あの影響は思いもよらない処に出てきている。まだ若く経験の少ない支援者が集団で利用者を暴行し、死に至らしめた。
 私は個人の問題ではないと思っています。職場内に何か問題が潜んでいるとみたほうが当たっている。そこを明らかにせず、尻尾切りみたいにして終幕を迎えるのでは如何なものでしょう?
 我々同業者としても他所の問題だと無関心を装うことはできません。それでは日本の障害者福祉を築いてきた諸先輩に顔向けできぬ。
 弁解など聞きたくはない。事件の当事者にとっては、冷静さを見失う何かがあったことは想像できる。一般に3Kとか言われ、福祉現場が敬遠される傾向があることは否めない。まず、ここが間違っていると思うんだ。
 その裏に、多くの?日本人の深層に巣食う現代の病理”自分さえ良ければ”という観念をどうしても見てしまう。
 格差の拡大を是認する風潮は、限界を超えると犯罪になりますよ。
 そこで、例の消費税の議論を思い起こせば直ぐに分かること・・・・・。物価上昇が日銀の予測2%には達せず1.5%に留まるだろうとの見通し。フン・・・・。なんだいコレ・・・・。安いほうが良いに決まっているでしょうよね。この感覚のズレは修正不可能だ。
 今、日本で生活保護を受給している人が一体どれほどいるか判ります? なんと200万人を越え今も増え続けている。
 保護費が上がるどころか下げられる状況の中、世間に知られたくなく、ひっそりと生活する人たち、もしか世の中から切捨てすればという思いがあるとしたら、仏教で言うこの世は四悪趣そのものです。
 日本は長いこと世界で有数の経済大国の地位を占めていた。それが2位から3位に落ちて大騒ぎすることが、果たして道理に適っていることでしょうか。自ら死を選ぶ人が後を絶たない国が・・・・
 結局、自分にとってどうなのかということに行き着くのだが、私は思うんだ。
 自分たちが見失ってしまった大切な「こころ」、それがハンデイを背負った人たちには今でも大切に守られているということ。
  でもこれだけは言いたい。この世にハンデイを持っていない人など誰もいないということに気づくべきなんだな。

2593:自利利他

自利利他って何よ? エヘン! これはな、大乗菩薩道の真髄でな。自ら修行し悟りを得、他人をも仏法の利益を得さしむることじゃ。エヘン!
 ここで目を覚ました。夢だった。うっすらと汗を掻いている。なんだいなんだい、我利我利亡者のクセに・・・・・・。夢か現実か判らず続いている。
 私の信頼する先輩がメールをよこした。私の年齢(63歳)だと第4楽章の仕上げが肝心だという。正直、仕上がりませんよ。
この先、いつまで第4楽章が続くのか判らない。
 最近は、体調は完全でないのは自覚しています。腰痛だけかと思っていたら、あちこちガタがきている。現状維持できれば良いと自分にウヲーキングを課した。自己満足だが9割方は達成していると思うんだ。積り積もれば歩いた距離は相当なものになるだろう。これだな、ウン、これしか無いな!
 先の章で「貴方にとって」「自分にとって」と続けた。その後、はたと困った、続かない、浮かばない。決まっているよな、そんな単純じゃないもの。
 要するにあれこれ思いを馳せることが生きている証だという結論に達した。思う事は自由だ。誰でもできる。
 それを形にしようと余計な事を考えるから可笑しくなる。

2594:鐘の音

朝の6時、寺の鐘楼の音が1回だけ響く。いつ頃からだったか定かではないのだが、聊か遠慮がちに撞かれる。いつも撞いてくれる方は私と同年輩位のご婦人だ。今朝、その方が本堂の前で手を合わせているのに気付く。丁度6時になる5分前。
 揣摩憶測で申し訳ない。その姿をみて、一瞬体が強張った。何か願い事があるとすれば、少しでも癒されてくれれば良いと思う。
 寺の住職という自分の立場を普段あまり意識し無い。これが自分を生臭坊主と思う理由だが、坊さんとしての確信が持てる姿が未だ見つからないというのが正直な気持ちなのである。
 尚恵学園では一年の中で家庭帰省する休みが3回あります。3月末から4月始めの5日間、この期間は常にどう言う訳か早めに出勤する。すると窓から私の姿をじっと見つめるOさんと目が合った。誰かが帰ってくるのを見定めているのかも知れぬ。彼は20年来帰省が無い。
 Oさんの目に何かを感じ、私は一瞬血の気が引いた。
 凄いんだよな。重いんだよな。・・・・・・・。
 彼は5歳の時に尚恵学園に来た。もう43年が経った。
 世の中にこんな不条理があって良いものか!彼の眼はそれを言っている。最近、生前診断で赤ちゃんがダウン症か否かが判る。もし判った時に親はどうするかという論議があった。
 一方、国は入所型施設を減らし、その方達の生活の場を地域にということでGHの設置を推進している。
 でも、国はそれ以上の事は示さない。否、示せないんだ。地域で生活することがどういうことになるかまでは感知し無い。本来なれば我々施設関係者が実践を通じて明すべきなのかもしれぬ。
 現実はどうだ?尚恵学園ではある時期毎年GHを作った。いま9カ所ある。それが多いか否かは一概に断言はできません。
 私はOさんにGHへ移りたいかどうか尋ねたことがあった。その結果は、彼は尚恵学園に残る事を選んだんです。
  *世の中は全ての人達に良かれと思われることは有り得ない?そうだよ、でも仕方が無い。
今の日本の情況は先進国の中でも格差拡大が上位国になっているという。
 

2595:地鎮祭

4月8日は、花まつり、別称、灌仏会とも言います。釈尊の降誕を祝して、花御室を作り誕生仏に甘茶(5種の香水)をかける。
 本日、新たに建てる成人寮の地鎮祭をこの日にあてた。その思わくとしては尚恵学園の再スタートという意図を持つ。
 なんどかこの欄で触れた事だから、敢えてそれ以上の説明は省きます。只管に”再スタート”でリセットとは違う。それはゼロからのスタートではなく今までの58年の歴史があるからで、引き継がれるべきモノが必ずあると思っているからです。
 利用される方達の願いをどう具現化するかという最大の課題があります。地鎮祭は神式で行われるのが一般的でしょうが、実は仏式にもあるのです。各宗派により、多少の違いはあると聞いていますが、真言宗豊山派の次第に基づき執行する。
 最近は地鎮祭は少なくなったようだが、本来の目的は、建築する土地の神を祀って、工事の無事を祈願するものですね。
 建物が完成し、いざ使い始めれば今度は利用される人達やスタッフの無事を願う。だから同じなんですね。この願いはずっと続いていく。
 無事・・・事変の無い事。つつが無い事。自然のままで何も人為を加えないこと。為すべき事が無い事(広辞苑より)

 ひとり再スタートと意気込んでいるのは、無事+アルファーということなんです。要は、無為に一生を終えて良いはずが無い。背丈以上を望まぬとも、喜びや楽しみが人間には必要、そこに目を向け、生きていて良かったと感ずること。
 私ぐらいの年齢になれば、定年を迎え、これから先をどうしようかと思い悩んでいる人が多いと思いますね。
 シューベルト作曲の交響曲第7番ロ短調は、多少音楽を齧ったことがあれば判ること。第2まで完成し、第3楽章は草稿だけで未完のため”未完成交響曲”と言われたそうですね。
 ならば貴方自身はどうなのさ。
 年若くして、突如死を迎える人もこの世の中にはいます。果たしてその方がどう思っていたでしょうね?我々は自分の最後を草稿ですら描けないのが普通でしょう。所詮他人事なんです。
 地鎮祭は知らない中に受けている恩恵に感謝と報恩を誓うことだと思っているのです。心配していた天気も本日は晴天なり。

2596:ウイルス奮闘

 ウインドウズXPから7に変更をしましたが、それと同時にソフトもバージョンアップしたために勝手が違って偉い苦労をしました。そうこうしている間に何時入ったのか分からないのですがウイルスに感染?しまして悪戦苦闘、やっと暗いトンネルから脱出できるかなというところに来ました。
 私の能力以上のことをやっているという事を痛感、HP作成をプロにお願いすべきかどうか随分と悩みました。しかし、これには恥ずかしながら拘りがありまして、再度挑戦しようと決めました。
 できなくなれば潔く諦めますので、そのことは前もって言っておきますね。
 さてと、ウイルスというものに実際に自分が感染するとは思っていませんでした。今考えると実に相手は巧妙です。対応ソフトを作る方と万が一同じであったとしたら、これはもう話になりません。ルール無き戦いのイタチゴッコと言うんでしょうか際限なしです。余程の暇人ならばいざ知らず、・・・・・・・。なんとも皮肉なことにそれが私ですか。
 あれは丁度、テレビで豊かさの限界という番組を見た後でした。経済最優先とか利便性とか夢中になっている。何か変だなーと感じながら、それを拒否することも変えることもできない。ここに人間の弱さを見ます。
 聞くところによるといま大流行のスマホにだってウイルス感染があるそうで、どうなっちゃうのか恐ろしい。
 いま、書いているパソコンは仮のものでノート型を使用しています。使い慣れたデスクトップ型のがドッグ入りですから仕方がない。それと今、パソコンの出荷が間に合わないとか伺いました。4月からウインドウズXPサポートの期間切れということになったからこんな風になってしまったようです。
 切り替えごとにこんな状況になるとすれば大変です。何せこのHPを作っているソフトも以前使っていたのがバージョン11でしたが、今回のは17に大きく飛び越え、これが全く勝手がわからない。
 今までのお詫びと合わせ奮闘進行形であることをお知らせし、もうしばらく我慢してお付き合い願えればと思っております。・・・・はい。

2597:別れ

 昨夜は私どもの通所部をご利用いただいていたIさんが50歳で亡くなり、その通夜に列席させて頂いた。ご利用いただき7年が経ったという。スタッフによると実に温かいご家庭で皆さんが彼を支えていたという。数年前にお父さんが亡くなり、お母さんがその後お一人で彼をみていたそうだ。斎場の入口に置かれた写真には小さな時の元気な姿の写真があった。聞くところによるとその当時は今でいう多動なお子さんで大変だったそうである。それが何時ごろか癲癇発作が頻繁におこるようになって段々と障害が重くなってきたと伺った。
 通夜の後の清宴の場でお母さんが私に飲み物を勧めながら、「お父さんが待っていてくれるから安心です」と何かホットしたような様子。「いずれ私も逝くんだし・・・・」  ご夫婦で彼を支えてきたご家族を周りの人たちが温かく見守って今日を迎えた。
 尚恵学園では『共生』という目標を掲げて今までやってきた。私は一度なりとも満足したことはない。申し訳ないという気持ち、ならばやれよと自分自身に何度檄を飛ばしたか!
 実は共生とは何も改まっていうべきことではない。当たり前のことだ。それができていない今の状況をどうすればできるのか?
昨日は彼の葬儀の時間と重なり、法人内研修で京都の樋口さんを講師にお招きし、研修を行った。彼の法人の理念にある・・・常に時代に先んずる生活の質を追求し、先駆的事業にも果敢に挑戦します。・・・という実践の軌跡を生に伺った。それに合わせ「10のコンセプト」
 その中で一例を紹介すれば、E臭いのしない施設、40名の「庵」(施設名)が6つの独立型(ユニット式)ホームに分かれて生活している。その中になんとトイレの数が27か所あると伺った。職員用のトイレは無いという。利用されている人が二人で1か所のトイレを使い、スタッフも利用する。臭いを常にチェックできる配慮だという。
 ウーム!この話を聞いて言葉が出なかった。
 いずれ人間は別れを誰しも経験する。逝くものも残されしもの、いずれにも心残りがあるものだ。繰り返し同じ過ちを犯すことは避けたい。
 ああ・・・・人生不可解なり。
 I さんのご冥福を祈って。

2598:出逢い

 少々、抹香臭い話がしたくなった。連休に久しぶりに本山よりお呼びがかかり、3日間それも5月の連休中に出向くことになった。これは毎年牡丹の咲く時期の観光客相手の布教?をやれと言う命令で今まで何らかの理由をつけて逃げていたのです。私も齢を重ね少しは本山(奈良:長谷寺)の指示に従わないとと不味かろうと思ったのです。 仏教を考えたとき輪廻転生という事が先ず浮かぶ。できることなら誰だって長生きしたいと思うし、今度生まれる時は今より少し良いようにと願う。でもね、輪廻転生の捉え方が時代と共に大分変ったね、仏教では輪廻転生からの解脱を目指す訳です。となると死んでしまえばそれまでよってことになるわけよ。その辺の考え方が微妙、一般的に言って別れは寂しく悲しいこと。これは仏教だけでなくあらゆる宗教に共通する解釈、ですから別れの席では涙を流すわけですね。一方、出逢いと言えば現世と来世が考えられる。来世は信仰の範疇に入るかもしれぬ。別れと同じくらい私たちは出逢いを経験するわけで60年以上も生きてきますと沢山ありますね。
 しかし、近頃は出逢いが様変わりしていますよ。直接会って話をするということが減ってしまった。スマホが一例ですよ。これを文明の利器とか言って宣伝するから、次から次に買い替える。無駄だよな。それに一番の問題は、お互いに感情の齟齬をきたすことになり易いこと。顔が見えず、感情の動きなど無頓着。実は何故こんなことを言っているかと言いますとね。職業柄、葬儀が実に形式化してしまったことを嘆いています。
 嘘泣きとまで行かずとも悲しみの涙を流す経験が少ないからそうなっちゃうんだね。だってそうでしょう。メールで涙流せますか?
『現代文明の全般的危機』と評した方がいますが、まさにそうなっていますね。
 黙って指を銜え見てれば良いのか!そうじゃないと思いますね。年齢に関係なく出逢いってありますよ。そこなんです。
 私の場合、なんというか福祉なんて偉い名前を付けられてしまったものですから、もう嫌で嫌で仕方がなかった。だってそうでしょう。この仕事をしていると初めてあった人は、まず胡散臭いと疑いますよ。正直、名前負けしていると自分でも思うし、今更改名しても後がないから仕様がないし。
 ある時から考え方を変えましたね。相手がどう思うが勝手だし、要は自分自身だってね。
 坊さんが亡くなれば戒名つけるんでしょうと聞かれたことがありました。いいえ、今の僧名が戒名ですよ。
ああ・・・・輪廻転生・・・・・人生不可得なり。

2599:自徳

 どうしてもこの世には”自徳”を讃じたい人がいるものである。おまえ いい加減にせいよ!!!
 見苦しいというのか聞いていて耳を塞ぎたくなる。仏教ではこの点を戒めています。陰徳を積むという言い方もあまり好きではないのだが自然体というのが一番。例えば 合掌だけど周りを気にするようじゃダメだわな。人知れず無心で手を合わせる姿は実に素晴らしい。そんな方はいらっしゃる。その心の中は読めないけれど凄いインパクト。
 童心というのか純真なこころ。大人になってもそれを失わず持っている方もいる。見方によってはどうのこうのと言われ易いタイプかな。
 背伸びせず我が道を歩む・・・・・菩薩行?仏教の考え方に十二因縁というのがありまして、一番先に無明がきます。迷妄・煩悩の根源と言われますが実態はつかめない。色即是空 空即是色 の世界?二重否定と捉えれば理解に苦慮する。そのまま受け止めれば、良いというのです。
 神宮寺の本堂の向拝の所でいつも休んでいらっしゃる方がいる。彼は私が線香をあげに行くといつも後からついてくる。
 そして合掌し、「働かざる者 食うべからず」と独り言。
 さのあと私の方をじっと見つめて「働かざるものに 幸せはない」と言い放す。
 その彼が時々自販機で自分で買ったお茶をそーとわたしにくれる。「ご く ろ う」とか言って。

2600:韓国船事故

 お隣の韓国で起こった船の転覆事故、毎日のように現地からの報告がテレビを通じてリアルタイイムで日本に送られてくる。尊い命を落とされた人たちやそのご家族にとって船長他助かった乗組員への怒りは日に日にエスカレートしています。当然でしょうね。それに現場で記念写真で問題になった官僚は即罷免されたという。もし、これが日本だったらどうだったか?
 この重大な時期にオバマ大統領が日本と韓国を訪問、果たして韓国の人たちがどう思うか?
昨日の朝日新聞の記事に嘗て日本で起こった今回と同規模の船の転覆事故との比較がのっていた。日本の場合は全員が救助された。これだって魔の海と言われる場所での事故だった。乗組員全てが乗客の避難を確認してから自ら船を離れたという。一先に船長自ら救助された今回の事故とは全く違う。まだ不明者が相当数おられる、関係者の疲労も限界を超えているのではなかろうか。
 日本の首相は、外国からの国賓を迎え、プライベート(?)で銀座のすし屋で歓迎会とか、彼は2回目の登板で初回はご存じのごとく体調思わしくなく途中降板した。それが今回は別人のよう、首相官邸で颯爽とカメラに向かって手を振る姿を私は素直に喜べません。
 隣国が斯様な緊急事態なのだから・・・・・彼は自重するということが苦手?確かにエリートの家庭に育ち、それも皆さんが政治の世界で重要なポストを占めている。
 政治への不信感は、多分このような普段の振る舞いからくると思う。いずこの選挙も投票者数の低さがその証だ。
 もし、これが”驕り”であったら、もはや日本の状況はかなり重症となっていると言われても仕様がない。
  昨日、私が信頼している某先輩と電話で話す。
 ・・・・俺は 直球で勝負することしかできん。それとな、この世の中には二つのことがあると思っている。変えるべきものと変わっちゃならねーこと。
 その見極めだな。・・・・・・先輩はこんな風だから良くバトルになると自らを評した。
 この話を聞いて、空回りばかりしている自分が恥ずかしいと思った。

2601:半信半疑

 このままではやっていけないと考える人達は沢山いると思います。国の抱える膨大な借金を一体どれだけの人が深刻に考えているでしょうか?こんな国は世界でも日本だけかもしれませんよ。それと地方自治体とて右に倣えです。市町村は競い合って庁舎の建て替えを行い、それも財政規模に不釣り合いな豪華な建物を建てています。その点、私は地元土浦市は立派だと思うな。土浦駅前のうららビルで大型ショッピング店が撤退したためにその場所に市役所が移ることになりました。車社会となり、すでに長い年月がたちました。車なしで買い物に行くことは不便極まりなし。それにJR駅のすぐ傍に市庁舎がくるなんて将来を見込んだ先駆的な発想だと思います。新たに庁舎を建てるコストと比べ何十分の1の経費で十分、そこなんですよ。負債のツケを将来に回すなんて時代遅れ、それには相当な覚悟が必要でしょう。見栄えを競うなんて時代錯誤の典型。勇断した土浦市長にエールを送ります。
 さて、介護の問題だけれども特老への待機者が何十万人とか言われています。ホント?何を根拠に?
 建物をこれからも作っていくおつもりか!住み慣れた地域をどう考えるか?国は介護と医療を合体する方向を考えているとかの噂、
 一方、地方の過疎化は凄いスピードで進む。働き手である若者が減ってお年寄りが増える。誰しも言われずともわかっていますよね。
 独居世帯も増加、それでいて安心して暮らせる街をとかアドバルーンを上げる。
 ものの本によれば、日本は先進国で国土の広さから比べ人口が多い国と言われる。一憶二千万の人達が安心して暮らせる国が果たして可能か否か?適正な人口はどのくらいなのか?
これもあるデーターからの情報です。1920年頃の各県の人口ですが、神奈川県より茨城県の人口の方が多かったということです。それが一方は今900万人を超えた。茨城は300万人、これってどちらが良いかと言えば私は茨城を選びますね。地域力が違う。この100年間で私は県民性が作られたように思うな。おまり細かなことを気にせず、マイペースでおおらかな県民性、人口急増でそんな気持ちはなれませんでしょう。
 となれば、一極集中の今の状況は間違いなのであります。確かに便利です。でも疲れますね東京は。息苦しい。時間をつぶそうと思ってもその場がない。
 ただ収入を得る手段は地方と格段の差があることは認めますがね。
 そうそう四国4県の合わせた人口は400万に満たない事を知っていましたか。ですよね、考えもしなかったんじゃないかな。だからですよね。四国遍路・・・お接待、おもてなし・・・が今でも存在できるわけですよ。もし大都市で無料お茶の接待をうけるなんてしたら警察に通報されます。
 薄っぺらな”おもてなし”なんて即見破られますね。さー東京オリンピックのおもてなしのキャッチフレーズ(惹句、あの時の感動は?)・・・・半信半疑・・・どうなりますか。

2602:大型連休

 大型連休を迎え、国内の観光地は何処も相当な混雑が予想されています。私は正直、人込みは嫌ですね。こんな時こそ、できれば何もせずポケーンと過ごしたい。閣僚の18名中で15名が海外に出かけるとか、休みは自由ですからどうのこうの言いたくはないのですが、ちょっと首傾げたくなりますよ。
 だってそうでしょう。TPPだって中途半端ですし、集団的自衛権の憲法解釈の話だって国民の同意をえるには程遠い状態です。彼らは本当に責任は自ら取りません。この感覚麻痺が一番怖い訳ですよ。
 誰だって嫌なことは避けたくなるのは分かりますが、そんな悠長なことは外国には通じませんよ。
 ああ   あ・・・最近溜息ばかりが出て仕様がない・・・・・。
 気分転換とまではいかないと思いますが明日から4日まで長谷寺に行ってきます。いま新緑の美しい時期、さぞかし牡丹目当ての観光客も大勢押し寄せているのではないかと思います。
大和斑鳩の里をのんびりと散策したいです。
 
現実は甘くない。一日3コマの話をセットされていて気が重い。坊さんらしい話は私にはできませんから・・・・・・。
 昨日は知り合いの結婚式があって、盛り沢山の内容でなんと4時間の長丁場、正直疲労困憊、帰宅したら即寝ました。私は少々性格がひねくれているのかもしれぬ。あまり派手にやることには疑問をもつんです。
 それでも人それぞれと言われ、黙して語らずに決めました。
 良く考えてみれば、一番リラックスできるのは結構身近にあるんだと思います。昨日式が終わってから留守電に入っていた札幌の先輩と長電話、そこで旧態依然と構えている福祉事業者にとっては相当大きな変革を国は考えていると伺った。
 厚労省だけではなく財務省も絡み、どんな方向に変えるのかはまだ明らかにされないらしい。皆さん頭の良い人たちだから、外堀から言い訳できぬよう埋めていくのだろう。
 私は、このように考えている。どんな風に変わろうとも構わない。やるべきことって大して変わらないと思うだわな。
 だってそうですよ。戦後の大混乱の中で徹底して破壊され何もなくなった時代に見るに見かね福祉事業を始めた人たちを考えれば既に答えは出ています。
 これこそが原点だ、   今の時代は、はっきり言って先人達の志からみたら実に恥ずかしい。金の計算ばかりが関心事・・・・・
 西暦600年代に聖徳太子が国のあるべき姿を先進の地(隋・唐)より学んだ。そこで実行したのが17条憲法の制定だった。官僚や貴族の道徳的な規範で、儒教や仏教の教えを取り入れたものとなっていて基本的には今に通じることなのである。なんと1400年という時の流れがあるというのに変わらない。
 ですから4〜5年でコロコロ変わる今の制度なんて大したことじゃ無いと言いたい。もう我が信ずる道を歩めしかないよ。

2603:忘却は資なり

人は齢を重ねると誰しもがある能力を持つものだ。それを忘却と言う。世間様からは兎角、軽侮の目で見られがちであるが、”資”とみるべきだと私は思う。
 資は「もとで」という意味と「性分」という意味があって、決して軽んじ侮られるものではない。さすれば、堂々と忘れよ。今朝、ある探し物をした。久しぶりに携帯カメラを持ち出し京都に持っていこうと考えたが、充電器が 見当たらず、さーて困った。家中探すが機種が3台とも違う。ソニーとパナソニック、それと私のはキャノンときた。初めて知ったのだが、メーカーにより微妙に違う。幸いテレビの台の奥にあったのを見つけてことすんだ。
 (紐でも付けとけば)と言われたが、私はメガネと携帯を今でも紐付けで首に下げている。さらにカメラの充電器となれば、いくらなんでもちょっと不味いでしょうよね・・・。
 そこで浮かんだ「忘却は資なり」、人間、もしも忘却という能力がなかったら生きていけないですよ。嫌なこと悲しいことがいつまでたっても忘れなかったらどうなります?
 ただ利便性の恩恵を受ける裏には皆さん誰しも失敗の経験をお持ちだ。そんなもんです。ただ、人間は知恵なるものもあるからケッタイなことになる。忘れる振りをするなんてね。
 忘却とボケは違う。ボケは本人が認めない。只管ボケる。忘却はある一瞬の出来事、思い出すというリセット機能が働くわけ。
 人前で話す時など私は念のため紙にメモ書きする。始める前の準備として持ってきたかどうか確認します。OK     さあーやるか! その瞬間 あっ  メガネを忘れた。いつもなら首にかけてあるのに こんな時に限ってどこかに外して置いてきた。
 それとよくあることだが携帯の失敗談。マナーモードというものがありますよね。これをやったかどうか忘れる場合。お経の途中で鳴り出して困ったことがあります。何しろ24時間スイッチはONで身近に置いておくクセがついているから仕方ない。
 斯様に人にはそれぞれ資というものが備わって生まれてきたものです。知能指数が高いか低いかなんて関係ない。「資」という字は広辞苑によると、「資助・師資」という字になり、・・・・・もとで・力などを与え助ける・・・・という意味もある。
 利便性の限界   ありとあらゆるものが複雑&高度となり、単独では機能しない。機械に振り回され貴重な時間を浪費する。そこで神仏が人間どもに最後の手段として残された能力  それこそが忘却だと思うようになりました。半分負け惜しみですがね。
 

2604:牡丹(ぼたん)

 5月の連休.長谷寺(奈良県)は有名な牡丹の花を目当てに沢山の観光客で賑わう。丁度その時期は寺側もその受け入れに大わらわ、私は牡丹期布教で登嶺することになり、1日は京都で一泊、朝6時6分発の電車で長谷に向かった。久しぶりの本山は新緑が実に美しく、朝の澄んだ空気と周囲の静けさは格別だった。牡丹も丁度見頃となり、数日前にドシャブリの雨が襲った後とは思えない元気な葉っぱに色とりどりの花を咲かせている。
 朝の勤行(ごんぎょう)にはお山の僧が全員観音堂にて経をあげる。修行僧が打つ見事な太鼓に合わせ、精一杯の声を張り上げ観音経を唱えるのだ。身の丈10メートルを超える長谷寺本尊十一面観音はいつも変わらずに静かに立っておられる。堂内に漂う香の臭いは、訪れる人に悠久の昔から続く信仰の山としての長谷寺を魅了させてくれる。
 たった三日間の滞在であったが、慣れない観光客相手の法話は私にとって予想以上の体力の消耗となった。夜、襖一枚隔ての宿舎で寝るのは正直言って熟睡することはできなかった。ただ、夕飯をいただいた後は一つの部屋に皆さんが自然と集まり、話の花が咲く。笑のなかにも真剣な議論が飛び交い熱気を感じた。
 今回、初めて出逢う人も多かった私は最初戸惑いもあったが少々酒が入って、実に打ち解けた貴重な体験となった。
 三日間の拘束?も解け、10回目の法話が無事に終わった時のなんとも言えぬ充足感は経験しなければ分からないと思った。
 普段、雑用に追われ、時間が過ぎていくのも忘れる生活には、時にはこのような時間を作って自分を見つめ返すことも必要だ。「また 来年会いましょうね!」と声をかけられ、ハイ そうしましょうと 答えられなかった自分が恥ずかしかった。
 京都駅は連休の真っ最中、大混雑で土産を買う人たちが長蛇の列を作っていた。
★ 今回、宿舎の昭和寮から観音堂までのぼる間、五重塔の横の道を通った。もう何年経っただろうか、少なくとも10年以上が経つ、2年前に亡くなった無二の親友Sちゃんと神立からトラックに積んだシャクナゲを自分たち2人で植えた場所である。さほど大きくはなっていなかったが見事な花を咲かせていた。すぐに息子さんに携帯でメールをうった。
 すると「・・・・・しゃくなげだけでも 元気でいて欲しい・・・」という返事が返ってきた。ご冥福を祈ります。

2605:連休最後

 たった今、鐘楼の鐘が一つ鳴った。いつも朝の6時に鐘をついてくれる方だろう。昨日で連休が終わる。以前から約束していたミニ夕食会を東京で行った。私は初めてだったが品川駅からザクロ坂を上ると左側にある東武ホテルが会場、駅前周辺には高層の豪奢なホテルが立ち並ぶ中で、質素で中型のホテル、遠路からの客人が泊まっているのでその一階にあるイタリアンレストランを予約しておいてくれた。合計で4名3時間はあっという間に過ぎ、飲めないワインを頂戴したものだから、宇宙遊泳の気分になってしまう。品川駅は新幹線が止まる。大きなボストンバックを押しながら改札口を出入りする大勢の人たち、きっと連休を利用した里帰りか観光の人たちだ。
 東京でマグニチュード6の地震が朝方あったばかり、もし、今回以上の揺れがあったら東京での被害の大きさは大変なことになるのは誰もが予測できよう。東京で、果たして2020年のオリンピック開催が無事にできるのか、過去のデーターによれば100年に2〜3回程度M6以上の地震が起こる確率が高いという。
 備えが十分かと言えば決してそうではない。さらに豊かさを追い求める日本、・・・・・・・・。
 上野から土浦終点の電車に乗りまたもや11時を過ぎてしまった。駅前で飛び乗ったタクシーの運転手さん、出身が仙台だという。奥さんの実家は3年前の地震の津波で基礎だけ残すのみで家は跡形もなくなってしまったという。今でも更地のままとなっていて将来元の場所に家を建てる予定は全くないという。
 多分、仕事を見つけ土浦でタクシーの運転手をしているのだろう。
 東北地方の復興はどうなっているのか? 政府の先生達は、外国から日本に戻ってきただろうか。よもや公費での出張ではないと思うのだが、その辺の事情は不透明。
 1000兆円に上る国の借金は、誰もがわかるような金額ではない。どこかよその出来事のような錯覚にさえ陥る。
 せめて議員の先生達よ、高級車を乗り回すなどやめてエコカーにでも切り替えてはどうなのよ。あなた達は恥ずかしいと思わないのか。
 そうそう、ミニ夕食会の話題だけれど、日本型の福祉の仕組みは形だけを外国から真似するものが殆ど、だからみなさい。ヨーロッパのGHと日本のそれとは雲泥の差となっている。例えば障害者の子供が一人いればその家族は障害者年金で生活できるとか・・・・・・・。この保障の裏付けがあればこそ、地域で安心して暮らせる社会となるのです。
ちなみにドイツと比べ、障害年金の額は日本は4分の1程度、これではな・・・・・・いくら頑張っても限界があるよね。
 そんな話を気心の知った仲間で話をすると、ちょっとした慰めと元気をいただくものだ。
 

2606:親として

 昨夜は通夜があり、午後から水戸に伺いました。昔からの檀家ではなく、丁度10年前、ご主人が亡くなった時に私の友人が施設長をしていた関係だと思いましたが、このたび亡くなった奥様より頼まれご主人の葬儀を行ったのです。そして、昨晩はその奥様の通夜となったのです。
 お二人には自閉症それも大変障害が重いご長男がおり、尚恵学園とは同じ障害者の施設ということで施設長同士がお互いの評議員となっていました。そこは自閉症を抱える親たちが長年活動してやっと出来上がった施設で当時としては全国でも珍しかったのです。その後、徐々に事業を拡張し、今では県内ではトップクラスの事業内容で運営されています。
 枕経にご自宅に伺った折、『ぼくのまんだら』という本が棺の傍に置かれてあったのに気づきました。どのような本かと喪主の息子さんに尋ねると故人が大分前に書いた本だという事でした。正直その時は、・・・・ぼくのまんだら・・・・という題名が気になったのです。真言宗では、両界曼荼羅を大切にしています。金剛界と胎蔵界ですね。つい3日前長谷寺でその話をしてきたばかり、なんという偶然かと驚いたのです。
 今から50年も前、ご長男が学校に入学する頃のことが書かれておりました。当時は人々の理解もなくご両親にとっては腹が立つことも沢山あったと思います。でもそんなことはお構いなしに本人は様々なトラブル(?)を起こす、それは両親にとっては大変なご苦労があったと思われます。でも、凄いですね。ご夫婦はご長男をいつでも中心にして暖かな家庭を築かれてきたのです。まんだらの中心に描かれる大日如来、まさに現世でのご長男がそうだったのです。
 ・・・・・・
 通夜には大勢の方が集まってくれました。これは故人と10年前に先立たれたご主人への感謝の気持ちがそうさせたと思います。

 障害を持って生まれた子供たち、彼らは誰一人として自分が障害を持って生れたいと思ってそうなったのではありませんよ。当然ご両親もそうです。
 でも、世の中には沢山の障害を持って生まれた方がいます。ここなんですよ。
 先日、4人で東京で集まった時にこんな話を誰かがしたのです。 Nobody's perfect 誰だって完璧じゃない   
 子供から大人、そして老人になって介護を必要とする、その時々に必要な支援を受けるのは仕方がないこと。これができる社会が福祉国家・・・・・学生の頃、誰だったか忘れたが同じような講義をされた、それを夢中で聴いたことを思い出します。
 そこなんですよ。まんだらの言わんとしていること。この世に存在するすべてのものは、誰一人完璧ではないけれど誰もが一つの徳をもって生まれてきたと言うのです。
 大好きだったお母さんが亡くなり、その死をご長男はどう受け止めているのでしょうね?
お母さん 大丈夫!必ずや後に残された人たちが息子さんの良き理解者として手を差し伸べてくれるに違いない、そんな願いを持ちました。

2607:マンネリ化

 4月5月、この時期はどうしても会議が多くなる。決算理事会など5月末までにいずれの事業所もやらねばならないから集中する。自分の所をさし置いて他の所をどうのこうの言うのは礼儀に欠けるとは思うが、あまりにもピンボケした会議に出たりすると私の性分ではもう言わないではおれなくなる。マンネリ化というのでは無く、元からそうなんだから打つ手がない。それほど誇るような内容は無いのにいかにもやっているかのごとく錯覚、こんな風だから会員は一向に増えない。
 トップが兎角、上ばかり見ている所はダメだわな。事務局に責任を負わせ、自らの責務を果たさず反省もなし。
 私は憎まれても良いと思っている。ダラダラ中身のない話をしているのには耐えられないから嫌味たっぷりに言う。
 さて社会福祉法人の見直しが内閣府や厚労省を中心に行われているのは承知している。その情報を得ようとすればネットなどを駆使すればある程度までは自分で掴めよう。高い研修費を払ってセミナー等に行かずともできますよ。
 ただ今私がちょっと気になっているものは『非営利ホールデイングカンパニー型法人制度』なる耳慣れない構想である。すでに産業競争力会議等で検討されていることらしいが、ヒト。モノ。カネという事業存続の3大要件を有効に活用する仕組みだという。理念や意思決定の共有という条件はあろうが、人材確保や枯渇寸前の財源を考えれば従来からの発想と比べて格段の差が見える。
 それは複数の医療法人や社会福祉法人、非営利な法人も組織の傘下にしてしまうものである。さらには医薬品等の共同購入やクリーニングを一括して行う会社を想定し、これらに出資することをも可能にするというアイデアだ。
 法人の大規模化と合わせ、将来は今まで以上に規制の緩和がはかられ明らかに競合の時代になるはずである。だから個々の法人だけの問題ではなくなることは明らかだ。
 なんでも2025年をめざし、これらの改革を推し進めるそうだが、ヒトモノカネに決定打を欠く我々としては牙城を死守するなど至難の業となるだろう。
 また、こんな話を伺った。バリアーフリーからバリアーアリへの変革・・・。いたれりつくせりの住環境では人間自立しようとする機能が低下し気力もおちる。だからバリアーを残すべきだという。
 今更なんだよ!周りと不釣り合いな豪奢な設備、それを売りにドンドンエスカレート、だから見なさい金金カネ、金が用意できる人は良いよ。でも どれだけいますかね。
 誠に残念ですが、これは偽りなき実態であることに間違いはない。

2608:さてと・・・

 さてと・・・。先ず一歩を踏み出しさえすれば何かが変わりますね。心臓の鼓動が早くなるし、視野が多少は変わる。どっこいしょ・・・で良いから、踏み出してみようよ。
 人との付き合いって疲れるよね。お互い思惑はあるし、微妙に違うでしょう。これをですね。自分のことを分かってくれないとか考えちゃうとダメだわな。それを言うなら、相手のことを分かっていますか?と自らに問い返したほうが良い。そんな単純なもんじゃないんだよね。だってそうでしょう。生まれも育ちも違う人同士が簡単に分かり合うなんてできなんだから。
 私が今の仕事に魅力を感じるのは、そこなんだ。純真でありのままの姿で生きている人たち、お陰様で身近に沢山いるからね。彼らから教わることばっかり、何故だろう?どうして?多分、これってこれからもずっと続くと思っています。
 それだけ人間って不思議なんですよね。
 これは天の声だったか、どなたかに言われたのか忘れたんだけれど「良寛にならなければ できんよ」って言われたんだ。お前はいろいろなものを着込み過ぎだ、裸になれって・・・・・。
 坊さんの世界ってどうなんだ?階級がいくつもあって今時変なんだ。戒名だってそうでしょう。長い戒名もあれば短いのもある。これって差別じゃん。
 そんな事を考えています。
 好き嫌いだって考えようによっては面白い。折角頂いた人生だ。面白く生きたいな。
 日本脱出を考えているのですが、そうは問屋が卸さない。山でも海でも良いんだ。自然の中で生活したい。なにもかも忘れ、自由気ままに生きれたらどんなにか良いだろう。きっと多くの日本人がそんな夢物語を描いているに違いない。だってそうだよね。おかしいもの今の日本って。
 貴方の責任じゃないよ。
 でも独りって寂しいよね。誰かが良く自分を見ていてくれると思えばどうなんだろう。それがキリストだって御釈迦様だってイスラムだって良いじゃない。

2609:凄いよな!

 昨夜は、ある方の通夜があって伺いました。50歳になったばかりのその方の遺影はプロのカメラマンが寫したという話で何かのグラビア雑誌に出てくるような感じに私には受け取れた。
 大好きだったご両親の所に旅立っていったのです。40歳を過ぎた頃、理由は聞いていなかったが彼女は看護婦の資格に挑戦。働きながら学校に通い、最初は准看、その後まもなく正看の資格、見事に望みを果たしたのだ。
 私は彼女のご両親も存じ上げている。市の教育委員会に勤め、役人風はなく、とても気さくな方だった。
 一人っ子だった彼女は、友達が沢山いた。面倒見が良くて明るいから誰からも好かれた。
 その彼女は晩年、病魔と闘いながらも明るく過ごしていたと伺った。自らの死を覚悟し、その準備を自らでしていたようだ。葬儀の時の遺影を用意し戒名の中に”看”という字を入れてほしいとまで叔父さんに頼んでいた。49日が過ぎるまで住み慣れた自宅に遺骨を置いてほしいと言い残して逝ったと伺い、凄い方だと思いました。
 通夜には、ホールが一杯になるほどの沢山の弔問客が来てくれた。通夜が終わっても誰一人帰ろうとしないんですねと葬儀場のスタッフが私に耳打ちしてくれた。
 正看をとって、医療現場に勤めたのは3か月あまりだとも伺い、さぞ残念だっただろうと思う。
 今日は11時からの告別式、遺影を見つめているとお経が読めなくなるような気がする。 

2610:良心の自由

 日本国憲法第19条に「良心の自由」が規定されている。自らの良心に反する信念や行動を強制されないことを保障する。
 今、その憲法の解釈の問題(集団的自衛権など)で国会が揺れている。アジア周辺国のことを考えてもイザコザが絶えない、戦争になる寸前で止まっているともいえるが、それへの確証は何もない。どこの誰だったか思いだせないのだが、5日間この地球上で平和が続いたことが異常だ・・・・と。昔より争いが絶えたことがない事を語ったもの。争いの原因が宗教や信念の違いによってと誤解されているがそうじゃない。自分の利に適っているか否かの判断で人は動く。そこまで言ってしまって良いのかよと私の良心が諌める。
 さて、視点を変えてみよう。今の義務教育現場で教師が迷っていると聞いた。自分たちの役割が微妙になった。父兄の影、教育委員会その他様々な圧力?にどう対処したらよいか迷っている。
 昔なら許された、実に個性的な先生、私の年齢になれば、そんな先生が良き思い出として今もはっきりと思い出す。それが通り一遍の教科を教える教員に成り下がり、自らもこれで良いのか悩むらしい。
 憲法に規定する『良心』を一体この国では、どこで誰が教えるのだろね。果たして今の学校に道徳なる授業があるのかな?家庭には家族の団欒があるのかな?
 道徳を教える教員ほど、難しいと思う。だってマニュアル本が無いでしょう。
  となると、元に戻って「良心の自由」をどう解釈する?
 恐らく、皆が挙って「豊かさ」を追い求めている間はダメだわな。際限が有りませんから。仏教の十二因縁の一番目、「無明」、これだよな。根本になる原因だ。
 でも、坊さんがいくらそれを説明したって耳を傾ける人は多くない。これだって学校の教育現場のジレンマ・空回りと同根だ。
 結局、信じるか信じられるか、それに値する人間なのかどうかに尽きよう。
 ・・・・・・「自分たちよりも深い信仰を持っている人に何を話せばよいのか。長谷寺に来る人たちは観音様の無言の説法を聞いている。そういうことを考えて一般の方々への誘いをしていただきたい」・・・・・
 これは、先日、長谷に入ったその晩に渡された加藤精一現管長のお言葉でした。