源究209a209

  

NO  テーマ  月日  NO  テーマ   月日  NO  テーマ   月日  NO  テーマ    月日 
 3691  お茶どうぞ!   3/25  3696  考察・価値の転換   4/7  3701  妄執の悪   4/19  3706  寝たふり 5/1
 3692  お先にどうぞ!   3/27  3697  大切なこと   4/10  3702  願一共生   4/22  3707  薄暑の候   5/3
 3693  いのち   3/30  3698  世を渡す橋   4/12  3703  恩人の涙   4/24  3708  命の尊さ   5/5
 3694  卯月一考   4/1  3699  渡る世間に鬼・・   4/15  3704  ヒューマニズム   4/26  3709  時流   5/8
 3695  発火雨   4/4  3700  こころの耳   4/17  3705  愚僧の嘆息   4/29  3710  善し悪し問答   ☆

3691:お茶どうぞ!

 ”お茶どうぞ!”と二つのコップとお茶を盆にのせもってきてくれたNさん。 じゃ~一休みしようか。昨日と10度の温度差で草取りへのスイッチはON。春を感じながら、Mさんと一緒に作業していたら、いつの間に 二人 仲間が増えていた。
 随分久しぶりだねえ~と感慨深く独り言。園内の遊歩道を歩くのはいつもの日課、我々をみつけて立ち止まり ”ことし60さいになりました”と教えてくれたHさん、”凄い 良かったです”と応えるとニッコリ微笑んで また歩き始めた。(「無意識を恐れない人々・・・・ユング」)
 ★ 人の温もり、愛おしさを毎日感じ合える仲間がいる。 
  仲間の二人が入院することになった、二人を心配する仲間達、 励まし支えようとするスタッフ、コロナ禍にも関わらず入院させてくれた病院 唯々 感謝です!、
 最近よく頭に浮かぶのは『この子らを世の光に』(糸賀一雄)の”光”、地球上でみる”光”は多種多様、その中で最悪最恐なものは 核爆弾の閃光、憎しみと悲しみしか遺さないから。
 ☆「ペルソナは 我々が外界とつきあうための適応の方法である。たとえば、全ての職業はそれぞれふさわしいペルソナをもっている。ただ、危険なことは、人々がそのペルソナと同一化することである。」(ユング)
 
 ”お茶どうぞ!”は”お先にどうぞ”に近いコトバ。見返りを望まないという含蓄、仏教は清浄無垢心(しょうじょうむくしん)を大切にします。更に それをどう実践するかを説いている、人には”執着心”があるから 偏った考えに固執し他人の意見を受け入れないことが起こる、そこから、”苦”は生まれる。
 自業自得といえば自分が受ける報い、自利利他には、利他と自利は一体になり得るかどうか問い続けることが大事、そのように私は教わった。それも無意識(無心)に為されなければ意味はない・・・・・。吐露すれば今尚、その境地にほど遠い!
 Mさんと一緒に草取りをした帰り、軽トラの中で彼の独りごとを聴いた。≪父ちゃん ずっと前に 死んじゃった。ア~ヤも 仲良かったんだ~ でも死んじゃった・・ ≫≪・・・・ ≫≪月曜日も草取り やっから・・・おれ 草取りたのしいんだ≫ 
 この切り替えの速さには いつも 驚かせれる。もう40年以上の付き合いだものなあ~
 ☆ ”無心”は?と問われ、少し間をおき”偏りがないこと”とおもう。(養老孟司 NHK BS番組)

3692:お先にどうぞ!

机上で如何に多くの知識を獲ても それをどう活かすかにその人の価値があると思いませんか。世界中の格言・金言・名言・・・を集めれば膨大な数となる。それを見て読んでどうしました? 
 物の本による ≪自未得度先度他≫や≪譲・恕≫の解説によってその真意を理解し深く心に留めておくことは難しい。 それだけ 私たちの周りに情報が溢れ返ってしまっているからです。
 Mさんと私が最初に出逢ったのは丁度彼が6歳の時です(入所)。その後養護学校が義務設置となり 仲間達と一緒に通学しました、卒業後暫くして 石屋さんに就職、そこで30年間勤めたのです。凄いことです。彼の独りごと(前項)にある”アーヤ”さんとは 通勤のバスを乗り換える土浦駅で知り合ったと教えてくれた。そのあと 尚恵学園で二人は一緒に暮らすことになりました。 そんな彼が、いつも自分のことよりお母さんの体のことを先に心配しています。凄いことです!”師弟は三世”の契りと申し候へば、来世にて必ずや再会・・・云々、まったく頭が上がりません。
 人は 生き続けることで 感動をいただきます。 変な偏りがないからでしょうね。心からそう思います。「自未得度先度他」(大般涅槃経)は”お先にどうぞ”の意ですよね。
 相手を押しのけてまで我先にという行為からみれば 実に稀有な経験かと。 
 
 辞世や終活、あえてそう言わずとも誰しもが歳をとれば頭を過ること、理想とすれば、≪じゃ~ 行ってくるよ≫、遺された者たちは≪お先にどうぞ!≫、斯く有りたいとおもう。
 見送るもの見送られるもの、仏教でいう”三世(さんぜ)”は、前世・現世・来世、それを信じるか信じないかは人それぞれ、他人がどうこう謂うべきことではない。同行2人というが同行3人とは謂いません。此処だけの話、日課となった朝のパソコン座行、見様見真似でガリ版印刷から始めた”源究”、アクセス回数をみたら、丁度30万回だった。この辺が潮時か!だが、気が付けば朝の4時からキイを打ち始めている。”無心”ではなく その”真逆”、近頃いつにも増して感情移入が嵩じ、偏狂の態となっている。
 そんな心中を察してそっと気付きのシグナルを 本堂に置かれた遺影の数々から送られる、勿論 黙して語らず 彼等と過ごした日々が 自分にとって”掛け替えない宝”となっている。
 微笑みも悲しみも、こっちの見方次第、それら一つ一つが”いのち”を生きた証と教えてくれる。アリガトネ!○○ちゃん。

3693:いのち

 生命(exist)、いのち(live:living:not dead),コトバの持つ響きの違いを感じている。幼な友だちが亡くなった。昭和25年生まれの三人は近所同士で育った、最期に残ったのが私一人となってしまった。10年前に逝ったSちゃん(2012年、享年62歳)は 渡米して農業を学び、シャクナゲ栽培と米作りの専業農家で頑張った。そして、3日前、Tちゃん(2022年、享年72歳)が逝った。彼はお祖父さんと同じ教員の道を選んだ。定年後 地元の区長に推され、任期途中だった。3人とも○○ちゃんと呼び合った仲。子供のころ一緒に遊んだ仲間が段々減っていくのは実に寂しい。僧侶の私が最期になったのも 何かのなのかどうかわからない。
  いのちは死後も遺された者の記憶の中に生き続けていると信じる。 生きるに『き』の一字を加え、生ききることが授かった生を全うするというように私は教わった、お二人の生き様が当にそうだった。
 ≪ お前は坊主なんだから もっと苦労しないとダメ。その時が来たら ソロソロこっちに来たらどうだ~!と呼ぶよ。≫と二人で話ているような気がする。
 お二人に 感謝をこめて こころからご冥福を祈ります。
 
 目標(課題)を完全に果たすことなど できないと知りながら、道標が必要と自らに課す。それを悪と捉え、否定し、善と捉えて、また否定する。今 世界中を覆っている悲愴感、こんな状況で来世を願う事は出来るのだろうか!
  歴史を辿れば 悲劇は繰り返し起こっている。 仏教ではを結果を生ずるための間接的な原因や条件(因縁)と説き”共生”を説いた。今生きていること事態が自分だけの力で為し得ることではないとし 大いなる者を敬い、相手を認め、互いに助け合うことを諭す。現実に今 起こっていることは 今までとは次元を全く異にする。戦争の抑止力としてつくり続けた核兵器、それが自衛の為でなく相手への攻撃に使用されるというリスクが拡大している。
 知りうる情報は限られた一部でしかなく、その真偽も判らない。 停戦協議中の間にも、無差別な殺戮や破壊攻撃が続いている不条理。
   コロナと比べると観えてくる。コロナには感情はない、片や 人間の図り知れない感情によってどうにでも変わる。戦争が一番最悪の苦に繋がる直接的原因・結果である証。(過去からの警鐘、未来への警鐘)

3694:卯月一考

 卯月は陰暦四月の異名。令和4年度がスタートした。尚恵学園も新たに迎えた新採用者6名の辞令伝達を行いました。全員が新卒者で孫みたいな人達、その一人ひとりに辞令を渡した。50年前のことが浮かぶ。方丈記ではないが移りゆく時間の速さに朧げな記憶の断片を重ね、話をさせてもらった。
 自分がぬれ落ち葉になるかもしれない・・・・とは誰も想いたくはないだろう。何の役にもたたず、 壊れた蓄音機のように昔話を繰り返し聞かされては堪ったもんじゃない。これを感じた時、人は自分の中に居場所を見つけ籠もるんだわな。終活は己の身罷るまでの羅針盤。・・・・・・だった! 今はGPSで簡単に自分のいる場所がスマホで分かる時代、何もかも変って当然かもしれない。卯月になり降る雨を、『発火雨(はっかう)』という。花の咲く季節に降る雨でやわらかく静かに降る。桃の花に降り注ぐ雨が火を発したように映ることから名付けられたという。雨を恵みと思うか災いと思うか。
 時代がどのように変っても 変わらないものが有ると私は思う。じゃ~それは何だ?と問われれば、・・・人の愛おしさ・・・と答えます。それも外観より内観(内なるもの)に。
 
 
 憶測によって 相手の心中をはかることには限界あり。相手が何を考えているのか、コトバや行動からは 本意か否かまでは判るまい。私は異常行動、強度行動障害・・・というコトバに強く反感を持った時がある。それは20代の時、異常行動児研究のお手伝いをさせて頂いた時。
 勿論、今日の障害福祉に対する環境は随分変ったと謂えます。けれど まだ その根は残っている。
孤立化には自分から人々と遠ざかることと周りがその人を遠ざけることによる両面がある。世の中が平穏な時はその影響は少ない。知らぬ振りで済むという意において 今の状況は それとは全く次元を異にする。自然環境の悪化やコロナ禍にも通底する。世界の人々の目が北京オリンピック・パラリンピックに向いている最中にロシアのウクライナ侵攻(2月24日)が起こった。今までの取り決め(国際法:平和条約)を完全に無視し国内法を優先した、それは国の利害によってなのか?それとも何か他の理由なのか?今もって明らかにされない真意、推測の域を出ない。停戦に向けて協議中でも攻撃の手を緩めないことに本性をみる。
 (一考への示唆)・・・『外的を異様におそれるだけでなく、病的な外国への猜疑心、そして潜在的な征服欲、また火器への異常信仰、それらすべてがキプチャク汗国の支配と被支配の文化遺伝だと思えなくないのです。』(「ロシアについて」北方の原形。司馬遼太郎:p25.第1刷1989)・・・・
平和を取り戻すために残された経は ロシア国民自らに期待するしかないのではないか!

3695:発火雨

深夜から 発火雨が降り続く。やわらかく静かに降るというのには似あわない。夜と昼の気温差が1度しかない冬戻りの予報は見事に当り、桜や桃の花は、満開を見ず散ってしまうかもしれぬ。この時期の雨は草木にとって恵みの雨、人間にとってもそうだ!その恩を忘れ、豊かさの幻想に酔い痴れる。場所によっては田起こしが終え、水をひく準備がすすむ。 その発火雨にどうしてもキナ臭さを感じてしまうのは、連日 現地から流れてくるウクライナの今、砲弾で壊すだけ壊し去っていく、跡には目を覆いたくなるような凄惨な姿、憶測が飛び交う中で、真実はどうなのか? 交渉によって取り決めされたものは互いに守ることを前提とする、相手が破たったからだ!との主張で民間人までも殺戮しても許されることなのか?それをも文化遺伝だと思いたくはない。恐ろしいのは ああ謂えばこう言う、結果、罪のない子や年寄りまでもが犠牲になっている。責任者は堂々と表に出て、自ら説明を果たすべき。
 ・・・・恵みの雨が 恨みの雨に変わる。雨にはその意志はない。変わらねばならないのは勿論 人間側である・・・・
 
 
 with コロナ、これに 真に近づくことが出来るのでしょうか? 先ず 誰が そうなることを願うか・・・・?言うに及ばず判り切ったことだが 既に どうしようも無い状況に陥ってしまった。・・・いちはやく文明の危機と現代人の病理を予言し・・現代思想の価値の転換を試みた名著・・と西部邁が『正統とは何か』(チェスタトン著)を評した。
 著者が100年前に予測した通りに今成ろうとしている。それは 決して偶然では無く、生き物の中で人間特有の本性(残虐性・狡猾さ・征服欲・・・)がマグマの様に噴き出している様。
 神風が吹き、情勢が一変したとしても、次にそれに代わる者が現れないという保証はない。地球の歴史で氷河期や巨大隕石の落下を知らないとは言うまい。人間同士の争いを止められないということは、何を究竟と望むかさえ判ら無い証・・・・
 自然の摂理に対し、人間誰しもが謙虚に向き合わなければ成らぬという”最期通牒”、責任を他に押し付けても 必ず自分に酬いがかえってくると貴方は信じられるか否か!(愚僧請諷誦ノ抄)

3696:価値の転換

時代の潮流に乗るということは、もしその誤りに気付いても変えることができなくなる危うさを孕んでいる。振り上げてしまった拳を下げることもできず”二進も3進も(にっちもさっちも)行かない”状況になっても自分に原因があるとは感じない。
 ここ数年~数十年の変化の異常さは現代の病(不安・不眠・疼痛・反射機能亢進)を嵩じさせ、それを和らげるために薬にたよる。当然、常用すれば薬効は弱まり、より強い薬を服することになりかねない。人類史からみて瞬きにもならない僅かな時間に進歩・進化・豊かさへの偏った価値感は嘗て経験しなかったような競争を激化させ、 それを抗じる手立てが見つからないルール無き事態に陥った。
 こうなったのも 人間が当然受けねばならない代償だと思わない愚かさ、前哲が我々に知識と智慧、生命といのちの違いを説き、自省、自戒そして譲り合う大事を求めたことなど眼中にない。平和という人類窮境の願い(価値)さえも破棄し自縄自縛で事足りず、残虐・狡猾・・ありとあらゆる手段を使い自分達が思う通りにしたいとなってしまう。残念ながら 天井知らすの満足には、善悪をはかる術は必要ない。
 最初は”輝ける未来”を実現しようとしたのかもしれないがいつの間に渇望極まり 輝くことそのものが判らなくなってしまうのです。
 
 肥大化した組織の足下から病んでくる分岐点。釈迦が今の有様を どう思うだろうか?  古代インド(前6~5世紀)のマガダ国の都、王舎城の悲劇を観無量寿経により、私たちは知ることができます。
 権力を獲たものが陥る過ちは、時代がどんなに変っても無くならないのでしょうか。諸行無常 諸法無我・・・仏教の教えの核心にある三宝印は 3つ目が”涅槃寂静”です、・・・ここから知り得ることは何だと思いますか?人々の窮境の願いは”涅槃寂静”、安心・平和だと思います。”源究”の源の本意です。
 「組織」を「欲」と置き換えれば、肥大化した欲となります。 進歩・進化への妄執の危うさと同根に見えて来ませんか。難解なコトバより 誰にでもわかる行為・コトバ・おもい(三密)が大事なのではないでしょうか!
 コトバには限界があり技術は変化し続けるでしょう。要はそれを使う側の問題だと判ります。悪意か善意か、偽か真か、それを見極めることが できますか?今 世界中の人々が吹き荒れる嵐(悲愴・焦燥)の中で無力感を感じています。自らの矛盾の辻褄を合せようとすればするほど 今の状況から脱する道は暗く遠くなるような気がしてなりません。このことが何を意味しているか?このことを我が事として考えてみませんか! 
 

3697:大切なこと

 ≪○○ちゃん 人に迷惑をかけちゃ~ダメだよ。わかった。いい子だね・・≫ 夢でした。最近は 夢なのか現実なのか よく判らない。痴呆の始まりかもしれません。歳とれば子供に還る。
 ≪他に迷惑をかけても アンタは偉くなりなさい!いい子だから 分かった?≫・・・・と謂われ育った子が誰もかれもそうであったとしたら、 その子供が大人となり・・・・・。想像して見てください。 不出世の英雄、国民的英雄、英雄的行為。。。才知・気力・腕力に秀で、周囲も認め、育った人間がいたとします。史実からみて どうでしょうね。当を逸し人を欺くという結果に終わった人物がどれほどの数いるか・・・・・? 仏教は そこを見逃さない。 それよりも”分け合い・助け合い・共に生きる”ことを説き続ける。小・大乗に別れてもその核心(大義)は変わらない。”施し”(布施)の中で最も大切なものは”無畏施(むいせ)”。判り易くいえば恐れをなくす施し。(観音経)
 当を逸しというコトバの当は、仏教では当来、来るべき世、未来をさす。欺くという意味は、相手を信頼させておいてだますことです。
 ≪後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ。≫(源信 母)  母の嘆き悲しむ姿に自らを省み、後の世を渡す橋になろうと生涯努めた。
 人の倫は、誰を範とし何をするか、それを支えてくれるのは”強さ”でなく”人の愛おしさ”であって欲しい。
 
 私は ほゞ毎日 尚恵学園に顔を出しています。もう 半世紀になります。観音寺に住み 神宮寺で尚恵学園を始めた先代がそうであった様に、いつの間にかそうなった。 今の通信手段は昔と比較になりません。昔は有線放送。今はスマホ、マナーモードにして置いても 振動で知らせてくれる。最近、自動配信で増えたのは、ウクライナに関するものです。それと 地震などの災害、殆ど 良い情報はありません。今 学園の夜勤のスタッフ(毎晩7名)からの緊急連絡を受ける為、枕元に置くのが習慣になりました。
 恐らく 世界中の誰もが 不安と恐怖を感じています。自然災害と人為的災害が混ぜこぜという現実です。。
 私の一日は朝4時にパソコンを開くことから始まる、ユーチューブで音楽(BGM)を聴きながら、視聴回数の多いものを選ぶ、最近はウクライナ語、ロシア語(?)のコメントが目立ちます。コトバが判らないけれど 楽曲は癒しや愛を奏でるものが増えた。
 ・・・『私は、私と私の環境である』という有名なコトバはオルテガの「ドン・キホーテをめぐる省察」(1914年)の中にあります。・・・現代人は、「私」は「私」を所有していると思いがちですが、「私」の本質は実はないというのが仏教の基本の考えです。「絶対的な私はない」と気付いたときに初めて「私」という現象を引き受けることができるという逆説。私であろうとする欲望に支配されることで、苦しみにつながる。オルテガがこの省察を書いた1914年にはサラエボ事件が起こり第一次世界大戦勃発の年です。 オルテガは「寛容=リベラル」「死者の英知による制約」大切さを訴えた20c初頭の哲学者。

3698:世を渡す橋

 【哲】 英知とは、真実在や真理を捉えることのできる最高の認識能力(大辞林)
 死者の英知による制約は”死者”と”制約”が要、それは”制約なき行為”であれば英知にはなりえないことを言っている。仏教であろうがキリスト教やイスラム教であろうが”真理”に大差はないと思っています。天と地の存在を認め、人間がどう生きれば、それに近づけるか或いは離れることが出来るかを説く。冷めた目で見れば、それを認識する力を人間が時と場合によって失ってしまう。『私は、私と私の環境である』というオルテガの本音は、その種の失敗(誤解)があることを前提とし、死者の英知から学べというのです。
 私たちは過去の英雄の銅像が壊される場面を何度も見てきました。世を渡す橋=真の求道者になれと諭した母のコトバを受けて源信がどうしたか?その後の生き様が明らかにしています。
 寛容?、橋を真っ先に自分が渡るためにつくったとしたら悲しむ母がいた。子はそれに気付き愕然としたに違いない。建設と破壊?自分達が長年苦労し、やっと築いたものを一夜にして壊されたらどうか。現実に今 その破壊(戦争)が行われている。力によって相手を従属させようとするのは寛容とは正反対、いつまでも恨みは残り代償としてその当人が生涯にわたり死への恐怖に苛まれる。
 日本も例外ではないのです、むしろ似た環境にあると思わなければならない。現実に戦争について語り合う場が無さすぎます。その問題が顕在化しています。
 ★オヤジ;≪いま 日本が戦争になったらどうすんだ~≫ セガレ;「行きたい人が行ってやればいいんじゃね~の」≪それじゃ~ おまえはどうなんだ?≫「おら~ いやだよ・・」≪こうだもんな~住職≫私;『・・・・・』 通夜斎場に向かうタクシーの運転手さんとのやり取り一部。
 
 混迷する世界の動きに為す術がない状況がいつまで続くのか、益々深みにはまっていくのかも判らない。これは 起こるべきして起こったことかもしれない。自ら手を汚すことをせず、他にさせて 自らの責任を逃れる。身近に その例証はいくらでもある。正当防衛か過剰防衛の判断すら揺らいでいる法の解釈は、法そのものを認めない相手には無力。社会の秩序が崩れ、勝手放題の言行が罷り通る世、それを経験しなければ 新たな未来が描けないのだろうか。その為に どれだけ多くの犠牲を払うか!これも偏り過ぎのグローバル化、情報化、高速化によって 人智の及ばない連鎖に翻弄される。全てを現実として受け入れなければならないとしたら、社会的な弱者が真っ先にその影響を被る。
 自らの力で泳いで対岸に渡れる人ばかりではない。その為に橋をつくり、皆が渡れるように先人は考えたのでは無かったか! それを 遠隔からミサイルの発射ボタンを押し破壊してしまう。
☆『ヒューマニズムの名において伝統にたいして破壊を仕掛ける革新主義、それは近代における正当な立場であっても、断じて正統なものではありえない。』(「正統とは何か」)
★ 一人の人間によって 破壊されたとして、それで済む話ではない。核兵器に託された(?)戦争抑止は、不信・恐怖を煽るだけの幻想、それに代わるものを創り出せるかどうか!その責めを未来永劫 背負い続けねば・・・・。
 

3699:渡る世間に鬼・・

 渡る世間に鬼・・・? 世の中には無慈悲な人間ばかりではないというのが原義で”渡る世間に鬼はなし”。不図 橋田寿賀子の『渡る世間は鬼ばかり』を思い出した。担当した石井ふく子プロデューサーの後日談、「タイトルは”渡る世間は鬼はなし”をもじったもの。相手のことを鬼だと思う自分がすでに鬼なんですよ。自分が鬼でなければ相手を鬼と思わない・・・」 まさに当を得た話で、自分に反対するものを粛清し意に沿う者だけを集めれば どうなるか ?
 正義もそうだ。国家により定められるものは実定法的正義、自然法的正義があるという。前者は人為的なもので形式化・固定化しやすい。そこで基本的人権を中心にした諸々の権利を保証する社会的正義、公正・公平がうまれたという。
 これだって 同じこと、どのような取り決めも破棄されれば元も子もない。筋骨隆々、恐ろしい形相をした”お不動さん”、その前で日本人の多くが手を合せてきた。*真言宗は仏壇の中央に大日如来、左に不動菩薩、右に弘法大師を飾る。
 自分が正義だと言うものは、本当にそうなのか? それは自分が決めることではないということが世界宗教に通底する考え方だと思います。
 
 
 ・・・・お前な~!ご託並べるのもいい加減にしな、よく足下を見なよ。お前の歩んできた足跡をみてみなさいよ。・・・・と言われたように思う。白隠(江戸中期。臨済宗中興の祖)が参禅者の指導で”隻手(せきしゅ)の声”、両手で鳴らす音は誰でも聞こえるが、耳で聞こえない片手で鳴らす音をこころの耳で聞かなければならないと説いたという。
 現実は?両手で足りなくてスピーカ―をつかって音を増幅するようなことをしていないだろうか!人権問題も然り、白隠がみたら なんと謂うか? 渡る世間に××ばかり・・・と叱咤の喝
 今 枕元に置いている『浄土三部経』(岩波文庫)で現代語訳第64刷発行、訳注を担当した一人、紀野一義先生は、18歳で学徒出陣、「戦場で失った多くの友、広島において原爆の閃光の下に消えた父母姉妹と多くの知人たち、ならびに夥しい戦死病歿の人々の冥福を祈りつつ再生の祈念をこめて筆を執った」とあとがきに記している。
 ・・・誰しも ウクライナでいま起こっていることを想えば、私達一人ひとりができる事がきっと有るはず、そう思いませんか!

3700:こころの耳

 『漁夫の利』『鷸蚌(いっぽう)の争い』・・・戦国策の故事。常識/非常識・正義/不義。・・・戦争が最悪だということを判っていながら なぜ 繰り返すのか!(業)
  市街地に戦車が入り何もかもを破壊する、遠方からは容赦無きミサイル攻撃、この惨状を止めることは誰もできないのか!人への愛おしさが消え恨み憎しみに変えてしまったのは 全て人の為せる禍だ。そこに勝者も敗者もない。
 隻手の声、耳では聞き取れない片手で鳴らす音を”こころの耳”によって聞かなければならない。これを絶対的真理として大切にする仏教は 四苦八苦の中で”怨憎会苦””求不得苦”を説く。”うらみ憎む人に会う苦””求めて得られない苦”・・。
 最近よく耳にする真の情報を獲られなくなったということも、誰の所為でもない、己自身の中に因がある。
  あらゆる宗教の起こり(因明)は、そこにあると私は学んだ。キリスト教/ロシア正教も同様に?。 宗教の違いで殺し合うということではないと信じたい
 
 こころの耳を持たないと一方的で偏った情報しか入らなくなるでしょう。仏教では”六道”(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の修羅の位置が畜生「三悪道」と修羅「三善道」の分れ目となります。阿修羅(梵asuraの音訳非天、不端正の意)は、インド神話の悪神でインドラ神(帝釈天)と戦った。その阿修羅が釈迦の教えをきいて仏教の守護神(八部衆の一人)となった(法華経上品序)。
 その教えがどんなものであったのか?悪から善に変った因、それが何なのか?
 …いくら正義であっても それに固執し続ければ善心も妄執の悪となる・・・。まさにこれが”こころの耳”の核心!八部衆は 仏教で大切な役割を持った8人の護法善神です。善神が悪神に・・”破法悪神”となりかねない。
 丁度100年前に流行したスペイン風邪、世界の総感染者数は5億人(推定)と謂われています。それは第一次世界戦の最中でした。今回のコロナ感染者が5億人を超えたという。 100年前といっても遠い昔の話ではないのです。その間に紛争やテロが地球上のどこかで起こっています。もし 第三次世界大戦にでもなれば ・・・・・・。報復・・代償⇔破法悪神

3701:妄執の悪

 己の苦を他人に置換しても無にすることはできない。貴方がどんなに正義だと思っていても執着し続ければ妄執の悪となる。これが釈迦の阿修羅に対する教えでした。
 それを聴いて、考えを変えた阿修羅が真の善を掴んだ瞬間です。妄執から脱するために どうすれば良いのか! 閉ざした耳を自ら開くこと。自らの眼で 現実を観じること。 それによって自分だけでない人間誰しもが苦を持って生きていることが判ると説いたのです。既に自分だけと考える時点で誤った道、不義となる・・・とも。
 自作自演の観劇を 観客無しで長く演じているとなれば 孤立への一本路、決して”同行二人”とはなりません。
 宗教の本質・・・・世界の三大宗教に限らず、あらゆる宗教の信仰の手立てとなる経典は 人々に判り易くするために”物語”風に書かれているのが多い。仏教ならば、釈迦が自ら書いたものではなく、弟子等が釈迦から聴いた教えを記録したもの(如是我聞)、聖書も同じだと思います。時代が変わっても 変わらないものがある、それを真理とする、 信仰は真理に自分が近づくための手段と思います。≪楔(くさび)と光≫
 
 自戒をこめ、三毒(貪瞋痴)と向き合う日々を送っています。そうなった事由が自分でも判っている。コロナ対応で疲弊し、気持ちの余裕を失いかけていた時に、突然始まったロシアのウクライナ侵攻、余りにも非人間的行為は益々エスカレートする、恐怖と不安、≪お前だけじゃない、誰もがそう思っている!≫。自問自答を繰り返すだけの焦燥感と無力感をどうすることもできません。
 世界中の人々がそう思っているなら 止めればいいじゃないか!最初は、人権を守るという正義(?)によって始まった、現実には 子どもや病人まで銃口を向ける無差別殺戮、破壊が行われている。そして 各国が軍拡という平和とは真逆の動きを加速している。
 明らかに誤った道に迷い込んだ、引き返そうとしてもどうすれば良いかが判らない。それは 当事者だけではない、只管 相手を否定し 自らの正当性を主張する。その間にヒタヒタと何かが押し寄せている。
 でも諦めて何もしないより 何が大切かを問い続けることはできると思いませんか。生きる → 生ききる。

3702:願一共生

”共生”・・・って?  ≪共に良かったと感じたい ≫・・・・だよ! 社会の実相は そうではないから余計 強く願うようになるわけだ。一切皆苦。諸行は無常で諸法は無我、涅槃は寂静、この三法印は仏教の根本の考え方、それに一切皆苦を加えると四法印、どちらも世の中全てが”因縁”によってできている・・・・・と。問い続けることは自問自答から始まり、そこに ひとり、また一人と加われば”共に”になる。そのように学んだ。
 古希を過ぎて振り返る。思い通りになっても、その逆でも、一喜一憂、誰もそうやって齢を重ねてきたわけだ。他人事?我が事?のどっちなのか確信はないが共に有る訳だ。
 世界の人口が70億人を越えたのがいつ頃だったか、正確に年月日時間まで出せとなったら無理だわな、 どうも それが気になる方も多い感じ。ヒョッとして 世の中、その方向に向かっていないだろうか?肝心なことより枝葉のことに騒ぎ立て手段は選ばない。
 豊かになろうと、平和でありたいと、どこでこうなったのか皆目 見当がつかない、気が付いたらそうなっていた。 身勝手な理屈をこね回す。これを”我執””妄執”と謂うのではなかったか。迷った心で、物事に深く執着することだ・・・・と欲知足か欲知足か?
 
 人間は、多ければ強ければ それに勝るものはないと考えやすい。そこに多様な価値観が混入し、結果 、収拾がつかない。その因は”欲”と観ずるのが釈迦の根本の教え。いかなる宗教も平和な時ではなく有事の際に生まれ、それぞれの時代、民族、風俗、慣習などによって変わり続けてきました(ing)。 そうであったとしても 変わらないものが核心にあるという望みは持ちたいものです。それが願一共生。

 視座をかえれば ”昨日があって今日がある”  この瞬間に、新たに誕生するものがいて、逝く人もいる。おめでとう!お疲れ様!ありがとう!・・・喜びも悲しみも 感謝も そこにはあるはずだ!それが見えないのか 見ないのか? それら一切合切を強引に奪ってしまうのが”戦争”です。生物の中で人間だけが犯す一番最大の罪(つみ)・・・・・・。この悪循環を絶つのには人間一人ひとりが考え、問い続けること。それが唯一の共生に向かう入口と思います。今日があって未来がある・・・ではないと思います。(涅槃寂静)
 ☆雨がやみ、 昨日は久しぶりに3人一緒に園庭の草取りを行った。後から もう一人 鎌をもって加わった。もう定年だから 仕事はやらないよ・・・と謂っていたNさんだった。≪おつかれさま!≫とMさんに先に謂われてしまい逡巡。(嘘も方便?) 
 

3703:恩人の涙

人への恩を感じられないものは 己の孤独を認めない。貴方にも大切な人がいたはず、その一番の恩人は”両親・兄弟・我が子”ではないのですか、人生の幕を閉じる頃に 誰しもが通っていく道に記憶が蘇る。昔からこの国(日本)では 道端に地蔵菩薩が置かれていた。疲れた時、誰もが自由に一休みでき、手を合わす。その瞬間に去来するものは何だろう? 暑い日も暴風雨の日も変わらず黙って道端にたっている石仏に頭を下げ 再び歩き始める
貴方は小さい頃の楽しかったことを考えると、何を想いますか? 殺伐たる光景ですか?それとも愛おしさ温もりですか?
 幼い時の記憶は 人の一生に大きな影響を及ぼすという。
 いま貴方は恩になった方(助けてくれた人)の涙を思い出せますか? 貴方は知らないというかもしれない。でも その人達は貴方の前では涙を見せなかったのかもしれない。万物に宿る”魂(たましい)”は存在します。それを感じ信じることは相手への愛おしさからで、決して憎しみからではない。Buddhistは胸の前で合掌を、Chritianは十字をきる、それが貴方という証です。
 
 ここに至っても道を誤ったことに気付きませんか?
 一歩進んで二歩さがる。多くの人々は こうやって自分独りでは生きていけないことを学んできたのですよね。先人が出来なかったことを人より何倍も早く、その思いを果たそうとしても上手くは行きません。(求不得苦)。貴方は それを知っていたはずでしょう。どうして そうなってしまったのですか?胸に手を合せ 自分自身と向き合ってみませんか!万が一、夢にみたヒーローに己が成れたとしても その陰でどれ程多くの人々が涙を流しているか・・・・。その真の姿を、自分自身の眼で確と見てください。人を欺くことはできても己を騙すことはできない。
 Buddhistが手を合せるのは、どんな意味があるのでしょう?片方の手は”自分”、もう片方の手は”仏”と”三界の万霊”と学びました。 
 

3704:ヒューマニズム

 動物は子どもが命の危険に晒されたとき、親は必死に守ろうとします。片や人間はどうだろうか?ヒューマニズムを唱えるならば、人間愛の立場なくしては有り得ない。そこが 決定的な”分れ目”で自らは手を汚さず、人にやらせて責任を負わす。権力や資力による暗黙の了解(特権}はこころ無ければ訝しく 悲しいものです。  いつの間に この地球をも自分達が思うように利用するだけ利用して、その後始末を考えず、他に責任を負わせるという世渡り術に変異してしまった。その反省が問われているのだ。結果を歪曲し、生物や植物などあらゆるものを自分達人間の価値観でしか受け入れず、それを正統な権利と考えるようになってしまったのである・・・・。西暦2022年が歴史に疎まれるとしたら、特定の民族や国家の愚行を非難、排除するだけではすまされまい。、豊かさや進歩を疑いもせず受け入れてきたことは、人間特有の慢心と妄執を膨張させ、それが原因で災禍を招く!そして その代償は許されたり先送りはできないことを知るべきなのですね。。
 
 
 自粛という言葉が謂われ始めた頃からずっと私は違和感を持っていました。本来の意味は・・『自分から進んで自分の言動を慎むこと』・・。しかし、世の中の流れはそうでは無かったでしょう!正直、今更なんだよね。
 人道主義を叫ぶわりに、眼を反らしていることが余りにも多くなかったでしょうか! 
 正統性が何かがハッキリしなくなった原因は、何だと思いますか? ”平和”ということを考えれば、判ってきます。地球上で戦争やテロが無くなったことがありません。それは 受けた憎しみや恨みは決して消えないからです。虐待を受けた子どもたちにとって相手へのゆるしをという言葉は虚しい。
それは自分さえという考えと相手への報復行為を助長します。 これにかわる絵(未来図)が描けないのかもしれない。ユニセフが募金協力をテレビで流す。世界中の飢えや病に苦しむ子どもたちです。その子どもたちは勿論 親たちに責任はない。私たちは戦争の被害者が加害者であったこと,加害者が被害者になることを忘れていないでしょうか。これが”自粛”の本来の姿ではなかったか!
 いつの世にも明と暗の現実があります。それに向き合って地道で根気のいる活動をしている人達にも銃口を向けるのが戦争です。 
 (革命思想?虚無主義?)

3705:愚僧の嘆息

 ・・・此難渋に堪へずして 焦燥した余の事である・・・伊沢蘭軒(鴎外)
時代の変わり目にあらわれる様々な模様は 今を生きる私たちに大切な示唆を与えている。その模様は五観で嘆息するばかり、せめて微かな残り火であっても、冷えきった部屋を暖める火種となる望みだけは失いたくない。近代になってから2度も世界が戦乱の舞台になった。第一次大戦では疫病の大流行(スペイン風邪)が戦争を鎮める役を果たしたとか。今回はその逆で 状況を更に悪化させることになるかもしれぬ。それと核兵器の存在だ。人心の同じからざるはその面の如しという言葉は狂気と正気は表裏を成すということか?
 知識や科学を見誤ればこうなることを最初から判っていたことではないか!
IUCN(国際自然保護連合)の絶滅危惧種レッドリストに2021年では世界で37,400種以上、日本でも352種定められている。地球環境が壊され、それに堪えられない動植物が保護の対象となり環境保全の重要性が問題とされてきた。これさえも根底から崩れていくように思えて仕方が無い。人間の欲により略奪と破壊が止まない。加害者が被害者になるという事をどう考えるかです。自分達は大丈夫、相手が悪いの一辺倒では為す術無し。  絶滅危惧種の2類の中に”人間”が入っていないということはおかしいのではないでしょうか!五観→ 真観・清浄観・広大智慧観・悲観・慈観(観音経普門品、第二十五偈文)先ずは一番目の真観・・有りの儘の真の姿を観じることで それなくして次に進めない。
 
 SDGs・・・Sustainable Development  Goals
 持続可能な開発目標を2030年までにどれだけ達成できるでしょうか? 先延ばし続けてきたがやっと重い腰を上げた?貧困・紛争・気候変動・感染症・・・等々、平和が遠のいていくような状況に果たして我々は今 何ができるというのでしょう。日本がどこまで対応できているか、残念ながら 国民の多くが良く理解しているとは思えません。目標達成へのプロセスが曖昧にされ時間と共に関心が薄れてしまう。
 見栄えや目新しいことに夢中になっている間に、その病巣はドンドン悪い方向にすすんだ。断トツの国の借金の多さと国政選挙投票率の低さ。更に一つだけどうしても加えなければ気が済まないのは、総理の数の多さ、誰の時に何をやったかを 言える人は殆どいないだろう。有るべきものと無くすべきものが逆道!よく耳にするプロパガンダという言葉は”政治的意図をもつ宣伝”という意に訳せる。選挙を意識し その先の後始末までは自分に関係ないと考える。これが今のこの国の偽らざる姿ではないでしょうか!
 ・・・・リーダーたる人々の覚悟と責任の取り方が問われない国はオン ゴールはあってもSustainable Goalsを描けない。

 ・・・『おびえというのはよくない。内に恃(たの)むものとしてみずからのよさ(文化といってもよい)を自覚せず、自他の関係を力の強弱のみで測ろうとする感覚といっていい。強弱の条件がかわれば倨傲(きょごう)になってしまう』(「ロシアについて」司馬遼太郎:P254。昭和61年刊:あとがき)。 倨傲という言葉の意味は”おごりたかぶること”。
  司馬は史実を通し謙虚さの大事を主眼とした作家です。

3706:寝たふり

『寝たふりの人は起こせない』。インドの”諺”にあると教えてくれた。 そう言われれば 図星。ひょっとしたら ・・・実際に寝ていない人を どうにしかして起こそうとしているのかも しれない。
 『確信犯は改心しないでしょう。』とも。常識が通じない事態になり世界中の多くの人々が戸惑い戦(おのの)きながら・・・・情勢をジッと見つめている。
 五感・・眼・耳・舌・身・意は人間のもつ感覚の総称、結局はそれで感じたものを どんな風にいかすかは その人自身の問題。
 ちょっと待ってよ、じゃ~『起きてるふりの人は寝かせないのか? 何が何だかわかなくなっちゃう!それが今の異常な事態を顕わす。私だけかな~!
 知識と智慧の受け止め方だってそうじゃないでしょうか。嘗て仏教の入口だと教わった。歳をいくら重ねても理解は益々遠ざかっていくように思う。困ったことです。
 ”不立文字””知行合一””・・・・”の解釈も 、今謂えるのは ・・・・。これ以上は”寝たふり”しないと 眠れなくなる。”綾を取る”は”操る”に通じ、弄するとは機(ハタ)をあやつるような心とか。                
 
 人間は自らの引き際をどう見つけるか?結局は自作自演、大きな劇場で満員の観客の拍手が鳴り止まない中で幕がおろされたいか。または、俗世界とは一線を画し静かに終焉を迎えたいのか。どちらにしたって 身罷ることに違いはない。ただ、そのどちらにも満足できない人がいる。
 当たり前のことなのに、それをどうにかできないのが現実です。
 忘れてはならない。そのどちらもできず幕を下ろされてしまう人達がいるということ。
 現実に この瞬間にも 死の恐怖をじっと堪えている人たちが大勢いるのです・・・・・・・。既に無差別攻撃の犠牲になった沢山の人々。どんな理屈をつけられても許せない。 そうさせてしまう社会があるならば ・・・・・。
 有事において宗教の役割は・・・・・。☆ 【四無量心】・・・他の生命に対する自他怨親なく平等で、過度な心配などない、落ち着いた気持ちをもつこと。慈悲喜捨。

3707:薄暑の候

 夏の季語に”薄暑”(はくしょ)があります。手紙や俳句に使われる。季語の持つ妙と謂うのでしょうか、そこに”こころ”を感じ、なぜか癒されます。その逆に物の言い様では”角”がたつ。初めから決めつけて徹底してやり込めないと気が済まない、それで勝敗を決しても収まらんでしょう。こういった例はいくらでもあります。薄暑で直ぐ浮かぶのは、汗ばむような初夏、衣替えの準備、自然に合わせるための生活の智慧(工夫)です。でも、極寒の地や赤道直下の砂漠は自然環境が随分違います。そういった場所では常に死が身近にあって、判断を誤れば生きていくことさえ難しい厳しい現実。
 コロナへの規制緩和がすすみ、海外に出かける人も徐々に増えている様です。冬は温かさ、夏は涼しさを求め移動する。憧れ(?)のバカンス、それが出来なくなってどうだったでしょう?仕方が無いか、それとも不満?
 望みを強引に達しようとすれば、どうなるか?それは学んだはずでは無かったでしょうか!いつしか 際限無き無差別の攻撃、搾取、略奪と化す。
 ”薄暑の候”という挨拶もいずれ無くなってしまうのかもしれません。それに代わり皆が皆”SNS”、を使うか・・・・厄介なサーバー攻撃に”フェッシング”や”サギ”メールにご用心!時代は変った。
 人々は そのことに未だ気付かない。越えてはならない一線を勝手に書き換えてしまうような愚行を止められないのも無関係ではないように思います。
  ・・・なごりとは 未だ見ぬ岸の 夢薄暑 ・・・ (愚僧拙句)
 
 
 人の品性を”徳”という。精神的・道徳的にすぐれた人柄は自らを高め他を感化する。それは長年かけ築いてきた修養の道だった、それをも破壊し何を一体残そうとしているのだろう。不信か恨みか憎しみか??? 
 後の世を渡す橋になれ! それは 自分が真っ先に渡る橋ではないはずです。この仏教の基軸は未来永劫に揺るぎないと信じます。寺に遺された過去帳には 多くの人々の名が載っている。生まれて直ぐに亡くなった赤子から享年90歳を越えた方も、昭和18年度 父の育ての親である住職30世恵浄代の過去帳を見ると記載が急に増えている。明らかに先の大戦が影響しているのです。その2年後の昭和20年(1945)に日本は敗戦、無条件降伏を受け入れた。今年 令和4年(2022)の5月15日は沖縄本土復帰50周年にあたる。戦後77年が経過し、それと共に人々の記憶から薄れていく。
 一方、ウクライナとロシアの戦況は停戦への道筋まで判らない、その中で5月9日の「対独戦勝記念日」にロシアは”戦争宣言”するのではないかとの憶測が流れる。

3708:命の尊さ

 我が事として受け入れること・・・・此れは”共に生きる”ことの第一条件だと学んだ。障害と生涯は、いずれも”ショウガイ”と読む。これは単なる意味の違いでしょうか? 私は そう思わない。これはどこかで交差する。自分が”老いて病に罹った時、その意を観じるのではないでしょうか。
 人間の大望(たいもう)は、死を克服すること、あらゆる宗教の立宗の礎である。仏教の立場なら五観、悲観・慈観(4.5観)で抜苦与楽に至る(慈悲)。どんな理由が有ろうと他を死や障害に陥れる戦争は許されまい。
 大欲(たいよく)は無欲(むよく)に似たり。、”欲の深いものは欲の為に目が眩み損をしがちで、結果 無欲の人と同じになる”ということ。(大欲非道)
 もし、聖戦(正義の戦い)というのであれば、何をもって 誰が どんなやり方で 為さんとするのですか?
  膨大な財をもつものが、何のために それだけのものを持とうとするのか?と問われます。
・・・無垢清浄光 慧日破諸 能伏風火 普明世間・・・(観音経普門品25。)
 
 方や・・それが 何なんだ? 俺には関係ない。・・・という人もいるでしょう。宗教は政治(権威への信仰)と一線を画すべき、その箍が緩まれば 人心に様々な影響を及ぼす。 あたかもウイルス感染と同様に目に見えず、本人が判らないうちに深層醸成されてしまう。宗教を生きる道標(信じ安らぐ)と考えれば、それを簡単に書き換えられては 堪ったものではない。信じていた者が道を誤り、引き返すこともできない。その原因は宗教側にあり、責任は避けては通れないのではないか。
 そうならない為の唯一の道は 宗教の内部から誤りを正そうとする力が権力者に阿る力に優ることだと思います。ただ現代の宗教が抱える問題は、宗教自体の中に政治的な考え・仕組みを取り入れてきたことによって生れたジレンマとも謂える・・・・、
 ☆≪幻想のなかで民衆の幸福をあたえる宗教を廃棄することは、現実のうちに民衆の幸福を要求することである。自分の状態についての幻想をすてろと要求することは、幻想を必要とするような状態をすてろと要求することである≫(「宗教を民衆のアヘン」・・・マルクス『ヘーゲル法哲学批判』)

3709:時流

時間の流れが 早くなりすぎてしまった。地球の自転とは関係なく、地球上で起こっている一刻を争う事態に対処せざるをえない。昼夜構わず繰り返される惨劇に、どこまで堪えられるのでしょうか?時間がデジタルからアナログに逆戻りできないように 自分達の能力を超えた事態に為す術を失い、憂い、焦り、狼狽え、どうにかして安住の場を見つけようと藻搔く。 幻想なのか、それとも現実か?
 軸が狂った 振り子時計は正確な時を刻むことはできない。1962年キューバをめぐり二大国が対立、核戦争の危機に世界の眼は集中した。その時、双方のトップにより交わされた約は何だったのか?当時、私は中学生だった。その時日本は2年後(1964年)開催の東京オリンピックに向け国を挙げ盛り上がっていた。朧げな記憶だが辿ることができる。
 当時を知る人は段々減っていく、知らない大人から子ども達は何を学ぶことができるのでしょう?元を正せば、その多くは天為ではない、人の偏り過ぎた欲望を満たす為だ。
 この時流を止めることはできない! でも、一人ひとり 今 できることはあるはずだと思います。 
 
 同じ過ちを犯さないために・・・・日本が教育の場で戦争について学ぶ機会を遠ざけてきたと言うのであれば間違っている?どうしても・・・寝る子は起こすな・・・に聴こえてしまうが その逆効果の方が恐ろしい。戦後、廃墟から如何に復興するかを最優先の国家的課題として、遮二無二頑張ってきた。
 これを間違いとは誰も言わないでしょう。でも いずれ大きな壁にぶち当たるという予兆があった。それは 国家としてどう自立するか!です。このことを国民と共に語り合ってきたでしょうか?日本は本質的に何も変わらず、資源を外国に依存し、製品を輸出する外需で復興を果たした。競争に勝つ為にコストの安い外国へ工場を移し、一方では、内需を高めようと目論む。けれどモノが溢れている今日 直ぐに必要というものが見つからない。懸念が現実となってから、慌てて対応策を練っても 上手くいくはずはない。
 此の儘 日本の良さがドンドン消えていってしまうのでしょうか?またかと言われようがその最大の原因は先進国の中で国政選挙の投票率の低さと国の抱える借金の多さである、この二つが改善できず逆に増え続けているのです、当に”名目は国力の真の活力源にはなりえない”ということ。他国の事をどうのこうの言う前に 自らの国の実体を直視しなければなりません。耳障りの良いことには惜しげ無く、都合の悪い話には耳を背ける様では、国民感情との乖離は益々脹らむでしょう。それはまるで地盤が脆弱な場所にドンドン高層ビルを建てるようなことではないか。変わらねばならないのは今の日本だと何故に考えないのだろうか?それには先ず国会議員の人達全員に 国民(老若男女)の疑問に向き合う誠実さ・と謙虚さを求めたい。百歩譲ったとしても 貴方たちには自らの責任を取る覚悟を感じないのです。 日本で基本的な人権である”参政権”を行使しない人が一向に減らないのは自分達の権利を託したい人が見当たらないというのが真意。他に理由があるならどうか教えて欲しい!
 ☆ ≪子ども家庭庁≫2023年度新設予定、構想から3年が経過???・・・日本は先進国38ヵ国中、『子どもの幸福度』が20位、『精神的健康度』は後から2番目の37位の結果が何を示すのか?。(ユニセフ)

3710:善し悪し問答

 真逆の情報に翻弄され、何を信じて良いのか判らず時間だけが過ぎていく。その時々の思いつきで判断する危うさは、益々増大している。日本は1945年の敗戦から77年の間、国内での戦争を経験せず済んだ。地球の何処かで常に紛争やテロは止んだことがなく、その犠牲になった人々はどれだけになるか正確に判らない。≪涙は泣く人だけが理解する言葉である≫(アメリカの諺)
 戦争の悲劇を我が事としてどれだけ多くの人々が共有できるか、これが本来の抑止力に繋がるのではないでしょうか!ここから国の自立は始まったはず。その為の道筋は日頃から 戦争に対し率直に話し合う場が不可欠だった、それを長い期間避けてきたことが誤りだった。一部の人だけで密室議論しても済むことではない。見なさい!戦争の悲惨さを学ぶ機会もなく、経済最優先を相も変わらず言い続けている人達よ、ここ20年間を良く見てください、貴方たちの思い通りになっていますか?先進国という名目を返上すべきだと私は思います。
 日本の子ども達の『精神的健康度』が先進国38ケ国で37位という数字をどのように考えるかです。子どもの目線を忘れた大人たちの責任だと、 今日も NPOで生活困窮者支援を行っている方から相談したいことがあると言ってきた。現にそれぞれの地域で懸命に支援活動している人達もいます。でも、表面的で国の形にはならない。その証に日本の子どもたちで貧しさのために進学を諦める数や子どもの自殺者も増えている。その多さでもG7中トップ(WHO)、これも偽情報だと言うのでしょうか!過去の栄光? GDP世界第2位になった頃から現実を直視することができなくなってしまった。
 
 コロナ禍とウクライナの惨劇が現代社会の抱える問題(本性)を白日の下に晒けだしている。国境を越え政治・経済・文化のグローバリゼーションが拡大する中で起こった二つの出来事は生命の尊厳という価値を根底から壊し、それでもまだ満足できない一部の人達によって更に混迷を深める。 人間が創り出した武器やAI技術を惜しげもなく使って、思いを遂げようとする。一方では未来に向けた様々な挑戦も各国共同事業(宇宙ステーション等)で行われている、これだって今後どうなるか 誰も判らない。現状で世界の宗教も任を見失ったか?大いなるものに帰依することで 自らの過ちの許しを請う”祈り”、その仲介を為すべき宗教者が時の権力に忖度するようになれば世も末である。
 現代人が頼る”光”は、生命の尊厳という理想に対し、真逆の現実によって搔き消されるように見えなくなった、一部の人間により人々の細やかな喜びさえ奪われてしまうという脆性を証明した。
 田舎寺の住職と障がい者施設での職員という世界しか知らず、古希を過ぎ、そろそろ引き際の準備をと思っていた。その矢先に 自分は不器用で世間ずれしていない人達から如何に多くの事を教えられたかという思いが湧き上がってきました。結局、無垢で無欲の人達こそが真の施無畏の伝道者となり得ることを確信する。歪んだ人々のこころを癒し、その見返りを求めない。言い訳や他の所為にすることもなく、有りの儘に生きる、これこそが真の強さです。
 こんなことを言えば社会から一笑され相手にされないでしょう。でも 構わない、 決してそうでないことを 伝えていきたい。(『この子らを 世の光に』)