源究50

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
571 理屈ぬき 4/26 576 ゴルフ 5/3 581 我執 5/10
572 自分でやったら! 4/27 577 自己への妥協 5/5 582 マスメデイア 5/12
573 ダム建設 4/29 578 チャンスを逃すな 5/7 583 重要度 5/13
574 親の思い 5/1 579 挨拶アラカルト 5/8 584 変化の兆し 5/17
575 リスク対応? 5/2 580 ありがた迷惑? 5/9 585 ちょっと気になる 5/18

571:理屈ぬき

世の中には理屈抜きの事柄がある。働くこと、働ける事への感謝。
「働く」という字は「人」が動くこと。今週の日曜日には市議会の選挙があった。いつになく町の中をスピーカーの音をけたたましく鳴らしながら自分への投票呼び掛けを繰り返した。結果はどうだったのだろう?「地元の皆様の為に働かせていただきます・・・大変厳しい選挙戦となりました・・・・・○○でございます」。本当かいな!すれ違った選挙カー同志がマイクを通して「○さん、ご苦労様です。ご健闘をお祈りします。たいへんでございます」だとよ。それ本心?
 選挙のあった日曜日に撮った写真(上記)、彼女は仲間達の洗濯物を寮に運んでいる。右後方で彼女を見つめている彼は宣伝カーの訴えを聞いているのかどうか?何言っているだかわかんねー。理屈じゃねーんだよ。あんたが一体何をしてくれたんだね?と思っているに違いない。
これは私の憶測である。
 いつの頃からだろうか、選挙にマニフェストが言われ始めたのは、面白いもので誰もが真似をするものだから新鮮味を全く感じない。どうでしょうね?果たしてどれだけの人がその公約を期待し吟味して聞いているでしょう。これも私の憶測だが、立候補した本人が選挙が終われば忘れてしまうのではないでしょうか。いかがですか?
 今でも投票率の低迷から解決策が見いだせない実態が見事にこれを証明している。ある大学教授が力説?していた。首長の退職金が高額なのは、選挙にお金が掛かりすぎ、退職金を前借りするような実態が高額退職金の元凶だと。それじゃ落選した先生はどうなの?答えは無かった。
 また、「金八先生」モデルの元校長さんが今回の市議会選挙に出た。教え子に投票を依頼して独り千円ぐらいの食事をご馳走して逮捕された。「何、ホントかよ」これも私の正直な感想。
どうして落選した人が千円の食事代を負担したということで買収になり、当選した人が何十万かの商品券を配って罪にならないのか????
 警察との癒着が批判される点が以前として改善されていない。そこで再度登場。洗濯かごを鼻歌交じりで運ぶ○さんへの質問、「一箱運んでいくら¥」、「まったく関係ないね。フン」彼女は仲間達が喜ぶ顔で満足。(批判はあるでしょうね)
 理屈じゃねーんだよ。彼らが何を望み、何が喜びなのか。彼らとふれ合ったことがない奴が考えるから、「見てみろ!次から次へ訳がわかんない制度まで作りやがって。仕事量を多くして自分達の保身のためじゃないの?罰として、お前ら1年間現場実習だ」
 先ほどの話ですが、高額な退職金は首長の話、でも良いんだよ。それがダメならば選挙で投票しなければ良いんだし。
結局は選挙民である自分にかえってくるんだわな。これをブーメラン現象というんだとか!

572:自分でやったら!

あまり辛辣な事ばかり書いているから、「そんなこと言うなら、自分でやったら!」と言われてしまった。やれるものならやってみろよという訳だ。
 ここのところ3日間、目つきがどこか違うと自分でも感じていた。朝から鎌と熊手を持って園内の草取りを始めたのだ。何しろ道具は一通り揃っている。ただし、管理が悪いのは困ったもの。これ当法人の伝統だな。エンジン式の草刈り機は全部で十台ぐらい揃っている。いざ使う時にエンジンがかからない。勢いよく回ったがいいが、歯が切れない。などなど。
 とにかく手ぬぐい被って地面に這い蹲ってやっているから目立つ目立つ、職員や利用者さんの私を見る目つきが違う。「理事長、ちょっとおかしくなったんじゃねーのか」何せ着替えを二回やるぐらい汗をかくのだ。詰まらないことを全て忘れられ、効果抜群。それに嫌らしいのだが、職員や利用者の動きが手に取るように分かるのだ。
 やおら手箒を持ち出して玄関先をちょこちょこ掃き始める職員、なるべく私と目を合わせないようにそーとすれ違う者。
面白いなー!本当に人間模様は様々。
 この三日間で気づいたことがある。今、仕事が首になって、無職の利用者さんが三人いる。独りは今流行の引きこもり、自分の部屋の二階から窓越しに私をチラチラ見ている。何を感じているのだろうなー?独りは顔に不満ありありで竹箒を持って庭を掃除している。もう1人は動きが読めない。(働けないという悲しみ)
 草刈りしたままになっている。これが実は悪評になっている。「理事長はいつもそうなんだ。やりっぱなし。草はまとめておけば良いのに後かたづけができねーんだから、まったく」。何が全くだ。俺には俺の考えがあるんだ。あと三日間天気が続く予報だ、草を乾かして燃やすんだーよ。これが職員との大きな違い。説明しないと理解できないんだから。
 最初の日だった、名前は敢えて触れないことにしよう。彼が私が小休止してイスに座っているとやってきた。
「理事長、あまりやらないで下さい。今週の木曜日に全体作業でやることがなくなりますんでここの庭は取っておいて下さいよ」「・・・・・・・??」最初、こいつは何を考えているんだろう?と思った。実はこれが問題。今何をすべきかという優先順位を考えていない。
 私は週間天気予報を見て段取りを組んでいる。彼らは自分達の勤務表が優先。もし木曜日が雨だったらどうすんだ?また一週間草取りが遅れるのかよ!
そうじゃないでしょう。やることはいくらでもあるんだよ。道路の草取りだって良いし、燃えないゴミを捨てても良い。
 普段できない窓ふきや蜘蛛の巣を掃除しても良いじゃないの。
私はここはじっと我慢して何も言わなかった。そして、その職員が申し出た庭だけは草刈りしないで残しておいた。
昨日は木曜日、案の定、その庭は元のまま草ボウボウだった。
 仕事は今何が必要か!常に心がけて臨むべきなのだ。福祉の仕事は、実はここに大きな弱点がある。計画性がない。大局を掴めない。実行しなくてもいくらでも理由付けができる世界での四苦八苦。これが専門職に格上げされない最大の理由だと思っている。
まー、理事長が自らの法人の内部告発しても始まらない。良いことも実は沢山あるんです。職員の名誉挽回のために。
 実は二十五年間の体重と身長の記録があるんですが、看護士がこのデーターを地元の医師と協力して論文に纏めたんです。先月だったでしょうか日本生理学会で発表、データー数にすると三万件にのぼるもの。地元の医師が4名協力して纏め上げたものだった。これなどほんの一例ですから。保護者の皆さん、心配なされないように。
 さて今日はどうしようか?朝から天気も良いようだ。草でも燃やすか!
気合い充分、腰にコルセット、本日は温湿布、インドロメタシン配合、効き目抜群の最新秘密兵器、装備完了。いざ出陣!
追記:金曜の話。
 朝7時から燃えない刈り取った若草と格闘、古材を集めてきて火種が出来どうにか燃え始めた。1時間ぐらいでほぼ燃えた。部屋に戻って休んでいると「トントン」とドアを叩く、「ハイ」と返事、「煙が洗濯物にかかり、臭いが付きますので消させていただきました。・・・・・」ウーン。
 庭が騒々しい、2階のベランダから覗く、利用者と職員が鎌や箒を持って大掃除?ウーン・・・・・
曜日を間違えた?懺悔!・・・・・・・・・『あーん悪かったな!するんだら理事長を告発しろってーんだ!』

573:ダム建設

11時からの自宅での法事、七七日忌に当たる。時間になっても始められなかった。
それは、本日お弔いの連れ合いのおばあちゃんの登場が遅れているからだった。目が不自由なために今入院されている。そのおばあちゃんがおじいちゃんの四九日だというので病院から戻り着替えているようだ。
 祭壇にはおじいちゃんの写真が飾られていた。見るとダム工事の様子が直ぐに分かった。小河内ダムの建設の時に撮られたものという。徳島の池田町の出身、全国をトンネル掘りやダム工事で渡り歩いた。縁があって神立に住むようになり、先住の時に四国よりお骨を皆移したという。納骨の時に驚いた、墓石の下に納められた分骨用の壺が20ヶほどあった。これだけの先祖をまつる墓を見たことがない。親戚の方に尋ねると菩提寺は四国八八カ所第六六番の雲辺寺という。
 祭壇の脇に置かれた経本に気づいた。使い古したことが直ぐに分かった。
 法事が終わり、親戚の方達と話しているおばあちゃんの話。「うちのおじいちゃんは亡くなる二日前に・・・幸せだ!・・・といって手を握りかえしたんだよ」 この話だけで今日の法事は出席者全員が満足した。
 帰るときに、お孫さんだったのだろう。「住職さんカバン持ちます」といって断る自分の手から法要カバンを取ると車まで持っていってくれた。
 四国は独特の地、それも田舎に行けばいくほど、先祖へのおもいが代々伝えられている。
 私の脇には一歳になったばかりの曾孫がヨチヨチ歩いていた。 大型連休最初の日。

574:親の思い

日本の障害者福祉の中でその発展の一翼を担ってきたものに障害者の子を持つ親たちの活動がある。
手をつなぐ育成会活動などがその主なものである。我が子が障害を持って生まれてきたが為に施設を作り先駆者になってきた人を何人か知っている。その根底にある理念は「我が子への思い」である。形体は様々、その事業母体は親たちが資金を集めて始めたもの、あるいは個人で起こしたものがある。
 私の友人の子供さんが若くして亡くなった。生まれながらにハンデイを背負ってきた我が子を夫婦で一生懸命になって育てた。施設を創り、やっと軌道に乗りかけた時に、本当に突然その子は亡くなったのである。26歳だった。葬儀に列席した。
 スクーリンに映し出される思い出のスナップを、列席者の誰もが黙って見つめていた。
 大勢の弔問客の焼香が一段落し、最後に喪主の挨拶、父親は言葉を噛みしめるように次男との思い出を語ってくれた。
 私と彼は同じ年齢、自分の倅を先に見送る親の辛さが脇で寄り添う奥さんの姿からも充分伝わる。今まで必死になって育ててきたその結果が今日のお別れになった。遺影に選ばれた写真は背広姿でニッコリ笑っている次男の写真、両親や可愛がってくれた祖父母それにたった1人のお兄ちゃんへの励ましの笑顔のように思えた。

出会いと別れは避けて通れない、その事は古の世から誰もが知っている。いずれ経験せざるを得ないことながら、出来れば後に伸ばしたいと思う。時間が悲しみを和らげる。
 多くの人々との出会いが有れば有るほど、その別れの悲しみは薄められるのだろうか?そんな事は決してない。
 悲しみが大きければ大きいほど、人は人間の優しさに感謝する。
 苦しさが強ければ強いほど、人はそれに挫けまいと努力する。
こうやって誰もが年を重ね、その人なりの路を歩いていく。
 他人の事をとやかく言うことはない。自らの足元に目を向け、自分が信じる路を歩むべき。
 そのような事を考えながら、葬儀の会場を後にした。

575:リスク対応?

1人の利用者さんがやっと退院の目鼻がついてきたかと思っていたら、また、利用者さんが転んで怪我をした。
それも避難訓練中であった為にこちら側の過失は否定できない。高齢化が目立ち始めた頃より、日常の場面での怪我が増えている。避けられるものも有るはずだが、どうもスタッフに責任を負わせることはできない。
 私が日頃から強く職員に話していることは、必ず家族へ連絡を入れること、それに素人判断ではなく医療機関において医師の指示を仰ぐにと。それに経過の記録を必ず提出させることにしている。
 ここ10年の記録を見てみると、怪我や病気はほぼ同じ数で推移している。しかし、体力が落ちている利用者さんが増えているために治るまでに日数がかかったり後遺症が残ったりする。介護保険法の改正で介護予防に重点が置かれ要支援が2ランクに増えて問題が出ている。従来のサービスが受けれれない人達が介護から支援への区分変更によって出てしまった。
 同様に障害認定に関しても同じ問題が起こっている。この辺の改正は遅々として進まない。
それから介護料の不正受給が問題になっている。昨日は東京都の区立の特別養護老人ホームでの問題。外国人の介護労働者を正規職員としてカウントしたためにトータルで4000万円の不正受給が摘発された。これなど多分全国でも同じ事が起こっているのではないだろうか?公立の施設ですらこの状況、以前摘発されたコムスンなど大手事業所の水増し請求に関しても同じく氷山の一角かもしれない。
 先日会計事務所のスタッフと話をしていた。「尚恵さんは職員が長く勤めていますね。珍しいですよ」褒められたのかどうなのか?人件費抑制は今の時代避けて通れない。人件費にかけすぎれば、ハード面での改善にかける費用が出ない。
 設計士が貸してくれたユニットケアーの本を見て嫌になった。尚恵学園とは雲泥の差なのだ。
この差を埋める術を残念ながら浮かばない。ならば木材を使った建物へと考えるのだが消防法や建築基準法という縛りがあってそれもできない。実は観音寺が所有している山が大子にある。私はこの木を使って建物を造りたいと以前から考えている。
 今、土浦で建築中の保育園、全面木造でとても格好が良く、木の温もりを感じる。施設が何故いけないのか?日中活動スペースならば許可になるのか?
 専門家のアドバイスを得たい。
 しかし、これもとどのつまりは、火災リスクへの法的規制、リスクは活動(事業)と裏腹な関係に常にあることが分かる。国はGHでの火災で利用者が亡くなった時からスプリンクラーの設置をGHに義務づける。何かが起こると通達などで対処する手法。財源の面倒はみない。責任転嫁を文章を出すことで済ます。
 今後老朽化の設備を改築していく費用は国全体で膨大になるだろう。それをすべて従来の補助金という形で賄えるとは考えにくい。さすれば利用者の負担を増やすという事になるのか。これだって制限がある。
 法人がリスク対応と合わせながら、一方では将来を見込んだ資金計画を行っていく、どうも、この分だと毎日法事をやっていても間に合わない。どうすればよかっぺーな、お大師さーん。 

576:ゴルフ

去年の11月だったなー!いやー感慨深いよ。何しろホールインワン達成だもんなー。見事だよ。良くやった。為せばなる、為さねばならぬ何事もだわな。
 その後が悪かった、車をぶっつけたと思ったらギックリ腰。それにノロウイルス。インフルエンザ。骨折など・・・・・・オンパレード。全く良いことがない。確率は100万分の1?そんなことをしでかしたもんだから、その罰だ。生臭がこれで懲りたか。
あれから暫く芝刈りはしていない。別に止めようとは考えていないのだが、何か熱が入らない。頂点を極めた男のバーンアウト?
 実は,ここだけの話、今から芝刈りに行くんです。一つ先輩のお医者さん、それに多分,出入りの薬屋さん。それに私だ。何度かお付き合いしているのでお手並みは承知している。これが見事にヘタ。やめりゃー良いのに、こりずに挑戦してくる。
 徐々に気分が高まってきた。天気は最高。まてよ、また一発で入ったらどうしよう!(以上が出発前の偽らざる心境:冷静に考えて懲りないのは私のほうかもしれない)
スポーツは誤魔化しはきかない。半年ぶりにクラブを握り、力まずにできるから良いかなと思っていたが、そうは問屋が卸さなかった。最初からタマの行く先が定まらず、右に行ったかと思うと左に飛ぶ。幸い他の3人も同じことをそれぞれが夢中でやっているから全く目立たない。結果報告、47:49。どうにか100を切った。万歩計は16000を越えた。
吾国山の風呂からの眺めが最高という話。私は三人に失礼して入らずに結城へ向かった。怪我をしてしまったT子さんのお宅に謝罪に行く。お土産のお茶菓子を買い、ナビが示す通りに西に向かった。田植え時期で忙しいのは承知の上、留守でもいいやと思って伺うと、家族の皆さんが家にいた。さすがにクラブハウスで買ったお菓子とは言えなかった。
 私は暫くぶりに伺った。帰りにお米や里芋を頂いて帰ることになった。逆に申し訳ないことをしたかなー。
 お母さんが話してくれた。玄関先にある松の盆栽、私の親父から貰ったものだという。『この松が園長先生が亡くなった時に枯れそうになったのに、また元気になったんだー。ほーんと。良い園長せんせいだったーな・・・・』
『・・・・・・・』言葉が出なかった。「千のかーぜに 千のかーぜになって・・・・・・ジャガジャーン

577:自己への妥協

私はどこまでが真面目でどこから戯れているのか? そんなことを自らに問う。
自分の性分は、見極めが早いという一面がある。所謂、決め打ちというやつだ。この人は俺には合わないと思ってしまうとこれがなかなか変更がきかない。その逆にこの人は信じられるとなればとことん信じていく。56歳と9ヶ月いろいろ有りました。
”自己への妥協”の最終ゴールは死をどう受け止めるか?ということに尽きると思う。衣を着始めて30年が経つ、その間に葬儀にかかわった数が1000人を越えている。優に此岸での友人の数を超えている方々の最終ゴールに立ち会った。
 その1人1人を覚えているかと問われれば正直、いないと言うしかない。もしも、その方達が風になっておおきな空を吹き渡っているとすれば、すごい。また、夜には星になって 貴方を見守っていれば尚更だ。 実はこの部分が一番好きだ。(千の風になって)
 亡くなった友人の事を思い起こしながら、この詩を思い起こす時に涙が出てくる。
 昨日の話・・・・・・
 「先月、実家の法事を○○寺でやったんですけど、住職さんが何を言っているのか分かんない・・・・」
 「結構、日立の方で遊んでいるという噂よ」
 「地元じゃー できねーんだよ」
 「お布施だって、あんなに出せないでしょうよ」。。。。。これをどう受け止めよう。
分かりやすいお経、納得できるお布施。。。。本来の「布施」は見返りを期待しないものだと偉い坊さんから聞いたことがある。凄い車を乗り回し、何が「無畏施」だ。冬にはダイヤのような きらめく雪になればいいんだよ。(千の風になってより)、それを本物のダイヤを自らちりばめて何が良いのよ。みんな良く見てるんだから。
 大阪府知事をやったノックさんが75歳で亡くなった。葬儀は親族だけで行うようだ。あれだけ一世風靡したタレントも少ない。小学校だけを出て米軍で通訳をやったり、独特のヘアースタイルで参議院に当選し、知事にまで登り詰めた。2期目にはワイセツ行為?で起訴猶予の判決を受けて辞職した。
 立川談志が話していた。「ノックさんも逝っちゃった。ざーまーみろってーんだ。はい、さいなら」しかし、彼のメガネの奥に涙が光っていた。
 こんな話もある。北海道の鈴木宗男議員がやはり実刑を受けて収監された。現役の国会議員、その彼が再度国選に挑戦し、見事に当選した。同じ事件?で逮捕された元外務省職員の佐藤優という人が『国家の罠』で触れている。
 自らの罪を償い、鉄格子の中で再チャレンジしてきた人達、安倍さんのいう「美しい日本」「再チャレンジ」がその方達からみてどう映るのだろう。私は決して犯罪を肯定しているのではない。むしろ、世渡り上手で上手く司法の手に掛からずに生きている人達への警鐘だ。最終ゴールの「自己への妥協」で後悔しなさんな!
 どうも、世の中が何が本当なのか分かりづらくなっている。私はノックさんや談志の惜別の言に本物を感じる。
 

578:チャンスを逃すな

レイ・クロックという人を知っているだろうか?殆どの方が知らないと答えるに違いない。マグドナルドの創業者と言えばどうだろう?
 彼の発想は『チャンスを逃すな』という事に尽きる。今回の連休で戸倉上山田に行った。久しぶりに酒を飲みながら話す機会が持てる。彼(S)はスポーツジムやプールを6カ所経営する人間だ。正社員50名他にパート150名、少子化や大手の競争相手参入で大変困難な経営に挑戦している。そこでの話、人事考課の件になった。
・・・・・架空の話・・・・
 Sはプールの裏手の掃除を中堅のスタッフYにやっておくように伝えた。彼は1人で行おうと考えたのだろう。しかし、長い間にかき集められた落ち葉は湿っていて燃えない。そこで報告。「湿っていて燃えません。後で広場にて乾かしてから燃やします」と。
 その日は良く晴れた日で時間は午前11時であった。
 翌朝、Sは少しだけ燃やされた跡を見、他は全く変わっていない状況を目の当たりにして愕然とした。午後Yは何もやっていなかったのだ。
Yの言い分
今日は燃やせない。跡でやれば良い。やることは他にいくらでもある。
Sの言い分
彼は自らの仕事の優先順位が掴めない。(実はSはYが暫く同僚のKと立ち話をしている場面を見ていた。そんな立ち話をしている暇があるのであれば掃除でもしたらどうか。天気は良いのだから)
仕事の段取りができない。(Yが翌日から2連休だという事をSは承知の上で指示していた。それに明日から天気が下り坂になることも)
今できることの判断がない。(使用不可能な機械や不燃物が雑然と積み上げられていた。この状態になんら疑問を持たない事に先ずYへの評価が低まる。SはYに掃除をしておくように指示したので、落ち葉を燃やせとだけ言ったのではない。産廃業者への手配などいくらでもやれる仕事はある)
上司への報告ができない。(作業計画など上司が納得するだけの文章報告がない)
総合判断
 この事例は経営トップSの社員評価の具体的な面を示している。
レイ・クロック流に言えば、お客さんの喜ばれるようにスタッフが考えるのは当然の事、そこを敢えて強調すべきではなく、むしろ普段の仕事の取り組む姿勢とスタッフそれぞれが何をチャンスと考えるかということ。
 ここでYはSからの指示を自らのチャンスと何故取れなかったのか?むしろ、何故自分に余計な仕事を命令したのかという不満があったのでは?2連休は当然やすむべき。その後やれば良いと考えたに違いない。
 案の定、連休中は雨になり、燃やそうとする落ち葉は当分乾かない。
 上山田温泉はしなの鉄道の戸倉駅が近い、しかし、新幹線の上田と終点長野の中間で東京からは不便、近年、お客さんの減少に温泉街の活気はない。ホテルの生き残りはハード面とソフト面の質を上げること。サービススタッフの対応がリピーターを増やす。
 この原理は誰もが理解している。それが実際に出来るか否かの問題。危機感の共有が有るかどうかだ!
 もしもだ、スタッフが自分への処遇にのみ感心があって、本来の自分達がやるべき仕事を二の次にしたらどうなるか?
 チャンスは誰もがやっている事の中にはない。
「Be  daring (勇気を持って)  Be  first (誰よりも先に)  Be  different(人と違ったことをする)」

579:挨拶アラカルト

あれはいつ頃からだっただろう?自転車での登下校の時に中学生が『おはようございますー!』と大声をたてて私に挨拶するようになった。昨日もそうだった、寺で草取りの真似をやっている時に3名の男子学生が自転車で通りかかる。ビックリするような大きな声で「こんにちわ」と言いながら帰っていく。
 一方、乳母車に犬を乗せていつも散歩されている女性の方、すれ違っても全く正面を見ていて無言。
 挨拶は、一般的には儀礼的に人に会ったり別れたりする時に取り交わす言葉や動作。しかし、仏教的には禅宗などで使われる。問答を交わして相手の悟りの深浅を試みるという意味合いもある。
 昔から挨拶の善し悪しによって、相手の誠意や親愛の情をくみ取ってきた。それが、都会に行けば全くというほど街から挨拶が消えてしまった。見知らぬ人と話したりしてはいけませんという母親の言葉を小さい頃から聞いて育った子供に責任はない。
 一方、全く心のこもっていない挨拶が巷に氾濫している。
「いらっしゃいませ。ありがとうございました。またおいで下さいませ・・・」マニュアル通りの決まり文句。

 動作で示す挨拶に、実は誰しも経験したと思うが、火葬場での職員の一連の動作。一礼を合わせて行えば職員が頭を上げるまでに最低でも2回はこちらは上げ下げする。一回の礼に10秒ぐらいかけるのだ。「ご愁傷さまでした。」そして一礼。「ただいまより納棺いたします」そして一礼。私は引金を持って職員と弔問の人の間にあって様子をみている。職員が合計3回の礼に対して弔問の人々は6回ぐらい頭を下げるのだ。これも葬儀式次第マニュアル?
 これを禅宗の坊さんならどう答えるのだろう。悟りの深浅はいかに?

 グループホームのKさん。私が夜walkingしているのがわかっているのか?二階の窓越しにじーと外を見ていて、私を見つけると「うーうー」とか言ってこちら側の感心を引こうとする。こっちが「こんばんわ」と言うと、手を振って答える。
 彼は毎朝、私の家の前を通るときに「○ちゃん、学園いくー?」と確かめてから厚生園へいく。すれ違う見知らぬ人達にも元気に挨拶している。これは全くマニュアルにない挨拶。
 中学生の変化はひょっとしたら、Kさん達の日頃の挨拶が原因しているのかもしれない。(入我我入)
 

580:ありがた迷惑?

時には厳しい意見も必要になる。
実は、観音寺の外便所が新しくなった。皆さんに使用してもらいたいという気持ちから和風のとても格好の良いトイレを作った。そのトイレを誰か知らないが、いつでも水が流してある。最初は誰かが掃除をしてくれているんだと思っていた。
 それがどうも怪しくなってきた。どうもホースで水をめいいっぱいかけてそれでおしまい。水びたしの状況で後からトイレを使用できない。ホースはリールに巻かれず散らかっしぱなし。直ぐに犯人?が分かった。Nさんだった。彼は良く車も同じように水掛だけやっている。
 折角、綺麗にしようと思ってやっていることなのだから、言うのを一瞬躊躇した。しかし、障害者と言われる人達が地域で受け入れてもらえない点が実はここにあるのだ。
 正直”ありがた迷惑”なのである。一度彼にこういう風にやるんだよと教えた。その時は「ウンウン」とか言って恥じらいを見せながら了解した。それがまた変わっていない。障害特性とかなんとか学問的には言うのだろう。しかし、生活は別次元。
 土浦市で障害者の方がアパートの清掃を引き受けている会社の様子を聞いたことがある。実に丁寧で確実に各部屋のドアを端から抜け目なく掃除していくという。好評で近所の方からも喜ばれているというのだ。
 このことが大切なのである。
 要は、誰かが指導しなければならないということを私は言いたい。彼の自主性と善意はとてもすばらしい。それを生かす周囲の配慮支援が不可欠なのである。
 障害者が地域生活をこれから進めていく上で、この社会的ルールをどのように身につけていただくか、大変難しいことである。
先ほど某施設長より電話で相談があった。
 身元引受人の方が利用者のお金を使い込んだという話。これもありがた迷惑の一つ。私ははっきりと伝えた。法的な手段をこうじるべきだと。
何故か?もし、善意で施設長がその身元引受人の方に説得したとしよう、すると施設側からお金を要求された位の事が言われかねない。本来福祉事務所が対応すべきケースである。どういう訳か弱腰の行政が目立つ。
 個人情報保護や権利擁護が本末転倒している実態が目に余る。本当に善意が悪意にもなる時代である。
 

581:我執

”常住不滅の実体があるものと思いこむ(我執)”状況が激しいと承知の助。
心中穏やかで無い状況がどういう訳かここ数年続いている。五木寛之流の整理をすれば当に林住期に入ろうとする年代。
全ての関わりを捨て、森に住み自然と向き合い、自らの人生を静かに見つめ直す、四住期分類の遊行期の全段階。
 実態は”我執”の中で曖昧模糊たる生き様に焦燥感で身動きができない。
仏教では無常を説く、その教えの集結点として我執を否定し、四諦の真理を掲げる。しかしながら此岸の凡夫にあっては、解脱を臨みながらも”自分へのこだわり”から脱することができない。自己中心的な意味ではなく、何かを信じ、遮二無二追い求める。
 以上が偽らざる私の心境だ。
 日本中の誰もが何かおかしいと感じながら次なるステップを踏めず、諦めの中にいる。具体的事例を述べよう。
昨日、某大学より介護体験の講義を学生にして欲しいと電話があった。「今回は辞退したい」と述べた。「何かあったのですか?」と聞いてきたので堰を切るがのごとく一方的に捲し立ててしまった。
 ・・・貴方の大学はやるべきことが先にあるでしょう。授業中には携帯は使用しないとか、遅刻はしないとか、講師に対する対応も如何でしょう?事前の話も充分でなく、90分話して欲しいとだけ。学生は教職を取るために受講が必要だから出席だけすれば良いという考えが見え見え・・・・
・・・・それに貴方の対応もいかがなものでしょうか。昨日は其方からの電話をウチの職員が対応、私が留守なのでその旨を伝えると10分後にまた電話をしますからと。なんと非常識な要求だ。私が水戸に出張中で連絡が取れないというと「それじゃ。明日そちらから大学の○○に電話をいただけないだろうか」という話。そのメモを見て私が貴方に電話をすると、別の担当者が「午前中は私用で休みをとっており午後に出勤します」という返事。何が用件なのかと私が尋ねると課長に聞いて見ますからちょっと待って欲しいという。しばらく待っていると電話が途中で切れた。その後全く音沙汰なし。・・・・・
以上が私の不満、話したからどうってことはないのだが。大学の学務課がこの実態。学生集めに奔走しているのは分かるが足元をみないでやっている。東京でスタートした大学、創設者の銅像が悲しんでいるに違いない。
 このような時に私は柔らかに依頼を断る術を知らない。なんと横柄な奴だろうと思われたに違いない。

タヌキがいた。!
 裏手に感知式の照明がある。最近夜点灯するのに気づいていた。私の身内のハナ(猫)ではない、彼女はソファーの上で鼾をかいて寝ている。そーと開けてみたら、ビックリしたのは相手だけでなく私。最初,自棄に太った猫だと思ったが、実は”タヌキ”だった。目と目があってしまった。
 土浦の民話に観音寺のタヌキの話がある。本に紹介されている。和尚とタヌキの知恵比べ。その話は和尚がいたずらタヌキを智恵でこらしめる内容。しかし、現在はタヌキの一方勝ち、住職が白旗あげる寸前か。

582:マスメデイア

連休中の交通事故による死者が茨城県は一番多かった。以前よりマスコミ等に悪質飲酒運転の実態などで登場し、運転マナーが悪い県として有名になっている。全国では交通事故死の数が減少しているという。逆にひき逃げ事故が増えている。
 私は最近考えることがある。自分の情報源は何から得ているのか?新聞に関して言えば全国紙は読む気にならない。もっぱら地方紙というものだけ、他の媒体で充分情報が得られるからだ。つまり、テレビ、ラジオ、インターネットなど。
 情報氾濫と言われてから大分時が経つ。マスメデイア公害は確実に人間に侵攻している。
 いじめ問題も昔にもあった。部落問題、軍隊。集団で個人を攻撃する、その中身も陰湿なものが多かった。しかし、一番の違いは全国一斉に報道する媒体が育っていなかったということ。
 昨日、参議院の特別委員会のNHK番組を見ていて感じた。質問者は今日はテレビが入っているということをかなり意識する。
 カメラに向かってポーズをとる。確かに居眠りする議員の数は減ってきた。だが、討議の中身は?
 安倍首相の日程はもの凄い。アメリカ訪問して、中東に向かい、自衛隊の平和維持活動へ激励、それから憲法改正論議・・・この動きがマスコミを通じて知らされる。一般の人にとってどのように映るかだ。今でも番記者というものがいて、動きを追いかけている。
 先日、長野に行った時に新幹線の中で某政党の女性党首が同じ車両に乗っていた。二大政党時代であれば当然取り巻きの者が多くいたはず、しかし、脇に1人だけ身内の方?が座っているだけ。この格差はどこからきているのだろうか?
 昨日の国会中継には代表質問をしていた。
 多分、編集には内容の重要度がランク付けされているだろう。話題性が少ないものは必然的にオンエアーされない。逆にその穴埋めとして興味を煽るようなやらせ番組が作られる。信用度が落ちれば元の木阿弥なのに。
 今の時代、経営者として特に注意しなければならないことがある。
@個人情報への対応A会計処理の透明化Bリスク対応・・・・・他にもあることは承知しているが、福祉の事業所として特に重要と考えている。
 その一例
 私の施設で定期的に実施している避難訓練、避難の時に利用者さんが転んで怪我をした。その対応で今、ちょっとしたトラブルが発生している。家族への連絡がチグハグになってしまった事が一番大きい。
 業務上の問題であり、如何なる理由があってもこちら側のミスである。
 事が起こってしまった後の対策はいろいろと講じている。数種類の保険にも入っている。ひやりハットなどの仕組みも整えてはある。
 しかし、我々の基本的な対応は家族への誠意ある説明が先ず一番先になされなければならない。そのことが遅れた。
 人間の心理は、妙なものである。このような事が起きると又直ぐに同じ事が起きるような恐怖感が生まれる。
マスメデイアの話が変な方向に進んだように思う。しかし、これは底流ではつながっていることなのだ。
 

583:重要度

利用者の事は英語で言うとどうなるのだろう?
visitar  guest  customer  client   caller という言葉に違和感を感じる。さすれば member が良いのか。
職員は?staff  
先日、会計事務所の担当者から決算書の説明を受けていた時に彼が話した言葉が心に残った。
「私はいくつもの法人のお手伝いをさせて頂いていますが、大切な事が4つあると思います。一つはお金ですね。経営が出来なくなりますから。2つ目はどうサービスを提供するかということ。3つ目はお客さん、4つ目はスタッフですね。今、介護保険施設は大変です。働く人が集まらないのです。職員を大切にしなければいけないと思います。しっぺ返しを受けているんです・・・・・4つを自分の子供だと考えればいいんですよね。どの子も可愛いはずでしょう・・・」同感だった。同じ日に設計事務所の方とこんな話をした。「今、大学の建築家は人気がないんですね。設計士で喰っていけないんですよ」確かに住宅メーカーはパターン化されたモデルプランがあって、若干のオプションはきくがおおきな設計変更はできない。だから設計士が最初から客の希望を聞き図面引きをする仕事量が激減したという。確認申請だけの業務では生計は難しい。
 それに弁護士の話が今朝のラジオで聞いた。以前は年間全国で500名ぐらい(受験者の2〜3%)の司法試験合格者だったという。それでは不十分ということで法科大学院などの新たな仕組みを創設して、合格者が年間2500名ぐらいにまでなったという。そしたら弁護士事務所への就職口がなく仕事がないという事態が発生したという。
 このような需給バランスの食い違いは巷にいくらでも存在する。誰しも十分な給料を貰って豊かな生活に憧れる。それとやりがいであろう。人気が出始めた頃には、もう古いという時代変化への対応はたいへんだ。
 私は決して多くないスタッフの数であるがスタッフの事で悩みが無かった試しがない。いつでも頭の中に残っている。
現在お手伝いをお願いしているスタッフは80名ぐらい。彼らの1人1人の望みを最近は面接という形では聞いてこなかった。
 私の性格で整理が付かなくなる事態が明らかに予測できるからだ。この点をとってみてもレイクロック流の強さに欠けている。幸い長く勤務してくれるスタッフの数は多い。先ほどの会計担当者からみれば効率性にかけるわけだ。収入に対しての人件費割合を60%ぐらいに押さえる経営が健全?だという話は何度も聞いてきた。しかし、彼は「それはおかしいと思いますね・・・・」とホンネを漏らした。
 多分、スタッフから私をみれば感情的に動く人だと思うだろう。確かにそのことに関しては否定しない。
最近、それを意識して行っている節もある。優しく諭すとか本人が自ら気づくことは難しいと思っている。むしろ、正直な自分の気持ちをぶっつけてそれをどう捉えるかという手法を選んだ。寛容という意味はなんでも構わないということではなく、筋の通った寛大さである。
 ヤマト財団の小倉理事長が話したという「福祉現場で人事評価だけはできない」という彼の言葉は真理だ。宅配から郵政民営化の流れを実践を通し、率いてきた業界トップの言葉だ。
 

584:変化の兆し

なにやら変化の兆し。実は急に園内で掃除が流行だした。「はしか」ではないので此方としては歓迎している。
ははーん、先日のNO、578の配布が効いてきたかな? 
 それから、一番効果が出るのは自ら掃除をすることだということだ。良く、自然災害などの現地視察で作業着に着替えた行政のトップの写真などを見かけるが、背広と革靴で現地視察するよりは良いわな。
 しかし、若干私の場合は違う。草取りが好きなのである。今の時期、根っこごと抜ける草とそうでない草があるんですね。抜けない草から私は勇気を貰うんです。よー頑張っているな。抜いても抜いても又出てくる。この姿を自分に投影するんです。 啄木や賢治の世界???
 活気が無かった土浦に何か未来に夢が開けるような話題があるんです。それはヒマワリの種を使った燃料をつくる工場ができたんです。市内循環バスがその燃料で今走り始めました。テレビにも報道されたんですよ。大学の先生が開発し、地元土浦に本社工場をつくったのです。この先生と面識はないのですが、想像ですが、多分この先生も草取りが好きかも。
 石油は今のペースで消費すれば枯渇することは間違いない。でも雑草はどうでしょうか?人間が怠けるために考え出した除草剤、これだって翌年にはまた負けずに草は出てきます。耐性力が強まるから、余計強い薬を考える。このパターンを変えようとする発想が重要だ。
 人間の豊かさも実は根本的には同じ次元である。物質的な繁栄と精神的な荒廃に相関関係を感じる。一方では物質的豊かさ便利さを追い求め、それによって”こころの満足”をも得ようとした。虫のいい話だ。その結果が格差社会になった。
 当法人が掲げる”共生”は実はこの点に原点を置いている。
 前年度1年を振り返ると当に日本社会がその原点を見失っている。今の豊さの裏にある膨大な借金に、本気にメスをいれようとしない実態がその事を如実に示している。
 ならば我々は先手を取ってどうすれば良いかという話。人間は衣食住が生活維持には欠かせない条件。
 雑草の如く、街の花屋の店頭を飾ることではなく、その土壌にあった生き方をすれば良いではないか!
 実はこのことは国は分かっていることである。自国農業での自給率が先進国で一番低い。悲しい事は、その責任所管である農林水産省のトップが依然としてなんとか還流水とかの問題で霧の中。困ったものだ。だらしがないのは与野党どちらもだ。
 我が法人は、生活に潤いをもち、癒しを感じながら自立(自給)生活を送ることが目標。その意味では実は草取りという作業が如何に大切であるか分かって貰いたい。

585;ちょっと気になる

憲法改正論議は、教育基本法の改正など、国会審議の中で特別委員会という形で与野党で進められている。しかし、最近の法改正についてちょっと気になる点がある。それは付帯決議条件で取りあえず採決しておくという流れ。見切り発車。これがくせ者であることは障害者自立支援法で大混乱をしていることで分かっているはずだ。付帯条件が目まぐるしく変わりすぎるから芋蔓式に変更の山が築かれる。(県の担当の机は山積み書類の谷間で仕事をする状況)
 福祉関連の事業所や団体は他の業種とは趣が異なる。事業の数が多く複雑だったことが、今回の法改正の一つの理由だ。33種類あった事業を6種類に統合した。しかし、団体の統合となると難しい。障害種別によってそれぞれが団体を組織しているからだ。この枝分かれ現象は宗教と根っこの部分で似通っている。基本的なことは差ほど変わらないのである。
 大病院に行くと分かるのだが、初診の方は先ず総合診療科の受診になり、症状によってそれぞれの専門科へ移される流れ。だから複数の病状があれば、同じ病院内の診察券を何枚も持つ結果になる。この仕組みは簡単に改正はできない。日本は医療費が高いという。これを国が施策の上で変えようとする。報酬を看護士の数で格差を付けたから、医療機関では365日看護士募集という状況になった。入院患者を持つ病院は病棟を閉鎖し、生き残りに必死になる。さらに追い打ちを掛け患者からの訴訟問題、特に小児科や産婦人科がターゲットになるから医者の立場ではどうしても避けてしまうのだ。
 だけどどうなのか?人間の体はプラモデルみたいに部品で出来ている訳ではない。お医者さんで自ら病院の経営をされている方は、経営と医業の板挟み、社会保険庁の汚職問題、当にその背景には現代の表に出ない医療事情が見て取れる。
 しかし、福祉に関しても何か同じレールが引かれているように思えてならない。
 先ほどの法改正についての話だが、一つの法律を変えようとすると関係する政省令への影響がもの凄い。
 何か噂では、建築基準法の改正が近く行われるという。福祉事業が調整区域において出来なくなるという内容らしい。従来は「60条証明」の申請によって1000uを越えても建物の建築が調整区域に認められていた。その事の見直し、これも、乱立する福祉関連事業の規制が必要になってきたという実態と、自立支援法でいう、地域生活を推進するという主旨から山奥の誰も住んでいない地域に事業所を建てることが果たして本来の地域生活になるのかという机上論議から出ている事ぐらい容易に想像できる。
 今こそ自戒を込めて、原点に戻るべきだと考える。その原点は利用される人達が一体何を臨んでいるのかということに尽きる。
 尚恵学園を利用される方達は上手く自分の思いを表現することができない。しかし、彼らと付き合っていると盛んに信号を送っている。その一つが自分達の家族への発信だ。昨日、保護者会の会長と話をした。今、成人寮に建築中のホームの図面を見ながら。これは制度にない建物、建てたから法人に収入が増えるというものではない。当然補助金もない。自前の資金で建設する。体調が十分でない会長が一言「ああーいいなー!自分が住みたいぐらいだ」と。
 私達の仕事の目標は実は最終到達点がない。しかし、歩みの中で常に忘れてならないことは自分が住みたくなるような環境を築くことだと信じる。その事があれば決して脱線することはない。