源究69

 

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
891 実習生 7/3 896 文字情報 7/10 901 関東大会 7/17 906 北光線 7/23
892 出張法事 7/4 897 負の連鎖 7/11 902 人間存在 7/18 907 県社会福祉審議会 7/24
893 サミット 7/5 898 墓地事情 7/13 903 クレーマー 7/20 908 木内野球の妙 7/25
894 予防原則 7/6 899 無罪放免 7/14 904 優先順位 7/21 909 Mのレクイエム 7/26
895 愛別離苦 7/9 900 施餓鬼準備 7/15 905 一寸先 7/22 910 志壽 7/27

891:実習生

夏休み前のこの時期は施設では実習生の受け入れ最盛期である。某大学の学生が5班に分かれて続けて入る。今まで実習生は職員に任せっきりだった。それが急に私がしゃしゃり出ることに相成った。近頃の学生気質に疎くなってしまったからである。果たして私の古めかしい話が通じるか?昨日、第1班の学生2名と短時間だったが話をした。今日で10日間の実習が終える。顔は晴れ晴れ、やっと解放されるという喜びが満面に浮かんでいた。
 尚恵学園での実習、最初は戸惑いだらけ、どのようにメンバーさんと接したら良いか解らない。当然と言えば当然だ。我が園での実習は原則泊まり込み。GHで泊まる方もおれば、寺の客殿を宿舎にする場合もある。それぞれが実習生にとって初体験。若いときの良き思い出になるのは確実だ。出来れば卒業後、就職までいけば良いという気持ちもあって私が面接。
 職業の選択は自由だから、別に当方に就職しなくても構わない。だがここで実習を行ったという経験は大切にしてほしい。大学や専門学校も実は学生募集に苦労している。何しろ福祉離れがこれほど急速に進むとは誰しもが予想していなかったことだ。教員が学生募集に走り回る時代だから。この傾向は将来とも続くだろう。当然閉鎖を余儀なくされる学校も出てくることは間違いない。一方、我々事業所には利用希望者が増え続けている。このミスマッチを国はどうしようと考えるのか。
 正直、自分の足元を固めるのに精一杯、なにせ厚生労働省のここ数年の実態には呆れるばかり、出るわ出るわ、次は何が出てくるのでしょうか。最近社会保険庁の改革案が出されました。大半が新たな組織に横滑り、これで改革ができるのか。できませんよ。
大いなる疑問に防戦一方の舛添さん。本心を聞いてみたいが、大学で教えていた時のほうが格好が良かった。彼の意見はピンポイント攻撃で聞いている方もよくぞ言ったと応援したくなった。今どうですか。。。。。当時の面影がすっかり薄れてしまって。髪も薄くなり、自宅前のゴミ収集場所にゴミ出しをするイメージしか浮かばない。
 もう少し頑張ってよ。今の内閣では好感度一番で私は貴方を買っていたのですから。それが野党のミスター年金とか言われる議員にやられっぱなしでしょう。
 実習生の話は終わりだ。
今の日本の政治はガラガラポンが早道かも、大臣の実習生を受け入れてはどうでしょうかね。副大臣待遇で、例のミスター年金先生を招聘してみては。そして頑強な官僚牙城に殴り込みをかけては。そうでもしないといつまでたっても変わりません。なにせどこの政党が政権をとっても情報源が同じなんだし、都合の悪い情報は出しませんからね。お調子者が族議員とか言われて祭り上げられて民意の代表とかなんとか始まっちゃう????
 今、戦後最大の危機に日本が直面していると私は考えておりますよ。民主だろうが自民だろうが関係ないという有権者が大半、役目上、仕方がないからお呼びがかかった講演会には顔を出す。影でヒソヒソ話す内容は壇上の先生方は知っているのかいないのか。
 わたしの抜本改革案は、政党は1本で良い(共産党も同じですよ、彼等の言い分は私は正直頷けることが多いもの、そう思いませんかここだけの話だけれどもね、彼等はいっちゃなんだけれども萬年野党で満足しているんでしょうか)。議員は現在の半数か1/3で充分と思います。そこが与党になり、野党は官僚。これで民意を問うたらどうでしょう。どうせ選挙公約(マニフェスト)なんか守らないのだから、政党を選ぶ意味がないでしょう。政党ではなく人間を選ぶんですよ。そうすりゃー選挙区は地方で住まいは東京なんって先生は必ず落選するから。そうこなくちゃーウソでしょう。全く有権者のお人好しにも限度がありますよ。
どうだ、参ったか!

892:出張法事

それ程、多いわけではないのだが、泊まりがけで葬儀に出かけることがあります。お寺と檀家との関係も微妙になっています。江戸時代には檀家制度により、どこかの寺に入るように幕府の命令でなったわけです。それ以前は、強制的なものではなく、近くのお寺で供養を行っていたようです。それが政治との絡みで変化しました。明治の廃仏毀釈も権力によって強いられたもの、時の為政者は、宗教を巧みに利用してきたのです。それが最近、趣が異なってきました。信仰の自由によって強制力が無くなった代わりに、従来の宗教が急速に変化し始めているのです。それは宗教そのものが市場社会へ組み込まれているということです。
 その1例が、葬祭業社の急増です。彼等はいかに良いお客さんを見つけるか必死ですよ。病院に入り込み、亡くなった家族への猛烈なアタックを開始、テレビ番組にありましたね、大村昆と片平なぎさが出演している葬儀屋さんの番組。これはユーモアを交えたホットな内容になっています。
 実態はそれはそれは。所沢から電話が入りました。急に葬儀が入ったという知らせです。最近はこんな事もあるんです。
「住職さん遠い所から来られるのは大変でしょう。宗旨はなんですか?私どもでお寺さんを頼むことも出来ますがいかがしますか?」これなど葬儀のアウトソーシング。不確実情報だが葬儀屋さんには、どこの宗派のお経も読める坊さん?が専属でいるそうじゃないですか。葬儀に住職免許証を提示するなど聞いたことありませんから。お経の意味も分からないし、もしそれが本当だったら上手いこと考えたな!・・・・
 この変化に正直どのように対処したらよいのか!それぞれの住職に任されているのが現状なんですね。実はこうなったのも大都会の大寺院に大いに責任があると思う。それは、檀務を人任せで、自分が出ない。多少やっかみ半分で大袈裟かもしれません。葬儀屋さんと全く同じレベルの発想で良い葬儀には住職が正装して出てくる・・・・・。これが私など田舎坊主にはどうしても解せないのであります。私はどこまでも行きますよ。「がめついとかなんとか言われても・・当然でしょうが」
そんなわけで、所沢に宿を自分で見つけて明後日出張します。
 7月に入り、セガキの準備に入りました。卒塔婆書きや永代供養掛け軸書き。普段書き慣れていないから、これが腕が痛くなるんです。
 住職として一体何をやればよいのでありましょうか?大きな命題です。
 今年私が自分なりに考えた事は、境内の掃除なんです。除草剤は使わない。只菅手で草をとる。これが実に大変なことで、一向に綺麗になりません。何しろ草は元気です。どうしてこんなにも元気なの?いつしか草と会話している自分がいる。
 お前はな、あっちこっちに手を出しすぎるからだよ。一心になれば自ずと元気になるもんじゃ。「草の弁」
 一番元気なのは「スギナ」と「篠」ですね。これはすごい。根も深いし、踏まれても決して枯れない。私の理想の姿。
最近、ちょっと解りかけてきたんです。作務を修行とした先徳の生き様が、 
 

893:サミット

7日から北海道洞爺湖サミットが3日間開催されます。ニュースでは事前準備や出席首脳のインタビューなど繰り返し放送されています。上記のスナップは洞爺湖ではありません。友人が送ってくれた日光中禅寺湖の最新の写真、何故ここでそのようなスナップを紹介するか、これは私がひねくれ者だからという事です。
 さてと、サミットとは「頂上」の意味、1975年にフランスの提唱によって始まったものです。主要な先進国主要会議、当初は日本を含め6ケ国、その後カナダやロシアが加わったんです。今回は中国やインド、アフリカなど合計で22カ国の首脳が集まる最大規模の会議となるそうです。
 幾多の候補地から洞爺湖が選ばれた。会場となるザ・ウインザーホテル洞爺は警備保障会社セコムの関連ホテルなそうで、警備第一とすれば打って付けの場所なわけです。地球温暖化対策や、食糧:原油の価格高騰への対策を話し合うことでしょう。洞爺湖は支笏洞爺国立公園の中にあり、カルデラ湖です。昭和52年有珠山が大噴火したことで、まだ記憶に残る人も多いと思います。
 私は2回ほど訪れました。最初は学生時代の山登りの時、湖畔にある温泉に入った程度の記憶しか今残っていません。
洞爺湖は噴火によって湖底に堆積された火山灰により、植物性プランクトンなどが繁茂し、独特の生態系を保っているそうです。
 日本で行われた京都会議議定書の目標数値を果たして参加国全てがクリアーしているのでしょうか?開催国の日本は改善されたのではなく数値が悪くなっています。
 サミットという国を誰が選んだのでしょう?ここに疑問があります。先進国というのも何を根拠にそう言うのでしょうか?
経済的な繁栄ですか?国の持つ歴史的な文化・風土ですか?もしも。二酸化炭素の排出対策を考えるならば、参加国全てが後進国ではないのでしょうか。
 自国の都合を中心に論議している間にも地球環境は待ってくれません。最近「Earth」という映画を見ました。北極熊が絶滅に瀕している。それは氷が減少し、エサの確保が困難になっているということからなそうです。
 先日、参加した研修会の会場が偶然にも極地研究所でしたが、南極も確実に変化しているという話を聞いてきました。
サミットに代わるものは、国連しかありません。そこで繰り広げられているものは焦臭い物が目立ちます。世界の各地で今日も繰り返される紛争、複雑に政治や宗教が絡んでいます。それは国の正当な理由があってのことだと言うことでしょうが、果たしてそうでしょうか?
 この度の洞爺湖サミットが単なるお祭りとして終わるのではなく、形を残して頂きたい。経済優先の論理では、解決できない矛盾や弊害、今の世界の識者が総動員しても化石燃料に頼らざるを得ない状況から脱皮できないのでしょうか?
 何か意図的に影で何者かが糸を引いているように感じてしまいます。暴利を独り占めする産油国の横暴、大分昔ですが南周りでヨーロッパに行った時に中東の飛行場で違和感を感じました。砂漠の中に人工的な近代都市が林立する光景です。オイルマネーの恩恵でしょう。
 これで市民レベルで対抗するとなれば、電気のムダ使いを止め、マイカーを避け、公共の交通手段をなるべく利用すること位。
 こんな事で果たして根本的な解決になるのでしょうか?答えは否。
 原油や食糧の高騰は、人間の傲慢な生き様の結果です。生きることの価値観が何か歪んでしまった事への警鐘。
 洞爺湖で話される内容は如何なものか?そして決定された事項に実効性がどれほど期待できるのか!
 少なくとも各国がこの先どう舵を切り歩むのか程度の確認と同意を土産に帰っていただきたいものです。その責任は開催国日本にあります。 

894:予防原則

1990年頃より、欧米で起こってきた概念。化学物質や遺伝子組み換えなどの動きに対し、環境に重大かつ不可逆的な影響を及ぼす仮説上の恐れがある場合に科学的に因果関係が充分説明されなくとも規制措置をはかれるという考え方。
 今回のサミットでも環境政策は一番の目玉、その概念は「予防的取組」(precautionary approach)という表現に近く、単純に「疑わしきは罰す」とは違うという。
 世の中の進歩スピードが予測範囲を超えている。複雑多様な絡みの中で人間が人間らしく生きるという術を見失っている。そのアレルギー反応として短絡的な思考をする者が増え、これまた想定外の様々な事件が起こる。
 さすればそれに対する予防的取組は可能なるや否や。日本の現状からすれば悲観的な見方が大勢を占める。環境対策というものは、人間が嘗て経験したことのない地球規模の取組である。今回のサミット参加国それぞれが自国の思惑を出し惜しみする表皮効果しか望めないのではないだろうか。
 アジアからヨーロッパにまで勢力を伸ばした嘗てのシンギスカーン、確かに歴史好きなものからすればスケールの大小を問わず何例かの類する史実を浮かべることはできる。しかし、根本的に異なる点がそこにはある。それは地球環境にまで多大な影響をおよぼす領土拡大ではなかった。
 今、恐ろしいのは、世界中至る所で誰も知らない中に取り返しのつかない破戒が行われる可能性があるということだ。
 先哲の教えから学ぶまでもなく、人間のエゴイズムは自らの足元すら破戒する。個々の人間の利権ではなく、国単位での利害に及ぶから始末が悪い。
 アメリカのブッシュは任期が残り少ない。もしも、洞爺湖で何を宣言するのかは解らないが、彼が大統領として行った数々の事跡は将来どのように評価されるのだろう。
 アメリカだけが世界基準の尺度と化した時、自由社会という大義の影に埋もれ、計り知れない数の人間の悲しみも生まれた。その事を避けて、どのような提言を行ったとしても真の意味での予防的取組にはならない。
 政治とは別次元で世界宗教会議もある。その内容は良く解らない。
人間の一生は短い。あっという間の出来事。良くも悪くも自分の責任で自らの人生を総括する時期が誰しもに用意されている。
 残念なことは、これだけ準備に手間暇をかけ膨大な金を使うサミットが、会議で諮られる内容よりも、無事終わって欲しいと思う主催者の在り方に。
 外観をいくら繕ってみても本来の予防原則には関係ない。

895:愛別離苦

様々な別れがあります。それは死別だけではない。邂逅という思いがけない出会いもあり、その別れもまた言葉に表すには余りにも多くの思い出が重なり合う。
 先日の葬儀では、一瞬経が読めなくなった。若くして旅だっていった、それも自らが選んだ道で。通夜には顔を見せなかった元の妻は、出棺前の花を棺に飾る時にその場に倒れてしまう。周りの人に支えられながらもやっとの事で手にしっかりと持っていたものを元夫の顔の脇にそっと置いた。
 それは、二人の間にできた子供の写真だった。
二人に何があったのか解らない。聞くことも正直できなかった。
この一瞬の出来事に、余りにも重く凝縮された営みを感じるのだ。悲しみは時と共に薄れていくことも確かである。だが、突然こころの中に沸き上がってくるものでもある。それはその人だけにしか解らないこと、だからこそその思いを大切にし、強く生きて欲しい。
 最近の出来事を思うとき、人生を短絡的に考える人が多くなったと感じる。生きているという実感が薄く、生かされていると感じるまでに人生の厚みを積むに至らない。この理由は何となく分かる。全ての望みをお金で叶えられると錯覚、欲望を抑える事が苦手で犯罪を犯してまでもお金を得ようとする。苦労して得た金は使うときには誰しも慎重になろう。だが、現実は街の至る所に高利で金を貸す換金コーナーがある。それも合法的手段だから次から次に借金を重ねる、そして到底、返す事が出来ない無い膨大な借金に苦しむ。
 これが豊かさの中で徐々に人間を侵し続け、短絡的な決断へと結びつける。それを乗り越えるには相当の覚悟と勇気が必要だ。若いときにその経験をしてこない者にとっては頭で理解していてもどうすれば良いのか解らない。
 仕事にロマンを感じるなどと言ったら笑われる。何を時代遅れの事を言うのかと。果たしてそうだろうか?
人生を80年とすれば長いようで実は短い。その一生で好むと好まらず、生活の糧を得る手段として職業を持たねばならない。仕事に費やす時間は人生の中で大きな部分を占める。それがもし金を得る事のみが目的となって良いのだろうか。求人を出して最近特に給与面だけを見てくる人が増えたと感じている。一昔前は違った。
 大学は今、学生を就職させる苦労は薄れた。学生の数に比べ求人数が遙かに多いからである。しかし、一方では学生の募集は大変な苦労をしている。大学の定員に比べ、学生の数が少ないからだ。これが内包する自己矛盾。品を変え手を変え様々な募集方法を取り入れるが、翌年にはその手法はもう古い。このメカニズムは確実に事業としての破滅に通じるから無視できない。
 学生は学ぶという以前に大切なお客として優遇される。その温床の中で育てられるから、社会人となった時に社会に適応ができない。これもまた経済繁栄至上主義を掲げる社会の歪み。格差社会がより広がることを片目に、トータルとして日本の現在の世界の地位を辛うじて保ってきた。もうこの手法も続けるには周囲環境が随分と変わった。元を正せば自ら招いたこと。その病弊をひた隠し、世界での日本の果たす役割などと立派な事を依然としてさけぶ。それが国を動かす中枢の人々に多すぎやしないか。障害者福祉の思想がどこかに吹き飛んだ。そりゃーそうだわな。障害者や老人は今の日本では厄介者。そんな常識がまかり通るから恐ろしい。事業者は自らの財布の中身を明らかにせず、様々な手練手管をようして動き回る。自らが侵す罪には甘く、既得権を主張する。
 こうやって何れは愛別離苦を誰しもが経験するのである。
 

896:文字情報

私もこのコーナーを書き始めて大分月日が経ちました[5年目」。その時々の思いを好き勝手に書いてきました。でも、一貫していることは読んでくれる人を想いながら常に書いているということ。何かを伝えたい。多分誰も読んでくれなくなっても続けると想いますね。「後事を託す心境か!」それにもう一つ継続していることは日誌を書いていることです。此方はメモ程度の記入です。
 文字に残すことは伝えたいことを忘れない中にという思いがあります。それと自分のこころを落ち着けるという効能も確かにありますからね。3〜4日書かないでいたら、心配してメールがありました。どうしたんだ?体でも悪いんか?という具合です。ありがたいね。嬉しいね。空でものんびりと見つめながら話でもしたいというのが偽らざる私の心境。何もお返しすることは出来ないけれど感謝で一杯です。
 今、まんだら工房の外装工事をやっています。大分外壁が薄汚れてきたので、思い切り業者にお願いしました。ブラインドも何か汚れが目立ち、お客さんに失礼かなと思い。荒川沖の本田まで行って丁度似合うブラインドを買ってきて自分で取り付けました。それから工房の周りをミニ公園にしたいと思い、竹藪をユンボで綺麗にしました。これが大工事になってしまい、なかなか終わりません。パンを買いに来てくれる人を想うと次から次にアイデアが浮かぶ。
 私にとって大変貴重な場になっています。
 草刈り機を持ち出し、私も手伝います。すると学園のメンバーがグループごとにやってきました。日中活動の仲間達、シイタケ作業や農作業、それに散歩。50〜60名が集まると異様な感じになりますよ。作業班の中に大声を上げる子がいます。彼女は意識して奇声を発するから始末が悪い。今日、介護体験の学生が一緒に作業をしていました。彼は一生懸命、私が大声を上げている子のところに行って「どうしたの?」と尋ねると。彼は近所のおじさんだと私を思ったらしく、「すみません。おやつがもっと欲しいと騒ぎ始めたようです。ご近所の方には迷惑でしょうね」と言う。これは凄い。周囲に目を配る余裕を持っている。一方、職員は必死に本人を宥め賺しているだけ。この差は実は大きい。
近頃、新たに住宅が建ち並び、尚恵学園を知らない方が移り住むようになった、だから余計・園外作業には気配りが必要。何かイジメているように想われるのではないか?とか、手を取って歩く行為一つにも心配りが大切。実習3日目の学生は、その事を理解しているのだろう。筑波大の学生だった。
 障害者の方が、果たして地域で有りのままに生活できるのでしょうか?ありのままという解釈が国のレベルと現場の我々とではそもそも違っています。このズレが一向に縮まらないのには困ったものだ。
 昨日関東地区の施設関係者の集まりが群馬でありました。新体系移行にはあくまでも反対する、我々は一致して行動しているとも。しかし、本当かいなホンネとタテマエは???茨城は正直その流れにのらない。茨城ではかなりの数の施設がこの4月に新体系に移りました。何も県全てが同じ足並みを揃える必要はないというのが私の考えです。法人が自らの判断で決めたこと、リスク覚悟の判断です。とやかく他の法人が言うべきではないと想うからです。
 何かみんなで渡れば恐くない式の言動が多すぎませんか? その先頭に立っていた方が今回、新体系に移行し、その役職を降りたとか、これ地方にどう説明するのですか? おかしいよ、私は県の代表で批判の的になっても良いと考えている。その覚悟がなければ受けない。
 何か外では立派な事を言っているがコツコツと何が自分の利になるかを画策しているような戦法は私が一番嫌いだから仕様がない。
 それじゃー集団で移行に反対すれば何か結果が改善されるのですか?家族会との共闘がうまく行っていますか?それに既に移行してしまった事業所は団体から除名でもするのですか?するならしなさいよ。私は一先に抜けますよ。
 我々の使命はなんなんですか? 貴方達がやろうとすることが一般の人々のコンセンサスを得ていますか?
 この期に及んで何をいう! どっちがですか?よーく考えてみな。
全国では各県が独自に歩み始めましたね。そりゃーそうですよ。移行しなければ事業を廃止しなければならない所もあるのですから。この辺の戦略がイマイチ私には納得しかねるのです。まーいいや。これくらいにしておこう。
 一句
    『 朝靄の山懐に 一球入魂 暫定球
       疲れた体に 眠気さし サービスエリアに 緊急避難 』
                                       ☆ 某月某日 榛名山麓にて
       ・・・・・・何をやっているんだか  まったく・・・・そのように想われても仕方がありません。敬礼!
 

897:負の連鎖

巷に広まる”負の連鎖”、環境破壊、医師不足、原油食糧の高騰、殺人、自殺、偽装事件・・・・・これらは一つのきっかけから次々に起こる。この社会現象を負の連鎖というが、これを断ち切る方法はないのだろうか?例えば医師不足が養成の段階で研修制度を変えたことによると言われている。地方の病院から研修医を大学病院が引き上げ始め、患者がいてもベット数を減らさざるを得ない病院が急増、揚げ句の果てに病院閉鎖、これは収入を見込んで設備投資し、その返済に行き詰まったことによる。医師や看護師の基準を満たさず診療を続けてペナルテイを受けるかあるいは資金メドがたたず廃院(倒産)するか。
 国はその対策として、医師数を増やすというが果たしてそのことで根本解決になるのか?多分、勝ち組と負け組が今以上にはっきりするだけだと私は思う。何故ならば医業に優秀な医師が経営に長けているとは限らない。生き残る一つの条件、大学病院との連携を保つにはそれ相応の出費と努力が必要だ。
 上記のスナップはなんだか解りますか? 尚恵学園のシイタケ班の作業を失礼して携帯で撮ったものです。シイタケ原木を水につける作業、100メートルほどの距離を一本一本原木を運ぶんです。20数名のメンバーに対して、職員2名実習生2名が対応。単純作業の中に実に深いものがある。我ながら関心した次第。
 メンバーのHさん、何か独り言を言いながら原木を運んでいる。彼はその原木を目的の場所に置かない。またそれを持って戻っていく。そしてまたやってくる。この繰り返しをやっている。「あれっ Hさん ここに置くんじゃないの!」すると職員が「いいんです、Hさんはこれで落ち着いているんです。」何か冗談のような話。彼は最重度の障害を持つ、その彼が作業着に着替え今の作業に参加するまでには実に10年以上かかっている。Hさんは職員の目を盗んで(彼にはその意識はない)どこかに行ってしまう。その彼が一本の原木を持って往復することで安定するというのだ。
 ここに作業のノルマはない。彼がいかに一定時間みなと共に過ごせるかという課題である。職員に尋ねた。「いやー面白いな。よくみているよ」その瞬間だった、Hさんが原木を置かずに戻って行くと途中でSさんが、Hさんの原木をひょいっと横取りし持ち帰った。「あつ」という職員の反応も早かった。しかし、「そうなんです、面白いんです」
 Hさんへの対応とSさんの取った行動、理屈で説明してもお互いに通じない。「あっ」&「おもしろい」という二語が充分に職員の気持ちを表す。さてと、皆さんどうです、この一瞬の遣り取りに負の連鎖を断つメッセージを感じませんか?私たちがそこに何を感じるかです。
ヒルテイの『幸福論』・・
 「人間知は、観察者の高度の自主独立と無私無欲を前提とし、あるいは、観察者がいっさいの利己主義をできるだけ多く切り捨てることを前提としてのみ可能なのである」P108〜109
 「しかも完全に同じ人間がひとりもいない」・・・・「人間知の本当の秘訣は、できるだけ虚栄心を捨て去った純粋の心情をもつことである」・・・・
 つまり、巷で問題になっている負の連鎖の根元は、自分だけが良ければ良いという利己主義と他への優越感を喜びとする価値観、虚栄心から生じたものだと。
 その結果、嫌人的・厭世的な気分になり、精神まで疲弊する。”負の連鎖””悪の循環”などと言われるのだが、その解決の方法は人間の価値観を如何に元に戻すかという各自の努力でしか根本的な解決はない。
 病院経営に疲れ、僻地医療に生き甲斐を見い出した医師、海外協力隊に参加し、ネパールの山奥で女性一人で頑張る看護師を私は知っている。自分の限られた人生を如何に生きるかは他人事では無く、自らの決断と責任で行うのが原則ですわな。こんな夢を抱いていますと私も貴方も語らえる、そのような日本になって欲しいですわな。

898:墓地事情

先日埼玉の所沢斎場に行きました。周囲に沢山の墓地があり、何か異様な感じを受けました。あの当たりが武蔵野の風情が唯一残された地域かもしれません。私の寺にも2カ所の霊園があります。寺が管理しています。一時期墓地が不足し、造成すると直ぐに売れてしまいました。しかし、ここ数年はパタッと止まりました。供給過剰なのかもしれません。住宅を求めると次は墓地を買い求める人が多かった時代、今、子供が少なく、定住のつもりで自宅を建てたのに子供が一緒に住まない。そんなわけで私の寺の霊園でも何件かは寺に墓地を返された方がおります。その中に定年後は好きな釣りでもして老後を過ごしたいと、伊東温泉に別荘地を買い求め移り住んだ方がいました。墓地は永代使用許可でお分けするものですからいらなくなって寺に返してもお金は返金しないことになっています。何か申し訳ないような気分ですが、致し方ないと諦めて頂くことになりました。
 それから墓石がたって納骨までされているのに全く音沙汰が無い方もおります。これが実に困りもの。それに石屋さんが倒産したりして廃業されている場合にも困ります。墓地の状況は時代を見事に映し出しています。
 それから将来はどうなるのか皆目わかりませんね。散骨という習慣は日本ではまだ少ないようですが、外国では行われている所もあって実際に墓地がない所もあります。
 今の仏教はその殆どが嘗ての檀家制によって維持運営されています。しかし、この仕組みが徐々に崩れてきているのです。
その顕著な例が地方の過疎地域です。跡取りがいなくて途絶えてしまう家が増えているようです。こうなると寺そのものの維持が難しくなり、住職が教員や役場に勤めながら寺を守るということになります。地方ではこれが深刻な問題になっているようです。
 分かっていますが葬儀や法事を行うのが寺の役目、実はこのことに私は異常なほどアレルギーを持っているのです。これは全く変わりません。葬式坊主という言葉にトラウマがあるからでしょう。
 私は変な所に拘りがあり、どうしても譲れないのです。理想が高いのかそれとも身の程を知らないのか?どっちもでしょうね。
今までに法事を私のほうから言ったことがありません。お寺から言われて行うものではないだろうという考えからです。
 それから今の私の生活は正直休みが無いという状況です。否、正確にはケジメが無いということ。こう言えば皆さんには不愉快な思いをさせるだろうと解っています。決して忙しいというのでは無いのでして閑があると言えば私が一番閑かもしれない。性分でしょうか、何すると言うわけではないのにじっとして居られないのです。常に何かを考えているわけです。この性格は死ななければ直りません。
 先ほどの伊東温泉に移り住んだ方、うまくやったなー。私の理想の生き方ですよ。温泉が自宅にひかれ釣りポイントには事欠かない。ミカンなどの家庭菜園でバーベキュー。ひゃー!もう考えただけでおかしくなる。
 できることならタイムスリップし、どこか別の世界に!最近そんな夢を見ることが多くなりました。
果たして出来ますか否か。今日は日曜日法事が3件、それに盆前。いくら取っても目を出す草とのバトル。
 これが現実です。ジャガジャーン!ドミトリ・シェスタコービッチの交響曲第5番ニ短調作品47が丁度終わった。
 

899:無罪放免

大分県で教員試験に絡んだ事件が明るみになった。どこから情報が漏れたのだろうか?いやーその業界の人には長く習慣化していたことで敢えて告発まではと考えていた節がある。穿った見方をすれば、教育庁の上層部での権力闘争でしょう。日頃不平を持つどなたかがマスコミに情報をタレ流した。良くあることです。
 芋蔓式に出てくる実態、正直そこまでやるの?という感想だ。議員や上司への口利きは多分どこの県でも行われていること。この是非にはここでは触れない。しかし、遣りすぎだと思うのは、試験回答を手直しをして、証拠を残さない方法、もっと巧妙なのは、不合格の人の回答まで手直ししたという。受験者全体の平均点を操作したもの。
 これじゃーなんの為の試験か!それも教師になる者を選ぶ試験を改ざんするとは。お釈迦様でも気がつかめー。モラルの低下も落ちる所まで落ちた感がする。
実名が公表され、その子供が合格したということになれば、果たしてその子達は今どのような気持ちでいるだろう。
 もしも、自分達が知らないところで親の贔屓目で行われていたとすれば・・・・・・。
 潔く辞職すべきだわな。多分そのようにされているだろう。教師という器がなんとちっぽけで近視眼的な発想しかできないのか!
ガッカリすると言うよりもグッタリ。どっちでも良いか。もしも教育界の自浄作用があるのであれば、大分県だけに留めておくべきではない。今、関係者はヒヤヒヤものだろう。贈賄側しかり収賄側しかりだ。あれは商品券だと何か罪が軽減されるのですか?それにあれだけの金額ではないはずだ。ここで一言だけは言いたくなった。議員が多すぎるんだわな、何も仕事がないのに、口利きが民意だと勘違い、こりゃーまずいでしょう、先生方。
 あまり、世の中を惨めに思いたくない。若者にとって前途に夢を抱き、思いきっりその力を発揮して欲しいから。そこの共通認識が薄れた。今回の問題をどう幕引きするか?利権と馴れ合いを断つ方法が果たして作れるか。
 日本人の曖昧性は、罪に甘く、人に冷たい。これをどうにかしないと。
こうやっていつもその時々の問題を見つめると、何んとも言えぬ空しさを感じる。”愛”という言葉には無償の愛というものに最高位を与えている。愛することで相手にそれなりの報いを期待しない愛。
 相手が元気で幸せならそれで良いと思うこと。
それがどこかで道を踏み外すことに、それに気づいた時にどう修正をするか!
 この度の事件が未だ解決はしていない。マスコミはアドバルーンをあげただけで、それで良いとは思わないだろう。
無罪放免になるまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。
 

900:施餓鬼準備

東京は盆に入った。地方は8月だが私の寺の施餓鬼が7月30日と31日にあるので、その準備を今している。塔婆書きも疲れます。それに新盆の方には永代供養の掛け軸を書く。これは集中しないと書き損じばかりが出る。今日明日と千葉に出張。幕張のプリンスホテルは名前が変わってアパホテル。あまり行きたくはないのだが役目上仕方なし。
 今日、車で通りすがりに大勢の小学生の行列と出会った。校外学習に行き学校に戻るところ。先頭で引率していた先生、どこかで見かけた人だった。そうだ彼は同級生のTちゃん。教頭や校長になっても良い年齢だが、彼は現場が好きで全くその気はない。この暑いのに長靴はいてニコニコして引率していた。車の窓越しに「大変だ!ご苦労様」と声をかけた。ニッコリ笑ったその顔には大分県での醜い事件などどこ吹く風。
 生涯教師が一番。彼の生き様は無理なくマイペース。エールを送りたい。
普段、寺にはいないが今日は1日中筆を持って部屋に籠もった。すると電話が随分かかってきた。「水子供養をする神社はありませんか?」神社じゃなくてお寺でしょう。「なんとか寺の電話番号知りませんか?」自分でさがせよ。全く、
 この暑いのにタオル鉢巻きで頑張っているのに、どうもピントがずれる電話が多かった。応対は丁寧に行ったが、内心穏やかでない。
そうだ寺はサービス業なんだよな。福祉もサービス業だとすると私の居場所は?そもそも人間が生きる事もサービス業かもしれない。
ここしばらく植木屋さんが入っていた。その後始末をやっと終える。落とした枝を纏めて燃やした。3回着替えるほど大汗かいた。卒塔婆書きの合間に外で火を燃やす。飲めるならば、今日みたいな日は冷えたビールはうまいだろうが飲めない。
 夏休みまとめて取れれば温泉宿。だが、これもダメときた。ストレス貯まるーーーーー!
《小休止》
憎悪・羨望・嫉妬・復讐心・怨恨・邪推・意地悪・他人への不正な判断・・・・などはいずれも人間に対する恐怖から生まれる
 これらからの解放は・・・・非常な懐疑に悩んだあげくとか、非常な苦難をなめるとか、いずれにしても迂路を経ることなくして不可能である。・・・・・・・・・ヒルテイ『幸福論』P203より
 仏教行事の施餓鬼の基本なる教えは、許しだと思う。餓鬼に施すという行為は、福祉の思想にもある意味では通じる。ただ恵まれぬ人々への施しという下を見下ろすような表皮的な行為では絶対に到達できない。万人が例外なく求める”幸福”、実は幸福とは何であるかは人によって異なる。そしてそれはそもそもこの地上において見いだせるのか?
 施餓鬼は先祖に対する許し、無意識に侵す人への罪への許しを願う。この世で幸福であったか否か、確かめる手段を持ち得ない我々が大いなるものにその判断を託す。
 人はトータルで自分の人生を見るべきだと思う。幸福を性急にそして形振り構わず掴もうとせず、「懐疑」や「苦難」で大いに悩もうとも後々、自分の生き様に必ずや効をそうすると信じることである。
 巷で起こった様々な事件は、短絡的に幸福を得ようとする欲望から生じたものと言えまいか。教師という職業においてもしかり、貴方は何のために教師になったのですか?という自らへの問いを忘れている。詭弁を弄せず、自らが反省し、ゼロに戻るべきだ。それが教育者として貴方ができる唯一のことでしょう。
 施餓鬼の準備で過去帳を開きこの1年で亡くなった人の事を思い起こしている。それぞれがこの世での生きた証として何らかの価値を持ち得ただろうか?
 

901:関東大会

千葉県幕張において第40回知的障害者福祉施設関東大会が開催された。(15日〜16日)茨城よりは69名の参加、全体では800名を越す大会となり、今時珍しい盛況な研究会となる。我が法人からは4名の施設長が参加、高速で1時間30分で到着、思ったより近いと感じた。幕張は海浜幕張駅周辺にバブル期に開発されたもので、幕張メッセやプロ野球のロッテの野球場がある。高層ビルが林立して京葉臨海地域の目覚ましい発展を感じた。以前はプリンスホテルであった50階建てのホテルはアパグループに経営が変わっていた。この移り変わりは、なんとスピーデイか。私の部屋は27階、窓越しに見る景色は見事だった。
 さてと、8つの分科会に別れての研修は各県の発表があり、茨城からも2つの施設からの報告があった。夜は例の如く懇親会、2次会と続いた、50階ラウンジでの二次会は2時間に及び、久しぶりに会った友人と好き勝手な話をしてすごす。
大会のスローガンは「私たちの原点に帰ろう」。千葉県の中で様々な論議がなされ、そこで決定されたものであろう。
 しかし、実際の中身はどうだっただろうか?多くの課題や疑問が見えてきたと思う。それは、全体会で発表があった保護者の方の何気ない意見にそれを感じた。障害者認定区分の話題の時だった。
「保護者は我が子にできませんとは言いたくありません。こうすれば出来ますと言いたい・・・・」「障害を持つ子を授かった事を決して不幸だとは思いたくない・・・・・」そりゃーそうですよ。区分を重くしたいがために出来ないことを重箱の隅をつつくようなやり方で見つけ出すことでは無い。「これは過去の話、106項目の調査で爪切りが全介助と一部介助では一部介助のほうが障害が重く出るという話を自慢げに話していた、私はこの話を聞いた時、カルチャーショックを受けたんです。一体何を研究しているんだと」
 先ず、そこに事業者と保護者の違いを感じた。(*介護ではなく「支援度」というロジックを後に導入)
 それに、正直新体系に移行しないで欲しいという協会の言い分に違和感を持っている。別に茨城が協会の動きに反旗を掲げているというのではない。私は全くそんな思いはもっていない。しかし、結果としてそのような視線を感じている。確かに茨城では移行を実施した施設が他県と比べ多い。横浜などは大半の施設が移行を済ませている。横浜が良くて茨城がダメという議論では説得力に欠ける。単独補助の全国トップの横浜は良くて全国40数番目の茨城がダメなのか。全く逆の理屈がまかり通る。法人としての機関決定を行い、その責任で移行していることに何が悪いのか!怒りすら感じる。
 それに原点に帰ろうという「原点」とは何をもって言うのか?障害区分を撤廃すれば良いのか?日払い方式を月額にすれば根本解決になるのか?・・・・・その事に対する確固たる回答を今まで私は聞いたことがない。ホンネとタテマエ論議の矛盾が見え隠れするからだ。現に明日どうすれば生きていけるか、ギリギリの選択をしなければならない人を事業所は抱え、見直し時期の平成23年まで悠長に待つことなど不可能でしょうが。障害程度区分にしてもしかり、2次会での話をちょっとだけ漏らしましょう。
「尚恵さんや俺のところは心配ないよな。みんな重い人達だもんな・・・」これが何を意味するかだ。私は何を基準にするか、先ほどの「原点」に話を戻すと、昭和31年に古材をリヤカーで買い集め、始めた初代の思い、何の助成制度も無かった時代、家族が前日泊まり込んでお弁当をつくり、幕張の浜で潮干狩りに行った、職員もメンバーと住居を共にした時代。
 その時はホンネで世の中に立ち向かう事でしか他の選択肢は無かった。綺麗事の御託をいくら並べても、見る人が見れば直ぐに分かる。ベンツや高級車で会議に乗り付ける施設長への説明責任はいかに!自らの懐を潤すことばかりを考える事業者は、結果として仕事のやり甲斐が見えなくなり、元の木阿弥になる。これが私の一貫した考えだ。
 ただ、恐ろしい事は、自らは我が子を入所施設に預け、入所施設解体を叫ぶ輩や移行の反対を声高に叫ぶ一方で淡々と移行の準備をする輩、既に移行してしまい、その言い訳に汗を流す輩・・・・・・何を信じ、どこで共闘すれば良いのか、これが整理されない限り、土俵際で踏みとどまる事は至難の業だと思っている。
 寧ろ、事業者や保護者自身が自らが「原点」に帰る努力、他に責任を擦り合うことではなく、自らの足元を固める努力、我々の事業が必要としないならば潔く撤退する勇気、その確認が最優先の課題ではないだろうか!以上。

902:人間存在

先の章で『原点』について幾分か触れた。追加説明をしよう。我々の活動自体が枝葉末節な事か否か、方便として次なる展開を描いての行動か?それについて今は未整理の状況にあると言った。その理由として保護者の叫びと我々事業者の訴えが微妙に異なるという点を上げた。
 結局は、事業者も保護者も我々が対象とする人間(知的障がい者)の存在をどうみるかという事に尽きる。便宜的な手段にいくら労力を費やしても目標がよりはっきりするという訳にはいかない。寧ろ曖昧模糊として複雑化するのがオチである。
 木村素衛という方を知っていますか?
彼こそ糸賀一雄や池田太郎が若き時代教えを受けた京大哲学科教授である。私が彼を知った切っ掛けは、高谷清著の『異質の光』という本である。
 ・・・・人間は善・美・知が欠如しているためにそれを求める努力をする存在であり、それを向上愛と呼ぶ。人間性の最高の理念を目指し不断の向上の道を歩む。しかし、有限性のある人間は、理性を深める努力のみでその境地に到達することは不可能。自らに課したものに到達できない自己に懐疑を抱き、自己矛盾を起こし悲劇をうむ。・・・・・・
 人間は絶対的な存在である。その人の存在自身、それぞれの人は他の人と取り替えができないあるがままの姿で存在する。そのことがそのままお互いに肯定されるという存在である。これを絶対愛の原理という。・・・・・・P75〜P76
 果たして、自立支援法を考える段階で→ありのままに地域で生活する社会づくりというお題目、この「ありのまま」という言葉の定義づけがなされていたのだろうか。その根本の意味づけが曖昧であるが故に、様々な憶測を生む結果となったと私は考える。
 この根本の理念の曖昧さが今の混乱の元凶である。事業者、保護者がそれぞれの言い分で制度の不備を訴える。それをすこし離れて冷めた目で様子伺いをしている官僚と政治家という構図である。事業者や保護者に次から次に代案を要求し、必死に揃えた膨大な資料を財源不足という天下の宝刀でばっさり切り捨てる。不思議な事は、この遣り取りの中に知的障害者本人が棚上げされて参加していないことであろう。我が子を寝かせ付けてから夜、家族会議をしているようなものである。
 これは、冷静に見て、国家としての方向を見失った末期の現象である。だが、どこにもお人良しはいるもので、今回の一連の騒ぎを従来の在り方の見直し「リセット」と捉えているものも現実に存在する。これなど現場から離れたものたちである。今をどうするかという緊急性を持たない人達だ。
 今の日本の状況は、果たして何が原因となってこうなったのだろう?
先の木村教授の例でも分かるように、裏付けとなる思想や哲学がない中で形だけを外国から真似して作った制度や国家だからであろうか。戦後の混乱期を無我夢中で生き延びた人達が敗戦国というコンプレックスを持ちながら道徳や思想を排除した中で作り上げた城である。いまアジアの雄としての位置が危うくなってきた、その手法では成り立たないという焦りが日本人全体にある。
 その意味ではリセットという原点に戻ってから再度考えることも選択肢として考えられよう。しかし、福祉や教育という世界に市場のルールは合わない。
 誠に残念なことは、その業界に理解の域を超えている様々な不祥事が起こっていることだ。ペナルテイをもっときつくすべきである。そのことで退出のルールが使われるならば納得するが、いま危惧されていることは、経営手腕はないが、福祉や教育に熱心な人がその夢を果たすことなく退出させられる世の中だけにはなってはならない。
 この業界にこそ、木村教授や糸賀といった50代前半で世を去ったにも拘わらず異質の光となった人の登場が待たれる。
 

903:クレーマー

クレーマーという言葉が目につくようになった切っ掛けは、10年程まえにあった、東芝クレーマー事件。お客さんの商品への苦情に対しての対応が司法事件まで発展したことからという。
 「苦情解決委員会」なる仕組みがあらゆる業種にできる切っ掛けにもなった。私どもの施設でも当然その対応は行っている。言葉だけの対応ではなく、文章に残すようにということで、事故報告と合わせてかなり細かな点にまで報告が出るようになった。問題は報告を如何に今後にいかすかということ。これは不断の行いでしか解決はできない。
 さて、私は何を思ったか、昨日グループホームに急に泊まった。平成12年に作った始めての重度の方だけのホームであった。この建設経緯に関しては話が長くなるのでここでは省略。ただ、最初から夜間職員を付けている。現在ホームが7カ所あるがそれぞれが違った趣で、内包する問題も異なる。
 このホームの4人の利用者さんの中で一人だけタバコを吸う方がいる。彼がリビングで堂々と吸っている。当に食後のくつろぎの一服。どうもおかしいと私は直感、他のメンバーさんは全く気にしていない様子。だが、タバコを吸わない私には煙が気になってしかたがない。
 彼にそのことを確認することは止めた。急に泊まった私が今まで許可されていた喫煙をとやかく言われたくないだろう。
築8年目にしては驚くほど建物の内部が綺麗になっていた。これはスタッフの努力だと思う。
 だが、リビングの壁には煙による独特の黄ばみが付いている。
 10時半皆さんそれぞれが自室にもどり就寝。ちょっと壁など濡らした雑巾で拭き始めたが、正直取れない。
ウーム。
 スタッフルームのパソコンを何気なく開いてみた。「掲示板」なるファイルを発見。開くとそこにはたった一人だけが記入した状況で他には何も書かれていなかった。当直日誌があるからその必要がないのか、或いはインターネットへの接続がされていないから、別にPCの必要がないんだろう。
 だが、そこには頷く内容が書かれてあった。
「喫煙される方へ。  他の利用者さんへの迷惑や部屋が汚れるので、換気扇の近くでタバコを吸ったらいかがでしょうか?壁紙の張り替えなど大がかりな工事にならないように・・・・・」 このスタッフの気配りに感心した。彼は自分ではタバコを吸うのか吸わないのか知らない。
 しかし、喫煙の権利と禁煙の権利が同様に守られるべき。今の流れは禁煙者への最大限の配慮をする時代。当然である。煙は一カ所に留まることはない。黙して観察。他の3人が別に苦情を言うわけでもないようだ。さりとて、吸わない者からすればタバコの臭いと煙はきっと気になるはずだ。
 私どもの難しい点は、利用者自らが声を出して訴えることが少ないということ。気づかずにすごしてしまうことが結構ある。
 GHでの生活8年目を迎えたメンバー4人は、今までに変更はない。同居者の結束と彼等の生活リズムはできあがったいる。薬の確認やひげそり、入浴や食事、それに健康の管理。確かに小人数であっても全く同じ配慮が必要だ。
 唯一、本体の施設と違うとすれば、一人一人の自由な空間と時間があるということだ。
 今年の法人の自主研修で私はGHの在り方を調べようと思っている。体験しないと分からない。仕組みや制度は現地に行かなければ分からない。優先順位からすれば、法人全体では正直それ以前にやるべき改善点は山ほどある。
 昨年、パン工房にコンサルタントを入れた。その結果発表を昨日、担当者が行った。(工賃倍増の取組報告)チームを組みSWOT手法などを使って現状の把握と対策を皆で考える機会が持てた。これは県に感謝している。
 私は県に対し辛口なクレーマーである。それは言うまでもなく、現場を持つ我々の悩みを伝える義務を感じるからだ。
あれはどんな意味なのか、4人の中での長老格のKさんが、「こんどいつ泊まんだー?」と私に尋ねてきた。その時、気のせいかどうか?
他の3人の目が一斉に私をチラリと見つめたように感じた。
 うるせーな、もう泊まらなくてもいいよ!という辛口(?)の反応だったのだろうか?ささやかなクレーマー事件であった。
「法に抵触するか否か、よーく考えてみよう」

904:優先順位

経済学にいくら疎くても、「可処分所得」ぐらいは理解できる。用語が難しいのは言葉の使い手と読み手に微妙な差が生じない為に言葉を規定するからだ。
 今、その所得が減っている。だから物を買いたいという消費者意欲が減退、デパートの売り上げは下降線。
経済は生き物と言われ、原油高やBRICsなる新興国の発展など複雑な条件が関係する。日本の財政は改善の兆しがまだ見えない。これは地方も同様、来年度の予算も厳しくなるのは目に見えている。財政立て直し論議の定番は、「歳出削減」か「景気浮揚」、いずれにしても現状のままで良い訳がない。
 日曜日にはマスコミ各社で政党の代表が出演し、持論をぶつける。だが、視聴者の中で、どれほどの人が真剣に耳を傾けているか疑問だ。この溝は以前として解消できない。
 昨日、つくばで法事があって、ついでに下妻まで足を運んだ。福祉の店を開催中だったから、覗いて来ようと考えた。ジャスコ下妻店は我々のイベントにとても協力的、県西商業圏の中で集客力が大きい店である。梅雨明けし気温は30度を優に超え、蒸し風呂のような車内で、法衣を脱ぎ、服に着替えてそーと覗きにいく。12時前の一番賑わっている時間帯、お客の対応にVSや事務局それに施設スタッフがあたる。一昔前には、オープンセレモニーを行っていた。地元の選出議員や行政、それに我々の代表が挨拶、テープカット。私の代になり、その行事は取りやめた。何か形をとって実がないという印象が強かったからである。
 あれから何年たったでしょう! 地域や曜日によっての差はあるかもしれない。少なくとも昨日の混雑を間近に見た限り、この事業が定着したことを実感した。事務局や出店事業所の努力に敬意を表する。
 余談だが、私は事務局長がエプロンをしてレジを打つ、その横でお客さんに「おつり間違っていませんか?良く確かめて下さい」と老婆心?。いつもお客さんのクレームに神経質になっているクセが出てしまった。
 今、我々事業所と県が協力して、製品の受注アップや雇用促進への戦略を進めている。企業向けパンフレットを作成し、県内事業所やハローワークへ説明しにいってきた。また、ITを使っての新たな取組も計画中。
 少なからず我々事業所も変わらなければならない。待ちの福祉ではなく、攻めに転じる福祉。格好は良い。だが効果は正直イマイチだ。
 障害者福祉と老人介護の一番の違いは、誰しもが自らの事として考えるか否かということ。他人事の域を出ない宿命を背負っているからこそ、何らかのアクションを起こさなければならない。一部の人の汗によって、恩恵を受ける人もいても良いではないか。
 優先順位というものは、始める前から想定することではない。やってみてダメだったらやり直す。この連続性の中にこそ真の順位が見えてくる。
 

905:一寸先

さいたま市で起こった事件はどうも腑に落ちない。15歳の中3の長女が夜中に父親を包丁で刺した。父親は容疑者の弟と部屋が同じだったというから、弟が寝ている脇で犯行におよんだのか。
 真相は分からないが、父娘関係は普通だったという、前の晩も一緒にカレーを作り食べたというのだ。例の如くマスコミは犯罪心理の専門家のコメントを求め、事件を追う。どうもこのような事がパターン化してしまった。一つの事件が忘れ去られる頃にまた新たな事件をスクープする。一寸先はまさに闇である。
 多分、マスコミで取り上げなければ一部の関係者だけの悲しむべき事件として片づけられたに違いない。報道は警察担当、国会担当、芸能、スポーツ・・・記者をはり付け網をはる。先日、常磐高速の守谷サービスエリアでカメラを担ぐ3人の人達を見かけた。どこかのテレビ局の人だろう。彼等は3人一組で日本全国を走り廻っている。
 話題性とは意図的に作り上げられることが多い。インパクトのある報道、その極端なものがやらせ番組。日本では二四時間テレビやラジオがOn Air。眠れない晩など、枕元に置くラジオで様々な番組を聞くことができるのだ。
 これなど放送側にメリットがあるのだろうか?成功事例としてはテレビを通して行うネット販売、店を持たないから経費がかからず急成長している。深夜テレビは半分以上のチャンネルがダイエット番組と関連グッヅの販売番組だ。
 暫く私も凝ったWIIとかいう運動機器も今、誰も使用しない。もうじきお蔵入り。
 次から次に人々の関心をさそう商品開発、一つヒットすれば大儲け間違いない。宝くじに当たるようなものだ。
さてと、今高校野球の地方予選の真っ直中、茨城はベスト4が決まった。なんと地元土浦の高校が三校も残ったから地区レベルの高さを痛感。常総学院は有名監督木内さんが七五歳で再登場、ベンチで指揮をとる。これなど絶好の話題だろう。
 学校経営は一寸先が読めないという。少子化が確実に起こっている中で生徒集めに四苦八苦、小中一貫教育まで検討している私学もある位だ。スポーツで知名度を上げるか学業でトップを目指すか、生き残り戦略には選択肢がさほど多くはない。学校としての方針を決定し、教員の確保から施設整備と投資する。だが、県内で夏の風物詩の甲子園予選で上位三校が同じ市から勝ち上がる位だ。超激戦区である。
 これも今流行の市場原理か?勝負の世界は勝ってナンボ。私は毎年、予選を見に出かける。レギュラーになった選手は桧舞台、それを支える補欠の選手達、彼等はスタンドで応援する。バスで乗り込む応援団、メガホン片手にメール打ち。いっさきに場所を決め、陣取る野球部員の家族は試合前からオーバーヒート、この情景は昔、白球を追った経験を持つ私には堪らない。
 バックネット裏には麦わら帽子を被りタオルを首に巻き付けて観戦する高齢の人が目立つ。絶好の暇つぶしなどと声をかけたら殴られる!
 いつ出ても初戦敗退の汚名は今はない。茨城球児のレベルが上がった。その最大の功績は木内監督七五歳、彼のカリスマ性には実績と根拠がある。
 茨城県で最も有名な学生野球の父と言われた元早大野球部監督、飛田穂州、その甥御さんの飛田保一先生(元当園施設長)は亡くなってもう暫くになる。先生の書かれた「かまえなし」は正面の壁に額に入れてかけてある。私の座右の銘となった。
 

906:北光線

北光線というとなんだかクラブかスナックの名前?私のお気に入りの店。そうじゃないんです。真珠と関係するんだそうです。神戸は真珠では世界的に有名、品質の良さが抜群だというのです。真珠はピンからキリまで、それも180段階に分かれるというから驚きだ。値段も当然、二束三文から一個で数十万するもの。それをどう見極めるか?
 神戸が何故世界的に有名になったのでしょうか?産地としては三重県などが日本では有名な事は知っている、六甲山に関係しているというんです。真珠を識別する時に六甲山に朝日が当たり、その反射光(北光線)が真珠の微妙な色形を見るのに最適だと分かった。人工的な光の下では、天然ものがもつキズや真珠それぞれが持っている輪郭が分かりづらい。北光線の柔らかい光が様々な色に映ろう真珠の輝きを引き立たせるという。
 これも長年培ってきた人間の智恵だろうね。私には宝石など関係ないし興味もない。しかし、北光線というものにピンときた。東より大陽が昇り、西に傾く。仏教では西方浄土をうたう。自分達の理想とする場(浄土)が西にあると考えた。いつも北は主役にならない。脇役に徹する。だからだろうか”北”という言葉に感傷的な物寂しさを感じてしまう。その一例が上野駅、北へのターミナル駅としてその役割を充分果たしてきた。それが今どうだろう。通過駅と化そうしている。常磐線の東京乗り入れなど長年の地元要望が少し現実味をおびている。北のイメージが変わってしまうのだろうか。
 主役だろうが脇役だろうがそれぞれの果たす役割がある。その価値をどうみるかということだ。今、実習生が入れ替わりに続けて入っている。彼女等を見ていると最初不安でどうして良いのか分からないでただウロウロするばかり。実習が終わりに近づく頃には大半の学生が笑顔で利用者と触れ合えるようになる。この変化は実は利用者さんから得ている。最近の学生がどう感じているのか実習期間に彼等と話す場を持つようにしている。
 気になった利用者さんの名前を挙げてもらう。すると普段目立たない利用者さんの名前をあげる学生がいる。多分自分自身とダブらせているのかもしれない。そこで私自身も再発見することも多い。これが入我我入。
 最近、尚恵学園のベル演奏グループ”風(プウ)”があるコンサートのゲストとして出演、普段の生活では脇役に徹して目立たない方がステージにあがると急に輝きを増すという話をスタッフから聞いた。
 福祉とはこんな事なんだろうなー!本来彼女達が持って生まれてきたものを認め一緒に喜べる社会。
 制度の不備に事業者や家族があまりにも周りで騒ぎすぎませんか。政治家の集票に利用されてはいないのか?本当に彼等の事を真剣に政治生命をかけて働いてくれるのですか?当人はどう思っているのよ?えー?
本来ならば彼等の真の姿を映し出すべく”北光線”の役割を担う人達でしょう、それが自らが主役となり、強烈な光を発する人工的な灯りになっていないでしょうか? 周囲で騒げばそれで良くなるという保障があるのでしょうか?障害者の個性を個々に見つめるのではなく、一括りで纏めて見ようとする動きが加速度を増している。
 福祉とは全く逆の方向を向いているように思えてしようがない。
  

907:県社会福祉審議会

昨日、茨城県社会福祉審議会が開催されました。私は心身障害者福祉施設団体から出席しています。委員全体では37名それに臨時委員11名という大所帯、それに県の保健福祉部全課より課長以上が出席する。社会福祉全般の県の方向性や4つの分科会の実施報告がなされる。委員長より意見を求められても何しろ裾野が広いので焦点を定めて討議するまでには至らない。昨今の事業と金が市町村におりる流れは変わらず、県としての役割は大まかな方向性を示すことと市町村の独自性を認めながらも格差が出ないように調整する機能だろうか。茨城県の特殊性は県庁所在地(水戸市)が県人口の1割にも満たないこと、少なくとも50万人の人口規模を持ち政令指定都市(全国で14カ所)となり、県との相互牽制によって競うことが望まれる。現在県内には44市町村が大型合併の後においても存在する。これは我々事業所にとっても厄介なことだ。請求事務一つを取り上げても、市町村それぞれが異なる書式となっている。団体としてせめて書式だけでも県で統一してくれないか要望しようかと考慮中。
 審議会の内容は、公開となっている。老人、児童、保育、障害者それに医療、福祉、教育と多岐にわたる。全ての事業本数を数えればもの凄い数になるはずだ。この辺の整理も必要か!何を重点施策として取り上げるか、全てを平均にという時代ではない。
 そこで今回の審議会の共通話題は、人材確保の問題であった。医師の確保、看護職・介護職の確保、それに民生委員のなり手がいないなど、一体この国はどうなっているのか。
 委員長は石油販売を手広く行っている経済人、石油原価の高騰は常識を逸しているという、バーレルあたり50ドルであったものが、短期間で2.5倍に高騰した。これによって産業構造が著しく変わった。日本だけの問題ではなく全く先が読めない時代となったと話された。企業トップの厳しさを垣間見た。
 経営者像も時代と共に変わっている。何代も続く老舗が倒れ、新たなトップが登場し、やれベンチャー企業とかグローバル産業だとか持て囃される。しかし、登場するのもスピーデイだが退場するのもこれまた早い。線香花火ではないが、一瞬の華やかさにロマンを感じているのか。退場の切っ掛けには共通するものが実はある。それは企業倫理の欠如である。
 大義を滅した事業は世の中からはじき出される。
 福祉業界も当然、従来の在り方にメスがいれられるべきである。経営者協議会の研修が同日あった。リスクマネージメントの講演があり、結構多くの福祉事業者が参加していた。何度研修に参加しても最終的には自分がどう身を処するかという課題の確認でしかない。誰がやってもリスクは存在する。この原則だけは時代が変わっても真理である。
 統合や合併の時代に突入か?私は大規模法人に対して反対の意見を持つ。それだけの能力が無いからなのだが、むしろ大田区などの町工場で先端技術で新たに脚光をあびている会社に魅力を感じる。
 障害者福祉の専門に特化し、存在感が持てる事業所たれ!
 これにはクリアーすべきハードルが高い。掛け声倒れで野に埋もれるか、野に咲く一輪の花となりうるか!これが私に課せられた試金石である。
 

908:木内野球の妙

”妙”とは、言うに言われぬ程、巧みなこと。不思議なこと。
75歳で再登場した常総学院の木内監督、私の高校の先輩になる。OBで知名度の高い人を上げれば私は真っ先に木内氏を上げさせていただく。今年の甲子園への切符を見事に獲得、準決勝、決勝といずれもサヨナラゲームであった。準決勝は正直な話、水戸で会議があり、早めに向かった。勿論水戸市民球場に立ち寄るため。9時前ではあったが、水戸インターの出口は混み合っている。車のナンバーは土浦が目立った。ハハン了解。第1試合目が土浦の2校の激突。畑を臨時駐車場にした所にとめた。料金1000円。バックネット裏が丁度あいていた。座席は既に9割埋まっている。既に予選敗退した野球部の選手達が常総と湖北の試合を見に来ている。それに少年野球のちびっ子。目が輝いている。
 木内マジックと言う流行語が生まれた程、試合運びには想像を絶する采配を下す。今年の常総はエースピッチャーが故障レフトを守る。背番号4のキャプテン島田がマウンドを守る。彼は甲子園準優勝時のエースピッチャーを父にもつ。
 私の予想した通りに試合が進んだ、ヒットの数も湖北が上回り、押され気味、ピッチャーを4人交代した。それにバントを一球目に失敗すると即座にピンチヒッターを送る。その代打が見事にバントを決めるから凄い。こうやってカウントに関係なく容赦なく選手を替える。これなど他の監督が真似できない奇策、交代する選手が厚みがあることも他のチームにない常総の強み。その選手の特徴を良く掴んでいるから出来る決断。ゲーム中、監督は左側のベンチに座り、動かなかった。だが2回ほど立ち上がり檄を飛ばす場面を目にした。選手の表情も手に取るように分かった。監督の指示に自分の出番が来ると「ヨッシャー」とばかりに渇を入れてグランドに立つ。
 全員野球の妙を見る。2試合とも多分相手チームの監督はギリギリまで勝った試合だと思ったに違いない。準決勝は会議の時間に間に合わなくなるので9回裏の攻撃を待たずに球場を後にした。そしてラジオをかける。いつの間にか満塁になっていてレフト前ヒットでサヨナラ、今年は常総はダメだろうと思っていた私だが結果はこうなった。
 決勝も実は水戸での会議があった。この日は丁度同じ時間に会議があり、始まる寸前までラジオで聞く。相手は今年一番の実力ピッチャーをようする常総のお隣の私立高校だ。主戦投手はベンチに温存、霞ヶ浦の監督も木内采配をかなり意識しての番狂わせ。案の定、常総は敗色濃厚、相手のピッチャーに見事に抑えられ初回の1点止まり、それにサードのエラーでリードを許す展開。時間切れ今年は決勝までで終わりだな。車を出ると隣の車から同じ会議に出る方が一緒に出てきた。「良いところなのに仕方がねーよな」「そうですね。」と私。常総の理事長と同じ県会議員の方で野球が好きなようで妙に話が合うのだ。会議が終わる。車に戻りラジオをON。すると木内監督のインタビューが流れていた。もしかしたら?
 9回裏2アウト2ストライクで控えの選手であった者が会心のライト前にヒット。土壇場で同点。延長になって、霞ヶ浦は温存していた今大会屈指の好投手を出してきた。そこで流れが常総に変わった。結果は10回の裏、満塁で外野への犠牲フライで逆転サヨナラ。
 試合後、殊勲のあった選手がインタビューを受ける。「最後まで負ける気がしなかった・・・」という話をした。
私はこれが木内采配の妙だと思う。高校野球ぐらいではワンマンチームになる恐れがある。大黒柱が一人いて、その選手の出来如何で勝敗が決まるというチーム。決して木内野球はそのようなチーム作りはしない。あくまでも全員野球。レギュラー背番号を付けていても控えに廻ることなど常識、ミスを犯せば即交代。特定の選手だけが頭を出すことを許さない。そして子供達(監督の独特の表現)を信じ、適材適所に采配を下す。それに見事に答える選手。
 ラジオの解説者が言っていた。「各選手が潜在能力が高く、それぞれが自分達の役目を認識している。普段の練習で勝ちえたものですよ」
 甲子園への3年連続の代表になった常総学院、今年はちょっと違った展開を見せてくれるのではないか?茨城野球の真髄を発揮してもらいたい。今年こそ日帰りで構わない。甲子園に行って応援したい。
 盆中と思わずにだ。本山(長谷寺)に参拝に行く途中でタマタマ立ち寄ったという事では如何なものでしょう。

909:Mのレクイエム

『Mのレクイエム』という事を大江健三郎の著書より偶然知ることになる。大江には光さんという知的に障害を持って生まれた子供さんがいる。彼の作家活動の中に、その光さんをテーマにした作品が結構ある。「個人的な体験」がその代表か。
 『Mのレクイエム』というタイトルは、光さんが誕生の時から大変世話になっている森安先生というドクター、その先生のイニシャルのMである。先生が突然亡くなり、その事を光さんに伝えた時、彼はかつて無かった程の大きいてんかん発作を起こしたという。その後暫く黙って何日もじっとしていたという。その彼が一つの曲を作った。そのタイトルが『Mのレクイエム』だった。
 何故、彼は音楽特に作曲に秀でた能力を発揮するようになったか、誕生時に息子の障害を告知され、目が見えない、耳が聞こえなくなるかもしれないという将来への覚悟を言い渡された。その大江夫妻が光さんにずっとクラッシク音楽を聴かせ、ピアノの音とバイエルに記された楽譜の記号が一致することを教えたという。
 その後の彼の音楽に対する才能の開花、彼の周囲の人々の手助けがあってのことだろうが、この事に人間の不可思議を感じるという健三郎の言葉となる。彼が文学についての根本の信条とする「人間の不思議さと、その展開を言葉によって合理的に納得できるようにすること、そのための手続きを作ること」は偶然か必然か我が子に起因するようだ。
 光さんが群馬の山小屋で小鳥の鳴く声を聴いて・・・・・クイナです・・・と言ったという出来事。単に小鳥が好きなんですねという事ですますには、あまりにも重い。そう思いませんか?
 社会には「非合理で分からないこと」が沢山あります。死後の世界、幸せ、豊かさ、・・・・人間の価値など。有史以来人間が追い求めてきた未解決のテーマです。合理性だけに価値を認める社会は必ず矛盾が生まれます。自然との共生しかり、地球環境の急速な破戒は、当に自分達が良かれと思ったことにだけ価値観を見いだした暴走の結果。
 私は障害者の方達と長く付き合ってきました。ある意味では片寄った生き方でしょう。常に自らに課していることは、彼等を身近に感じてこの社会を見つめるという視点です。
 ノーベル賞作家の大江が我が子、光さんと正面から向き合った40年、それは息子さんが生まれた病院の院長に・・・
ゲンブツを見ますか?・・・・・と言われた事に端を発する。
 その後、森安先生という「謹直なユーモア」を持つ素晴らしい先生との出会い、このことが何を意味するのか!
 決して諦めてはいけない。必ずや理解者が現れる。その望みを持ち続けて欲しいというメッセージ、大江の作品から彼独特のタッチでその事が読みとれないだろうか。
 私事になるが、身の程知らずと揶揄されながらも仏文科を選んだ一つの理由がそこにあった。
外国文学に価値を見いだすとすれば、日本人でしか分かりえない文化や習慣、それと全く逆の視点で外国から自分達を見る眼を見いだすことにある。
 活字で表現されたものではあるが、その国を訪れた時その国の人と出会った時、作品の一行一句に隠れた何かを感じることができる。その意味では、私にとって最初に文学の道を選んだ意味がある。
正直に言えば、むしろ現実からの逃避であった。遠回りしたように感じた時期もありましたが、今、その時の自分の気持ちがあればこそ真剣に生きようと思うのです。
 

910:志壽

壽辰とはお年寄りの誕生日を言う。この方は当に生を全うしたといえるのではないか。100歳の誕生日を病院の中で迎えた。家族が誕生日を祝う。そこに看護師や主治医が加わり、「おめでとう!おばあちゃん」と拍手。本人も万歳を行ったという。
 おばあちゃんの願いは100を超えること、それを達成した。そして皆で祝ったその日に息を引き取った。享年101歳、そのおばあちゃんの通夜を昨夜行った。棺の上に赤のちゃんちゃんこが掛けられている。お顔を拝する。端整な顔立ちでこの上ない穏やかな姿だった。そして、その脇に添えられた「感謝状」・・・・百歳の誕生日に家族一同がおばあちゃんに贈呈したもの。
 百歳の誕生日に亡くなるという前代未聞の離れ業をやってのけた。前コーナーの「謹直なユーモア」と言ったら怒られただろうか。諸国漫遊ではないが、おばあちゃんの父親も101歳まで生きたというから”人生漫遊親子で悔い無し”だったに違いない。60を前にして多少息切れを認める私など実に恥ずかしい。そこで真っ先に浮かんだ2字が「志壽」である。恐る恐る戒名に添えた。
 そのおばあちゃんには最近の物騒な出来事がどう映っていただろうか?明治41年生まれだから、明治・大正・昭和・平成を生きてきた。
 昨日の通夜に親戚の他宗の坊さんが参列されていて通夜開始前に挨拶された。「一緒におがみませんか」と私が誘うと「経が違うから」と遠慮された。同席していた喪主が「そうなんですよ、何か縮こまってしまって、もっと大らかになればいいんですよ」と笑っていた。
 通夜の読経が終わり控え室に戻ると、何かが聞こえてきた。それは追弔和讃であった。
他宗だからとかなんとか私には区別がない。100歳を越した親戚のおばあちゃんへの和讃は最高の供養となった。
明日、今年最初の施餓鬼が他の寺であり出仕する。
 私は言いたい。今、様々な事件が後を絶たない。その影で泣いている多くの人々、大分での教員試験絡みの贈収賄は、慣習になっていたという。贈賄側で逮捕された父親が「娘の人生を自分がだいなしにしてしまった・・・・」と話した。
 これもまた、自分の身内にしか気が廻らない親の実態。親戚はその地で生きていく為にはその家と絶縁しなければ生きていけない。事件を起こした家族が離散し、転居する例は多い。教師になることが一体どれだけの価値があるのでしょう。
 自らの試験点数を誤魔化してまでなった事に。
 その家族が「万歳」と心底から喜べる事なのでしょうか!閻魔様が見ていらっしゃる。