源究98

 

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1471 好日いかん 5/16 1476 好天の下 5/21 1481 カムフラージュ 5/26 1486 三毒 6/1
1472 本誓とは? 5/17 1477 通貨統合の穴 5/22 1482 総会を終え 5/27 1487 百鬼夜行 6/2
1473 事件発生 5/18 1478 役員会を終え 5/23 1483 サロン2号店 5/28 1488 ノーコメント 6/3
1474 内部保留額 5/19 1479 清浄無垢 5/24 1484 素朴な? 5/29 1489 遍路準備 6/4
1475 夢? 5/20 1480 ハナよお前は 5/25 1485 トップの条件 5/31 1490 愚公移山 6/5

1471:好日いかん

風薫る季節、まばゆい新緑、もえたつ若葉・・・・・皐月の半ばを過ぎて、漸く季節の挨拶ができるようになりました。みなさん如何お過ごしでしょうか?
 小生は相も変わらずひねくれのナマグサを地で行っております。多少、トーンは緩めてはおりますが、持って生まれた性分はどうしようもありません。5月は毎日のように予定が入り、時間を忘れ、思い出しては駆け込み、頭を下げ下げ、なんでこんな事を馬鹿馬鹿しいと思いつつ。
 悲しいかな、煩悩の雲深くして、愛欲の広海に漂い、名利の大山に惑いて、いまだ生死の一大事を覚らず。(真言安心章)をそのままコピーした生活を送っています。
 上見れば およばぬことの多かりき 下見て暮らす これ好日・・・・・これはコップ敷に走り書きされたある方の文字。正面の壁の柱に貼ってある。
 そうね。好日???こうやってどうにか生かさせて頂いているという事、それが好日なんですよね。頭では理解しているんですよ。私の胸中を正直に吐露しますとね、毎日が自問自答の生活なんですね。こうでもねーああでもねーとね。
 朝を迎えると殆ど忘れているたわいない事なんですがね。それでもこれはと思う事が数の中には有りましてね、メモしておくんです。これが積もり積もって整理が付かない。その中のほんの一部をこうやって恥を承知で書き連ねております。
 ま!付き合って覗いてくれる方も相当暇なんでしょう。これは今流行りのツイターとかブログの形式はとっておりません。一方通行で言いっぱなし。今となってはこのスタイルを変えることもできませんので悪しからず。その代りと言っては何ですが、覗いてくれる方にはなんの負担もありませんから。
 昨日、法事が3件でした。30分間隔で受けたものですから案の定混乱しました。途中、自宅での法事と納骨が入っていましたから余計です。そして例の塔婆の書き忘れ。私自身は頼まれたとは思っていないのですが、前科者ですから分が悪い。言い訳なしで只管謝りました。
 どうも気持ちが落ち着かない。そこで繋ぎの作業服に着替え、土手の草刈り始めたんです。そしたらすーと気持ちが和んだ。ここまでは良し。でも。
 草刈りの 後で気が付く 腰痛む 。
リハビリだと思ってやっている所もありますが、無理はできなくなりました。
 本日は法事が4件。今日はこのへんで お後がよろしいようで。
*「日々是好日」という言葉よりも私は「日々是生涯」の方が私は好きです。余談ですが。

1472:本誓とは?

本誓(ほんぜい)は本願の意味である。過去世において佛・菩薩が立てた衆生救済の誓いをいう。
 現代における本誓をどう捉えたら我々は良いのだろう?マニフェスト????全く次元が異なり冗談でしょうと一蹴されます。手練手管にたけた者達の智恵比べ?これだって本来の言葉から逸脱している。「智恵」とは物事の理を悟り適切に処理する能力を言うんだから。札束で頬を叩くようなマネはして欲しくない。
 本誓を仰信し行いに励むことが忘れさられてしまった。政治の世界に長居すると自らが偉いと錯覚、周囲の忠告に耳を閉ざす。胸襟を開いていると自らは思いこんでいるが、実は実はゴマスリ人だけを侍らせる。しまったと思った時は、責任取らず逃げ算段。これではなー困るよな。
 我々がこの状況で取れる方法を考えた。一つは完全に無視して我が道を歩むこと。一つは犬の遠吠えよろしく、適度の距離をおいて非を訴える。
 このいずれも本誓とはかけ離れている。ならばどうしましょう??
 逆転の発想?
 我々は誰しもが心中に、白浄の菩提心を本来具足しているということに期待するしかないのでは。
普段は厚い雲に隠れ日差しが遮られてしまっている。幸い地球は自転している。雲が動かずとも地球が廻る。時を待てば日差しが必ず差し込む。その瞬間を待つしかない。自然の理に自らを合わせる生き方。政治に素人の私にも分かる事。いま、鳩山政権はスタートの時点と比べ支持率の落ち込みは見事なり。もがけばもがく程、深みにハマる。長年の自民党政権の後始末?そうでしょうかね?私はそうは思わない。貴方達が野党時代にダラシが無かったからそうなったとは決して思わない。その自省無くして意気込み政権に就いた。その結果、できない理由のオンパレードとなっていませんか?
 野党も与党もないんですよ。政治の責任というものは。
私は官僚の強かさは知らない。彼らの一部が批判の的になっている。それは多分に政治家が官僚を目の敵にしての言動だ。専門的な知識や技量に適わない政治家の強権行使だ。そんな風に思っている。別に私は官僚の肩を持つつもりはない。
 この国をどういう方向で進めていけばよいのか?これは一部の者が考えてできることではない。否、目指す方向なんて決まった話なんですよ。仏教的言い回しを許していただければ、”密厳国土”(みつごんこくど)を目指したいわけ。これが究極の理想です。
 社会主義や共産主義と言っても昔と思想と実態に変化があると思っています。自由主義とか資本主義といっても同じ。時と共に状況が変化するわけでしょう。でも独裁政治と格差社会は受け入れられない。これも常識となっています。
 ですから別にブータンを挙げなくとも国民の幸せが優先される国づくりには大差ないんですね。それが分かっていて滑った転んだの枝葉の議論が多過ぎませんか?
 この辺の意思統一が全くできていない。私はそう思うのです。これ結論。
 だってそうでしょう!智恵遅れの人達にどのような事を教えても出来ないことってあるんだから。でもね、彼らだって皆さん同様に幸せになりたいんだよ。厚労省の政務官の方、若い時分、ドイツに行かれましたよね。介護制度を学びたいということで。その時のご自分の思いを大切にして下さい。それが政治の出発点ですよ。

1473:事件発生

家族会がありました。後で聞いた話、今回の昼食は学園で用意しました。いつもなら家族が持ってきたお弁当を好きな場所で各自で食べるのですが、いつも学園で食べているものを家族も一緒に食べるのも良いだろうということで年1回はそうしている。
 そして、予想していなかった出来事が起こった。警察からの一報である。コンビニで買い物カゴにコーヒー4本と御菓子など入れて持ち帰ろうとした女性がいるとの連絡。店長に止められると大声を立て始めたので警察に通報され、敢え無く御用、そして学園に警察から。「70歳位の女の方を補導しました・・・・・名前はなんと言うのですか」と尋ねられた。彼女は実はまだ50歳前なんです!
 まっそれはそれとして、急いでお金を払いに職員がコンビニへ行き、店長に謝ってきた。そこのコンビニの店長さんを以前から知っていた。笑って対応してくれたという。
 庭の草刈りをやっているとその彼女がやってきた。「○○さん、昨日 何やった?」と私が尋ねると彼女は顔を背けた。
 どうも反省はしていない、何故こんな事になったのか全く理解していない様子。お金は誰かが払ってくれるもんだと決めている。本当ならお母さんが一緒でいつも払ってくれる。そこがどうも今回は違ったようだった。御母さんは学園にいた。一切の言い訳は無かった。
ただ一言。「コーヒー」と小さな声で言った。
 憎めない怒れないそんな出来事だった。
夕方は布教師会の総会があり、つくば市へ。4年の任期の最終年度。無事総会が終え、懇親会。坊さんの社会は、年齢が様々、80歳を超えた長老も20代前半の若手もいる。そこで出る話はお決まりの内容だが世代に関係なく交流ができる絶好の場である。
 私も今まで何度このような会に出たことか、もうソロソロ御暇したいと思っている。世代交代の時期に来たということだ。
定番の宴席になり、紹興酒が出る。飲めと言われても・・・・ちょこっと嘗めた。コメントなし。なんでこんな物が上手いのか。飲めない者の言い分は無視。
 四国遍路の話で盛り上がった。88か所の中には同じ宗派の寺も沢山ある。前もって連絡してから行くべきか行かざるべきか。答えはNo。接待を受けて先に進めないからという。???
 気候も温暖になり、最高の遍路シーズンになった。6月に第1回目で行こうと考えた。
 その中で面白い坊さんがいた。「私は台風の時に行きます」という。「何故?」「台風の中を編み傘を手で押さえて必死の形相で歩くんです」ときた。
 なんだか知らないが昔、映画になった場面にそんなものがあったように記憶する。
先日訪れた平城京跡の記念館にも遣唐使船の実物大のものがあった。荒れ狂う日本海(東シナ海)を唐に向かう決死の旅団、その中に若き空海の姿があった。
 劇画された世界に自分を投影、主人公にならんとする。そんな現代はある意味では平和な時代とも言えそうだ。

1474:内部保留額

事業仕分け第2弾で67か所の公益法人が対象となっている。今朝の朝日新聞1面に19の公益法人で内部保留金が国の示す基準を超しているという指摘があった。
 私が関係する社団法人の見直しも今行っている。公益社団か一般社団かという選択肢、前者はハードルが高く、今の実態からみて無理と判断、一般社団への変更手続きを進めている。そこで問題になっているのが積立金の存在、金額にして2000万円。嘗て社団法人になる際に手持ち基金として2000万が認可の条件であった。それが一連の公益法人改革の流れの中で、基金を保有することは罷りならぬという指導を受けている。
 この変わり身の早さに我々としては混乱する、今その対応策に頭を痛めている。
 更に社会福祉法人の内部保留金、これは収益事業や授産会計とは別立てで本来の事業実施により捻出できた収支の差額を累計したものである。人件費や修繕引当として積立てているのが実態。
 私が心配するのは、社会福祉法人が保有できる基金の上限である。措置費時代は単年度で繰り越せる金額の制限(総収入の3%)があり、正直駆け込み発注という決算前のドタバタ騒ぎがあった。その基準が撤廃されてから、民間の法人としては無駄を省くことに営営努力した。公金を有効に使うのだから当然の成り行きだった。
私の法人もそうである。事業を安定して継続させるためには財源確保が最も重要な条件だ。特に昨今では、消防法や建築基準法が年変わりに改正される時代となり、現在利用している設備では不備が生じている。スプリンクラー設備など待ったが効かないものは最優先で設置しなければならない。万が一、先延ばしして火災事故でも起こった時は、長年積み上げてきた法人の努力は水の泡と化し、社会的制裁を受ける。
 また、福祉施設には建物設備の最低基準というものが示されている。これに合致していない古い建物は、建替え時期まで運用で対応しなさいという猶予期間が設けられている。
 これだって、利用者が施設を選ぶ時代となり、4人部屋の施設より個室の施設を選びたくなるのは当然だ。事業者としては早急に改築したい。現行では老朽改築でなければ補助金が出ない。自前の資金で建て替えられる法人は殆ど無い。
 今の建物基準で50名定員の施設を新たにつくるとなると介護施設(老人)で約8〜9億円の資金が掛かるという。知的障害の施設となると付帯する事業や条件が異なるので約5億円が必要となる。
 尚恵学園は3つの施設を運営している。現在使用している建物で一番古い寮舎が昭和52年建築だから築後33年である。何度も内装工事を行い大切に使っている。これだって居室面積そのものは変わらない。
 経営を考えると今の時代、自己資金が無くて新たな建物を借入金で整備するとそのツケが後後残る。だからコツコツ基金を貯めるしかない。
 今の事業仕分けを見ていると、その辺の事情が果たして仕分け人が分かっているのだろうかという不安を感じる。一律カットという判断を下すのではないか。その時はその時だ。ムシロ旗で訴える覚悟はある。
 私なりの試算では、尚恵学園の場合、中長期の事業展開とその財源を基金積み立てを最低10億円と見ている。これが妥当か否か、別に回答を得る必要はない。あくまでも理事長として責任のもてる事業経営の財源裏付けとして考えているだけのこと。
 何故そう考えているかという理由を一つ。それは社会福祉法人そのものの見直しである。介護事業は財源が介護保険で賄われている。サービスの事業主体が様々、当然株式会社も参入している。彼らは事業収益の中で税金を払い、設備投資も行っている。一方、社会福祉法人の役割が曖昧になっている。
 そのことを真剣に考えていかないと現在の社会福祉法人で生き残れる法人が果たしてどれだけあるか?法の下で安穏としている時代ではないと考える。これが一つの理由だ。他にいくつもあるが、それは皆さんがご自分で考えることである。
 先行き不透明な時代で、もっと守銭奴に徹しないとなるまい。大盤振る舞いや浪費は絶対に避けねばならぬということは言うまでも無い。

1475:夢?

本山での2晩続けての夢、そして昨夜見た夢。うなされ声を出したという。私の記憶ではいずれの夢にも誰かが出てきた。盛んに何かを訴えていた。
 昨夜の見た夢は原因が分かっている。月1度の主任会議が昨夜あった。久しぶりに私は喋りまくる。正直何を話したかまでは思い出せない。その類の事だから・・・・。
 小学校卒業と同時に尚恵学園に入所した女性の話、何度就職しても続かない。どうしてなのか?その理由はいくらでも出てくる。彼女との付き合いが長い職員ほど多かった。それじゃー今のままで良いのか?という指摘。誰もそうは思っていない。何かあるはずだ。彼女が本心を言える人が身近にいない。彼女が長年の施設生活で生きる術として身に付けたものは凄い。
 いま、彼女は40歳を過ぎた。自由な意見を出し合った。最近の別の利用者の例、母親が本人を引き取りたいという申し出があった方がいた。その話と複雑に絡んだ。
 入所施設の在り方に様々な意見が出ている。一方的に入所施設を悪と決め付ける発言もある。利用者の人権を保障していないとまで言う人達。障害当事者、家族、施設関係者など。それに対する我々の対応は無視するか防戦である、入所施設を利用されている家族たちからはその状況に歯がゆいとまで言われている。
 果たして本当に実態がそうなのか!私は敢えて極論を発する人達に反旗を翻すつもりはない。凝り固まっている方に何を言っても聞く耳を持ってくれない。
利用者の人達の願いを100%満たすような事は有り得ない。常に現状の問題を改善したいと言う思いは持っている。その一連の流れの中で批判されても説得力に欠ける。言われるまでも無く自らの非を認めているからだ。逆にできない理由は山ほど挙げられる。
 片方ではその改善運動も行っている。壁が大きく一筋縄ではいかない。政治に期待し要望も出し続けてきた。結果はご覧のとおり。
 昔と比べて確実に変化した事がある。それは家族の我々に対する意識の変化だ。尚恵学園は全く補助金の無い時代から始まった施設だ。いま、制度の福祉が存在する。財源は当然税金である。強硬な発言として「あんたら、税金貰って仕事してできない理由ばかり言ってふざけんな!」という批判も現にある。
 それに対して「文句があるなら自分で子供をみればいいじゃないか」と一言でも言ったらどうなるか。
 地域で有りのままに生活できること・・・・誰もこれを否定はしない。連携をとりながら本人に一番良いサービスを提供。これだって当然でしょう。あんなこんなで論争し、俄かに現れた「自己決定」とは何か!という問題。措置から契約に変わり、直接当事者同士での取り決めになり、行政の関わりは確実に減った。その反面、問題になっている事がある。本人ではなく家族の存在だ。制度の福祉を突き詰めていくと家族という存在が薄れていることに気付く。どうしてなのか?
 これは福祉の問題だけではない。家族の役割がこの日本では明確な定めとなっていない。曖昧な表現で存在するだけだ。こればかりは施設がどうすることもできない。本来、この論議があった上で次に「自己決定」⇒「共同決定」へという流れになるべきところ、新たな造語を考え出して満足する。
私が危惧するのは、福祉の業界に言葉遊びが多過ぎるということ、実態は何も変わらないのに言葉だけが一人歩きする。それで解決したかの如く言いふらす学者型支援者が増えた。それは家族にも言える。権利は主張するが義務を果たさない。
 そして、より問題を複雑にしているのは、お金の計算に余念が無い事業者を含めた関係者達。この袋小路から脱出する術があるのだろうか?
 そんな思いが重なり、夢となって現れた。そのように分析しています。

1476:好天の下

見事に晴れ渡り、青空。ああ23日まで持てば良いのだが。今度の日曜日は笠松でゆうあいスポーツがある。ここ2年間は連続雨、途中で取り止めた。今年はどうかな?
 まあ、今日みたいな天気の下で芝刈りやったら気持ちよかっぺー。残念ながらその予定はありません。今、何処の草刈りやるかなー?と考えている。昨日D2ロイヤルで替刃を買ってきた。やる気は満々。出るわ出るわ。気温の上昇と共に草が伸び始め、間に合わない。例年の事でこれが楽しみの一つ。なんだか気のせいか、私が草刈り始めたら、周りの職員が急に草刈り始めた。決して当てつけの嫌味ではないのですよ。もし私がこの時期に草刈りをやらなくなった時は、ソロソロという事を覚悟しても良いかも。ドラッグストアーに行くといつもセサミンとかグロコサミンとかいうサプリコーナーで立ち止まる。買うか買わまいか?
 先日、薄めのコルセットだけは買ってきて、今付けている。どうも腰の回転がスムーズでない。だからボールがスライス・・・・。草刈り機で素振りをしている。
 5月と言えば会議の季節、毎日何かの会議に出席している。昨日は県の企画部主催の審議会、医師会の会長やら大学の教授やら、それぞれの専門分野の皆さんが何やら難しそうな顔をして集まった。私など正直何を話して良いのやら。それでも何かを言わんと不味そうなので一応、意見は述べました。
 そしたら、隣席の医師会の会長さんが私のマイクを取って、県に変わって答えてくれた。
理念として「協創と貢献」を掲げる。ウームなるほど。「新たな公」の担い手の拡大・・?なんじゃこれややこしい。
 「新たな公」とは何ぞや?、行政だけでなく多様な民間主体を地域づくりの担い手として位置づけ、その協働によりニーズに応じた社会サービスを提供・・・・それから社会貢献という考え方は、参加者の自己実現や地域経済の活性化や社会的コストの軽減効果をはかる等など・・・・・。
これは従来の立て割行政の反省から横の糸を繋ぎながら連携を密にするという狙いがあるようだ。正直分かったようで分からない。これはなんてことはない、障害福祉で当に今検討されている事と手法は同じ。実際は誰がコージネートするかという処で足踏みしている。多様な主体の参画は、それぞれの主張が優先するもの。すると声の大きな者が取り上げられ、自ら意見が出せない者は後回しにされるということに。これは障害者福祉の基本中の基本で、誰が何をどのように、そして設定された目標にどれだけ近づいたかという判断。当事者の本音と進行管理の難しさを痛感しています。
 新たな公という考え方は、大きな政府か小さな政府かという論議の中で生まれてきた発想なのでしょうか?国土交通省に2年前に設置されたコミュニテイ創生支援モデル事業の中で使われている。その後政権が変わりどうなったのか?
事業仕分けという中身の検証で、ヒャーという感想を持った。塩の備蓄が年間十万トン、その必要性は如何に?事業者側の説明、非常事態に備えているという。具体的には? 先の阪神淡路地震、備蓄した塩を拠出した量を十四万トン・・・・否、14トンだったと訂正。この意識のズレは一体どうしてこうなったのか?
 塩の専売制は廃止され、様々な生産地の塩が店頭に並ぶ時代、・・・・・結局、これがどうなりましたかという進行管理は今の処はっきりしていない。やりっぱなしの事業が多過ぎるってこと。
 モデル事業というものは、打ち上げ花火と似ている処があり、いつの間にか消えて無くなっているものが多い。
行政としては中長期の計画設定も要求されるから作ります、それは期限を定め、戦略の見直しと再計画作るという繰り返しという形をとる。現実には直近の緊急性の高い事業が優先され、まだ時間的に余裕のある中長期計画などはどうしてもボケてしまう。
好天の下、こんな事をしている暇はない。グッバイのパイ。
 

1477:通貨統合の穴

ギリシャの財政破綻により、様々な憶測が飛び交っている。アメリカのドルに対抗すべくヨーロッパ諸国が基軸通貨ユーロにより、通貨統合を図った。もっともフランスとドイツの2大国が統合の中心的存在でギリシャなどは最初から財政基盤が弱かった。人口1100万という国、直ぐに思い浮かぶのは古代都市アテネ、観光を主とした国である。地中海に面し風光明媚な印象がある。何故破綻したのか?通説となっている官僚の超優遇政策、日本の比ではないという。例えば年金に関して、53歳で定年となり、その後受給できる年金が現役当時の96%だという。(大塚財務副大臣談)殆ど働いている時と受ける年金額が同じでは、誰だって働きたくなくなる。これでは国の財布は堪ったもんじゃない。
 これだって政権交代によって明るみに出たという。?????。ややもすれば日本の現政権の言い訳と同じ手法?
そうじゃないでしょう!与野党関係ないんだからまったくもう。アンタ達のチェック機能が働かなかったという事を先ず反省すべきなんだよ。
 鳩山さんが総理就任挨拶で東アジア構想を誇らしげにうち上げた。しかし、誰しも本気にはしていない。ヨーロッパと比較しても東アジアの連携は難しい。現実にキナ臭い問題が朝鮮半島で起こっている。戦争が未だ休戦状態であって、終結していない現実を知らされた。黄海での国境が未だ北と南では違う主張をしている。今回の哨戒艇の爆破が北の魚雷によってなされたとしてもどちらが領海侵犯したかという問題が残る。
 クリントンが日本に立ち寄った。韓国に行く前に短時間立ち寄っただけである。その時の日本側の対応は、素人目でもイマイチ緊張感に欠けたものだった。ニヤニヤしている閣僚がどうしても気になってしまう。
 今回の騒動がこれ以上大きく広がらないことを切に願う。そして普天間の問題がここまで拗れてしまった責任は今の政府に大いにある。逃げてはいけない。本当に与野党関係なく外交や防衛の問題を検討すべきである。
 マスコミの報道の有り様いかんで人間の思考感覚を麻痺させる。朝鮮半島のニュースの次に事業仕分けのニュースが取り上げられた。公益法人の実態、その言い訳を聞いていると何かゲーム感覚に陥る。仕分け側が何ポイントを取ったとかいうゲームだ。これを言っちゃお終いよ??。でもそう思いますよ。事業実態を明らかにしそれを何にどう使うのかが見えてこない。付け焼刃的な対応が多すぎます。筋が一本通っていない。一所懸命水漏れを防いでいながら、片方で新たな穴を開けている。
 今の政権に期待したのは、国の形を変えて欲しいというものがあったはず。それにトップの意見のブレが大きいのは、多分、メデイアに向かって喋り過ぎということが大きな原因だ。決定されていない検討段階の意見を話してしまう。口が軽い。
 一般受けを狙ってのことかどうかは分からないがセンセーショナルな事を最初に言ってしまうクセ、現実の困難にぶち当たり方向転換、それからその齟齬を説明する有様は責任を感じているのか否か1国のトップとして相応しくない。政権奪取後、民主党には自浄力が無いと見られてしまった。だから、事業仕分けそのものがパフォーマンスと映ってしまうのです。誠に残念だ。
 国の財政破綻は見識があり常識を弁えた国会があれば起こり得ない。いま、政権内部で様々なスキャンダルが出てきて支持率の急降下という現象となっている。民主党が支持回復をできる唯一の選択肢は首相と幹事長が早い時期に交代し、政界からお二人が退くことでしかない。大物?なるが故の勇断だ。
 首相の責任は言うまでも無く対外政策に対する信用を失墜した責任、幹事長は自らの政治姿勢に対する責任だ。これなくしてこれから政治を担う若手の政治家に範を示すことはできない。
 株価が急速に下がっている。ユーロへの信用不安が引き金か。ここ数カ月の株価変動は幅が大き過ぎて怖い感じがしていた。各国の財政出動した莫大な金のはけ口が株の上昇に貢献した。そしてバブル現象、人間はいつの時代にも”夢”を追って生きたいものである。

1478:役員会を終え

”徒然も心細きままに思ひ嘆きけるを・・・・”源氏物語の一節。つくづくと物思いにふけっております今日この頃、西から天気が崩れるという予報を気にしながら、笠松に行く準備をしています。今日は障害者のゆうあいスポーツ大会、もうじき20回を迎えるイベント、私は毎回参加し休んだ事がない。
いつもこの時期に開催するので天気は晴れと雨がおあいこ。本日も午後から雨の予報となっている。
仕方が無いので向かいます。
昨日は尚恵学園の役員会がありました。上程した議案は問題なく承認されました。役員で亡くなった方がおりましたのでその補充を行い、2時間程で無事終了。
 ホッとしたからでしょう。徒然も心細き心境で将来の事を考えてしまったわけですね。つまりは世代交代を徐々に考えていかなければならないという思いと先人の遺訓をどう繋いでいけばよいかということです。役員会の後、数人の方が残り、私と雑談。皆さん利用者の家族の方達でした。「協力的な地域の方達がいて良かったですね」という話をされた。
 私はもしかするとその辺の感覚が鈍くなっていたかもしれない。生まれ育った地域ですから、皆さん昔から知っています。「お前がやるなら協力するよ」と言ってくれる仲間も大勢います。有り難いという気持ちと責任の重さを感じます。
 60歳という節目の年齢になり、お互いが精いっぱいやってきたという自負をもっています。でも、いつまでも続けることはできない。これは焦りという感覚ではなくて、本物を見極めたいという思いが強くなりました。
 今の事業は何のために初代が始めたのか? この原点を探り続けてきました。人間相手の仕事だけに、様々な事を経験させてもらった。尚恵学園は2つの寺がバックアップしています。別に宗教に拘りはありません。何の宗教でも構わないのです。有形無形の援助を受けています。そして社会福祉法人、これも公のものです。
 決算を公表しています、今の財務状況は以前とは比較できません。雲泥の差でしょう。
 使い方次第では、過去の積み上げを一瞬にして壊してしまう危険性も秘めています。業界での動きを私も当事者という立場で見てきました。実に嘆かわしい場面も目の当りにしてきました。
 理事長として事業の継続をはかることは最大の責務であります。できるだけ基金を増やす。これは将来への備えです。
時代の潮流は、既得権に守られた旧来の事業の在り方への見直しです。その最たるものが公益法人という聖域、社会福祉法人も当然その範疇に入ります。そしてそれへの評価が日々変化してきています。
 公益性を前面に出した事業の化けの皮が剥がされた時の失墜は悲惨です。その事へのリスクマネージメントは???
 国の財政が逼迫している中で社会保障関連の経費は減る事はない。なればこそ、それに関わる者たちのたつ位置が問われる時代ですね。・・・・・・役員会を終えて。
 

1479:清浄無垢

第12回ゆうあいスポーツ
日曜日に笠松県立運動公園において第12回ゆうあいスポーツ大会が開催されました。多くの参加者が県内各地より集まり、サッカーや陸上競技、それに水泳、卓球など会場を別にして行われました。心配した天気もどうにかもち予定通りの競技を終了するまで出来ました。
 上のスナップは昼休みに茨城県警バンドの演奏があった時のものです。食事を終え、各テントから参加者がゾロゾロ集まり始め、最後は大勢の皆さんがバンドに合わせて踊り始めました。
 私はこの大会は最初から休みなく参加しています。いつも思う事は参加する人達の純真無垢な笑顔の素晴らしさ、その出会いがとても楽しみです。今年は少し肌寒い感じでしたが、元気に集いに参加してくれました。
 無垢とは煩悩を離れてけがれが無いこと、自らを大いに反省する人が沢山いることでしょう。私も当然、その中の一人です。
 いつも使う常磐高速、不思議とこの集いの帰り道は清々しい気持ちになっています。会議などの帰り道とは偉い違いです。参加者の目の光、満面の笑顔、一生懸命さなどなど、その余韻に耽っています。
 彼らから元気を頂きます。つまらない事で悩むなと励まされます。
 もし、彼らの笑顔が全ての人びとの目に入り、友達を大切にする優しさを知った時、この国の何かが変わるような気がします。そう思いませんか?
 県警バンドの演奏で途中指揮をしたい人を募りました。すると最前列に座っていた方がサッと手を挙げ、私がやると言う。司会の方がマイクを向け「御名前を教えて下さい」と言うと「ハイ、○○さんです」と自分の名前を答えた。
 これで団員の皆さんの表情が一気に柔和になりました。この咄嗟の反応!準備して言える事ではないのです。場を一瞬にして和ませる術を心得ている。皆さんそうなんです。例の如く、知事と来客の方達が各テントを廻りました。
 私はY部長と一緒に歩いていました。テントから部長に声をかける方がいました。何でしょう?と部長が近寄ると
名前を知っているというんです。「・・・・・」私が「なんて言うんですか?」と尋ねると「や・ま・ぐ・ち・百恵さん」と言ったのです。それを聞いた多少お疲れ気味の部長さん、大喜び。「ヒャー」大感激でした。
 どうも人間は腹の底から笑える事はなかなか無いものでありまして立場上、周囲への気配りや繕う笑いが習慣となり、自分を見失う時があるものです。
 彼らの記憶力の凄さ、多分、無垢な記憶に残されているから覚えているのでしょう。
世の中が閉塞感の中でもがいています。何かの解決の突破口を探しています。それはもしかしたら知的に障害を持つ人達の清浄無垢なこころに触れる事に有るかもしれません。 皆さん お疲れ様でした!

1480:ハナよお前は

夜の8時過ぎ私が帰宅するとハナはいつものようにソファーの背もたれの上に彼女独特の寝姿で待っていた。最近彼女はエサにうるさくなった。年老いたから13歳以上の柔らかめのエサをあげても見向きもしない。贅沢この上無い猫だ。
 歯が殆ど無いから固い物は無理だと思ってそうしているのだが、ハナとしてはプライドを傷つけられたと思っているようだ。
 その反抗心が何時の間にか斯様な格好をするようになった。
 これでも可愛い処がある。私が寝ようかと蒲団に入るとやってくるのだ。そして私の枕の半分を占領し、直ぐ寝息をたてる。夜中に電気を付けると眩しいく迷惑そうな顔をする。
 彼女は自分の人生(猫生)をどうみているのだろう?DNAでは3代目の猫だ。生まれも育ちも観音寺。還暦を迎えるこの年になって、ネコも人間も余り変わりないという実感をもっている。
 昨日も水戸での会議があった。その後つくば市に向かい、坊さんの総会、帰宅は8時になってしまった。
本日は東京だ。毎日よく出歩いているよ。猫の苦労もしらないで・・・・。最近は特急を使わないようにしている。ドンコウに乗る。本が読める。常にカバンには2冊以上の本を入れて置く、今、読んでいる本は鎌田茂雄著の「観音経講話」。法華経の普門品25が観音経である。普段は意味を考えず棒読みする。改めてその意味を考えてみて、実に面白いことが分かった。鎌田の解説で「菜根譚」を例に出し、説明している処に赤線を引いた。
(P359)「事を謝するに、当に正誠の時に謝すべし」という。官位を去るには、全盛時代にするのがもっとも良いという。
或在須弥峰 為人所推堕 という偈問の解説にこう記してある。
 今風に言えば、総理の職を去る時期が遅きに失したということにも受け取れる。そうか観音経の中にそのように書かれてあるとは。
 政治家として自分の言葉に責任を持つと言った沖縄選出の社民党の先生。連立に拘ると自らの居場所を失うという危機感からか。烏合の衆と化す前に潔い決断をする時期が来ていると思います。
 昨夜、飲めない酒を飲んだものだから頭が痛くて寝付けない。ラジオのスイッチを入れると高校生講座の番組、政治に関して実に分かり易く解説していた。
 衆参両院のネジレ現象があって、今、参議院が多数を占めていないから連立となった。両院の役割を説明してくれた。
確かに議院内閣制は実に上手くできている。否、考えようによってはという但し書きを付けて。
 衆議院で圧倒的な数を誇る民主党は例え3党連立が解消となっても政権は変わらない。総理が議会の解散を決定しないかぎり。でも本当に今のままで良いの?事業の廃止とバラマキとの整合性は如何に?
 株価が一気に下落した。私は株はやらない。しかし、ニュースなどで経済市況を聞いているとアメリカの株変動と日本の株は連動していることがわかる。アメリカが下がると大体翌日の日本の株も下がっている。
 普天間問題も整理がつかない状況だ。何が現行案でそれに代わる腹案は有ったのか無かったのか。それすら分からない。沖縄の人達の怒りも当然だ。そして、その責任を謝って済ませようとする。その感覚が理解できない。
 このまま続けていて、果たして、汚泥に開く蓮華となりうるか。
 

1481:カムフラージュ

白隠禅師の著した『さし藻草』という書の中に、・・・「頭角のある者は必ず牙(きば)なし。・・・・面前にて誉むる者は背後に謗(そし)る。世智勝るる者は必ず邪見あり。弁才好くする者は必ず実なし。」・・・・という文章がある。
 つまり、真に才能があるものは必ず牙を隠すもので、面と向かってやたら誉める人には注意しないといけない。背後で何を言われているかわからない。世智に長けたものはよこしまな考えがあり、巧みに話す者には真実性がない。
そうか?そうですね。成程なるほど。昨日ちょっと気になった節がありましたから妙に納得しています。
 カムフラージュという言葉はあまり良い意味では使われない。なにせ正体を隠し、外見を装うというから穏やかでない。しかし、目を転じ、森深く分けいれば、小さな昆虫が擬態といって外的から身を守る為に環境に似せて目立たなくして種の保存を営む。これを隠蔽的擬態というらしい。その逆に目立つ擬態で標識的擬態というのもある。(アブがハチに似るなど)
 世の中様々である。自省を込め読む密厳院発露懺悔の文の中に私は無意識に口ずさむ箇所がある。「形を沙門にひして信施を受く・・・・」 坊さんの格好だけをして施物を受けてはいないかという自戒だ。
 布施にも様々ありまして、施無畏(せむい)という施し、是は実は観音菩薩の異名です。様々な畏怖の心を取り除き安心を与えるというものであります。
 病に苦しみ、自らの死と闘っている多くの人達がいる。生きる価値を見失い、自らの手で命を閉ざしてしまう人がなんと12年連続で3万人を超えた。昨日も東京に出たが、上野駅で人身事故で列車の遅れのテロップを見た。そして、「またか」という感じで人の流れは足を止める事も無く続いている。この有様は異常な事態ではありませんか。
1昨日、坊さんの集まりがありました。最後にある方から要望がありました。「今のままでは既成宗教は廃れる一方、何か手を打たないといけないのではないか。坊さんが地域の中に入り、死んだ人相手の葬式仏教に甘んじていないか、もっと生きている人達に何かをしなければならない・・・」全体がシーンと静まり返った。
 誰もがこのままの状況は良くないと感じている。
 一歩を踏み出す勇気が無いのではない。安住の地を失いたくないのである。私はそう思っている。
自分自身の事を考えると”夢”(やりたい事)がある。ある時期をもって多く着込んでしまった服を脱ぐつもりだ。組織の中に入り、活動をする限界を感じている。本当に自分がやりたい事はそんな事ではない。ただ無責任に場を離れることはしない。少なくとも後が困らない段どりはしないとなるまい。
 そんな事を考えていると自然と力が湧いてくる。
福祉の業界に長く身を置き過ぎると何が本当の願いなのかが見えなくなる。事業所も家族も行政も声を張り上げている。そして何が変わったでしょう?利用者の願いが適いましたか?出来るはずがない。其々がそれぞれの思惑で我が利になる要求をしていないだろうか?
 時の政権に擦り寄り、何か満足のできる事が得られましたか?
 坊さんを30年以上やってきて、確信している事があるんです。本当に死を悲しんでいる遺族の葬儀はどれほどあっただろう。寧ろ、数は少ないが、尚恵学園で生活を共にした仲間のお別れの会(本堂での密葬)、その時見せる仲間たちの神妙な姿に本当の悲しみを感じるのです。
 豊かさを追い続けてきた日本人が不図後ろを振り返ってみた時に大切な物を置き忘れたと気付く。その物が一体何であるのか?知的に障害が持っているからなのですか?彼らは大声で不平不満を世間に向かって叫ぶ事はしない。でも、大切なことは何かという事はしっかりと掴んで放さない。
 両親への愛と友を大事にするという”こころ”を。
 カモフラージュという言葉が一番似合わない人達だと思っている。

1482:総会を終え

無事、心身協の総会が終わりました。正直疲れました。夕飯食べてぐったりコン、直ぐに寝てしまいました。
 そして朝になれば4時前に起きだしてPCに向かっています。これって一種の病気ですね。
 今回、私は一人で満足しています。その事を自慢するには時期早々、やっとスタートラインに立てたという処ですから。今まで何故出来なかったのだろうか?外部の人材を取り組むという事を、いつまで彷徨う制度に翻弄されていて良いものか!守りから攻めの活動ができないか?そんな事を今更考えてどうなるのと内心忸怩たるものがあります。大学の先生で良きアドバイザーを得られる見込みが付きました。県内の様々な専門家を心身協の中に引き込めないか、それが専門家集団としての実の部分である。何をもって社会福祉法人の役割を果たしていくか!我々関係者が真摯な態度で取り組むべき課題、ややもすれば経営の事ばかりが関心事となってしまい、本来の使命がどこかに行ってしまった。その反省が根っ子にある。
 スタッフに活気が無くて利用者に活気が出ますか?
 いま施設ではリハビリテーションが行われていますか?
単に施設の中で生活が送られているという現状が無いか?リハビリの基本的な考え方は、一人一人の能力を高め、充実した生活を送れるようにするための支援。これらが昨日の総会で奥野先生が言いたかった事。そう私は受け止めた。
 自己実現・ソーシャルスキル・自己決定・地域力・協働・エンパワーメント・・・・・・様々な専門用語が使われる。勿論単独で成り立つものではなく相互に関連したものである。
 制度の変革期に当たっている。言葉の概念規定が充分なされていますか?例えば「自己決定」一つ取り上げても実際には難しい。障害の種別により微妙に異なるからだ。知的障害者の場合の自己決定は果たして出来るのか出来ないのか?決定には支援者が必要でそのサポーターと一緒の「共同決定」という概念が生まれている。
 誰がサポーター? 家族、施設職員、成年後見人????
エンパワーメントとは人間が自己実現を目指し、主体性を確立していく課程の中で平等で公平な社会を築いていくことにその価値があると言われる。もっともだ。
 その理想に着実に世の中が進んでいるだろうか?否否否。そこが問題だ。
 総会終了後、「住田さんなんで30分という時間の設定しかできなかったのか」と叱られた。図星だ。言い訳はしたくないが、その気持ちが出ない組織なら何をやっても駄目、その事を確かめたかったという狙いもあった。
 次なるステップに向かう環境が揃った?
 茨城の県民性は決して自らが先頭に立たない。寧ろ様子を伺っている。 この性分は流動期には都合がよい。勇み足での失敗は少ない。私のDNAは茨城と名古屋の血が混じる。時と場合で主役が変わる。名古屋は戦乱の時代、どっちつかずのスタンスは家は断絶、身は切腹に結び付く。白黒ハッキリしないと夜も眠れない日本列島の狭間。
 いま、私の父方の名古屋の血が騒ぐ。
総会を終え、ホッとするのも束の間、葬儀が入った。
 皆さん、何も恐れる事はありません。死ねば極楽が待ってます。そう信じたい・・・・・。

1483:サロン2号店

土浦の福祉の店の2号店が27日オープンしました。ウララビル4階にある福祉の店の分店が街の中に出たわけです。昔土浦で一番賑わいをみせた目抜き通りは、閑散として人通りがめっきり減りました。桜橋と言えば近隣の人びとで知らない人がいない程の賑わいを見せた場所です。その空き店舗を利用して福祉の店(サロン)が開店しました。
 朝夕の高校生の通り道、ちょっと立ち寄って休憩する場の提供、気軽さを一番に考えたようです。
 多くの皆さんに親しまれる場になって欲しいものです。尚恵学園の展示コーナーも設けられました。但し、まんだらパンは近くにパン屋さんがありますから・・・・・。
 このような試みが行政主体では無く、市民活動の一環として生まれる事に意義を感じます。場所の提供は土浦市の全面的な支援があってできたものです。市長も満足気でした。その中身の付加価値をつける為には市民特にお年寄りや若者の力が不可欠でしょう。
 尚恵学園でも時を同じくして「サロン ド 田んぼ」計画を職員に提案しました。予想に反し、評価はイマイチ良くなかった。それよりもっとやるべき事があるでしょうという事らしい。
 私の言い分は、「そりゃーいくらだってやる事はー有るさ!」である。機能性を重視、外観なんて二の次ときた。この感覚のズレは一体どうしてなのか? 此方で用意した空間は、利用者の皆さんの望む空間とはならないという。どんな空間、ちょっと立ち寄りたくなるような空間だよ。御茶飲んで・・音楽聴いて・・・寝転んで・・・・この発想は無駄とは言わないが優先順位が違うと言う。
 今回の土浦で開店したサロンとは全く逆の価値観を持っています。人を引き込むことには変わりは無い。私の考えているものは、雑踏からの逃避の場所とでもいうのだろうか?利用者達は一定の空間で決まった日課を送る。誰だってそこから離れたいと思うはずだ。その為の場所が実は尚恵学園には無い。
 そのヒントは、ある女性から頂いた。彼女は今、実家に戻り、お母さんと二人での生活を始めている。彼女が私に盛んに発信してきた事への回答がサロンであった。
 見事にその思いは砕かれた。彼女にとってお母さんと一緒に生活するほうが、どれ程良いか。いま、私の最大の理解者はいなくなった。寂しいと言うよりも良かったという想いの方が強い。
 私は常々考える。東京に行った時に特に感じる。時間を潰す場所が無い。本屋に立ち寄る?喫茶店?どちらも違う。
 浜松町に行くと道路脇にある小さな公園、時間が有れば増上寺で時間を潰す。そんな空間が都会には必要だ。
尚恵学園は自然環境抜群、その必要は無いだろうと思うのは素人の甘さ。実は実は職員の存在や相性の悪い仲間の存在に異常に反応してしまう人がいる。その人達にとっては、今の環境は適さない。
 そうなるとどうなるか?所謂、問題となる行為(他害・自傷・奇声・・)が出るとか、引きこもるという行動を取り易い。
 決めつける事はできないにしても私なりの分析だ。
 その辺の事を先日講演で伺った。社会リハビリテーションのテーマ、PTやOTによる機能訓練も一つ、それと環境の改善も重要な要素だ。更に大切な事は誰もが共通の理解をもって取り組めるプログラム。
 サロンの話からドンドン離れてしまいましたが、実は根っ子の部分では同じなんですね。因縁所生という事ですかね。
これまた悪い癖、知識が常識の邪魔をする。失礼しました。

1484:素朴な?

クロードチアリのベストコレクションCDを聴いている。「オリーブの首飾り」♪*+%?・。
自然と体が動く、大分昔の歌い手である。だが、彼のギターはポールモーリアとはまた違った趣があって良い。若き時代には、私もギターをかじった。モノにはならず、今、どこへしまったか分からない。5感を揺るがす外からの刺激、音楽の神髄はいつの世にも揺ぎ無し。 
 『見識なき政治主導の危うさ』『問いあって答えなし』某新聞の1面である。マスコミ各社が挙って昨夜の福島大臣の罷免騒動を取り上げた。当の本人は今朝のテレビ番組に登場、みのさんの質問に答えている。
 果たしてこれで良いのであろうか?1国の総理が大臣と別室で話しあったギリギリの選択?それが翌日には公衆に筒抜けとなる。彼女は一貫した主張をしてきた。社民党の重要な党是だから当然だ。・・・が、連立を組んだのですよ。単なる数合わせだったのですか。沖縄の米軍基地の事は分かり切っていた、何故、事前に話を詰めなかったのか。自らのリーダーシップへの過信?また「勉強して分かった」という言い訳を使いますか?
 「言葉の重み」それは今更言うまでも無い。我々が常識として持っているものでしょう。弁解に終始することの醜さ、誰かが尻拭いをしてくれたのだろうか?そんな推測まで飛び交う。鳩山さんの8カ月余りの言動を見ていて国民誰もが歯がゆさを感じている。
 一方の領袖は、自らの検察審議会の動きが気になるのだろうか?ここ数日は全く表に出ない。まだ結論を出す事は早いかもしれない。やっとここにきて民主党の内部(一部)から声が出始めているように思える。それがウネリとなりうるか?
 これ以上、かんぐってみた所で一夜の内にコロッと変わるのが政治の世界。    以上が私の素朴な疑問です。
 次に確信として、今の政治の混乱をもし喜んでいる者がいるとすれば一体誰だろう?
 誰もいない。これは言い切れる。「後顧の憂い」など悠長な事では無く、いま何が出来るかを真剣に考えるべきだ。
 国の興隆は勤勉力行により達せられる。この旗印の下で汗水を流し、喜びを共有する時代は過去のものとなっている。
いま、自分さえ良ければ良いと言う価値観が蔓延る。もっぱらの関心事は政治も行政も上を向き、下を見ない。ゴマスリと自らの失点に超過敏になる人が増えたように感じている。良寛が今の世にいたら、なんと詠っただろうか?
 5月は様々な会合に出ました。一言もしゃべらずに出席する人の気持ちが分からない。せめて賛成か否かの意思表示は明確にすべきでしょうね。もしも意見が無いのならば役員は辞退すべきだと私は思う。それと意見が何も出ない理事会ならば組織の末期症状だ。ここまで断言して良い。
 丁度、熱が入ってきた時にCDが終わった。私の拙文は大体、この20行程度の独り言に約20分かけている。また、最初から聴き始めた。『夜霧のしのび逢い』から『スターダスト』へと曲が変わった。

1485:トップの条件!

”腑に落ちない”とは納得できないという意味である。合点がいかないという意味も有ります。要は合格点が得られないというわけです。現政権への支持率下落が一段と鮮明になった。当初70%を超えていた支持が17%に下落(5月31日朝日新聞朝刊)。9か月の間に一体何があったからなのでしょうか?傍若無人とメデアの報道を批判する一方では、貴方達はテレビを利用してきたではないか!何故、ワザワザ国会審議の中で垂れ幕を掲げ報道向けの戦法をとってきたのか!見苦しい。そのような姑息な手段で国民に納得させようと考えた浅薄さ、沖縄県民の怒りが象徴しているだろう。膝突き合わせの説得を貴方達はしたであろうか? 選挙の公約を悉く破棄してきた責任は重い。言い訳と防戦に必死じゃないか。一方では八方美人的な振る舞い、このギャップに正直、我々は戸惑った。ここにきて、未だ政権を取って9カ月、全てに合格点を求められてもと弁明をする閣僚がいる。貴方達が野党時代に言い放った言動をよもや忘れはしまい。貴方達に投票した大多数の有権者は、そこに微かな期待を持ったのです。これが先の大勝利?の実態です。
 政権を取った事がそれほど人間を変えるのだろうか?与党という肩書で急に偉くなったように錯覚する議員がなんと増えたことか!中央然り地方にあってもそうだ。有権者は貴方達の一挙手一投足に注目しているのである。
 その視点が曇るのは政治の怖さ。私が持った現政権への最初の失望は、政治主導と言いながら、貴方達は自らの血を出す政策を止めた。議員定数削減の公約は一体どこに行ってしまったのか?いま、貴方達の最大の関心事は、7月に実施される参議院選挙、形振り構わず公認候補を1本釣り、政策もヘッタクレも無い、知名度さえ有ればOK.
 そして、決定的な失政が、社民党との連立破断、貴方達が連立を組む際に最低話しあわなければならなかったであろう防衛問題、3党合意の中に普天間問題が無かったのか?素人ですらその辺の事情を理解することはできない。
 当事者から「裏切られた」という言葉が出る事自体深刻だ。
 朝鮮半島で起こった不穏な事態に総理は韓国まで飛んで日本の立つ位置を公に約束した。その時どことなく表情に張りを感じなかった。彼の人間性を見る場が望まずしてまた見てしまった。それは夫人同伴で行ったこと。朝鮮半島で今何が起こっているかという認識の甘さ。・・・・コメントしようがない。
 ハッキリ言わせていただく。鳩山さん、貴方は総理の座を譲るべきです。確かに貴方の人柄は相手を蹴落としてまで自分を主張するタイプではない。相手の意見に真摯に耳を傾け、同情を持ちその姿に人の良さを感じます。それから自らの胸の内をオープンにという気持ちも分からないでは無い。しかし、貴方の立場は時と場合によっては、その事で相手の信頼を失い無責任だという批判を受けることになるのです。
 そんな時、本来なら身近に苦言を呈する部下を持つべきなのに、貴方は残念だがイエスマンを侍らせる。その人達は最後は貴方に全責任を負わせ自らの責任は取りませんよ。でも、仕方が無いでしょう。貴方は自らの秘書に全ての責任を負わせ、自分は知らなかったと言い放ったわけだから。自業自得。
 更に私は貴方への不信を募らせる言葉を聞いた。福島大臣を罷免しながら、連立を続け、選挙協力は続けたいと言ったことです。これは骨の有る人間の為せる事では有りませんよ。
 貴方は聡明な頭の持ち主だ。先の総理とは違って会見で話す言葉は丁寧で決して奢った感じを受けない。その点は素晴らしい事だと認めます。だが、今の状況はかえってその言い回しがマイナスに作用しています。今が決断の時だ。
 そして、もう一人の領袖も決断して欲しい。この日本を本当に良くしたいと思うのであれば・・・・・。2枚舌外交の責任を取るのは当事者でなければできない。 民主党の再生に与えられる時間の余裕は無い。緊急の課題に対し、後手後手のその場凌ぎ政策をいつまでやろうとするのですか?
 万が一、貴方達が参議院でも過半数を取るような事態になった時、この国の将来が危ない。そして、世界の中で孤立する存在になると思う。志を同じくする者たちの奮起を期待して。文責:住田福祉『独り言新聞論説主幹』。

1486:三毒

仏教でいう根本的な煩悩を三毒という。つまり。貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の3つで「むさぼり」・「いかり」・「おろかさ」を言う。ここから悲しみや苦しみが生じるとみる。
 また、「公憤」&「私憤」というものがある。ここでは公憤に関して触れたい。公の事に関しての憤り。これを是とするか否か?仏教が難解と言われる所以が此処に有る。煩悩即菩提という。ならば三毒で言う瞋(じん)(いかり)を我々凡夫は如何に理解すれば良いのか。
 正義感から発する憤りは是とする。俄かに現政権の頭上に暗雲が立ち込めている。幹事長一任という了解の下で総理を交え三者協議、表紙を変えればそれで済む話でしょうか。前政権が何度表紙を変えたでしょう。こんなに国のトップが短期間で変わる国も他に例を見ない。
 野党時代、民主党は総理を変えるならば総選挙だと言って来た。よもやその事を忘れはしまい。果たして今の状況で憤りは三毒だからとニコニコ笑って見過ごすことができるでしょうか?
 身近なこととして、障害者総合福祉法制定の本部長が鳩山総理、副本部長が今回罷免となった福島さんだった。またしても限りなく先行き不透明となった。これを笑って見過ごせますか!怒り心頭に発します。障害者問題が政治に利用され大海に漂流し続ける。この事をどう考えているのだろう。知的障害を持つ彼らは何も言いませんよ。それを良い事として貴方達は言葉巧みに操ってきた。そうでは無いですか!
癡(ち)は愚痴を言うと意味では無い。根源的な人間のおろかさを言うのです。根源的なもの、それは自己中心的で他を受け入れない性分・・・どこかにそのような方がおられましたかな?貧は必要以上に求める心である。議会制民主主義が形骸化してしまった。数の論理で重要な審議を強行採決し、ざまー見ろというばかりに勝鬨を挙げる。国民には何も知らされず、法制度が決まっていく。
 二院制では均衡が重要だ。一方に偏した状況は、舵取り如何によっては国の存亡にかかわる重要事項が決定される。この事は我々が肝に銘じておかなければならない。
 今の政治で果たして救いがみつけられるであろうか?言葉の弄び、挙げ足取りが横行している。
まさに末法の世と化した。戦後、他に類の無い経済復興と発展を経験したと世界に自慢していた。その結果が今の様である。自殺者の減る兆しが見えず、相変わらず親子の惨い事件が後を絶たない。日本人として世界に何が誇れると言うのか?
トヨタ?先端技術?勤勉さ?・・・・・違うでしょう。
 道を見失った状態が続いています。地図も無くコンパスも無く、果たしてこの国は一体どこに向かって進めば良いのでしょうか?
 必要以上の富を得ようとしていませんか?その裏に潜む毒蛇、・・・。言葉に騙されてはならない。その人となりは、普段の何気ないその人の行動が如実に示しているということである。選挙が近づき、一度も顔を見せた事がない議員が名刺を持ってやってくる。これが今の日本の大多数の政治家の実態だ。玄関に政治家御断りの札をかけたい。
 ああ・・・胸糞悪い。吐き気がする。今日は一日草刈りだ! 

1487:百鬼夜行

NHK朝のテレビで今、水木しげるの番組をやっています。「ゲゲゲの鬼太郎」を世に出した鳥取県境港市出身の漫画家です。発想が奇想天外というか実にユニークで彼の生き様も同様に極貧の生活を感じさせないホンノリとしたものを感じさせる番組です。
 『百鬼夜行』という言葉はご存知でしょう。無数の妖怪が夜行する。あまり良い意味には使われません。得体の知れない者どもが夜になると何処からともなく集まってきて詭計をめぐらす。これを言っちゃお終いよ!そうじゃないでしょう。昼間は公務に勤しみ、時間が空いた夜、この国を如何にすれば立て直せるかと智恵を出し合うんでしょうよね。そうに決まってますって。
 永田町界隈の動きは田舎坊主には全く関係ないことでありまして、あっしは9時頃になると瞼が重くなり、眠くなるんです。ですからその時間帯にはもう夢の中です。御蔭様で朝方になると頭が冴えてきまして、次から次に浮かぶんですね。
 まっ!所詮、独り言ですから構わないで下さい。
 所で、いつの時代にもこの類の動きはありました。人間の考える事はあまり変わりは無いということですね。これで上手く行っているんでしょうが、果たして斯様に現実を達観していて良いものでありましょうか?
 どうも個人的には「NO」だと判断したんですよ。こりゃー何がなんでもマズイ、どうにかせんと如何って事を。元々、思慮が足りないと自認する私としては、現時点では独りごとの域を飛び出せないのです。情けないことです。
 いつ頃からであったことでしょう?
 学園の子供たちにと衣類を寄付される方がいました。着れなくなったものでも洗濯に出し綺麗になったものです。つい最近も衣装箱に4つも持ってきてくれた方がおりました。申し訳ないと遠慮しながらでした。
 正直に言いますと、着古した衣類を施設の子供たちに着せるとはなんだという意見もありました。多分、それは今でも変わらないでしょう。この辺から日本人のホンノリ感が変になってきたと思うのです。思いやりとか優しさというものが、素直に受け入れづらくなった。
 また、こんな事もありました。私の寺の隅っこに3坪程の畑?があります。種を買ってきて蒔いたものもありますが、半分は自然に出てきた野菜です。店に出せるような立派な野菜にはなれませんが、実に美味しいのです。
 草が一杯になったのが気になったのでしょうか、近所の奥さんが草をとってくれていました。これって余計なお世話なんでしょうか?
 ついでにもう一つ、昨日地元の小学校の先生から電話があったという。生徒がお寺の外トイレを黙って使ったと言って来た。誰もいなかったようなので了解を得なかったそうです。もし汚れたりしていたら学校に連絡してください・・・・・・と。
 ここまで心配りする先生も珍しいし、了解を得ずトイレを使用した事を先生に告げた子供も凄いと思いました。
 ご両親の顔が一瞬浮かびました。
 実は私はトイレには妙な拘りがあります。先ず匂いです。昔はどこの家も懐かしい匂いが立ち込めていたものです。
 水洗に一先にしました。その外トイレですが朝番チェックしています。何せ昼間は尚恵学園の子供たちが大勢利用しますから、見事に汚すのです。職員も1週間に1度は掃除に来てくれていますが、とんでもない、朝番見回らないと戸を開けた瞬間に閉めるような事態になっていることも・・・・。
 そして余計な話ですが、寺の客殿のトイレを改装することに決めました。私が言うのもなんですが、超豪華?にしようと考えました。贅沢と批判されそうですが、これは私の拘りですからやります。
 法事に来て一番落ち着く場所って何処かな?と考えまして、実は”トイレ”なんですね。出すもの出して、人は心が落ちつくんですよ。
 見えない所に心配りすることって大切でしょう。”陰徳あれば必ず陽徳あり”。どうも日本の政治がチグハグなのは、この辺に原因が有るかもしれません。見返りを期待したり、権限を誇示する人が増えたように思えますね。あっそうそう、”陰徳”と影の実力者は相容れない関係ですよ。全く発想が違いますからね。

1488:ノーコメント

昨日は鳩山総理の突然の辞任に日本中がザワザワしていた。私は今更言う事は何もありません。辞める方に送る言葉は『お疲れ様でした』で良いと思います。
 ただ、次期の衆議院選挙には出ないと明言しましたね。農業をしたいとも言っているとか?やっと気付いたのかな?
 さて、6月に入り、一体梅雨はどうなってしまったのでしょうか?沖縄周辺は雨模様の日が続いているようですが、茨城は毎日清々しいい日が続きます。こうなると居てもたってもおれず、作業着に着替え草刈りです。健康的というのでしょうか、実に楽しいのです。
 出来る事なら毎日泥まみれになって作業をしたい。実はこれだってプロの農家の人達から見れば屈辱ですね。「そんな甘いもんじゃーねーよ」と言われますからね。
 一つの考え方として、日本中誰しもが一斉に外に出て清掃を行う日を決めたらどうでしょうか?もの凄いウネリとなりませんか?世の中が利便性を追求し過ぎると怠け者が増えます。1日に出るゴミの量は半端じゃない。それを収集する手間や焼却する費用は膨大です。6月は衣替えのシーズン、クールビズとか言ってネクタイはしない。本当にこれって可笑しいよね。そう思いませんか?
 逆に冬はネクタイをしなさいと言っているようなものでしょう。いま、日本中が彷徨っています。何が大切か見失ってしまった。ただ何となく決められた事をやっている人達が多すぎます。その結果、自分さえ良ければ良いと考えるようになった。そりゃーそうですよ。連帯して何かを行うという習慣が殆どなくなった。寧ろ連帯を不穏な動きと捉える人達が増えちゃった。
 時計の針を止めることはできません。でもね、普段お世話になった地域や職場をみんなで掃除をする。何か見えてきませんか?
 公共の建物に行くと、必ず清掃をしてくれる人達が黙々として働いています。良く見かけるのが駅のトイレです。掃除をしている方に「御苦労さま」「ありがとう」と声をかける人が果たして何人いますか?
 これって職業だからですか?サービスをお金で換算する仕組みが感謝や有難味の感覚を鈍感にしました。
 物事を決めるには、その意義を理解しないければ長続きはしません。掃除はメタボ対策にもなりますよ。モップはゴルフのスイングにも効果あり。雑巾絞りも手の機能回復・・・・云々。
 私的な事ですが、私は毎日、寺の外トイレを見回るのです。汚れを見つけたら直ぐに掃除をします。
 ここで思ったのですが、綺麗なトイレに入る事は利用される人に気持ち良さをプレゼントします。それも何気ない贈り物、
人間は天の邪鬼なものです。有料トイレならば、綺麗なのが当然と思うし汚れていれば損したと感じるものです。相手に感謝を要求することは仏教的には好まれません。
 いま日本人が一番必要なものは、身近な事で大切なモノに気づくことではないかと思うのです。健康しかり、食べ物も交通手段も・・・・。失って気づくのでは遅いのです。
 それと次の総理に言いたい。お金が無くてもできる事から始めることですよ。例えば、国会まで歩くとか、毎月一回は秘書任せでなく地元に帰ること。そして農作業でも掃除でも義務付けしては如何と思います。これって大それた事業仕分けなんて必要ないことです。天下りが全て悪いとかいう手法は駄目ですよ。必ず対抗策を考えますからね。そうじゃーなく、孫さんや子供たちと畑づくりする事の楽しさを知らせる政策を是非とも考えて欲しい。
 そうすると自然と何が大切か無駄が何か分かると思うのですよね。

1489:遍路準備

人は自分自身の節目をどうみるか?一般的に還暦で定年を迎える方が多いと思うが、元気な人にとって職を辞するには勿体ないと考えるか或いは今度は自分の好きな事ができると思うか勝手である。
 だが、好き勝手に過ごせる人などそうザラにはいない。子供が独立でもしていれば多少は負担が軽くなるだろうが。
 私自身の事を言えば今までも好きな事をやってきた類の人間だと自覚している。歳をとれば体力や根気が減少する。これは自然の成り行きです。
 一生を一つの道を歩む。これだって大変なことです。ただ徐々に他の人に任せていかねばならない。その自覚と実践である。少し、怠けていた歩きをまた夕食後に始まった。それは10日後に四国の愛媛県に行く。歩き遍路の第1歩、今では便利になった遍路の用具もインターネットで注文できる。でも現地に行ってからそろえようと思った。私は大分以前に88か所は廻っている。その時に使ったご朱印帳を持っている。今回は道程を大切にしようと思っているから朱印帳には拘りはない。
 発心・修行・菩提・涅槃と四国の4県を割り当てていることはご存知か?愛媛は時計回りの”菩提”の道。本来は人間一生修行であろうが、まず愛媛から始めようと思った。
 いくつか理由はある。私の友人が今、病気と闘っている。本人も予期せぬ事態に混乱し大変な状況にある。今まで何かと助けてもらった仲間達だから・・・・私自身も複雑な思いである。
人間は自らの死を恐れずにいけるのか?今、この時を大切に生きる!・・・・これら全てを本気で考えたことがあったか?
 自問自答するには今の生活に束の間の休息が必要と考えた。毎日、予定に縛られて渡り歩くような生活、いつの間にか重要な事が頭から離れてしまう。
 人間相手の仕事柄、良かれと思ってやった事が余計なお世話という経験も多くした。考えが浅かったというのではない。簡単に相手を理解したという事が間違い、人間はそんな単純な生き物では無いということだ。
 そして、それら全てが今に始まった事では無く、有史以来延々と続けられてきた。争いや妬み、復讐という毒となる感情は拭い去ることなどできない。むしろ有って当然と思うべきだ。
 最近の事である。ある方の紹介で奥野先生を知った。専門の「社会リハビリテーション」という話を伺った。
 その時に気が付いたのである。なんと本筋から離れた生活を汲々と送ってきたことか!支持政党への要望だ応援だ。そのたびごとに大騒ぎ、報酬単価がどうだ障害認定区分がああだこうだ。本当にこれで良いのだろうか!
 東京から帰る電車でいつも何も考えることができない程、疲れた。良かれと思ってやっていることが、果たして障害を持つ当事者にとって良い事なのか?
 何か本筋が無い枝葉の事に夢中になっているように感じた。
 結局、枝葉末節の議論をいくらかわしても根本の問題は何も解決しない。その事を知りながら強引に進める有り方に多くの同士が疑問を持った。
 報酬単価の問題一つにしても、事業所の実態をオープンにしているか?多くが福祉事業家と化してしまった。金の亡者。従事者の処遇改善補助金の実績を公表すべきだ。福祉を希望する若者がいないと嘆く一方では、真剣にその対応策を我々事業所が行ってきただろうか?
 そんな時、奥野先生から「職員に笑顔がなくて利用者が元気になるはずありませんもんね」という言葉を聞いた。
 早速、社会リハビリテーション学会に入る事にした。

1490:愚公移山

”愚公移山”(ぐこういざん)は嘗て中国の毛沢東が大躍進政策の推進のためにこの句を引いて人民に訴えたという。
 その意味するところは、怠らずに努力すれば、どんな事業でも必ず成功するという事である。(出典:列子)
 当時と比べ、今の中国の発展は雲泥の差である。最近は中国に行っていない。テレビ等で知る限り、北京や上海という大都市に限らず、地方都市でも高層ビルが立ち並び、街を歩く人達の服装は私が見た中国とは全く違う。
 しかし、一歩内陸に入れば旧態依然とした状況が今も残る。この格差は、現在の中国政府の一番の内政問題となっている。
 大きな国だし、歴史も古い、世界史に登場する多くの有名人、そして国名の移り変わりは他に比べる国がない。追いつけ追い越せ所謂、新興国という国は、明確な目標があるから国民の気持ちを一つにし易いのかもしれない。
 一方、日本はどうか?長い間の自民党中心の政治から国民が選んだ民主党を軸にした政権の誕生、議員総数が420名以上、正直、スタートで腰砕け、小鳩体制にとって代わり、菅さんが総理に選ばれた。
 昨年9月の勢いは無い。寧ろ国民の目は厳しく逆風が吹く中での再スタート、残念なのは他に選択肢が無いから取りあえず菅総理に期待するという思いである。幸か不幸か菅さんには旧来の自民党政治の影が無い。
 果たして、過去の柵から脱し、思い切った政策が出来るだろうか?
 日本の総理は国民の直接の投票により選ばれる訳ではない。国会の中で各党が代表を出して投票する。だから形だけの投票でやる前から誰が総理に選ばれるかは分かっている。これだって無駄と言えば無駄。
 その辺の改革を事業仕分けでは手に付けない。本丸は死守して枝葉の事を論じる。それと決定しても法的拘束力がないときた。これが現政権の人気NO1では、如何なものか!
この仕組みを変えなければ、現実は何も変わらない。
 長い期間、国民総中流とか言って調子にのっていた。差し当っての緊急課題がなく、怠けてしまったツケがここに来て一気にやってきた。この国ほど事務手続きを複雑にしている国はない。政省令や通知で雁字搦めになっている。だから法律を変えるなど至難の業で手に付ける前から退散する。
 行政の書棚には一度も開いたことが無い法規集がズラリと並ぶ。この印刷代も膨大な金額だ。
 いよいよ民主党も正念場、好きだ嫌いだを言っている場合じゃない。果たして本当の意味で政権与党としての力を身に付けることができるだろうか?暫くはお手並み拝見といきましょう。
 確かに今末端では変化の動きがハッキリしてきた。従来の政党支援団体の揺らぎが顕著だ。いくら必死になり引き留めをはかっても無理だ。その事は議員一人一人が痛感していること。
 昨夜は、久しぶりの雨が降った。朝、庭を見ると木々の緑が鮮やかになっていた。
 木々にとって一番のご馳走が雨、それを人工的に散水車で水かけして一時凌ぎをしてきたのが最近の政治。
 ただ、自然は気まぐれだ。時には暴風雨となって大木すら薙ぎ倒す。
 自然には嘘が無い。有りのままの姿を見せる。だから誰も自然に対して反旗を翻す者は無い。